断腸亭日常日記 2020年 1月

--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

por 斎藤祐司


 1月16日(木) 曇 15931 東京にて

 京都から東京へ戻ってきた。若冲の絵や、京都の街を歩いて落ち着いた。行きたい処に全部行けなかったが、それはしょうがない。今日だって、行きたいトンカツ屋があったが、そこではなく、近くの定食屋でおろしトンカツ定食を食べた。ぽん酢で食べるそれは、それで美味しかった。THさんのお父さんがいっていた船岡山付近も、力尽きた感じと時間がなかったので、行けなかった。

 新幹線では、京都国立博物館で買ってきた本を読んできた。原稿見直して、進めよう。明日は、明日の風吹く。テレビでは、『みをつくし料理帖』の最後をやっている。夕食は、何を食べよう。アレハンドロ・タラバンテのアポデラードが、ホセリートになった。器用な人間と、不器用な人間のコンビになる。タラバンテにとっては、非常に良い事だと思う。


 1月17日(金) 曇 10864

 両国へ行って、取りあえずロースカツ定食を食べる。人が並んでいてビックリした。それから、すみだ北斎美術館へ行って『北斎 視覚のマジック展』を観る。小布施にある北斎美術館の所有の120点全部が来ているという。肉筆画が多く観れたのは、収穫。菊の描き方は、あまり感心しなかった。ちょっと違和感を感じた。それでも他の花は美しい。北斎は、構図の人だから、花鳥画は普通に見える。

 版画の方は、版元が記載されて展示されていた。こういうのは、非常に良いと思う。いつか観に行きたいと思っていた、小布施の祭りの山車の天井に描いた、男波と女波の内、男波が観れたのは嬉しかった。絵の周りにある枠の絵は、娘の応為が描いたともいわれている。

 次に江戸東京博物館の『大浮世絵展』を観る。歌麿、写楽、北斎、広重、国芳の作品が展示してある。天明の頃から幕末まで。春信の錦絵から、歌麿の美人画。見立絵になっている。写楽は、初めの役者絵が中心である。北斎が嫌いだった広重。でも、子供の頃観た東海道五十三次の蒲原の雪の風景がやはり素晴らしい。国芳のおどろおどろしい武者絵といえば良いのかは、その後、幕府の天保の改革で、芝居や寄席が禁止になる。しかし、妖怪や猫などを使って、見立絵を描いて、庶民の喝采を浴びたという。これだけ、江戸のスター浮世絵師の展示が観れるのも、珍しいだろう。福岡、愛知と巡回するようだ。

 これから雨が降り、雪になるかもしれないと予報でいっている。


 1月18日(土) 雨時々雪 10692

 朝から雨が降って寒い。雪予報だが、積もってはいない。しかし、タバコを買いに出掛けたら、雪がチラついてきた。京都へ着て行ったジャンパーは、10分歩くと汗が出る。四条烏丸から河原町辺りまで歩くと、背中だけでなく腕の方まで汗が出る。喫茶店などに入ると、直ぐ脱ぐのだが、腕の方まで濡れている。暖かいのはありがたいが、何か変な感じがする。葉っぱはないが、蝋梅の花が咲き始めた。雨なので、あまり香りがしないが、それでも鼻を近づけると、良い香りがするのがわかった。

 博物館で買ってきた本は、『陰陽五行でわかる日本のならわし』という。日本料理は奇数だらけ。なぜ、ご飯は左、汁は右。上手(かみて)と下手(しもて)があるの?とかいろいろある。桃太郎に、猿、雉、犬が登場するの?とか、花咲爺さんの犬が金を掘り起こすの?など、物語りからそういう物を読み解いている処が面白いと思う。九星学は、競馬に有効だが、これは何に使えるのだろう?考えながら、何かを感じたい。

 十二支が、方位や時間に使われているが、十干と十二支の組み合わせた干支が、年だけでなく、日にちの表示にも使われている。暦に日付ではなく甲子から始まり癸亥で終わる六十が使われていたという。神宮館家庭暦にもちゃんと書いてあるが、江戸の頃までの人々はそれを理解していたという事らしいのだ。難しいなぁと思う。

 セバスティアン・カステージャは、アルテルナティーバ20年を記念して、今年ウニコを3回するようだ。


 1月19日(日) 晴 7979

 散歩をすると、うっすら汗をかく陽気だ。京都6レースは、5億8000万で売買取引されたアドマイヤビルゴが勝ち、1億強で売買取引されたワイワイキングは着外だった。6億円で取り引きされた馬でも出走できないこともあるのが競馬だが・・・。アドマイヤの先代のオーナーが買い、代を引き継いだおそらく息子が、親父が嫌っていた武豊を鞍上に据えて新馬戦を勝った。「バネがいかにもディープ産駒という感じ。ダービーを目指したい」と、10年ぶりのアドマイヤの勝負服でいったという。

 スポーツの世界は、面白い。バドミントン男子の桃田は、シンガポールで優勝してオリンピックでも金の期待が高まる中で、交通事故にあい、全身打撲。水泳の瀬戸大也は、バタフライで自己ベストの日本新で優勝。良い事と悪いことが交錯する。陰陽が重なる形でやってくる。絶好調から運転手が死亡した、桃田。調整中なのに、日本新を出した瀬戸。良い事ばかりじゃないし、悪いことばかりじゃない。3年連続3冠がほぼ確実と思っていた、伊藤美誠は、準決勝で、ダブルスのパートナーの早田にフルセットで負ける。その早田が、決勝で石川に勝って涙の初優勝。ついでのように、男子では張本が宇田に決勝でフルセットで負けた。そうかと思えば、大怪我から復帰していた吉田豊騎手が絶対的な1番人気を破って京成杯を勝って、3年ぶりの重賞優勝を飾ったり、いろいろある。自分のやるべきことを、やって行くしかない。たぶん、そういうことだろう。


