−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年、2017年、2018年のスペイン滞在日記です。
太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月、11月、12月の京都旅行、2013年4月京都旅行5月出雲遷宮旅行10月伊勢神宮の遷宮旅行11月京都旅行、2014年5月6月、7月の京都旅行、2015年6月京都旅行、9月奈良・京都旅行、11月京都・滋賀旅行、2016年11月京都旅行、2017年9月京都旅行、11月の奈良・滋賀・京都旅行、高野山・京都旅行、滞在日記です。
10月2日(火) 晴/曇 17916
総裁選後の内閣改造を安倍首相が行った。改造後の会見を行ったが、相変わらず滑舌が悪くて、聞き取りにくい。9月のMVPが発表されトラウトの受賞と、新人MVPは4月に続いて大谷翔平の受賞が決まった。大谷は、トミージョン手術を行った。「エンゼルスのビリー・エプラーGMは1日(日本時間2日)、大谷翔平投手が右肘靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受け、成功したと発表した。
大谷がこの日手術を受けたことを発表したエプラーGMは「医師は満足しているし、回復プロセスに自信を抱いている」と話したという。また、来季打者として起用が可能かについては「今、判断することは難しい」とした上で「靭帯再建手術などの大きな手術を受けると、回復過程で分かってくる。予定ももう少し良く分かってくる」と慎重に話している。
また、同GMはあらためて大谷を称えており、「彼は勝者の心構えを持っている」と指摘。そして、「彼は自分がしたいことが分かっている。そして計画がある。非常に感激した。彼はマウンド上、そして打席で試合を支配することができる。塁上でもね。眼福だよ。彼のプレーを見ていて楽しかった」と絶賛したという。」(Full-Count編集部)
ひとまず安心した。医療スタッフは名医と言われる人が担当した。後は、焦らずリハビリをして欲しい。
「今月15日に亡くなった女優・樹木希林さん(享年75=本名・内田啓子さん)の告別式が30日に東京・港区の光林寺でしめやかに営まれた。夫でロックミュージシャンの内田裕也(78)が喪主を務め、長女でエッセイスト・女優の内田也哉子(42)、也哉子の夫で俳優・本木雅弘(52)らが参列した。
喪主代理であいさつした也哉子は「私にとって母を語るのに、父・内田裕也をなくしては語れません。思えば、内田家は数少ない互いへのメッセージ発信を、いつも大勢の方々の承認のもとに行っていた奇妙な家族でした。また、生前、母は恥ずかしいことほど人前でさらけ出すという厄介な性分だったので、みなさまが困らない程度に少しお話させてください」と語りだした。
結婚してすぐに内田が家を出たため、也哉子が結婚するまで19年間、樹木さんと2人暮らしだった。也哉子が「なぜ、こういう関係を続けるのか」と聞くと樹木さんは「だってお父さんには一かけらの純なものがあるから」と返ってきたという。
2人の関係を「永遠にわかりようのないミステリー」と称したが、樹木さんの死去後、書斎で結婚1年だった1974年10月19日に英・ロンドンから内田が樹木さんに宛てた手紙を見つけたという。「結婚一周年は帰ってから2人きりで。この1年、いろいろ迷惑をかけて反省しています。裕也に経済力があれば、もっとトラブルも少なくなるでしょう。俺の夢とギャンブルで高価な代償を払わせていることは、よく自覚しています。本当に心から愛しています」という愛情がたっぷり詰まったものだった。
涙ながらに読み上げた也哉子は「勝手だけどれど父から母への感謝と親密な思いが詰まった手紙に私はしばし絶句してしまいました」と振り返った。「普段は手に負えない父の混沌と苦悩と純粋さが妙に腑に落ち、母が誰にも見せることなく、それを大切に自分の本棚にしまってあったことに納得してしまいました」と振り返り「長年、私の心のどこかで、許しがたかった父と母の在り方へのわだかまりがスーッと溶けていくのを感じたのです」と独特な関係の思いを語った。
また、唯一の親孝行と話したのが本木との結婚だという。「ときには本気で母の悪いところをダメ出しし、意を決して暴れる父を殴ってくれ、そして私以上に両親を面白がり、大切にしてくれました。なんでも明け透けな母とは対照的に少し体裁が過ぎる夫ですが、家長不在だった内田家に静かにずしりと存在してくれる光景は未だにシュール過ぎて、少し感動的でさえあります」と幸せいっぱいだった内田家を語った。
