断腸亭日常日記 2017年 10月-11月 奈良・京都・滋賀旅行

--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年、2017年のスペイン滞在日記です。
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 10月30日(月) 晴 10136

 昨日の22時頃には、雨が上がり生暖かい風が吹いていた。今日の朝は、晴れて冷たい風が吹いている。関西と東京で、木枯らし1号が吹いたという。

 斎藤の会、スペイン闘牛ビデオ上映会2部。2011年5月17日アレハンドロ・タラバンテのファエナ。タラバンテの滑らかで器用なファエナ。牛が正面に向かって来ても避けてしまう器用さ。ホセ・トマスなら角の間に体にあるようなコヒーダになるだろうけど、タラバンテはそうならない。アントニオ・コルバチョと別れて、ラス・ベンタス闘牛場で久し振りのプエルタ・グランデ。背中を通すパセなどはこの辺りからやっていたようだ。

 98年5月15日サン・イシドロの日のホセ・トマスのファエナ。土砂降りの雨の中で、丁寧なファエナだ。この日は土砂降りですごく寒かった。その中で冷静さが光る。ムレタは雨を吸って重くなる。エンガンチャされて、ムレタを交換する。そして、物凄い剣刺し。この年のメホール・エストカーダに選ばれた。

 最後は96年5月2日ゴヤの日のホセリートのウニコ・エスパーダ。耳6枚取った伝説の闘牛から。見どころは2か所。キーテで、ガジョシーナとか、フレゴリーナとも呼ばれるパセの後、手を持ち替えてクルクル回るカポーテ捌き。それをラス・ベンタス闘牛場で初めて披露した。2つ目は、ファエナで持っている剣を投げ捨てて、右手のナトゥラルを始める。左手のナトゥラルも。そして、剣も決めて耳2枚。この日6枚目になる耳だった。確か最後の牛が、バンデリージャ・ネグロだったので、実質5頭で耳6枚のプエルタ・グランデ。記録的な闘牛をやった。

 ビデオの終わりは、91年6月6日のベネフィセンシアのオルテガ・カノとセサル・リンコンのプエルタ・グランデのシーン。と言っても、プエルタ・グランデ通過せず、向かい側の牛を下げる処から国王と謁見するためである。場内に響き渡る「トレロ」コール。ホテルに帰ってからも、耳鳴りの様に響き渡り、眼を閉じれば、闘牛の場面が映像として流れ続け眠れなかったことを思い出す。

 しばらくスタジオで闘牛の話をした。闘牛の話をした。久々にホセリートを流したので、反応があった。やっぱりこのビデオの闘牛がインパクトがあるからだろう。Hさんは、12月12日ホセ・トマスがメキシコで復帰するのを知らなかった。THさんのお父さんから、ホセ・トマスがいなくなったらどうするんですか?と、言われた。王と長嶋がいなくなっても、巨人は続く。村山や江夏がいなくなっても、阪神はある。黒田やマエケンがいなくなっても広島は、広島だ。ダルビッシュや、大谷がいなくなっても、やはり日本ハムは日本ハム。ホセリートが、セサル・リンコンがいなくなってもホセ・トマスがいた。そして、新しい闘牛士も出てきている。だが、追っかけをしようと思うような闘牛士はいない。ホセ・トマスがいなくなったら、どうなるんだろう?もう行かなくなるか、それとも・・・。

 この日流したビデオは、それぞれの場面で基準になるものである。ピカのいい場面は、アンデルソン・ムリージョ。バンデリージャは、ファンディ。バンデリージャの競演は、エスプラ、フェレーラ、ファンディ。そして、カポーテ捌きは、ホセリートや、ホセ・トマスや、マヌエル・カバジョーロ。ファエナという風にビデオを編集した。浜さんは、初心者向けの闘牛になっていたと言っていた。それから片付けて、解散。前回と同じで、3人で飲みに行った。


 10月31日(火) 雲 13446

 さあ出掛けるかと思っていたら、トイレでアイホンを落としてしまった。直ぐに拭いたりしたが、液晶画面が変な感じになって、ガッカリ。ショップに行ってどうするか相談した。結局、データの保存など、代替のアイホンの用意などあって、明日もう一度アップルへ行くことにして予約を入れた。もうなんか、予定が狂ってしまったことと、こんなことになること自体にガッカリした。