 1月20日(月) 晴/曇 10349

 今日は遅く起きてしまい昼に初めての食事をした。切り昆布、イワシの煮たもの納豆とワカメと豆腐の味噌汁。健全な和食である。午後になり医者が始まってから病院へ行った。薬を取るためだが、血液検査もやった。採血の下手な人って、針を刺してから、中で針を動かすとというのは、訊いていたが、まさに今日はそういう人が採血をした。左手がダメで、右手を出して今度はスムーズに終わった。血管が観えないんだったら、きつくゴム管で縛るとか、血管が浮き出るようにちょっと叩くとか工夫すれば良いのに、感というか経験値だけでやろうとしている。

 帰り道、西に夕日が紅く染まっていた。『魔界転生』の初めの部分は、ダンテの『神曲』のように、地獄編から始まる。第一歌から第五歌までで主要な人物が登場する。風太郎は、自分の作風に読者を引き込む術を知っている。忍法と剣豪たち。そして、柳生十兵衛はどのようにして登場して、彼らと戦うのか。こういう動きのある作品は、何か事が起こる。何の事も起こらないものは、どうやって、読者を引き込むのか?事が起これば、次の物への繋がりが必要。伏線など。

 北斎の絵は、動きを感じる。若冲の絵は、動きをあまり感じない。手法が全く違う。違うのに、それぞれ観ていて面白い。日常というのは、そもそもほとんど、変わりのないことが続いて行く。それを書くとすれば、事はほとんど起こらないが、その中で起こることが、いつもと違うことになる。などという事を考えても、実は始まらないのだ。定型も良いが、それが崩れていた方が、たぶん、面白いはずだ。でも、採血は定型でやって欲しいなぁ。痛いから・・・。


 1月21日(火) 晴 10070

 風は強いが、穏やかな天気だ。散歩の後、喫茶店で読書。不思議なもので、本は、読みやすいものと、何か気になって読みづらくなるものがある。三好昌子の小説は、変なところで女が、変な感情になる。そういう処が、時々ついていけなくなる。しかし、京ことばが書かれているので読んでいる。『若冲伝』の佐藤康弘も、漢字が旧字体でわざと書いてあり、なおかつ、時々何をいいたいのか判らなくなる。読んでいて、疲れる部類に入る。

 小説は、作者の感性が反映される物だろうから、そういう女の心情が、主人公に投影されているのかと思うと、ちょっとうんざりするものがある。『若冲伝』の方は、学者がその学説を書こうとしていうのだろうが、回りくどく感じる処が多々ある。他の学者の学説に異を唱えるのは、知識の裏付と、客観的な事実に基づいて書いているのだろうが、絵というか、若冲自身に対しての、熱を感じないような部分を感じるのは、つまらない。時々、何を書きたいの?と、思ってしまう。

 それでも、『若冲伝』は、第一級の資料としても素晴らしい。辻惟雄、山下裕二、狩野博幸のある種の軽さに対して、佐藤康弘の重さは、かなりのものだ。しかし、読みやすさという点では、ある種の軽さを持っている3人の文章の方が断然読みやすい。そんなことも感じながら読みすすめていこうと思う。


 1月22日(水) 曇 12439

 昨日の夜に、下山さんから連絡があって、会うことにした。今度は、娘がいないから時間があるという。それで、太田美術館で、浮世絵の肉筆画展をやっていたので、それを観た。大浮世絵展では、浮世絵スター絵師総登場という感じだったが、こっちは、勿論写楽はない。歌麿、北斎、広重、国芳はある。明治の浮世絵師といわれた、小林清親もある。岩佐又兵衛もある。国豊、国貞もある。北斎の娘の応為の有名な影のある絵もある。

 しかも、凄い人。若い人は少ないが、外国人もいる。高齢の人が多い。これだけの浮世絵肉筆画が揃うのは、非常に珍しいだろう。それから、老舗の中華料理店で、ランチ。色々あって、1人で帰国したという。いつ帰るのかも、決まっていないという。料理は、品数も多いし、程よい量で、不可なく頂いた。接客は丁寧。それから原宿をブラついて、下山さんが東郷神社へ行きたいといういうので、いった。門前で、団子と抹茶。階段を2回登って参拝したが、記憶では、階段を登ったという記憶がない。そしたら、反対側からは、階段を使わず参拝出来た。裏に神池があり、そこには、錦鯉が泳いでいた。金色の鯉、そして、頭の上に日の丸がある鯉もいた。それと、鱗の黒っぽい部分の周りが白くなり、浮き彫りになるように観える鯉もいた。まるで、若冲の筋目描きのようだ。観ていると錦鯉が寄ってくる。これは、条件反射で、誰かがこの橋の上で餌をやっているからだろうと思った。

 鳥居の白木は、たぶん、伊勢神宮の遷宮のときに、伊勢で使っていた白木を持ってきたものではないかと思われるものだった。下山さんは、ビビッと霊力を感じたという。下山さん独特の感覚だ。それから、梅が観たいといっていたので、新宿御苑へ行った。行ったが、16時で閉園だったので入れなかった。近くの店でコーヒーを飲んで、夕食のカレーを食べてた。そんなので、帰りが遅くなった。


 1月23日(木) 雨/曇 11013

 昨日原宿にて、下山さんと待ち合わせ。若い女の子が長い列をなしてしたという。何かと思い観たら、それは、占いに並ぶ列だったという。スマホやパソコンなどのデジタル世代である若い子が、アナログなる世界の占いに興じるは、不思議な光景なり。ネットで、いろいろな物を調べることが出来る時代に、自分未来を、占って貰うという願望が先行する。将来の不安からか、こうなって欲しいという、自分の夢と同じなのかを知りたいためなのか?逆にいえば、こうだから、フェイクニュースが流布する土壌も、ここにあるのかもしれぬ。などと思ったりもする。

