−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年のスペイン滞在日記です。
太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月、11月、12月の京都旅行、2013年4月京都旅行5月出雲遷宮旅行10月伊勢神宮の遷宮旅行11月京都旅行、2014年5月6月、7月の京都旅行、2015年6月京都旅行、9月奈良・京都旅行、11月京都・滋賀旅行の滞在日記です。
8月1日(月) 曇のち雨 7744
どんよりと曇った空で、日は差していない。それでも蒸している。朝遅く起きたので散歩は中止。ホットケーキを食べようとファミレスへ行くも、朝だけとですと言われた。10時半までを朝という区切りをつけていた。仕方ないので日替わりメニューを頼んだ。関川夏央の『戦中派天才老人・山田風太郎』の翌年八月の紅蓮
炎の中の青春を読む。
<風がまだ冷たい季節のはずなのに、むうっとするような熱風が吹いて来る。黄色い硫黄のような毒煙のたちゆらめく空に−−碧い深い空に、ひょうひょうと風がうなって、まだ火のついた布や紙片がひらひらと飛んでいる。自分は歯ぎしりするような怒りを感じた。
「こうまでしたか、奴ら!」
と思ったのである> ーー『戦中派不戦日記』 昭和二十年三月十日 山田風太郎よりーー
気象庁は、毎日気温を記録している。この日の東京の平均気温は47度と記録されていると言う。過去日本で1日の平均気温が1番高かったのが、東京大空襲があったこの日である。風太郎は友人の安否を確認するために、瓦礫の街を歩く。
≪「・・・ともかく無事がわかったので、引きあげることにしたんだが、電車は至るところで不通だ。で、水道橋まで出た」
−−そこからは電車で?
「乗れなかった。罹災者にしか切符を売らない。そのとき焦げた手拭いで頬かむりした中年の女がふたり、ぼんやりと路傍にこしをおろしているのを見た」
<風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで
「ねえ・・・・・・また、きっといいこともあるよ。・・・・・・」
と、呟いたのが聞こえた。
自分の心の中をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。
十数年の生活を一夜にして失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。あの地獄のような阿鼻叫喚(あびきょうかん)を十二時間前に聞いた女ではあるまいか。
それでも彼女は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの炎を見つめている。・・・・・・この細ぼそとした女の声は、人間なるものの「人間賛歌」であった。> ーー『戦中派不戦日記』 昭和二十年三月十日 山田風太郎よりーー ≫ ーー『戦中派天才老人・山田風太郎』 関川夏央よりーー
『とと姉ちゃん』の中であった、焼夷弾で焼け出された光景の描写がここにある。まだ、作家になる前の医学生、山田誠也こと山田風太郎の日記である。
≪−−また八月十五日がやってきましたが、なにか感慨はありますか。
「とくにないね」 ≫ ーー『戦中派天才老人・山田風太郎』関川夏央よりーー
と言っている。しかし、風太郎はあの戦争は何だったんだと、考え続けた。それが、『同日同刻』などになった。勿論、風太郎の巨大で偉大な作品群は、エロい事を書いていようが何を書いていようが、中心にあるのは、戦争体験である。修羅場を描く。それは、忍法帳シリーズでもそうだし、明治物でも、そうだ。焼夷弾が落ちる灯火管制中、布団をかぶり本を読んでいた風太郎。彼は、明日生きているか分からない状況で、何を考え本を読んでいたのか。
人はどんな状況になっても、<「ねえ・・・・・・また、きっといいこともあるよ。・・・・・・」>と思うのかも知れない。それを聞いた風太郎は、<自分の心の中をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。>と言い<人間なるものの「人間賛歌」>と言う。強烈に風太郎が読みたくなった。
このところ、闘牛関係で死んでいく人が多い。ビクトル・バリオ、パコ・カノ、フェルミン・ボオルケス(父)。昨日は、アントニオ・コルバチョの命日。闘牛士はいつも死と隣り合わせだ。希望と絶望は紙一重。同じような状況に、戦中・戦後直ぐの人たちがいたのだと思う。希望の光をどうやって探し出せばいいのか、必死だったのだろう。そして、いつの時代も、希望の光を灯すことが出来る何かを発見しなければ、ならないと思う。人の心に、沸き起こる希望とは何か。修羅場をくぐり抜けるような経験をした人たちは、どのような希望を感じて生きているのだろう。闘牛の中にそれを感じることが出来るだろう。