「絶妙なバランスが欠けてしまった今、新たな内田家の均衡を模索するときが来てしまいました」と涙ながらに語り「怖気(おじけ)づいている私は、いつか言われた母の言葉を必死で記憶からたぐり寄せます。『おごらず、他人と比べず、面白がって平気に生きればいい』。まだ、たくさんすべきことがありますが、ひとまず焦らず家族それぞれの日々を大切に歩めたらと思っています」と誓っていた。
樹木さんの戒名は「希鏡啓心大姉」。希は樹木希林という芸名とまれなという意味を含む。鏡は生前、樹木さんが常々、話していた「人の心を映し出す鏡」という俳優としての心得を意味し、啓は本名の啓子から取られた。祭壇は胡蝶蘭、菊、かすみ草など1200本の花で飾られた。」(ORICON
NEWS)
永遠にわかりようのないミステリーと、両親のことを言った娘。本木が樹木希林にダメだししたり、内田裕也を殴ったりしたというのには、かなり驚いた。娘夫婦もかなり凄いよな。いなくなることで、微妙なバランスが崩れることに、怖気づいているという。その存在感が、樹木希林なのだと思う。「おごらず、他人と比べず、面白がって平気に生きればいい」。ウニコだなと思う。それが、樹木希林なのだ。そしてこれを語る娘の顔が、樹木希林に似てきているなぁと思った。
10月3日(水) 曇 7721
変な天気が続く。病院へ行く。日常のことを一つずつ片付けていかないと。多分明日も病院へ行くことになる。
オトーニョのエミリオ・デ・フストのプエルタ・グランデ、ロマンのコヒーダ、ヒネス・マリンの場内一周とコヒーダ。サラゴサの30日のコンクールソのオクタビオ・チャコン、マヌエル・エスクリバノ、ペペ・モラル。セビージャのサン・ミゲルのパディージャ、モランテ、ロカ・レイのダイジェスト動画を観た。エミリオ・デ・フストは、父親を亡くし、モン・ド・マルサンで太腿に怪我を負いそれでも出場したラス・ベンタス闘牛場。そこで、丁寧なパセを繋いで、耳1枚が2回。剣刺しも良かった。失意から、怪我をしてもっと気持ちが落ちただろうに、そこからラス・ベンタスでプエルタ・グランデした。こういうことを考えると、本当に良くやったと思う。負の連鎖を断ち切って、栄光を掴むのは容易なことではない。素直に称えたいと思う。
ロマンのコヒーダの後、バンデリージャたちが、助け起こしたが、最後のバンデリージャのカポーテに反応した牛がパセの後に、そこに向かって突進した。みんな散ったが、カポーテを持っていない二人バンデリジェーロが、牛の気を引いて止めた。カポーテを振ったバンデリジェーロは、反対側に牛をパセするべきだったが、それが出来ずこうなったが、その時に、サポートしたのが他のバンデリジェーロだった。危険に対して直ぐに対応出ることが、闘牛には必要不可決だが、さすがに素晴らしい対応だった。こういう行為に対して喝采を送らずに、耳にだけ感激してしているようでは、本当に闘牛を観ているっことにはならないだろう。
ヒネス・マリンは、去年プエルタ・グランデした時と同じ色の服を着ていたのかもしれない。ゲン担ぎ?彼のナトゥラルが好きだ。場内一周のファエナのとことだ。コヒーダは、しょうがないが、顔と首の辺りから血が出ていた。ラ・パス大学病院で2度の緊急手術が行われた。出血がなくても、のちの顔面動脈出血が現れることがあるようで、その手術と、顔面神経など手術などもあったようだ。10日サラゴサに出場出来るかどうかは不明。
サラゴサのコンクールソ。ペペ・モラルの牛のピカが面白かった。遠くに牛を置いて、ピカドールが何度もピカを刺していた。牛を置く位置、ピカドールの位置などに明確な白線を引いていた。ああいう白線の引き方は、ベンタスでは記憶にない。THさんが行くフランスのピカを見せ場にする闘牛場なども、たぶんそういう線の引き方をするのだろう。ファエナでは牛はパセの後、膝を着く牛でやり難い。でも、左角が良かった。オクタビオ・チャコンは動かない牛で苦心のファエナ。剣刺しの時の、牛の置き方が良い。プロだね。二人の場内一周。エスクリバノは、悪くはナインだろうけど、相対評価でも絶対評価においても、売りがない。
セビージャのサン・ミゲルで、パディージャは最後のセビージャの闘牛だった。観客からの喝采を浴びてのファエナ。そのファエナで耳1枚取れたのは良かったと思う。ドクロマークの旗を持って場内一周。片目の何年も頑張った。14日サラゴサでヌニョス・デル・クビジョ牧場の牛で出場する。両目の時は、完全なコリーダ・ドゥーラ。だから、フィグラがやるような牧場の牛で出来るなんて、あり得なかった。それが今じゃ、ベンタスでも出場するだけで喝采を浴びる。サラゴサは、パディージャが片目を失くした闘牛場だったんじゃなかったかな。おぼろげな記憶だが…。
