断腸亭日常日記 2019年 1月 その1

--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年、2017年、2018年のスペイン滞在日記です。
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 1月14日(月) 晴 11613

 今日は成人の日。今日は天気が良くて暖かい。録画していた物を、BLにダビングしている。今のBLレコーダーは、何も設定しないと、放送と同じ画質になっていることを知る。今更だが、それを変えるのは、面倒くさい設定になっている。

 市原悦子と梅原猛が死んだ。市原悦子は、『日本昔ばなし』の語り手の一人。穏やかな人柄と、とぼけたところもあったおばちゃんだった。梅原猛は、仙台で生まれ京都で学び、独特の梅原史観を展開した。批判も多いが、新風を巻き起こしたことには変わりない。市川猿之助と組んで、『スーパー歌舞伎』など日本の芸能文化との関わりも深い。九条の会の呼びかけ人でもある。田中角栄が、戦争を体験した人間は、もう戦争はしないと、いったというが、そういう心情は、この世代の人間には非常に強いのだと思う。井沢元彦のように、梅原史観にどっぷりつかりたい気もする。

 一時ギャンブル依存症のような状態になったというが、結婚して現実世界では、どうにならないものを感じて、笑いの研究を始め、世界が変わったようだ。『地獄の思想』『笑いの構造』仏教や古典などの本を読みたいと思うが、たぶん読むことが出来ないだろうと思うのが『京都発見』の全九巻だと思う。


 1月15日(火) 曇/雨 13258

 いろいろ手続きなどして、新宿に向かう頃には雨が降ってきた。帰りに古本屋に寄った。ネットで松岡正剛の『千夜千冊』に載っている、梅原猛の『日本の深層』を読んでいると、非常に興味をそそる。「日本」=「東北」の深層をあざやかに解く一冊と書いてある。辺境にひそむ日本に注目。とくに縄文とアイヌのふれあいが大きい。「疑いなく一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書」(文庫本あとがき、赤坂憲雄)

 「梅原が本書で北上川をこそ東北の象徴とみなし、「母なる川」と呼んでいることを心から受け入れたい」などという部分など、北上川のそばで育ったものにとっては、グッと来るところだ。この本には宮沢賢治やその父の招待で花巻にやってきた高村光太郎、石川啄木、太宰治、『遠野物語』、『奥の細道』。東北の祭り。ねぶた祭り、恐山の大祭、秋田の竿灯、なまはげ、岩手の鹿踊り、山伏神楽など。私生児としてうまれた梅原猛が、恐山でイタコの口移しで、母の霊を呼び出してもらった時に、涙を流して3倍の料金を払ったことなどが書かれているようだ。

 昔、8月の恐山の大祭のイタコの口移し(普通は、口寄せというようだが、おばちゃんは口移しといっていた)を、観に行ったことがある。津軽弁で、韻を踏んで語る盲目の老女たちの口移しを聴いて、涙する人たちを多く観た。中には、肩を震わせて号泣する人もいた。こういう生き残った人たちの、死者を思う文化や、ある意味、心情のはけ口が、こういう形で残っていることは、驚きでもある。梅原猛がそこで涙を流したのは、ここに来る多くの人々が感じる、死者の霊の言葉に、自分が思っていた気持ちが乗り移っている事に、慰めを感じるからだと思う。三途の川にかかる橋を渡り、霊場で手を合わせ、赤いよだれ掛けの地蔵や風に回る風車と、血の池地獄、賽の河原の砂の上に立てられた割り箸など観て、山を下りて日常へ帰って行く。決して楽しいことばかりではない人生。苦しいことの多い人生に向かっていく気力を、恐山からもらって行くのかもしれない。何かを落としていく場でもあり、前を向いて新たに歩き始めるきっかけの場でもあるような気がする。

 そういうような東北を体感したのは、梅原猛に大きな影響を与えたと思うと、読みたくなってくる。


 1月16日(水) 晴 12083

 イギリス議会は、メイ首相とEUが合意したEU離脱案を、反対多数で否決した。3日以内に代替案を提出しなければならなくなった。EU離脱反対派は、国民投票で、残留をもくろみ、代替案の合意も成されなければ、合意なき離脱になるのか。稀勢の里が初場所が始まって3連敗で、引退を決めた。怪我をして、無理して出場して優勝し感動したたが、その後は、その怪我の影響が大きく、休場が続いていた。貴乃花も無理して出場して優勝。小泉首相が、感動したといったが、あれ以降は、サッパリだった。心配していたが、やはり同じことが起きたなぁという感じだ。

