断腸亭日常日記 2015年 11月京都旅行

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年のスペイン滞在日記です。
太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月、11月、12月の京都旅行、2013年4月京都旅行5月出雲遷宮旅行10月伊勢神宮の遷宮旅行11月京都旅行、2014年5月6月、7月の京都旅行、2015年6月京都旅行滞在日記です。

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 11月20日(金) 曇 8728 滋賀・守山のホテルにて

 京都、滋賀にやってきた。京都駅に荷物を預け滋賀、大津の石山寺へ。鮒寿司を食べようと思っていたが、食堂形式ではなく、お土産やだったのでやめて、しじみご飯を食べた。石山寺は、紅葉の盛りを過ぎていた。この寺は、紫式部が、琵琶湖に写る月を見て源氏物語の起筆した寺だという。2時間弱散策して京都へ戻った。

 そして、国立博物館へ行った。『琳派 京を彩る』を観るためだ。京は金曜日なので、20時まで開館している。1時間半くらい観ていた。尾形光琳や弟の乾山は素晴らしい。俵屋宗達は、うーん。酒井抱一は、本当に素晴らしい。全然並ばなかったけど、中は混んでいた。土日祭日と最後の3日間はとても混むだろうと思う。『風神雷神』が75年ぶりに3つ揃った10月27日〜11月8日は特に混んだようだ。宗達・光琳・抱一の3つが一緒に観れたらそれは、非常に面白かったと思う。光琳の『風神雷神』の代わりに、裏に描かれていたという抱一の『夏秋草図屏風』が飾られていた。これは秀逸だ。

 駅で荷物をとって夕食は、草津で食べた。1番入りたかった処は満員で、2番目に入りたかった処でラーメンと餃子を食べた。ここの餃子は、具に酢が含まれているようで、醤油とラー油を付けて食べる。ところで、いつも旅行の時、忘れ物をする。はじめは、デジカメの充電池を忘れたと思っていたらちゃんと持ってきていた。京都へ着いて、デジカメがないのでこれは忘れたなと思っていたら、ホテルで荷物を引っ繰り返していたらちゃんと出てきた。結局、何を忘れたかというと、パソコンのマウスを忘れてきた。


 11月22日(日) 曇 42890/2 京都のホテルにて

 昨日は、美術館廻り。京都国立近代美術館で『琳派イメージ展』、みやこめっせで、『日本盆栽大観展』、細見美術館で、『乾山』。今日は、滋賀大津の三井寺。夜は、雲龍院。昨日の盆栽は非常に面白かった。写真をガバガバ撮ってきた。日本人だけでなく、白人の外人も多かった。こういうのって、京都の盆栽を扱う店や近郊の店が多いみたいだったが、京都の店の人と白人の外人が言い争いをしていた。そういうのも面白いなと思ったし、非常に素直に自分の中に、盆栽が入ってきた。

 三井寺は天智天皇がここで勝って、天皇になった。そういう処を観ておきたいなと思った。ここの紅葉が終わっていた。大津駅からタクシーで行ったが、車中運転手が、京都より滋賀の方が1度ほど温度が低いと言っていた。そういうことでこっちの方が終わっているんだと思った。そしたら、湖東三山は、期待を裏切られるだろうなぁと覚悟した。

 夜の泉涌寺塔頭、雲龍院も紅葉が終わっていた。どうも今年は早いような気がする。でも、『京都人の密かな愉しみ』で、走り大黒で有名な雲龍院の娘役で出た中村ゆりが母親役の丘みつこが話をする庭が観たいと思っていった。言って良かったと思った。東福寺駅から歩いて10分くらい。上り坂を上っていくので汗をかいた。でも、色々想像して観たので、走り大黒もちょっと照れるような感じで見ていた。


 11月23日(月) 曇 20479 京都のホテルにて

 今日は朝から南禅寺へ行った。結衣さんと待ち合わせして、南禅院へ、行くと書道家の人と合流。臨済録の話があった。中国から戻ったばかりの坊さんの話は面白かった。中国の寺を尋ねたら、本尊が十一面観音だったが、中国の坊さんがこれは十一面観音ですが、私たちは十二面観音と呼んでいます。何故か解りますか?という問いが投げかけられ、そういうのに惑わされることなく、十二面目は、私です。と答えたら、ちょっと寂しそうに笑ったという。その時、そうか外交辞令的に、それはあなたです。という風に行けば良かったと、思ったそうだ。

