断腸亭日常日記 2017年 12月

--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年、2014年、2016年、2017年のスペイン滞在日記です。
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 12月12日(火) 晴/曇 8536

 今日は昨日と違い寒い日である。日本海側や北海道では雪も降っているようだ。

「ところで、私は、外骨と漱石を対比的にとらえたが、外骨は、漱石について直接言及した文章はほとんど残していないものの、少なくともある好意、同い年としてのシンパシーを感じていたふしがある。
 漱石が亡くなった時、外骨は雑誌『スコブル』を主宰していてが、まさに漱石が亡くなった直後の号(大正六年一月発行の第三号)には、表紙をめくると広告頁に漱石の作品を数多く出版した大倉書店の広告が載っていて、「夏目漱石先生一代の傑作」というキャッチ・コピー(このコピーも、たぶん、外骨自身の手に成るものだ)と共に『吾輩は猫である』『行人』『漾虚集』が広告されている。
 さらに本文頁には、「七赤金星男(しちせききんせいおとこ)は旋毛曲りと胃病」というタイトル記事が載っていて、

 明治文壇に於いて『吾輩は猫である』の小説を著して名を知らしめたる漱石夏目金之助氏は、去る九日病死したが、氏は慶応三年正月五日生れで、其享年、五十である。

 と書き始めたのち、漱石や外骨と同年生まれの「七赤金星男」たちの名前をあげ、こう言葉を続けている。

 これらの人々が揃いも揃って、いづれの旋毛曲りなのは、昔の性学者の言ふ如く生れ年に因(よ)るのであろう、尾崎紅葉の旋毛曲りは有名であり、正岡子規の旋毛曲りは新派俳句を興し、幸田露伴も旋毛曲りの偏物であり、斎藤緑雨に至つてはその奇警の文章、放埓の性格等いづれも旋毛曲りの甚だしい者であつた……今度死んだ夏目漱石も旋毛曲りで、その博士号を辞したなどは最も著名な話である……次にまた奇とすべき一事がある、九星考の本に七赤の者は胃病を煩うとあるがナルホドその通りである。」 --『慶応三年生まれ七人の旋毛曲(つむじまが)り』坪内祐三著より--

 むむむ。七赤金星男。それは俺も同じ。ふと思った。旋毛曲りなのだろうか?闘牛などにうつつを抜かし人生を狂わせていると、他人から観れば思うだろう。それはそれでいいのだが、旋毛曲りとは、ちょっと違うような気がする。変り者ではあるだろう。興味の対象が偏っている者なのだろう。いいじゃないか、そういう風にしかやってこれなかったのだから。漱石は、机の上に鼻糞を丸めて置き、そこに鼻毛をつけて眺めたりしていたと訊く。それが旋毛曲りかどうかはさておき、森鷗外なら絶対にありえないことだったのは確かだ。


 12月13日(水) 晴/曇 10159

 散歩の途中、タバコ屋に寄ったら婆さんがいた。顔を観るなり、永観堂の紅葉の話をしてきた。良かった!と、つぶやく。今回は「そうだ京都 行こう」のツアーで行ったそうだ。他に泉涌寺の塔頭、東寺など5か所を回ったそうだ。東寺の夜間拝観は、ツアーバスなので中に入り五重塔や池の周りのライトアップされた紅葉を観て、素晴らしかったそうだ。時期も丁度良く、敷き紅葉も木にある紅葉も両方楽しめたという。

 婆さんが言うには、昔連れて行ってもらった観光タクシーの運転手が、永観堂の紅葉は是非観てください、素晴らしいですと、言っていたけど、本当に良かった。捕まったから京都旅行の話で盛り上がった。今回は本当に良かったけど、奥嵯峨が好きだという。祇王寺(ぎおうじ)?というと、そう祇王寺。これ読めないのよね。ちょっと待って、書いておくから。と、言ってメモしていた。そうら~祇王寺は素晴らしい。あそこに行くと落ち着く。毎日観たい庭だ。祇王寺と、龍安寺、それとやっぱり銀閣寺が好きな場所。