『シュルレアリスム宣言』を起草した、アンドレ・ブルトンが書いた『ナジャ』は、ロシア語の希望という意味の言葉の初めの部分から取った。何かを始めるにも、希望が必要だ。
8月2日(火) 雨のち晴 15610
夜中、土砂降りに近い雨が降った。そして、昼は蝉がうるさい。本棚から、『別冊新評 山田風太郎の世界』を、出して読み始めた。「対談山田風太郎と<明治もの>の魅力」 前田愛X上野昂志。改めて読んでみて、『JIN−仁』や『八重の桜』を思い出していた。何かと言えば、坂本龍馬がいる時代に、南方仁がタイムスリップする。それは仮定したある時代に、同時代に生きた人間を遭遇させる。それは、風太郎が、明治ものでやった手法だ。それと同じ事を、JINでやっている。風太郎は、『警視庁草紙』で、3歳の樋口一葉と8歳の夏目漱石を会わせたりしている。そうすることによって、読者の興味を引きつける。JINなどは、それを当たり前の様に、次々と歴史上の人物が登場する。
倒幕の流れの中で、1番割を食ったのは、会津藩。『八重の桜』では、元会津藩士の抜刀隊で、薩摩の西郷を打ちに熊本に向かう西南戦争。それによって、鶴ヶ城に籠もって敗れた、敵を討ったような気分になる。実は『警視庁草紙』は、西郷の都落ちに立ち会う川路が、熊本に立て籠もる西郷を倒すために、抜刀隊を派遣するところで終わる。
こういう物語の作り方は、風太郎以前には無かった。エンターテナーのサービス精神は、物語を楽しくしている。司馬遼太郎と風太郎は、ポジとネガなどと対比される。表と裏。司馬遼太郎が書いた、『龍馬がゆく』以前は、坂本龍馬は、歴史に出てこないような存在だった。そういうのを掘り起こした。風太郎は、デフォルメした明治を描きながら、その時代の本質を描いた。裏側をも描いた。そういう違いがあるが・・・。やっぱり、『警視庁草紙』かな・・・。
ところで、松岡正剛が書いた風太郎評も載っていたが、読みにくい。今の文章は分かりやすいのに比べ、分かりにくい。ビックリした。
8月3日(水) 雨のち曇 16945
変な天気で、局地的な大雨が降っているところがある。梅雨が明けても渇水状態のダムの処に雨が降れば嬉しい。東京は曇なのに蒸している。テレビでは、外人が、「日本のあつは、とってもあつです」と言っていた。それを、「夏は暑い」と翻訳して、聞いていた。んっ翻訳と言わないか。東北では、祭りが始まっている。盛岡は、さんさ踊り。
『文藝 別冊 山田風太郎』に、広告批評の編集長をやっていた島森路子が、聞き手になって、風太郎のインタビュー記事が載っていた。
≪山田 僕の一族は、医者が多いんですよ。・・・人に愛想も言わないほうだから、だったらやっぱり医者になるかというので、医者の学校にはいったんだけど、でも、もっとぶっきらぼうでいいんですね、小説家っていうのは。こんなこと、いばる必要もないんだけど。(笑)
島森 居心地がいいほういいほうに、行ったわけですね。
山田 そうそう。
島森 ものを書くのは、苦痛ではないですか?
山田 そうらしいね。
島森 創作の苦労とかいうのも。
山田 創作なんて言っても、そもそも僕の書くものが創作に値するかどうかが疑問でしょう。・・・ ≫
風太郎の調子は、いつもこんな感じで、偉ぶらないし、出しゃばらない。そもそも、何処が面白いの?と言うような、肩の力が抜け、よく言えば、リラックスした状態だ。
≪島森 でも『戦中派虫けら日記』(筑摩書房)なんかを読むと、十代で戦争というもの、世の中というものが、よくあんなふうにクールに見えていたなと思う。あの時でああいうスタンスが取れたのはすごいと思うんですが、ああいう感じは、ずっと変わってらしゃらないようですね。
山田 変わらんもんです。 ・・・・・・
島森 自分が世の中から評価されるかということも、あまり執着しない?
山田 ないし、そもそも評価されるほどの実力もないし。
島森 そんなことはないと思いますが、ただ、だとしたら、自分の作品なり生き方に対する周囲からの評価は、おまけみたいな感じなんですね。
山田 そうそう。二十歳過ぎに終戦を迎えた人間というのは、みんな「あとの人生は余生」って言っていたんですよ。二十二、三でそんなことを言うのはおかしいし、あんまり情けない言い方だからはやり言葉にならなかったけど、一番多くつぶやかれた言葉はそれだと思う。 ・・・・・・
島森 なにかに夢中になったということはありますか?
山田 それがないんですよ。
島森 一度も?
山田 ええ。小学校時分は絵ばかり描いてましたけど、そのくらいですね、夢中になったことといえば、夢中になってあそんだということもないし。
島森 女の人に夢中になったこともない?
