−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年のスペイン滞在日記です。
太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月、11月、12月の京都旅行、2013年4月京都旅行5月出雲遷宮旅行10月伊勢神宮の遷宮旅行11月京都旅行、2014年5月6月、7月の京都旅行の滞在日記です。
3月11日(水) 晴 7152
あれから4年が経った。あの日の朝、仕事が終わって東京駅から新幹線に乗って京都へ向かい。結衣さんと駅ビルで昼食を取り、それから奈良に向かった。東大寺のお水取りを観るためだった。奈良への乗換駅で地震にあった。奈良は震度3だった。電車が来て乗ると、向かいの婆さんたちが、携帯を観ながら「震度7だって」と、言っているのを訊いて、瞬間的に震源は三陸沖だ!!!と、思った。
奈良のホテルにチェックインして観光どころではなくなってテレビにかじり付いていた。僕の田舎と東北の被災地の人のことを考えると、世界が変わった様な気がした。夕方、東大寺に出掛け、2時間くらい寒さに震えたが、被災している人たちのことを考えると、自分が暖かい夕食を取り、風呂に入り、ホテルにいるのが、良いのだろうかと思った。
その年の6月に世界遺産に登録された平泉に行き、宮古の被災地を観に行った。宮古駅から海近くの市役所の方まで歩いていくと、津波の跡が残っていた。市役所から港の市場へ行った。横には瓦礫が積まれていた。何とも言えない気分になった。市場を歩いて観て、それから駅まで帰ろうと思って、そこにいる人に、駅行きのバスがあるか聞いたら、ちょっと待ってと、その人が言って、2分後に戻ってきて、車で送ってくれるという。
車中、その人は、震災直後に色んな人が来て手伝ってくれた。本当にありがたかったと言っていた。これから何処行くの?田老町へ行って観ようと思います。あー行った方が良い。観ておんで。お礼を言って駅で別れ、バスに乗ろうとしたが、帰り時間的に問題があったので、三陸鉄道で行くことにした。田老町に着いたホームから防波堤まで1キロくらいあるがその間には、家が1軒も建っていなかった。防波堤前には瓦礫の山があった。ガードレールは折れ曲がり、改札に降りる階段にまで津波の跡があった。
今日政府が開いた、東日本大震災4周年追悼式で、宮城県代表で菅原彩加(さやか)さん(19)=石巻出身=のことばを訊いていて涙がこぼれた。
「私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。
あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
そんな体験から今日で4年。
あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが、今もまだ夢の様です。
しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。
震災で失った物はもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。
最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。」 ーー朝日新聞よりーー
結果的に、母親を見捨ていることになったと言う負い目は、少女の心を一生付きまとい傷つけているのだろう。それでも、「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」と思って生きて行こうとする気持ちが伝わってくる。苦しかったのだろうなぁと思う。そして、そういう人が、一杯いるのだろうと思う。
3月18日(水) 晴 103132/7
昨日は、20度を超えて半袖で街を歩いている人もいた。今日も暖かかった。もう春の気配が満ちている。そんな中、上野の国立博物館へ行ってきた。実は先週も行った。『みちのくの仏像』『3.11大津波と文化財の再生』を観た。今日の目的は、東洋館-TNM&TOPPAN
ミュージアムシアター で行われている『洛中洛外図屏風と岩佐又兵衛』の映像である。35分の映像だが、面白かった。岩佐又兵衛は、去年の大河ドラマ『黒田官兵衛』の中でも出ていたが、荒木村重の遺児が岩佐又兵衛である。