 やっぱり、解っている人は話すると楽しい。うちの旦那とか分んないからね。友達に話したら、今度連れてって言われたけど、もう先がそんなにないから、他の処に行きたいのよね。と、言っていた。笑って訊いていたが、俺も段々そういう処に近づいているんだろうなぁと思った。

 メキシコシティでは、地震の為の慈善闘牛が行われた。Facebookに闘牛ファンが撮ったビデオを載っていてそれを観た。キーテは、ベロニカと、ガオネラをやっていた。ガオネラは両足が揃ってくっ付いていた。またガオネラが観れた喜びを感じる。THさんがアップしたソルテオの動画があり、ホセ・トマスの牛が写っていたが、僕の感想は悪い牛。そして、ファエナを観たが、やっぱり動きが悪かったが、右角が良い牛で、長い。左角は短いが、それを技術で動かしている感じだった。長かった右角で、短かった左角を長くしていった感じのファエナだった。牛は後ろ足が弱いので、膝を着いたりで動きが悪かったが、それでもファエナにしてしまうのは、やはりホセ・トマスだからだ。ノー・アイ・ビジェテにはならなかったが、ほぼ満員に近かった。8人の闘牛士(騎馬闘牛のメンドーサも出ていた)で、8頭。ホセ・トマスが2回観れる訳ではない。それでも、これだけの人が、地震の為の慈善闘牛に集まったのは、やっぱり、ホセ・トマスが出場したからに他ならないだろう。


 12月14日(木) 曇 7943

 夜中、クラブワールドカップ、レアル・マドリード対アルジャジーラをテレビで観ていたので、寝るのが遅くなり、起きたのは昼前だった。それから高円寺に行き、ラーメン屋に行ったが開店していない。もう気まぐれなラーメン屋だ。これで3度目くらいフラれたことになる。仕方ないので、今日は地元の定食屋へ入った。婆さんとその息子らしい人がやっている、カウンターだけの店。トンカツ定食を食べた。

 例えば、ガストとかデニーズとかファミレスは無難だ。チェーン店だとどういう物があるか分かるし、味もこういうもんだと想像がつく。でも、こういう昔から町にある店に入ってみるのが面白い。そして、なんだかホッとする。それから、コーヒー屋に行って一服した。一息ついてから街歩き。古本屋があったので覗く。買ってきた本を、喫茶店で開いた。そしてそろそろ買い物をして帰ろうかと思い、自転車を置いていたスーパーに戻ったら、自転車がないのである。店員に訊くと、店舗の敷地の外に止めておくと、区役所が撤去するのだという。それで、電話で聞いてみたら撤去したという。

 もう、ガッカリ。それで引き取りに行った。5000円も取られた。良い教訓なのか、悪い教訓なのか判らない。途中、「寺めぐり」というのが壁に貼ってあった。高円寺のお寺の紅葉の写真が載ってあった。こういうのを歩いてみるのも面白いかもしれないと思った。


 12月15日(金) 曇 12400

 寒いのもあって、赤いセーターを着て出かけた。60年代、30以上の人間を信用するなと、いう言葉が流行った。それは、ロックや、フラワームーブメントとか学生運動が流行った時代の、若者たちの合言葉のようになっていた。70年代、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーは、50超えて歌っている姿が想像できないと言っていた。が、今や70を超えてもステージに立っている。そして、自分も赤いちゃんちゃんこを着る事になるとは想像を超えている。

「私が特に興味を持ったのは『絵入広告新聞』の「絵」を安達吟光と並んで小林清親(きよちか)が担当していることだ。安達吟光は例の大日本憲法発布の際に、『頓智協会雑誌』二十八号に「骸骨が頓智研法下賜(かし)する図」を描く事になる画家だ。元幕臣で最後の浮世絵師と言われた小林清親と外骨が縁があったことを知ると嬉しくなってしまう。  --中略--

