断腸亭日常日記 2017年 1月 その1

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年のスペイン滞在日記です。
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 2017年1月16日(月) 晴 13286

 結局、日曜日11時前に京都の馬場状態を調査するというアナウンスが流れ、中止になった。芝の上に雪が積もっている状態では、馬は走れない。滑って骨折するからだ。中京は、今日開催され、京都は、明日開催されることになった。4日続けての競馬というのも、大変だ。

 ところで、闘牛は動き始めている。アルルや、カステジョンのカルテルが発表になった。そして、ラス・ベンタス闘牛場の情報も入ってきた。タラバンテは4回出場するようだ。それより何より重要なホセ・トマスの情報である。興行主のシモン・カサスは、サン・イシドロには、ホセ・トマスは出場しない。しかし、ベネフィセンシアの出場すると言っている。情報が複数ある。詳しく書いている最新情報では、6月にベネフィセンシアをやり、ビクトリアーノ・デル・リオ牧場の牛で、ホセ・トマス、ホセ・マリア・マンサナレス、ロペス・シモン。あと、コリーダ・デ・プレンサで、ヌニェス・デル・クビジョ牧場で出場する様だ。

 いずれも、6月の出場だ。この情報通りなら、想定した通りだ。THさんに、シモン・カサスが興行主になったらホセ・トマスが出場する事。また、出るとすれば、サン・イシドロではなく、終わったあとの6月に2回くらい出てくると、予想を伝えた。プレンサやベネフィセンシアは、大きな枠で言ったら、サン・イシドロの中に入っているが、アボノには入っていない。が、6月に2回という予想は当たりである。

 『京都人の密かな愉しみ』風に言えば、これは私の持論だが、興行主というのは二種類しかいない。ホセ・トマスを呼べる興行主と、呼べない興行主である。呼べない興行主が、ラス・ベンタス闘牛場を持っていては、意味がない。観客を愚弄している。興行主の資格がないと言いたい。しかし今年は観れる。6月のホセ・トマスを観に行く予定をたてることにする。


 1月17日(火) 晴 13256

 昨日仕事が終わって夕方新宿で宮さんと会った。1日も会って話をしたが、色々難しい状態になっている。話を訊いていて、どうも、誤解していることが積み重なっている様な気がした。飯も食わずに、話を訊いていて、肩がこってきた。怒りである。どうして、そういうすれ違いのようになってしまったのか。宮さん、今の状況に、体力も気力も使い果たしたような状態になっていた。俺が横から、何かをしようとしても、上手く行くかどうは分からない。

 映画の方の『信長協奏曲』の結末は、想像通りだった。落としどころというのは、大体想像が付く。物語なら想像できることも、現実には、どうなるかは、意志が働くことがあっても、流れのままになることもある。

 「思いが全て伝われば、誤解もすれ違いも、勘違いも生まれません。伝えることは難しいことなんです。」 ーー『べっぴんさん』からーー


 1月18日(水) 晴 4918

 日が暮れてから、寒くなり、朝は耳が痛くなるくらい寒くなってきた。20日は東京でも雪が降り、積もる予報の様だ。

 「リノベーションのプロの大島芳彦の原点の話。学生時代面白そうだからと、旧米軍住宅に手を入れながら住む。5万円の家賃を友人と折半。美術大学の建築科に進学していた。壁に絵を描いたりとかしていたら、休みに子供たちが遊びに来た。警察も不審に思い良く来たという。卒業後、大手建築事務所の就職。独創的な建物のデザインを作りたい。仕事に没頭した。2年後、不動産屋を営む父親から相談を持ちかけられた。古くなった手持ちの物件に借り手が付かず、空室が急激に増えているという。ショックだった。建物というのはこれほど簡単に価値を失う物なのか。

 その時、あの米軍住宅を思い出した。建物が古くても、工夫して住みこなす楽しさがあった。物件の一つを試しに改修してみた。古い2Kをしゃれた1Kに。家賃8万5千円でも人気がなかったその物件は、12万円で借り手が付いた。その時、直感した。これからは古い建物を生かす時代だ。自分の稼業と、学生時代楽しいと思った事が、やっとそこで一緒になった。

 「豊かさを 量を求めようとすると、際限がなくなってしまう。で、それを追い求めるのは、ものすごく貧しい考えになる。なので、今与えられた環境で、どう暮らしを豊かにするかを、考えるということの方が、楽しいし、豊かさを感じますよね」

 建築事務所を辞め、友人とリノベーションを軸にした事業を立ち上げる。斬新なデザインは注目を浴びた。間取りも用途も好きなようにしてくれと、依頼主に言われ、腕を振るった。しかしそこに、落とし穴があった。リノベーションしたはずが、手荒く扱われ2・3年で借り手が付かないようになった。一体何が欠けていたのか?浮かんできたのは、一つの思いだった。「持ち主の思いを、変えられたいたか?」

「大家さんから、おまえら任したぞといわれると、うれしくなってたんですよ。「任した」って言われることは「任してください」と。だけどその「任せたぞ」っていう言葉が、その、当事者意識の放棄って言うか、人任せっていう見方をすると、決していいことじゃなかった。だから、最初はハコ(建物)を気にしてたんですよ。で、「ハコよりも、その大家のマインドの方が大事だな」と。大家さんのマインドが変わらなければ、今までと変わらないな。昔と変わらないんだな。」