国立博物館のHPには、「浮世絵の創始者ともいわれる奇才の絵師、岩佐又兵衛が重要文化財「洛中洛外図屏風(舟木本)」(東京国立博物館所蔵)に描いた京都の人びとの様子を、大型スクリーンに実寸の約100倍まで拡大投影し、緻密な人物表現をつぶさに鑑賞します。また、岩佐又兵衛の人物像を紐解きながら、又兵衛の描いた洛中洛外の世界に迫ります。」と書いてある。
洛中洛外図屏風舟木本は、春から冬を右から左へと普通の洛中洛外図屏風と逆に描いているという。右端に、方広寺、豊国神社が描かれ、左端に、二条城が描かれている。その間には、市井の京の人々を描いている。つまり、豊臣から徳川の時代に変わるその時代の京を描いているのだという。
人々の描き方が後の浮世絵に影響を与えたという。「憂き世」ではなく、「浮き世」を描いた。洛中洛外図屏風舟木本のコピーがシアター前に飾ってあったが、実物は人が3cmくらいの小ささだが、映像では大きく詳しく観ることが出来る。気付いたのは、なんば歩きがそこに描かれていた。右手と右足を同時に出して歩く日本人独特の方法である。これは着物の裾が乱れないようにこうなったとも言われているようだ。舟木本には、多くの人々が描かれているが、歩くときの踊るときもなんば歩きの様に描かれていたのは、発見だった。
4月6日(月) 晴 233044/19
じぇじぇじぇ!ハリル・ジャパンが目覚めたように素晴らしい結果を残し、高校野球は、北陸に優勝旗が始めた渡った。リーガは、レアル・マドリードが、ハメスが復帰したら、9−1と圧勝。クリスティアーノ・ロナウドが5得点を入れる馬鹿らしい結果。『仁−JIN』の再放送が始まったかと思うと、今日から『あまちゃん』の再放送まで始まった。また、毎朝、あまちゃんが観れる。
4月15日(水) 曇 69969/10
『JIN−仁』が終わり、『JIN−仁 完結編』が始まった。じぇじぇじぇの『あまちゃん』の再放送は9月まで続く。楽しみが続くことは良いことだ。桜花賞は、ルージュバックがまさかの完敗をして、レッツゴードンキが逃げ切り勝ちで、2着3着がディープ産駒。三連複で3万円を超える配当だった。昨日のCLは、ホームビセンテ・カルデロンでレアル・マドリードに0−0で引き分けた。何とか勝って欲しかったが、そうはならなかった。
昨日は、研修で終わってから、いきなりステーキに行って300グラムのステーキを食べて満足だ。ぺろっと食べれた。今度はランチでも試したい。
4月24日(金) 晴 91382/10
桜の花が満開から散る頃に、つつじのつぼみがちらほら見えていたが、今はつつじの白やピンクや二つの色が混ざったモノも咲き始めている。京都仁和寺の遅咲きの御室桜は、今頃満開だろうなぁ。東京でも、八重桜がようやく散った。
『JIN−仁』の綾瀬はるかは、やっぱり素晴らしい。洋服よりも、圧倒的に和服で日本髪の方が役に、はまっている。『JIN−仁 完結編』も後半になった。見落としているところもあり、楽しんで観れる。
5月4日(月) 晴 108759/10
昨日、京都競馬場で、春の天皇賞が行われた。発走前にゴールドシップがごねて、ゲート入りを拒んだ。鞭を入れられても入らず、目隠しをしてゲートに入った。まるで、メジロマックイーンのようだった。WINSで観ていたが、隣の親父が、6歳になってこれじゃ、八百長だろう!と、怒っていた。が、度量がない奴だと思った。ゴールドシップが勝たなくて、天皇賞じゃないだろうと思っていた。そのゴールドシップがようやくゲートに入って発走が近づいていた。
「第151回天皇賞・春(3日、京都11R、GI、4歳上オープン国際(指)、定量、芝・外3200メートル、1着本賞金1億5000万円 =出走17頭)横山典弘騎乗の2番人気ゴールドシップが、2周目向こう正面でスパートし、直線でもうひと伸び。天皇賞・春3度目の挑戦で念願の初勝利をあげ、GI6勝とした。タイム3分14秒7(良)。このあとは史上初の3連覇がかかる宝塚記念(6月28日、阪神、GI、芝2200メートル)に向かう。2着はフェイムゲームが入り、1番人気のキズナは伸び切れず7着に敗れた。
何から何まで芦毛の怪物のひとり舞台だった。ゲート入りを嫌がり、レース序盤は最後方を追走、常識外れの2周目向こう正面からのスパート…。スタンドのどよめきはゴール前で最高潮に達した。ゴールドシップが3度目の正直で天皇賞・春を初制覇。昨年の凱旋門賞以来、再びコンビを組んだ横山典騎手が、秘策を見せて気まぐれなパートナーを6度目のGI勝利に導いた。