 土曜の会の後、3人で飲みに行った。THさんのお父さんが、漱石が能を参考にして書いていたことを、指摘してして興味をそそられた。落語を参考にしていたのは、『坊っちゃん』の冒頭など読めば想像できるが、能というのはどういう風に関係しているか全く想像できない。落語のの話をしているときに、浜さんが、落語というのは、知識をひけらかして自慢するんじゃなくて、俺はこんなに馬鹿なんだよと、笑いに変える処が良いと言っていた。

 僕は、特に昔の大映映画では、忠臣蔵など分かっている物語を、わざと違う物語にして映画撮るということをやっている事を指摘した。。それは、映画を見ている人が、その変形を楽しむことが出来るようになっているが、今ではそれは、そういう物を観る観客のレベルが落ちたので有り得ない状況になっている。

 そんなことを話したが、3人で話をすると文化サロンの様な感じで実に面白い。浜さんも相当だが、THさんのお父さんは、凄い知識でいつも驚く。


 11月1日(水) 晴/曇 8776

 冷え込んだ朝だった。今日は十三夜。豆名月とか栗名月という。今日はアップルに行って、新しいアイホンを手に入れた。設定とか色々やっている最中だ。落語の『鰍沢』は、訳の分からない落ちになっていると、浜さんが言っていたが、調べたら、三遊亭円朝が「酔狂連」の集まりで出された「卵酒・鉄砲・毒消しの護符」の三題噺で即席で作ったものが、今に残っていて、だから訳の分からない落ちになっているいるようだ。同じ円朝が作ったと言われる、『芝浜』は、落語で1番好きな噺と言っていいくらい好きな噺だ。

 それで、調べていたら、『隅田川』という能があることを知る。三島由紀夫も能の物語を書いているが、THさんのお父さんが言っていた、漱石と能というのは、物語の関係なのだろうかと思った。何年か前、京都で薪能を観たが、眠くなるのだ。これが狂言だとまだ観れる。能と文楽は同じような感じで眠くなる。こう考えると、やっぱり、落語が1番身近だ。この辺が参考になって行くと思った。

 それにしても、もう11月。あと2か月しかないなぁ、今年も。


 11月2日(木) 曇 10277

 朝、WS最終戦を観るために準備をして、テレビを見ていたら、NHKに森山良子が出ていた。9時過ぎに『Ale Ale Ale』という歌を歌った。歌を聴いていたイノッチや有働アナが笑っていた。テレビを観ているこっちも笑っていた。

♪あああの時のあの Ano Ano Ano あの人の名前がでてこない ほらあの時会った あの人なの もうわかっているにの思い出せない 
ほらあのとき食べた Ale Ale Ale あの店の名前が出てこない あなたと行った いえあなたじゃなかった じゃあ だれ それは だあれ ・・・
ああ 今日も 忘れた あれを忘れた とりに戻れば ドアのカギがない あれ 確かにここに いえ 違うこっちだわ 探す間に 忘れたものを 忘れた
あれよあれよと言う間に あっという間に時は流れ
あれよあれよあれよあれよ どれよどれよどれよどれよ あのねえーと ほらあのそうそうそう それなのよ ・・・
ああ 初恋の彼 青春の憧れ あの日のまま 笑顔が浮かぶ あれはあなただった いえ あなたじゃなかった じゃあ だれ あなたはだあれ?
ないないないない わからない ついていけない リモコン パソコン 合コン アイコン マザコン レンコン ダイコン・・・ でも大丈夫よ 何も恐れはしない くじけない あきらめない 負けられない
春が来た ガタが来た どこに来た 足に来た 腰に来た 目にも来た でも変わらないわ あの頃と同じよ 恋心 真心 乙女心 ・・・
あれよあれよあれよあれよ どれよどれよ めがね どこよ あのね えーと 今日 何曜日? あれよあれよあれよあれよ どれよどれよどれよどれよ それよそれよそれよそれよ ほら それ それなのよ Ale♪

 歌の間もフラメンコ風の踊りをしているが、最後が、Ole ではなく、Ale で終わる。踊りのレマテもちゃんと決めて。森山良子は、『この広い野原いっぱい』でデビューし、『禁じられた恋』で流行歌を歌い確か100万枚以上売れたはずだ。しかし、その後歌謡曲を歌うのを拒否して、フォークソングの世界に戻って行った。売れる方が良いのにどうして?と、思ったものだ。しばらくたってから、『さとうきび畑』をNHKの『みんなのうた』で聴いて感動して鳥肌が立ったのを覚えている。そして、『涙そうそう』。夏川りみの歌が良かった。長い間かけて、自分の世界を作り上げてきた。もしあの時、『禁じられた恋』と同じ流行歌路線で行っていたら、今はなかったような気がする。彼女は、あの時、自分が歩くべき道がしっかりと観えていたのだと思う。