 以来、大事にするようになったのは、依頼主との話し合い。建物、そして家族の歴史まで、徹底して掘り下げる。建物やその土地の歴史を考えることで、思いを育んでいく。建物を守るのは、人のつながり。これが確信だ。」 ーー『プロフェッショナル 仕事の流儀』建物を変える、街が変わる 建築家・大島芳彦より(前半)ーー

 おそらく、仕事という物は、限定した制約のある中で、いかに工夫してやりこなすかと言うこと。制約がない、自由な物からは、良い物が生まれないのかも知れない。スポーツにはルールがあり、建築には、その土地と建物と予算という制約がある。闘牛には、レグラメントがあり、相手にする牛がいる。その中で、いかにやるか。それが、大事な事なのだろう。


 1月19日(木) 晴 7098

 朝、歩いていたら蝋梅に気づいた。白い花ではなく、黄色い花をつけていた。よく観ると蝋梅の花は、花びらが薄く、透けるような花びらだ。お寺などにもよくある。冬のこの時期に咲く。寒風に吹かれて、それでも、けなげに揺れながら咲いている姿は、何とも言えな。口には出さず、自分では言わないが、逞しいのだ。1年で1番寒い頃に花を咲かせる蝋梅。枯れるとドライフラワーのようになってそのまま花が付いている。そうなるともっと透けて見える。そのたたずまいもまた、可憐だ。

 『ガッテン』トマトの選び方だった。トマトは青い内に収穫する。赤いトマトは、収穫後に変化する。トマトの糖度は、収穫時に決まっている。トマト選びは、赤いトマト、青とトマトという色では判断できない。トマトの原産地はアンデス山脈。そこのトマトは糖度は12。何故甘くなるのか。降雨量が東京の1/10。光合成によって、葉から実の方へ糖が送られる。そうすると浸透圧が高くなる。浸透圧は濃度が低い方から、高い方へ流れる現象。地面から水を吸い上げる力が生まれる。つまり、水が少ない状況で糖分が高くなる。

 トマト栽培には、出来るだけ湿度が少ない状態で、水を与えないと糖度が上がる。スーパーでは普通5〜6。しかし、水を与えない栽培で作られたトマトの糖度は、8。季節によっては、12になるという。甘いトマトの見分け方は、へたを下に置き、上から見たとき6本の白い線が見える物が甘い。この線は、維管束。それが枯れて白くなる。それだけ水が少ない状態で育っている証拠だからという。白い線が長ければ長いほど甘い。そうなったトマトは、折角吸い上げた水分を逃すまいと、皮が厚くなる。だから、甘さと皮の薄さは、反対になる。皮が薄い物は、甘くない。酸味は、青い物が多く、赤い物方が少なくなる。

 イタリアなどでは、ドライトマトを料理に使うという。甘み、酸味、うまみが凝縮しているという。うまみの中にはグルタミン酸が入っている。最近発見された物は、グアニル酸が入っている。放っておくと出来るのが、グルタミン酸。干すことによって生成され蓄積されるのが、グアニル酸。この二つが一緒になると、お互いのうまみを増やし合う相乗効果が出るのだという。だから、塩をかけ太陽で干したドライトマトは美味しいのだという。つまり、トマト=昆布のグルタミン酸+しいたけのグアニル酸。

 『ガッテン』では、ドライトマトの美味しさと、新鮮なトマトの両方を味わう方法を提案した。ミニトマトを半分に切る。ミニトマトの維管束は2本。それとオーブンで180度で20分加熱。1時間放置。そうすると、なんちゃってドライトマトが出来上がる。番組の最後に、甘くなっているサインを紹介。それは水分が少なく苦しみ抜いたトマト。ごくまれに、緑色になっている物がある。これは、葉緑素。光合成をしてさらにたっぷりの糖を溜め込もうとしているのだという。

 うーん、冬の野菜トマトが食いたくなった。トマトを選びに行きたい。


 1月20日(金) 曇のち雪 15344

 ネットでスペインの闘牛場に雪が降り積もっている写真が載っている。綺麗な写真だが、何か似つかわしくない。闘牛場に、雪はあわない。でも、珍しい写真だ。ロンダの闘牛場も雪に覆われた。各地の闘牛場に、雪が降ったと言うことは、スペイン各地にも雪が降ったという事だろうと思う。東京でも朝から雪がちらついている。これから積もるのかも知れない。

 「この庭は、不思議な庭でなぇ。小鳥たちが種をぎょうさん運んで、自然に出来た庭なんです。 植物ってね、これほどの哲学者はいないんじゃない。根っこも、一つも喧嘩しないで、こんがらかってないで、相談し合って、よけ合って、ちゃあんと、こんなに秩序の正しい世界ってないんじゃないだろうか。」 ーー『女ひとり 70歳の茶事行脚』半澤鶴子よりーー

