断腸亭日常日記 2016年 7月

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年のスペイン滞在日記です。
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 7月12日(火) 晴 10589

 9日テルエルで、ビクトル・バリオが牛の角に腹を刺されて死亡した。腹から角が抜けて、アレナにうつぶせになったときに、目が開いていた。この時には、死んでいたのだろう。この日、一緒に出場していた、モレニート・デ・アランダは泣いていた。でも、クーロ・ディアスの顔の方に、引きつけられた。口を閉じ、疲れ切った表情で、目の下あたりの血管が浮き出ているような感じだった。深い悲しみを抱えている表情が印象に残った。

 クーロ・ディアスは、今年のラス・ベンタス闘牛場初めのプエルタ・グランデをした闘牛士だ。もう10年くらい前だろうか、サン・イシドロで、良いファエナをして、他のフェリアにも呼ばれるようになった。もうベテラン闘牛士になったが、いつも中堅闘牛士のクラスにいる。今年は、サン・イシドロに出場していないが、ほぼ毎年サン・イシドロに出場するような闘牛士だ。

 ビクトル・バリオの死は、闘牛士、とりわけアフィショナードに、闘牛という物が非常に危険な物であることを再認識させた事件だった。フィグラ以外の年間30回出場程度の闘牛士たちにとって、相手にする牧場は、コリーダ・ドゥーラの牛が多い。常に身の危険を感じながら闘牛をすることになる。フィグラは、闘牛しやすいファン・ペドロ・ドメク系の血統の牛で闘牛が出来る。

 サンタ・コロマの血統が多い、コリーダ・ドゥーラの牛の特徴は、ブスカンドする。パセの後、返りが速く、直ぐに角が闘牛士の方を向く。利き角がはっきり判ることが多い。利き角じゃない方のパセは、非常に危険だ。そういう牛を相手に、年間30回するのは、プレッシャーを感じながらの闘牛になるはずだ。そこから、這い上がらないと、フィグラがやるファン・ペドロ・ドメク系の牛を相手に、闘牛が出来ない。ホセ・トマスは、年間60回以上闘牛をやっていた頃、命がけの闘牛は、15回くらいと言っていた。中堅闘牛は、自分の意志とは関係なく、ほとんどの闘牛で、命がけを強いられている状態なのだろうと、思う。

 多分、アフィショナードは、そういうことをあまり感じていないだろうと、思う。観客の入りも、フィグラの方が多いし、コリーダ・ドゥーラは、耳が出難いことも多い。客を呼べる、フィグラ。客を呼べない、コリーダ・ドゥーラ。一般闘牛ファンは、闘牛士を観に行く。牛を観に行く人は少ない。たとえば、クーロ・ディアスや、モレニート・デ・アランダを観に、わざわざ、遠くの闘牛場へ行くだろうか?行かないだろう。

 そういうことは、中堅闘牛士は判っているのだと思う。立ち位置が、そこである。クーロ・ディアスのあの表情は、それら全てを表現している顔なのだと思う。深い悲しみを抱えた表情は、そのことも含めた表情なのだと思うのだ。スペインでは、ウルティモ・ブエルタをいう習慣がある。闘牛士が死んだとき、地元や活躍した闘牛場で、棺を抱えて場内一周をする。闘牛場は開放されアフィショナードがそれを、拍手や「トレロ」コールで送るのだ。闘牛場で死んだ場合も、引退後の病死などの場合も同じだ。以上、クーロ・ディアスの顔を見て、感じた事を書き留めた。男は、背中だけじゃなく、顔でも人生を語っている。


 7月13日(水) 雨 4788

 テレビを観に、家電量販店に行った。2万円台で買えるようだという、話を訊いていたが、安いので3万円台だった。と言うのも、テレビだけでなく殆どが、余計な機能が付いている。外付けHDDを付けると録画できる機能。そういうモノを付けて単価を上げている。雨も降っていたので、買うのをやめて帰ってきたが、テレビは相変わらず横に線が沢山入っている状態で見れたもんじゃない。一度ちゃんと観れる状態に戻ったと思ったら、またおかしくなっている。土曜日には、買うことになるだろう。そうじゃないと、競馬が観れない。闘牛が観れない。

 天皇が生きている間に、退位し譲位する考えである事を、宮内庁から発表したようだ。スペインと同じだ。東京都知事選で、立候補予定あった宇都宮健児氏が、野党4党が押すジャーナリストの鳥越俊太郎氏と話し合い、立候補を取りやめた。これで、分裂状態になっている自民党の衆議院議員、小池百合子、自民党都連などや公明が押す、前岩手県理事、増田寛也元総務相の3人が都知事選挙戦の中心になる。


 7月14日(木) 曇 9468

 8月15日全てが判ったと、言ったという、花山。それで、ペンを置くことにしたという。花山に雑誌の編集長になって欲しいと思っている常子。五反田に相談する。五反田「僕はあの人に、この業界に残って欲しいんだ。だから花山さんに助言を貰うように言ったのさ」常子「えっ」五反田「いえ、勿論、君の役に立つと思ったからでもある。だけど、花山さんの心を変える切欠(きっかけ)にもなると思ったんだ」常子「どうして、私が行ったら花山さんが変わるんですか?」五反田「君のこと覚えてたんだ。人をけなすことしか知らないあの人は、興味のない人間にはトコトン冷たいんだよ。それが、君のことは覚えてたんだよ。裸足で走るなんて、面白い女だってさ」常子「そのことですか(笑う)」五反田「他にも、私の意地悪にめげず、食らい付いてきた。良い根性してるってさ」常子「そうでしたか」五反田「だからまだ、諦めるのは早いんじゃない。花山さんも、心の何処かでは、君が食らい付いてくるのを、待っているんじゃない」常子「いいえ。今回は本気で帰れって、おっしゃってました。でも、私諦めたくありません」