モランテは、モランテ自身も観客も、無理やりドゥエンデの闘牛士と規定して闘牛を観ているような気がする。クーロ・ロメロやハビエル・コンデのように、自然発生的に起こるあの雰囲気を感じられない。それよりロカ・レイのファエナについて書きたい。ファエナ最後のベルナディーナ。マノレティーナのタキージャドールを反対に持ってやる技。牛に対して正面を向いて、右側にクルサードしていく。だから、当然パセは体の右側を牛を通すことになるが、ロカ・レイは、背中にあるムレタを左側に出して牛を誘い、右側でパセする。これを繰り返す。これは、カポーテでチクエリナをやる時に、パセを通す反対側で誘って通す方法と同じだ。非常に理にかなっているし、理論的で理詰めだ。これを実践し観客の目の前で、分かり易くやって見せることが出来るのがロカ・レイのロカ・レイたるゆえんだ。闘牛学校に通っている少年たちには、これほど見事な教科書はないくらいだ。
10月4日(木) 曇一時小雨 12359
酒の飲み過ぎか、朝から腹の調子が悪く、散歩に出かけたのは夕方だった。帽子もかぶらす出掛けたら、小雨が降ってきた。帽子があればしのげる程度の小雨。途中スーパーで焼き芋を買う。紅はるかと安納芋の二種類がある。昨日の焼き具合も良かったが、今日の紅はるかは、まさにネットリの状態で、これこそ冷凍焼き芋には最高だ。蒸し芋も作ったが、焼き芋とは全然違う気がする。
何が違うかと言えば、焼いたときは今日のようなネットリ感が出ることと、香りだ。焼いたときの燻製に近い香りが食欲をそそる。蒸した時には、どうしてもこのネットリ感が出ない。悪くはないが、不満だ。焼き芋を作るのは難しい。オーブンとかないと出来にくい。これから今年取れたサツマイモがドンドン市場に出てくるだろうから、春までずっと楽しめる。
10月5日(金) 曇/雨 8063
朝、シーラさんから連絡があった。昨日の夜、『カンブリア宮殿』で、北海道、帯広の六花亭をやっていた。北海道ローカルの菓子会社で、東京進出はしないのだという。理由は、従業員を増やすと、質が落ちるからだという。有休消化は全員が100%だという。従業員に対して色々を手厚くしているという。毎日、従業員のコメントなどが載った新聞を発行している。凄い会社もあるものだと思った。
東京などでの物産展に出店すると列ができるほどの人気。ネットで調べたら、池袋西武でやっていたので、朝食も食べずに出掛けて、塩と味噌ラーメンを食べて、中を観た。確かに六花亭には列が出来ていた。
それから夜中、『鶴瓶の家族に乾杯』を観た。それは、黒木華が出ていたことと、京都、宇治田原町だったからだ。この街は、手揉みによる煎茶の製造法を開発した永谷宗円の生家がある処。それまで、番茶や抹茶しかなかったが、煎茶が出来てその製造法を教えたことによって、お茶と言えば煎茶という風になったのだという。調べたら、海苔茶づけで有名な永谷園は、戦後10代目が創業した会社だという。業界で初めてフリーズドライの味噌汁あさげを開発もしたのだという。
そして、正寿院。ハート形の窓があるので有名な寺。実はこれは1400年前から猪目と言われる形で、風たくなどに形が使われていたという。その猪目を窓に使ったのが3年くらい前。ハート形というのは明治になって外国から入ってきた。それ以前から猪目という形が、真言宗の寺にあったのだという。面白いものだと思った。
夕方からシーラさんたちに会って夕食を取る予定だ。
10月6日(土) 曇 12644
昨日の夜は4人で夕食。『ガッテン』のサツマイモの紅はるかや、洗濯マグちゃんの話をした。MEGUさんは、週2回ボーリングをやっているという。シーラさんは、テニス。俺は散歩だ。この前の『ガッテン』でやっていた、血糖値を下げる運動。血糖値は大丈夫だが、痩せるとというのが良いと思った。これを今日やった。約20分部屋で出来る運動だが、汗が噴き出した。これを週2回やれば良いというから気が楽だ。
土地勘もなく、方向音痴のシーラさんが、酔っ払っていて、心配なので3人でホテルまで送って行った。MEGUさんの旦那とは、競馬の話。大谷の話などをした。みんなで闘牛の話などもしたが、女なの人なのでやっぱり、日常の話の方が盛り上がる。
オトーニョは、アドルフォ・マルティン牧場の牛で、タラバンテ、アルバロ・ロレンソ、ルイス・ダビ・アダメ。タランバンテって以前も、アドルフォ・マルティンでやったと思うけど、あの時は耳が切れなかったが牛を上手く扱っていた印象だったが、観客はこういう牧場ではやらない方が良いと言われていた。この日は、あまり良い処が観れなかった。気づいたが、タラバンテのコレタって、自分の髪の毛で結っているいるように見えたが、そうなんだろう…。アルバロ・ロレンソは、ベロニカが良かった。ルイス・ダビ・アダメは、印象が残らなかった。