山田 ないなあ。夢中になるような人、いなかったもの。 ・・・・・・
島森 『人間臨終図鑑』(徳間書店)を作ろうと思われたのはどうしてですか。
山田 たとえば乃木大将が自決したなんてことは、普通の人でも知っているでしょう。でも、勝海舟がどんな死に方をしたかとなると、みんな考え込んじゃう。そういう人の死を全部集めてみようと思って、前からノートにバラバラにメモしてあったの。そんなところに、どっかの雑誌が、「なにか書いてくれ」って、何十回も来ていて、苦し紛れに「これでもいいか」って渡したら「けっこうです」。それで十五年くらい連載してたけど ・・・・・・ 僕が紹介したかったのは、夏目漱石に樋口一葉、それから島津斉彬という薩摩の藩主。彼が生きてれば、西南戦争は起きなかっただろうと思う。それから信長ね。彼はひょっとしたら天皇を倒したかもしれない。 ・・・・・・
島森 もしご両親が長生きしていて、もうちょっと丈夫だったら、まったく違う人生観を持ってたかもしれないですね。
山田 まあね。僕は小学校でも中学校でも、「絵がうまいうまい」言われて、絵描きになろうと思ってたの。だから、いまでも、ここにペンだこがあるんですよ。だんだん消えてきたけど、昔は学校から戻ると、「少年倶楽部」の模写ばかりしてたから、ペンだこができちゃった。
島森 文章を書いたペンだこはなくて、絵を描いたペンだこは残ってる(笑)。
山田 そうそう。よっぱど描いたんだね。
島森 そっちに進んでいたら、全然違う人生だったでしょうね。
山田 どうかな。どっちにしても、たいしたことないよ(笑)。 ≫
山田風太郎というのは、こういう人なんだよな。島森さんも苦労したと思う。小説の他にも書かなくなってからの、『コレデオシマイ。』『いまわの際に言うべき一大事はなし。』『ぜんぶ余録』などインタビュー三部作も、面白い。
8月4日(木) 晴 6134
東京は蒸している。33度の最高気温が予測されている。スタジオパークに、石橋蓮司が出ていた。影響を受けた2人として、現代人劇場・桜社時代の演出家・蜷川幸雄、俳優の蟹江敬三をあげて話をしていた。当時アングラ全盛の頃で、赤テント(状況劇場)の唐十郎、黒テントの佐藤信、早稲田小劇場の鈴木忠志、自由劇場などがあった。その中で、蜷川幸雄が、演出で個性を出すために苦労した話などがあった。69年清水邦夫脚本の『心情あふるる軽薄さ』で、アートシアター新宿文化で、劇中、機動隊が乱入し、役者、観客を劇場から追い出すという演出をして驚かせた話などや、蟹江敬三との稽古シーンを語っていた。
妻の緑魔子の話もしていた。劇団第7病棟旗揚げの話。それから俳優と女優から、演出家から女優として見る様になった事などを話していた。蜷川の演出の芝居は何本も見た。清水邦夫脚本で、緑魔子の芝居も何本か見た。ああいう1つのイメージだけをもってやる女優を、何故かとてもいとおしく思った。彼女のような女優は他にいないだろう。これをやらせたらピカ一と言うところがある。清水邦夫のシスター・コンプレックスの本には、緑魔子は合っている。人は、ああいう歪みみたいなものがないと、面白味がないようだ。
風太郎もそうだが、歪みがその人らしさや、特徴を反映する。そういうところに、魅力を感じられれば人生も楽しい。
8月5日(金) 晴 7022
猛暑の盛りが来たようだ。京都府では、37度を超えたところがあった。夕方、医者に行って薬を処方して貰う。調剤へ行き、銭湯に行った。久しぶりに行ったら、スーパーがつぶれていた。ごく普通の食堂で、豚の味噌焼き定食を食べた。
開会式はまだだが、オリンピックが始まった。サッカー男子は、ナイジェリアと対戦、4−5で負けた。守備で致命的なミスを続けたので当然の負け。非道すぎるDFとGK。たとえば、男子水泳400m個人メドレーは、萩野公介と瀬戸大也。金銀をねらえる布陣で小学生時代からのライバル。全く歯が立たなかった4・5年前までは、萩野が独走状態だった。それから怪我などもあり、瀬戸が世界選手権連覇。ライバルがいることによって、萩野に火がついた。今年の4月には、日本選手権で圧倒して勝った萩野。
ライバルがいるというのは、良いことだ。闘牛の世界でも、91年頃は、セサル・リンコン(コロンビア人)対オルテガ・カノ、ホセリート、エスパルタコ(スペイン人)の構図。96年頃は、ホセリート、エンリケ・ポンセ、リベラ・オルドニェス。97年には、ホセ・トマスが登場して、ホセリート、ポンセなど。以降は2000年までは、圧倒的にホセ・トマスの時代になった。2001年はまだ、良かったが、2002年は体がボロボロだった様な気がする・・・。
