断腸亭日常日記 2017年 2月 その1

--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年のスペイン滞在日記です。
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 2月14日(火) 晴 22234

 「俺、結婚しなきゃ良かった」と、ガン治療が終わった妻がいる人が言ったので、「えっ、どうしたの?」ときくと、「だってさぁ。あんまり幸せすぎて、嫁さんいなくなったら、どうしていいかわかないもの・・・」というので、「たくよー。ふざけんじゃねぇーよ」というと、「いや、こういう事いうと、娘とか笑うんだよなぁ。嫁さんなんか、先に死んでも泣かないからとか、いうんだよなぁ」とかいった後に、「女ってそういうもんかも知れないよねぇ」と、いって2人で笑った。

 リーガ・エスパニョーラは、終盤にさしかかってきた。ジダンがレアル・マドリードの監督になって1年になる。これがジダンのサッカーという個性というか色が感じられない。それについて、『Number』で、そのことを取り上げてる。レアル・マドリードでチャンピオン・リーグで優勝し、スペイン代表の監督としてもワールド・カップの優勝をしたビセンテ・デル・ボスケなどにインタビューをした記事だ。その中で、ボスケは、色がないのは悪いのかと、言っている。ジダンが選手としてボスケ監督の時に、チャンピオン・リーグで優勝している。ボスケのサッカーにでは、色があるかといえばないのだ。その時、チームにいる選手によって、システムを変えたりする。ヨーロッパ・チャンピオンになったときは、フォワードがいないという戦略をとって、サッカー関係者をビックリさせた。

 チームの調和を考えて作戦・戦略を立てるやり方は、ボスケに似ている。グアルディオラやモウリーニョの様な強烈な個性はない。ボスケのアシスタントをしていたトニ・グランデは、ハメスの移籍問題などは、ジダンでなければ収束しなかったという。そして、レアル・マドリード監督で、チャンピオン・リーグで優勝した監督には共通点があるという。

 「好戦的でないこと。監督として自分を押し出しすぎないこと。人としてまっすぐであること。デルボスケ、アンチェロッティ、ジダン。彼らにはそれがある。一方で、モウリーニョやベニテスにはそこが欠けていた」と、言っている。

 面白い意見だ。確かにそういう面があると思う。ジダンに色がない。例えば、シメオネの様な表面に出るような熱もない。それなのに、ちゃんと結果を出している。今年も、リーガとチャンピオン・リーグで優勝してしまうのではないかと思うような成績を収めている。シメオネはシメオネらしく、ジダンはジダンらしくサッカーをやって欲しいと思う。サッカーはこうだというような絶対的なやり方はないのだから。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』は、オグリキャップだった。1990年の有馬記念はオグリの引退レースだった。有馬史上最多の17万7千人が詰めかけた中山競馬場。レース後、あの天にも届くような17万人の「オグリ」コールが鳴り響いた。バブル最後の年。武豊ブームとオグリブームの頂点がこの年のフィナーレを飾った。何なんだろう、番組を観ていて涙が流れた。競馬に人生のドラマを感じた頃だった。寺山修司は、100万人がいれば、100万人のダービーがあると、言ったが、地方競馬出身のオグリが、中央競馬で大活躍する物語に、競馬ファン以外の人もシンパシーを感じて熱狂した。競馬を知らない若い女性までも競馬場に来て、オグリに熱狂した。90年の有馬のレース直後、そういう女性たちが泣き崩れていた。オグリキャップは何だったんだろうか?


 2月15日(水) 晴 19946

 天気は、明日明後日が4月並みに温かくなるという。つまり、花粉も飛ぶということらしい。マレーシアのクアラルンプールで、金正男が暗殺されたようだ。北朝鮮の工作員が暗殺したと韓国はいっている。トランプ、安部会談中にミサイルを発射したり、そのことを韓国が、北朝鮮は滅ぶだろうと、軍関係者が断言したりした。大分きな臭くなって来たようだ。中国が、北朝鮮の現体制を嫌っているとも伝えられている。近いうちに、多分今年中に何かが起こりそうな、嫌な予感が・・・。そして明日、トランプ・ネタニアフ(イスラエル)会談が行われている。世界の大きな変化が起きようとしている。

 東芝が巨額の損失を出して、社長が引責辞任する会見を行った。この2日で株価は16%下落した。主力の半導体事業を全て売却する可能性まで言及したのは、大きなダメージだったのだろう。グループ全体で16万人以上を抱える巨大企業。どうなるんだろうと思ってしまう。

 『ガッテン』は骨。骨粗鬆症の治療と膵臓の関係が強いという。骨を割ると骨髄が入っている。骨には、血管が通っている。これが膵臓と繋がっているという。骨には、スパーホルモンというのがあるという。オステオカルシン(骨ホルモン)は、膵臓を活発にする。脳も活発にする。肝臓も活発にする。心臓も腸も精巣も皮膚にも腎臓にも良い。オステオカルシンをどうすれば体に増やせるか。

