断腸亭日常日記 2016年 11月 京都旅行

--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年のスペイン滞在日記です。
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 11月16日(水) 曇 8560

 神話は、神の話をまとめた物だが、他者に訊かせるための、物語になっている。ジョーゼフ・キャンベルの神話学では、世界中の神話のもっとも多いパターンは、若者が旅に出る。その旅で、怪物を退治したり、宝物を発見して帰ってくる。そうすると、その若者は英雄になるという物がある。

 アンデルセンなどの童話は、地方に伝わる話を採取した物をまとめた物語だ。印象に残っている一つの話は、王女だという2人の少女が現れた。どちらかが王女で、どちらかが嘘をついている。そこで、ベッドを用意して、一晩寝て貰った。翌朝、2人に同じ質問をする。「良く眠れましたか?」1人の少女は、ええ、ぐっすり眠れましたと、答えた。もう1人の少女に同じ質問すると、どうも腰の辺りが変な感じで寝苦しかったと答えた。

 ベッドには、敷き布団が10枚ほど重ねられ、一番下の布団に豆を一粒はさんであった。10枚の布団の上で寝て、ぐっすり眠れたと答えた少女は、普段そういう布団に寝ていないので、快適だった。一方もう1人の少女は、普段からそういうベッドで寝ているので、一番下の処に豆があることに、体が違和感を感じて、寝苦しかったという。つまり後者が、王女だったという話だ。

 この物語は、何を伝えたいのかは、解らない。しかし、何年経っても印象に残っている。童話にしても、神話にしても、物語にすることによって、他者は、何かを理解しやすくなるという作用を持っている。

 昔、恐山に行って、いたこの口移しを観たことがある。盲目の老婆がいたこで、そこに心の悩みや痛みを感じている人が来て、死者の霊を呼び戻し、いたこの口を借りて、語るという物だ。たいていの人は、それを訊きながら号泣する。自分の心に引っかかっていた物を問い、それに対する物がいたこの口移しに寄って、語られる。悔いていたことを、そんなことはない、大丈夫、悔いなくても良い、そういう事は、嫌な事は思っていない。そのことよりも、あの時、こういう事をしてくれた。こういうことを言ってくれて、ありがたかったというような、慰めの言葉を語るのだ。

 だから、肩を振るわせながら声を上げて号泣する。その人の悔いをそうやって取り除く、民間のシャーマン行為が、いたこの口移しだ。下北半島の山奥に恐山がある。恐山の前に宿坊があり、その前の広場にいたこたちが30人ぐらいいた。8月の大祭の時だ。その先には、三途の川があり、そこにかかる三途橋を渡り、恐山に入る。霊山恐山は、寺山修司の映画、『田園に死す』中にも出ているが、異様な雰囲気だ。地蔵に紅いよだれを掛けをかけている物が沢山並んでいたり、小石を積んだ山形の物。そして風車が沢山ありくるくる音をたててまわっている。血の池地獄などがある。白い砂が多いので、白黒の世界に入っているような錯覚があるが、紅いよだれかけや、風車の色の鮮やかさがその錯覚を裏切るような感覚。2重に反転された様な世界。湖の処に浜があり、賽の河原と名付けられている。そこには、割っていない割り箸が、沢山盛り上げた砂に刺さっている。葬式の時、茶碗に山盛りにしたご飯に刺さった箸に似ている。風が強く吹いているが、その割り箸にトンボが止まっていたのが、何故か印象に残っている。

 いたこの口移しと、記憶しているが、これはお婆ちゃんがそう言っていたからなのだが、普通は口寄せという風に呼ばれている様だ。いたこが語る言葉は、その地方の物だが、単語とか言い方が違う物があるが、ほとんど、苦労なく意味が解る言葉だった。岩手に生まれているので、その辺は違和感がない。それと、いたこが語る言葉は、音楽のようなリズムがあり、心地よささえ感じた。ここでは、こうやって、人々の悩みや悔いを収めようとするシステムがあるのだと思った。それが、地吹雪の吹く、寒い土地の無口な人々の心を支えになっていた面があるのだろうと思う。