 ところで、ここでまた一人重要な人物が登場する。戸田欽堂である。
 外骨の「頓智協会」の会員に名をつらねることになる戸田欽堂は、政治小説の嚆矢(こうし)『情海波瀾』の作者であり、原胤昭(たねあき)、戸川残花(ざんか)と並んで銀座十字屋の創設者の一人だった。十字屋楽器店のルーツである銀座十字屋は、明治期のキリスト教普及に大きく貢献した一種の総合雑貨店である。元幕臣にしてヤソ教の伝道者となる原胤昭がその十字屋を舞台にいかなる活躍をしたかは、山田風太郎の長編小説『明治十手架』の読者には、すでにおなじみだろう。原胤昭と小林清親との関係も。」 --『慶応三年生まれ七人の旋毛曲(つむじまが)り』坪内祐三著より--

 凄い繋がりだ。小林清親が明治になって色々な絵を描いているのは、風太郎を読む以前に知っていた。そして、清親と外骨が雑誌を通じて関係していたことに驚く。そして、原胤昭も繋がるわけである。風太郎が『明治十手架』に外骨のことも書いていたらと、思うとなんだかワクワクしてくる。この作者、坪内祐三は、そういうことを分かって書いているはずだ。そして、この人、風太郎の明治物を相当読み込んでいるようだ。唸るなぁ!

--中略--  「十字屋前でくばったこの似顔画の咎(とが)によって原は罰金三十円、軽禁固三か月の刑に処せられ、石川島の監獄に入獄した。与力の出身で、石川島の人足寄場の見廻役をしたころもある原だが、明治の新しい時代に入って、自らそこに入獄することになってしまったのだ。そして原はその監獄の環境の悪さに驚き、出獄後の生涯を監獄改良と免囚事業にかけることになる。「天福六家撰」の絵を実際に描きながら、小林清親が処罰を免れたのは、原が「小林に万が一とばっちりが及ぶことを恐れて、版に小林の名を彫ることをひかえさせ」たからだという。」 --『慶応三年生まれ七人の旋毛曲(つむじまが)り』坪内祐三著より--

 風太郎の『地の果ての獄』『明治十手架』と二つの原胤昭が主人公の小説を読んでいると、上記の様に清親を庇(かば)う姿勢は、良くわかる。こういう知らべ方をされると、グイグイ引き込まれる。漱石が成立学舎で新渡戸稲造の隣で机を並べて勉強していたこと。それを、「僕は今日初めて君に会つたのだ」と新渡戸に言われた漱石が、「いや、私は貴君(あなた)をば昔成立塾に居た頃からよく知ってゐます」と言ふ……などという漱石の文章を採取しているが、これはおそらく漱石が第一高等学校に赴任して来た頃なのではないかと思う。

 子規と熊楠、漱石はみな落語好きだった。漱石と子規が仲良くなったのも、落語という共通点があったからのようだ。子規は煎餅党、熊楠はビール党で、同じ下宿で張り合っていて、秋山真之(さねゆき)は、はじめ煎餅党だったが、「後には僕党に降参して来た。」と、南方熊楠が書いているという。また共立学校で、高橋是清に、正岡子規、南方熊楠は英語を教わり、是清は、授業中、南方熊楠を「ナンポウ」と呼び、生徒を笑わせていたという。それから三十数年ぶりに上京した熊楠は、南方植物研究所を設立するための援助を、当時総理大臣だった高橋是清に求め、こころよく引き受けたのだとという。

 なんだか滅茶苦茶面白い。知らない名前が出てくるたびに、ネット検索しながら読んでいる。出かけた帰りにケーキを買ってきた。


 12月17日(日) 曇 17298/2

 昨日は少し暖かいが、今日は寒い。夜中、クラブワールドカップ決勝を観る。その前にやっていた東アジア決勝の日本対韓国。お話にならない試合。途中で観るのが嫌になったのでやめた。レアルマドリードとかと全然レベルが違い過ぎる組織力と攻めようとするパス。浦和のクラブワールドカップの試合もそうだが、時間がない時に、DFでバックパスをやっていたら、勝てるわけがないし、勝つ気が感じられない。いつも正攻法で攻撃しようとすると、相手は守は楽でしょうがない。相手が驚くようなパスやドリブルをしないと攻撃に変化がない。それはハッキリ言って、技術がどうのという問題ではないのだ。闘牛風に言えば、アンビション(野心・意欲)が感じられない。罵声と口笛を吹かれるラス・ベンタス闘牛場の闘牛と一緒だ。それに比べれば、レアルマドリード対グレミオの試合内容はプエルタ・グランデに相当する。日本代表ハリルホジッチ監督に辞めろコールがされたというが、監督が悪いのか?それよりも、選手のアンビションの問題じゃないのと思う。クルサード出来なきゃ、良いパセなんて出来ない闘牛と同じじゃないの。