それからホセ・トマスが引退して、中心がポッカリ空いた状態で、アベジャン、カステージャ、ペレラ、タラバンテなどが闘牛士に上がってきた。2005年セサル・リンコンの復活などもあった。おおむねホセ・トマスは、97年から2000年までは、ライバルに成りうる闘牛士がいた。2000年は、もう手が付けられないほど出来が良かった。それ以降は、ライバルといえるような闘牛士は存在しないような気がする。これは、ホセ・トマスの悲劇だと思う。おそらく、独走状態で先頭を行っている状態である。
でも、去年から、ロカ・レイやロペス・シモンなど出てきて闘牛が活性化している。タラバンテの闘牛など観ていると、危機感を感じながらやっているのが分かる。彼もそういう気持ちを持っているのだと思う。今ホセ・トマスはそういう状況の中にある。活性化は、良い刺激を与えることだろう。まっ、パブロ・エルモーソ・デ・メンドーサも騎馬技術だって同じような事がいえるかも知れない。ライバルがいないとなると、牛に集中できるのだろうかともう思う。そのために、出場回数を制限する必要があるのかも知れない。
8月6日(土) 晴 6349
今日も暑い。リオデジャネイロ・オリンピックの開会式が行われた。日本とは12時間の時差がある。広島原爆記念日の黙祷の時間に合わせて、開会式では、日本人移民も紹介された。多様な人種、多様な文化が混じり合っているブラジル。環境問題と平和を訴える開会式になった様だ。
YouTubeを見ていたらトヨタの面白いCMを見つけた。パラリンピックの選手が詩のような言葉を語る。イチローが走る。選手たちの映像が映る。
イチローが嫌いだ。あの人を見ていると、限界という言葉が、言い訳みたいに聞こえるから。
イチローが嫌いだ。あの人を見ていると、自分に嘘をつけなくなるから。
イチローが嫌いだ。あの人を見ていると、努力すら楽しまなきゃいけない気がするから。
イチローが嫌いだ。あの人を見ていると、どんな逆風でも、チャンスに見えて来るから。
でも、同じ人間のはずだ。
ウエルバで行われた闘牛で、ホセ・トマスは、耳2枚、耳2枚と尻尾要求。ロペス・シモン、耳2枚。アルテルナティーバのダビ・デ・ミランダ、耳2枚。ビクトリアーノ・デル・リオ牧場で、ノー・アイ・ビジェテ。
8月7日(日) 晴 7033
フェーン現象で全国的に猛暑。37度を超えるところが複数箇所あるようだ。日本の金メダル第1号は、荻野公介。水泳男子400m個人メドレーで、荻野が金、瀬戸大也が銅だった。柔道は男女とも銅。重量挙げ女子、三宅が銅だった。そして、今日から甲子園で高校野球が始まった。
Facebookに、動画をシェアしていると、時々、注意・過激な描写が含まれる動画という表示がでる。闘牛の動画が過激な描写になると言うが不思議だ。エッチな動画じゃないのになぁ。スペインではあり得ない事。
8月8日(月) 晴 8481
猛暑。39度以上の処が何カ所もでた。明日の予報は、東京でも37度である。台風が近づく中で、風が吹いているが、これがなければ暑さは倍に感じるだろう。イチローがついに、大リーグ通算3000本安打を達成した。三塁打で達成したのは、面白い3という数字の合わせ技だ。適地のファンも大歓声を上げ、チームメイトもベンチを飛び出して祝福した。ヒットでホームを踏んで、ベンチに戻ると、サングラスをかけた頬を涙がつたっていた。
サッカー男子はまたへぐった!オンゴールは非常に馬鹿馬鹿しいざまだ。迷ってオンゴール。訳が分からない!0−2から2ゴール決めて追いつき、さあ逆転が、出来ない。DFがダメ。FWも、エンジンのかかりが遅い。2試合とも勝てた試合。レベルはそこまで行っているのに、気持ちが弱い。
郵便局員がやってきて手続きをした。昨日渋谷パルコが閉店した。パルコと言えば、夏目雅子が倒れたのはパルコで、『下谷万年町物語』(唐十郎作、蜷川幸雄演出)を見たのもパルコ。この芝居が、渡辺謙のデビューだったという記事があった。何の役だったのだろう?思い出せない。
15時テレビで、天皇のビデオが流された。何の感情も込めず、全文を記録することにする。これで、皇室典範や、あり方が変わるかも知れない。
「戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを、切に願っています。」
8月9日(火) 晴 5271
今日東京は予報通り37度を超えた。長崎原爆の日。Facebookに、長崎原爆直後にアメリカ人カメラマン、ジョー・オダネルの撮った「焼き場に立つ少年」のことが書かれてあった。それで思い出したが、この日記を書き始めた99年に、そのことを書いている。人間は、恨みを持って日本にやってきても、長崎で目撃した被爆者、被災者を見ると、そういう感情が解け出す。特に子供の健気な姿は、心に深く刻まれる。
男子団体体操、男子柔道の大野将平が金メダル。女子柔道の松本薫は金を逃し銅メダル。女子柔道で金を取ったのは、地元ブラジルのラファエラ・シルバ。今大会ブラジル初の金メダルを取った彼女は、リオデジャネイロのファヴェーラという麻薬と暴力が渦巻くと言われるスラム街に生まれ育った。優勝の後、ファヴェーラから駆けつけた人たちと喜びを分かち合っていた。勿論、目からは涙が溢れ出て号泣状態になっていた。貧しい子供たちに夢を与えた金メダル。ブラジルのマスコミは、大きな見出しで書き立てていると言う。
8月10日(水) 晴 8008
今日も暑い。Renfeの切符を買おうとネットでやったが、カードか端末の問題で買えないと表示される。PCを代えたり、アイホンでやってみたが買えないことが分かった。こうなると、他の人に頼まないとダメだ。しょうがないので、誰かに頼むことにした。と言うのも、9月に今年4度目のスペインに行くことにしたからだ。目的は、はっきりしている。バジャドリードで、死んだ闘牛士ビクトル・バリオを讃えるフェスティバル闘牛と、フェリアの闘牛にホセ・トマスが出場する。つまり、2回ホセ・トマスが観れる。それと、死んだ闘牛士のためのフェスティバル闘牛に、ホセ・トマスが出ることは、今回が最初で最後のような気がするからだ。
4回も行くつもりはなかった。しかし、ネットで切符が買えることを知り、やってみたら簡単に買うことが出来てビックリ。闘牛場には一杯人が並んでいたので、ダメだと思っていたのに・・・。サン・イシドロの時と同じで、ネットだとラス・ベンタス闘牛場でもそうだし、バジャドリードでも簡単だった。驚きだ。でも、もうアボノは売り切れている。後は、1枚ずつの販売の時だろうけど、ホセ・トマスが観たいなら、難しいだろうと思う。後は、ネットで落札するか、ダフ屋から買うかになる。
オリンピック、女子卓球シングルの福原愛は、ロンドンの銅メダルの選手に4−0のストレートで勝ってベスト4に進んだ。神がかっている勝ち方。ここまで、1セットも落とさずに勝っているのは、中国二人以外は、福原愛だけである。メダルが行けるかも知れない勢いだ。7人制ラグビー初戦は、金メダル候補のニュージーランドに14−12で逆転勝ち。ラグビー・ワールドカップと同じ、ジャイアント・キリング。こんな事、起こるんだと興奮した。
8月11日(木) 晴 4641
今日の暑い。オリンピックは、金ダメルラッシュ。
いくら神がかっている福原愛でも、前回金メダリストの李暁霞(リギョウカ)には、全く通用しなかった。攻めても攻めても返してきて、決められる。全く歯が立たない。前後左右に振っても、何をやってもダメというのは、諦めもつく。眉間に皺を寄せて苦悶する暇もない敗戦。
ようやく柔道で、男女金メダルを取った。ベイカー茉秋(マシュー)、田知本遙。安定感のある戦いだった。それと7人制ラグビーは決勝トーナメントに進出し、初戦フランスに勝った。準決勝進出。すごい!そして、男子体操個人総合で、内村航平が連覇。金メダル。最後の鉄棒で逆転して連覇を決めた。日本は金メダルラッシュ。
8月12日(金) 晴 10815
今日も暑い。85年の今日御巣山に日航ジャンボ機墜落した。今年も遺族は慰霊の登山をした。その今日、羽田空港では、ベルトコンベアーのセンサー故障で、荷物が搭載されないトラブルが発生した。
オリンピックはメダルラッシュが続く。卓球男子シングルで銅メダルと取った、水谷隼。彼は著書の中で、異常性を持つ人間がチャンピオンになると書いているという。準決勝、中国の馬龍との対戦の時に魅せたラリーは、凄かった。お互いがスマッシュの連続で、観ている途中から感動が沸き起こる。ラリー後の観客の歓声と喜び様は、歓喜に満ちあふれていた。手を振ったり叩いたり、満面笑みだった。やっぱり女子に比べて迫力が違う。直線は、規律や正しさ、スピードを感じさせる美しさ。曲線は、そういうモノから外れているが、だからこそ、心引かれる。美しさを超える感動を含んでいる。スマッシュの描く放物線は美しい。直線はスポーツ的だが、曲線は芸術的だった。闘牛と同じだ。人は、直線より、曲線に感動する。それは、感情を自由にする。だからその曲線と、それを観ている自分を繋ぐ。感情の枠を飛び越えようと躍動する。