 長生きする老後生活3カ条。第1条。老後は、キョウイクとキョウヨウが必要になる。今日行く処、今日の用事。これが、永井荷風が実践していた、キョウイクとキョウヨウである。第2条。行きつけの店をもつ。第3条。お金はあっても節約。

 『孤独のグルメ』に出てくる店に、チェーン店は出てこない。個人経営の店ばかり出てくる。決して、列が出来て並ぶような店ではない。行けば直ぐに席につけるような処ばかり。番組の中のセリフで、「俺は並ぶことが嫌なんじゃない。食べている時、後ろで待たれるのが嫌なんだ」とある。行きつけの店を見つけるのは、なかなか厄介だ。天本英世なら、ジョナサンである。携帯が出回っても、電話を引かず、連絡先は、部屋の近くのジョナサンにテレビ局などは連絡していたという。生前たまに、新宿などでスペイン人と一緒にいる処を何度か見た。荷風なら大黒屋のカツ丼。うーん。京都なら、思い浮かぶ処があるが・・・。節約は、その通りだと思う。

 朝ドラ『スカーレット』で、子供が、「お姉ちゃん、胸の処にホクロが2つ並んであるんやて。お父ちゃん、そんなんも知らんのか」 「そのなもん、知るわけないやろ」というようなセリフがあった。荷風の『つゆのあとさき』を思い出した。

 「 この自題(「旭日鳳凰図」)は同時代に描かれた「虎図」の自題と同じ論理に貫かれていると考えるのが自然だからだ。また、この画には、「出新意於法度之中」の印が捺されている。「月梅図」について述べたとおり、この印を捺す一連の画は、中国画の原本に倣った作品という可能性が高い。結局、与謝蕪村の一七七六年(安永五)の書状に「此度相下候(このたびあいくだしそうろう)山水二幅ハ、北宗家之(ほくしゅうかの)画法二したため申候。(略)随分と華人之(かじんの)筆意を得たる物二候」とあるのなど近いと見なし、「意を得て」とは「別の画の筆意を得て」という意味に理解するのが最も適当ではないかと考える。」(『若冲伝』佐藤康弘)


 1月24日(金) 曇 9344

 中国の武漢で発生した新型コロナウイルス肺炎で、WHOは緊急事態宣言を見送った。人から人への感染が、中国以外で確認できなかったからという。昨日武漢の交通網は、閉鎖された。移動が禁止され、駅や空港が閉鎖され出た人は戻れず、出たい人は出れずの状態なった。日本や韓国、東南アジアでも感染者が報告されている。旧暦の正月を迎え、30億人が移動するといわれる中国。日本にも大勢の中国人が観光でやってくるようだ。武漢では、新学期の学校閉鎖が決定された。

 知らない事だったが、本能寺の変の本能寺は、法華宗の寺だった。比叡山焼き討ち、本願寺とも対立していた信長が京都の定宿に選んだのが法華宗の寺。たぶん、信長は法華宗徒とは、全く関係がない。敵の敵は味方という考えで、法華宗の本能寺を選んだのだろう。それと、本能寺は、早くから種子島で布教活動をしていて、鉄砲・火薬などの入手しやすく、信長など戦国大名などに鉄砲などの贈り物をしていたようだ。

 「一月廿四日。晴また陰。午後山谷町の混堂に行く。小役人らしき四十年輩の男四、五人その中の一人帳簿を持ち人家の入口に番号をかきし紙片を貼り行くを見たり。霊南坂教会下、石段の雁木坂辺りより崖下北側四、五丁人家取払うべき事を示すなり。余の行き馴れし混堂もまた取払ひとなるなり。東京住民の被害は米国の飛行機よりもむしろ日本軍人内閣の悪政に基くこと大なりといふべし。余が偏奇館もいつ取払の命令を受くるや知るべからず。」(断腸亭日乗 昭和二十年乙酉 永井荷風)

 国会図書館や京都歴史資料館、歴彩館などで、若冲や応挙を調べていた時に、森銑三(せんぞう)という名前が出てきた。編集本である河出文庫『若冲』の冒頭は、森銑三の『若冲小録』である。広島の浅野家の家臣平賀白山の『百家随筆』に、石峯寺門前で暮らす若冲と義妹の真寂の事が書かれてある。1度は訊いた話として、1度は実際に訪ねた事が、全文が載っている。こういう資料提出は、今の若冲ブームで、大典顕常の書いた、若冲の寿墓の文章と共に、重要な若冲の根本資料の1つになっている。

 森銑三は、在野の学者で、江戸学の始祖の1人といわれる人で、江戸時代の資料の読み込みなどして、特に井原西鶴研究では、独特の研究発表をしたという。江戸風俗研究家で漫画家の杉浦日向子が、深く敬愛したという。また、歴史小説家の必須資料になっているという。永井荷風とも付き合いがあり、「森さんのような人こそ、真の学者である」といったという。断腸亭の中にも、「午後森銑三君来話。」の記述あり。(昭和二十年一月十二日)

 この年空襲で、荷風の偏奇館も焼けるが、森銑三も集めた大量の資料と共に家が焼ける。それでも、戦後も出筆を続け貴重な本を多く残したようだ。


 1月25日(土) 曇 11829

 朝、とろろ納豆を食べる。ここ3日長芋を食べている。腹の調子は、良い感じだ。長芋を食べたからといって、一気に良くなるほど単純な話じゃない。でも、食べないより食べた方が良い感じだ。

 昨日、世田谷美術館で、写真家の奈良原一高の『奈良原一高のスペイン-約束の旅』を観に行った。広告写真を撮っていた人で、1963年頃、フランスの雑誌からヨーロッパを撮ってみないか誘われ、60年代に渡欧した。スペインが気に入り、街や人の写真を撮っている。凄いと思ったのは、ヒターノの母親のおっぱいを吸う子供の写真。こんなの良く撮らせてくれたなぁと、思う。怖くて撮れない写真だ。60年代のスペイン人の顔は濃い。老婆の顔のアップは良い表情だ。