 何というか、こういう生き方もあるのかと、驚かされてしまう。お茶と懐石料理の茶事を生業にしている人。この品の良さは何だろう。生き方に自信があるからだろうか。自分の仕事に精一杯向かい合って来た自信だろうか。穏やかさに、たくましさがあり・・・。いやー、ご飯が美味そう。みそ汁が・・・。どちらかというと、粗食のような食事さえ、それだけでもっとも贅沢な食べ物に見えてくる。そして、お濃い茶。心が踊る。そして、平安を感じる。


 1月21日(土) 晴 14197

 朝、今日から『精霊の守り人』が始まるんだけど、綾瀬はるかで。あっそっかテレビ観ないんよね。と、いうと珍しく、『精霊の守り人』ってアニメであったんじゃない?と、のってきた。この世代、アニメとかゲームとかで、あると知っているようだ。おもしろと思った。

 心配した雪は降らず、電車も競馬も大丈夫だった。床屋に行きたいが、忙しくて行けないでいる。来週かな。


 1月22日(日) 晴 7960

 この前、電車で隣に座った若い子から、うっすらと匂いがした。オーデコロンの匂いではない。香を焚いたような匂い。嫌みがなくて良い。物凄い香水の匂いなどちょっとうんざりだ。昔、電車の中でインド人の様な女の人が、凄い香水の匂いをさせて電車の座席に座わると、隣に座られた日本人のおっちゃんが、お前ぇ、くせーんだよ!怒鳴ったら、その女が、すいませんと謝っていたという話を訊いたことがある。日本人は、強い香水の匂いは好きではないのだと思う。ほのかな香りの方を好む人の方が多い。

 錦織がフェデラーとやっている。第1セットはリードから追いつかれ、タイブレークになっている。大相撲は、稀勢の里が優勝して19年ぶりの日本人横綱が誕生するようだ。でも、今度幕内に上がる宇良の相撲が面白い。昔の舞の海の様な相撲。


 1月23日(月) 晴。風強く寒い。 10805

 旅館の女将が医者を呼び、「先生こちらどす。東京から来はった、お客さん何やけど。急になんや具合悪ならはって。そのまま倒れ込んでしまはりましてん。何やしんどそうやけど、どないでっしゃろ」 医者が、患者を診ながら、女将に、「あんた、京都には、あの世とこの世の境目があるちゅうのを、知っとるやろ」 女将「へぇ」 医者「それを知らんと、あの世に迷い込みはった、違うか。極楽へ行かはるも、地獄へ行かはるも、自分次第や」

 ジャズの名曲『モーニン』で始まる『美の壺』は、京の仏さま“あの世”巡り。医者も、患者も、草刈正雄が二役をしている。面白い作りだ。そして、京都の仏像を巡るのだ。良い始まりかただなぁ。これだけで、ずっと観なくなるもの。


 1月24日(火) 晴 15476

 昼食は、いきなりステーキで300gのハンバーグ。床屋に行き、洗濯をした。今日はゆっくり休む事にして録画したものなどを見た。

 『日曜美術館』は、「グラナダ 魂の画譜」戸嶋靖昌(孤高のリアリズム)。「戸嶋は、25年近くスペイン・グラナダでひたすら絵を描き続けました。その戸嶋とグラナダで出会った日本人がいます。「こう短刀ではありませんけどね、突きつけられたみたいな、グッて突きつけられた、まさに戸嶋さんの目と同じで、えーすごい深淵から突き刺す、こう何を見ているのか、もう本質以上のものを見られている気がするような感じがして。この人物だからこそ、この絵なんだっていうが、最初、その印象でしたよね。」俳優・画家、奥田瑛二。

 「 伊東敏恵アナウンサー 「これは『裸』という女性の裸体が描かれているですが、奥田さんは画家として活動というか、作品を残されていて、メインテーマが、まさに女性の・・・」
 奥田瑛二 「いちおう。いやいや、これは凄いですよね。裸っていうのは、僕も今日初めて見たんですよこの絵。裸ってなんだろうみないな、まさに裸じゃないですか。裸ってなんだっていうことを、問うてるなと思って、つまり肉体だけが裸でいるわけじゃなくて、僕も一緒ですよ、多分心も全て裸。で横たえ、横たわっている。だからこれは、戸嶋さんは、もっとその心以外にも何を掴み取ろうとしたのかな。普通描き取ろうとするじゃないですか、掴み取ろうとしたのかなというのがあるんだよなっていうのがあって、そこまで、こうやっぱり入り込んで行くというか、気持ちがね。」
 伊東 「実はね、そんなに描ききってはいないですよね。」
 井浦新 「でもこれ、離れて見ると。わぁー」 ーー『裸〜Ra〜』という絵を観ながらの会話。ーー

 25年グラナダで暮らした画家、戸嶋靖昌。富や名声には見向きもせず、自分の画風をトコトン追求した画家だという。武蔵美入学当初は、大学に寝泊まりをしていたという。3年生の時に彫刻も学ぶ。卒業後、将来を嘱望された画家だった。銀座一流画廊で初めての個展を開く。画廊からもっと明るい色彩の絵を描いた方が良いと言われるが、それを拒否する。印象派などの絵が流行していたからだ。汚い色を描きこなせないと本当の美しさは出てこないと信じていた。画壇に出る大きなチャンスを逃す。