 処で、WS最終戦は、ダルビッシュがまたもメロメロで、1回2/3で5失点。1-5で負けた。最初の打者に、2塁打を打たれ、それでリズムに乗れなかった。しかし、マウンド上のダルビッシュの顔を観ていたら、これはダメだなと思った。あの顔になったら、良いピッチングは出来ない。WSになって、多くのピッチャーが球が滑りやすくなっていると証言している。公式には、変わっていないと言っているが、解説の斎藤隆が、シーズン中の球と明らかに違いますね。と言っていた。残念だがダルビッシュのスライダーは威力が半減した。飛ぶボールに変わって、WS新記録になるホームランが記録された。

 NHKで、ドラマ『東京裁判』の再放送を夜中やっている。映画でもあった『東京裁判』。4時間以上あった映画で観に行かなかったが、これは録画していたが、再放送になってようやく観た。面白かった。こうなっていたのかと。戦勝国11か国11人の判事が、敗戦国、日本の戦争犯罪を裁く。判決文と4つの意見書が提出された。被告全員無罪を主張するインドのパル判事。国際法と法律の解釈を明確にするために主張する。侵略戦争違反は、事後法と主張するオランダの判事など。ほとんどが、白人の帝国主義の侵略戦争をやっている国の代表が主導して裁判を進むが、それに異議を唱える人々がいたことが分かった。そして、ヨーロッパでナチスドイツの戦後裁判が裁かれた後という状況でもあった。人間の誠実さというのは、社会状況や国家の圧力とかに関係なく存在し、その人の信念と正義によって、行われる。判事たちの生き方がそこに反映されていた。その信念と正義を持っていた人たちの多くが、東京裁判以降も良い人生を送ったようだ。

♪母親たちのおとぎ話が
幼い時きけたなら
子供たちの朝は手の中で
笑っていただろう♪  --『子供たちの朝』作詞・作曲 西岡恭蔵 歌:ディランⅡ(大塚まさじ)より--

 高校の時に、盛岡のコンサートで歌っていた歌のフレーズを思い出した。それは『プカプカ』を聴いていたら思い出したのだ。子供の頃、いっぱいおとぎ話を聞いていたら、自分の生き方も変わっていたような気がする。悔いがあると言えば、やっぱりある。今が悪いというのではなく、性格も感じ方も、だいぶ違っていたような気がする。


 11月3日(金) 晴 9367

 今日は暖かい日だ。日差しがまぶしい。

 秋のGⅠシリーズで、人気馬に乗りながら、ことごとく期待を裏切り続けた横山典弘が、ようやく、今日大井競馬場で行われた、JBC3戦のGⅠスプリントで、ニシケンモノノフで優勝した。嬉しそうだった。デットーリ・ジャンプで、喜びを表現した。

 ゴッホ展に絡めて、NHKでゴッホをやっていた。浮世絵を観て、影のない明るい色彩を観て、日本は光り輝く国と誤解したようだ。日本画の基本は、影を描かない。それを、影がないくらい明るい世界と誤解した。そして、アルルへ行く。生き生きと絵を描き始めるが、ゴーギャンとの人間関係から精神に異常をきたす。オランダにいた頃は、暗い色彩の絵を描いていた。パリに出て、浮世絵に出会ってからは、明るい色彩に目覚めた。浮世絵の模写を2つ描いている。こんなことをやった画家はいないそうだ。北斎より広重が好きだったようだ。坊主頭の自画像は、日本のお坊さんをイメージしていたのだという。パリのタンギー爺さんは、画材屋で画商だった人で、自分と同じ匂いをゴッホに感じていたようだ。タンギー爺さんの肖像の背景には、浮世絵が描かれている。660枚買ったという浮世絵の中に、背景になった浮世絵が3枚あるのだという。

 ドラマ『東京裁判』の最後の方で、『ビルマの竪琴』を書いた、竹山道雄が、ゴッホが好きだと言っていたオランダのレーリック判事に、広重の浮世絵をプレゼントするシーンがある。ゴッホが模写した『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』である。