 そして、レアルマドリードが1-0で勝ったのは当然だ。グレミオは、前半FKのシュート1本じゃ勝てるわけがない。ちゃんとしたゲームプランで、選手はいつも通りの戦いをして結果を出した。ここは勝たなければならない試合。ちゃんと結果を出す。どれだけの物を背負って試合しているか、選手たちが良く分かっている。日本代表とは明らかな違いだ。


 12月18日(月) 晴 5863

 今日東京は今季1番の寒さを記録したようだ。気温がマイナス0.4度だったという。部屋の片づけは続いている。誰か忘れたが、養老孟司と昆虫採集仲間の学者が言っていた言葉を思い出す。採取をしたものを整理しようとすると計算上250年かかります。つまり、生きているうちは無理であるという結論がある。それでも、採取は続けるだろうし、整理も続くだろう。そういうことを解った上での、採取であり、整理なのだ。

 例えば、闘牛関連でいえば、写真、ビデオ、資料、本、自分が書いた観戦記などを、整理するのはそれだけで非常に時間がかかることだ。ビデオやDVDの基動画だけで、300から400くらいある。それを闘牛の会や、スペイン闘牛ビデオ上映会用に編集しているものを加えると、500を超えるかもしれない。ビデオは、3時間テープなどもあるが、1つ2時間として計算して、500X2時間で、1000時間観るだけで必要となる。それを整理するとなると大変である。ビデオテープの殆どは、スペインのPAL方式の物なので、デッキがもつかどうかも判らない。途中で故障する可能性だってある。もう、PAL方式のビデオデッキって売ってないだろうしな。まあ、重要と思う物は、すでにDVDや、日本用のビデオに起こしているはずではあるが…。

 その他に、厄介なのは、写真だ。今は、ビデオ撮影であるが、10年以上写真だけの頃があったので、その写真を整理するとなると、これまた厄介だ。全部の写真が残っているわけでないが、それでも、何年何月何日何処の闘牛場で撮った、何頭目の誰の牛かとなると大変だ。それをやろうとすると、闘牛場に行ったときに貰った、プログラムと観戦記を手掛かりにして、やっていかなければ進まないだろう。

 こういう事が嫌だから、スペインに行ったときは、出来るだけその日に観戦記を書くようにしていた。それでも、追いつかないのである。追いつかないが、出来ることを出来るだけ出来る時にやろうとはしてきたつもりだ。それでも、これである。追いつかないと嘆いても仕方ないが…。

 「 「サムライは嘘をつかない」
 スペイン『マルカ』紙のホセ・マリア・ロドリゲス記者は、自身のコラムでエイバルMF乾貴士をこう称賛した。 (10月)22日に行われたリーガエスパニョーラ第9節で、エイバルは敵地「サンティアゴ・ベルナベウ」でRマドリードと対戦。0-3と完敗を喫した試合で、日本代表MFは2トップの一角としてフル出場を果たしている。この試合の54分、乾は相手エリア内でMFカセミロに倒されたように見える場面があった。しかし、審判の笛はならず。乾も「PKではなかった」と正直に話している。

 これについて、ホセ・ルイス・メンディリバル監督は「審判や相手を欺くということを知らない」と評していた。しかしロドリゲス記者は、これは乾だけのものではなく、日本人に浸透する“武士道”によるものだと称賛を綴っている。

 「メンディリバルは『競争することを知らない』と結論づけた。しかし、それは個人的な問題ではない」
 「タカシ・イヌイと、数千人いる日本人トップアスリートに違いはない。監督たちは方法論を実践させるときから、自分自身の力を出し切ることこそが、どんな競争の結果よりも重要であることを叩き込むのだ。彼らは、日本の社会に浸透する“武士道”に、そして侍に着想を得ている。それは勇気、礼儀、哀れみ、正義、誠実、正直と、七つの事柄に要約されるものだ」 」(Goal.com)