 絵を描くことに深い行き詰まりを感じていた。人間性はもとより、その人が背負ってきた歴史までも描きたい。どうすれば、そこに行き着けるのか?若い戸嶋は苦闘する。1970年三島由紀夫の割腹自殺。三島の文学や美意識に、共感していた戸嶋は強いショックを受ける。そして、画壇の名声や富のむなしさと決別して、日本を離れる事にする。

 40歳で向かったのは、スペインのマドリード。プラド美術館に毎日のように通い、ベラスケスの作品群。最高傑作『ラス・メニーナス』。その場の空気感まで描ききったベラスケス。その描き方の根源は何かと、探りました。たとえば、遠くからだとリアルに見える衣装やブローチなどは、近づくと大雑把な筆捌きで、描かれている。こうした技法がベラスケスの技法を支えている事に気づく。戸嶋は、美の対象に向かうとき、その都度言葉を残している。

「ベラスケスの絵は、崇高なものだけを求めている。崇高とは、生命の神秘と悲哀だ。」

 そして、ベラスケスの故郷近郊に移り住む。アスナルカサル。聖体祭の宗教行事なのに触れ、自身が考えるリアリズムのヒントを得る。ベラスケスの他にスペインに住んだ理由は、マドリードのカプチーノ修道院にある、『死にゆくキリスト』(グレゴリオ・フェルナンデス作、1614年)があったからだという。イエスの凄惨は姿が、一切美化されることなく再現されている。イエスが、人間の贖罪のためにはらった、苦しみを忘れないために、リアルに表現している。その生々しい姿を見た人々は、あたかも、自分が目撃したかのように感じるのです。生命の根源、魂までも描きたいという戸嶋は、ここでの体験で、大きな発見をしていく。

 
 ベラスケスの場合は、存在そのものを出現させるというリアリズムあると思う。 ーー美術史家・小池寿子ーー

 グラナダに移り住んだ戸嶋は、旧市街アルバイシンに暮らす。治安の悪いところで有名だ。「グラナダには、内向的な一つの悲しみがある。だから魅(ひ)かれるのだ」(戸嶋)。グラナダに住んでまもなく、教会の賽銭箱をあさる老女に気づく。不思議なことに、町の人は彼女をとがめませんでした。老女の名は、ベルタ。グラナダの名門の令嬢でしたが、没落して貧しい晩年をおくっていた。人々が彼女の行動を黙認したのは、街の誇りであったベルタの一族に敬意を表したからだ。『老女ベルタ』誇り高いベルタの精神に、スペインの重い歴史を感じとる。それを表現するために、写実を排し揺るぎない堅牢な岩のように描いた。彼女の気高い魂の輝きは、白を使って表現している。魂は、内面から発する光。その後の戸嶋芸術の特徴となる。

 ベルタの制作を観ていた、スペイン在住の彫刻家・増田感。「戸嶋さんは、人間性とか、その人の奥深き人生のドラマなんかを見つめておられたような気がしますね。表面をただ単に追って、描くんじゃなくて、もっと内面的なもの、中から出てくるものを、それが欲しかったんじゃないでしょうか。」 「あー良いタッチで描かれているなと思ってたら、急にパレットナイフを持ち出して、ザッザッザッザッとそれを、消されるんですね。あっ僕は、もったいないなと思ったですよね。いっぺんで書き上げるものじゃない。何度も何度も、やり直して、そのパレットナイフで削りあげて、その上にまた描く。人は分からないかも分からないけども、やはりその深さ、彼の、自分を刻むように、パレットナイフ使ってましたよ」

 戸嶋が模索するリアリズムは49歳の時、さらに進化する。ある女性との運命的な出会いが切欠だった。道化師・舞台女優をしていたフランス人、クリスティヌ・エオン。彼女によって、肉体と魂という重要なモチーフに取り組む。エネルギッシュで底抜けに明るい彼女。彼女をモデルに肉体のリアリズムを模索していく。肉体がカンバスに溶け込むように描かれる『DESNUDAの象(かたち)』(裸体のかたち)。彼女の姿を一度溶解し、そこから自らの魂で、再び形を生み出すというリアリズム。

 「肉体は朽ち果てるものであって、本質的には存在してない。腐っていく過程こそが肉体なのだ。だから愛情がなければ、それを見つめることはできない」

 クリスティヌ・エオン「私を描いた作品を見た時は衝撃的でした。私の奥深い所を捉えていたからです。モデルをしている時に、何をしていても無関係でした。戸嶋は常に求めていたものを捉えました。美しい部分だけではなく、醜い部分も捉えたと思います。」

 戸嶋は通っていたバルでもモデルを見つける。ミゲル。『アルバイシンの男 ミゲル』まるで、キース・リチャードの様な顔だ。 「ミゲルは奥底に、無欲のエレガンスを持っている。彼は無だから、全てでもあるのだ」