10月7日(日) 晴/曇 12896
昨日も暑かったが、今日も暑い。職場の女性が倒れてドクターストップになったという話を訊いた。病名は、バセドー氏病。歌手の絢香が罹った病気だ。同じ病気に罹ったことがあるという人が、首の処が腫れて来て、甲状腺異常だという。あたしも一人で歩けなくて、娘に付き添ってもらって外出したという。そうじゃないと、倒れるのだという。今は良い薬が出来て、直ぐ良くなる人もいるのだという。
フランスのパリで今年、ジャポニズムを記念して日本についてのイベントが開かれている。そこに、伊藤若冲の『動植綵絵』30幅を持って行って公開したしたという。それをBSジャパンでやっていた。日本画が浮世絵だけでないということを、若冲によって知らしめるのは、本当に良い美術展だったと思う。若冲の頃の京都画壇は、狩野派もいたが、円山応挙、池大雅、与謝蕪村などがいた。全く独特の画風を確立した若冲。江戸では、浮世絵の前身になる錦絵を鈴木春信が描き出す。田中優子の本を読んでいると、中国からの本の影響で、上田秋成などが出てたというが、落語の基が狂歌から出てくること。そして、『解体新書』の時代で、平賀源内がいた。松岡正剛の本には、儒学、朱子学への反発から、国学が生まれたという。こうやって、西からも東からも、新しい文化が生まれた時代。北斎の『富嶽三十六景』のシリーズで有名になるベロ藍が、初めて日本に入ってきた時代。鎖国の中で、これだけの文化が花開いた時代。面白い時代だ。
浮世絵がフランスで、熱狂的なジャポニズムを生む。和魂漢才が、明治になり和魂洋才なる。銀閣寺を造った足利義政時代は、残されている資料が少なく、若冲の時代は資料が多い。そういう違いがあるが、この二つの時代が面白いし、豊臣から徳川に変わる後水尾天皇の時代も面白い。天皇で言へば、天武・持統天皇の時代。歴史って面白い。
10月8日(月) 晴/曇 15191
体育の日の今日、各地でイベントが行われた。今日も競馬があった。眠かったので3レースしか出来なかったが、全部的中した。こういう日もあれば、そうじゃない日もある。想定していた、競馬物の登場人物を変更しようかと思った。その方が物語に厚みが出来だろう。寺山修司の競馬予想に出てくるのは、寿司屋の政、トルコのももちゃんなどが登場して来る。そういう風に、煩悩を刺激しながら、煩悩を抑制するような、登場人物が必要だと思った。
オトーニョ最終日。フエンテ・インブロ牧場の牛で、ディエゴ・ウルディアレス、オクタビオ・チャコン、ダビ・モラ。結果を先に書けば、ディエゴ・ウルディアレスが、耳1枚、耳2枚でプエルタ・グランデした。オクタビオ・チャコンは、耳1枚。ダビ・モラは口笛、沈黙だった。まず、ウルディアレスは、ナトゥラルが良かった。あれだけ左を繋げば、観客はオーレを叫ぶ。ただ気になったのは、タンダの初めのパセで、腰が揺れる処。それと、牛との距離が微妙に合っていないかなという処。ただ、レマテの後の牛との距離の取り方とか映っていないので、「間」が解らない。「間」が解らないと、本当の笑いが解らないのと同じなので、微妙な処だ。だからやっぱり闘牛場で観るのが1番良いのだ。
オクタビオ・チャコンは、パセの時の姿勢が良い。パセの後の返りが速い牛で、引っ掛けられた。ひょっとしたら右より左の方が良かったかもしれない。2頭目の牛のピカの処で倒れた馬を突いている牛を離そうとして、牛に蹴られ、それからコヒーダされた。腹から胸辺りに角が入っていたが、これは服に引っかかっていたが、危ない処だった。ダビ・モラの初めの牛は、ベロニカの時から右角が良かった。ベロニカで観客を沸かせ、ムレタでは、素晴らしいデレチャッソを繋いだが、観客から口笛を吹かれる。パセを繋いだ場所が、テンディド7の前。ここでこういうパセを繋ぐと、こういうことが起こる場合がある。もし、5とか10とか、7から遠い処で同じパセを繋いでいたら、違った結果になっていただろう。
10月9日(火) 曇 8441
今日は新月だ。夜更かししたので、遅く起きた。昨日炒めておいたカブと椎茸と、豚肉を焼いて食べた。それから解凍した焼き芋を食べた。
松岡正剛著『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』の最後の方に、北一輝のことが書かれている。『日本改造法案大綱』という伏字の多い本を出版し、大日本帝国憲法での天皇の機能とはかなり異なる天皇進化論を打ち出している。維新後の天皇のあり方は、江戸時代とは大きく違ってきた。統帥権をもつ天皇へと変わる。そして、天皇の意思とは関係なく軍の中国進出が進められ、満州事変などが起こり、「統帥権干犯問題」や「君側の奸」が現実的な問題になって行った。