 花山の働く喫茶店を訪ねる常子。花山「どうしてここにいる。何しに来た」常子「もう一度、お話しさせて頂けませんか」花山「君がねばり強い根性の持ち主であることは知っている。だが、こんな時に発揮せんで良い」常子「昨日ご老人から伺いました」花山「ご老人?」常子「8月15日全てに気づいたって。一体何に気づかれたんですか?教えて下さい。何故、ペンを握らないのか?」花山「うるさい女だなぁ、君は。帰れと怒鳴りつけたいところだが、それでは君は帰らない、それは判っている」常子「随分お詳しい」花山「嬉しそうにするんじゃない。はー、良いか。理由を訊いたなら、帰ると約束しろ。・・・では言わん。ずっとそこで待つが良い。コーヒーをドンドン頼め。おい、おい」常子「判りました。教えて下さい。お聞きしたら帰ります」

 花山「コーヒーは好きか。良く飲むのかと聞いている」常子「あまり」花山「私は、母親が好きで・・・それで、私も好きなった。座りなさい」常子「はい」花山「家は貧しい家でね。母親が女手一つで、私たち兄弟を育ててくれたんだ。生きていくのがやっとで、母は毎日苦しそうな顔をしていた。ただ、私が10歳のある日、母の顔が突然変わってねぇ。元始、女性は太陽であった。真正の人であった」常子「平塚らいてう」花山「そうだ。らいてうの『青踏』を読み、母はようやく明るくなったのだ。言葉には、人を救う不思議な力があるんだと、子供心に感じてねぇ。私もそんな風に、ペンで人を救ったり、人の役に立つ仕事をしたいと・・・。そうして、言葉や絵の仕事に就くようになったんだ。やがて戦争が始まり、私も招集されたんだが、戦地で結核を患い帰国した。戦うことがお国のため、人々の為になる思っていた私は、役に立てなかった自分を責めた。そんな時に、内務省で宣伝の仕事の誘いを受けたんだ。これは運命だと思った」

 常子「それで人の役に立とうと」花山「お国が勝てば、全ての国民が幸せになれる。それから私は、戦地で戦う友の為、国の為に尽くそうとペンを取り、言葉を選んだ。ポスターも描いた。何の疑いもなく、一億一心の旗を振って戦争に勝つことだけを考えて仕事をしてきた。だが、去年の8月15日。その時初めて気づいたんだ。小さい頃から何よりも正しくて、優先して守るべき大事な物があると言うことが、実は間違っていたんじゃないかと。そしてそれまで、言葉には人を救う力があるとばかり思っていて、言葉の力の持つ怖さの方に無自覚のまま、それに関わって来てしまったのでないか思ってね」

 常子「怖さ」花山「そうだ。はぁ。焼夷弾は判るよね」常子「はい。戦時中、さんざん観ましたから」花山「どんな物だと教わった」常子「家々を燃やす為の物だから、落ちてきたら直ぐに消すように」花山「そう。爆弾は怖いが、焼夷弾は恐るるに足らず。と、いう言葉を教えられただろう」常子「はい」花山「その言葉は、印刷され回覧板で廻され、みなそれを目にした。新聞や雑誌の記事にもなった。だがそれは、誤った言葉だったんだ。爆弾は怖いが、焼夷弾は恐るるに足らず。とんでもない。焼夷弾も恐ろしい爆弾に変わりなかった。それを伝えてしまうと、誰も火を消そうとせず、逃げてしまう。火災はますます広がる。それを恐れて、あえて誤った言葉を教えた。それを信じた人々はどうした。落ちてきた焼夷弾の火を消そうと必死で。焼夷弾は怖くないと信じた子供たちが、老人が、女たちが、馬鹿正直にバケツで水を運んだ。気がついたときは、逃げ道はなかった。最初から逃げていれば、無駄に死なずにすんだのに。私ももし、戦時中に、焼夷弾は怖くないと書けと言われていれば、書いていただろう。そうしたら、それを信じた無辜(むこ)の命を、どれだけ奪っていたか判らん。言葉の力は恐ろしい。子供の頃から、人の役に立ちたくて、人を救いたくてペンを握ってきたはずだったのに、そんなことも判らずに戦時中言葉に関わって来てしまった。そして終戦になって、信じてきたことの全てが間違ってきたことに気づかされたとき、もうペンは握らないと決めた。これが全てだ。さあ、もう帰ってくれ」

 常子「判りました。今日は帰ります」花山「今日はじゃない。二度と、来るな」常子「やっぱり諦められません。花山さん。私は、どうしても、女の人の役に立つ為の雑誌が作りたいんです。沢山の女の人たちがいま、この戦後の日本で、物がない、お金もない、仕事もない。先行きが見えないこの非道い状況の中で、必死にもがきながら生きています。そんな皆さんの苦しい毎日の暮らしに、少しでも明かりを灯せるような雑誌を作りたいんです。コーヒーありがとうございました。また来ます」花山「来んでいい」 ーー『とと姉ちゃん』 86・87話よりーー

