--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--
por 斎藤祐司
8月7日(水) 晴一時雨 10826 京都のホテルにて
昼過ぎ京都へ到着。いつも行かない駅の旅行案内所で、仕込み。それから、四条の喫茶店で昼食。ホテルへ行き、荷物を預け、資料館へバスで行く。江戸時代の地図や、資料を出してもらい、係員の人が付き合ってくれて、いろいろ話も訊けた。外では雷がゴロゴロ鳴っていたが、話に夢中になっていた。信長が上杉に送ったいわゆる『洛中洛外図』上杉本には、すでに、山鉾などに車輪が付いているものが描かれている。山は担いでいるものもあるが、大きい鉾は車輪がついた。
秀吉の京の町の改革で、平屋だったものが強制的に二階建てにされたが、江戸時代は、外から見ると1階建てに見えるようになっていて、中は2階建てになり、天井が低い作りになっていたという、説明だった。そうすると、東山から登る月が良く見えただろう。心遠館が鴨川沿いにあったのも、東山から月を見る為だった可能性もある。良い事いうわ、この人と思って訊いた。宗達や光琳が日蓮宗だった話をしていたら、祇園祭は、大体、日蓮宗の関わりが深いということをいっていた。こういうのって、京都へ来て訊かないことには判らない話だ。非常に有意義な時間を過ごし、資料館を出たら、雨が上がっていたので、歩いてホテルまで戻った。係りの人の笑顔が良かった。夜は六道まいり。明日は紹介してもらった処を、訪ねようと思う。
信長が、天下布武の号令の下、武力だけではなく、茶器などの文化で掌握しようとしたことは知られている。『日曜美術館』では、室町将軍家の足利家が、絵画や中国の器によって文化戦略で、掌握しようとしていたことをやっていた。今ある中国からの水墨画の国宝が、足利家が日本にもたらしたものだという。特に、三代将軍義満の時代に、明との交易でもたらされた。その文化戦略を担っていた同朋衆。八代将軍義政が造った銀閣寺。その庭を造ったのは、同朋衆の相阿弥といわれている。宋・明ではそれほど高い評価をされていなかった牧谿は、義満によって高評価されたという。収集した絵画に、自らの印を押し、金閣の横に天鏡閣を造り、そこが、明からの収集した物を展示して、天皇や公家などに見せたり、配ったりしていたという。その横には110mの七重の塔があったという。その搭の高さで公家を驚かせ、天鏡閣で収集物を見せるという文化戦略をしたと、今は考えられているという。
こういうのって、十八世紀の江戸時代まで、引き継がれていく。いわゆる文人画というもので、当時、池大雅や与謝蕪村などが出てくるが、その土台となっている文人画の文化的背景が室町時代に出来ていたということが判る。そこに、京都画壇と江戸に新たに浮世絵が登場して来る。勿論、長崎から入る遠近法などを使った清の絵や、オランダの洋画が入ってくる。
アナウンサーが「何かこの人を見ると、良い事があるから笑っているのか、笑っているから自然と良い事が起きているのか、どっちか判らなくなるような、という笑顔が。いやー運とかツキを引き寄せているようにも、そんな風に感じます」樋口久子「笑っているから良い事があるんですよ」(全英オープンのテレビ中継から表彰式後のコメント)
渋野日向子の記事や、中継での笑顔を観ていて思った。少し笑顔の練習でもして、笑顔でいれるようにしようと。そうすれば、良い事があるかもしれないと。
8月8日(木) 晴 15428