 話が終わり、南禅院の庭の写真を撮った。それから、方丈を見せて貰った。貰ったというのは、話をした坊さんが総長か何かで、案内してくれたからだ。小堀遠州の虎の子渡しの庭。方丈にある、狩野永徳の絵、元信、探幽の絵。永徳は安土城や聚楽第の絵を描いたが、多くは無くなった。やはりお寺に書くというのは、こうやって残るんだと思ったが、永徳の物は、伏見城から持ってきたものだとか言っていた。

 秀吉の時代、家康の時代は、良く建物の移築や使っていた材木などを再利用した。例えば、養源院。淀姫が父浅井長政の菩提を弔う為に秀吉に頼んで創建したが、寺が火災で焼失。その後、徳川時代に妹の江が徳川家の菩提所として再建したが、その時に、豊臣家の関係するモノを排除しようとしたが、徳川家の為に切腹した家臣の血が付いた板を使用することによって、願いは叶えられた。血天井と言われる処はおそらくそういう風にして残っているのだと思う。

 案内が終わり、出口に来たら総長が、お茶を飲みますかと言って、お茶を飲みながらまた話。1時間半ぐらい我々を案内してくれたことになる。ありがたいことである。話も面白かったし色々教えて頂いた。それから、そばにある蕎麦屋に入った。そこで結衣さんたちが、こんなに長い時間話をしたのは初めてで、斎藤さんラッキーだと言っていた。多分そうだろうなと思っていた。しかも、全部ただ。臨済録の南禅院は今日は無料だったが、方丈とお茶はお金を出すものなのに・・・。

 蕎麦屋の親子丼は美味しかった。切り干し大根も京都風に出しで煮てあった。ホーと思った。そばもつゆが京都風だなと思った。書道家の人に細見美術館に誘われたが、土曜日に観ていたので、お断りして、煩悩の世界へ行くと言って別れた。まっつまり京都競馬場なのだが・・・。


 11月24日(火) 曇一時雨 20479 京都のホテルにて

 今日は、京都駅から観光バスに乗って、湖東三寺めぐりに行った。三寺の前に、まず行ったのは、永源寺。京都よりは、紅葉がある感じで、途中で雨に降られた。次が三寺で1番行きたかった百済寺。五木寛之が『百寺巡礼』で立ち寄ったときに、体力に自信がなくて大きなわらじに願の賭けて百寺を廻った。それとは別に絶賛した参道などが観たかった。贅沢を言えばもっと紅葉の盛りの時期であったなら、まさに、絶景だったと思う。

 昼食は、西明寺麓のレストランで食べ、それから山を登った。蓬莱庭の紅葉から良い具合に色づいていた。中も色づいていた。本堂、そして、特別拝観出来た三重塔の中の絵も見れたのは偶然とはいえラッキーだった。最後が、金剛輪寺。ここは参道に小さな地蔵が前掛けをして、風車が飾られている。観た瞬間、恐山のお地蔵さんを思い出した。上の本堂。その横にある「血染めの紅葉」は、赤かったが、それほどまでではなかった。それでも京都に比べると赤い色が凄い。

 バスガイドが、行きの時に言っていた。連休中に京都を廻ったが、皆さん、「うーん」という紅葉への反応だったという。11月始めに寒い日が続いてその時に反応し始めた葉は散っている様で、11月中旬は暖かい日が続き、まだ紅葉になっていない葉もあるという。どうやら、感じていた事だが、今年ははずれの年だ。それでも、湖東三寺にこれたことは、本当に良かったと思った。それと、改めてニコニコしているだけでなく、穏やかな声で観光案内してくれたバスガイドは、凄いなぁと思った。中学や高校の修学旅行でしか印象がないが、なかなか凄い仕事だなと思った。