表彰式の後、「きょう負けたら一生後悔すると思った。死にたくなると思った。絶対に負けたくないという気持ちで頑張りました」といい、「表彰台は富士山より高かった」と言った。子供の頃からの夢を叶えた。
4位になった、7人制ラグビー。日本中の人や世界のラグビーファンの想像を超えた結果を生み出した。準優勝したイギリスとは予選で、2点差で負け、優勝したフィジーには決勝トーナメント準決勝では、5−20で負けた。決勝は、43−7だったので、イギリスより良い結果を出していた。ところで、以下の記事が載っていた。
「――まずは先ほど行われた3位決定戦についてお聞きします。南アフリカ戦は点差(14対54)が開きました。
肉体的な疲労と、そこからくる脳の疲労が結果につながった試合でした。
この大会で日本代表は1試合ごとに成長して自信をつけていたと思います。そして、メダルが目前になったことで高揚感もあったはずです。その結果、準決勝のフィジー戦(5対20で敗戦)、南アフリカ戦ではアタックでコンタクトが増えて、自分で気づくよりも早く疲労がたまり、その影響が出たと思います。
――脳が疲れると、どんなことが起こるのでしょうか?
南アフリカ戦で特に見られましたが、アタックでは「スペースがある」と錯覚してディフェンスの間を走ってタックルされ、ボールを失うシーンが目立ちました。セブンズではターンオーバー(ディフェンスがボールを奪取すること)からの得点が一番多いので、勢いに乗って個人で攻めてボールを失うと一気にトライされてしまいます。
日本代表が良いアタックができていた時は、無理をせず、チームとして空いたスペースを攻めていましたが、南アフリカ戦では特にリスキーなランが増えてしまいました。これは体が疲れ、脳が疲れることから判断ミスが増えているのです。
――ディフェンスにも影響が出たでしょうか?
ディフェンスでも脳が疲れていると自身が立つ位置の判断が少しずつ遅れます。セブンズは「グラウンドが広い」というイメージがあると思いますが、実際には正しい位置にディフェンスがいればスペースはそんなにありません。日本もニュージーランド戦(14対12で勝利)では正しい判断ができていたので、ニュージーランドはオフロード(タックルを受けながらのパス)や思い切った攻撃選択ができませんでしたが、南アフリカ戦では少しずつ判断と反応が遅れたので、狭いライン際を抜かれるなどディフェンスが機能しませんでした。
」 ーー「ラグビー日本代表、大躍進の世界4位 斉藤祐也が好成績の理由を解説」スポーツナビよりーー
スポーツにおいても、脳が疲れると言うことが語られているのに驚いた。非常にクリアーな感じで今年は闘牛が観れた。久々もあったので、脳が闘牛にフィットして観れたのだと思う。セビージャでの闘牛の初日で、感覚が大体掴め、ヘレスの闘牛でなるほどを思い。ラス・ベンタス闘牛場のサン・イシドロで、完全に戻った感じだった。あれだけコリーダ・ドゥーラを観ていても、脳の活動が活発だった。今までで1番色んな事が冷静に観れていたと思う。ところで、7人制ラグビーの前後半の始まるときになるファンファーレは、闘牛の時のものに似ていた。そういえば、昔卓球で世界的な選手だった日本人が、卓球とは、100m走をしながら、チェスをするようなものと、言ったそうだが、水谷選手のラリーを観ていて、運動神経や反射神経だけじゃない凄さを感じたが、もの凄く脳を使っているのだろうと思った。
金藤理絵のステージを見せたいと、言っていたが、2位に1秒以上の大差をつけて、世界ランキング1位の実力をオリンピックで証明した。家族の支えと加藤健志コーチとの二人三脚で掴んだ。92年バルセロナの岩崎恭子以来24年ぶりの200m平泳ぎの金メダル。あの時は、「今まで生きてきた中で、1番幸せです」と、14歳の少女の言葉で、一躍時の人になった。
「レースを終え「信じられない」と感極まった様子の金藤。自身の持つ日本記録更新はならなかったが「最低限の目標を達成できてよかった」と笑顔を見せた。