昨日の夕食は、近くでそばを食べ、一旦ホテルに戻った。再放送の『京都人の密かな愉しみ Blue 修行中』を観ようと思ったからだ。観終わったら、疲れが出たのか、ベットに横になっていたら寝ていた。よって、六道まいりには行かず、翌日以降にしようと思った。資料や本を読んでいたら、若冲以降、弟子は様式を継承するものはいなかったが、応挙、蕭白、芦雪に、影響を与えていたというような事が書かれてあった。それは、わても感じてますと、思ったが、嬉しかった。こうゆうこと、なかなか美術史家はいわないからだ。
元々鴨川には、橋が二つかかっていたという。一つは松原橋。それと四条橋。秀吉が造った三条大橋は、広重の『東海道五十三次』の最後の絵。それ以前の話だ。松原橋は、五条橋ともいわれていたという。それを訊いて、じゃ、義経と弁慶が会ったのは、今の五条の橋じゃなくて、松原橋ですか?と、聞くと、実はそうなんですと、いっていた。驚いた。その橋は、秀吉の頃には、大仏殿参拝をする為の橋になっていたという。四条の橋は、やはり祇園祭の為に、参拝道として昔からあったようだ。日本橋のように丸橋ではなく、平らな橋だったという。一応祇園社(今の八坂神社)から神輿を担いで橋を渡って来るためにそうなったんだろうと想像する。いろいろと見えてくるものがある。東京の国会図書館では、判らないものが、京都にはある。
昨日着ていた黒いポロシャツを、衣紋掛にかけようとしたら襟首が白くなっていた。歯磨き粉での着いたのかと思ったが、乾いた汗だった。黒いと目立つんだと思った。それだけ、京都は暑んだともいえる。そして、今日も暑い。北山の歴彩館で調べ物。昼食を取りに出たが、何処も人が一杯で、高い処も駅に近いと一杯待っている。植物園横の冷製スパゲティーを食べた。戻ってくるのも10分歩かないのに、日差しが強く外を歩きたくない。
やっぱりと、思うことが判った。明治10年太陰暦から太陽暦に変わる前は、祇園祭は、前祭が6月7日山鉾巡行。6月14日が花傘巡行。それを、今のように7月17日と24日に変えたという。祇園祭というと、京都の人は目の色変わる感じで、いろいろ資料を持ってきてくれる。四条の橋も、祭りの時に、仮橋としてかけられ、材木屋仲間の負担でかけられたという。鴨川が暴れかけられない時は、三条大橋を使ったという。使えなかった年、9回が記録に残っている。その後、祇園町と祭りに関わる町が助成し本橋への嘆願書が出され、安政五年四月末に完成したという。
こんだけ暑いと、お寺廻りをする気にならない。西陣へも行きたいが、どうしたもんかと、考えてしまう。
8月9日(金) 晴 20434
再放送の『京都人の密かな愉しみ Blue 修行中』を観ていたら、五山の送り火は、6つの山なのに何故、五山か?というのがあった。妙法が1つと数えるからだという。妙法は、日像上人から始まったともいわれているという。そこで、ピンと来たわけである。祇園祭だけでなくて、送り火も日蓮宗?
六道まいり行く。死者をお盆前に迎える儀式だ。あの世とこの世の境目に六道珍皇寺がある。俗世の京都盆地と、昔鳥葬したともいわれる鳥辺野の間にある。西福寺、六波羅蜜寺なども同じような六道の辻のようだ。京都では8月13日から始まり16日の五山の送り火に終わる盂蘭盆。その前の8月7日から10日までの4日間のお精霊(しょらい)さん迎え。
六道まいりは、水塔婆に戒名を書いてもらい迎え鐘をつき、石地蔵がある、賽の河原に見立てた処で、高野槙に水を付けて、水塔婆を水向け(水回向)する。境内で、ほうずきを売っていた。何に使うの聞いたら、お墓に供えるのだという。そうすると提灯を飾っているように見えるからという。お精霊さんを迎える気持ちをそうやって表すのだろう。閻魔大王と小野篁。宮中の高位の役人で夜になると、井戸からあの世へ行き、裁きをする閻魔大王の補佐をしていたという伝説がある。
