断腸亭日常日記 2017年 8月

--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年のスペイン滞在日記です。
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 8月13日(日) 曇/雨 8510

 今日は親父の命日だ。供養のためでもないが、親父を思い出しながら親父の好きだった競馬をやった。言い訳に近いが・・・。

 宿の朝食を食べて、美味しいなぁと思った事があったかな。京都のホテルで食べて美味しいと思った朝食もあるが、そうじゃなくやっぱり、旅館だろうと思う。正直、スペインのホテルの朝食も何度も食べている。でも、いくら高いホテルに泊まっても、凄いなぁとか思った記憶はない。朝食は、ご飯でなければならいというのは、あまりにも狭い了簡だろうか。そうは、思わない。パリで食べた、バター入りのクロワッサンは実に美味しかった。フランス人が日本に来て、自分で焼くようになるというのは、判る気がする。だって日本のクロワッサンはまるでまずい。パリで食べたあの味は、忘れられない。でも、朝食はご飯が1番美味しいと思うのだ。

 ご飯とワカメと豆腐が入った煮干しだしのみそ汁。夏なら、キュウリと小茄子のお新香。キャベツのお新香でも良い。京都はだし巻き玉子が出るがあれは悪くはないが、好みじゃない。しょっぱめの焼き鮭。それと納豆があれば嬉しい。納豆には、玉子ではなく、大根おろしか、長芋か大和芋のとろろが合う。よく味付け海苔を出すところがあるが、それはそれで良いのだが、やっぱり海苔なら焼き海苔が良い。それに、千切り大根のような煮物が一つあれば嬉しい。

 何故そんなことを考えたかというと、『美の壺』で宿の朝食というのはやっていて、それを観たからだ。ホテルじゃなくて、宿。つまり旅館の朝食の話だ。昔、『ニュースステーション』で、「最後の晩餐」をいうのをやっていて、署名人に最後の晩餐に何が食べたいですかというのをやっていた。子どもの頃のアイドルだった江夏豊が、ご飯とみそ汁とお新香があればいいといっていたのに感動した。日本人だなぁと思ったのだ。いろんなことがあったが、いつまでも僕のアイドル。江夏の人生は誰がなんといおうと正しかったのだと思ったものだ。


 8月14日(月) 曇/雨 13937

 今週は天気が悪い。

 甲子園で負けたチームが、泣きながら甲子園の土を持って帰る。この風習は、伝説の海草中学の嶋投手が、甲子園三連覇を逃し決勝戦の後、無意識に甲子園の土を尻のポケットに入れた事から始まると、小学校の時に読んだ本に書いてあったと記憶する。しかし、今それを調べてもネットでは、そういう風には書いていないのだ。読んだ本が間違って書いていたのか、不正確だったのだろう。

 情報は常に更新され、最新のものが正しいとされる。科学の世界でも同じだし、医学でもそうだ。しかし、事実でなくても、嶋投手が甲子園の土を持って帰った伝説というのに、心ひかれる。海草中学が連覇しているが、はじめが嶋投手だが、翌年は違う投手だ。嶋投手が優勝した年は、準決勝、決勝とノーヒット・ノーランを連続して優勝している。これが最後で、出征し戦争で死んでいる。だから、今のプロ野球(昔風にいうと、職業野球)では、活躍していないのだ。

 しかし、子どもの頃読んだ本には、甲子園の土は嶋投手が・・・ということが書いてあった。何か間違いでも、そういう伝説というか言い伝えになっている頃があったというは、昔風で良い。人々に語り継がれる話になること自体がほのぼのしている。闘牛でも、そういう伝説があるのだろうと思う。そういう、アナログ的なものは、それが事実でなくても、何かを伝えているのだと思うのだ。正岡子規がベールボールを、野球と翻訳して、日本で1番人気のスポーツになった。だから、こういう風に、間違った伝説もあり、色々な言い伝えが出てくるのだろうと思う。


 8月15日(火) 雨 15383

 ずーっと雨。新宿へ出掛けた。用事を済ませ、雨が降っているので地下道を歩く。そんなに暑さを感じないのだが、髪の毛から汗がポタポタ落ちる。夏用のタオル状のハンカチがビッショリ濡れた。蒸し暑いんだろうと思う。そして、終戦記念日。