08年北京五輪で7位入賞したが、12年ロンドン五輪は出場を逃した。14年には引退も決意した。しかし、東海大時代から10年間指導を受ける加藤健志コーチから「周りはみんなおまえのことを考えているのに、何でおまえは自分のことしか考えないんだ」と言われ、半ば投げやりな気持ちで続行。それでも支えてくれる人に最後の雄姿を見せよう、と戦う覚悟を決めた。
誰よりも練習を重ね、4月の代表選考会では2分19秒台をマーク。金メダル最有力候補に浮上していた。
「加藤コーチのことを信じ続けてきて本当によかった」と2人の歩みを振り返ると感極まった様子。「仲間や家族、そして加藤コーチの家族にも応援してもらえ、だからこそ世界の頂点狙ってやってこられたと思います」と感動と感謝で声を震わせた。」 ーースポニチよりーー
オリンピック選手のほとんどが、親がその競技をやっていた人が多く、家族の支えは選手にとって非常に重要だ。加藤コーチが言っていた。「金メダルよりも、金藤の変わりよう。人ってこんなに変わるんだと、それに感動しました」 突然だが、父親が急遽入院した。近いうちに帰省するかも知れない。といっても、今はお盆休みで帰省ラッシュ。
8月13日(土) 晴 6957
朝、連絡が来たので盛岡へ帰る。
8月21日(日) 晴 44939/8
東京に戻った。13日の朝、弟からメールがあって、危篤状態。馬場に行って新幹線の切符を買い、上野へ向かった。上野に着いたら、仙台の手前で、停電があり遅れていることを知る。取りあえずタバコを吸って、駅員に聞いたら、2時間後くらいに出発だと言う。直近での盛岡行きを聞くと、10分後くらい。それには、持っている切符では乗れないと言うから、親が死ぬって時に、そんなこと言ってられないでしょう。と言うと、駅員は黙った。
新幹線に乗って、大宮への途中、メールで父親が死んだことを知る。お盆の帰省で指定席はなく、2時間ちょっと立っていた。盛岡到着前に、遺体を通夜・火葬を待つ間、葬儀屋の施設に移動した事を知る。昼過ぎ盛岡に着いて、そば屋で昼食を取ってタクシーで向かった。弟と叔父さん夫婦がいた。直ぐに、親父に対面した。顔に掛けられた布を取る。痩せた顔があった。冷たかった。それから、手や腕、足を触った。太股は細く、とても一人では立てそうにないほど筋肉が落ちていた。腕も細く、紫色の模様が体に出来ていた。循環器が悪いから、毛細血管が機能しなくなっていたのだろう。
13日11時33分死亡。お盆なので、お寺が忙しく、葬儀がお盆明けになっていた。通夜15日。火葬16日。葬儀・法事が20日。火葬まで、葬儀屋の処に泊まることにした。昼は高校野球、夜はオリンピック。テレビばかり観ていた。弟や叔父さん夫婦と話をして、日程に合わせて準備するものやら何やら整えた。火葬前に、家に戻り掃除をした。
靴や喪服を用意して貰ったりした。火葬に、向かいに住んでいたYYが来た。小学校から高校まで通ったYYを久しぶりに観たら、髪の毛がすっかり白くなっていた。母親は目が見えなくなって、嫁さんとも仲が悪く、介護のために休職中だという。来春には退職すると言っていた。久々に来たいとこにも会った。話が出来なかった。誕生日が同じ日のいとこが、もう帰ったのかな、観てくると探し行ったがいなかった。親が離婚したから、叔父さんは、親族扱いしないといっていた。年が近かったから、お祭りとかの時は行ったり来たりした。八幡の時は、実家の料亭に毎年招かれて、美味しい料理を食べた。舟っこ流しの時は、こっちに来て、おばあちゃんが手料理を振る舞った。遠い昔の思い出だ。
火葬の日に、舟っこ流しがあった。家から歩いて5分くらい。北上川と中津川と雫石川が合流して明治橋までの間の河原で行われれる。堤防には階段状の観覧席が作られている。子供の頃はなかった。もっと木があったり草がぼうぼう生えていたが、今は整理されて出店なども出ている。13の町内自治会から舟が出ている。うちの町内からも出ている。昔は駒形神社の横に舟をかざっていたが、今は寄り合い所の近くになっていた。
お経の後、舟が北上川に入って行き、燃やされる。200年以上続く、仙北町のお祭り。子供の頃から当たり前に観ていた。長い間続いていた。東日本大震災の後もそうだし、賢治生きていた時代の3つの大津波の時も。舟に仕掛けられた花火や、燃える音を聞きながら、暮れていく風景を記憶しようと思った。暗くなってきた空には、満月に2日前の月が浮かんでいた。