 シーラさんTAMAさんからメッセージが来た。ビクトル・バリオの死についてだ。29歳で、サン・イシドロにも出場した闘牛士。妻は号泣していた。ホセ・トマスのなど有名闘牛士たちも葬儀に駆けつけた事など、彼の死のことを、書いていたら、「生きている毎日を無駄にしないようにしないといけませんね。」と書いて来たので、それです!!僕らが感じることは!!それをかみ締めましょう!!と書いたら、「はい。噛み締めます!斎藤さんとお話が出来て良かったです。」と書いてあった。ありがたい言葉だ。自分自身も噛み締めたいと、強く思った。


 7月15日(金) 雨 13344

 雨が降り気温が下がった夜中。朝になり蒸している。梅雨時の暑さは、大暑や残暑の頃の暑さとは違う。こうやって、自然は人に、四季を感じさせながら、体を慣らすように仕向けているのかもしれない。季節の木々や草花を楽しませながら、少しずつ変わり、毎日の暮らしを見つめている。

夕立や かみつくような 鬼瓦 一茶


 7月18日(月) 晴 33771/3

 注文していたテレビがやってきた。セッティングしようとしたら、ブラウン管のテレビに比べてコードが短い。それで、延長コードを買いに行った。ついでに、台所の蛍光管が切れていたので、それも買った。そして、『とと姉ちゃん』を見直す。職場で、朝ドラの話になって、「唐沢とか脇役が良いよねぇ」と言うので、「それに絡む高畑充希も良いよねぇ。、前の『朝が来た』の波留は下手だったけど・・・」

 帰りに、Wと駅まで歩く。仕事の話以外馬鹿話。そこでも『とと姉ちゃん』の話。前の『朝が来た』は、明治時代の実業家、広岡浅子がモデル。今回の『とと姉ちゃん』は、雑誌『暮らしの手帖』を立ち上げた、花森安治と、大橋鎭子(しずこ)がモデルの話。とと姉ちゃんは大橋鎭子の事。『朝が来た』の時にあった、ワクワク感が『とと姉ちゃん』にもちゃんとある。高畑充希は、かなり良い役者だ。そんなことも、Wに話した。『朝が来た』の波留よりはずっと上手い。ただ、あれは本当面白かった。物語が良かったのだろう。


 7月19日(火) 晴 4856

 テレビが来て、『とと姉ちゃん』を観て、『JIN−仁』を観た。史上初めて抗生物質ペニシリンを作ったのは、ドクトル・フレミング。スペインの大きな町には、必ずドクトル・フレミング通りがある。それは、角傷を負った闘牛士の手術の後、感染症を防ぐために使われたものと思われる。ラス・ベンタス闘牛場の前には、ドクトル・フレミングの銅像がある。その前で闘牛士がモンテラを取って挨拶をしている。いわゆるブリンディースをしているところなのだろうと思う。それは、今年THさんをそこに案内して見せた。

 『JIN−仁』の中では、南方仁が、ペニシリンの製造方法を思い出す処の第5話。青カビからペニシリンを取り出す方法。それを思い出せないでいる時、橘咲が油拭きをしている姿を観て、思い出す。そして、ペニシリン製造所を作る。女郎の為に、梅毒の特効薬ペニシリンを作る南方仁。それを訊いた坂本龍馬が、儂がようやく一歩進んだと思ったら、あの先生は二歩も三歩も進んでる。自分がちんまい人間に見えるぜよ、と嫉妬する。

 ペニシリン製造所で、実験が行われていた。薬効なしのが続く。一番薬効なし。二番薬効なし。・・・十八番。南方先生これは、と訊くと、南方仁は首を縦に振る。十八番薬効有り。野風花魁に頼まれて、夕霧にペニシリンの点滴をするが、もう末期だったため救えなかった。野風「笑っておくなまんし姉さん。泣いても一生。笑っても一生。ならば今生」夕霧「泣くまいぞ。皆様ありがとう。けんど、苦しむことにも飽きんした。もう堪忍しておくれなんし。おさらばえ」野風「あい。おさらばえ。・・・・・・ありがとうござんした。ありがとうござんした、先生」とむせび泣く野風。

 南方仁「死も救いなんですよね。医者がそれをいっちゃおしまいなんですけどねぇ」咲「夕霧さんが笑って逝けたのは、ペニシリンのおかげです」 人の死とは、なんなんだろう。闘牛士ビクトル・バリオの死もそうだが、もうすぐ逝くであろう両親の事も考えてしまう。


 7月20日(水) 曇 8094

 バジャドリードの興行主トニョ・マティージャが、今世紀初めて死亡した闘牛士ビクトル・バリオの讃える闘牛を9月4日に開催すると発表した。出場闘牛士は、ファン・ホセ・パディージャ、ホセ・トマス、モランテ・デ・ラ・プエブラ、エル・フリ、ホセ・マリア・マンサナレス、アレハンドロ・タラバンテの6人。牧場は決まっていない。

 出場闘牛士を観ると、カサ・マティージャがアポデラードをしている闘牛士が多い。パディージャ、マンサナレス、タラバンテ。モランテのアポデラードが誰か知らないが、フリは、ロサノ。そして、カサ・マティージャとホセ・トマスは、バルセロナの興行主時代から、密接な関係にある。ホセ・トマスが嫌いな、チョペラ系のアポデラードが契約している闘牛士は誰もいない。