 阪神大震災から24年。人の数だけの人生がそこにある。当時、神戸の病院で働いていた医師が、押し寄せる患者の対応で大変な思いをした。普段なら助けられる命を、助けられない状態になった。そういう悔いを、負ったために10年間震災の話が出来なかったという。10年後、職場が変わった病院のテレビで、記念イベントが流されていたととき、涙を流していると、隣にいた看護師が、ここは山の上だから誰も来ませんよと、いったのを訊いて、それは違うだろうと思い、当時の動画を病院の職員などに見せた。当時の話などをして、それを観、話を訊いた人たちの意識が大きく変わったという。

 当時の動画には、心肺蘇生をやっている人たちに、何分やっているか訊くと、15分。それを訊いた責任者らしい医師が、もうそれで終わりにしよう。という。何故なら、他の助かる可能性が高い患者の治療をした方がいいと、いう理由からだ。今風にいえば、トリアージ(選別)である。今この医師は、当時の動画を流しながら、講演活動をやっているという。主に、救急医療に携わる人たちへの講演が、使命感のようになって活動することによって、当時のトラウマを克服し、PTG(トラウマ後成長)で希望を見いだしているという。それでもその後、東日本大震災があり、熊本地震があり、北海道があり、避難所とか行くと、まだ何も変わっていないと思うという。


 1月17日(木) 晴 14030

 今日は朝から上野へ行く。東京都美術館でやっている『ムンク展』を観に行った。すいていいるだろう思っていたが、入場するまで約30分かかった。中も人でいっぱい。絵も、これほどの量のムンクが観れるというのも驚きだ。戻って、録画していた『江戸あばんぎゃるど』を観る。今週来週の二週にわたって放送される。アメリカ人が観る、日本美術。アメリカ人女性監督が、明治と、主に戦前戦後にコレクターが収集した絵画などの収集品を紹介していく。それが今は、アメリカの美術館で展示されている。観ていて驚きの連続だった。ほとんどが、コレクター自身の目利きで収集した物。光悦、宗達、応挙、光琳、若冲、抱一、狩野派など。

 この前、イタリア人で、日本でレストランを開いている人と、イタリアで修業して日本でレストランを開いている人がいて、イタリア人は、ほとんど日本のパスタを食べたことがなかったので、それを食べ歩き、日本人は、イタリアへ行き、最新のパスタ事情を取材して、それぞれパスタを作るというをやっていた。初めが新橋のナポリタン。20分ゆでたスパゲティのナポリタン。これはイタリアではあり得ないという。がソースは悪くないといっていた。それでも、長蛇の行列が出来ている人気店。何十年客がついていることに敬意を表していた。

 東京に出てきたころ、喫茶店で食べたナポリタンが美味しかったこと。毎日食べたいと思った。それから、アルデンテのイタリア風スパゲティの味を知ったが、今でも何故か、弁当などにちょっとついているスパゲティを食べると、それはそれで美味しいと感じてしまう。それだけ食べたいとは思わないが、何故あれが美味しと感じるのか?それが人間の味覚の不思議だ。寺山修司が東京に出てきて、やきそばを頼んだら、硬いやきそばが出てきて驚いたことを書いているが、ナポリタンの味と、アルデンテのペペロンチーノの味のコントラスト。その両方を美味しいと感じる感性は、ある意味大事にしなければならないものかもしれないと感じる。


 1月18日(金) 曇 11473

 『落語ディーパ―』を観ていて、トイレに行って便座に座ったら、腰が痛くなった。ヤバいと思った。それから、予約していた歯医者に行った。2年ぶり。産休で休んでいた歯科療法士のSさんが、産後の具合悪く休んだままだったが、ようやく職場復帰していた。元気そうだが、ちょっと太ったようだ。レントゲンを撮り、検査をして、クリーニング。そして、先生に診てもらい今後の治療法を話した。帰りに紀伊国屋により、梅原猛の『日本の深層』『地獄の思想』を買い、アゴダシのラーメンを食べ、喫茶店で本を読んで帰ってきた。