 人は物語によって、記憶し、悲しみ、喜びなど、いろいろなものを考える。日本の場合多くは、自然の中からのもの、その土地・気候などの影響を受けた物語が多いのだと思う。動物や作物が登場する。たとえば、インディアンの神話では、トウモロコシやバッファローなどが登場する。身近にあるものが、登場しそれが神になったりする。

 11月17日(木) 曇 8186

 三途の川の渡し賃、六文銭。その覚悟を、旗印にした真田昌幸。昌幸がいた辺りには、六文銭を旗印にした豪族がいくつもいたという。『真田丸』でいう小県(ちいさがた)が、それだろうと思う。それが武田亡き後の、織田、北条、上杉にはさまれた小県をまとめた昌幸が、徳川との戦いで、名をあげ、六文銭が象徴になる。

 江戸時代の芸能の中心は、講談である。その中に、『真田十勇士』が登場し大受けする。信繁の名前がそこでは、幸村になって登場する。猿飛佐助や、霧隠才蔵などがそれだ。ちなみに、霧隠才蔵は、設定が異人である。その講談を集録しているのが、柴田練三郎である。彼の代表作の一つ『眠狂四郎』もバテレンとの間に生まれたという設定だから、赤毛ということになっている。

 六文銭を支えたのは、おそらく、知略、策略、覚悟だろう。昌幸や、信繁は、戦場で名をあげ、歴史に名を残した。一方、兄信之は、徳川に付き、大阪の陣後の戦後処理などの苦労を経て、生き延びる。徳川に気を遣い、策を巡らせ、なんとしても生き残るという、相当な覚悟があったから残ったのだと思う。それらが、六文銭の旗の意味になって、残って語られたものだと思う。昌幸や信繁は美しい。勿論、日本人の好きな、判官贔屓というメンタリティーもあるとは思うが・・・。


 11月18日(金) 晴 7435

 京都の紅葉は、盛りに近づいているようだ。去年は大はずれだったが、今年は例年以上の紅葉が観れそうだ。どういう順番で、何処へ行くかを考えるは、楽しい。今年は、MEGUさんが来ないので、出来るだけ行ったことがない処に行きたいと思っている。西に行って、東に行ってというような、移動に時間がかかるようなことはしたくないので、行った付近を廻りたいと思っている。

 いくつかのコースを考えて、それを午前、午後と分けて、どう廻るか考えているところだ。美術館や博物館へ行くかどうかは、まだ決めていない。


 11月21日(月) 曇のち雨 30966/3

 おそらく、今は盛りになっているだろう京都の紅葉。明日、京都へ行く。結衣さんとも待ち合わせが決まった。他にも連絡するするかどうか、考えている人もいるが・・・。たてた予定を再度練り直し、変更して組み替えることにする。行くところはほぼ決まっているが、出来れば一筆書きで経路を組みたい。それが難しいのでどうするかというところだ。

 東京は、23日24日に雪が降るかも知れないという予報のようだ。京都も寒い。京都で雪が観れれば、それはそれで美しいだろう。


 11月22日(火) 晴 17059 京都のホテルにて

 朝、強い揺れが続いた。東京は震度3だったが、強かったとのと、長かったのとで、震度4には感じられた。俺が西に行くときは、何かかが起こる。1番は、奈良に行ったときが、東日本大震災。春に京都に来たときが、祇園で車が暴走して、10人くらいの死傷者が出た。そして、今日もまた福島地方で、震度5弱の地震と、津波。被害が出たところがある。川を遡上する津波。ポロロッカのような、波が川をさかのぼる。

 そして、東京を発って昼、京都に着く。それから乗り継いで、嵯峨野線で、花園へ行く。妙心寺前の精進料理を食べようと行ったが、満席だった。先に大法院へ行く。真田信之など、真田家の墓を観る。直ぐ近くに、佐久間象山の墓もある。ここは1度来ているが、秋の紅葉の時期に、また観たいと思ったところ。『真田丸』の影響が大きい。あの苔で覆われた茶室が観たいと思った。紅葉の庭。よく観たら、茶室ではなく、待合いだった。それでも、それを確認できただけでも良かった。