 今、骨ホルモンをサプリメントで簡単に接種できないかという研究をしているという。九州のとんこつから抽出する方法が研究中だという。また、骨を刺激すると骨ホルモンが増えるという。その方法を1週間実施したら、数値は、増えた。糖尿病予備軍のヘモグロビンの数値も落ちた。その方法は、つま先立ちして、地面に踵を落とす。それを30回落とす。ポイントは背筋を伸ばし大きく伸び上がりストンと落とすこと。思ったより手軽に出来る。何処でも簡単に出来る。骨粗鬆症にも良いし、他の臓器にも良いという。


 2月16日(木) 晴 7502

 天気が良いので、洗濯をした。それからカルテルなどを書き込んだ。そして、最近ゆっくり出来るときは、昼飯はいきなりステーキに行って、300グラムのハンバーグを食べて買い物をしてきた。下山さんから電話。

  オグリキャップは何だったのか? 『プロフェッショナル 仕事の流儀』では、「有馬記念。毎年12月に開催される日本競馬界最高峰のレースだ。今から27年間前、この華やかな舞台を駆け抜けた、1頭の地方競馬出身の馬がいた。2流の血統でありながらエリートの馬たちと互角に渡り合い勝利する。その走り、その姿に人々は自らの人生を重ね合わせ胸を熱くした。今夜の主人公は、伝説の名馬オグリキャップ」というナレーションで始まった。

 「競走馬の社会では、血統がものがいういわば厳しい格差社会。なぜオグリキャップはその格差を乗り越えることが出来たのか。」オグリは85年3月27日深夜、稲葉牧場で生まれる。誕生時、右前脚が大きく外向していてなかなか立ち上がれなかった。牧場関係者が抱きかかえて、初乳を飲ませた。場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め「ハツラツ」という幼名を付けた。なお、右前脚の外向は削蹄を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった。

 育成時代、群れにから離れ1頭だけいることが多かった。当時のハツラツの印象について、賢くておとなしく、また人なつっこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったという。食欲については稲葉牧場にいたころと同じく旺盛で、その点にひかれた小栗孝一が地方競馬笠松競馬場の調教師、鷲見昌勇に購入の申し込みをする。オグリの母ホワイトナルビーは、小栗孝一が所有し、笠松で活躍したダンシングキャップを種付けに選んでいた。

 87年1月岐阜県笠松町にある笠松競馬場、鷲見厩舎に入厩した。調教に乗った青木達彦は、いつも力を抜いているので、走る馬じゃないと思ったという。蹄鉄を打つ装蹄師の岩崎倖大は、競走馬の資質に欠けていると思った。「僕は初めてオグリキャップに触ったときは、「何これ、たいした馬じゃないな」って最初思ったんです。いわゆる腰が弱くて、脚も上げるのを嫌がったたんですけど。阿蘇揚げると、よく立っていられないです。血統的にも、そこまであの子が走るとは、誰も思わなかったんじゃないですか。

 競走馬の血統は、優秀な成績を収めた馬の血統を掛け合わせて築きあげてきたものなので、過去8代血統証明書がなければ、サラブレッドとして登録できない。オグリキャップの評価額は、バブル時代にも関わらず500万円だった。サンデーサイレンスを父に持つディープインパクト(GⅠ7勝)は、7000万円で取引された。そして、その子で、去年の有馬記念を勝った、サトノダイヤモンドは、2億3000万円だった。良い父親の種を持ている馬は高値が付く。走る可能性が高いと判断される。そういう処からも競走馬は、経済動物である。

 小栗孝一は、兄弟が多く、養子に出された。父親が事故で死に、養母に育てられた。夜勤などもこなして育ててくれた。「養母はいいひとやったが、やっぱり僕は寂しいおもいもしとる。だから、自分の子供には、そんな思いはさせとうなかった。馬に対しても、同じ気持ちなんです。むしろ自分の意志で人生を歩める子供よりは、こちらの意のままに生きるしかない馬に対しては、余計に思い入れが強くなることもある」と生前いっていたという。

 「どうすることも出来ない運命に翻弄された幼少時代の自分。人の意に従い、生きることを運命づけられている競走馬。孝一は自分の人生を重ね合わせ、オグリキャップのような血統の良くない馬であればあるほど、愛着を感じた。  運命を、格差を、乗り越えろ。」 ーー『プロフェッショナル 仕事の流儀』よりーー

 この年の春。期待の低かったオグリにわずかな可能性を見いだしたのが鷲見調教師。デビュー戦、直前の調教でオグリが全速力で走っている姿を見て、1流馬特有のある姿勢を取った。「オグリキャップなんかよ。沈んでいくよ。スピードに乗ってくるとスーッと沈んでくる。重心が下がるってことやな。低くなる。やっぱりスピードがある馬でないとそれはない。」デビュー戦は、2着に惜敗する。その内容は、3コーナーで外にふくれる馬の外についてしまって大外に持って行かれ、そこから気合いを入れ直して、直線伸びて差せなかった。それでも、内容が良かったので青木騎手は、評価を改めた。この馬は走る。次のレースは大差で楽勝した。可能性を感じた鷲見は、地方競馬ならではやり方を実践した。2週間に1度というペースで出走させた。

 「距離も短いでなぁ。地方では。それぁ使えるんだ。だから強くなる。力ついてくるでぇ。それで、勝つと強いメンバーに組まれてくるので、だんだん強くなる」しかもオグリは、レースが続いても飼い葉の食いが落ちなかった。タフだった。体重が減るどころか、逆に20キロも増えた。しかも、勝負に対する強いこだわりも見せた。10月4日に行われたジュニアクラウンで、4コーナーで一旦先頭に立つも、直線入口で交わされたが、最後盛り返して鼻差で勝利した。