気が付いたが、祇園祭は、疫神や死者の怨霊を鎮めるために始まった。六道まいりは死者の霊を、お盆前に迎える儀式で、五山の送り火は、それをあの世へ送る儀式だ。平安京になって、病気が祟りなどで、かかると思われていた時代から続く、こういう祭事が、いずれも4日間行われれるのは、興味がわく。祇園祭の前祭宵山が3日で山鉾巡行を入れて4日。後祭も同じ。六道まいりも4日間。五山の送り火も13日から始まり16日の送り火で終わる盂蘭盆。面白いなと思う。
8月10日(土) 晴 8419
『なつぞら』を観ていて、爺ちゃんの草刈正雄が、結婚するなつに、儂の方がいろいろ教えて貰った。と、いって泣く。なかなか泣かせる。朝食後、京都駅に向かった。予定変更して、ずっと京都にいるためだ。明日戻って、14日にまた来ようと思っていたが、それをやめた。だから、日月火と、こっちで細雪にすることにした。台風も来て、交通機関も正常に動かないかもしれないし、家にいてもあれだし、移動するのも疲れるだろうし、金もその方がかからないだろうし、そういうことにした。
午前中は、何処かへ行って作業を進めよう。『なつぞら』で、天陽が、何故農作業と絵を描いているのか訊かれ、農作業は生きる為。絵は、排泄です。という。本来、描きたい気持ちが優先されるのが、排泄だ。使い古された言葉だが、正しい。締め切りとか、関係ない処に、排泄行為がある。
8月11日(日) 晴 12867
3日連続で38度。昨日はほぼ39度の京都。今日も暑い。昨日、三条通を歩いたら、蝉の鳴き声が物凄かった。頭の上から降り注ぐような、いろんな蝉の声が鳴り響いていた。
やかましや 今は盛りの 蝉の声 風吟
土日は作業が進まないのはしょうがない。早目の夕飯を、大丸京都店北海道物産展でラーメンを食べ、これから始めようと思う。タラタラしてんじゃねーよ。
8月12日(月) 晴 9363
今日は山の日の振替休日。こんな新しく出来た祝日なんて覚えきれない。朝食後、一息ついてホテルを代えた。荷物を預けて、喫茶店でコーヒー飲みながら、ノートに年表を書き込んだ。書いているうちに、形が見えてくるものがある。本草学というものが、時代の潮流としてうねりをあげる。
「本草学というのは、薬草から植物一般、さらに動物鉱物をも研究対象とする、いわば薬物学と博物学を兼ねた中国古来の学問である。」(『若冲』辻惟雄より)
京都は、平安京の昔から、怨霊や祟りに対する畏れから、陰陽師がいたりした。これが官職だったという。そういうものが、祇園祭になったり、六道まいりになったり、五山の送り火になったり、したのではないだろうか。畏れと信仰。一条戻り橋にしろ、羅生門にしろ、京と外の境目。そこには、鬼の伝説があるという。祟(たた)る、崇(あが)めるというのは、表裏一体。怨霊を神様として神社に崇めるのは、その為だという。
8月13日(火) 晴 12075
昨日、六角通の洋食屋で、ランチを食べた。高かったが王道の洋食屋さんって感じの処で、五山の送り火のことを聞いた。六角堂のビルの屋上で観れるけど、関連する人とかしか入れんようで、電電公社、今のNTTなんかは、昔は券配ってました。もう40年前は今みたいに、ビルが建ってなかったから、こっからも大文字が見えました。御所からは昔、天皇さんが観れるようにと、高い建物を建ててはダメだというので、みんな観れたようですけど…。
そんな話を訊いていて、なるほどと思った。江戸時代なら少なくても、京都の北側でやっている五山の送り火が、四条辺りでも観れたんだろうと思った。昔は、車で運転して全部見れました。写真撮ったりして。ポイント、ポイントは判るから。今はもう混んでいて出来ないでしょうけど。レストランとかビアホールとか、16日は観れる処は、予約しないと入れません。それも1万円とか取りますから。と、いっていた。