 11月4日(土) 晴 10545

 上野に行って、『運慶展』を観ようと思っていたが、着いてみるとやはり連休中で1時間待ちだった。仕方ないので、庭園を観た。応挙館では茶会が開かれていてた。お茶会なら中に入れるんだ。ただ、応挙の絵は、複製が展示されている。廊下に立って横笛を吹いている人がいた。その笛の音がなんとも良かった。平安京でも、また、武士の世になっても、こういう笛の音色は、人の心を引き付けたんだろうなぁと思った。遠州が作った茶室もお茶会が開かれた。

 「ちゃんとしたそば屋の天ぷらも美味しいが、立ち食いそば屋の天ぷらそばも美味しい。立ち食いそば屋で天ぷらそばを注文すると、店員は丼に温めたそばを入れ、その上にかき揚げを乗せ、その上から熱いつゆをそそぐ。これをするかしないかで、天ぷらそばの味わいに大きな差が出る。すなわち、かき揚げの手前の処に箸をあてがい、押し付けて行って、かき揚げとそばの位置を上下逆転させるのである。とりあえずそばを一口。すすー。つゆを一口。あー。最初なんとなくかたくな態度を見せていたかき揚げが、丼の底で苦労を味わったせいであろうか、すっかり打ち解け、腰も低く、打って変わって柔らかくなっている。苦労が彼を一回り柔らかくしたのだ。周辺のつゆは、一層あぶらっこくなっている。このつゆをここで一口味わう。浮上したかき揚げは、しばらくすると柔らかくなり過ぎて、全身がボロボロになってくる。苦労しすぎたのかもしれない。このボロボロが美味い。ボロボロは次第に、トロトロになり、ふわふわになって、モロモロになる。このモロモロが美味い。このモロモロを、そばとつゆと一緒にすすりこむと、美味い。天ぷら油を吸った小麦粉の塊が、さらにそばのつゆを吸い込んだ美味しさ。一度かき揚げに吸い込まれた天ぷら油が、かき揚げの味を含んで脱出し、つゆと合体し、油を含んだ小麦粉の塊と合体した美味しさ。熱く、美味く、しばし恍惚となる。モロモロの間をぬって、時々紅ショウガや、桜エビや、玉ねぎの味も、かすかにする。」 --NHKドラマ『この声をきみに』より 東海林さだお著 『天ぷらそばのツライとこ』 より--

 何なんだこれは!かき揚げそばが食べたくなるじゃないか!

 「トンと置いたら、すぐに出て行かなければならないのが、立ち食いそばの決まりだ。のれんをくぐって外に出ると、そこは途端に世間だ。口の周りを、かき揚げの油で、テカテカさせたまま、世間に出て行かなければならない。ここの処が、天ぷらそばのツライ処だ。」 --NHKドラマ『この声をきみに』より 東海林さだお著 『天ぷらそばのツライとこ』 より--

 あー食いてーと、思って、立川のWINSに行きたいと思った。何故なら、あそこのそば屋のかき揚げそばの味が、忘れらなかったからだ。でも、現実は、スーパーで買ってきたかき揚げそばを食べた。それなら、新宿の立ち食いそば屋に行けばよかった思った。そばをちゃんとやっていて、かき揚げも注文の後に揚げる処で食べたほうがよかった。でも、とりあえずは、上記の『天ぷらそばのツライとこ』の文章で、食べたいと思った欲望ははたした。


 11月5日(日) 晴 8513

 高く上がった満月を、見上げると首が痛くなる。薄雲に隠れて、薄っすら浮かぶ満月もまた良い。今日は十六夜。どんな月が観れるか。

 今日最終日だったので、『江戸の琳派芸術展』を観に、有楽町の出光美術館に行った。つまり、酒井抱一と、その弟子、鈴木其一である。絵自体は多分、抱一より其一の方が上手いんだろうなと思う。が、抱一は尾形光琳を、再発見したり、今の琳派と言われる系列を、明確にした功績と、光琳を模写した屏風絵などは、なるほどと思った。それと、光琳の時からなのか、秋の枯れ葉などを描いている処なども面白いと思った。其一は、面白い絵を描く。これが、浮世絵に対抗できたのかどうかは、知らないが。抱一と北斎は、一つ違いで、若冲は、光琳が死んだ年に生まれている。その辺も面白いところだ。