 騎乗した安藤克己「負けたなって、そうしたらもう一回頑張るから、馬が。歯を食いしばって、あごを出して動くような馬なんですね。だから、そういう部分でね、やっぱり根性はすごく持っていました。全然動じないし、自分を持っていた馬じゃないかな。そういう意地もあったよね。負けたくないという。」

 次の中京競馬場で行われた芝1200mの中京盃を勝った辺りから、中央転厩の話が持ち上がる。しかし、小栗孝一は売る気はなかった。また、中央競馬の馬主資格を持っていなかった。中央転厩となれば、売らざるを得ない。多くの話の中で、

「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した。2代目の馬主になったのは、佐橋五十雄。オグリは地方競馬12戦10勝の成績を引っ提げて88年1月28日関西所属栗東の瀬戸口勉厩舎に入厩する。

 中央移籍1戦目。3月6日阪神競馬場で行われた、ペガサスステークス。2番人気だったが、楽勝した。続く3月27日毎日杯。クラシックトライアルレース。そこでも良血馬を相手に優勝した。しかし、クラシック登録をしていなかったために、皐月賞、ダービー、菊花賞には出走できない。当時はそういう制度だった。だから、裏道を歩むことになる。5月8日京都4歳特別。6月5日ニュージーランド4歳ステークス。と、勝ち続け、初めての古馬とのレース高松宮杯。2戦目以降は全て1番人気だった。ここでも勝ち、天皇賞のトライアルレース、毎日王冠。そこで、ダービー馬などを相手に楽勝する。中央移籍後、重賞6連勝という離れ業を成し遂げる。人気もうなぎ上りだった。

 向かえた10月30日天皇賞・秋。競馬評論家の大川慶次郎は、レース前の解説で、オグリキャップに勝てるのは、タマモクロスだけですね。といったのを記憶している。レースはその通りになった。当時現役最強馬といわれたタマモクロスが優勝し2着がオグリだった。中央転厩後初めての敗戦。オグリより強い馬がいるのか。ガッカリしたという。次走ジャパンカップ。1番人気タマモクロス、オグリは3番人気だった。結果は、外国馬、ペイザバトラーが優勝。2着タマモクロス、3着オグリキャップだった。当時はジャパンカップを日本馬が勝つことは出来ない時代だった。

 有馬記念は、タマモクロスの引退レースになった。陣営は、それまで主戦騎手の河内洋がサッカーボーイに騎乗するために何度か騎乗依頼を出していた岡部幸雄依頼する。岡部は1度限りの条件で受諾する。シンボリルドルフなど数々の名馬に跨った名手・岡部幸雄「簡単に言うと馬の質自体、それこそ、もう馬の値段だって、もうはるかに格差があるわけですよね。でもやっぱりそういう中でも、化けるというのか、大化けする馬もときどきいますからね。その辺がまあ、競馬の面白さでもあると思うんですよね。ですから、そういう中で、1番とにかく悔いを残さず競馬をしてやるんだって」

 負けられない戦いに、瀬戸口と岡部は異例の作に出た。初めて出走する中山競馬場でスクーリングをする。パドックを歩かせたり、馬場に出たりして初めての競馬場に慣れさせた。岡部幸雄「特例的に、OKを出してもらったわけですけどね。やっぱりわれわれ人間サイドが、できるかぎりのことは何でもやろうよっていう」 それは賭けでもあった。レース前の大事な時期に慣れないところへ行くリスクがあった。岡部「初めて乗るんですけど、ふだん通りのイメージというか、そういうのは、どこか不安な返し馬なんか、一切しないし、まったく自分の中では問題なく、ウォーミングアップはできましたね。

 そして、向かえたタマモクロスとの最後の1戦。発走1分前、いつものように、首を伸ばして頭を振る武者震い様な仕草をした。岡部「こうブルブルって武者震いするんですよ。今までそういう馬、乗ったことなかったですから。ちょっと自分でも驚いたというか、それがオグリキャップのレースのときのルーティンなんでしょうね。ちょっと安心して、(ゲートに)入っていきましたね」

 レースは最後の直線で、オグリキャップとタマモクロスが馬体を合わせての叩き合いで、3度目にして初めてタマモクロスに勝ってGⅠ馬になる。実況では、ゴール後、「中京笠松の地方競馬からスタートしたオグリキャップ。ついに日本の頂点に立ちました。」と伝えた。オグリキャップに乗りながら、岡部は岡部なりの、この馬の仕事の流儀を感じていた。「いつも通り、淡々と」 岡部「気持ちがすごく、心がぶれないっているか、安定しているんですよね。こう一喜一憂しないんですよね。普通ビッグレースになると、すごくもう人馬ともにもう興奮して、心臓バクバク、そういうふうに普通なるんですけど、まっ実際なってはいるんだろうと思うんですけど、それをあんまり表に出さずに、もう淡々と仕事をするっていう。いつも通りだよ、みたいなね、もう本当に何百頭、何千頭に1頭っていうか、そういうタイプだと思うんですよね。」