 七つの事柄と書かれているが、六つしか訳されていない。それはいい。この記事の大事なことは、「自分自身の力を出し切ることこそが、どんな競争の結果よりも重要である」という事だ。


 12月19日(火) 晴 9715

 BSプレミアムで、『白洲正子が愛した京都』をやっていた。いろいろ面白かった。白洲正子は嵯峨が好きだったようだ。それで、観光地ではなく、通りはずれの露地にひかれていたようだ。そして、比叡山は京都に背中を向けているという。滋賀の琵琶湖の方を向いているという事のようだ。しかし、愛宕山は、京都の何処にいても見えると。だから、京都は愛宕山が良いというようなことらしい。

 今年京都へ行った時、トギちゃんと将軍塚へ行った。そこで大舞台で京都の町を観て、それから、裏の方にある昔の展望する場所で、トギちゃんが愛宕山と比叡山の話をしていたのを思い出した。昔、比叡山と愛宕山が喧嘩した。比叡山の山が二つの頂に別れたのは、愛宕山に殴られた跡だという話だった。修行の地、延暦寺がある比叡山。比叡山と並び信仰の対象の山だった愛宕山。古くは崇徳院が、呪いをかけたと噂され、光秀が戦勝祈願し、「時は今 雨のしたしる 五月かな」と詠んで本能寺の変を決意した場所としても知られる。かわらけ投げの厄除け、願掛けで知られる。落語『愛宕山』は、朝ドラ『ちりとてちん』にも出てくる噺で、そのかわらけ投げの最後の処で落ちがある。

 たぶん、京都の人たちにとって、比叡山は、高僧を多く出し、阿闍梨を崇拝することはしても、愛宕山の方に親しみを抱いているのだろうという事は、上記の喧嘩した話からも判るような気がする。その辺も白洲正子が感じ、愛宕山の方が良いというニュアンスがあるのだと思うのだ。なお、今日からBSプレミアムで、原節子の映画が放送される。今日は、『青い山脈』。明日は、小津安二郎の『麦秋』。明後日が、成瀬巳喜男の『山の音』だという。これって、絶対観なさいと言われているような気がする。


 12月20日(水) 晴 7013

 BSプレミアムで、『谷崎潤一郎が愛した都』『極上美の饗宴 東山魁夷』を観る。やっぱり、谷崎のまだ読んでいない、『陰翳礼讃』を読まなければと強く思った。それと、東山魁夷の、『京洛四季』という54枚のシリーズ画。せめて画集ででも観たいと思った。主にやっていたのは、『年暮る』という作品だが、これも面白かった。魁夷は50代になって、ようやく、京都の絵を描けるようになったというような事を言っていた。

 小津安二郎の『麦秋』を観る。家族の日常が描かれている。孫の爪切りをお爺ちゃんがやり終わり、ビスケットをあげる。「お爺ちゃん好きか?好きなら、もっとやるぞ」孫が、「大好き。大好き。大好き」すると何枚もあげる。立ち上がって離れてから孫が、「嫌い。嫌い。大嫌い」と顔をしかめていう。「ハハハ」と笑う。こういうの観ていたら、同僚の話を思い出した。子供の頃、お爺ちゃんが嫌いで、死ねば良いのにと思っていたら、その日にお爺さんが死んで、僕がそんなことを思ったから、お爺ちゃんが死んだんだと、ショックだったという事を話していた。

 秋田の病身へ転任する矢部の家に、挨拶に行った紀子に、矢部の母親が、私の胸にしまっていたことだから誰にも言わないでよと念を押して、「実はね、あなたのような人を息子の嫁に欲しかったわ」と紀子が言われる。すると、「あたしで良かったら…。」と承諾する。言ってみるもんね。と喜ぶ矢部の母親。家に帰り、家族に言うと、兄が強く反対するが、「私がそれで幸せになれると思ったのよ」と、家族の前で言い決心が変わらないことを伝える。仲の良い兄嫁に、バツイチで子供がいるのに心配だと言われるが、大丈夫と決意を語る。独身の友人アヤに秋田に行ったら、言葉だって判らないのよと言い、秋田弁で話しかけられると、紀子は、秋田弁でかえす。その秋田弁の旨い事。淡路千景も原節子も凄くうまい。まるで違和感がないのだ。ソファーに座ってその会話をしている時、原節子は爪先だけを畳につけて、踵はソファーの側面にあった。座りながらハイヒールを履いているような爪先と踵の位置だった。