 モランテが13日のエル・プエルト・で・サンタ・マリアでのエル・フリとのマノ・ア・マノが終わった後に、引退宣言をした。理由は判らない。フリは、この日耳2枚、耳1枚、耳2枚と尻尾1つ取ったが、モランテは耳を切れなかった。それが原因なのかどうかも不明だ。下山さんは、充電のためだろうといっていたが、カルテルが決まっているフェリアも他の闘牛士が代替出場することになる。


 8月16日(水) 雨/曇 15017

 東京は8月に入って16日間雨が降っている。昨日は都内で局地的なゲリラ豪雨が降った処がある。

 京都では、五山送り火が行われる。つまり、大文字焼きである。盛岡では、船っこ流しがある。死者の霊をあの世に送り届ける儀式である。今年は、親父が死んで一周忌なので、戒名を書いたものを、舟に貼ってあるので、立ち会いたいのだ。これから盛岡へ帰省する。

 「  「Vamos nos encontrar novamente nos campeonatos mundiais!Amigo!!」(友よ!また世界の舞台で会おう)

 スルガ銀行チャンピオンシップ、浦和1-0シャペコエンセ」(15日、埼玉スタジアム2002)

 試合終了間際に得たPKを後半ロスタイム4分MF阿部勇樹が決めて、浦和が勝利した。対戦したブラジルのシャペコエンセは、昨年11月の墜落事故で選手・スタッフに多数の犠牲者を出してからの再建途上にあるチーム。エウトロピオ監督は多くの自然災害に見舞われながらも復興・再建へと歩み続ける日本の姿に感銘を受けた様子だった。

前日の会見でも「日本は再建するということに関しては世界のお手本になっている国」と話していた監督は、「同じように墜落事故からチームを再建している過程にあります」と語った。そうした経緯を踏まえて、「日本に来てみて、このように災害にあっても再建できるかというのが、この地を踏んで理由が分かりました。非常に計画立てて物事を進められるのと、受け入れも素晴らしいものがありました。全体の(試合に際して行われた)お祭り、お祝いにも素晴らしいものを感じました」と、日本の雰囲気やホスピタリティーについて言及した。

 試合はシャペコエンセにとっては厳しい判定でPKを取られイレブンは激しく抗議。勝利への執念を見せながら敗れたが、「シャペコエンセのチームを代表して、この機会をあらためて感謝いたします」と語った。」 ーーデイリースポーツよりーー

「この試合で主将を務めたDFグロリは、この横断幕に直接スタンドへ向けて感謝の意を示したと振り返った。「こんなにきれいなオマージュ(敬意)というのは、リベルタドーレス杯を戦う中でもありませんでした。日本の皆さんのおもてなしに感謝します」と感銘を受けていた。

 グロリはズラタンをエリア内で倒したと判定されPKを浦和に与えてしまった。この判定を不服として、数分間、試合が中断するほどの抗議をした。このことについてもすまなさそうに「試合の最後は取り乱してしまいまして、申し訳ないと思っています。亡くなった友人のためにもタイトルを取りたかったです」と、試合にかける意気込みからヒートアップしたとわびていた。」 ーーデイリースポーツよりーー

 浦和サポーターの気持ちは、シャペコエンセの選手や監督に届いたようだ。また、外国人が日本に対して、どう感じているかも判る記事だ。

 全米プロで、一時首位に立っていた、松山英樹は最終日の後半に失速して5位になった。試合後、「何をしたら勝てるのか分からない。(メジャーを)勝てる人になりたい」と、松山は語ったという。こういう気持ちがあれば、いずれメジャーを勝てると思う。テニスの錦織圭よりは、ずっと近くにいると思う。


 8月17日(木) 曇 19755

 昨日は盛岡へ着いてタバコの後、昼食を取り交番へ行った。お寺を確認したかったからだ。でも、交番は閉まっていて、旅行案内所へ行く。そこで盛岡の地図を見せられて見当がついた。叔父さんのお墓がある寺は、開運橋と夕顔瀬橋の間にあるはずだった。その間には2つしか寺はなく、大きい方の寺がそれと判った。しかし、直ぐ近くに光源社あるのは初めて知った。宮沢賢治が『注文の多い料理店』を初めて出版した処だ。

 駅から歩いていくと光源社があった。その50mくらい先に寺の入口がある。門の前では、花を売っていたので、それを買い墓の場所をお寺の人に訊いた。お爺ちゃんもお祖母ちゃんもいるところだが、子どもの頃の記憶しかない。案内してもらい墓参り。この墓には、33歳で死んだいとこも眠っている。叔父さんは、去年の8月20日に死んだ。こっちも一回忌。親父と1週間しか違わない。