 「戸嶋の作品で特に印象深いのは光です。遠くから見ると暗闇のようですが、近づくと輝きます。」 「ベラスケスと戸嶋の共通点があるとしたら、光だと思います。」 「内面性が戸嶋の作品を力強くしています。これはベラスケスにも見られるものですが、戸嶋も人生を通じて、内面の強さを追求しました。」 ーー在日スペイン大使館時代戸嶋作品に出会い個展を企画したスペイン外務省文化担当、サンティアゴ・アミーゴ・エレーローー

 「人体そのものの描写は、19世紀でモチーフとしては終わりです。しかし、なぜ取り組んだかというと、人体の中に生きる物に共通する力があったからです。」(戸嶋)

 1995年絵を描くためにグラナダを訪れた俳優・奥田瑛二に出会う。「何をやっているんだ、貴様は、とか言われて、えっ、何をやってる。役者ですよって言ったら、役者。どんな役者だ。いや、なかなか良い役者ですよっていったら、あっそうかって。いうのがあったり、役者とはどういうものかと言われた時に、困りましたよね。なんて言ったらいいのか、分かんなくて。まっこの人というのは、あのー、その絵を描く対象の人物がいて、いた時に絵を描いて、何かその人の血と、自分の血が混ざり合うような感覚っていうんですかね、相手の血なのか、自分の血なのか、その見えない距離感の中で、それが呼応し合って、混ざり合うっていうか。だからそれぞれの人物、景色もそうですけど、それによって、あの、筆運びが多分違ってくるんだろうな、という気がしますよね。」

 グラナダ在住の芸術家の拠点、タジェール・デ・アルテの創設に尽力した戸嶋。「戸嶋は一切、大物ぶった態度をとらず、ああしろ、こうしろと言いませんでした。しかし作品の評価を求められた時は、決して意見をごまかしたり、黙ることなく、はっきりと意見を述べていました。我々は皆、彼の意見や決断ととても尊重しました。」 「戸嶋は私たちの精神的な父親でした。」 ーー20年来の友人、ビセンテ・ビアスネスーー

 タジェール・デ・アルテで知り合った若い版画家のホアキン・マルティネス・アルバラシン。共に芸術を語り合える掛け替えのない友人。しかし彼は病のため。37歳で死ぬ。いつも花梨(スペイン語で、メンブリージョ)をくれた亡き友を偲んで、花梨を描き始める。花梨を描くと言うことは、戸嶋が生命と魂という命題を、植物にまで広げたことを意味します。花梨をアトリエに何日も放置して、腐っていく様子を凝視した。生命が消えていく瞬間を、見届けたかった。

 「花梨には、はつらつとした生命の息吹と、腐りゆく生命の悲しみが同居している。」

 戸嶋の生活は、妻からの仕送りで支えられていた。妻病気の知らせで、帰国。翌年死ぬ。戸嶋も病の犯されて2006年7月この世を去る。72歳だった。

 井浦新 「僕一つ、まだこう落ちて来ない事があって、その、戸嶋さんのリアリズムって部分が、何でしょう、奥田さん例えば、役者で、芝居をする時っていうのは、リアリズムをぶっ壊していった、その先にあるリアリズムみたいなものをめざしたいというか。リアリズムそのままだと表現にならない。」
 奥田瑛二 「ならないね。」
 井浦 「リアリズムを壊すけれども、芝居をしないような、何かこのリアリズム、そういった物に近い感覚って」
 奥田 「ありますよね。つまりね、あの、僕が思うには、客観。主観ばっかりで、がーーといちゃうと、気持ちよくなっちゃうんですよ。で気持ちよくなったものって、見るに堪えられない。だから、戸嶋さんも、凄い客観というか、その間に、波動と戦いがあるようなもので、彼女に組み込まれるのも嫌だし、相手を引きつけるのも嫌だし、そこで入り込む不思議なぶつかり合い、静かなるぶつかり合い、静寂なぶつかり合いがあって、そこが間にあるわけですよね。それをもつことによって、その、違うエネルギーがこの中に組み込まれていくと、役者もそうだけれども、リアリズムが生まれるんじゃないかなっと、僕はね、今伺ってて、そういうことなんだよなぁと、思いましたよね。彼女の存在感によって、戸嶋さんの存在感もこの中にあるっていう」
 井浦 「本当、訊くまで男性かと思ってましたけど、実は女性なんですね。」

 奥田 「彼がまだ、生きているっていうかね、まだ死んではいないんだ。死して生きる事もあるんですけど、これ以上のもを、存在になった様な気がして、ずっごい僕としては気持ちが良い、一日でしたね。ええ。」

 絶筆となったのは、最晩年強い友情で結ばれた友の肖像画です。戸嶋は人物とそれを取り巻く空気を、ゆらぎとして表現しました。人生最後の1枚までさらになるリアリズムに挑んでいたのです。戸嶋靖昌が極めようとした、魂の画風。それは、リアルズム絵画の源流に辿り着こうとした姿でもありました。

 「結局は相手が持っている感情だと思う。人生とか相手の思想だとかが、ちゃんと出ないと。時間が出ないとだめなんだよ。」 ーー戸嶋靖昌ーー」 ーーNHKの番組まとめーー