「対支二十一カ条の要求」後、中国から帰国した北一輝は、田中智学が「侵略的宗門」のスローガンを掲げた「国柱会」(日蓮宗信者の会)に入った訳ではないが、日蓮宗の信者だった。国柱会には、『世界最終戦争論』を書いて、満州事変を計画・実行した石原莞爾がいた。「二・二六事件」の時、石原は、東京警備司令部参謀で、これを鎮圧した。国柱会には、宮沢賢治も入っていた。かなり省略して書いているが、松岡正剛の本には、陸軍内部の皇道派と統制派の対立など覇権争いなど詳しくは書かれていない。
北一輝や石原莞爾には、将来の日本が見えていたが、その後の軍部の暴走によって、滅茶苦茶な状態になって行く。北一輝が唱えたのは、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとしたという。社会主義者で、日蓮宗の熱狂的信者だった。北は、「二・二六事件」の理論的指導者として民間人であったが死刑になる。石原莞爾は、戦後、東京裁判に自分を呼ぶべきだと主張し、戦争責任を負う覚悟をしていたが、実際は進駐軍による聴取を受けるだけにとどまった。戦犯から除外された。末期癌だった為ともいわれている。
「あがた森魚の『赤色エレジー』に「昭和余年は春の宵」という歌詞があります。その昭和余年とは昭和三年と四年と五年のことをいいます。いったい何が「春の宵」だったのでしょうか。春の宵に昭和の輪舞(ロンド)が狂っていったということです。」 −−『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』松岡正剛より−−
10月10日(水) 晴/曇 13056
病院から連絡があって、書類が出来たというので取りに行った。
松岡正剛の『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』はかなり面白かった。特に最後の方が気持ちが盛り上がった。最後の第13章 失われた面影を求めては、歌に始まり、歌に終わる。
春風の花を散らすとみる夢は 醒めても胸の騒ぐなりけり 西行 に始まり、よく見ればなずな花咲く垣根かな 芭蕉の句で終わる。
何が書かれているかというと、西行の歌の意味を語り、宮本武蔵の『五輪書』にある「渡(わたり)」=瀬戸、瀬戸際と解説する。生死をかけた「渡」の時に、出入りする拍子を呼吸の動作で実感していたら、「さかゆる拍子・おとろふ拍子・あたる拍子・そむく拍子」があった。そして、金子光晴、野口雨情、九鬼周造、司馬遼太郎の四人から「日本という方法」を読み解いていく。金子は、「日本人のもっている、つじつまの合わない言動の、その源」を考える。「不遜にも西洋の模倣でない、新しい日本の芸術をこの身をもって作り出してみることが、必ずしも不可能ではない」と思う。岩野泡鳴・泉鏡花、永井荷風の三人が金子の心を慰めた。そして自分を「エトランゼ」と思い切る。自分を異邦人とみなすことで、瀬戸際化した。
1番面白いのは、野口雨情だ。「野口雨情は西条八十より少しだけ遅れて童謡運動に参加してきた詩人です。最初は本居長世とのコンビで『七つの子』『十五夜お月さん』『赤い靴』『青い目のお人形』『俵はごろごろ』などを発表します。作曲家の本居長世は宣長の第六代の家系にあたります。 ・・・
童謡がいま、一般的に想定できる童謡とはあることが決定的に違っていたということだけを指摘しておきたいと思います。歌詞をちょっと思う浮かべてください。こうなっています。
雨情はたとえばカラスは「なぜ啼(な)くの」と唄い出したのです。啼いているのは可愛い七つの子をもっている親のカラスです。けれども「なぜ啼くの」かは「山の古巣」に行ってみなければわからない。赤い靴をはいていた女の子は「異人さんに連れられ」たのです。そのまま横浜の埠頭から外国に行ってしまったらしく、いまだに行方不明です。それで最後の四番は、「赤い靴 見るたび 考える 異人さんに逢うたび 考える」というふうになります。「考える」なんて童謡の歌詞としては異様です。いったい赤い靴をはいた女の子の消息不明をもって、雨情は何を訴えたのでしょうか。
青い目の人形も困ったものです。アメリカ生まれのセルロイド人形ですが、この人形は迷子になるかもしれず、おまけに「わたしは言葉がわかない」。だいたい「日本の港についたとき いっぱい涙をうかべてた」のですから、すでに最初から何かの宿命を背負っているようなのです。
いったい、こんな童謡があっていいのかというほどの、これは何かかが欠けていたり、何かが失われていたり、何かがうまくいっていないという子供のための歌でした。」
「雨情はその後は中山晋平と組んで、『雨降りお月さん』『あの町この町』『しゃぼん玉』などの名曲を次々につくった。いずれもすばらしい歌、いまでもかわいらしく歌われている。