 テレビで、2歳か3歳の女の子が、なんかやていて、「失敗失敗」と言い、それから「どうしよう、どうしよう」と言って涙を流して、最後は、「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせているのだという。スゲーなぁと思ってしまった。弁証法的というのか、三段論法というのか、人生の仕組みを、2歳にして分かっているような気さえする。早熟の哲学者なのかと思ってしまう。


 11月6日(月) 晴 11741

 昨日十六夜の月は大きかった。えーこんなに大きく観えるのか思った。今日はどんな月が観れるやら。思い立って部屋の片づけをする。思うように進まないのはいつものこと。また、少し続けようと思う。

 明日から、関西に行く。明日の夜は、奈良のホテルにいるだろう。


 11月7日(火) 晴 10368 奈良のホテルにて

 東京から新幹線に乗って、京都へ。JRで乗り継いで奈良へ着いた。駅前のホテルに荷物を預けて、昼食をとる。奈良の地元の名物うどん。それから三条通を東へ歩いて行く。桜通り、東向商店街を通り、猿沢の池を右に見て興福寺の境内を通り、奈良国立博物館へ。もうその辺には鹿がいる。『正倉院展』は、10分待ちだった。割と直ぐに中に入れたが、中は結構混んでいる。そして、老人ばかり。

 観終わって、帰り道旅行案内所で聞いたら、平城宮とか神武天皇陵って夜でも観れるらしい。でも、明かりは点いていなそうだ。あるとすれば、月明かり。それも風情があっていいかもしれないが、明日にする。これから夕食を食べ、風呂に入ってのんびりしよう。


 11月8日(水) 雨 18133 近江八幡のホテルにて

 早朝、空腹で目が覚めた感じで起きて朝食を取り、二度寝する。起きて、出掛ける準備をしようとしていたら、番組表に『山田風太郎が見た日本~未公開日記が語る戦後60年~』が始まっていた。出掛けられなくなって、見続けた。途中フロントに電話して、チェックアウト時間が過ぎることをいう。そうしたら、今回だけといって30分待ってくれるという。

 1960年浅沼稲次郎を暗殺した山口二矢が、鑑別所内で首つり自殺した遺書「天皇陛下万才、七生報国」を読み、15年前なら国民全員がそう思っていた。3歳で、終戦をむかえ15年間そういう気持ちを育んだのは、驚きだというようなことが書いてあった。三島由紀夫事件については、才能の老衰を恐れたのではないか。と言い、憂国によって死んだのではなく、憂国の舞台を自分で作り死んだというようなことを書かれてあった。赤軍派の一連の事件が終わった時に、これで完全に戦後が終わったと言わざるを得ない。と、記した。

 風太郎は常々、「余は傍観者」と言っていたが、番組の最後で、ゲストで出ていた、五木寛之が、傍観者というより、末期の眼であらゆるものを観ていたのではかいかと、言っていた。坂の下の霧を見る目るように、と。おそらく、司馬遼太郎との対比をしているのだろう。「坂の上の雲」に対して「坂の下の霧」と言って・・・。未公開の日記を三国連太郎が読み、時々啓子夫人が出ていた。しかも風太郎の自宅で・・・。

 そんな風にテレビを観ていたら出発が大きく遅れてしまい、予定も何もあったもんじゃなくななった。それから平城京へ行って観た。何を1番観たかったかというと、大極殿付近から、東大寺を観たかったのだ。雨が降ってもやがかかり観ずらかったが、何とか見えた。なるほどと思った。帰りのバスに乗って近鉄奈良駅前の大宮通に差し掛かった。すると、春日大社の鎮守の森の山から水蒸気が立ち上っていた。おそらく、こういう風景を古代の日本人が観て、神がいると感じたんだろうと思った。

 どうやら、アリミジータ・チコが死んだようだ。Facebookを観ていて気付いた。闘牛を見始めた頃、ラス・ベンタス闘牛場やセビージャの闘牛場で観たものだ。1番の印象は、92年10月だったと思う。ラス・ベンタス闘牛場で行われたフェスティバル闘牛で耳2枚切ってプエルタ・グランデしたこと。そして、翌年ラス・ベンタス闘牛場にふっかけてサン・イシドロに出場しなかった。こういうやり取りをメキシコ人の彼は良しとしたのだろうが、まるで不毛だと思った記憶がある。セビージャには出たけど、何もなされなかった。父親はメキシコの大闘牛士。大怪我をしたことがないことが特徴らしいが、マンサナレスとそれは一緒だが、それは闘牛のやり方が、安全を最重要に考えてやっていた証拠としか僕には思えない。それで、良い闘牛士?ホデール。それじゃ、エスパルタコと一緒で悪い方の見本でしかない。クルサードもせずに、パセの時に牛が遠くを通る安全な闘牛。それが良いとは思えない。アルミジータ・チコは良い闘牛を観た記憶があるが、マンサナレスはまるでない。むしろ、息子の今のマンサナレスの方がずっと良い闘牛を観ている。記録など数は重要には思わない。むしろその内容が重要なのだ。