 それから光源社に寄り賢治の小さな資料館を覗いたりした。喫茶店は満席で外まで並んでいた。駅に戻り電車に乗り最寄りの駅で降りて、南部せんべい屋で買い物。家に帰り仏壇に手を合わせた。線香とロウソクを用意して、墓参りに行った。花が飾られていたので、昨日辺り叔父さん達が来ていたんだろう。家に戻り、帰ってきた弟と話をした。テレビをつけたらニュースで舟っこ流しの中継が始まった。予定よりも早く始まったようだ。うちの町内は6番目なので、それから10分くらいしてから向かった。

 家から会場までは、5分もしない。子どもの頃から通っている。でも、区画整理されているので昔と道がちょっと違う。この辺は、東北本線に踏切があったり、なくなったり色々しているので慣れている。北上川の河原は整理されていて見やすくなっている。今は観光にもなっていて、地元の仙北町だけでなく、舟の担ぎ手が県外からも来ているようだ。子どもの頃は、一面草ぼうぼうで、かくれんぼしたり、大きな穴を掘って遊んだりした処。

 こんな盛り上がりもなかったし、非常にさびれたお祭りだった。河原に出店が一杯出ている。お盆過ぎの送り火なのでそれで良かった。舟に火をつけて時々花火が鳴る程度だったが、今は花火は結構長く鳴っている。お寺の行き帰りに家のまで送り火を焚いているところもあった。親父の墓のあるお寺からも舟が出ていた。境内に舟が置かれてあるところがあった。ここだけが、赤ふんどしをして舟を流す。

 燃えている舟を肉眼で見ると鮮やかだ。写真に撮るとその色が出ない。人の目は、カメラよりも優秀だ。去年は、叔父さんが参加していたが、確認できない。今年ははじめ遠くて観ていたから判らないのだ。うちの町内の舟が終わったが最後まで観た。それから灯籠流しが始まった。船着き場のような処から流さない。水辺でも流さない。北上川の中に入って、みんな並んで手渡して灯籠を渡して川に流す。ロウソクの光が明治橋の方に流れていく。

 日が暮れて舟が燃える炎や、灯籠の明かりが、子どもの頃綺麗だと思った。暗闇の中で揺れる火の光は美しい。その中に、死者を送る気持ちを人間が込めている。死は美しいものではないのかも知れないが、死者を美しいものにするためにこのような儀式があるのだろう。舟っこ流しの派手さは、黒人が、『聖者の行進』で派手に葬式をするのに似ている。そういう風に人は悲しみだけでなく、残された人たちの未来の肩を押す役目も担っているのだろう。灯籠の静けさも好きだ。あのほのかな灯りを観ていると、心が清められるような気になる。

 北上川の河原で、親父に石投げを教えてもらった事。土をバケツに入れて、家の花を植えるときに使った事。この河原には色々な思い出がある。火はそういう思い出を、想起させ、浄化させる。その下には、昔も今も変わらず、北上川の水が流れている。


 8月18日(金) 晴/曇 17823

 2時頃、闘牛の結果を見ようとMundotoroを観たら、バルセロナのランブラス通りで13人が死に、多くの人が怪我をした記事が出ていた。闘牛の専門サイトに異例の記事。早速、各新聞のHPを観た。情報が錯綜していて、死者が3人の処や、10人の処もある。怪我人も1番多く書いている処で32人だった。その後、死者13人怪我人100人と発表された。一時、犯人の1人が近くのバルに逃げ込んで、立て籠もっているという情報で、警察が外に出ないように呼びかけているという話も出たが、犯人は警察に拘束されたと発表された。しかし、実行犯は未だ捕まっていないようだ。

 THさんは、バルセロナに住んでいるが、直前にフランスのベジエに闘牛を観に行っている投稿がSNSに載っていたので大丈夫だ。SNSにMundotoroの記事をシェアしたら、直ぐに書き込みがあった。日本人に被害がないといっていたが、知り合いも住んでいるので、ランブラス通りって、誰でも歩くところなので、事件に遭遇していたのかも知れない。歩道と車道を遮断するガードレールのようなものがないと、こういう風な自動車暴走のテロが起こるのだろうと思う。前日に爆弾が爆発する事件や、近郊でも自動車テロと思われる事件も起きている。ランブラスのテロには、爆弾の使用が計画された可能性もあるという。