 昨日、『ムンク展』を観て、いつもより多くメモを取った。『死せる母とその子』『臨終の床』『病める子』と子供の頃の記憶を描いている絵。病気で死んだ母と姉。既にそこには、ベッドに家族が並び頭をうなだれ悲しんでいる。中央に少女が正面を観て口を開け、両手を顔にあてている。『病める子』は姉と思われる少女がベッドに横たわっている。こういう死のイメージが子供の頃、大きかった事が解る。

 『星空の下で』は、男女が抱き合う絵。女の顔がガイコツのような印象を受ける。それがのちに、男女が抱き合いキスをする『接吻』を描く。ここでも顔はぼんやりしている。それが、『吸血鬼』に転化する。女が男の首などに噛みついている。造形は、『星空の下で』からほぼ変わらない。それは、美人のリトグラフ『ブローチ、エヴァ・ムドッチ』から『マドンナ』へ転化されていくのと同じ感じだ。

 「読書する人や編物する女の室内画を、もう描いてはならない。呼吸し、感じ、苦悩し、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」(ムンク)

 ムンクの有名な『叫び』が、『死せる母とその子』『臨終の床』『病める子』の転化であるのは、観ていて感じる感覚だ。

 「我々は誕生の時に、すでに死を体験している。これから我々を待ち受けているのは、人生のなかで、最も奇妙な体験、すなわち死と呼ばれる、真の誕生である。 ―― 一体、何が生まれるかというのか?」(ムンク)

 『太陽』という絵がある。ゴッホの絵のように太陽の色彩がはじけている。こういう絵やギリシャ神話の『クビドとプシュケ』なども描いている。クビドはキューピッドであり、美の女神アフロディーテの息子で、ギリシャ語の愛を意味するエロスで、プシュケは、魂を意味する。古典的な題材をムンク風に消化している。ここも、ぼんやりとした顔の描き方だ。


 1月19日(土) 晴 10888

 穏やかな日差しだ。全豪オープンで、大坂なおみが逆転勝ち、錦織圭は、ストレートで勝った。。サッカーのアジアカップも、グループリーグ最終戦は、控え組の出場で、あっさり勝った。決勝トーナメントは、中東勢との対戦が続く。昼、Eテレで辺見庸の講演をやっていた。ちょっと観たが、難しい言葉を使う、難しい爺さんだが、何故か魅かれるのだ。『もの食う人びと』を読んだ時の感想や、感覚は大きなインパクトを持っている。

 『奇想の系譜』という辻惟雄(のぶお)が書いた本がある。1970年出版。それまで日本では、評価されていなかった、岩佐又兵衛(信長に謀反を起こした荒木村重の子)、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白(しょうはく)、長沢芦雪(ろせつ)、歌川国芳などの日本画家を紹介し再評価される切欠になった本。先日行った東京都美術館の次回の特別展は、『奇想の系譜展』である。そのチラシをよく見ると、真ん中に小さい字で、江戸アバンギャルドと書いてある。

 NHKBSプレミアムで放送中の『江戸あばんぎゃるど』と絵の作者がかぶるのだ。例えば、若冲の作品が新しく発見されると、その鑑定に出てくるのは、本を書いた辻惟雄と小林忠である。何故なのか?それは、若冲の世界一のコレクターのアメリカ人ジョー・プライスが東京オリンピックがあった1964年に来日した時に、若冲の『紫陽花双鶏図』『雪中鴛鴦(おしどり)図』を購入する。それを知った、美術史の学生だった辻が、日本で二度と観れなくなると危惧して、これを借り受け西洋美術史の授業で紹介し、それを小林などが観たという。つまり、ジョー・プライスを介して若冲との関係性が出来たようなのだ。

 こう考えると、その頃の人間関係は非常に濃かった。プライスが、学生に高額で買った絵を貸してしまう。今では信じられないような出来事だ。それがあったから、その後の付き合いが出来、若冲を鑑定するまでになったのだろう。『江戸あばんぎゃるど』の前編には、6人のアメリカ人コレクターが登場するが、プライスの名前はない。ここで紹介されているコレクターの作品群は、その後、美術館に展示されている。プライスはそういうことをしていない。いまだに、自宅に若冲の絵を置いて、鑑賞しているという。そうした中から、新しい発見をして、それを発表したからこそ、日本の美術館で展示された。