 そして、なんとこの闘牛がTVEで中継放送されるという。復帰した2007年以降(2002年9月中旬から一度引退状態だった。)だったと思うが、テレビ中継を拒否し続けてきたホセ・トマスが、テレビに出場するというは、非常に大きなニュースだ。どういう心境の変化なのか知らない。しかし、状況を考えれば見えてくる物があると思う。嫌いなチョペラが興行主をやっているサン・セバスティアンに出場を決めたのは、今年で闘牛興行を辞める地に出場することによって、アンチタウリナ(闘牛反対)とアフィショナードに対してメッセージを送っている。

 そして、7月9日テルエルで死亡したビクトル・バリオを讃える闘牛を開催するに当たって、出場を決め、テレビ中継拒否を解除した。それは一時的な物なのか、これからテレビ中継の関わって行く事になるのかは判らない。テレビ中継にOKを出した決め手は、おそらく、ツイッターでアンチタウリノ(闘牛反対)、動物愛護団体などから、ビクトル・バリオやその家族を侮辱する発言があり、スペイン国民が怒り、政府が人間の死に対する侮辱的な発言に対する処罰する新しい法をつくる社会問題にまで 発展した事に起因しているのではないかと思う。

 闘牛が、スペイン社会から排除されている状況への危機感が、テレビ中継出場に踏み出したのではないかと推察する。

 義足のロングジャンパー、マルクス・レームは、今年北京・ロンドンオリンピック金メダル記録超えた。そして、リオオリンピック出場を宣言した。しかし、国際オリンピック委員会は、出場許可を出さなかった。レームは言う。「困難な状況は強くなるチャンスかもしれない。僕はそこから何かをつかみたいんだ。」。『JIN−仁』の中にも、「神は、乗り越えられる試練しか与えない」と、いう言葉がある。

 アフィショナードとして、熱烈に応援しつつ、状況を見守りたい。そして、何が出来るのかを考えよう。


 7月21日(木) 雨 20660

 永六輔が死んだ5日後、大橋巨泉が死んだ。小学校の時に、『上を向いて歩こう』や『ぴょっこりぴょうたん島』を歌いながら通った。♪上を向いて歩こうよ 涙がこぼれないように 泣きながら 歩く 一人ぼっちの夜♪とか♪悲しいこともあるだろうさ 苦しいこともあるだろうさ だけど僕らはくじけない 泣くのは嫌だ笑っちゃお 進め♪とか歌っていた。

 音楽の授業で、♪京都 大原三千院 恋に疲れた 女が一人♪を聴いたとき、昔から歌われている歌なんだと勝手に思っていた。これが永六輔の作詞だと知ったのは後になってからである。永六輔が作詞家でヒット曲を出していたとき、中村八大、いずみたくが多く作曲を手がけた。『上を向いて歩こう』は六八九。つまり永六輔、中村八大、坂本九のトリオ。整理していない思い出がある。

 大橋巨泉もそうだ。みじかびの きゃぷりてぃとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ パイロット万年筆のCMにはビックリした。意味がほとんどないのに、なんだか雰囲気が伝わる。最後に、「判るね」とか言っていたと思うが、なんとなく判った気分になった。巨泉とは、早大時代の俳号である。遊びを、テレビ創生期番組にして有名になったタレントだ。月ノ家円鏡の答えに「笑ってやって下さい」や、「はらたいらに全部」、勿論「はっぱふみふみ」もそうだが、「巨人、大鵬、卵焼き」など、流行言葉も多い。そして、高視聴率番組を連発した。巨人も大鵬も嫌いだったが、卵焼きは大好きだった。おばあちゃんが作ってくれた甘い卵焼きが好きだった。おばあちゃんは、砂糖だけじゃなく、塩も入れると美味しくなる事を教えてくれた。

 子供の頃テレビで観ていた人たちがドンドン死んでいく。悲しいと言うより、それだけ時間が経ったことを感じる。永六輔は、作家になり100万部以上売れた『大往生』。テレビより、ラジオ出演が好きだった。晩年、闘病という言葉はおかしい。何故なら、病気と闘うことは出来ない。人は必ず死ぬからと言っていた。


 7月22日(金) 雨のち曇 17215

 朝まで降った雨のため、涼しい1日になった。東京は23度。京都は猛暑日寸前の34度を超えた。梅雨の明けた西日本の京都。梅雨明け前の東京。温度差は10度以上ある。さすがに、祇園祭の京都は暑い。そして、テレビは盛んにポケモンGOのゲームが今日から日本で出来るようになった事を取り上げている。こういうのが好きになって、町歩きを始める人も多いのかも知れない。このゲームと提携したマクドナルド。任天堂と共に、株価が急上昇した。

 人が代わり、職場の雰囲気が変わった。誰でもそうだろうが、仕事が出来ない人と一緒にやるのは、ガッカリするような事がよくおこる。やる気がそがれる。この人これからどうするの、どうなるのと?思ってしまう。