 11月9日(木) 晴 16106 近江八幡のホテルにて

 朝食はホテルで取る。安ホテルなのに、美味しい朝食だった。目覚ましなしで起きて、用を足して、京都へ向かう。この時期、京都のホテルは高いので、滋賀にホテルを取っている。電車を乗り継ぎ、9時前に七条に着く。駅から人が一杯歩いている。通勤の感じの人もいるが、どうも国立博物館に向かっている人が多い。見えてきたら、もう、並んでいる。ここでは、9時前に当日券を売り、同時に、館内入れていた。『国宝展』の建物の中にも入れ、並ばせた。開館20分前だった。その後も、ドンドン人が並んで、目算で、500mくらい蛇行した列が続いた。1列4人。相当の人が並んでいた。9時半丁度に開館して入れたのは9時40分くらい。

 それから真っ先に2階へ向かった。1番観たかった神護寺に伝わる3つの肖像画。教科書に出てくる源頼朝の絵がこれ。『伝源頼朝』と、『伝平重盛』、『伝源光能』。10分くらいは間近で観ることが出来た。何よりマルローが絶賛した『伝平重盛』がじっくり観れたのが嬉しい。それから長谷川等伯の『松林図屏風』。雑なのか、細かいのが?全体で観る印象が凄い。安部龍太郎が書いた『等伯』は、この絵がモチーフになっている。隣が息子の長谷川久蔵の『桜図壁貼付』。これは智積院で観ているが、こんな近くで観れるのはうれしい。向いが円山応挙の『雪松図屏風』。ため息が出そうな絵だ。この3点は、どれも凄い。

 牧谿(もっけい)の『観音猿鶴図』の三幅。特に猿の親子が凄い。これを真似て等伯など、のちの絵師たちが手本としたような、猿の描き方だ。墨だけでこれだけの絵が描けるのが凄い。また、第Ⅲ期だけ展示される『金印』には、長蛇の列で40分待ち。待たなくても観れる。すべて国宝100%の展示だ。

 それから、修学旅行以来の三十三間堂を観た。向いにあるので行こうと思っていた。いわゆる仏師の慶派、院派、円派の仏師集団が、1000体の十一面観音立像の内500体が制作し、その名前が残されているという。運慶の名もあるが、訊いたら、伝運慶だという。これは基本的に金箔になっているが、前と両端にある二十八部衆像が国宝で、右端が、雷神像。左端が風神像。俵屋宗達が描いた、『風神雷神図屏風』は、これがモデルになった事が解る。玉眼がはめ込まれているので、よりリアルな感じが出ている。

 本尊の十一面観音座像も国宝らしいが、二十八部衆像の中で、凄いと思ったのが2つある。『婆藪(ばす)仙人』と、『摩和羅女』。この2つの像が物凄くリアルな感じだった。仙人の眼のあたりのシワや表情が凄い。摩和羅女も玉眼が入っているが、虚ろな表情で、しかし、両手はしっかり合掌されているが、どこか力が抜けたような感じがする。不思議な感じがする。たとえば、運慶の力強い肉体と、懲らしめるような怒りの表情は、素晴らしいと思う。一方、こういう、哀れを誘うというか、感じる仏像を観ると、強く魅かれる。何故なんだろうと思うのだが・・・。奈良・興福寺の国宝、阿修羅像のあの悲しげな表情も魅かれるのだ。

 それから、外回りを歩いて写真を撮った。遅い昼食を取り、行こうと思っていた処があったが、やめて、滋賀に戻った。


 11月10日(金) 晴 18469 野洲のホテルにて

 朝、寒かった。ホテルをチャックアウトして駅に行く。荷物を預け、レンタサイクルを借りて、安土城跡へ向かう。ここにはトイレがなく、手前の関係ない施設にトイレがあるのだが、200円と有料。仕方なく使うことにした。それから山登り。入口から石段を登って直ぐ右に、前田利家邸跡。左に豊臣秀吉邸跡。そういう配置になっているいた。信頼されているからだろうと思った。