 明けて5歳(当時は数え年。今でいえば、4歳)。89年春は繋靱帯炎などを発症して休養。また、2月に馬主が佐橋から近藤俊典へ替わった。佐橋が馬主登録抹消させる可能性があったためだ。売却額は5億5000万円だったという。小栗孝一が佐橋五十雄に売ったときは、2000万円だったので購入額の27倍以上になっていた。9月のオールカマーで復帰する。鞍上には京都4歳ステークスで1度乗っていた、タマモクロスの主戦騎手だった、南井克巳を迎える。そして12月の有馬記念まで6戦がオグリキャップの人気を決定的にした。1番人気に支持され優勝。10月の毎日王冠。天皇賞・春、宝塚記念とGⅠ連勝中の同じ地方出身のイナリワンを鼻差退け優勝した。向かえた天皇賞・秋では、大接戦になったが、武豊のスパークリークに鼻差負け2着だった。

 南井は、自分の騎乗ミスで負けたのを悔やみ、次戦に賭ける思いをつのらせた。陣営は、マイルチャンピオンシップ、ジャパンカップと連闘で挑むと発表した。マイルチャンピオンシップは4コーナーを廻って直線で抜け出した武豊のバンブーメモリーがセイフティーリードを取って、もう駄目だと思っていた。そこからオグリキャップが猛然と内をついて追い込んでくる。南井の渾身の鞭に応えて、オグリが馬体を合わせた処がゴールだった。関西テレビで実況した杉本清アナウンサーはゴール板通過後、「負けられない南井克巳。ゆずれない武豊」と詩のような心に響く言葉を残している。

 レースは、長い写真判定の結果、バンブーをオグリが鼻差差して優勝した。勝利騎手インタビューで、南井克巳は号泣する。「オグリキャップに救われた」といい、翌週のジャパンカップについて訊かれると、いやー僕、自信ありますよと断言した。この年10月競馬場では、オグリキャップのぬいぐるみが発売される。2代目の馬主、佐橋の会社が制作したオグリキャップぬいぐるみは1年間で、160万個の売り上げを記録する。そして、このレース後に南井克巳が見せた涙が競馬ファンの琴線に触れ、スパーアイドルホースになったと言っていいだろう。

 南井克巳は、浪花節の様な男で、僕ら競馬ファンの間では、南井の脳細胞は、筋肉で出来ていると言って笑ったことがあった。義理・人情にも厚く、面倒見も良い。4コーナーを廻るときは、「オリャー」と絶叫して追い込んでくる。競馬学校を出て、騎手に成り立ての子たちは、一様に驚いて、怖がったという。南井の号泣とオグリキャップは、競馬ファンに感動をもたらした。

 翌週のジャパンカップ。強力な外国馬対、スパークリークとオグリキャップ。1番人気は、武豊のスパークリーク。連闘で挑むオグリキャップは2番人気だった。レースは、イブンベイがハイペースで逃げる。それを4番手で、スパーとオグリが追う展開。東京競馬場の長い直線で、ホーリックスが抜け出る、それを外からオグリが迫る。南井の鞭に応えて差を詰める。馬体が合った処がゴールだった。しかし、わずかに届いていなかった。掲示板に、2分22秒2と当時の世界レコードが掲示されて観客はどよめいた。連闘で挑んで、なお、この時計で走るオグリってどんだけすごいんだ!しかも当時は馬券は枠連時代で、2枠同士で2-2のぞろ目だった。えっ、2分22秒2で、馬券が2-2。配当は、6780円だった。

 有馬記念は、オグリは5着に負けた。勝ったのはイナリワン。同じ地方馬出身のイナリワンとオグリキャップの人気がなぜ違ったか。イナリワンは古馬になってから東京の大井競馬場から転厩してきた。この年G Ⅰを3勝するが1度も、1番人気になったことがない。オグリの様にクラシックを走る年に中央に来て、6連勝したわけでない。そういう差だと思う。4ヶ月で6戦走る。しかも11月下旬は、マイルチャンピオンシップ、ジャパンカップと連闘だった。そういう疲れで負けたのではないかという意見が大勢だった。

 長くなったのであとは、明日以降にしよう。


 2月17日(金) 晴 5052

 トランプ大統領はネタニアフ首相との会談のあと、1つでも2つでもどっちでも良いといった。それがどれほど重要な意味を持つのか、認識がないようだ。信じられない。事実上のトップのサムソンのナンバー2が逮捕された。北も駄目なら、南も駄目な国の様だ。今日はこれから強い南風が吹いて、温かくなるという。東京では、風速8mを超えると、春1番というそうだ。昨日、九州では春1番が吹いた。

 オグリキャップは何だったのか?明けた90年。この年がオグリキャップ現役最後の年である。実は89年で引退するといわれていたが、この年も現役を続けることになったのは、日本中央競馬会が馬主に働きかけがあったからと言われている。有馬以降競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送され休養に入った。今後のローテーションは、大阪杯で復帰して春は天皇賞・春か安田記念。9月には、アメリカへ遠征して、アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。