 こんな人が、グラナダに住んでいたんだと思った。堀越千秋さんなど何人か画家は知っているが、こういう人がいたとは、信じられないような気持ちになった。


 1月25日(水) 晴。朝夕寒い。 4524

 ベルタで思い出したが、映画『フンカル』で、何十年も前に闘牛士をやっていた男が、セビージャのバルとかレストランで注文してもお金を払わない。店の方でも、お金を要求しない。何故なら闘牛士時代に散財してお金がなくなっていることを知っているのと、闘牛士時代の栄光に対して、敬意をはらっているからという理由だ。スペイン人の中には、こういうメンタリティーというものが、存在するのだ思ったことがあるが、それと同じ事が、グラナダのベルタにもあったことに、驚いた。

 作詞作曲、忌野清志郎、仲井戸麗市の『雨上がりの夜空に』を聴いていたら、仲井戸麗市(愛称チャボ)が前に作っていた古井戸というフォークグループの『さなえちゃん』という歌を思い出した。♪大学ノートの裏表紙に さなえちゃん描いたの♪で始まるあの歌。良く歌った歌だ。清志郎は、RCサクセションで、『僕の好きな先生』。♪タバコを吸いながら いつでもつまらなそうに タバコを吸いながらいつでもひとり 僕の好きな先生 僕の好きなおじさん タバコと絵の具の匂いの あの部屋にいつもひとり タバコを吸いながら キャンバスに向かってた 僕の好きな先生 僕の好きなおじさん タバコを吸いながら困った様な顔をして タバコを吸いながら 遅刻の多い僕を口数も少なく叱るのさ 僕の好きな先生 僕の好きなおじさん タバコと絵の具の匂いの 僕の好きなおじさん タバコを吸いながらあの部屋にいつもひとり 僕と同じなんだ職員室が嫌いなのさ 僕の好きな先生 僕の好きなおじさん タバコを好きながら劣等生のこの僕に すてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない 僕の好きな先生 僕の好きなおじさん タバコと絵の具の匂いの僕の好きな先生 ♪ そして、この歌も良く歌った。

 売れなかった頃、同級生だった俳優三浦友和(妻が山口百恵)との、もやしの思い出を訊いたことがある。2人とも売れない頃、1番安いもやしを買ってきて、炒めてそれをおかずにして食いつないでいたという。おかずはそれだけである。RCでは、『僕の好きな先生』がちょっとだけ売れたが、他は売れない。井上陽水の大ヒットしたアルバム『氷の世界』に、曲を2曲提供。『かぐや姫』にも、曲を提供していたので、その印税で食いつないだ。そして、RCサクセションがメンバーの入れ替えを繰り返すなかで、チャボがリードギターで加入してロック化していき、『スローバラード』や『雨上がりの夜空に』が生まれた。

 『さなえちゃん』や『僕の好きな先生』は、フォークソングで、学生気分を歌っている。そういえば、『僕の好きな先生』にも出てくるけど、職員室でタバコを吸っている先生って多かったよな。高校の時に、タバコ吸った生徒を、タバコくわえて説教している先生を見たことが何度もあるけど、違和感を感じたものだ。その中で美術の先生って、見た目からも自由な感じがして好きだった。白衣を着て、それが絵の具で汚れていたりして、良い感じだった。音楽の先生は、ちょっと硬い感じ。多分クラシック音楽とかをやっている人が多かったからだろうけど・・・。

 忌野清志郎は、ガンを宣告され、手術すると声が出なくなるといわれ、他の治療を選び、転移して死んだ。声を失ってまで生きたくなかったのは、ライブの熱狂が忘れられなかったのだろう。声を失っても生きている、つんくとは、生き方が違う。人には様々な生き方がある。どうこう言ってもしょうがない。清志郎はそういう生き方をした。ガンであることを隠して俳優活動を続けて死んだ俳優の緒形拳もいた。


 1月26日(木) 晴 4642

 「あんた、京都には、あの世とこの世の境目があるちゅうのを、知っとるやろ」。境目とはどういう事か?嵯峨野にある化野(あだちの)念仏寺。ここには8000体もの石仏がある。この辺は昔墓地だった。そこに倒れたりして放置されていた石仏を、供養するために寺に集めたのが、今の化野念仏寺。京都の墓地は、他にもある。例えば、紫野の蓮台野の前には、千本ゑんま堂。清水寺付近の鳥辺野の前には、六道珍皇寺。葬儀前にここに寄り閻魔様に判定をして貰うならわしになっていた。それは迷わずに成仏して貰うためだったようだ。

 「宇治にある平等院鳳凰堂。そこには国宝・阿弥陀如来がある。社会が混乱期に、阿弥陀如来に救済を求めて、建物・庭など建立した。この時期、阿弥陀如来が多く彫られた。需要に応えるため1本の木から彫っていた仏像を、パーツを組み合わせて作る、寄せ木作りに変わった。阿弥陀浄土へ連れて行って欲しいという願いは、仏像の黄金値で、制作された。頭や体、手や足などの比率が同じになるような作りからだった。それがやがて、人によって行われる、即成寺の「二十五菩薩お練り供養法会」の形として残る。阿弥陀や菩薩が浄土から向かえに来る様を表す。極楽と現世に見立てた2つのお堂を往来して表現している。