しかしこれらの詞もまた、とんでもない。お嫁にゆくときは「ひとりで傘(からかさ)さしてゆく」のであって、傘がないと「シャラシャラシャンシャン鈴つけた、お馬にゆられて濡れてゆく」というのですから、飾った花嫁を賑やかに祝っているような歌詞ではまったくありません。 ・・・
また、あんなにファンタジックなしゃぼん玉も、屋根まで飛んで、そこで「こわれて消え」る。それだけではない。「しゃぼん玉 消えた 飛ばずに消えた」でもあって、「うまれてすぐに こわれて消えた」でもあるのです。いったい生まれてすぐに消えたり、飛ばないしゃぼん玉を歌うとは何事でしょう。 ・・・
雨情は道徳教育では伝わりっこないことを、もっと根底において見せたのです。世界も社会も家族も、町も人形もしゃぼん玉も壊れやすいものなのだということ、それらはすでに壊れていることもあるし、壊れたからといってそのことに感情をもてなくなってもっと何かを失うだろうということを、告発していたのです。」 −−『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』松岡正剛より−−
子供の頃から思っていた、『赤い靴』の疑問がこれで解けたような気がした。異人さんに連れられて行った女の子。不思議で悲しい歌詞。それが野口雨情の童謡だった。たとえば、「赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた」とか、「ぞうさん ぞうさん おはなが長いのね そうよ かあさんも長いのよ」という童謡は、何故かがわかる歌詞だ。幼稚園生でもわかる歌詞だ。一方、雨情の歌詞は、違和感を感じる。感じるが忘れることが出来ない不思議さがある。七色の虹色に輝くしゃぼん玉が、美しいだけではなく、消えてなくなる。永遠ではない美しさ。そのうつろいを歌で表した。赤い靴をはいた女の子が、異人さんに連れられて外国に行ってしまった。行ってしまったという事実は分かるが、その理由は分からない。ぞうさんのような何故がない。何故がないのに、記憶に定着する。それが、幼稚園の子供にも。この不思議が不思議だ。だから、雨情の処を読んでいて強く引き付けられたのだと思う。
10月11日(木) 曇 10043
昨日テレビで、新横浜のラーメン博物館をやっていた。昭和33年時代の駅前商店街を再現したという館内。何度か行ったことがある場所。あの中の雰囲気が何とも懐かしい。店の看板など今では見られない物ばかり。レイアウトも良い。ゴミ箱に至るまでまさに昭和。ここまでこだわったのは、立ち上げの時から関わった、館長の岩岡洋志のこだわり。女優の五大路子の1番下の弟だという。開館24年で2500万人が来場したという。内装に10億円がかかっているというこりよう。
家族でほとんど外食をしない時代、ラーメンがちょとした贅沢だった頃の、思いがここにある。来々軒。浅草に明治43年出来た。ここがラーメン発祥の地と言っていた。大正3年には1日3000人が列をなしたという。そのラーメンを食べていた。透き通るような醤油ベースのラーメン。チャーシュー、シナチク、ネギ。ナルトも海苔も入っていない。中華料理店から出たので、通称支那そばというのだろう。中国人は、支那という言葉を日本占領下の言い方をいい嫌うのだが、英語のCHINAから来ているのかは分からないが・・・。昔、良く通っていた中華料理屋の中国人の爺さんに訊いたことがある。
先日の『歴史ヒストリア』ではラーメン発祥の地は札幌と言っていた。大正時代、大久昌治・タツがやっていた北海道帝国大学前の、はやらない竹屋食堂で、日本語が話せない中国人料理人、王文彩を雇って、そこで出した鳥や貝でだしを取った塩味の肉絲(ロース―)麺を出す。これに飛びついたのが、中国人留学生たち。故郷の味に舌鼓をうつ。日本人も来るようになるが、肉絲麺を見て、こんなの読めないよと言ったり、中国人と険悪な雰囲気になる。王の口癖は、料理が出来た時にいう、「好了(ハオラー)」だった。俺には、アオラに聞こえる。それは良いとして、妙に女将のタツの耳に、「ラー」という音が残った。そこで、ラーメンと命名した処、日本人にも呼びやすくなって留学生とのいさかいもなくなって行ったという。この竹屋食堂で王文彩が出したラーメンが札幌ラーメンの発祥と伝えられているという。
札幌ラーメン店『すみれ』。ラーメン博物館に出している店だ。3年間で100回通って館長が口説いた。行ってみたくなる店だ。関東大震災で、東京にあるラーメン店は、屋台を引くようになる。それが元で今のご当地ラーメンができたという。インスタントラーメンが日清食品で売り始め、サッポロ一番をサンヨー食品が発売。ビデオ会に来るSさんは、今風の揚げてないインスタントラーメンより、サッポロ一番のような揚げた方が好きだと言っていた。あー食いたいサッポロ一番の塩ラーメン。