 しかし故障がないのに、状態が思わしくなく、復帰は5月の安田記念になった。鞍上は武豊をむかえ、1番人気で、レコード・タイムで優勝する。そして、春のグランプリ宝塚記念では、鞍上を岡潤一郎むかえ1番人気だったが、まんまと逃げ馬に逃げ切られて2着になる。岡潤一郎は、楽に逃げさせた自分の騎乗ミスを認め、次はもうないと、残念がった。レース後、オグリが骨膜炎を発症していることが判明する。また、右の後ろ脚に飛節軟腫であることも判る。9月のアメリカ行きは取りやめになる。

 競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入ったが、調整が遅れ、8月末に栗東トレーニングセンターの瀬戸口厩舎に入厩するが10月上旬には脚部不安ささやかれ、天皇賞回避濃厚といわれた。それでも、天皇賞・秋に出走したが6着に惨敗する。続くジャパンカップも良いところなく11着完敗する。この秋2走の鞍上は、ハイセイコーに乗っていた増沢末夫だった。騎手が悪いからとか色々いわれ引退がささやかれ始めた。馬主には、脅迫状が届いた。出走を取りやめなければ、近藤の自宅と、競馬場に爆弾を仕掛けるという物だった。しかし、陣営は有馬記念で引退レースとすることを決定した。

 鞍上は、この年、安田記念を勝っている武豊に依頼した。オグリは終わったとか、オグリは燃え尽きたという見出しが新聞におどった。有馬出走のため美浦トレーニングセンター入厩。そこで担当の池江厩務員が久々にオグリが立ち上がったと喜んだ。それはオグリが良いときに見せる姿だという。番組では、小栗孝一が、このままでは終わらないといっていたと、家族が証言している。小栗孝一は、中央に移籍したあとも、オグリキャップが出走する全てのレースに競馬場へ駆けつけていた。もう馬主ではないので一銭の金にもならないのに・・・。

 人気は4歳馬のホワイトストーンが1番人気。無冠の帝王、メジロアルダン2番人気。ダービー2着、菊花賞2着のメジロライアンが3番人気。オグリは4番人気だった。これは、引退レースの記念として単勝馬券を購入した人が多かったからだ。なお、この頃単勝馬券に馬名を入れて欲しいという要望が増えた。記念馬券に名前があった方が嬉しいからというファン思いだった。その他に天皇賞馬、ヤエノムテキ。宝塚記念馬オサイチジョージ、エリザベス女王杯馬、サンドリアリスなど。パドックを観ていた瀬戸口調教師は、良いときに見せる厩務員をグイグイ引っ張る仕草を観て、ちょっとは良くなっているなと思ったという。レースはオサイチジョージが逃げるスローペース。オグリは良い位置取りにつけて走っていた、4コーナーで上がっていき先頭に並びかけた。直線でオサイチがたれていき、オグリが先頭になり、内からホワイトストーンが来て、外からメジロライアンの4歳勢がやってきた。

 NHKなのに使った実況はフジテレビのものだった。NHKも柔らかくなった。大川アナウンサー実況は、「さあ、オグリキャップ引退レース。最後のレースです。」で始まった。「スタート直後武は直ぐに気づいた。良い走りだ。」(番組ナレーション)「オグリキャップもすごく気持ちよさそうに、走ってくれてたので、いいなと思ってずっと乗っていて」「残り800m。最終コーナーを廻った武豊。」(番組ナレーション)「ここはもうちょっと勢いをつけて、最後の直線に向こうかなと思って、すべて馬が応えてくれましたからね。あれ、勝てるんじゃないかなと」

 大川アナウンサー実況「さあ、オグリが行った。武豊が行った。内でオサイチ頑張った。アルダン、アルダン先頭か。オグリ先頭に立つか。さあ直線。大歓声です。オグリ先頭に立つか、先頭立つか。オサイチ頑張った。オグリ先頭か。オグリキャップ先頭か。200を切った。オグリキャップ先頭、オグリキャップ先頭、キャップ先頭。(ライアン、ライアンと大川慶次郎の声)、ライアン来た、ライアン来た、ライアン来た。しかし、オグリ先頭。ライアン来た、ライアン来た、オグリ先頭、オグリ1着、オグリ1着、オグリ1着、オグリ1着。右手をあげた武豊。オグリ1着、オグリ1着。見事に引退レース、引退の花道を飾りました。スパーホースです。オグリキャップです。」

 大歓声のあと、「オグリ」コールが鳴り響く。普通レース後向正面辺りでUターンして戻ってくるのに、この時、武豊はオグリをそのまま走らせた。「オグリ」コールはメインスタンドにゆっくり戻ってくるまで、2・3分続いていた。メインスタンドで武豊がガッツポーズを取ると大歓声が鳴った。

 血統と乗り越えて、勇敢に戦え。その願いを一身に背負った馬は、まるでシナリオ通りだったかのように駆け抜けた。武豊「なんでしょうね。ただ強うとか、ただいっぱい勝ったとかそれだけじゃない。本当に人を引き付けるというか、魅力的な馬でしたね。なんでしょうね。なんか、引退レースの前に、わざと負けていたんじゃないかなって思えるくらいのね。自分でストーリーを描いていたのかなって、思ってしまうくらいのね馬でしたね。

 「レース終了から1時間後、オグリキャップに歩み寄る男がいた。小栗孝一だった。一言声を掛けた。ありがとう。」ナレーション。 以上『プロフェッショナル 仕事の流儀』を基にオグリキャップのまとめ。