 六道珍皇寺には、閻魔様が鎮座する。一度行ってみたいが六道参り。閻魔は、天国と地獄におくることを決めるいわば裁判官である。目をむいて、口を大きく開いて舌が見える。京都には昔から墓地が4つあった。化野(あだちの)・西院・蓮台野・鳥辺野である。化野は嵯峨野の奥にある。鳥辺野は清水寺の手前辺りで、その前にあるのが、六道珍皇寺。仏を墓地に持っていく前に閻魔様がいるこの寺で供養して、鳥葬の地、鳥辺野へ向かったという。六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のうち何処で生まれ変わるかを決める。

 蓮台野の前には、千本ゑんま堂がある。「地獄であれ極楽であれ、決まるということは大変ありがたいことなんですね。決まらなければ迷いが多くなって、成仏が遠くなる。」 閻魔の顔は何故怖い顔をしているのか。「閻魔様の裁判所には、大きな鉄の釜がある。その釜には、鉄をドロドロに溶かした真っ赤な溶液があるんです。閻魔様が地獄行きを決められて、地獄へ送ったら、その地獄へ送った者が苦しむであろう苦しみを、ご自分にも課する為溶液をダーとお飲みになる。声を出すまいと思っていても、思わす声が出るんですね。悔しいような、ちょっと口惜しいような、情けないようなちょっと涙を流すような、そういう形容しがたい声だそうです。苦しさを乗り越えるためのお顔なんです。」(千本ゑんま堂の尼)

 そして、たとえ地獄に堕ちても助けてくれるありがたい菩薩が、地蔵菩薩。お地蔵さんの信仰は根源はここにあるようだ。地獄に堕ちた人々に変わってその苦しみを受け入れている地蔵。六道のあらゆる世界に現れる地蔵菩薩。地獄に堕ち者も救う慈悲深い仏なのだ。」 ーー『美の壺』京の仏さま“あの世”巡りよりーー

 阿弥陀如来 閻魔様 地蔵菩薩。何も知らなかったけど、1番驚いたのは、地蔵菩薩。京都には一杯お地蔵さんがある。京都だけじゃなくて、各地にお地蔵さんがある。地蔵信仰が強いのは、六道全てにわたって助けてくれると、いうところになるのだろうと思う。定期的に赤いよだれかけを交換したり、日々にお祈りを捧げるというのは、信仰の表れだ。そして、昔から町内とか小さなコミュニティーが自主的に管理している。


 1月27日(金) 晴/曇 5417

 今日は日中15度まで気温が上がるという。これは3月下旬の気温だという。つまり桜の咲く頃と同じという。しかし、北日本は猛吹雪になるという。これからは、寒い日と暖かい日を繰り返しながら、2月中は寒くなり。それから、春を迎える準備になっていくのだろう。

 大竹しのぶの『ファミリーヒストリー』を観た。祖母は、情熱的な女性と語り継がれる八重。明治時代、思想家の内村鑑三のキリスト教の勉強会のようなものに出て、幸徳秋水とも親交があった。キリスト教社会主義の男性と知り合い、津田塾を辞め19歳で渡米。身ごもっていたので、サンフランシスコで女の子を出産。その後食えなくなって、帰国し、子供を旦那の実家に取られてしまう。次に結婚した男性との間に男のをもうけるが離婚。その後結婚した人は実業家の息子で、内村のキリスト教勉強会に来ていた人。戦前から特高に目をつけられ、それでも自身のキリスト教勉強会を続けた。極貧の中、しのぶの母が生まれる。

 父親大竹家のルーツが新潟で判明。江戸時代、30日間寝ずに洪水の川と格闘し、それが認められて、庄屋になる。「大竹様」と言わが、無実の罪で処刑された伝説が残されていた。土地の人は、今でも神様のようにしてまつっている。父親は、結婚して2人の男のを授かる。八重の夫がやっていたキリスト教勉強会に来ていた。実家の母親とは、キリスト教嫌いで妻子を残し関東に出てきた。通ううちに、しのぶの母江すてると仲良くなる。そして招集。戦地に行く。戦争が終わり1年後帰還し、再開。結婚する。そして、4人姉妹が生まれる。結核を患い、療養のため秩父近くに住み、学校の先生をする。

 食事がすむと、デザートの時間といって、近所に子供たちを連れ出し、自然に触れたという。蛍、蛙、など動植物とのふれあいが、しのぶの感性を育てたという。そして1世紀の時を経て、行方を知らなかった親戚が見つかる。北野たけしの回も面白かったけど、この回も面白かった。『べっぴんさん』で、親と子の対立が描かれている。あれは裕福な家庭の話だが、貧乏でも対立はある。風太郎の『八犬伝』では、馬琴と北斎の家族のことが描かれている。これもまた、八犬伝以上に面白い話だ。何回も読んでいる本だが、これほど、馬琴と北斎の家族の話が面白いと感じたことはないと、思いながら読み進めた。