その後、六角堂のビルに登ったが9階までしか行けなかったので観れるかどうか判らない。案内所ビルにはない。京都人の知人に訊いた。出町柳が良いというが、超混んでいるという。三条大橋からも観れるらしい。北山通や北大路からも見えるという。今日また歴彩館へ行った。昼食は、伯食屋で、ステーキ丼。そして、代えたホテルへチェックイン。洗濯して夜また出掛ける。21時頃まで調べられるので、また行こうと思っている。
8月14日(水) 曇時々雨 18343
昨日夜行った、歴彩館で、明和四・八年の錦高倉の地図や持主が書かれている資料を見つけた。今、錦市場が始まる烏丸側(西側)右(四条側)が若冲生家となっている。資料では、間口約三間、奥行き十五間ちょっととある。その向かえなど3軒を所有した記録があるという。アトリエとして使っていた独楽窩は、錦にあったといわれているが、この中にそれがあったのかは不明だ。また、錦市場再開交渉で、明和八年十二月二十四日東町奉行所に提出した返答書に、高倉四条上ル 年寄 若冲と、書いてあるという。この時点で、生家の四条寄りの町、帯屋町に住んでいたことが判るのだという。こうゆう資料は、京都市歴史資料館の「中魚屋町文書」と、京都大学文学部の「京都錦小路青物市場記録」からの抜粋のようだ。
今朝、小雨の中、喫茶店でモーニング。元のホテルに戻って荷物を預け、取りあえず、宝蔵寺へ行った。伊藤家の菩提寺で、弟の白歳や父親の墓がある。絵は、若冲の誕生日の2月8日頃にしか公開しないのだという。そしたら、石峯寺の若冲の墓参りに行きたくなった。京阪で深草まで行き、石峯寺へ。参拝の時、やぶ蚊がいるので、団扇を貸してもらう。土葬された後に、遺言で墓石と筆の形の石碑が建てられた。地震で筆型の石碑が倒れ、幕末に親族が建て替えたものが今ある。墓石には、斗米庵若冲居士と刻まれてあった。それから、五百羅漢を観る。笑ったり、泣いているような顔の物もあり、祈っている物もある。誕生仏、十八羅漢、涅槃、賽の河原などがあった。こっから、たぶん、山縣有朋配下の者が、石仏を椿山荘に持っていたのだろう。昔は、1000体ほどあったというが、今は、五百数十体だという。若冲が下絵を描き、石工が彫った五百羅漢。ひっそりと竹藪の中に佇んでいた。やぶ蚊には、3ヶ所刺された。
昼食は、びっくりドンキーへ行こうと思っていたら、道を間違えたようで、がんこ二条店へ入った。山縣有朋の第二無鄰菴。植冶こと小川治兵衛が作庭した庭が見物のところ。ひつまぶしを食べ、食後は、庭を散策した。がんこの仲居に訊いたら、店の端の部屋からは大文字が観れるといっていた。食後は、二条の橋から鴨川沿いを歩いた。丸太町通りまで鴨川を観た。母子がクワガタを取っていた。訊いたら、ここからは大文字だけが見えます。もう少し北に行けば舟形とかも見れます。という。資料館で資料を観た。それから御所を通ってきたが、大文字の山は見えたが、木が高く他は見れなかった。汗をびっしょりかいてホテルに戻ってチャックイン。これから台風の影響で雨が降りそうだ。曇っているので十四夜の月は観れないだろう。
8月15日(木) 雨 19793
終戦記念日。台風の影響で、夏の甲子園の高校野球は、中止になった。新大阪から小倉の新幹線も全て運休。未明に四国に上陸して、先ほど再び広島に上陸した。朝ホテルで朝食を取り、昼食は近くの喫茶店で洋食を食べた。トンカツに大根おろしが乗ったランチ。小皿に乗った、しば漬け食べたが、ビックリするほど美味しかった。今まで食べてきたしば漬けは、何だったんだろうと思うくらい、まろやかなしば漬け。お茶うけにした。
いつ降るかと思っているのだが、まだ道路は乾いている。時々パラッと降るが、全然大丈夫だが、風は強い。傘がキノコになる。買い物と、食事以外は、細雪。夕食も弁当を買って来てある。凄い雨が降ると思っていたからだが、今のところ強風以外は大丈夫だが、本番はこれから。夕方から夜中にかけてが凄いことになるかもしれない。京都の街に出ずに、ずっとホテルにいるのもいいものだ。明日の、五山送り火は時間がずれるかもしれないが、開催するという。