 8月19日(土) 曇/雨 17063

 昨日は、国立博物館へ行って、『タイ ~仏の国の輝き~』展を観に行った。面白いものを観た。仏陀像が大蛇の上に座して、その後ろにある光背というのが、その大蛇の頭部がコブラの様に平たくなり後光のようになり、その中に8つの蛇の頭もある。ポスターにもなっているその像が印象的だった。戻ってきて床屋に行った。夜、『ファミリーヒストリー』小野洋子(ジョーン・レノン)を観る。安田財閥の娘が母親の小野洋子。戦中戦後の混乱期や、前衛芸術家として活動した初期の頃の苦労など。しかし、最もビックリしたのは、ビートルズ解散後、ジョン・レノンが出した、『イマジン』の歌の歌詞が、小野洋子から強い影響を受けて書かれていた点だ。最近になって『イマジン』は、ジョン・レノンと小野洋子の共作と認められたという話。それを、ずっとジョンの作として、陰に隠れていた小野洋子も相当なものだと思った。

「人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ」と、いうイマジンの歌詞は、小野洋子の父方の祖父、小野英二郎の日本銀行時代の講演の言葉に似ている。「世界の人種は、つまり平等で差別するということはいけないという事が、私の持論です。世界のために貢献すること、自国の国民の利益だけを図らずに、その国民の努力によって、他国民にもその恩恵を受けるようにすることが、最も必要であります」


 「京都のには、あの世とこの世の境がある」というが、盛岡に帰って、舟っこ流しを観ていて、ひょっとしたらと、思った。恐山の前にある三途の川に架かる三途の橋という結界がある。あれと同じように北上川がその結界に感じた。そう、あの世とこの世の境。多分人は、身近にあるものを引き寄せてものを考える。アイヌは、身近にいる熊が神になった。スペイン人は、身近にいた牛が神になった。それと同じように仙北町の人たちは、身近にあった北上川があの世とこの世の結界になったんだと思ったのだ。だから送り火を、戒名を舟に貼って燃やすのを思いついたんだと思う。


 8月20日(日) 晴/曇 6651

 昨日は、別の作業をしていてPCを閉めたときには、もうHPをアップしていると思っていたが、駅について考えたら、きょっとしたらし忘れていた?と、確認したら、忘れていた。こういう日もある。滅多にないが、しょうがない。

 今週は涼しい日が続いたが、雨が降ると外に出掛けたくなくなる。美術館へも行かなければと思っているがなかなか思うようにいかない。でも、明日からの1週間どれだけいけるか?開催日とのかねあいもあり、ネットで調べて、1つずつ行ってみようと思う。


 8月21日(月) 曇 9796

 月曜日は美術館が休館の処ばかりだ。しかし、『写真家 チェ・ゲバラが見た世界』展は見れる日だった。しかも、20時までやっているので夕方、恵比寿に出掛けた。昔のサッポロビールのビアガーデンがあったところが再開発で、恵比寿ガーデンプレイスなどになっている。そこのガーデンルームが会場で、隣には、東京都写真美術館がある。こっちは、今日が休館日。

 父親からカメラを貰い、写真を撮り始めたゲバラ。医学部を卒業後、医者にならず、通信社で働き、メキシコで行われた、パンアメリカン陸上大会の取材をする。競技の撮影や記事を書いていた。取材に来ていた人たちの案内もこなしたという。キューバ革命以前の写真から、革命中や革命後の写真。そして、ボリビアで死ぬ前のものなど。革命後の家族写真もあった。

 キューバの要職を退き、国籍も返上して、ボリビアに潜伏すると、老人に変装している写真もあった。アメリカから要注意人物としてマークされていたのだろう。

チェ・ゲバラ語録に、革命は大勢の平凡な人民の誠意ある努力を礎にして築かれる。『革命戦争回顧録』
私は言われているような人間ではなく、自由を愛する者にすぎない。(ハバナ入城後、拠点にしたラ・カバーニャ要塞で内外のテレビ局や取材に答えて)
よい革命家になるように育ってほしい。懸命に勉強し、技術を学び取ってほしい。重要なのは革命だ。我々は誰も独りぼっちでは意味がない。世界のいかなる場所であろうと不正があれば、それを敏感に感じるようになりなさい。それが革命家の最上の特質なのです。(1965年、キューバを去る際に子どもに向けて書いた手紙から)
もっとも大切なことは、権力を握ることではなく、握ったなら何をしようとするかを明らかにしておくことだ。(キューバへ侵入を前に、メキシコ市郊外でのゲリラ訓練中に仲間たちと話し合った際)