 闘牛の写真も撮っている。ビティの頃である。64年、エル・コルドベスの写真もある。そして、街中に貼られたカルテルの写真には、見習い闘牛士として、パキーリの名前もある。驚いたのは、パンプローナの写真。エンシエロの柵が見え、牛と走っている人が見える。どう見ても、地面は土である。今のように石畳ではない。ヘミングウェイの『危険な夏』とかで、パンプローナのエンシエロを書いているが、夜中に酔っぱらって寝ていた男が、牛が通り過ぎることで、目が覚めたと書いてあったと、記憶する。その頃は、勿論土だったということだろう。なるほどなぁと、思った。石畳やアスファルト舗装、コンクリートの上を牛が走るのと、土の上を牛が走るのは、違うと思う。

 「正月廿五日。母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。」(断腸亭日乗 大正九年歳次庚申 永井荷風)


 1月26日(日) 曇/雨 10556

 今日は寒い。雪になるかもしれないという。夜になるもっと冷える。雨に濡れた路面は、曇っていてもテカテカ光っている。散歩で出掛けたスーパーの駐車場は、車がいっぱい停まっていた。中も家族連れが多く、子供が親にじゃれている。小学生だからそうでもないが、もっと小さいと、これ欲しいと泣いたりごねたり、大声を出して、親を困らせる子もいる。そういう子はいなかった。俺のように、1人で来ている人もいる。杖をついた人もいる。重い荷物なら、帰りは大変だ。

 種子島に鉄砲が伝来した時に、対応したのが、法華宗のお坊さん。それで、海外交易拠点として栄えた、堺の街は、その鉄砲が入って来る街になる。堺にある顕本寺は、京都の本能寺が、天文法華の乱で、比叡山の僧兵に焼かれた時に、一時本山をここに移していたという。応仁の乱以降、法華宗が京都市中の警護などの自治権を得ていたが、そういうものへの、他宗派の嫉妬などで対立したようだ。大河ドラマ『麒麟が来る』でも、松永久秀が権威をふるっている。三好の息のかかった松永が、この頃、大手を振っていたようだ。自治権をもって、有力な商人の会合衆が集団で管理していたが、時の権力には、逆らえない。

 想像するに、堺の街に鉄砲が入るのは、この法華宗の顕本寺関係から入って来るのだろう。つまり、法華宗である。街を管理する会合衆も、法華宗と濃密な関係があったのではないかと思われる。その後、千利休なども会合衆に入るという。楽焼の長次郎は、聚楽第の瓦を造る職人から始め、利休の指導で茶碗を造ったという。楽という名字は、妻の祖父が秀吉から聚楽第の一字をもらい名のったという。5代目の雁金屋三右衛門が婿養子に入る。兄が雁金屋宗謙で、その子が、尾形光琳・乾山だという。その曾祖父、道伯の妻、法秀は、本阿弥光悦の姉だという。

 いわゆる、琳派の始祖が、本阿弥光悦と俵屋宗達。継承者が尾形光琳。こういう風に法華宗と鉄砲と琳派と茶が繋がっているようだ。この辺の本とか読めば詳しいことが判ると思う。それと、この頃の堺の街が非常に興味深い。


 1月27日(月) 曇 8391

 もう箱根の辺りでは、雪が降っているというが、八王子でもここでも雨も降っていない。降る前にと、スーパーなどで買い物をした。タバコも買って来て、夕食は鍋の予定だ。

 新型コロナウイルスは、当初の解析とは違う。感染後、潜伏期間が、1日から14日で、発症するという。それと、熱が出たり症状が出る前、つまり、潜伏期間での感染するウイルスだという。中国の武漢の病院は、診療を受けに来た患者が大勢詰めかけ、対応しきれない状態になっている。看護婦や医者が、パニックを起こしている動画がSNSに載っているという。中国以外、17の国と地域で感染者が確認されている。スーパーなどが閉まって、物流も止まっているのかも知れない。政府は、チャーター機で、日本人の希望者を帰国させるよう、手配中だという。また28日に、指定感染症にするという。これは、患者を隔離するためのようだ。しかし、潜伏期間中に感染するとなると、対応のしようがなくなるような気がする。

 堺の街と、茶、琳派が、法華宗とどう関わっているか?河内将芳という大学教授が法華宗関連の事を書いた本を出している。室町後期から安土桃山時代の京都の事も書いているようだ。信長が京都へ入った頃、京都の街は、以前書いたように、柵や土塁などで仕切られている処があった。上京と下京は、室町通だけで繋がっていた。今の錦市場は、柵の外にあった。応仁の乱で、焼けつくされたのと、治安が悪かったのだろう。京都ではなく、堺に幕府があった時期もあるのだから。(実際には、次期将軍を約束されていた足利義維(11代将軍の息子)が一時実効支配していたという)


 1月28日(火) 雪のち雨 11074

 夜中に雪降り、地面が白くなったが、朝には雨になって白くなった地面には雪は残らなかった。電車などの交通網の混乱もなかったようだ。帰ったとばかり思っていた、下山さんともう1度会おうと思っていたら、昨日連絡があり、用事が済んだので今日スペインに戻るのだという。今日は、雨の中、神社へ行き梅を観るといっていた。雨を心配したが、大雪なら風情があるという返しだった。もう飛行機に乗っているのか、これから乗るのか。たぶん、夜便なのだろう。