 あの熱狂の東京都美術館で開催された、『動植綵絵』から若冲は、美術界にセンセーションを巻き起こした。そして、プライス・コレクションとして、新たな若冲像を提示した。プライスの妻は日本人で、来日時に通訳をやっていた。もう年で、彼のコレクションをまとめて買ってくれるところを探しているというが、それはいまだに見つかっていない様で、売却の報道はされていない。勿論売却先は、日本でという。しかし、その金額たるや莫大なものだと思う。仮に、100億円だとして、それを出せる日本の美術館ってあるとは思えないのだが・・・。でも若冲が日本へ戻ってきて欲しいものだ。


 1月20日(日) 晴 14261

 青森の漆塗りを津軽塗という。色の違う漆を塗っては乾かしを繰り返す。そのあと、炭とかで研ぐ。そうすると、漆の凸凹が削れ、丸い重なった色が現れて美しい模様になる。親父は、津軽の馬鹿塗といっていた。色を塗り重ね、研ぐからだと思う。人が作った模様ではなく、塗り重ねることによって出来る、偶然の模様を良しとした。

 『ねぶた 美の競演~名人の父と天才の娘』が昨日BSプレミアムでやっていた。過去最高のねぶた大賞を10回受賞した父北村隆と、ねぶたに関わって6年目で、初めて最高賞を取った娘麻子の話だ。女ねぶた師というのは、今までいなかったようだ。父について色々なことを学び、一人で作り始めて、思うように出来た2017年の最高のねぶた大賞受賞、最優秀制作賞受賞。楓の赤の色彩が評価された。年が明けた18年。プレッシャーで、下絵がなかなか描けない。父に相談していたら泣き出してしまう。父に、自信をもって描けといわれ、不安が吹き飛ぶ。

 題材に選んだのは、北斎の『神奈川沖波裏』の波である。平面の北斎の波を立体にして、照明が入っても綺麗に見えるように、彩色を考える。裏には、北斎と応為の父娘を置く。晩年の北斎を支えた娘応為。応為がいなければ、北斎は絵を残せなかっただろう。それと自身と父に重ねている。娘(おなごわらす)だなぁと思った。70歳を超えた父親は、腰痛で手術をした。組み立てたものに、絵を描くのも大変になってきた。娘はいう、これからは父が体が動かなくなってくるので、出来るだけ手伝って、死ぬまでねぶたを作れるようにしたい。非常にきれいに出来上がったねぶただったが、娘は3位で、父親は4位だった。青森出身の版画家の棟方志功が、浴衣を着てはぢまきを絞めて踊っていたねぶた祭り。ハネト(跳人)という踊り手には、形がない。片足で跳ぶ。東京から来た若者が、真似をして飛んでいたら、アキレス腱を切ったという話も多いようだ。踊るのも馬鹿なら、作る方も1年中ねぶたのことだけ考えている馬鹿である。でも、こういう馬鹿がいないと祭りは始まらない。昔も今も、青森の人の心を躍らせる。♪らっせーら、らっせーら、らっせー、らっせー、らっせーら♪


 1月21日(月) 晴 18207

 梅原猛の『日本の深層』を読んでいると、坂上田村麻呂が出てくる。朝廷から征夷大将軍を命ぜられ東北にやった来た。征夷とは、蝦夷征服を意味する。初めに、東北征伐に成功したのが、坂上田村麻呂。今は、ねぶた大賞といっているねぶたの最高賞は、昔は、田村麻呂賞といった。青森の地でも、最近まで坂上田村麻呂の名前が残っていた。東北という歴史に深く刻まれたものだからだろう。源頼朝が幕府を開いたときに、朝廷から官位を貰ったのは、この征夷大将軍である。平清盛は、太政大臣の官位は貰っているが、征夷大将軍の官位は貰っていない。頼朝以降、幕府の将軍は、征夷大将軍の官位を朝廷から貰う。それが、徳川の時代まで続く。

 頼朝は、義経をかくまったことを口実に東北の一大勢力の平泉の藤原氏を滅ぼす。その意味においては、征夷大将軍はあっているが、それ以降は、ほとんど意味をなさない名前になった。意味はなくなったが、征夷という名前だけが残ったのだ。