8月16日(金) 雨のち曇 6082
9時頃まで小雨が降っていたが、そのせいで涼しくなった。博物館で『京博寄託の名宝展』を観る。トーハクのパスポートを持っていたら、特別展ではないので、無料で入れた。神護寺の伝頼朝や山雪の始めて見る屏風図などを観る。テーマは十八世紀。しかし、これを観なかったらという、俵屋宗達の『風神雷神図屛風』を観て、向かいの三十三間堂へ入る。風神雷神と二十八部衆の配置が去年変わった。風神雷神を左右反対に配置した根拠には納得できる。二十八部衆もそれなりの根拠があるが、1番好きな婆藪仙人が本尊の隣に行ったので、遠くなってしまったのが残念だ。婆藪仙人って、ゾクッとする。しかし、この配置で重要な仏像だということが強調されたことになる。
昼食は先斗町近くのおめんでうどんを食べた。あっさりして夏には丁度いい。四条大橋を渡ったが、鴨川の水が台風の影響で濁っていて水位も上がっている。空は曇っているが時々太陽が出る。出ると暑い。資料館へ行って調べた。夕食は食べてきたので、19時過ぎには、ホテルを出て、五山送り火を観に行く。今回最後の京都の夜。
8月17日(土) 晴 23750 東京にて
昨日の夜、期待した十六夜の月は観えなかった。曇っていなければ、大文字の上に丁度乗るはずだった。台風の影響で観えなかったのは残念だが、親父の初盆は、船っこ流しだった。2年連続で行った。おふくろの初盆は、京都の五山の送り火。右大文字と妙法が観れると、メトロに乗って行ったが凄く混んでいる。何か日本にいるのに、京都人ってスペイン人みたいに祭り好き。松ヶ崎で大文字が見える処を、あらかじめ仕込んでおいたので、そこに行くと、地元の人が判っているようで、20人くらいいた。点火から10分後くらいに法の字を観に移動、それからまた移動して、妙の字を観た。そうしたら、ノートルダム女子大学の敷地と、自動車学校の敷地から妙の字が大きく観え、しかも左側に船形が見えた。
ホテルを出る前、BSで五山送り火中継をやっていた。その中で、京都生まれの俳優の佐々木蔵之介が、山の向こうがあの世だから、先祖の霊が迷わないように送り火をするといわれたと、いっていた。それを訊いた、養老孟司が、それは何処でもあるんですね。直ぐ行けない山の向こうという外の世界。そうそれは、「山のあなたの空遠く」だよなと、思った。
夕方前、東京へ戻った。ちょっと長く部屋を開けた。これから、こもってやって行かないとと、思っている。笑顔でやろうと思っている。
8月18日(日) 晴 13399
『京都人の密かな愉しみ Blue 修行中 祇園はんが来はる夏』を昨日の夜観た。大原で京野菜を作る名人たえ役をやっていた、女優・江波杏子が去年死んだ。冒頭、昭和と平成を駆け抜けたあの人に捧ぐと始まった。江波杏子は若い時は、任侠映画のどすの利いた姉御役のイメージだった。このドラマでは、穏やかな京野菜を作るお婆さん役。ドラマでも、たえの葬式から始まる。
幸太郎のナレーションで、「人は突然いなくなる。何の前ぶれもなしに。残されたもんは、そのつらさ、空虚さに耐えて生きていかなあかん。たえさんの死を訊いたうちの棟梁は、そういいてはった」