 今日はこれから、大雨になるという。東京は、日がかわる頃に強くなる予報。低気圧が過ぎる明日は、17度になる予報。春の陽気になるようだ。


 1月29日(水) 雨のち晴 13084

 昨日は病院へ行って、血液検査の結果をきいきた。中性脂肪の数値が異常に高かった。食後に採血したので、その可能性が高いという。今日は、朝食後、図書館へ行った。法華宗関連の本を借りて読んだ。面白いなぁと思った。それで遅くなって、帰宅ラッシュの地下鉄に乗る羽目になった。駅で降り買い物をして歩いていたら、夜空に三日月が浮かんでいた。

 信長が謙信に送った、『上杉本洛中洛外図』は、狩野永徳が描いたと伝わっている。屏風に描かれた絵の中に、法華宗の寺が多く描かれているという。どうやら寄進帳などにも狩野家の記述が載っていて、法華宗徒だったという。京都の妙覚寺が菩提寺のようだ。京都では、比叡山延暦寺、一向宗(石山本願寺)と、法華宗が対立した。天分法華の乱。僧兵などで、時の権力に対抗した比叡山延暦寺と石山本願寺。僧兵を持たない法華宗。武力で、京都を掌握しようとした勢力と、宗徒の財力で公家や武家に根回しして京都で勢力を伸ばした法華宗が対立したようだ。

 本を読んでいて、かなり理解することが出来た。応仁の乱以降、厳しい京都で法華宗が生き延びるために、行った事は、町民の中にも浸透していったようで、多くの法華宗徒がいたようだ。本願寺の宗徒も莫大なお金を本願寺に落としたが、どうやら、財力がある商人が多かったのが、法華宗だったようだ。堺もその中で、有力な法華宗徒だったようだ。堺を一時掌握した三好長慶も松永久秀も法華宗徒だったという。しかし、読んだ本の中には、堺の有力会合衆である、今井宗久、津田宗令、千利休が法華宗徒だったどうかは、書かれていなかった。だが、利休の妻は、長慶の妹である。小西隆左・行長親子は、勿論、クリスチャンだ。


 1月30日(木) 晴 10566

 今日は午後になって、近くの図書館へ行った。『新編 おらんだ正月』、森銑三著 岩波文庫を借りてきた。今日も帰りの空に月が浮かんでいた。暖かい日が続いている。2日連続で武漢からチャーター機が到着して、400人強の人が帰国した。感染者が発見されたが、症状が出ていない人も含まれている。バス運転手とガイドの感染が判ったが、武漢からの観光客のツアーをした人だという。感染前に接触したへの感染は確認できていない。

 喫茶店で読んだ『新編 おらんだ正月』には江戸時代の医師など偉人が書かれている。戸田旭山、山脇東洋、前野蘭化(良沢)、杉田玄白、平賀源内などを読んだ。森銑三って凄い人だと思う。これを1941年に書いている。他にも貝原益軒、小野蘭山、伊能忠敬、木村蒹葭堂、国友一貫斎、間宮林蔵、高野長英、佐久間象山などが載っている。戸田東三郎や緒形洪庵なども読みたかった。戸田東三郎って木村蒹葭堂に会いに、若冲と一緒に行った人。カラクリ儀右衛門に店を譲っている。どんなことをやっていたかが知りたい。図書館で観た、池玉蘭(池大雅の妻)の梅の墨絵が素晴らしかった。歌も書かれてあった。たぶん、玉蘭が詠んだ歌だろうと思う。


 1月31日(金) 晴 9206

 晴れているが、風が強い。強風が吹けば、重心が後ろに行くような感じがして、歩くのが難儀でもある。29日新しく出来たコーヒーショップは、やっぱり全席禁煙だった。近くの処に行くと、ここは、喫煙室を作ってそこでのみ吸えるようになって、以前のように喫煙者専用のスペースは、取り払われていた。いよいよ、4月の受動喫煙禁止の条例に向けて動き出している。もうチェーン店では、喫煙が出来なくなっていくのだろう。歩いて、喫茶店まで行って、読書した。

 宝暦五年、それまで使われたいた暦が改訂され宝暦暦が使われる。出来の悪い暦で評判が悪い。それまで使われていた貞享暦を造ったのは渋川春海。これは800年ぶりの改暦だった。父は、安井(渋沢)算哲という。京都に三哲通(塩小路通の西端にあり、かつては、塩小路通を三哲通と呼んだともいう)と、バス停に三哲と名の残る人だ。家康から禄を貰い囲碁を打ちで、本因坊とも対局している。晴海も本因坊と対局した記録が残っている。叔父は、安井道頓。こちらは、大坂の道頓堀に名を残している。

 渋川春海の事は、『天地明察』という小説になり、映画やテレビドラマになった。天体観測をする為には、測量機器が必要だ。伊能忠敬が日本で初めて測量して日本地図を作った。その知識などを教えたのは、麻田剛立の弟子、高橋至時、間重富。この2人は、幕府の命によって、寛政暦に改訂をした。高橋至時は、武士。間重富は、大坂の裕福な商人。特に測量機器は、間重富が考案した。それを造らせたのが、京都の時計技師、戸田東三郎忠行。時計師とも細工師とも書かれてある。お金があるから測量機器を作ることが出来たようだ。森銑三は、ちょっと個々の年が違う処があると思うが、戦前の書物。今は色々な資料が出て来ているので、それは、誤差の内だと思う。

 鈴木春信の錦絵に、遊女が時計を眺めている絵がある。来ない男を、振り子時計を見て待ちわびている姿のようだ。すでに、明和の時代には、時計は金がある処には出回っていたようだ。東芝の前身、芝浦製作所を造ったカラクリ儀右衛門こと田中久重は、京都四条にあった戸田東三郎の店の跡に自身の店を出した。京都へ出た頃に、戸田東三郎宅に住んでいたと記憶する。儀右衛門が嘉永四年に造った、季節によって昼夜の長さが違う不定時法に対応し全自動で動く、「万年自鳴鍾」は、戸田東三郎の技術などを受け継いだものだろうと想像する。