 それから、妙心寺の反対の門の外にある精進料理を食べた。そして、山外塔頭、龍安寺へ向かう。この道が本当の参道のようだ。石庭に行くが、人が一杯。いつものことだけど、ゆっくりする気分じゃない。やはり来るなら、早朝が良い。そうこうするうちに、修学旅行の生徒たちがどっと来た。逃げるように、鏡容池へ。前は、藤棚の辺りでタバコが吸えたが、トイレ前もここも灰皿がなくなっていた。あまりにも外国人観光客が多く来るからこうなったのだろうと思った。受付前も門には、白人の案内人がいたのも、以前と変わったところだった。

 それから、等持院。足利尊氏の墓がある足利家の菩提寺。尊氏が夢窓国師を向かえて開山したので、天竜寺と同じように、池泉式回遊庭園がある。池の水に映る紅葉が綺麗だ。何となく、苔寺の庭園の様でもある。始めてきた処だが気に入った。それと15代将軍像があった。14代だけ見あたらなかったが・・・。それぞれ、なになに院と書かれ、下に名前が書かれてあった。例えば、等持院尊氏。金閣寺を作った3代は、鹿苑院義満。銀閣寺を作った、8代は、慈照院義政。といった具合だ。

 そのあと、平野神社へ行こうと思ったが疲れて来たのでやめて、北野天満宮へ行った。ここも初めて、もう日が暮れていたので、夜間照明のもみじ祭りをやっている、お土居に行く。やっぱり昼に比べて夜はダメだ。昼なら川の辺りの落紅葉が綺麗に見えたと思う。そこで、貰った季節限定のお菓子が美味しかった。老松が作っている、大茶湯。もっちりした食感でみそ味。阿闍梨餅(あじゃりもち)のほうが安い。でも、みそ味というのが面白い。

 夕食は、天満宮近くの、店で、五目ラーメンとチャーハンを食べた。中に入っていたエビの火加減が凄く良かった。プリプリだった。夜も、また、福島沖で地震が発生した。


 11月23日(水) 晴 22073 京都のホテルにて

 朝は曇って寒かった。朝食はなか卯で、ウニ丼を食べる。それから地下鉄に乗って東山で下り、京都市美術館へ行く。特別展は、生誕300年を記念して、『若沖の京都 KYOTOの若沖』。春、東京都美術館でやった『若沖展』は、もの凄い人気で、長蛇の列。中も凄かった。1時間半とか2時間待ちの状態だった。今日は、10分くらいで入れた。出展されている作品は、100を超える数である。非常に大きな特別展であることが解る。

 出展は、関西が多いので、東京の若沖とは、かなり違うことが判る。細見美術館や京都国立博物館、京都や近郊の寺院など。なんといっても『動植綵絵』の様な、色彩豊かな絵が多く出展されている訳ではない。どちらかというと、墨絵が多いので、地味である。面白くないかといえば、そこは若沖。面白い。多分視点が違うのだ。京都の若沖を観て、やはり、若沖は京都の人にとっては、近い存在なんだと思った。東京の若沖展は、天才絵師若沖をまざまざと感じさせるものだった。

 外に出ると、長蛇の列。最後尾の看板を持っている係員に訊くと、1時間待ちと、いっていた。岡崎を散策して、白河院庭園(法勝寺跡)を観る。一度観てみたいと思っていた池泉式回遊庭園。こういうのを観ると、ださい庭園との差を感じる。そこから黒谷(金戒光明寺)さんへ行く。大方丈と紫雲の庭。ここもまあまあだった。歩いて廻る、池泉式回遊庭園。その後行った真如堂(真正極楽寺)の庭は、現代作家の作庭だからか味気ない。東山が見える涅槃の庭からは、大文字が見える。

 白沙村荘 橋本関雪記念館。池泉式回遊庭園が観たかったのだが高い。その前に、昼飯を食おうと、おめんに行ったが20人くらいが並んでいた。23日は祝日なので、何処も混んでいる。だから飯を食わずに、廻ることにした。それと、カメラのメモリーが一杯になって、銀閣寺に行くのはやめた。哲学の道を歩く。法然院、安楽寺、南禅寺を観た。安楽寺の中にあるカフェのコーヒーが凄く美味しかった。