 『とと姉ちゃん』が、面白くなってきた。毎日ブルーレイを観るのが楽しみだ。そろそろ明日の準備をしないと。土日の準備は忙しい。


 7月23日(土) 曇 5027

 涼しい朝、川沿いを散歩した。少し体を動かした方が良い。少し痩せようと思っている。食事と運動の組み合わせ。そういうことをやらなければ、ならない時期になっているようだ。ところで昨日のバレンシアの闘牛で、ロケ・レイが剣刺しでコヒーダされ、角の上に体が乗った状態。バンデリジェーロたちが、タブラを乗り越え走り出した。やっぱり、ビクトル・バリオの死があったから、反応が早い。幸い大丈夫だったようで良かったが・・・。

 がま口を花山の店に忘れた常子。それを届け小橋家に行く花山。しかし、大工に間違えられて天井の雨漏りやちゃぶ台を直して帰る。家に帰ると、学生時代に友人が、酒を持って訪ねていた。事業を手伝って欲しいと頼みに来た。そして、手伝うことを約束する。翌日、花山の店を訪ねる。

 常子「ごめんください」老人「おや、また来たね」常子「なの。花山さんは」老人「はぁ、腰が痛いって休んでるの。マスター、常連さんだよ」花山「あっ、はぁ。君かぁ」常子「大丈夫ですか。あっ、腰は」花山「たいしたことない。ちょっと張っただけだ」常子「やはり昨日は」花山「ああ。小銭入れを届けに行ったら、何故か大工仕事をやる羽目になった」常子「やっぱり、申し訳ありませんでした。ありがとうございました。母と妹が、大変感謝しておりました。えー今日はお詫びとお礼に伺っただけですので、失礼します」花山「手伝うことにした」常子「えっ」花山「雑誌の件だ。嫌ならいいぞ」常子「えっ。でもどうして」花山「私が手伝わないと、君ら家族が死んでしまう。ほおておけば一冊目のようなひどい雑誌を作ってしまう。売れるわけないだろう。売れなきゃどうして飯を食う」常子「でももう二度とペンは握らないって」花山「ごちゃごちゃ言うならやめるぞ」常子「あーいや、ごめんなさい」花山「私がペンを握る訳じゃない。実際に動くの君ら三人。それに、次の号だけだ。売れた分からそれなりの報酬は頂くぞ。私だって家族を養うのだから」常子「でも売れるかどうか」花山「必ず売れる。君の親孝行、少しだけ手伝ってやるだけだから」常子「はい。よろしくお願いします」 ーー『とと姉ちゃん』 88話よりーー

 こうやって花山は常子の雑誌を手伝うことになる。次の号だけという限定的なものであるが・・・。


 7月24日(日) 晴 16554

 THさんが気にしてたいたロペス・シモンについて書いておこう。セバスティアン・カステージャが、ラス・ベンタス闘牛場に登場したとき、アポデラードは、アントニオ・カンプサーノだった。今のロカ・レイのアポデラードだ。ノビジェーロの時から闘牛士になっても3年くらいは、カジェホンからカンプサーノの怒鳴り声が聞こえた。自分の闘牛学校のようなところで教え込んだ、カステージャを、まるで、ボクシングのセコンドのような感じで、指示というかアドバイスというかを、そうやって送っていた。

 コヒーダされれば、アレナに走っていって、牛の前に体をさらし、替わりにコヒーダされて大怪我したりして、入院していた。その当時、こういうのは初めて観たので、ビックリしたが、こういう関係のあり方もあることを知った。ロペス・シモンもアポデラードの関係は、同じようだという。カンプサーノは、元闘牛士。ロペス・シモンのアポデラードが、元闘牛士かどうかは知らないが、闘牛関係者だろうと思う。そういう人の指示は、経験の少ない闘牛士にとっては、自分の命を守る大事な助言だ。それ自体は、悪いことではないと思っている。

 去年に比べて、命がけの闘牛をやっていない。第1級闘牛場では、結果が出ていないと、THさんは言うが、それはなかなか乗っている闘牛士でも、難しいことだと思う。ホセ・トマスの様に何処でもプエルタ・グランデする闘牛士は、本来存在しない。だから、指示ばかり受けているからダメといういうことはないと思う。どんなに素晴らしいアスリートでも、コーチがいなければ、結果を出せないというは、今や世界の常識。今の状態から少しずつ関係性が変化していくだろうし、そうやって違う形が作られていく物だと思った方が良いと思うのだ。

 ただ思うのは、THさんは、いろいろなことをちゃんと観ているということ。牛に対してもそうだが、闘牛士についても多面的な物の見方をする。そういうところが非常に良いところだ。闘牛についての莫大な経験を積み重ねて行くことが出来るだろう。若いというのは羨ましい。スペインに来るに当たってスペイン語を勉強して来たのは、強力な強みだ。元々が英語をしゃべれるのも、何処へ行っても動じない度胸も育ったのだろう。ここまで短期間に、闘牛に深く関わって、吸収している人を知らない。おそらくスペイン人でもなかなかいないだろうと思う。


 7月25日(月) 晴 9403

 昨日、結衣さんから連絡があった。8月スペインの予定について、訊きたい事があるということだった。アンダルシア、サン・セバ、バルセロナ、フランスの事など話していた。下山さん、THさんの事など、いろいろ話した。例によって、結衣さんがほとんど話していたが、それでも、どういう行程で、何処で誰と会うのか大体判った。みんな黙っていないで、闘牛場に出かけるんだと、思った。