 江戸時代に蘭学が盛んになる。吉宗の洋書の一部開放から、始まるようだが、『解体新書』『蘭学事始』が火をつけたのだろう。人体解剖図は、源内の紹介で、小田野直武が描いた。浮世絵などの木版画の技術が、遠近陰影法で描かれた絵にインパクトを与えたのだと思う。科学的な事実が、江戸時代の封建制度の崩壊にむけて動き出したきっかけになって行ったのだろう。

 セビージャのドミンゴ・デ・レスレクシオンに、タラバンテが出場するという。その他に、フェリア・デ・アブリルとフェリア・デ・サン・ミゲルの合計3回出場する。興行主のパヘスからの情報のようだ。と、いう事は、タラバンテは、今年テンポラーダを通じて、闘牛場に立つという事のようだ。


 2月1日(土) 晴 10221

 夜中にスマホが音を立てて鳴った。直後に地震。ここの処、日本列島北から南まで各地で地震が起きている。小笠原と鹿児島の島では噴火している。地殻変動で、火山活動も活発になって、地震が起きているのかと思ってしまう。

 書き換えをしなければと思いながら、全然作業が進まない。困ったもんだと思う。それでも、材料は揃って来ていると思う。そして、次の事も、おぼろげになってきている。

 不思議なことに、ある新聞には、ファジャスのオフィシャルではない、カルテルという記事が載っているのに、闘牛専門サイトには、それが出ていない。どういうことなんだろう。フリは除外されている。タラバンテの名前も勿論ない。復帰戦が4月11日に決まった以上は、その前に出るわけがない。たぶん、番記者というのがいて、シモン・カサスに近い人が情報を得て書いているのだろう。それがない処は、記事に出来ないでいるのだろう。闘牛専門サイトだけ見ていると、状況が判りづらくなってきている気がする。


 2月2日(日) 晴 9975

 いつも行く寺には、舞台で作られていて、賽銭箱が取り払われていた。昨日行ったらその舞台の骨格だけが残っていて、今日も残っていた。鳶が休みなのだろう。1か月前に咲いた蝋梅はしおれて、香りも薄くなった。かわりに最近の陽気で、白梅が咲き始めた。墓地のある墓には、盆栽の梅が両側に置かれている。左が紅梅で、右が白梅だった。陰陽五行でいうと、左が陽で、右が陰。

 昨日スーパーへ行ったら、季節外れと思えるフキを売っていた。匂いを嗅いだら、良い香りがした。迷わず買った。まな板で、板摺して先の方を炒めた。調味料は塩コショウ。食べたら、板摺が足りなかったのか、筋が多く口に沢山残った。でも、香りが良い。昔、板摺したフリと肉を炒めた弁当を作って職場に持って行ったら、フキの香りだけで、肉の美味さが倍増した気がした。残ったものを板摺し直して油揚げと一緒に炊いた。香りが良くて美味しい。

 馬に乗った全裸の女。それが、会社のエンブレムになっているゴディバ。レディー・ゴディバは、イギリスのとある処で、重税に苦しむ民のがいて、夫に、税を下げるように頼むと、夫は、お前が裸で馬にまたがり、町中を練り歩くなら税を引き下げてやるという。翌朝レディー・ゴディバは、全裸で馬にまたがり町中を歩いた。領民は、彼女に感謝して、雨戸を締め切り見ないようにしたという。それで、夫は領民への税を引き下げたという。ゴディバの創業者、ジョフル・ドラップスがこのエピソードが好きで、社名にドラップスの家名ではなく、ゴディバを選んだという。

 『カンブリア宮殿』は、2010年ゴディバ・ジャパンにヘッドハンティングで社長に就任したフランス人のジェローム・シュシャン。2010年から売り上げを3倍に伸ばした。長年日本に住んで、趣味は弓道。その弓道から「正射必中」を心得ている。正しい射をすれば、的に中る。中てようと思うと邪念が入り的に射が中らない。下山さんに教えて貰った、『弓と禅』オイゲン・ヘリゲル著の話と同じだ。ゴディバの主力のチョコレートだけではなく、クッキーやケーキ、アイスクリームなど販売し、コンビニでも買えるようにして、高級感と親しみやすさを両立させて、売り上げを伸ばしたという。

 無理やり売るのではない。お客さんの声を訊いてやると、売れるのだという。ゴディバの中で、日本が1番売り上げがあるのだという。正射必中は、日本人なら誰でも持っている心です。と、シュシャンはいう。肉体を動かし、弓でそれを体に染み込ませたことが、ビジネスに活かされているのだろう。


 2月3日(月) 晴 12003

 節分である。スーパーなどでは、恵方巻が沢山置いてあった。オーケーストアには行っていないが、3軒のスーパーを観てもこれはと思うのもはなかった。コンビニ3店行った。かぶりつきたくなるような恵方巻を置いている処があった。海鮮巻で、ハーフサイズで、色合いからそう思ったからだ。恵方巻のコーナーには、人が沢山いた。いつも行く寺は、舞台が取り払われて、賽銭箱が置いてあった。たぶん、豆まきは土曜日にやったんだと思う。

 パコ・ウレニャが2つのトラッヘ・デ・ルスを、2つの団体へ寄贈した。2018年ムルシアのフェリアで耳4枚切った時に着ていた物を、ムルシア癌協会へ。もう一つは、2018年アルバセーテのフェリアで、牛に片目を突かれ失明した時に着ていた物を、スペイン闘牛外科協会へ送った。これは、パコ・ウレニャにとって、非常に感情的な衣装で、彼が苦しんだ数々の災難のあと、登りつめた。この闘牛士は、寛大な外科医に引き渡すことを意味しているというような意味が書いてあった。