 11月24日(木)  31814 東京にて

 昨日夜、四条河原町辺りを散策。先斗町入口の、おめんという、うどん屋で食べる。それから裏寺町通りをちょっと入った立ち飲み屋に行く。女性2人と男性が並んでいた。待っているんですか?と訊くと、ええ、という。地元のサラリーマンのようで常連客らしい。直ぐ空きますよと言う。この辺で、立ち飲み屋ってありますかと訊くと、裏寺町通りに出た直ぐの処に、古い店がありますよと教えてくれた。直ぐに並んでいた3人が入店して、直ぐ空きますからと店員が言うので待っていると席を案内される。

 席といっても、立ち席だ。飲み物を注文してアテは、何がお勧めか訊くと、隣にいた若い娘が、3つくらい推薦した。その中に、何とかの「炊いたん」というので、これって煮込み?と訊くと、あっ、関西の人じゃなんですね。と、いわれた。地元の子だと判ったので、観光客ばっかりで嫌になるでしょう?と訊くと、観光客が来るから京都が成り立っているんですと、いわれた。そんなのが切欠で話がはずんで、連れの女の子が仕出し弁当屋で働いている子で、正月のおせちの頃は地獄のように忙しいという話を訊いたりした。京都らしいなぁと思って訊いていた。

 帰るだんになって、あたし東京とか良く行くんで、ラインとかFacebookとかやってないですかと、言い出して、俺のアイホンを取って、自分の名前を検索して友達申請をした。それじゃといって2人で帰って行った。帰りの電車で、その娘のFacebookを観たら、看護婦の様だ。いとこと同じだ。面白かったのは、大晦日に八坂神社の薪から、火縄授与して貰ったものを、火が消えないようにくるくる廻して帰るのだが、阪急電車の中で、みんなが火縄をくるくる回しているというのを訊いて、笑ってしまった。地元の人の話を面白いと思った。

 今日は、円通寺で、結衣さんと待ち合わせ。円通寺は、後水尾天皇が、修学院離宮へ行く前に、離宮にしていた処。修学院を観ていると、後水尾天皇に興味を持つ。徳川から妻を迎え、東福門院和子と、暮らした。といっても、30人の女性に子供を産ませたらしい。今ある、仙洞御所、桂離宮、修学院離宮と全部が、後水尾天皇がらみで建てられた。その他に、生け花など文化的なものが後生に伝えられている。

 この天皇が108代だったというのを円通寺で知った。煩悩と同じ数字というのが面白いと思った。庭園は、杉の木が縦に何本か立って、その借景として比叡山がある。楓が紅い色で鮮やかだが、石組みや苔など落ち着いた感じの庭だ。もしこの杉の木がなかったら、面白くないかも知れないと思った。

 国際会館近くの、湯葉のレストランで結衣さんと昼食。和洋折衷もなかなか良い。京都ならではの感じだ。闘牛の話、寺の話などして、瑠璃光院へ向かった。


 11月25日(金)  22377

 書き忘れたが、円通寺の庭を観る部屋の柱は、接ぎ木がしてある。どうも、これは、飛騨の組み木の技法で接がれているいるようだった。円通寺の後、妙満寺へ行った。それから昼食を取り、結衣さんと別れて、瑠璃光院へ行ったが、45分待ちで、入場制限がかけられていたので、断念して、泉涌寺へ向かった。まずは、雲龍院。『京都人の密かな愉しみ 秋』の舞台になった処。夜間ライトアップの拝観は観たが、昼に来てみたいと思っていた。

 残念だったのは、紅葉は盛りが過ぎていた事だった。それでも、やっぱり良いところだ。参道が夜だと、暗くて長い道。それも風情があって良い。泉涌寺も大変な寺だと思った。建物の大きさからもそれが判る。今回は、銀閣寺と瑠璃光院が観れなかったが、それはしょうがないこと。これが闘牛ならしょうがないでは済まされないが、庭は来年でも観れる訳だから・・・。