 家族と一緒に過ごしている時の写真が1番印象的だった。本を読んでいる奥さんにおどけている処とか、子どもを撮った写真など。10月6日から映画もある。それも出来れば見に行きたいと思った。


 8月22日(火) 曇/晴 11077

 ふと思った。冷蔵庫に肉が切れて、買うと仕事の関係上、傷むなと思って、厚揚げを買ってきて、塩焼きそばの具に入れたのだ。それが美味しかった。そんなことをしていたら、ふと思ったのだ。家では出来るだけ肉を食べずに、厚揚げとか納豆とか大豆のタンパク質を取っていれば少しは痩せるのではないかと思ったのだ。

 99年ぶりに皆既日食が横断するアメリカでは盛り上がっているのだという。こういう平和なニュースが良いとツイートした人がいた。その通りだと思う。

「♪追いかけて 追いかけて すがりつきたいの あの人の消えてゆく 雨の曲がり角♪『恋のフーガ』ザ・ピーナッツの歌

 なかにし礼 ザ・ピーナツの『恋のフーガ』っていうのは、1人は「主」で1人は「従」で。これは2人だから出来ることは何かないかと、主和音がタリラーリラリラリラリラって。 野村達雄 小フーガ ト短調ですね。 礼 そうすると、今度その下で、タリーラと、ずーと追いかけていく。追いかけていくけど、彼らは決して交わらない。どっかで交わって集結するってことはない。交わらないままフーガで終わるわけ。イタリア語でフーガは、逃げるという意味だから、ですから、逃げる、追いかけるということで、これをピーナッツに当てはめてみよう。

♪初めから 結ばれない 約束の あなたと私♪ザ・ピーナッツの歌

礼 初めから結ばれない約束のあなたと私。これフーガのことを言ってるわけね。 野村 初めから結ばれない2つの旋律が。ハハハ。 礼 ということで、出来上がるんだけど、簡単には出来上がらない。 野村 ハハハ。 礼 考えつくのにね、そうじゃんって自分で思うのに何時間かかかったんですけど、あなたのやってることと凄く近いと思わない。 野村 はいそうですね。僕の場合は、ゲームを作るにしても何にしても、そのコアには、まず最初に何をしたいのかというのがあって、さっきの恋のフーガだったら、フーガに合わせてどういう肉付けをしていくのかって、そういうような作業があります。 礼 そうですよ。苦労はしないって。苦労はしないけど、苦心はしますよ。細心の注意を払って書くわけだから、苦心することも楽しいし、色んな事を考える。 野村 なるほど。」 ーーNHK Eテレ『スイッチ・インタビュー 達X達 なかにし礼X野村達雄』よりーー