 2019年片目を失ったパコ・ウレニャが、サン・イシドロの舞台に立ち、観客を熱狂させたことを、アフィショナードたちは忘れない。おそらく、プエルタ・グランデや、トゥリウンファドールになった勲章のような出来事を、深く長く記憶するだろう。そして、片目の闘牛士がサン・イシドロで、プエルタ・グランデしたのも初めてではないかと思う。


 2月4日(火) 晴 10693

 昼前に、図書館へ行った。パソコンで申し込みして、上の食堂へ行く。遅かったので、魚の定食は売り切れていた。しょうがないので日替わり丼のカレーを頼んだ。ちょっと甘いカレーで、薄く切られた人参がたくさん入っていた。嫌だなと思ったが、食べると嫌な味がしなくてちゃんと食べれた。

 木村蒹葭堂が16で母親と京へ出たとあった。その後、宝暦四年大坂の戸田旭山とは同門とあり、源内の大坂の師匠。そして、江戸の田村藍水と、書簡のやり取りをしているという。非常に嬉しい記述を発見した。

 この前、歩いていたら、トンカツ屋から物凄いニンニクの匂いがしてきた。このトンカツ屋、ニンニクで炒めた豚肉や、トンカツにニンニクを挟んでいる物を出している。そのニンニクの匂いが懐かしく思った。中学の時、昼飯の弁当を食べていた時に、幼馴染の女の子が、ニンニク臭いといった。これは、誉め言葉だと思っていたが、どうやら逆で、そういう物を弁当に入れてくることへの不快感をいっているようだった。弁当を作ったのは、おばあちゃん。家で食べている通りのものだ。

 スペインで初めて食べた、ガンバス・アヒージョは、ニンニクの味と香りがオリーブオイルに染み込んでいて、海老も美味しかったが、残ったオリーブオイルに、パンをつけて食べると、これも美味しかった。ニンニク嫌いは別だが、ニンニク好きにはたまらない味だった。トンカツ屋の前を通って、そんなことを思い出したら、ニンニクたっぷりの豚肉が食いたくなった。


 2月5日(水) 曇 10089

 今日は寒い。夕方になって、冷たい風が吹いてきた。盛岡では雪が降り、雪まつりが始まった札幌も雪が降っている。明日も冷えるようだ。図書館へ行き検索して、それから昼食を取った。サバの味噌煮の定食。初めて入った店で、十六穀ご飯がありそれにする。具だくさんの味噌汁、お新香は取り放題。白米ならおかわりも出来る。小鉢も1つ取れ、それは長芋のおろしにした。朝も長芋のおろし。

 そのあと、喫茶店で読書。伊藤仁斎の弟子に松岡恕庵。その弟子に、戸田旭山、小野蘭山がいる。仁斎の子、東涯の弟子に青木昆陽がいる。吉宗の命で、サツマイモの栽培をして、それが基で普及したので、甘藷(かんしょ。サツマイモのこと)先生と呼ばれた。晩年オランダ語に詳しかったため、前野良沢に基礎を教えたという。

 松岡恕庵の弟子に津島恒之進がいる。宝暦元年から毎年大坂で本草会を開催している。四年に没しているので、長く続かなかったというが、宝暦七年から源内企画、師の田村藍水が会主になって湯島で開いた物産会が続く。それに、対抗するようにして、宝暦十年に戸田旭山が大坂で、藍水、源内、木村蒹葭堂、中川淳庵(解体新書訳者の一人)など101人で薬品会を開いた。

 この人脈を辿ると面白い。伊藤仁斎が開いた古義堂。そこが京の定宿だったという源内。古義堂で、松岡恕庵が学び、津島恒之進は、その塾頭だったという。同門に、戸田旭山、小野蘭山がいる。恒之進の弟子は、旭山、木村蒹葭堂。つまり、宝暦四年源内が大坂に出てきたときに、旭山の処で医学修行をするが、ここで、蒹葭堂と知り合っていた可能性があるということ。同じく小野蘭山を訪ねても、一つもおかしくないということ。また、湯島の物産会で、中川淳庵と知り合っていた可能性もある。大坂の薬品会の前に。これが、『解体新書』に繋がって行く方向になるのだろう。それが、前野良沢と結びつくのも面白い。

 この古義堂人脈からこの時代の文化や科学などを観るのも面白いことだと思った。蒹葭堂の文化サロンも凄いが、源内の人脈も面白いものだと思う。


 2月6日(木) 晴 11963

 風も吹いて寒い。寒気団が来て、冷える。最も遅い初氷を観測したという。今日も図書館へ行く。『売茶翁の生涯』ノーマン・ワデル著などを読む。売茶翁が、寛保二年(1742)に宇治田原、湯屋谷村に住んでいた永谷宗円を訪ねていることが判った。日本で初めて今の煎茶の製法に成功した人だ。永谷園の創業者は、親戚だ。それまでは、番茶に近いものが主に流通していたようだ。妙心寺などで作られた良質の物もあったようだが。京の町で売っていた茶は、宗円から仕入れたものではないかという。

 新しく発見された書簡が何点かあって、その中に、津田(松波)治部之進とのやり取りある。売茶翁の絵に賛を書いて欲しいという依頼などがある。この絵は、池大雅か伊藤若冲ではないかと想像し、おそらく、若冲の絵だろうと書いてある。

 子供の頃、寂しいことや悲しいことがあると、口ずさんだのが、♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように♪だった。パンプローナのサン・フェルミンに初めて行った時に知り合ったスペイン人に、バルで歌ったのも、『上を向いて歩こう』だった。サン・イシドロでアベジャンが、コルナーダされて、コヒーダで何度か頭からアレナに叩きつけながら、プエルタ・グランデした後のメトロの中で、黙っていると涙が落ちそうだったので、自然とこの歌が浮かんだ。