通夜に来た棟梁美山清兵衛。線香あげた清兵衛「こんな狭い町で何十年も生きていとったら、どっかで繋がりができるもんや。儂とたえさんが知りおうて、もう50年近くなる。丁度おまえくらいの、駆け出しの庭師やってた頃や。まっ、おまえよりは随分ましやったけどな」 幸太郎「すいません」 清兵衛「ええ機会やから話すけど。かまへんか?」 鋭二「はい」 清兵衛「たえさん昔街中で、勤め人の人と所帯持ってはったみたいやが、どうも縁がなかったようでな。別れた後、1人で大原に越して来はったんや。儂はその頃、直ぐ近くの三千院の庭の面倒みてたさけえ、仲良うなってな。たえさんは、親戚が手放した小さな畑を貰い受けて、女ひとりわき目もふらんと野菜作ってはった。懐かしい味の京野菜作っては、リアカー引いて町に売りに出てはった。本物の仕事は、必ず人の心を動かずもんや。たえさんの野菜が、一流の料理人の目に留まるのにさほど時間がかからんかった」 柚子「たえさんって、お子さんがいてはらかったんですか?」 清兵衛「そや」 甚「えーと、子供がいてへんことには、孫もいませんけど」 清兵衛「自分の畑を、誰かに受け継いで欲しい思ってたたえさんは、親戚から養子を貰ったんやな。あとはあんたの口から話たれ」 鋭二「俺とたえさんは、血が繋がってへん。親戚でもなんでもない。赤の他人や。そこにいてるんが、ほんまもんの養子や。俺は所詮偽物や。最後まで、たえさんの役には立てんかった」 清兵衛「儂ら職人にとって、導いてくれる師匠が死ぬのはつらいことだ。ひとり立ちする、ええ機会でもある。鋭二君」 鋭二「はい」 清兵衛「儂は江戸時代から続く庭師の家の15代目やが、儂と先代とは、縁もゆかりもない赤の他人や。1番ふさわしい人間が後を継がな、伝統は守れへん。先代そういわはって、息子さんがいてはるのに、儂と養子縁組して家業継がさはった」 柚子「じゃー、その息子さんは何を?」 幸太郎「高校の先生やったはる」 柚子「はあ」 清兵衛「難しことやな。血縁にこだわってたら伝統は守りきれん。後継者にふさわしい条件とはなんや?」 幸太郎「技術、感性ですかね」 清兵衛「執着心と情熱や。たえさんがやり残したことを続ける執着心。自分のやりたかった夢を、実現させる情熱。それさえあったらええ。…。あがったみたいやな。祇園祭の粽(ちまき)か?」 鋭二「太子山さんと、橋弁慶山さんの粽です。毎年頼まれて作ってます」 甚「太子山は前祭りで、橋弁慶山は後祭りやな」 柚子「葉菜も粽作り、手伝うてるやろ。えっと」 葉菜「霰天神山。うちらは農家の人らが編んでくれた粽を、お札や飾りを巻いてるだけや」 幸太郎「2つの山の粽を、お前とたえさんで編んでたか」 鋭二「夜なべでな。明日からは、俺一人で編む。せめて、たえさんがやり残したことをちゃんとやらな」 清兵衛「もうすぐ、祇園さんやで。たえさん」(京都人の密かな愉しみ Blue 修業中 祇園はんが来はる夏より)
祇園祭の山鉾などは、作事方三組の分業制で建てられるという。手伝っい方は、組立。大工方は、真木を立てる。車方は、車輪を付ける。巡行の時の「エンヤラヤー」と扇を振っての音頭取りは、手伝っい方。四条と河原町の角で、竹を敷いてやる辻回しは、車方。屋根に登って障害物を払うのが大工方。コンチキチン、コンコンチキチン、コンチキチンの囃子方は、14の鉾によってそれぞれの違い三十九曲から六曲あるという。四条通を辻回しをする河原町通までのお囃子は、穏やかなテンポ、厳かな調子で演奏する。これを渡りという。辻回しした後は、御池通を清めて、自分ところの鉾町に戻る。戻り囃子。軽快なテンポになる。お囃子は場所場所によって替わるのだという。御神輿が通るための清めの儀式。前祭りも後祭りもしんがりをつとめるのは、船の形をした鉾と決まっている。5年前に後祭りが復活したのは、大船鉾が復活したからだといわれているのが事の顛末のようだ。
粽のご利益(りやく)も御神体によって違うという。基本的には、厄除け。今はなくなった寄町制度があった江戸時代までは、錦高倉は、菊水鉾だったという。菊水鉾の粽のご利益は、不老長寿、商売繫盛。ちなみに資料館で観た昭和47年くらいの映像では、粽を山鉾の上からまいていた。つまり、今みたいに街角で、売っていなかったようなのだ。