 小津安二郎の映画には、原節子が主演した、紀子三部作というのがあり、それが、『晩秋』1945年『麦秋』1951年『東京物語』1953年だという。例えば、『東京物語』で、義父だった笠智衆が、『麦秋』では、兄。『東京物語』で、義母だった東山千栄子が、母親。『東京物語』で、義姉だった杉村春子が矢部の母親。というようになっている。たった2年しか違わないのに、原節子を囲む配役は全く違った役割をしている。この辺も面白いが、2時間小津の映画を観て、眠くならなかったことが最大の不思議だ。どうしたんだろう?小津の映画は東京物語以外はたまらなく眠くなっていたのにそうならない。年を取ったという事なのだろうか?いずれにしろ、小津映画の気持ちが解るようになって来たという事なのだろう。ちなみに、麦秋とは、麦の収穫期、初夏の頃のことだという。

 お茶漬けのシーン。何なんだろう?食べっぷりが良い。喫茶店で、紀子に矢部が、戦争で死んだ次男・省二と良くここに来ていたと話すシーン。家族に決意を家族に伝えるシーンと、義姉に大丈夫と話すシーンは、女友達3人とワイワイ騒いで話すシーンとの対比が面白い。それと戦争が終わってまだ10年経っていない時に、日本の家族を描いているというのに、いまさらながら驚いている。


 12月21日(木) 晴 7457

 朝から片付け。成瀬巳喜男の『山の音』1954年を観る。この映画を語るのは難しい。原作が川端康成。何を書きたいのか良く判らない作家だからだ。こういう事かいちゃダメかもしれないが、『片腕』とか『眠れる美女』なんて訳が判らない。映画『山の音』は、戦後の戦争未亡人が浮気相手として出来たり、戦後の混乱していた社会情勢が反映されているのだろう。ラストの、自由になるんだというのは、戦後民主主義的な感じだが、菊子(原節子)は、確かに自由になるのだろうけど、不条理というか、無常である。こういう役に、成瀬巳喜男が配役したのだろうか?原節子は、この役には合わないと思う。脚本が、『浮雲』と同じ水木洋子。こういう物語は、面白いと思わない。でも、成瀬監督は、女の描き方が上手いとは思う。でも、1番良かったのは山村聰だった。


 12月22日(金) 晴 5290

 楓は葉を散らし、枝についている種ももう落ちている。枝を手にして観ると、新しい小さな芽が出来ている。次の春の為の準備はもう始まっている。冬の寒さに耐えて、春に咲く新緑のエネルギーを溜めているのだ。晴れて青い空がまぶしい冬至。

 カタルーニャの選挙が行われて、独立賛成派が過半数を獲得した。性急な独立宣言はしないだろうけど、今後どうなるのか判らない。賛成派は、議席獲得の為に統一候補で選挙戦にのぞみ勝利した。一方、独立反対派は、それぞれ候補を立てて票を分け合ったようだ。その結果、カタルーニャの深刻な経済的な混乱の影響は続く事だろう。


 12月23日(土) 晴 17344

 昨日夕方上野に行った。東京都美術館の『ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』を観に行った。牧師になろうとしたゴッホが、牧師になれず画家をなりたいと思う。弟のテオを頼ってパリへ。そこで観た浮世絵に心躍らされる。浮世絵の影のない絵。色彩の鮮やかさに魅了される。浮世絵の模写などの絵が複数残っている。そして、南仏へ行って黄色が印象的なひまわりなど絵を描く。ゴーギャンとの共同生活は、ゴッホの期待を裏切り、精神に異常をきたして、ゴーギャンを襲おうとカミソリをもっていくと、睨みつけられて自分の部屋に逃げ帰って左の耳を切り落とす(『包帯をしてパイプをくわえた自画像』では、右耳に包帯をしている。鏡を観て描いたからか?)。それから精神病院へ入る。