「礼 ある日、寝ていたらバーンって、枕蹴られて、「こら、起きろ」っていわれてね、その時突然僕の人生が始まった。ベートーベンの運命みたいな音でね、ジャジャジャジャーンって鳴って開幕した訳ですよ。まず1番怖かったのは、8月11日の朝ねぇ、ソ連軍機が編隊で飛んできて、爆弾落として僕の頭上を超えて、道1本隔てた向かいの陸軍兵舎に落ちたということから始まって、家の母と姉と僕と3人でとにかく脱出しようなったんですけれど、実は、牡丹江の町に引き揚げ列車を出せという群衆が5万10万うわーと、阿鼻叫喚なっているわけ。そういう民衆がいる中を、ソ連軍と戦う為にいる関東軍が、ソ連軍が攻めてきたら逃げ出すという現象を観るわけですよ。そこまた家の母親の決断ね。これを、引き揚げ列車を待っていたんではとても乗れない。 野村 帰れない。 礼 日頃家は、関東軍にお酒を納めていましたから、じゃ関東軍に掛け合おうといって掛け合って、軍用列車にうちは潜り込んだ。この時はね、それは後ろめたい気分なんですよ。でね、逃げる軍人もねぇ、みんな無口で、全員後ろめたいんでしょうね。そういう処に僕たちは潜り込んで、牡丹江を脱出した。 野村 それもう6歳の時ですよね。 礼 日が明けて見ると、向こうの方からソ連軍機が3機ほど飛んでくる。うなりを上げて。うちの母が、あなたは小さいんだから椅子の下に隠れなさいと、いって僕のことを椅子の下に押し込んで自分たちはわらわらと逃げてったわけ。たまたま僕の頭の前10cmくらいのところを、バリバリバリってミシンで縫うように弾が飛んでいったんですけど、通路にいた人たちは当たって死んでいくわけ、みんな血を流して。僕は助かって呆然としたんだけど、その瞬間あー、僕は母親に見捨てられたという意識を持ったわけ。 野村 感じたんですね。 礼 母であろうと。恐怖のさなかでは子どもの手を放して自分だけ逃げた。それで母が僕に言ったのはね、私は選択が間違ってた。しかし、こんな事は今後当然いくらでもあるだろうから、あなたはもう今この瞬間から、自分で逃げること。自分で生きることを考えなさいって、6歳の息子に家の母が言ったわけですよ。でも僕はねぇ、はい判ったと思って、その瞬間ね僕はね、すーと目覚めましたね。もうそれから泣かないわめかない、足手まといにならないぐずらない。 野村 なんかこう切り替わったんですね。 礼 パッと切り替わって、そっから、いろんな意味で自分で選択して生きるっていう方向を選びながら生きてきたということが、戦争が僕に教えてくれた、すごい大きなことだったと思いますね。 野村 そこから日本に戻る事になると思うんですけど。 礼 それでね、僕たちはハルビンからいわゆる石炭を運ぶ無蓋車。真っ黒な屋根のない汽車に乗せられて遼東半島の葫蘆島(ころとう)という処まで何日もかけて行って、波止場の方に向かって行ったときに、初めて海を見たときの、ぱぁと見たときの感動たるやね。それはもう、なんていうのかな、戦争が終わったという感覚と、助かったという希望を感じましたね。 野村 そうやって舟に乗って日本まで帰ってきて、そこから帰ってきたときはまだ8歳。 礼 8歳ですね。 野村 その疎外感っていう。その満州にいても、中国人がいる中に日本人としていて。 礼 中国にいた時に異邦人感覚、よそ者感覚を持ち、日本に渡ってきたら今度満州からの異邦人感覚を持つっていう、不思議なね、だから、何処へいてもそういうよそ者意識というのはついて回るもので、たぶんそれは、野村さんも感覚的にそれは持っているかなと思いますけど。 野村 はい。 礼 それは僕の一つの人生観なり、ものの考え方のコアとして僕の中にずっと離れないであるもんだからと思ってますよ。その感覚が、僕の中である種、国境というものが消えたんですね。バーダーってもんが。 野村 なるほど、そのハレルヤって言葉を本の中でも書いていたんですが。 礼 僕は戦争というものを封印してたわけね。思い出したくないと言うことと、思い出しても誰とも会話が出来ないし、この意識を持っている限り友達も出来ない。経験が違うから。と、思って開かずの扉に閉じこめていた記憶を、実はこれを掘り返さないと僕自身が自分を見失ってしまう。僕の大事な経験は戦争にあるんだ。そこを掘り返して歌を書こうじゃないかと、思って書き始めた第1作なんですよ。

♪ハレルヤ 花が散っても ハレルヤ 風のせいじゃない♪黛ジュンの歌

礼 『恋のハレルヤ』っていうのはさっき言った葫蘆島のキャンプから波止場に向かってね、ずーと歩いてく坂を。上がりきってふっと見るとバーと海がね、真っ青になって、真っ青な空があって。そこに我々を乗せていくに違いないフリーエイト艦が停泊していて。 野村 初めて見る海。 礼 いやー助かった嬉しい。神様ありがとうみたいな気分。とにかくひざまずいてしまうほどの喜びを感じた。こういう喜びって言うのは何なんだろうなと、僕は子供心に思った。ある程度年を取ってきたら、これはバビロンの捕囚ね。のユダヤ人達がイスラエルへ帰ることが決まった、あの喜びがきっと、ハレルヤというものであったろうと思ったんで、僕はこのハレルヤという言葉を使ったんですよ。そして中に書いている詩の文句は、ハレルヤって、花が散ってもそれは風のせいじゃない。戦争で負けても戦争そのもののせいじゃないと。我々は日本という国を愛したけど、なにも愛されたくて愛したんじゃない。燃える思いをぶつけてだけだというような。日本という国と満州という消えていく国を歌って、日本への愛情を恋歌として作ったのが、『恋のハレルヤ』なんですよ。 野村 聴いてる人は『恋のハレルヤ』ってタイトルなので、恋愛だと思っているわけですよね、みんな。 礼 いいんですよ。それでね、そのことに対して良く分かんないけどハレルヤ。良いじゃない、響きがとかいって、僕の秘めた思いは誰も分かってくれないけど、でもそれで良いんだなと。それからもそういう歌を書きましたよ。