 全豪オープンで、大坂なおみが勝った。去年の全米オープンを勝つくらいから、メンタルが強くなった。それまでは、才能を持て余していたが、我慢と抑制が効いたプレーをしている。錦織圭は、0-2で負けている。どうもサービスキープが出来ない。

 アルルのカルテルが発表された。なんとチャマコが復帰する。若い頃は、牛に吹っ飛ばされても、牛に向かっていったが、年を取った今、そういう闘牛は出来ないと思う。父も同じ名前で闘牛士をやっていた。確かダリとも親しかったはずだ。フランスでのうけが良かったが、それでアルルでの復帰なのだろう。


 1月22日(火) 晴 10195

 昨日は満月だった。空が澄んでいたので、月が際立って見えた。昼過ぎにスパに行った。炭酸泉に浸かっていると、体中に泡がつく。着いた泡が脇の下に来ると、くすぐったい。食事しようと食堂へ行った。頭に浮かんだのは、カレーとみそ汁。あー、それだったら自分で作った方が良いなぁと思った。昨日、一昨日は、寒かった。土・日曜日は、風が強く夜は寒かった。日曜日は、大寒だったからなるほどと思った。

 モランテが、テレビ中継には、出ないと言い出しているようだ。それで、バレンシアには出場しないようだ。バレンシアの興行主は、シモン・カサス。ラス・ベンタスにも、同じことが当てはまることになるだろう。そして、地元といって良い、セビージャにも当然当てはまるだろう。テレビ中継があるフェリアには、出場しないと、言い出したのは、ホセリートとそのアポデラードのエンリケ・マルティン・アランスだ。それが、一時エンリケ・マルティン・アランスがホセ・トマスのアポデラードをして、ホセ・トマスが強行に主張し始めた。一時引退して、復帰してからはずっとそれを主張している。ネット時代になって、動画サイトなどで、闘牛が観れるようになってからは、ダイジェストも3分以内にするように要求しているし、何年か前にメキシコでやった闘牛では、闘牛場内にカメラや、ビデオカメラなどの持ち込み禁止を要求して、闘牛場側がそれを受け入れた。しかし、実際には、闘牛ファンが持ち込んだスマホで動画が撮影され、ネット上で拡散した。

 闘牛士が闘牛を守ろうと、色々な意見をいうのは素晴らしいことだ。闘牛を本格的に見始めた頃は、サン・イシドロの闘牛中継は、数日しかなかった。92年から、フランスのカナル・プルスが全日中継を始めた。5月2日のゴヤ闘牛や15日のサン・イシドロの日は、テレマドリードも中継したが、カナル・プルスの有料テレビ中継が独占状態になる。その後、TVE系の有料放送が独占中継をし、また、カナル・プルス系に戻った。その間に、TVEやテレマドリードの闘牛中継は、されなくなっていった。子供たちが闘牛士に憧れを持たなければ、闘牛士は出てこない。それは、イニエスタやシャビ、フェルナンド・トーレスなどに憧れる子供たちの多くがサッカーをやるのと同じだ。ナダルに憧れてテニスをやるのと同じだと思う。

 ホセ・トマスやアレハンドロ・タラバンテやファン・ホセ・パディージャなどに憧れる子供たちを増やす為には、無料のテレビ中継を増やさないと、闘牛はスペインの中で、どんどん観に来る人も、憧れの対照にもなり得なくなって行くような気がするのだが・・・。


 1月23日(水) 晴 11110

 朝起きて、大坂なおみを観る。ストレートで準決勝へ進んだ。それから散歩に行き、戻ってカレーを作った。玉ねぎを刻むと涙が出る。その玉ねぎを炒めると涙が出る。悲しくて泣いているのではない。ただ玉ネギが、泣かせるのだ。鶏のもも肉で作ったカレー。カリフラワーの刻んだものとしめじも入っている。出来立てのカレーを食べて、原宿の太田美術館へ向かう。『かわいい浮世絵 おかしな浮世絵展』。14時から学芸員がスライドを使って解説をするのに合わせて、いった。

 少し過ぎて着いたら、会場は満員で、立ち見が出来ていた。それから展示している浮世絵を観た。初めてきく歌川広景の絵が、笑えて面白い。幕末の安政の頃の絵師で、安政の大獄の時代に、こういうものを描いていて、面白いと思った。それと明治になって最後の浮世絵師といわれた小林清親が明治14年頃にジャパン・パンチなどの影響で、ぼんち絵を描いている。こういう遊びが、宮武外骨の雑誌などと結びついて行くのだと、あらためて感じることが出来た。