 11月25日(水) 雨 27702 京都のホテルにて

 朝1番で、竜安寺へ行こうと思っていたが、昼にMEGUさんが来るので、やっぱり近場が良いと考え直して、東福寺へ向かう。臥雲橋から通天橋へ。臥雲橋には多くの人が立ち止まって写真を撮っている。紅葉はまだまだだ。通天橋へ向かうと大勢の人がいた。この辺には色が着いた葉が多い。橋を渡って臥雲橋近くまで行く。そこから谷を降りて橋を渡り、対岸へ行って紅葉を観る。何処も人が大勢いる。平日の朝なのに、紅葉の時期の橋には、観光客が多い。

 それから本堂、龍吟庵などに行く。紅葉の東福寺と言われるが、不作の今年でもそこそこ観れるところがある。そろそろ時間が近づいているので京都駅へ向かった。MEGUさんが到着。四条烏丸のホテルに荷物を置きに行った。それから、有名な日本料理店で、弁当を食べた。美味しい。2000円という値段でこれだけの料理が出せるのが京都の日本料理の底力だと思った。MEGUさんも大満足。

 それから観光へ行った。今日は、毘沙門堂へ。全く期待していなかった紅葉が、1カ所あった。そこには人が集まる。多分このために和服を着てきた女性6名が入れ替わり立ち替わりポーズを取りカメラに収まっていた。期待していない分、こういうのは嬉しい。MEGUさんも写真を撮ってあげた。それから、勧修寺へ行ったが、受付がもう閉まっていたが団体がいるから16時半までならと入れてくれた。ここは桜の木が多く、池には枯れた蓮が沢山あった。秋に来る処じゃないなと思った。

 四条へ戻りMEGUさんはホテルへ。その間コーヒーを飲んで待った。それから5分もしない日本料理店へ行く。何度も行っている店。雨が降っている。再び落ち合って、店に向かった。入口にミシュランで★を貰っていた。開店して半年後にISOさんと3人で行った店。そこで、絶品といえる堀川牛蒡の椀モノを口にしたとき唸った。それからほぼ毎年の様に来ている。ミシュランに載ったのは今年の秋からだという。それは凄いことだ。そういう風になる前から行っていた店が有名になるのは良いことだ。で

 1番安いおまかせコースを頼んであったので、それを頂く。今日は唸るほどの料理は出てこなかったが、美味しかった。鯖の唐揚げや西京焼きは美味しかった。お造りも。この店をMEGUさんが複数の人に紹介してしたという。湯葉屋がやっていた店を紹介して欲しいと言われたというのは知っていたが・・・。その後、珈琲屋へ行って、パンケーキを食べた。これも気に入ったようだ。そして、人間関係とか色々話をした。難しいよな。でも、サルトルの様に軽い絶望を感じながら、希望を持っている。希望というのを発見しなければならない。それは、来年になるのか、その先になるのか解らないのだが・・・。


 12月4日(金) 晴 147753/9

 東京へ戻ってきた。車中、雪の富士山が見えた。26日は、鷹峯に行った。常照寺、源光庵、光悦寺、圓成寺を観て、大徳寺の塔頭、大滋院の泉仙で精進料理の昼食。それから、黄梅院、高桐院を観た。それから錦市場を下見。夕食は、京野菜を出すイタリアン。27日は、無隣庵、青蓮院、前日下見をしていた錦市場でお土産を買い、昼食を取り新幹線で帰ってきた。

 京都の紅葉は、今までで最悪の状態だった。前にも書いたが、11月の始めに寒くなり、その後暖かかった。その影響で初めの寒さで反応したモノと、26日くらいから寒くなったので、それに反応したモノとがあり、一気に紅葉に色づくことがなかった為と思う。その証拠に、京都から帰ってからの京都新聞のHPで観る紅葉状況は、12月になって見頃が増えたが、いつもの赤い色が出ていない。

 こういう状況だと、来年の紅葉の時期の旅行は考え物だ。これほどはずれの年もないと言うくらい非道い紅葉だった。それと、外国人観光客は、日本語を読めないからだと思うが、やってはいけないことをやっている人たちがいた。白人はそうでないが、中国系と思われる若者がそういうことをしていた。日本でも、若者はお寺など興味がないだろうが、それだったら来なければ良いのに、来ては結果的にいたずらになるような事をしていた。ああいうのは、観たくないことだ。

 水木しげるが死んだ。ああいう人は、二度と出てこないだろう。招集されたが、だめ兵隊で、前線に送られ、左腕を失う。終戦で帰還し貸本屋の漫画作家になるも売れない時だが長かった。代表作、『ゲゲゲの鬼太郎』は40代になってからで、主題歌の作詞も手がけた。