 91年1月13日京都競馬場。15日笠松競馬場。27日東京競馬場と3つの競馬場で引退式を行った。笠松競馬場に笠松町の人工2万3000人を上回る2万5000人が駆けつけた入場制限された。場外から観た人まで合わせると4万人が詰めかけたという。それを観た、安藤克己は、「普通じゃないと感じるほどの状況でも、オグリは動じる事はなかった」といっている。

 90年中央競馬の売り上げは初めて3兆円を超えた。有馬記念の売り上げが約480億円だった。人気絶頂期の中央競馬だった。あれから97年売り上げは4兆円を超え、有馬記念は96年875億円を記録したあと、売り上げも落ち、競馬場の入場者も減った。 「競馬ライターの市丸博司は、「地方出身の三流血統馬が中央のエリートたちをナデ斬りにし、トラブルや過酷なローテーションの中で名勝負を数々演じ、二度の挫折を克服」したことにあるとし、オグリキャップは「ファンの記憶の中でだけ、本当の姿で生き続けている」ーーウィキペディアよりーー

 オグリキャップは何だったのか?4歳で毎日杯を勝ったとき、クラシック登録がなく、走ることが出来なかった。毎日杯4着のヤエノムテキが皐月賞馬になったことからも、オグリの実力が判る。なお、92年から登録がなくても、200万円払えばクラシック出走が出来るようになる。また持ち込み馬に対しても、クラシックの道が開かれた。そして、地方競馬所属のまま中央競馬のクラシックへの出走も可能になった。また、笠松時代オグリキャップの主戦騎手だった安藤克己が試験制度で中央競馬の騎手になることも可能になった。それから岩田、内田、柴山、小牧、戸崎といった地方騎手が中央競馬の騎手になった。それが基になり、外国人騎手への門戸も開かれた。2015年から、イタリア人ミルコ・デ・ムーロ、フランス人クリフトフ・ルメールの2人が中央競馬の騎手になった。馬券は、枠連で単枠指定があったが、今は、馬連、馬単、三連複、三連単、ワイドなど種類が増えた。オグリ以降競馬が変わっていったのは事実だと思う。実はそれほど好きな馬ではなかったが、テレビを観ていたら涙が流れてきた。それを感じたくて色々考えてみた。


 2月18日(土) 曇 16208

 今日は寒い。冬に戻った感じだ。夜中に、マドリードの友人と連絡を5月から6月に行くことを報告した。そうしたら、5月2日のゴヤ闘牛にパコ・ウレニャのウニコ・エスパーダをやることを知る。アドルフォ・マルティン、ビクトリアーノ・デル・リオ、エル・トレロだって。見てぇーを思った。セビージャのオフィシャルカルテルも発表になって、それ見ると、4月29日がビクトリーノ・マルティンでパコ・ウレニャ。そして、27日が、ガルシグランデで、モランテ、タラバンテ。が、が、が、が、が。迷う。


 2月19日(日) 晴 18420

 昨日、夢中でネットしていたら、気づいたときは、スマホが低電力モードになっていた。慌てて充電した。行く行かないはともかく、ホテルの予約を入れたのだ。それも、やっぱり、マドリードが決まらないことには、確定しない。飛行機の予約も入れれない。待ち遠しい。興行主がシモン・カサスに変わったので、今年は、客を呼ぼうと、ホセ・トマスの情報を流して注目されるようにしている。早めに、発表があるような気がする。切符取るのが大変そうだ。


 2月20日(月) 曇一時雨 12450

 強風が吹き、都心では風速28mを記録した。東北の日本海側にある低気圧の影響で、台風並みの強風が吹いたようだ。朝病院へ行った。トレーナーに腰痛体操を教えて貰う。ベットに横になって、股関節の可動域を広げるために、ストレッチをして貰う。隣のベットでは、女性が寝て、男性トレーナーが処置している。こっちは、女性トレーナーが処置している。患者にとって異性の方が良いのだろうかと思ってしまった。確かに、右足から始まり、左足と処置が続くが、もうこっちは、ベットの上で、どうにでもしてくれという気分になってくる。言うとおり、何でもするから、直してください。お願いしますという感じ。

 そして、寝てするストレッチの方法の復習。立って同じ事をすると簡単に出来るのに、寝てやると難しい。尻の辺りがこっている。このこりが良くないという。体が硬いのは、全てにおいて疲れを増幅するようだ。骨盤を動かしての腹筋のやり方も教えて貰う。椅子に座っても出来る、ストレッチも2つ。終われば、300グラムのハンバーグが待っている。

 昨日付の『ABC』の記事に、サン・イシドロで、タラバンテがビクトリーノの牛で出場するような事が書かれてあった。どうせだったら、クーロ・ディアス、パコ・ウレニャ、タラバンテの3人でやって欲しいと思った。


 2月21日(火) 晴。風強し 11048

 晴れているのに風が強い。だから寒い。墨東にて、下山さんと会う。向島で美味し店があるのでということで、行ってみた。ミシュランガイドに載っているステーキ屋でステーキを食べた。赤身肉で、心臓に近い部位で、筋が多いところだが、その筋を綺麗にとっているので、食べやすい。しかも、前沢牛。霜降りの前沢牛は、松阪牛とほぼ同じ評価を得ている。岩手県産の牛だ。霜降りを売りにするのではなく、赤身を売りにするところが、この店のこだわりだ。