 失敗とおっぱいは、どちらもドキドキする物だが、失敗よりおっぱいの方が良いに決まっている。失敗を糧にすることは、出来るが、失敗しないに越したことない。だが、失敗をなくすことは出来ない。失敗を反省して、分析して、次にいかせるように改善案や対応策を考えなければ、糧にはならないだろう。それは仕事でやる場合は、いつも一人称単数ではなく、一人称複数でやらなければ、前に進まない。朝から、そんなことを話するのは、建設的といえば、そうだが、そうしないと批判が巻き起こる。本来こういうのは、上の者がすることなのに・・・。と、思いつつ・・・。

 土日の競馬は、良いこともあれば、上手くいかないこともある。失敗も多いが、パターン通りに来れば、確率が高くなる。つまり、発見したパターンの時に、勝負に行けば、勝つ確率が高くなるということ。その辺のさじ加減をちゃんと出来れば、負ける日がなるなるだろうと思う。


 7月26日(火) 曇 5704

 甘酒が、夏の季語であるのを知ったのは、つい先日だ。それを昔茶道具を売っていたFにいったら、あれっー常識じゃない。あれは江戸時代、栄養補給のために、冷たい甘酒を飲んだからだという。よく夏のお茶席では、冷たい甘酒が出されるのという。てっきり、冬の季語だと思っていたので、新鮮な驚きを感じた。

甘酒も お濃い茶までの おもてなし  風吟

 例えば、讃岐うどん。腰があるのが讃岐うどん。うどんといえば、腰がある物と思われているが、秋田の稲庭うどんは腰がないうどん。京都も腰がないし、九州も腰がないらしい。タモリが、うどんは腰がないのがうどんといっていた。が、うどんにはあまり興味がない。やっぱりそばの方が好きだ。わんこそば、冷麺、じゃじゃ麺が名物になっている盛岡の育ったから、どうしてもそばの方にひかれる。


 7月27日(水) 晴/曇 11011

 うーん。考えられないような事件が起きた。障害者施設で、19人死亡、26人が重軽傷を負う事件。今年の2月までこの施設で働いていた。「障害者なんて、生きる意味なくないですか」 「障害者なんて死んだ方がよくないっすか」と、施設職員に笑みを浮かべながら話しかけていたという。2月には、衆議院議長を訪ね、土下座して手紙を渡したという。

 「手紙では障害者について「車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在」するとし、「私の目標は(知的障害と身体障害など、複数の障害がある)重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です」などと自分勝手な考えを示していた。手紙は衆院側から警視庁に提出され、神奈川県警に渡された。」 ーー朝日新聞よりーー

 辞めた後4・5ヶ月後に事件を起こした。自首後の供述では、障害者を冒涜する言葉を並べているという。大麻や、脱法ドラッグをやっていたとか、学生時代に入れ墨をしてから人が変わったとかいう話もある。

 こういう状況に危機感を持った、障害者団体が声明を発表した。事件を受けて、知的障害のある人と家族で作る「全国手をつなぐ育成会連合会」はインターネットのホームページに緊急声明を出した。

 「7月26日に、神奈川県にある「津久井やまゆり園」という施設で、障害のある人たち19人が 殺される事件が 起きました。容疑者として逮捕されたのは、施設で働いていた男性でした。亡くなった方々の ご冥福をお祈りするとともに、そのご家族には お悔やみ申し上げます。また、けがをされた方々が 一日でも早く 回復されることを 願っています。

容疑者は、自分で助けを呼べない人たちを 次々におそい、傷つけ、命をうばいました。とても残酷で、決して 許せません。亡くなった人たちのことを思うと、とても悲しく、悔しい思いです。

容疑者は「障害者はいなくなればいい」と 話していたそうです。みなさんの中には、そのことで 不安に感じる人も たくさんいると思います。そんなときは、身近な人に 不安な気持ちを 話しましょう。みなさんの家族や友達、仕事の仲間、支援者は、きっと 話を聞いてくれます。そして、いつもと同じように 毎日を過ごしましょう。不安だからといって、生活のしかたを 変える必要は ありません。

障害のある人もない人も、私たちは 一人ひとりが 大切な存在です。障害があるからといって 誰かに傷つけられたりすることは、あってはなりません。もし誰かが「障害者はいなくなればいい」なんて言っても、私たち家族は 全力でみなさんのことを 守ります。ですから、安心して、堂々と 生きてください。

(原文にはふりがなが付いています) 」 ーーNHKニュースよりーー

 頸がんワクチン接種による副反応によって、身体的な障害を訴えている女性たちが、全国4カ所で、国と製薬会社に対して裁判を起こした。2年前には松葉杖で歩いていた21歳の女性は、今はほぼ車椅子の生活になっている。ああいう人の、訴え方、話し方の穏やかさというのは、清らかさを感じる。自分たちの苦労を穏やかに口調で語られると、何かこっちが出来ないだろうかと感じてしまう。


 7月28日(木) 晴 7856

 ぴょん太さんは、僕を師匠と呼ぶ。シーラさんも、同じような感じだし、MEGUさんも、闘牛のことなら斎藤さんという。THさんも師匠のような存在という様なことをいっていた。結衣さんも本を書くのに問い合わせをしてきたり、万希ちゃんは、闘牛マンガの原作を書いて欲しいといっていた。みんなありがたいことだ。そして、みんな女の人だ。みんな闘牛関係。闘牛関係で僕の協力者で男といえば、下山さんと、あと数人いると思うが・・・。秋に向け、インテンタールしていることを、ちゃんと実行できるように準備しなければならない。