♪ゲッ ゲッ ゲゲゲのゲ 朝は寝床で グーグーグー
 楽しいな 楽しいな お化けにゃ 学校も 試験も何にもない♪

 テレビで放送されたアニメの主題が流れたが、学生やサラリーマンが、替え歌を口ずさみ大ヒットした。水木さんの人柄が、こういう詩を書かせたのだろう。水木さんは、あの世に行って、戦友や現地の住民、のんのん婆、妖怪と楽しくやっているのだと思う。


 12月10日(木) 曇 61145/6

 「パリやロスにちょっと詳しいより 京都にうんと詳しいほうが かっこいいかもしれないな。」 JR東海が1993年に始めた「そうだ京都へ行こう」のポスターのキャッチコピーだ。テレビでは、長塚京三が読み上げた。「京都人の密かな愉しみ」に主演する常盤貴子。京都人らしい着物姿で主演を演じる常盤貴子。その旦那は、長塚京三の子、圭史の妻が常盤貴子である。圭史は今、朝ドラ「朝が来た」で炭坑で働くサトシ役で出ている。

 長塚京三と常盤貴子は、長塚圭史で、親子の関係になったが、京都で結ばれているような気がする。なんか不思議は気分だが、良い感じだ。

 「小説「火垂(ほた)るの墓」などで知られる作家で、「焼け跡闇市派」を自任する傍ら、歌手やタレント、元参院議員として幅広く活躍した野坂昭如(のさか・あきゆき)さんが9日午後10時半ごろ、心不全のため東京都内の病院で死去した。85歳だった。密葬は近親者で営む。本葬は年内に営む。喪主は妻暘子(ようこ)さん。

 1930年、後に新潟県副知事になる父相如(すけゆき)、母ヌイの次男として鎌倉に生まれ、間もなく母が亡くなったため、神戸市で貿易会社の支配人を務める親類へ養子に出された。

 神戸市立第一中在学中の45年、神戸大空襲で家を焼かれ、養父は死亡。疎開先の福井県では義妹を栄養失調で失う。この時の体験は「火垂(ほた)るの墓」のモチーフとして生かされている。47年に上京したが、万引きなどが発覚し、少年院に入れられた。この年実父に引き取られ新潟へ。野坂の姓に戻った。

 49年新潟大教育学部新発田分校に入学するが3日後に退学した。50年、早稲田大文学部仏文科に入学。古着の行商など、さまざまなアルバイトを経験した。在学中から三木鶏郎(みき・とりろう)音楽事務所、後の「冗談工房」で事務員を務め、やめてからコント執筆を開始した。授業料滞納で大学を除籍後、CMソングの作詞を始め「セクシー・ピンク」など多くのヒット曲を生んだ。

 61年からコラムニストとして活躍しだし、63年「エロ事師たち」を連載、三島由紀夫、吉行淳之介らに絶賛され、作家として注目される。同年、作詞した「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞童謡賞を受賞。

 68年「アメリカひじき」「火垂るの墓」で第58回の直木賞を受賞した。「真夜中のマリア」「マリリン・モンロー・ノー・リターン」などの小説を発表、七五調の歯切れのいい独特の文体で人気を呼び、人気作家となったが、72年編集長をしていた雑誌「面白半分」に永井荷風作と言われる「四畳半襖の下張」を掲載したことで、わいせつ文書販売等の罪で起訴され、有名作家を次々と呼ぶ法廷戦術は話題となった。74年参院議員選挙に無所属で東京地方区から立候補し落選。東京高裁、最高裁と争われた「四畳半」裁判は80年有罪が確定した。

 83年参院比例代表に二院クラブから名簿記載順位1位で立候補し当選したが、同年田中角栄元首相の選挙区、衆院旧新潟3区から無所属で立候補、落選した。

 ほかの主な作品に「骨餓身峠死人葛」「水虫魂」「死小説」「自弔の鐘」(毎日新聞連載)、三島由紀夫論の「赫奕(かくやく)たる逆光−私説・三島由紀夫」などがある。

 野坂さんは、2003年に脳梗塞(こうそく)で倒れたあと、自宅でリハビリを続けながら、本紙朝刊くらし面で、07年2月から「七転び八起き」の連載をスタート。今年3月まで200回にわたり、平和への思いなどをつづった。連載には、妻暘子さん撮影の、野坂さんの近況を伝える写真が添えられていた。」 ーー毎日新聞よりーー