 赤身でも、筋が多い部位を使うことによって、コストを低く抑えられる。手間を惜しまなければ、それを売りに出来、しかも、ミシュランガイドにも載るような店になる。昨日観た、『プロフェッショナル 仕事の流儀』のフランス料理のシェフと同じ考え方だ。260gで、3000円しないランチ。何か、地元の人が多いのが良いなぁと思った。テレビでやったことによって、一時異様に混んだというが、それも最近はおさまったようだ、とのこと。

 食後、白髭神社で参拝。初めに拝んだ、庚申塔がある地蔵前を通り、草餅を食べる。ヨモギの草餅で、こしあん入りと、あんなしで蜜ときなこで食べる2種類があり、両方食べる。蜜ときなこの方は、食べにくい。こしあんが入った方は、あんがあっても充分草餅の香りがするので、美味しい。向かいの吉備団子も食べるがちょっとなぁという感じだった。それから、百花園へ行く。ここは空襲で、名勝が燃えてなくなったあと、梅などを植え直して作庭し直した処。白梅・紅梅が咲いていた。紅梅の香りが強かった。

 それから、江戸箸の店に行く。ビックリしたのは、うどん用、ラーメン用、そば用、卵ご飯用、納豆用の用途によって違う箸があったこと。面白いなぁと思った。風が強いので、喫茶店に入る。婆さん2人が椅子に座っていた。そのうちの1人がいらっしゃいませと、いって水を運んできて注文を訊いた。カウンターに爺さんがいてコーヒーをたてて、婆さんが持ってくる。コーヒーカップを持っている手が震える。立ち止まって、テーブルの上に置くまで、長い。カップがテーブルに近づくが、置くまでがスローモーションのような感じでゆっくりで、落とすんじゃないかというスリルが味わえる。ソファーの様な椅子は破け、テープが貼られている。昔あったような喫茶店。昭和レトロな感じの店。こんな店まだ東京にあったんだ、というような店。下山さんが、この店良いですねというと、婆さんが目を丸くしてビックリした表情のあと、嬉しそうに笑った。

 もう一軒喫茶店に行ったが、そこも昔の純喫茶という感じの店だった。それから牛嶋神社に行ったが、もう日が暮れて閉まっていた。北斎観たかった。でも、途中寄った向島花柳街は、何もなかったが、鳩の街の通りを歩いて、爺さんに訊いたら、大門があった処、また、中心の通りを訊き、そこを歩いた。爺さん凄いなぁと思ったのは、売春禁止法で赤線が無くなった日を、昭和33年3月31日といったこと。年度替わりで廃止になったのだ。荷風の『濹東綺譚』や『断腸亭日乗』に出てくる玉の井が、東京大空襲で焼けたあと、この地に新しく開かれた花柳街だ。

 元幕臣の女性などが身を崩してこういう街で働いていた処。滅び行く江戸の風情を感じさせる場所だったのだろう。山田風太郎の、『警視庁草紙』に出てくる元同心、千羽兵四郎の恋人お蝶が、向島芸者という設定だった。薩長が江戸に来て、使った花街は、赤坂などで、いわば、向島は幕臣系が使っていたところ。向島芸者は、ふぐや芋侍など相手にしなかったのだ。今日は荷風と風太郎を感じながらの町歩き。風が強かったが面白かった。


 2月22日(水) 曇 18385

 今日は、昨日のように風は強くなかった。下山さんと、すみだ北斎美術館へ行く。常設展を観る。エレベーターで4階へ。壁に牛嶋神社にあった絵の復元したものが飾られてあった。『須佐之男命厄神退治之図』。入口の処にあった、パネルで、すみだと北斎を見たいたら、北斎が日蓮宗の信徒である事を知る。うーん。何だろうなぁ。日蓮宗の信徒って調べると多いのかも知れない。例えば、長谷川等伯。元々が仏絵師だったが、それが日蓮宗の寺を中心に描いていた。七尾付近には、そういう寺が多いのだろうか。本願寺だけじゃないし、曹洞宗の永平寺だけでもない。京都に出ても日蓮宗の寺が基になる。淋派の創始者の1人、本阿弥光悦は法華宗徒を引き連れ京都・鷹峯に移住した。そして、北斎もそうだったとはビックリだった。

 そして、北斎が住んでいたところもタッチパネルで観れたが、昨日歩いた向島、寺島から牛嶋神社くらいまでにも住んでいる。勿論両国近辺にも住んでいた。この美術館があるところは、北斎生誕の地。歩いたところが解るから、非常に面白かった。何回も引っ越ししても墨田なんだと思った。娘お英と四畳半で絵を描いている北斎の蝋人形?があった。部屋には気に入らない絵を丸めて捨てられているところまでちゃんと表現されていた。それは北斎の話に出てくるそのものだった。それからその辺の洋食屋で昼食を取って、勝海舟生誕の地。吉良上野介邸跡。隣の甘味屋で休憩。幾代餅を食べる。搗き米屋の清蔵が吉原の幾代太夫に恋をし、一途な清蔵にほだされて年季明けに、夫婦になる約束をし、本当に年季明けに嫁ぐ。二人は餅屋を開き、焼き餅にあんをぬったものを“幾代餅”として売り出して大人気になった。その餅を食べる。