 常子「おかげさまで、全て売り切れました」花山「増刷しても直ぐに売れるだろう」常子「いろいろと、ありがとうございました」君子、鞠子、美子「ありがとうございました」花山「約束は守った。あとは自分たちでやるんだな」常子「花山さん。これからも編集長を続けて頂け貰えませんか」花山「一度だけという約束のはずだ」常子「私も鞠子も美子も、花山さんに一から雑誌作りを教えていただきたいんです」美子「お願いします」鞠子「お願いします」君子も頭を下げる。花山「私はもうペンを握らない。今回は君たちを見守るだけだった」常子「でしたら次号も同じように」花山「本気で関わるとなるとそうはいかん」美子「だったら本気で関わってください。花山さんが、本気で関わりたいと思う本作りを、私たちにも携わらせてください」花山「すまないが、そのつもりはない。失礼するよ」

 外まで送る常子に、花山が、「常子君、一つ忠告しておくが、今のままでは直ぐに売れなくなるぞ」常子「何故です」花山「真似されて売れなくなるのは経験済みだろう。そうならない為には、一朝一夕には真似されない本を作るしかない」常子「そういう本を作るのであれば、編集長を引き受けて頂けるんですか」花山「そんなことは言っとらん。こんな時代だからこそ、伝えなくてはいけないことがあるはずだ。だが実際には作れんよ。そんな金のかかる雑誌。では」

 一区切りが付いたと友人に誘われていた仕事に出かける連絡をする。月曜日視察に訪れたバラックが並ぶ町。住んでいる人を追い出して開発するのだという。ガッカリしていると軍服の男から声を掛けられる。

 軍服を着た男「なぁあんた。タバコ持ってないかい」花山「いえ私は、吸わないので」男「そうか、あんた陸軍さん、それとも海軍さん」花山「はい」男「どうなっているんだ、今の戦局は」花山「何をおっしゃってるんです。戦争はもう終わったじゃありませんか」男「戦争は終わった。勝ったのか」花山「負けたんです。何を今さら」男「嘘をつくなぁ!日本は神国だぞ。神風が吹くんだ。負けるなんて事、絶対にあるか!判ってるのか!ひいっひひひはっはっはは(狂ったように笑う)日本国。万歳。万歳、万歳。日本国万歳」周りに男たちが寄ってきて「判ったよ、判ったよ」といってなだめて連れて行く。残った一人の男「悪いなぁ」花山「いえ」男「あいつ、まだ戦争が終わってないと思っているんだよ。戦地で息子を亡くして、空襲で女房娘を亡くして、全てを失って耐えてきたのに、ある日突然、はい負けました、じゃ、やりきれねぇよ。たとえ戦争に勝ったとしても、母(かあ)ちゃんと子供たちを引き替えに、何が残るって言うんだ。なぁ」去っていく男。狂った男の泣き声が聞こえる。

 常子「花山さん。こんにちは。お宅へ伺ったら、奥様が仕事仲間の方とここへと」花山「何の用だ」常子「答えが何となく分かったんです。花山さんがおっしゃった、誰にも真似されない雑誌。衣服だけでなく、衣食住にまつわる全ての中で、毎号私たちが大切だと思う物を調べて、実際にその生活の知恵を実験してみて、体験した事を読者に伝えて、皆さんの生活が今日よりも明日と、少しでも豊かになるような雑誌」花山「ああ、そんな雑誌を作ることが出来たらとこのところ考えていたんだ。しかし、それにはとても金がかかる。何もかも、実際に作ったり、試したり。そんなことが出来るわけがない。夢みたいな雑誌だ」

 常子「出来ますよ、私となら」花山「何故出来ると言い切れる」常子「根拠はありません、でも。私が花山さんとやってみたと思ったんです。それだけです。それに花山さんおっしゃってたじゃないですか、何よりも優先して守るべき物だと思い込んでいた物が、間違っていたと気づかされた。だったら、もう間違わないようにしませんか」

 花山「私は戦争中、男には毎日の暮らしなどよりも、もっと大事な物があると思い込んできた。思い込まされてきた。しかし、そんな物は無かったんだなぁ。毎日の暮らしを、犠牲にしてまで守って戦う物など何も無かった。毎日の暮らしこそ、守るべき物だった」常子「毎日の暮らし」花山「人間の暮らしは、何物にも優先して一番大事な物なんだ。それは何物も犯してはならない。たとえ戦争であっても。今ようやく分かった。もし、豊かな暮らしを取り戻す切欠となる雑誌を作れるのなら」常子「私となら、必ず出来ます。始めましょう。新しい雑誌作りを」 

 花山「あの二人は何をしている」常子「えっ、あっ鞠子と美子ですか。多分今家で」花山「馬鹿者。一瞬たりとも遊ばせておくんじゃない。四六時中雑誌のことを考えさせておけ」常子「すみません」花山「まったく明日からが思いやられる」常子「おっ、お力を貸していただけるんですか」花山「君は家族思いだから、孝行娘の手伝いをしてやるだけだ。君らのためにペンを握ってやる」常子「ありがとうございます。ほんとうに、嬉しいです。」