 12月24日(木) 雨のち晴 140006/14

 例えば、『花燃ゆ』にしても『あさが来た』にしても、幕末から明治にかけてを描いている。激動の時代は、面白い。今までは小説や映画などでは主に、幕末が描かれた。明治は、小説や映画にはならない。仮にテレビで描かれたとしても、視聴率が悪かった。そういう時代に明治を描いたのが山田風太郎。そして、明治が面白いという認識が広まったのだと思う。

 『花燃ゆ』で描かれた、松蔭の松下村塾や、高杉晋作、久坂玄瑞、小田村伊之助(楫取素彦)は、面白かった。高杉晋作が結核で死の床に入った辺りで、妻が裏切られたと言い、もう気持ちが切れたという様なことを、文にいう。松下村塾で先頭を走って、下関で外国と戦火を交え、交渉をして、長州征伐の幕府軍が迫る中、挙兵して藩政を俗論派(椋木)らを追い出し、倒幕の足がかりを作った。その時文は、いっつも先頭を走って、みんなの手本になろうと、孤独だったと思います。そういう時に女の方がそばにいたんだと思います。今は肩の荷が下りたんだと思います。そんな様な事を言ってたしなめた。

 先頭を行く者の孤独は、おそらく深いモノだ。

 三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい 高杉晋作

 落語でも有名なこの都々逸。主は、妾ではなく、妻・雅のことなのかも知れない。

 おもしろき 事もなき世に
 おもしろく  (上の句:高杉晋作辞世)
 住みなすものは 心なりけり  (下の句:野村望東尼)


 12月25日(金) 晴 7686

 先日、安藤昇が死んだ。やくざの組長で、その後、映画俳優、プロデュースなどやっていた。非常に印象深いのは、横井英樹襲撃事件である。ウィキペディアでは、横井の態度に激怒して暗殺を計画したと書いているが、私の記憶が確かならば、生かしておけば、世の中の為にならない。というモノだった。その後、横井英樹は、ホテルニュージャパン火災事件では、経費節約でスプリンクラーなどの設備を誤魔化して33名の死亡者を出した。安藤昇の言うとおり、生かしておけば、世の中に為にならいないという感覚は正しかった。

 今日浪曲師、国本武春さんが死んだ。非常に驚いている。Eテレなどの子供番組で、狂言の野村萬斎などと出演して子供から年寄りまで幅広いファンを持っていた。また、その活動は様々な音楽と競演をし、アーティスト、シンガー・ソングライターのようだった。

「興行師が広沢虎造の興行権を10日間もらえたら、家が一軒建つ。戦前から戦後にかけて、浪曲全盛期の語り伝えである。いまでは想像もつかない遠い昔話だろう◆この人ならばもう一度、古典を現代につなげてくれるかと、見守ってきた浪曲師がいる。いた。レイ・チャールズを尊敬し、ナナハンにまたがり、ロックを歌いながら伝統芸の道に精進した。誰が呼んだか"うなるカリスマ"、国本武春さんである。◆「義理」と「人情」に何を加えれば、浪曲は現代人の心に響くのか。国本さんは本誌に語っている。<愛なのか、友情なのか、いまの僕には分からない。でも、ほんの近くまでたどりついた実感もあるんです>最後に聴いた高座は3年前、東京・浅草木馬亭の『佐倉義民伝』である。大病を克服した後と思えぬ渾身の熱演に安心していたので、突然の訃報に驚いた。まだ55歳という。ようやく見つかりそうな命がけの探し物を道半ばに、無念であっただろう◆浮かんでくる一節がある。<腕は黒鉄、度胸は真鉄/打てば響くよ男の胸に/男千両の音がする・・・>颯爽としたその人の、後ろ姿が節に重なる。」 ーー読売新聞・編集手帳よりーー


 12月31日(木) 晴 63778/6

 大晦日。今年1年を振り返る事もなく、1年が過ぎていく。


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