 『アナザーストーリー』は、この『上を向いて歩こう』だった。坂本九を売り込もうとしていたマネージャーに、声をかけたのは、中村八大。自身のコンサートに、12組の歌手に12曲の新曲を歌わせて発表しようという試みに、指名される。そしたら、歌詞は、永六輔が良いと注文を出してOKが出る。永は、60年安保の挫折を歌詞にした。誰が聴いても、共感できるように、主語を書かなかった。歌の上手い有名歌手ばかりの中で、直前まで当日出来た『上を向いて歩こう』を練習していた曲を本番で歌うと、全員がこの曲の話題になった。しかし、永六輔だけが、ひどい日本語だ。あの歌い方で歌がダメになったとガッカリして帰ったという。しかし、永六輔と中村八大が出演するテレビ番組で、初めて歌うと、1万件以上の反響があったという。それから、レコードを発売すると3か月で30万枚売れた。永は言う。僕は全然判ってなかった。

 ドラマ『あまちゃん』作曲家の大友良英が中村八大の書いた初めて楽譜を読み解く。本番数時間前に坂本九に渡った楽譜。譜面には、一拍目にアクセントがある。僕らが知っている二拍目にアクセントの歌と違う。それを、本番前のリハーサルで変えたと思われる。これは画期的なことで、この曲の最大の魅力はリズムにあると思っていて、日本のそれまでの歌謡曲って、ほとんど頭にアクセントが来るんですよ。二拍目がアクセントになるっていうのは、すごく新しく聴こえたと思う。アメリカのジャズとかポップスだとか、二拍目、四拍目がアクセントなのね。坂本九さんは、プレスリーやロカビリーの影響を受けていたっていうけど、裏にもアクセントが入るように裏声を使うっていうのは、バックビートでポップスが作れるぞっていうのは、坂本九さんの歌い方がないと、出来なかったと思う。で、そうやっておきながら、サビの所は「幸せは~」ってもう頭から堂々と入る。アメリカのスタンダードナンバーですごくよくある手ですよね。Aメロは二拍目四拍目にアクセント置きながら歌っておいて、サビになると突然うわーて行くっていう。その典型的なパターンをものすごくうまく日本の歌に入れていて、しかもそれが実現したのは、坂本九さんだったからと思う。あの歌い方があってこそだと、僕は思います。

 初めて歌った時のことを「いままでうたった、どの歌よりも、ボクの心に深く、くいこんでくる歌だった」坂本九

 アメリカのロスアンジェルスのラジオ局が、発売されていない日本版の『上を向いて歩こう』をラジオを流すと凄い反響があった。当時DJは、自分で選曲出来ないシステムになっていて、それを犯すと大変な事になる危険があった。そのDJは、扉に鍵をかけて何回もかけたという。戦争中に強制収容所に入れられて、厳しい生活の中で、日系人が誇りを取り戻す切欠になったようだ。「この歌は、日系アメリカ人そのものをテーマにしたように、僕らの心にぴったりとはまった。歌詞の喪失感や葛藤も共感できた。我慢して、頑張って、愛を慈しむ。それが僕らにとっての「スキヤキ」だったんだ」 レコード会社の外国担当者が、凄く気に入ってアメリカで発売を決める。その時、イギリスから若者たちから人気沸騰したビートルズの『ラブ・ミー・ドゥ』よりも気に入っていたという。『スキヤキ』のタイトルで発売すると3週連続でビルボードでNO1になる。そして、100万枚の大ヒットになった。アメリカの研究者の分析によると、1945年から50年代前半に日本に駐留した退役軍人のマーケットを開拓できる。この曲で郷愁を呼び起こすことが出来ると思ったのだろうという。

 そのニュースが日本に入って来る。カバーが1位になったんだろうと、確認すると坂本九の日本語で歌った『上を向いて歩こう』だということが判って驚いたという。17年後、黒人ミュージシャンで、初めてグラミー賞最優秀新人賞を取ったテイスト・オブ・ハニーが『スキヤキ』を歌ってヒットする。ボーカルのジャニス・マリー・ジョンソンは、子供の頃、暴力をふるう父親と、非行を繰り返す兄に悩まされる。その中で、唯一ラジオから流れた『スキヤキ』を聴いている時が楽しかった。私も歌手になりたい。と、思ったという。クリスマスプレゼントでレコードを買ってもらい、擦り切れるまで聴いたという。ディスコブームが終わり、レコード会社から契約を切られるミュージシャンが多かった中で、アルバムの最後の曲に、反対を押し切って『スキヤキ』を入れた。作詞の永六輔へ手紙を書き、歌詞を変えて歌っても良いでしょうか?と、きいて、許可を貰う。永六輔から手紙には、「再びこの曲を蘇らせてくれて、深く感謝します」と書かれてあった。

 シングルカットされると、大ヒットする。ビルボードで3位を獲得する。曲のヒットで日本を訪れた時、憧れの坂本九会う。ジャニス・マリー・ジョンソンは、赤ん坊のように泣いたという。 「時代を超えて歌われ続ける名曲になった。人々の思いを乗せて、国境も時代も超えて愛される『上を向いて歩こう』。あの東日本大震災時には、被災地でこの曲を歌い、励まし合う人々の姿がありました。『上を向いて歩こう』は今も日本人の心の支えとして歌い継がれています」

 晩年歌手よりもタレントして活動していた。渋谷の小さな劇場を訪ねる。永六輔と中村八大のコンサート。そこで、もう1度歌が歌いたい。それから5日後。日航123便が墜落して死ぬ。六八九じゃない。123だった。25年前の阪神大震災、東日本大震災の被災地で、『上を向いて歩こう』が歌われた。妻の柏木由紀子の処に、被災地から歌で励まされたという手紙が届いたという。やっぱり、坂本九の歌声、歌い方が好きだ。子どものころから。

 ♪上をむういて あーるこおおお 涙がこぼれないよおおに ♪


過去の、断腸亭日常日記。  --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

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