 あれから46年経った。6年前金閣寺に行った。三島由紀夫が死んで40年に当たる日に観た金閣寺は美しかった。

「そんな昔話をしながら、三島が自決する三カ月前、七〇年八月の出来事を思い出した。三島は毎年夏を静岡県下田市で過ごしていた。そこに、私を招待した。その日の昼食はすしだった。三島は中トロばかりを注文した。夕食時には共通の知り合いが加わり三人で和食店に出かけた。三島はいきなり伊勢エビを五人前も注文した。それでも「足りない」と二人前を追加した。

 高価なメニューばかりを食べ急ぐ三島は初めてだった。何かがおかしいと感じた。私は約束を破り、「悩みがあるなら、話してくれませんか」と内面に触れようとした。三島は目をそらし、押し黙った。何も答えなかった。

 今、思えば、最後の晩餐(ばんさん)にもシナリオがあったのだろう。翌日、三島は遺作「豊饒(ほうじょう)の海」の最終章の原稿を「読みませんか」と私に手渡した。前の章をまだ読んでいなかったので断ったが、私の反応は筋書き通りだったのか。それとも、読んで何か意見を言えば、その後のストーリーは変わったのか…。

 翌九月に私が羽田空港からニューヨークに向かう朝、夜型の生活で徹夜明けだっただろう三島は、無精ひげに充血した目で見送ってくれた。そんな姿も初めてだった。

 「豊饒の海」の最終章には三島が自決した七〇年十一月二十五日の日付が残る。歴史上は書き上げた直後に自衛隊市ケ谷駐屯地に向かったことになっている。だが、三カ月前に最終章はあった。日付は最期の演出かもしれない。」 ーー「ドナルド・キーンの東京下町日記」(東京新聞2014年2月2日)ドナルド・キーンよりーー

 三島は何故、市ヶ谷駐屯地に向かうとき、コロナに乗って、高倉健の『唐獅子牡丹』を、縦の会のメンバーと歌ったのだろう?

義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ
義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ
俺の心は お見通し
背中(せな)で吠えてる 唐獅子牡丹
♪ ーー『唐獅子牡丹』よりーー

 もし、アントニオ・コルバチョが、割腹自殺しなかったら、三島由紀夫に興味をもっていただろうか?三島を読んで、京都の桜が観たいと言っただろうか?謎というのは、想像力を掻き立てる。想像力は、空より高い。誰かがそう言っていたことを思い出す。


 11月26日(土) 曇 16741

 キューバ革命を、チェ・ゲバラと共に成し遂げた、フィデル・カストロが25日夜死亡した。死亡を発表した、弟のラウル国家評議会議長は、キューバ革命のスローガンで締めくくった。Hasta la Victoria siempre. 野球のキューバ代表として、大リーグ選抜と対戦した。ピッチャーとして3安打に抑えた記録をもつ。第1回WBC決勝の試合前、キューバ選手団に「試合に“勝て”とは言っていない。“ベストを尽くせ”と言っている」と語り、結局は日本に敗れ、日本が優勝、キューバは準優勝という結果に終わったが、フィデルはキューバ選手団を空港まで出迎え、その後に首都ハバナで開かれた政府主催の式典で「金でも銀でもいいじゃないか!決勝に行けたことが素晴らしいんだ!」と自国選手を称えたと、いう。第2回WBCで、決勝打を放ったイチローを世界最高打者と言ったという。

 スペインとは、国交を結んだままだった。ファシスト政権だったフランコとは、出身地がガリシアで同じということで、思想的には真逆にも関わらず、仲が良かったようだ。たぶん、向こうへ行って、ゲバラと話をするだろう。25日に死んだ三島、ニメーニョⅡ、カストロ。ニメーニョも自殺だった。子供が2人いて、妻は医者だった。自宅ガレージでの首つり自殺。コヒーダの影響で、左腕が動かなかった。悲劇的な死だ。しかし、何故かフランスの新聞は、牛に向かうように、死に向かって行ったと讃えたと言うが、闘牛士を讃えるのは賛成だが、こういう死には、賛成できない。今のフランスの闘牛界があるのは、シモン・カサスとニメーニョがいたからだと思う。それは間違いない。ファン・バウティスタもセバスティアン・カステージャも彼らがいなければ出てこなかったはずだ。