パコ・ウレニャが、オビエドのフェルナンデス・ベガ眼科研究所で長時間の手術を受けた。水曜日に全身麻酔で手術が行われ、木曜日に関連検査が行われ、医師は左眼球などの回復と後遺症について、計画通り進んでいると語ったようだ。失明することなく、左目が回復するかどうかは、良く判らないが、治ることを祈っている。
今日はサラゴサで、フェレーラが出場する。明日はディエゴ・ウルディアレス。ベンタスでは、コリーダ・ドゥーラで、面白そう。13日はサラゴサで、フリのウニコ。14日サラゴサ最終日で、ヌニョス・デル・クビジョ牧場の牛で、パディージャ、マンサナレス、タラバンテが行われる。
10月12日(金) 曇 10537
空が黒く、今にも降りそうなのに降らない天気。めっきり秋っぽくなってきた。そんな天気の中、病院へ行って薬を貰ってきた。10日アメリカの株安から世界同時株安の状況になってきた。ニューヨークは前日比800ドル以上下げ、日本も一時1000円下げアジア市場も全面安になっているという。円が上昇し対ドルで約112円、対ユーロで約131円くらいに上がった。原因は、アメリカの金利上昇と米中貿易摩擦だという。
築地市場が閉鎖され、昨日から豊洲市場が開場した。4日間寿司屋などは他の市場から仕入れを行ったようだ。閉鎖された築地市場は解体作業が始まった。ネズミの問題もあるようだ。豊洲は、夜中から渋滞で混乱したようだ。これからどう解決していくのだろう。築地は道路が3車線とかの処があるので、0時過ぎくらいから荷物を積んだトラックが待機できたが、豊洲だとそういう処がないような気がする。
昨日のサラゴサの闘牛。フェレーラが、耳1枚と場内一周だった。ペレラ?セラニートは、まずまず真面目に闘牛をやっていた。フェレーラは、剣をアレナに刺して、右手、左手のナトゥラルと繋いだ。2頭の牛ともそれをやった。なんかパターン化している。そういうのは好まない。ポンセやリトリじゃないんだから。ただパセは悪くない。アドルフォ・マルティン牧場の牛であれだけやれば、良い方だと思う。
残念なニュースだ。オビエドのフェルナンデス・ベガ眼科研究所の発表では、パコ・ウレニャの左眼球の破裂とレンズと網膜の大部分と視神経の破壊が確認されたという。つまり、左目の失明が確認された。パディージャの時も書いたが、片目を失うということは、距離感をなくすということである。それで、闘牛が出来のか?過去には、前出のパディージャと、ハビエル・バスケスの闘牛を観たことがある。特に、サン・イシドロで観た、ハビエル・バスケスのファエナには感動で震えた。あんなファエナをサン・イシドロで観たい。パコ・ウレニャは闘牛士を続けるのかは不明だが、どうするんだろう?
10月13日(土) 曇 7064
明日の秋華賞は、アーモンドアイが牝馬三冠に挑む。圧倒的1番人気で、前日発売で単勝1.2倍。今日の東京メインの府中牝馬で勝って、通算900勝したルメールが鞍上。問題は2着3着が何か?ということ。鉄砲(休み明けのぶっつけ本番)という不安要素があるが、これは能力の違いで克服できるだろう。これからレース前までじっくり考えよう。優勝すれば、史上5頭目の牝馬三冠馬になる。
12日スペインの日。マドリードで、ルベン・ピナールがコヒーダされ重傷を負った。傷は、座骨筋に25cm、大腿骨の筋肉20cmを損傷させる重傷。そして、8日サラゴサで、リカルド・トーレスがコレタを切ったという。アルテルナティーバから17年間。売れない闘牛士だった。ポンセのように25年以上アレナに立ち続け、インドゥルトを50回以上やって観客を楽しませる闘牛士もいれば、リカルド・トーレスのように年間何回もアレナに立つことが出来ない闘牛士もいる。いや、むしろそういう闘牛士の方がいっぱいいる。それでも、17年間闘牛士を続けることの方が、異例だ。彼は良いファエナをする闘牛士だった。売れる闘牛士になろうとしても、ルベン・ピナールのように大怪我をする闘牛士が多い。ハビエル・バスケスや、パディージャや、パコ・ウレニャのように片目を失う闘牛士もいる。
10月14日(日) 雨のち曇 11841
秋華賞は、ミッキーチャームが鼻に立ち4コーナーを廻って逃げ切りをはかる。ペースは平均より遅いくらいだった。セフティーリードに思えるレース運びで直線へ入った。あと200m。このまま先頭ゴールかと思われた時、大外から次元の違う脚色で1頭が強襲する。1番人気の二冠馬アーモンドアイだ。直線入口で、5馬身以上あったと思われるリードをあっという間に縮め、一気に差し切って1馬身半差をつけて三冠を達成した。2着は最高のレースをしたミッキーチャーム。3着が、カンタービレだった。予想した馬が3頭入着した納得のレースだった。