「行けたら行こうと思っていたが、気分を害してはいけないと思ってあの位置から。きょうは『頑張ってくれ』とゲキを飛ばしました。僕と彼との戦いでしたが、彼の勝ちです」と鞍上はパートナーをたたえた。
行き脚がつかず道中は最後方も、2周目の向こう正面で温めていた秘策を繰り出した。左ムチを入れてポジションを押し上げる。最終コーナー付近では4番手に。直線ではしぶとく脚を伸ばして先に抜け出したカレンミロティックを捕らえ、フェイムゲームをクビ差抑えた。
「きょうの乗り方が秘策です。天皇賞・春は使わない方向と聞いていたけど先生とオーナーを口説いて乗せてもらったので、結果を出さないといけないと思っていた。ホッとしました」と横山典騎手の喜びもひとしお。「30年騎手をやってきた中でも面白い馬。こういう馬こそ腕の見せどころ。いい仕事ができました」と会心の笑みを浮かべる。
小林英一オーナー(83)の代理として京都競馬場で観戦した次男の正和さん(46)=北日本精機専務取締役=は、「3度目の正直で勝つことができました。横山典騎手が心肺機能の高さを引き出してくれました」と興奮気味。オーナーは北海道の自宅でテレビ観戦したそうで、「父も獲りたかったタイトルですからね」と笑顔を見せた。
生産した出口牧場の出口俊一場長(58)は「まずは無事に帰ってきてほしいと…。GIは何度勝ってもうれしい。本当にポイントフラッグはすごい母です」と胸を張った。現在、牧場には1歳の全妹がおり、4月10日には全弟も誕生したという。」 ーーサンスポよりーー
天皇賞・春は、始まる前から終わるまで、主役はゴールドシップだった。最後方から、向正面で鞭を入れて押し上げて、直線では、2段ロケットのようにまた、エンジンが点火した。人気馬総崩れの中、ゴールドシップだけが自分の競馬をして優勝。2着、7番人気フェームゲーム、3着、10番人気カレンミロティック。人気薄が入って、馬連、馬単が高配当、、三連複、5万7千円、三連単、23万6千円という大万が出た。
馬券取れなかったが横山典弘の良い仕事を観れたのは、1週間の励みになる。しかし、後から、東京のメインのスイートピーにしろ、天皇賞にしろ、どうして、買ってなかったのか後悔する、買い目だった。どっちも取れたはずだよなぁ。悔しい。今日の最終も三連複も当てれたはずだ。
5月2日は、忌野清志郎の命日。NHKで特集番組が何本も組まれていた。何本か観たが、やっぱり、『僕の好きな先生』で、グッと心を捉えたフォークグループ、RCサクセションが、『トランジスタ・ラジオ』『スローバラード』や、『雨上がりの夜空に』で、仲井戸麗市と組んでロックになって爆発的に人気を得た。
♪バッテリーはビンビンだぜ♪ ♪こんな時にお前に乗れないなんて♪ ♪こんな時に発車出来ないなんて♪
♪タバコを吸いながら いつでもつまらなそうに ・・・ 遅刻の多い僕を 口数も少なくしかるのさ 僕の好きな先生♪
5月22日(金) 曇のち晴 153723/18
帰省してきた。弟と会い、叔父さんの所へ行き夕食。おばちゃんも元気だった。良い感じの話が出来た。翌日は、母親と、父親がいる施設へ行って会ってきた。母は、寝ていた。目に一杯目やにを溜めていた。ティッシュで拭いたがなかなか取れない。水で濡らしたが、乾いて取れない。眼球にも付いていたが、それも取れなかった。年を取ってくるとこうなるのか思った。もう眠っている顔が、そのままジワになっているような感じだった。
父親は、痩せたまま。おかゆを食べているという。もう自分では歩行できない。車椅子に乗って移動する。滑舌も悪いなかなか話が解らないが、話そうとする気持ちを訊いているような感じだ。行ったとき、ベットに横になりラジオを聞いていた。昔から良くラジオを聞いていたから、らしいと思った。
盛岡の街を歩いた。中ノ橋のたもとで酔っぱらいが倒れた。そうするとあっという間に人が集まり警察か救急に電話していた。東京ならほっておくのにと思った。その先の煉瓦造りの岩手銀行。その向に建物があって、その前で東日本大震災の復興を願う仏像の写真展をやっていた。そこに、無言で盆栽の藤の花の枯れかけたモノを取っている老人がいた。見事な藤の花だった。写真を撮った。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~tougyuu/以下のHPの著作権は、斎藤祐司のものです。勝手に転載、または使用することを禁止する。