舟っこ流しが終わり、灯籠流しが始まった。子供頃は河原から流していたと思ったが、今は川の中程まで、人の列を作り灯籠を手渡して流していた。派手に燃え、花火が鳴ったりする、舟よりも、この静かな灯籠流しの方が好きだ。北上川の流れるかすかな音、風に揺れながら炎がゆらめき、それが川に映っている姿。その静けさが好きだ。それを観ながら来年は、親父の戒名を舟に貼らないと思った。
8月22日(月) 雨 4103
台風が来ている。関東直撃の台風で、航空便の欠航や電車の運休が数多くある。北海道は、その前の台風が直撃して河川の決壊があって危険な状態。この台風も明日の未明には、北海道に上陸する予報。
17日は台風で雨。18日は暑かった。18日オリンピック女子レスリングで、3人が終了間際に逆転で金メダル。翌19日未明、バドミントン女子ダブルス決勝。セット1−1の第3セット、16−19になった後、松友がフェイントなどで3点取り同点にして、それから高橋が2点取って逆転での優勝した。もうこれ以上取られたら負けるという状況で、松友は非常に冷静にフェイントを使い、自分たちのペースを取り戻した。
相手選手からすれば、シャトルが描く放物線を、強く打って点を取りたいだろう。そういう気持ちをかき乱すには充分の、フワッとした放物線がコートに落ちた。あれは、いやらしい。やられたという気持ちと、こんな時にこんな冷静なプレーが出来る事に、脅威を感じただろう。そしてガックリするような現実を突きつけられただろう。その次も中央を意識させられた後に、対角線上にクロスを打ってシャトルが落ちた。解説のオグシオペアの小椋久美子は、「やーもう冷静ですね。ずっと真ん中のコースを打っていたので、ペダーセン選手は真ん中のレシーブを意識しているところを、クロスに打たれて。この判断力。ホントに素晴らしいですね」と、松友の冷静さを讃え、賞賛していた。日本から駆けつけた応援団は、その度に飛び上がって声を出して騒いでいた。
次はネット際の撃ち合いから、松友がスマッシュを決めて19−19の同点。後は、高橋が緩急をつけ相手のミスを引きだして21−19で逆転で勝った。アナウンサーが、小椋さんが泣いていますと、言っていた。オグシオもスエマエもメダルには届かなかった。前回が、フジガキは銀だった。そして、悲願の金メダル。昔、オグシオ対スエマエの日本選手権?を観に行った事がある。写真集を出すくらい人気だった、オグシオとオリンピック4位のスエマエ。男子もあるのに、最後が、女子ダブルス決勝だった。つまり、メインイベントが女子ダブルス。そして、やっぱり1番盛り上がった。今年は久々に代々木体育館にタカマツペアを観に行きたいなぁという気持ちになった。
女子シングルの銅メダルの奥原希望(のぞみ)は、コートに入る前に必ず、注意事項などを口に出して言う。それが彼女のルーティン。あの正しさは、美しい。顔とかそういうことではない。ヘストが美しい。つまり、姿、態度が美しい。それは、仏や神に仕える、尼や巫女の様な清らかさを感じさせるからだと思う。男にはない、清らかさだ。あのヘストは、奥原希望そのものに、輝きを与えている。準決勝で、インドの長身選手のスマッシュにビビッて負けたが、優勝したスペイン選手には、過去何度も勝っている。男子選手が問題を起こしたバドミントンも、こうやって女子選手の活躍で、払拭した感がある。
どんな状況においても、冷静さを失わない松友のプレーに感動しながら、父親の死を考えたりした。オリンピックでの日本選手の活躍に涙したが、父親の死には、涙を流さなかった。死後にいろいろやらなければならない忙しさがあるが、冷静にしなければという思いが強かった。それでも、寺山修司のセンチメンタリズムのように、時が経てばグッと来ることがあるのだと思う。
「私は、母が出ていってから、一度も掃除をしなかった。畳の上に落ちている一本の抜け毛が、母の髪の毛だとわかると、それを指にぐるぐると巻いて長さをはかったりした。二ヶ月位は平気だったが秋風が吹く頃、銭湯に行って湯につかっているとなみだが出てきた。遠くから、銭湯まで祭囃子の音がきこえてきたときのことだ・・・・・・・・・」 ーー母恋春歌調 −−−青少年のための家出入門−−− 寺山修司ーー
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