サラゴサのフリのウニコは、ノー・アイ・ビジェテで、耳1枚が2回だった。パロス・デ・ラフロンテーラもノー・アイ・ビジェテで、フェレーラがドミンゲス・チャマコ牧場の牛を、インドゥルトした。イジェスカでビクトリーノ・マルティン牧場の牛で行われた闘牛で、アルベルト・アギラールがコレタを切った。また、モランテのアポデラードがロサノから、トーニョ・マティージャに替わった。
10月15日(月) 曇 16091
何なんだろう。14日のサラゴサ。ファン・ホセ・パディージャ引退興行で、ノー・アイ・ビジェテ。ヌニョス・デル・クビジョ牧場の牛で、一緒に出たのは、ホセ・マリア・マンサナレスと、アレハンドロ・タラバンテ。パディージャは、耳2枚。マンサナレスは耳1枚と強いもう1枚要求、耳1枚。タラバンテは、耳1枚。入場行進の後、パディージャに対して観客は喝采を送り、挨拶した。闘牛士終了後、パディージャはマイクを持ち、観客にコメントした。仲間、観客、医者、家族などに感謝を述べた。それからバンデリジェーロたちに担がれて場内一周をしてプエルタ・グランデした。前日のフリのウニコに続いての、ノー・アイ・ビジェテ。サラゴサで満員御礼は非常に珍しい。それが2日続いたことは記憶にない。
そのあと、タラバンテは、自身のTwitter で、引退を発表した。衝撃的なニュースだ。ネットで結果を観て、そのあと Facebook タラバンテの写真などがやたら多かった。それでスペイン語で書かれたものを読んだら、そこには、Alejandro
Talavante se retira por tiempo indefinido.と書かれていた。retira =退却、引き上げること、取り消す、退職、引退。indefinido
=際限なく、限りなく。つまり無期限に闘牛士を辞めると書いていある。
スペイン人たちも騒いでいる。一体どういうこと。何がどうなって、引退になったのか。パディージャは、今年のはじめで、今年引退すると発表して今シーズンを送ったので、観客はそれを分かって観ていたし、サラゴサが最後の闘牛というのも意識していた。だから、満員だった。そして、暖かい拍手で迎えた。しかし、タラバンテは何も言わずに、闘牛が終わってから、ネットで発表した。タラバンテファンの万希ちゃんショックを受けている。それはあまりにも突然だったからだと思う。
セサル・リンコンの時は、パディージャと同じで引退表明して最後のシーズンを送った。しっかり目に焼き付けようと思った。ホセ・トマスの時は、タラバンテと同じで突然やってきた。ホセ・トマスは、いつも突然だった。サン・イシドロでプエルタ・グランデした時も突然だったし、それがどこの闘牛場へ行っても続いた。最高の闘牛を続けた。特に2000年の闘牛は信じられない闘牛をやり続けた。しかし、ちょっと落ちたかと思った2002年の9月に突然の引退。カルテルが決まっていたのに、クアドリージャのルシアノ・ヌニェスと一緒に辞めてしまった。2007年復帰。バルセロナの復帰した闘牛を観たときは、震えるほど感動した。辞めていたのが嘘のような物凄い闘牛だった。それから、何度か引退と復帰を繰り返している。今は、これからやるとも、辞めるとも言わずにそれを繰り返している。
長い間闘牛を観ていると、多くの闘牛士がアレナから去っていった。パコ・オヘダ、オルテガ・カノ、ホセリートなど。彼らがやった闘牛の記憶は、僕の中に残っている。闘牛の技に、その面影を見ている。面影は悲しいものではない。違うクッションというか視点で、それぞれの闘牛士の面影を覗くことが出来るのだ。たぶん、時が経てば、そういう気持ちが分かってくるだろう。サン・イシドロで、タラバンテを初めて観た時、そこにホセ・トマスの面影を観た。アポデラードもホセ・トマスと同じ、アントニオ・コルバチョ。そこにいたスペイン人の観客は、ホセ・トマスのような闘牛をする闘牛士に驚いていた。観客がそこにホセ・トマスの面影を観ていたのだ。それにしてもコルバチョ。この二人の闘牛士だけでも、偉大な闘牛士を育てたものだつくづく思う。
11歳の少年が、世界オセロ大会で優勝した福地啓介君(六段)。36年ぶりに、最年少大会優勝の記録を打ち立てた。母親が手作りしたオセロを始め、母親に負けた悔しさからオセロに熱中したという。オセロ界の藤井聡太という。凄い子もいるもんだ。こういうニュースは、昨日の巨人の菅野のノーヒットノーランのニュースを飛ばしてしまうような衝撃がある。
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