♪顔も見たくないほど あなたに嫌われるなんて とても信じられない 愛が消えた今も♪『人形の家』歌・弘田三枝子

礼 『人形の家』という歌だってね、みんな何か悲しい恋の歌だっと思ってるでしょうけど、あれは、避難民収容所に我々ゴロゴロね、コーリャンかゆを食べてやせ細っているのに、満州で捨てられた日本人の気持ちを、では恋の歌にしてみたらどうなるんだ。書いてみたら、ほこりにまみれた人形みたいってなった。捨てられて、捨てられて、忘れられた。ていうそういう言葉になってね来るわけで。

♪埃にまみれた人形みたい 愛されて捨てられて 忘れられた部屋のかたすみ 私はあなたに命をあずけた♪『人形の家』歌・弘田三枝子

礼 恋の歌としては、重い別れのかもしれないけれど、僕としてはそういう風にして自分たちが味わった悲しみや苦しみを、恋の歌に置き換えて書くっていう作業をしたことによって、僕は作詞家になれてきたんじゃないかな。また、自分が戦争の記憶を掘り起こした事によって、作詞家になれたということなんですね。」 ーーNHK Eテレ『スイッチ・インタビュー 達X達 なかにし礼X野村達雄』よりーー

 訊いていて深いと思った。子どもの頃聴いていた黛ジュンや弘田三枝子の歌がそうやって作られていたことにある種、感動すら覚える。当時聴いていた歌も好きだが、なかにし礼、凄過ぎ!変換するって事が、重要だと言うことを、なかにし礼は言っている。


 8月23日(水) 晴/曇 18476

 昨日佐倉まで行って、漆の展示を見てきた。漆を塗って、乾かす。塗って乾かすを繰り返し漆器が作られる。乾かすという感覚は、洗濯物を乾かすと同じではない。風通しの良い高温の処、または、直射日光に当てるなどを想像するが、漆を乾かすというのはほぼ逆の事をする。湿度が高く、高温という環境。具体的言えば、湿度は70%~85%、温度は24度~28度、空気の動かない場所という条件でないと漆は乾かない。普通室内には湿ったタオルなどが置かれたりしている。

 漆が乾くのは、化学反応によって起こるらしく、漆器は、及び、漆の生産は、中国、朝鮮、日本の他には、東南アジアである。江戸時代にタイ産の漆が日本産の何十倍もの値段で取引されていたという。これは、タイ産の漆が乾くと黒い色になったからだという。蒔絵、螺鈿などを使った漆器は、輸出されたが、その漆器の基本的な色が黒だったからだろうと思う。ウルシ科の物では、マンゴー、ピスタチオ、カシューナッツなどある。マンゴー農家が収穫時にかぶれる人がいるというのは、ウルシ科の食物だからだろう。

 なお、漆の産地がいずれも湿気の多い処であるのは、まさに漆の特性に合っているからということのようだ。スペインの様に乾燥した土地では、漆器は作れないだろう。だからだろうヨーロッパに輸出された漆器が人気を集めた。そして、日本産の漆器が細工が細かかったり、デザイン、柄や色が美しかった。


 8月24日(木) 晴 15582

 今日は暑い。残暑である。NHKでは、熱中症に気を付けるように呼びかけている。薩摩で震度4の地震があり、東北では雨が降り続いている。

 ビルバオの闘牛が行われている。アントニオ・フェレーラのファエナのダイジェストは見たが、初めの牛では、脇が開きすぎで昔のファエナのようだったが、2頭目の牛では、ちゃんとやっていた。でも、観客へのアピールをするような感じがあった。それ以外は、良いと思った。今年のサン・イシドロでやったファエナのような闘牛が好きだ。だから、ああいう風に淡々と、牛との対話のようなファエナが観たい。闘牛士は、レマテの後に、観客にアピールしたりするが、それをしないところが、グッと来たのだ。個人的な希望するのかも知れないが・・・。それまでは、耳1枚の時が多かったが、観客にアピールしないファエナが多く、今年闘牛を観るならやっぱり、フェレーラだなと思っていた。これからもそういうファエナをやって欲しいと思うのだ。