 石段の修理をしている人たちがいた。10年経つと雨とかで石が浮いてくるのだという。手では持てないので、3本の木を組んで、持ち上げて位置を直していた。ここの石段は登り難い。歩幅が合わないのと、突然高いものがあったり、変化がある。二の丸跡には、信長廟があった。秀吉が一周忌を盛大にやるために造ったものだ。こういうとこもそつない。

 天守閣跡には、土台になる石が残っている。テレビで観て知っていたが、面白い作りになっている。天守閣の石組みに、石段があり、四角に組まれた石に囲まれた状態で、その中に天守閣が入るようになっている。しかも、今残っている石組みよりあと1m以上、上だったようだ。

 今建物で残っているのは、摠見寺(そうけんじ)の三重塔と二王門だけ。どちらも重要文化財。古く吹きさらしの状態で、三重塔などは朽ち果てそうだ。立派なのは瓦だけだ。でも、鬼瓦にさえ蜘蛛の巣がはってある状態だ。あわれな感じだ。入口に戻って、タバコを吸った。11時半を回っていたと思うので、2時間くらいいたようだ。

 近江八幡で、食事をしようと自転車をこいだ。近江八幡に戻って、白雲館で、若冲展と書かれたポスターを観て中を覗いた。話を聞いて食後に戻ることにして、近江牛を食べに行った。若冲展は、西陣織で若冲の動植綵絵を織ったのだという。撮影フィルムを観るようなルーペ?で、織られた生地が観れる。デカ過ぎて模様が分からなくなるのだが、なるほどと思った。若冲は、金色を使わずに金を描いた。そして、それを見事な感じに西陣織で織っていた。そのことを会場にいた西陣の人に言ったら、仰る通りで、織っていて気付いたそうだ。むしろ金を必要としない処に金を使っていた。縦糸と横糸を組み合わせるので、いわゆる点描の状態で絵柄を作る。その技法は若冲そのもので、しかも、偶然金色を使わずに、金色を感じさせるような織り方になっていた。実は、点描画の技法は、印象派以前に若冲が編み出していた技術であることが、最新技術で解明されている。西陣の新しい世界が、広がったような気がする。今は、帯だけでは食べていけないような時代だという。職人が若冲に挑戦して、こういう物で、活路が開けるかもということだった。

 その後、八幡宮を観た。さすがに古い処で、近江八幡の街並みを整備して、城下町の形を作ったのが、豊臣秀次なのだという。京都と同じ碁盤の目のような街。城の堀が今は、八幡掘になって残っている。観光船も通る。NHKの朝ドラ『あさが来た』で、あさが姉が嫁いで行くときに走ったのが、この八幡掘だという。他には、『るろうに剣心』などでもロケに使われた様だ。

 「やろうやろうと思っているけど、やる気がないですね。やる気がないと出来ないですね。」瓶を作っていた、引退状態の85歳の職人が言っていた。また、82歳になる陶芸家が、80過ぎてコンクールは止めて、楽しもうと思って今は作っているという。85歳の瓶職人は、その後、やる気を出して作品を作っている。こういう人たちの様に、やる気と楽しむを両立して、やっていきたいと思った。良いもの作ろうといきみ過ぎると空振りするかもしれない。すーと、普段通り入るのが1番良いのかもしれない。むしろ、何も考えないで無心になれれば、最高かもしれないと思った。

 多分、人生とはメビウスの輪の上を歩いているようなものかもしれないと最近思う。


 11月11日(土) 小雨のち曇 20403 野洲のホテルにて

 今年の外国人観光客は、すでに去年と同じ2400万人が来日したのだという。政府は、2030年までに、6000万人の外国人観光客を来日しさせる計画案を発表した。今日行った彦根城にも、白人観光客もしたし、韓国人も多かった。朝、NHKでその問題についてやっていた。デービッド・アトキンソンや、日本人の観光産業に携わる人たちが出て話していた。彼の主張は、暇な人たちが観光に来るのだから、経済を動かすような仕組みを作る必要があるという。相変わらず建設的な意見を発信している。こういう人の考え方が、日本の中で成果を上げているのだから、耳を傾けるべきだ。勿論、京都市などは、それに目をつけて活用している。