 NHK杯フィギアスケート男子は、羽生結弦が、300点越えで優勝した。


 11月27日(日) 曇のち雨 10753

 東京に戻ってきて、いつもなら、京都の方が寒いのに、今年は、東京の方が寒く感じた。今日は宮さんとWINSで競馬。久しぶりに一緒にやった。京都競馬場は、朝から雨が降って寒そうだった。午後から合流したが、合流前に1レース、宮さん肩慣らし中に、JC前の京都11レースも大失敗した。反省会を開き、JCを観ていた。キタサンブラックが逃げ切り、ゴールドアクターが直線でたれて、外から、位置取りが良かった、デムーロのサウンドオブアースとシュヴァルグランが、つっこみ中荒れのレースになった。

 キタサンとゴールドから行ったので、外れたが、宮さんが言うには、キタサンを軸にしていれば、シュヴァルグランも買えるという解説。8枠なら、リアルスティールではなく、シュヴァルの方という見解だった。残ったレースは、京都の12レースだけ。ここで、コンセプトは話した。このレースは、1枠と8枠でしょう。というと、宮さんは、8枠なら18の方でしょう。1枠は、2番で、8枠は18番。そしたら、2枠3番と5枠に流すのが普通でしょう。5枠なら9番。うんその通り。でも、繋がるなら、2枠3番と1番がくさい。というと、それから行くと6番もくさい。なるほどと思った。

 宮さんは、2番からのワイド3点。俺は、2-18のワイドと、それから上記へ3連複で流した。レースは、直線になって、2番がちぎって、そのあとを18番で、3着が、1番と7番が競り合ってゴールした。写真判定で、判らなかった。微妙だ。10分以上待って、3着が同着で確定した。それで、2人で話し合ってそれぞれ買った馬券の両方が当たった。帰り道、2人で話し合うと多分、8割当たると思うと宮さん。それはそうかも知れないと、おもいつつ、宮さんの万馬券にうらやましさを感じつつも、逃した2レースの万馬券に思いをはせた。あー競馬はやはり面白い。それにしても、俺は最終レースが強いなぁ。

 ところで、JCを勝ったキタサンブラックのオーナーの北島三郎は、インタビューで、また、『祭り』を歌った。武豊は、今回は歌わなかった。この馬、強い。何故なら、武豊が乗って勝つんだからと、宮さん。へたくそが乗っているのに、勝ているくらい強いという見解。デムーロはあれだけ上手く乗っても、勝てないのは、騎手の腕の差ではなく、馬の力量差ということ。


 11月28日(月) 晴一時小雨 7468

 今日は、晴れていたが、風が吹き、夜になり寒くなった。シーズンが終わったのに、大谷翔平に休む暇がないように、いろいろな賞が贈られている。先日のベストナインダブル受賞。投手と、DHでの受賞というのは史上初。そして、今日、パ・リーグのMVPに選ばれた。日本ハムの4番を打つ中田翔が、大谷のことを、ピッチングが注目を集めているけど、バッターでも超一流で、あいつは化け物と言っていた。

 2年連続トリプルスリーをやったヤクルトの山田が、大谷のことを、あの人は、化け物ですから。と、同じようなことを言っていた。CS最終戦のソフトバンク戦の9回に登板して、直球のたびに160キロ以上出し続け、165キロが出たときの中田翔の呆れたようにこぼれる笑み。ソフトバンクのベンチで、内川のワオと叫んでいる驚きの表情。プロ野球で活躍する超一流たちの言葉や表情だけでも、大谷の才能が感じられる。

 クロップ監督は、ドルトムントで初めて優勝した年に香川に対して、いつまでも才能を隠しておくことは出来ない。と、言って絶賛した。『あまちゃん』がNHKで、放送されていた頃、『あまちゃん』と、大谷翔平を今観なかったらダメでしょうと、言っていた芸人がいた。どっちも、岩手県なのだが、それは正しいと思った記憶がある。

