断腸亭日常日記 2018年 2月

--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

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 2月3日(土) 晴 11541

 節分である。朝、THさんから連絡があって、セマナ・サンタの満月の話が面白いと思った。また、ずっと知りたかっていた、歌が分かった。テレビの闘牛番組などで良くかかっていて、ロシオ・フラドの葬式の時に歌われた歌が、Salve Rociera (Salve del Olé)という歌だという事が判った。「オーレ、オーレ、オーレ」が続く美しい歌だ。

 「先輩庭師、小島 昼飯どうする? 幸太郎 僕は何でも。 先輩 ここんとこ、そばか冷やし中華しか食うてへんしなぁ。こんだけ暑いと米粒食べたいとも思えへんしなぁ。 幸太郎 ほな、パンにしますか。 ナレーション(幸太郎)と、訊いた場合、京都人の答えは決まっている。 先輩 せやなぁパンにしようか。 ナレーション パンでいいやという意味ではない。 先輩 パンがええわ。 ナレーション 積極的にパンが食いたいという意味。 先輩 どこのパン屋にしようか。 ナレーション たいがいの京都人は行きつけのパン屋を2・3軒もっとる。 幸太郎 ちょっと地味やけど、この近くに滅茶苦茶美味い店があるんですよ。 先輩 ほー、何が美味い。 幸太郎 えー、ウインナーロール、コールスローパンに、焼きそばパン。 先輩 お前の一押しは。 幸太郎 クリームパンです。冷たい牛乳と一緒に。 先輩 ゴクッとのどを鳴らし、えやないか。 ナレーション 京都人はパンがないと生きていかれへん。パンの個人消費量が日本一いうのも充分自覚がある。 

 店に着く。 先輩 結構流行ってるやないかい。 ナレーション 何でそんなにパン好きなんやろう。和食、食うといたらええがな。って言われても、好きなもんはしょうがない。 先輩 このコロッケパンとハムカツパン、間違いないやろ。 幸太郎 ここの大将の実家が、コロッケ有名なお肉屋さんで、揚げたてを挟んどるんですわ。 先輩 えっ、何でそんなに詳しいねん。 幸太郎 しょちゅう来てるんで。 上町葉菜(パン職人見習い) いや、幸太郎やないの。 幸太郎 まいど。西陣で仕事やったん。あっ、こちら先輩の小島さん。高校の同級生の上町葉菜です。 先輩 こんにちは。パン職人さんしてはるんの。 葉菜 まだ修行中ですけど。 幸太郎 筋金入りのパンオタクですわ。 先輩 おすすめはなんですか? 葉菜 全部です。 先輩 あはは。ですね。あー例えば上町さんが死ぬ前に食べるとしたら? 葉菜 うー、クリームパンですね。牛乳と一緒に。 先輩 それ貰います。 玉井パン店主、玉井利夫 あーなんや幸太郎君やないか。 幸太郎 こんにちは。 店主 この子、かなわんねん。妙なパンばっかり焼きよる。 幸太郎 なんですか、これ。 店主 ししが、鹿ケ谷かぼちゃパンやて。 葉菜 今が旬どすさかいに、パターとよう合いますねん。 店主 あーこれ、試し焼きで売りもん違うし、よかったら持っていき。 幸太郎 間違いない牛乳とあいます。 先輩 そやな。 -中略- ナレーション 京都人はパンの前ではアホになる。」 --『京都人の密かな愉しみ Blue 修行中』 (3)京都人の好きなもの編 より--

 京都の喫茶店は好きだ。この番組出ている京料理家の大原千鶴も言っているが、京都の喫茶店の食べ物が美味しい。サンドイッチ、カレーとかオムライス、ナポリタン。昔風のというか、今風に言えば、昭和の感じの喫茶店が一杯ある。コーヒーの消費も京都市が日本一だ。そして、ほぼ何処へ行っても、タバコが吸える喫茶店が多いのも嬉しい。今東京で、落ち着いてコーヒーが飲め、タバコが吸える喫茶店は少ない。ドトールやヴェローチェなどは安いが、落ち着いてコーヒーが飲める環境じゃない。どこの街でも、個人経営の良い喫茶店が昔はあったが、安いチェーン店に押されてなくなってしまった。だから、ルノアールとか星乃珈琲などに入らざると得なくなる。昔みたいに、ジャズ喫茶とかロック喫茶もないしな。