 花山「終戦の日以来、初めて他人の、それも、女性の言葉を信じてみたくなったんだ」 常子「でしたら、私も人生を賭けます。私も自分の人生の全てを賭けて、新しい雑誌を作ります」花山「はっはっは。分かった。よろしくな、常子さん」常子「さっ、さんだなんてそんな」花山「君は社長だ。君と言う訳にはいかんよ」首を縦に振って常子「よろしくお願いします、花山さん」花山「ああ」

 ナレーション「こうして常子と花山の、人々の暮らしを豊かにする為の雑誌作りが始まったのです」 ーー『とと姉ちゃん』第90話よりーー


 7月29日(金) 晴 20680

 関東・甲信越も梅雨が明けた。昨日あたりから暑くなって、今日は朝から暑かった。暦の上では、大暑なので、35度を超える日がこれから続くだろう。いよいよ夏。歩いていても蒸していたので、じっとりと汗をかくのだが、梅雨明けになれば、もっと暑くなる。体を動かして、汗をかき少し痩せたい。こういう時期には、食欲が落ちるときがあるが、それで、痩せるよりは、食事と運動で落とせれば嬉しい。

 十割そばを食べた。十割そばは、暖かいつゆより、冷たい方が美味しい。山形のだしと大根おろしの物。美味しかったが、ちょっとしか無いのがさびしい。この前の『ガッテン』で、オクラをやっていた。オクラのネバネバは、水溶性の物で、細かく刻んだオクラを水に入れ混ぜるとドロドロになる。オクラのネバネバが、溶け出すからだ。それを、一対一の割合でつゆに入れ、そばで食べると、美味しいという。今度それを作ってみようと思っている。十割そばを食べたときより、たっぷりの具で食べられれば、満足するかも知れない。


 7月30日(土) 晴 9417

 パコ・カノが死んだ。103歳だった。闘牛を見始めた頃から闘牛場でずっと見てきた。マノレーテの死んだときの写真を撮ったのもパコ・カノだ。下山さんと知り合い、セビージャの春祭りに通い始めた頃、闘牛士が入場行進前に待機している、プエルタ・デ・クアドリージャ(セビージャでは、プエルタ・デ・プリンシパルといったと思う)中に入れたので、そこで闘牛士の写真を良く撮っていた。毎日会ったのがパコ・カノ。あの頃はフィルムカメラを使っていた。しかも、白黒フィルム。

 カノ爺さんは、闘牛場に来ると、白黒写真を持っていた。前日撮った写真を現像して来ていたのだ。その写真は、闘牛士の写真も勿論あったが、バレラに座るセビージャなどの名士の写真をその人たちに配っていた。サイズは、A4くらいあったと思う。明るい人で、いつも元気だった。いつも顔を合わせる物だから、挨拶をしていた。プロのカメラマンではない見ず知らずの日本人に、明るく接してくれた。

 98年以降だと思う。カノ爺さんのカメラは、自動でピントを合わせる物ではなく、マニュアルの物で、手動でピントを合わせる物だった。年なのに、目大丈夫なのだろうなぁと思って、ビックリした。いつも闘牛中にカメラをかまえているわけでなかった。年だからと思うが、それでも、肝心な所は撮影していた様だった。2000年台になって、カメラが、デジタルカメラなったとき、衝撃を受けた。カノ爺さんがデジカメなら、自分の持っている、ニコンのF4じゃ、もう時代についていけない思ったのだ。それから、僕もフィルムカメラを持って行かなくなった。そして、10年くらい前に、『Aplausos』に、90歳のカノ爺さんがテンタデロをやっている写真が載って、またまたビックリした。爺さんは、長い間、闘牛の写真を撮り続け、闘牛に関わってきた。出会ったときは、すでにレジェンドだった。

 長く関わっただけでなく、闘牛士にも一目置かれる存在だった。今回、ネットのいろいろな記事でもっとも印象に残ったのは、92年5月2日セビージャで、右脇下から入った左角が肺と心臓を貫通して、ホセ・マリア・マンサナレス(父)のバンデリジェーロのマヌエル・モントリュが死んだ。その時に、カジェホンで、カメラを首から下げて、下を向いて泣いている写真があった。それを見たとき、グッと来た。カノ爺さんの棺は、バレンシアの闘牛場でウルティモ・ブエルタをしたようだが、そのバレンシアの闘牛場の前に、モントリュの銅像が建っている。爺さんもモントリュもバレンシアの出身だったのかも知れない。今年のサン・イシドロに、モントリュの息子がバンデリジェーロで出場していた。彼は、体つきや動きで直ぐ分かる。あー、まだバンデリジェーロをやっているんだと、嬉しかった。ムンドトロの爺さんの記事のタイトルの一つが、De Manolete a nuestros dias だった。まさにその通りだった。


 7月31日(日) 晴 8757

 都知事選は、石原慎太郎が、厚化粧の大年増と言った、その小池百合子が増田寛也、鳥越俊太郎らに勝った。小池百合子と俺が同じなのは緑色が好きだと言うことかな。知人と飲み屋にいたら、都知事選のニュースのあとに、千代の富士死亡のニュース。厨房にいた、がたいの良いおっちゃんが、固まっていた。元力士なのかも知れないと思った。

 Facebookで、気づいたが今日は、アントニオ・コルバチョの命日。あれから3年が経った。28日は、山田風太郎の命日で、あれから15年経った。千代の富士の命日と、コルバチョの命日が同じになったというのは、不思議な気分だ。


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