 1月28日(土) 曇 16427

 なんだか今日は、調子が良い。嫌な事もあるが、良い日だ。

 この前、BS1スペシャル「美術家たちの太平洋戦争〜日本の文化財はこうして守られた〜」を観た。アメリカ人、ラングドン・ウォーナーは、ハーバード大学を卒業後、ボストン美術館で、岡倉天心の助士を務め、その関係で、日本に研修に来て、奈良の仏象の修復師・新納忠之介のところに住んでいた。ウォーナー・リストというのが太平洋戦争当時、アメリカ政府に提出された。京都や奈良に行くと、戦争中にアメリカ軍の爆撃がなかったのは、文化財を守るためだったという話を訊いたことがあるが、空爆の資料を作成中の米空軍は、航空写真やその他のもので、爆撃すべきところと、してはいけないところを、地図に色分けして作っていた。

 その爆撃禁止のところは、緑色に塗られていたことが分かった。東京であれば、28カ所存在し、そのうち、21カ所は無傷だった。浅草寺などは、禁止されていたが、空襲の激しさで焼失した。奈良では、奈良駅や一条通は爆弾が落ちたが、東大寺・興福寺・法隆寺など今の世界遺産になっている古寺・古刹は、無傷だった。ウォーナーは戦後直ぐに来日し奈良を訪ね新納に会い、法隆寺など主な寺社を案内される。無事であった事に、感激する。法隆寺の五重塔を観て以前変わらない姿に感動したという。彼は、GHQの古美術管理顧問をやっていた。

 戦後処理の中で、中国は日本に文化財を38万点壊されたとして、その代替で、日本文化財を提出するよう要求した。アメリカは、戦後賠償に文化財を含めば良いのではないかという案があった。日本国内でもそのことが検討された。GHQの古美術管理にシャーマン・リーという28歳の優秀な人間がやってくる。ウォーナーは、噂で彼を知っていた。来日し精力的に各地の文化財の調査を始めた。東大寺の正倉院。日本の専門家と共に収められているものを観て、奈良時代からの文化財の保存状態の良さと、その飾らない美しさに、「奇跡の中の奇跡」を絶賛したという。

 米政府は、極秘裏に日本の文化財を賠償に当てるという方向で動き出していた。その中で、シャーマン・リーは、正倉院の宝物の展覧会を開く。日本人が多く詰めかけ大きな話題になる。米政府からGHQに、文化財をどうするかという問題の問い合わせがある。マッカーサーは会議を開く。シャーマン・リーはその会議に出席する。マッカーサーの考えは、進駐して統治するためには、文化財を没収すれば、悪影響が出て、統治が難しくなるという物だった。シャーマン・リーは、正倉院の展覧会で証明した自信を持っていた様だ。これだけ素晴らしい芸術品は世界にも類がない。こういう文化財は日本人に自信をもたらすでしょう。文化財を賠償に当てるというのは、略奪である。文化財は、不可侵です。

 マッカーサーの腹心も、シャーマン・リーと同じ考えだった。マッカーサーGHQからの米政府への進言は、文化財は不可侵というものだった。米政府は、文化財不可侵の決定をする。その後、シャーマン・リーは、美術収集家になり、クリーブランド美術館館長になる。ラングドン・ウォーナーは、帰国後、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長などを務めた。ウォーナー・リストによって、直接ではないが、京都や奈良の文化財を守ったことにより、1958年法隆寺、西円堂近くに供養塔と頸彰碑ウォーナー塔が建立された。1961年鈴木大拙は、「ウォーナー博士が爆撃から除外されるべきものとして米国大統領に進言した文化財の中でも、特に貴重なものとして、大谷大学の図書館が指摘されている」と語り、同大学の新図書館建設のための募金活動につながった。鎌倉にも同趣旨に基づくプレートがある。なお、歴史家で鎌倉世界遺産登録推進協議会広報部会長の内海恒雄は、ウォーナーリストの解説に「(日本の文化財の)破壊は大損害であり、戦禍を免れたら世界の文明国の利益は計りしれない」と書き添えられていたことを指摘している。

 「美術家たちの太平洋戦争〜日本の文化財はこうして守られた〜」を観ていて、素晴らしいことだと思った。今残っている文化財は、米軍などアメリカ人によって残ったのだという事がはっきりした。明治の廃仏毀釈でなくなった文化財や、風習などその土地に根付いていたものが、なくなっていなければ、今の日本には、どれほど豊かなものが残ったのか思った。廃仏毀釈は、日本人の手で消失したもの。対比としても残念な気がする。


 1月29日(日) 曇 19058

 競馬のあと、食事して、地下の食品売り場へ行った。欲しかったのは、干し芋。毎日食べても1週間は持つだろうと思うくらい買ってきた。最後は、紫芋の鯛焼き。この鯛焼きを頭から食べると、腹の辺りから段々と尻尾の隙間から、紫芋がはみ出てくる。尻尾の方は綺麗に合わさっていないので、はみ出るのだ。それを舐めて、また鯛焼きを食べる。美味しいデザートだった。

 帰ってきて、『いっぴん』会津木綿を観る。途中、BGMでトム・ウェイツが流れた。今日は、トム・ウェイツを聴きながら酒でも飲もうかと思う。


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