 ビルバオのクーロ・ディアスも良かった。ムレタ捌きが良いと思った。パコ・ウレニャのドタバタ気味のファエナも良かった。剣刺しが良いと思った。エスクリバノは、ビクトリーノ・マルティンの牛で、パセの繋ぎ方が良かった。今年闘牛観るなら、フェレーラ、ヒネス・マリン、ファン・デル・アラモだと思う。ところで、ラス・ベンタス闘牛場のオトーニョのアントニオ・フェレーラとパコ・ウレニャのマノ・ア・マノは、アドルフォ・マルティン牧場の牛。これがビクトリーノ・マルティン牧場の牛だったら面白いと思う。


 8月25日(金) 晴 15762

 秋田・岩手に降り続いた雨は、24時間で200mmを超えるところが出て、日本3大花火大会で有名な、大曲の花火大会の会場が水没したという。この大会は、日本中の花火師が腕を競う大会で、内閣総理大臣賞など評価を与えられる。ここ何年かは70万人以上を集める最大級の大会になっていて、関係者はやきもきしているという。

 何か山本健吉の『いのちとかたち』をじっくり読んでみたい気分になっている。序章 那智滝私考 第一章 二つの肖像画 第二章 「影」と「たましい」と など、タイトルだけでそそられる。勿論、内容も。断片的に読んでいるが、通しで読んでみたい。


 8月26日(土) 晴一時雨 10655

 目覚ましをかけずに寝て、6時前に起きた。それから、散歩に出掛けた。朝は涼しい。良い感じで散歩が出来て嬉しい。温度も低かったので、汗もそんなにかかずに散歩が出来た。昨日は酒を飲んで眠くなってそのまま寝た。その方が、すっきり起きれるようだ。東京は、8月に入り21日間連続で雨が降った。これは昭和52年以来40年ぶりだった。日照不足で、野菜が高騰している。収穫量が減っているからだ。

 東京都写真美術館へ、『荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-』を観に行った。写真展のポスターにもなっている舟に乗って寝ている妻陽子さんの写真。新婚旅行を撮った『センチメンタルな旅』から40年以上。まるで胎児のようになって寝ている。そして、91年の陽子さんの葬式。寺の長テーブルに一杯の人。その中で、たぶん作家の中上健次だけた立って何かを言っていて、その正面に膝を立ててアラーキー(荒木経惟)が両腕を広げてその言葉を受けている写真。アラーキーってこういう人なんだよなぁ、最愛の人が亡くなっても・・・。

 写真集『センチメンタルな旅』で、前夜の2人の跡が残っている布団にかかっているシーツを、撮った写真は有名になった。この写真展、5.食事の処に載っているアラーキーの文章が良い。「退院してからは、より愛情をこめて料理してくれた。
 陽子は知っていたにちがいない、あと1ヶ月の命だとゆうことを。いままで、マクロレンズにリングストロボをつけて写してたのを、モノクロに変えた。テーブルライト1灯、三脚つけてF32 1秒。
 長い1秒のシャッター音が忘れられない。食事は死への情事だった。」

 陽子さんが死んだあと、空ばかり撮っていたというが、家のベランダからの写真が多い。チロという猫が残った。陽子さんが亡くなってからの写真は、ちょっと観ていて切なくなる。わたしの写真は私写真という、アラーキー。その中心にあった陽子さんという存在が欠落している。その不在は、ベットにチロがいることで、より鮮明になっていたりする。父親が死んだとき、カメラマンとしても、個人としても死に顔を撮りたかったのに撮れなかったと、悔やんでいたが、陽子さんの棺に収められた写真をしっかり撮っている。去年父親が死んだとき、父親の死に顔を撮った。叔父さんが何撮っているんだと怒っていたが、弟も叔母さんも何も言わなかった。僕はアラーキーの事を思い出して写真を撮っていた。

 最近は、北斎の画狂老人をもして写狂老人を名のっているアラーキー。撮り続けろ、命つきるまで。と、思った。


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