 オランダ時代、パリ時代、南仏時代、入院後から死ぬまでと作風が変わっている。ゴッホの絵と、浮世絵が一緒に展示されている。オランダのゴッホ美術館から作品が多く出展されている。死後、日本人画家がゴッホの墓を訪ねる。詳しくは知らないが、ゴッホの墓を訪ねた日本人画家が、弟のテオも発狂して死んだと書いていたが、本当だろうかと思った。日本人の訪問記録が記帳されて残っている。そして、日本でのゴッホ展開催などの企画をされたり、手紙の翻訳が本になったりしたようだ。

 世界的にも、まだ殆ど無名だったゴッホを、1920年頃、日本人画家たちがオーヴェルを訪ねているのは、この当時から非常に日本人好みだったようだ。耳切事件以降、画風が変わる。町や野原の風景を描いていたが、花のアップを描くようになる。それは、ひまわりを描いた時の様に気持ちだったのだろうか?でも、ひまわりは段々枯れて来たと思うけど、花は大きく色も鮮やかに描かれている印象だった。

 この『ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』は巡回展で、8月の札幌で始まり、10月東京、1月京都(3月4日まで)で、終わる。大谷のこともあったので、札幌に行こうかと思っていたら、東京にも来るという事だったので、待ち焦がれていた。浮世絵からインスパイヤされて自分の絵の形を作っていったゴッホ。そのゴッホを死後、日本人画家が憧れをもって、オーヴェルを訪ね、絵を描いている。そういう処も、面白いと思った。そして、このような企画展が行われたことは、日本美術がかなり成長してきたからだと思ったのだ。


 12月24日(日) 晴 6504

 クリスマスイブ。そして、中山競馬場では、有馬記念が行われる。圧倒的な1番人気の北島三郎の馬、キタサンブラック。迎え撃つのは、ジャパンカップ馬、シュバルグラン。ダービー2着馬、スワーヴリチャード。宝塚記念馬、サトノクラウン。どうなるのか?

 リーガは、無敗だったアトレティコ・デ・マドリードがなんと、バルセロナのエルパニョールに負け、レアル・マドリードが予想通りバルセロナに0-3と大敗した。もう選挙結果のような試合結果だ。くだらなくなる。

 が、『わろてんか』「お笑い大阪 春の陣」第72回は、大逆転で、おちゃらけ派150人と伝統派53人が一気に、風鳥亭に徒党を組んで流れ込んだ。

 「てん 風太。 藤吉 これどうゆうこっちゃ。戦でも始める気ぃか? 風太 たのんます。こいつらのこと、ここで、やとうて下さい。 おちゃらけ派芸人一同 お願いします。 風太 お願いします。おちゃらけ派の芸人。150人全員、北村笑店に来たい言うてます。 寺ギン なんやと。 芸人 どうかお願いします。 その嫁 どうか、たのんます。 寺ギン お前ら何寝ぼけた事ゆうてんのや。こんなことして、ただで済むとおもとんのか。 風太 みんな覚悟決めてここに来たんです。 芸人 例えこの先、どないな事になっても、北村笑店に世話になろうと、みんなで決めましてん。 芸人たち そや、そや。 芸人の嫁 どうかやとうて下さい。お願いします。 一同 お願いします。 藤吉 ありがたい。ほんま、こんなに。 風太 お前らが積み上げてきた信用や。 トキ 風太。 寺ギン お涙頂戴はええけどな、忘れた訳ないな。借金の証文や。忘れたとは、いわさんでぇ。この金、きっちり返すまで、お前らはわしのもんや。 藤吉 わしのもんって。芸人は、ものやないでぇ。 てん そうどす。大切な家族です。 寺ギン ほー、家族。家族いうんやったら、こいつらの借金2500円、親のあんたが、はろてくれるのか? てん よろしおす。その証文、みな北村笑店で、肩代わりさせて貰います。 芸人たち ざわめく。 藤吉 てん、そんな金、あらへんやろ。 てん 大丈夫だす。うちに任せておくれやす。 芸人たちが拍手する。 寺ギン 気ぃは確かか。こいつらの借金まで背負ったら、お前らも共倒れや。 そこに伝統派の文鳥が登場。 文鳥 いやー、祭りでっか。それとも大阪夏の陣。いや、春の陣でっか。 寺ギン 文鳥師匠。 てん 師匠。