 彦根城も、安土城と同じ山城で、しかも、琵琶湖に面していた。信長の発想と同じだ。山城といっても安土城の方が険しい。天守閣が今に残っているので、国宝になっている。階段が急で登るのは、手すりを掴んでいないと登れない。彦根の町が一望できる。何より、琵琶湖の眺めの素晴らしい。そして、降りる時が怖い。手すりは勿論掴まないとダメだし、慎重に注意しながら降りるので、下に着いた時には汗が出ていた。

 築城410年ということと、NHKの大河ドラマ放送中なので、彦根城博物館、西の丸三重、開国記念館などで、NHKの映像などが、彦根城や、直虎、直政、直弼のものが観れる。井伊直弼は、黒船に乗ったアメリカのペリーの影響で、開国し日米修好通商条約を結ぶ。日本が中国の様に外国人に占領されることを防いだともいえる。だから、この地では直弼を讃えている。

 たとえば、NHKの大河でいえば、『竜馬がゆく』に代表されるように、安政の大獄で、徹底的に弾圧したイメージが強い。だから、恨みを買い桜田門外の変で、暗殺される。NHK大河ドラマの第1回は、『花の生涯』。主人公は、井伊直弼である。当時のキラ星のような映画スターたちの競演。話題になり視聴率32%を記録したという。『篤姫』で、直弼がたてたお茶を飲んだ篤姫が、「悔しい。こんな美味しいお茶を飲んだのは初めてです」という台詞がある。おそらく、篤姫は、直弼がやった弾圧も、明確な信念と正義でもって行われたことを悟った、シーンとして描いている。書を好み、禅を学び、一期一会を大切にし茶をたて、本を書いたという。能楽も新作の狂言なども制作したようだ。しかし、『竜馬がゆく』を書いた司馬遼太郎は、厳しく批判している。

 いずれにしろ彼は、相当の覚悟、死ぬだろうという覚悟をもっていたようだ。ここには、彼の銅像がある。それがこの街の人々の気持ちなのだと思う。

 最後は、楽々園、玄宮園の庭園を観る。素晴らしい処だ。池泉回遊式庭園。見応えがある。この庭から観える天守閣がまた素晴らしい。こういう風に庭園から天守閣が観える庭園は他にあるだろうか?庭園が見事でそれだけで凄いのに、なお素晴らしい。じっくり、観たので4時間くらいいて14時過ぎに昼食を取りに駅まで戻った。そして、町おこしの為に作られたB級グルメ、彦根丼を食べた。近江牛のすじの煮込みと特産の赤いこんにゃく。これが糸こんにゃくになっている。それと、温泉卵のようなものが乗っている。ここでしか食べれないものが食べれるのは、旅ならではである。


 11月12日(日) 晴 13632 守山のホテルにて

 朝、何処へ行こうか考えながらホテルを出た。駅で今日のホテルに電話したら、荷物を預かってくれるというので預けに行った。荷物がなければ、行動が違ってくる。そこで、長岡京へ行くことにした。乗り継いで長岡天神で降りると、ガラシャ祭りがあるという。取り合えず、長岡天神へ行く。池が大きく、びっくりした。錦水亭の辺りが紅葉が綺麗だった。ちょっと行くと、錦景苑の庭が、絵馬殿の下にある。ここの紅葉はまだと言っていたが、良い色になった紅葉が観れた。

 お参りしていたら、七五三だった。綺麗なべべを着た子供たちが両親に手をひかれ何組も来ていた。時間になりガラシャ祭りの行列の行進が始まった。継体天皇、清少納言、細川忠興、細川玉(ガラシャ)、明智光秀もいた。装束がそれにあったものを着ていた。交通規制などあって、バスの運行もルートが変わっていたりしていた。それで、行こうと思っていた紅葉の名所は諦めて、昼食を取り行くことにした。昼食後はJR長岡京駅まで行き、京阪の淀駅行きのバスに乗った。バスはだんだん混んで満員状態だった。淀駅には、京都競馬場がある。今日は、GⅠエリザベス女王杯がある。

 競馬場も人が一杯だ。でも、東京や中山競馬場よりはましだ。昨日は競馬場へ来なかったが、今日はせっかくの日曜日なので来てみた。なんか、観光した後の、落ち着かない中での競馬だったせいか、今一だった。軸が合っている・・・、って感じ。それでも、GⅠレースを京都で観れたのは良かった。勝ったのは、また、ミルコ・デムーロだった。そうだよなぁーと、思いながら競馬場にいた。明日は、一度行きたいと思っていた処へ行く。


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