観終わった後、外に出て月を観た。五山送り火の大文字の上に出る月が観たかった。今年は、太陰暦と同じで、十六夜の月だった。母親の初盆だった。本当は父親の初盆のように、盛岡で船っこ流しを観なきゃいけないのかもしれないが、十六夜の月を大文字の上で観たかったのだ。
♪出た 出た 月が まあるい まあるい まん丸い お盆のような月が♪
太陰暦の時は、お盆には必ず満月の月が夜空に光っていた。お盆のような月は、漆器などのお盆のように丸い月だと思っていたが、8月15日のお盆の日のような満月の月をいっているのではないかと、京都に行って感じた。
8月19日(月) 曇/晴 9856
朝、そうめんを食す。銀行へ行き用事をすませ、資料読みと細雪。夕方前に医者へ行き薬を買ってきた。これから予報は雨になっている。
柳沢棋園という人は、面白い人で、一種の奇人。5代将軍綱吉の大老・柳沢吉保(甲府藩主)の筆頭家老の次男として生まれ、吉保元服の時の理髪役を務めるなどし、寵愛され早くから柳沢姓を名乗ることを許されたという。8歳から狩野派の絵の学び、中国画の技法も学んだ。将軍の代替わりで、吉保が失脚し、大和郡山藩に国替えになる。文武に多才多芸で、池大雅が幼い頃、棋園に才能を見い出され文人画を大成させた。あまりに、気に入った為、屋敷に大雅を閉じ込めて、大雅が逃げ返ったという、逸話がある。また、大坂で、源内の医学の師匠になる戸田旭山が、診療に行った時、その刀を見せろと迫り、旭山の怒りを買い、武士であるなら、自分の刀を見せてから、見たいというのが筋だといわれ、謝罪したという逸話もある。なお、大雅の嫁になる祇園生れの玉瀾は、棋園の絵の弟子で、画家。大雅に紹介したのも棋園だという。
この頃、時代は動いていて、日本で初めて腑分けをしたのは、宝暦4年京都で行われた。町人が財力を持ち始め、三井家などの豪商が登場したようだ。当然のこと、祇園祭なども、装飾が派手になって行ったと思われる。酔狂な人や、数寄者、奇人も出てきたようだ。臨済宗の五山文化も行き詰まり、黄檗宗の白隠禅師や、売茶翁の影響が大きくなる。狂歌が花咲くちょっと前の時代なのか、まだ、浮世絵も、落語も、『解体新書』の出版されるちょっと前の時代だ。だが確実に時代が動き始めている。そういう雰囲気が、たぶん、街中にも溢れようとしていたんだと思う。
8月20日(火) 雨/曇 6260
遅めに起きて、朝食はそうめん。若冲はそうめんが好きだったそうだ。大典顕常の前で、そうめんが送られてくると、誰にもやんないよ見たいに、そうめんの箱を隠すそぶりを見せて、おどけたという。昨日の夜から降った雨の影響で、曇っていて涼しい。だから昼過ぎに散歩に出かけた。朝食後は細雪だったので、散歩しながらいろいろ考えた。あれをこうしてああして、などアイディア駆け巡る。帰り道でスーパーにより買い物。タバコと枝豆も買ってきた。夕方頃から雨が降る予報になっている。出来れば今日中にテルシオを終わらせたいが、どうなることか。
8月21日(水) 曇/雨 11010
雨が降り、曇になり、夕方になりゴロゴロ雷がなっている。朝はそうめん。スーパーで見つけたサバのトマト煮の缶詰を開け、それにそうめんをつけ半分食べ、残り半分は、つゆに薬味を入れて食べた。その後は、細雪。夕方前に昼食をファミレスで食べ、帰りにスーパーで買い物をした。もう少しでテルシオが終わりそうだ。時間がかかり過ぎるきらいがあるが、ここは大事なところなので、などと思ってやっているが、本当に大事になるのかは判らない。あと1か月。やっぱり、ここをちゃんと出来ないと、おそらく、良いものにはならないだろう。