 これから、錦織圭の準々決勝。そして、21時からは『江戸あばんぎゃるど』。第二回は、ガラスを脱いだ日本美術。つまり、屏風絵を江戸時代と同じ状態て観ようというもののようだ。京都の花街・島原。そこに、角屋もてなしの文化美術館がある。昔の文化サロンで、置屋もかねていたのかもしれない。そこには、ろうそくのススで黒くなった天井や壁がある。そこに飾られていた屏風絵などが展示されているが、それもススで汚れている。与謝蕪村などの絵が展示されているが、中にはススで汚れていないものもあった。『江戸あばんぎゃるど』。第二回は、こういう角屋で、昔観ていたろうそくの火で、屏風絵などを観ると、どういう風に観えるかというものだと思う。だから、面白そうだ。


 1月24日(木) 晴 11953

 カレーを食いながら思った。日本人は、納豆と豆腐、カレーと、そば、ラーメンがあれば、生きていけるのではないかと。そして、やっぱりカレーとみそ汁は合う。和洋折衷。それは、神仏習合のようなもの。食べていて、落ち着く。天気が良いが、散歩の時は風が強かった。

 大坂なおみは、2-1で勝って決勝へ進んだ。サーブレシーブが良かった。それと、自分が不利になっても自制心をもってプレーしていた。さらに、チャンスと感じれば、攻める。スポーツではそういう気持ちが大事だ。決勝の相手は初対戦だという。1日おいて土曜日。

 『江戸あばんぎゃるど』は、面白かった。屏風絵は、畳の上で、仕切りに使ったり、雰囲気を変えるために使う。狩野派が、大名からの発注から、庶民から発注に応えるために屏風絵なども書き始める。確か直木賞受賞作『等伯』にも、安部龍太郎が書いていた。大和絵で、伊勢物語が描かれていた、三河八橋の場面は、琳派の光琳になると、橋もなくなり、金屛風に燕子花だけが描かれる。つまり、水も地面の描かれない、影のない絵。西洋画とは、決定的に違うのだ。応挙の鶏とひなを描いた金屛風は、大胆な余白がある。鶏の大きさも控えめだ。観る人に、想像力を預けるような描き方。

 そういう屏風を、茶室の畳の上に置き、自然光で観る。美術館のガラスの中から出て、江戸時代と同じ状態にして観る。それを畳に座った状態観る目線も、立った状態で美術館で観る感覚とは、違う。美術館の上からの照明と自然光の違いもある。光琳の『紅白梅図屏風』も撮っていた。興味深かったのは、京都の二尊院の茶室で、朝から夜まで撮ったもの。おそらく、新緑の季節。5月か6月。雨が降っている朝8時。雨が上がった11時。太陽が出る15時。日が暮れた20時。金屛風の金色が、雨上がりの11時変わる。暗い金色になる処が出る。太陽が出ると、金色が輝く。ろうそくの火で観ると、金色が抑えられて、ろうそくの火の揺らぎも面白い。

 アメリカ人の心を掴んだ主に江戸時代の日本画。それは、水墨画などでは、墨のぼかし具合に生命力を感じるのだという。それと、影を描かない。地面を描かずに、描かれる方法は、西洋絵画にはない。それでも、花などが生き生きと感じる。余計なものをはぶく方法が新鮮で斬新に感じたようだ。墨を細かく吹き付けたような描き方も、西洋画では20世紀になって出てきた技法で、それを300年前に日本画ではやっている。和菓子の職人が参考にするのは、琳派のデザインだときいたことがあるが、その形が何かを想像できるように、余計なものをはぶいている。そういう琳派の造形力と、余白が合わさるとアバンギャルドと呼べる感覚になるようだ。実に面白かった。松岡正剛は、しきりに「日本という方法」というが、こういう日本画の方法は、まさに、それだと思う。こういうのを観て、『奇想の系譜展』を観に行くと、いっそう面白いと思う。

 墨ぼかし 生のエナジー 沸きいずる  風吟斎
 おぼろげに 立ち上がる雲龍 影もなく  風吟斎
 余白こそ 全ての調和を 作り出す  風吟斎


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