 それから回向院へ行く。ここの境内で、江戸時代から相撲興行が行われた処だった。力士関連のものもある。それとその興行に使っていた建物が、日大講堂になったことが書かれてあった。うーんと思った。多くの無縁仏がここにある。安政大地震をはじめ水難事故や焼死者など。戯作者、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉。

 下山さんは、調子が悪くなって帰ることになった。ところで、吉良方の剣客で登場する小林平八郎の娘が鏡師・中島伊勢に嫁いでいる。その間に生まれたのが北斎だと、北斎自身が言いふらしていたという。これは、風太郎の『八犬伝』の中で、描かれていることとほぼ同じだ。この辺って面白いと思った。ただ滝沢馬琴のことが北斎美術館に出ていなかったことがガッカリした。だって、『春説弓張月』の絵は北斎が描いているのだから。昨日の間違いがあったので訂正する。千羽兵四郎の恋人お蝶が、向島芸者ではなく、柳橋芸者だった。


 2月23日(木) 曇/雨 9921

 朝方雨が降り昼くらいに上がった。内と外では評価が違う。1862年ロンドン万博での、江戸幕府から派遣された使節団の評価は、下等のものばかりで、もっと違うものが展示されていればと、厳しい評価だが、地元ロンドンの新聞には、日常使う下駄や茶器などの日常使うものに、高いデザイン性があると評価していたという。一方、町工場は高い技術があっても、作るものがない状態で、廃業寸前。そこに水中で使う機器が作れないかという話が来て、考案したのは魚群探知機。カメラも搭載して、魚の種類も判る。試作品を作り、改良して水深2000mまで耐えられるものが出来た。漁業関係だけでなく、海洋調査や海底油田開発の会社からも問い合わせがあるという。

 映画監督の鈴木清順が13日(発表は22日)死亡した。『関東無宿』『東京流れ者』『けんかえれじい』などマニアのファンを生んだ。日活から訳の分からない映画を作るといわれ解雇され、裁判で監督復帰。例えば、次に死が来るのであれば、椿の花とかの映像を映して、次のシーンにと考えるが、清順はそういう撮り方をしなかった。それが面白いといえば面白いのだ。

 僕は上野さんから、薦められて観た『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』が印象深い。『ツィゴイネルワイゼン』は、内田百の『サラサーテの盤』の映画化だった。大正ロマンを感じる作品で、あの映画の雰囲気自体が、異質の世界を感じた。鎌倉の切り通しの雰囲気、原田芳雄、日活ロマンポルノの映画監督、藤田敏八を俳優で使ったり、大谷直子が、煮物の仕度で、こんにゃくをめくるシーンが何故あんなに印象に残るのだろう。それと盲人3人の旅芸人が砂浜で、棍棒で殴り合うシーンとか。ゴヤの黒い絵の様な感じだ。物語と違う映像の方が印象に残る。『陽炎座』で、大楠(安田)道代が、ホオズキを口に入れ鳴らす。その後の入浴シーンで、風呂の水面全部がホオズキに覆われるところの色彩美は、何なんだろうと思った。松田優作の演技よりもそっちの方が残る。映画全体が、あの世とこの世の境目を、描いているような映画。不思議な感覚にとらわれた映画だった。原作は、泉鏡花だった。

 実は昔、鈴木清順に会って話をしたことがあった。上野さんにそれを言ったら、どうだったと訊かれたので、うーん。と言葉を濁していたら、「しゃべってくれないでしょう」いわれ、本当しゃべらない人ですよね。と、答えた記憶がある。難しいなぁと思った。実弟が元NHKアナウンサーの鈴木健二だったとは、ネットニュースで初めて知った。これもビックリだ。

 とつおいつ 老残の形 白い道  鈴木清順


 2月24日(金) 曇/晴 9850

 昨日散歩中、たばこ屋に寄って、1カートン買ったらライターと亀田の柿の種を入れてくれた。買うもんだねぇと思った。こういうおまけは嬉しい。今日の朝は、西高東低の冬型で寒く小雪がちらつく感じだった。成田空港の検査員が1年で3割辞めて、手荷物検査場に長蛇の列が出ているという。アメリカでは、国家公務員が担当する部署だそうで、日本では、航空会社が委託して検査をする会社が担当し、待遇が悪いため、辞めていくのだという。具体的には、給料が安い、残業が多い、突然の休日出勤がある。安全に対する考え方を変える時期に来ているようだ。今日からプレミアムフライデーが始まる。

 下山さんが言っていた。日曜日に、THさんはテンタデロの決勝を迎えるようだ。ペーニャの大会か何かで、優勝がかかっているのだろう。決勝に何人進むのかは知らないが、去年のビデオよりも遙かにサマになっている。今出来ることを出せることを目標に、頑張って欲しい。結果が重要なのでないと思う。牛を相手にするものなのだから、牛の動きをいかに抑制出来るか、コントロール出来るか。やってみて、上手く行くこと、上手く行かないことを感じるだろうから、それが次に繋がるのだと思うのだ。そういうことを含め、無を感じられれば凄いこと。そうなると、じぇじぇじぇだよきっと。


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