 これから、大谷は、ダルビッシュと一緒にトレーニングをする。ダルビッシュは、去年ちょっとやっただけで、あれだけの成績が残せたんだから、またやったら、もっと良くなるでしょうと言っていた。ダルビッシュは、何故自分の技術とかを他の人に教えるんですか?と、問われて、それは、僕が現役終わったら、僕の技術とか、体作りとか、やり方は、途絶えてしまうでしょう。でも、それを人に教えることによって、続いていくって言うかそういうことです。と、言っていた。ダルビッシュは、立派だと思った。そういう風にして、大谷は教えて貰えることを、大事にしていって欲しい。栗山監督がいう、1番差の付くのは、シーズンオフ。そこで、どれだけの物を積み重ねられるかという、勝負でもある。僕も、来年の闘牛までの間をビデオを観たり、考えをまとめたりしようと思った。


 11月29日(火) 晴 19958

 今日は出掛けたい気持ちを抑えて家にいた。洗濯したり、キッチンを片付けたりして、綺麗になった。そうしたら気分が良い。年末にかけて普通は大掃除というのがあるが、それが出来れば嬉しい。夜、JリーグCS決勝が行われている。鹿島対浦和。誤審によるPKで浦和が先制した。歴史には、誤審は記録されず、結果だけが残る。理不尽な気もするが、スポーツはそういうモノでもある。

 YouTube で、大谷を観ていた。今年、165キロ、10勝、打率322、ホームラン22本。それでも、まだまだ伸び代を感じる。その可能性が何処までなのか、判らない。そういうところが大谷の魅力だ。


 11月30日(水) 晴のち雨 5443

 散歩していても、耳や手が寒く感じるようになった。

 『真田丸』は佳境に入っている。冬の陣が和睦に終わる。色めき立った五人衆。後藤又兵衛、毛利勝永が、幸村の家臣堀田作兵衛を呼び、問いつめる。「後藤 真田幸村ってどんな野郎だ。
毛利 俺たちが命を預けるに足る男か。
堀田 知らぬ。
後藤 お前、家来だろうが。
堀田 あのお方が、京にいる間、儂は上田を守っておった。九度山へもついて行ってはおらぬゆえ、おそばにいたのはわずかな間じゃ。
後藤 こいつじゃ、駄目だ。
堀田 しかし、あのお方の父君、安房守様のことはよう知っておる。真田家の家風も判っておる。安房守様ほど、義に厚いお方はおられなかった。
毛利 直ぐに裏切る事では、有名だったではないか。
堀田 とんでもない誤解じゃ。安房守様は、生涯をかけ、武田の領地を取り戻されようとしていた。信玄候への忠義を、死ぬまで忘れなかった。そのためには、どんな手でも使った。卑怯者の汚名もきた。源二郎様(幸村)は、その血を受け継いでおられる。あの方は、太閤殿下のご恩に報いるためなら、何でもする。そういうお方じゃ。儂に言えるは、それだけじゃ。」 ーー『真田丸』よりーー

 和睦の話し合いが女たちによって行われる。淀の方の妹、常高院をたてる。評定(ひょうじょう)でそれを言い出したのは、幸村だった。それに対して家康は、妻・阿茶局をたてた。

「 秀頼 そなたはしぶとい。
幸村 急にどうされました。
秀頼 打って出ると進言し、退けられたら、真田丸を作り、和睦が決まれば、今度はいか有利に事が進めるか考える。
幸村 望みを捨てぬ者だけに、道が開けるのです。」 ーー『真田丸』よりーー

 和睦は成立する。何のおとがめもなかったが、口頭でのやり取りで、真田丸の取り壊しと堀を埋めることが決まった。もはや、絶望的だった。それでも・・・。

「 秀頼 望みを捨てぬ者だけに、道が開けると、そなたは言った。
幸村 はい。
秀頼 私は、まだ捨ててはいない。
幸村 かしこまりました。」 ーー『真田丸』よりーー

 いよいよ12月。いかに死ぬか。それは、山田風太郎が書いた、『人間臨終図巻』を読めば、死に様が、その人の生き様に繋がっていることが判る。


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