リーガが始まり、2部の柴崎と香川は、先発で出場して、地元メディアがそのプレーを観て、恋に落ちたと、表現している。柴崎のデポルティーボは、これで、1部復帰への希望が、ファンに現実感を与えたと書いているようだ。あのリーガの1部で優勝したのをスペインにいた時に体験したデポルティーボ・ラコルーニャ。柴崎のタクトにかかっているようだ。香川のサラゴサは、入団直後で出場で、連携など問題があったようだが、無難にこなしたようだ。チームでは、経歴からも尊敬されているようだが、これからが正念場。札幌に続いて軽井沢に出場したスマイルシンデレラ渋野日向子は、最終ホールでボギーにして、1打及ばす、プレーオフに行けず3位タイに終わった。大ギャラリーを引き連れて、堂々の攻めのゴルフを通した。ホントに二十歳と思うような、プレーに多くの人が惹きつけられたと、思う。今週は休んで来週復帰するようだ。全英オープンを勝って以来、一身に注目を集めても、内容が落ちることがないのは、驚きでもある。実家へ戻ってゆっくりして、また笑顔を見せて欲しい。
8月22日)木) 雨のち曇時々晴 8350
寝るのが遅かったので、起きるのも遅かった。まるで、風太郎の二度寝の世界だ。そうめん食べながら前後にネットを観ていたら、Number のサイトに、「渋野日向子の笑顔は何で出来ている?「別にシンデレラでもないなと」 」という記事があった。冒頭、桜の木の下に屍体が埋まっている!だった。おー、坂口安吾か、と思った。こんな書き方をされると、読んでみたくなるのが人情。面白かった。バディー。満開の桜はいつ散るか判らない。その木の下に、屍体がある。そういうのを言葉ではなく、状態や周りの人間たちの言葉で綴ってある。
遅い朝食のあと、細雪。行き詰まって、散歩に出かけた。参拝の後、寺の境内で蝶々が飛んでいた。何か変だと思って、止まった木を見たら、つがっていた。つまり、雄雌が交尾しながら一匹の羽の飛ぶ力で移動して、そこに止まった。子供の頃、野原を駆け回りトンボや蝶を取ったが、交尾しながら飛んでいるつがいの蝶を観るのは初めてだ。トンボのオスはメスの頭の後は尻尾で引っ掛けてつがいになる。ほぼ、強引である。しかし、これが強姦にならないのは、雄の生殖器は、胴と尻尾の間にあり、雌がその気にならないと交尾が出来ない。雌の生殖器は尻尾の先にあり、それを雄の生殖器の方に海老のように曲げないと交尾が成立しない。
お寺や神社の境内には、草花がある。蝶や他の虫が食べた跡が葉についている。卵からかえった幼虫が葉を食べて成長し成虫になる。スーパーでは、虫食い跡の野菜は売っていない。気持ち悪いと避ける人が多いが、本当は、虫も食わないような野菜は不味い。虫食いのあとを、病葉(わくらば)というが、若冲が好んで描いた。日本人は、そういう自然の営みを見続けてきた。細雪の続きをすすめよう。
過去の、断腸亭日常日記。 --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年、2017年、2018年、2019年のスペイン滞在日記です。
太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月、11月、12月の京都旅行、2013年4月京都旅行5月出雲遷宮旅行10月伊勢神宮の遷宮旅行11月京都旅行、2014年5月6月、7月の京都旅行、2015年6月京都旅行、9月奈良・京都旅行、11月京都・滋賀旅行、2016年11月京都旅行、2017年9月京都旅行、11月の奈良・滋賀・京都旅行、高野山・京都旅行、2019年2月京都旅行、滞在日記です。
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