 場面変わり、てんが戸棚から瓶を出す。 藤吉 そんなとこに。 てん なんかあった時の為とおもて。 藤吉 へそくりか。いつの間に。なんぼ、あるんや。 てん しめて、2511円50銭あります。 寺ギン なんやとー。 てん これで芸人さんたちの借金、きっちり、お支払い致します。 藤吉 でかした、てん。 てん へぇ。 文鳥 ごりょさん。わしが、カレーうどんを頂いたのは、6年前。あんさんの、お召しもん、その時、同じ着物でんな。 てん ひゃ、あっ。 文鳥 寄席三軒のごりょうさんが、そこまで始末なさってなぁ。この壺の銭も、コツコツと溜めはったんやなぁ。そんな大事な銭で、見ず知らずの芸人の借金肩代わりするやなんて、アホらしい。やめときなはれ。 てん 見ず知らずや、おへん。うちは、芸人さんみんな、家族や思うてます。みんなが疲れた時、苦しい時、大変な時。家族にお薬を与えるのは当たり前。そうおもてるんです。 文鳥 わしの好きな噺に。貧乏花見ちゅうのがおましてな。貧乏な連中が、長屋で片寄せあいながら、面白おかしく暮らしてるちゅう噺なんやが。ここにおったら、貧乏でも何でも、毎日わろうて暮らせそうな気ぃするわ。伝統派の噺家一同53名。北村笑店で、お世話になりたいんやけど。どないでっか。 藤吉 もちろんです。 てん おおきに。ありがとうございます。 文鳥 まっ、よろしゅ、おたの申します。 寺ギン そんな殺生な。 文鳥 あんたも、昔の気持ちを思い出したらどうや。 てん 一緒になかよう、やり直ししませんか。うちは寺ギンさんにも、わろうて欲しいです。笑いは、作る人がわろてんと、お客さんが笑われしませんさかい。 風太 俺もそう思います。 寺ギン あーもう、どうにでもせぇ。ええわ。わしの持ってるもん、全部お前らに譲ったるわ。 黙って頭を下げる藤吉とてん。 横で文鳥師匠がうなずく。

 場面が変わり、トキと風太。 トキ おおきに。ありがとうな。 風太 お前の為にやったんちゃう。 トキ 判ってる。そやけど、ほんまにおおきに。これから、何処行くん。 風太 うん。風の向くまま、気の向くままちゅうやちゃなぁ。まっ、俺は何処へ行っても、やっていけるわ。ほなな。 戸を開け出ていく風太。 トキ 風太。 そこへ藤吉とてんが来る。 てん ちょっと待って。お礼も言わせんと、何処行く気やの。おおきに風太。 藤吉 おおきに。 てん 風太。うちらから折り入ってお願いがあるんやけど。 風太 そんな金、持ってへんでぇ。 てん お金とちゃいます。番頭として、働いてくれへん。 風太 番頭。 てん そうや。この北村商店で。 風太 番頭? てん 番頭や。 風太 番頭。 トキ もうなんなの。さっきから番頭、番頭って。 風太 俺、藤岡屋の手代止まりやでぇ。いっぺんだけでも、番頭さんって、呼ばれてみたかった。 涙ぐむ風太をトキが藤吉とてんの方を向かせる。 藤吉 風太。受けてくれるか。 風太 藤吉。いや席主。ごりょうさん。よろしうたのんます。 てん こちらこそ。よろしゅうお願いします。番頭さん。 風太 へぇ。 ナレーターの小野文江アナウンサー そうして風太は、北村笑店の番頭となり……。 寺ギンはお坊さんに戻り、笑いの心を取り戻しに、諸国行脚に旅立ちました。」 --『わろてんか』「お笑い大阪 春の陣」第72回より--

 年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小谷の中山  西行


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