 「多くの中小企業は後継者不在という危機に瀕している。「愛知ドビー」は兄弟が協力し後を継ぐという理想型で再建された。だが、その道のりは、厳しい、ではなく、「ほぼ不可能に近い」だった。異業種出身の二人は、あきらめなかったのではない。あきらめることができなかったのだ。バーミキュラは、革命的な鋳物ホーロー鍋で、料理人が変わったのではないかと錯覚する。さらにレシピの種類が、鍋が持つ可能性にまだ追いついていない。兄弟は、社名を変えなかった。「愛知ドビー」創業以来の、技術力への誇りが刻まれている。」 --『カンブリア宮殿』 村上龍の編集後記。 社名、誇りの刻印 より--

 「レシピの種類が、鍋が持つ可能性にまだ追いついていない。」というのは、面白い。多分そうなんだろうと思う。バレンシアとカステジョンのフェリアの概要がネットに出たが、フリがバレンシアに出ないのはどうでもいいが、カステジョンのタイトルは、マンサナレスが2回出る。そういうタイトルを読みたいわけじゃない。ホセ・トマスの名前が出ていないのは気になる。これだと、出ないんだろうと思ってします。バレンシアは、シモン・カサスが持っているがこれにも一切出ていない。セビージャも、へレスも、マドリードも、グラナダも出ないのじゃないかと思ってしまう。そうだとすると、体の状態が悪いのかと思うが、でも、テンタデロをやっているようなんだけど・・・。


 2月4日(日) 晴 10443

 明日から寒気団が来て、日本海側は大雪になるようだ。来週も寒い。

 昨日の夜、あるビルの地下部分を歩いていたら、声を掛けられた。ビックリして振り返ると。浜さん夫婦がいた。あれどうして東京にいるのか?訊いたら、コンサートを観に東京へ来ていたのだという。何とホテルがすぐ近くで、夕食を取ろうとレストランを探している処だったという。これから俺は仕事。また、ビデオ会があったら来ますというので、やる時は誘いますといって別れた。不思議な事もあるもんだと思った。闘牛の会時代から、わざわざ三重からビデオを観に来てくれている人だ。時間があったら食事したかった。

 『平成細雪』を観た。ラストシーンの階段を四姉妹が下りてくる処は、東福寺。紅葉がバックだった。そして、その先を進む登り道は、二尊院。テレビ的に見栄えがする場所を使っている。確か父親が生きていた頃は、着ているものは着物だった。しかし、ラストは洋服だった。そして、京都は美しい。 


 2月5日(月) 晴 13943

 節分、立春と過ぎたのに、日本海側は大雪が降った。明日も降るという。そして、明日からまた強い寒波が居座るという。東京も寒いままだ。あったかい鍋などを食べたいが、野菜が高い。開会式まであと4日になった平昌オリンピック(冬季)。リハーサルがマイナス12度の中で行われ、観客は、あまりの寒さに最後まで観ていられないと帰る人がいたという。史上最も寒いオリンピックと言われているという。選手は、開会式に出ない方が、良い成績を残せるのかもしれない。


 2月6日(火) 晴 6846

 遅く起きたら、腰が入っていなかった。トイレに行ってもおかしい。それで、腰痛体操や運動をした。そうしたら、腰が入った。それから散歩を兼ねて買い物に出かけた。日本海側の雪が凄い。特に北陸の積雪が凄い。福井は1mを超え、新潟も1mを超える処がある。鉄道などの交通網は、新幹線の除き運休や欠航多く、道路も積雪で凄いようでコンビニなどには、品物が届かない状態になっている。学校の入試も延期になった。福井から新潟は明日明後日まで大雪が続くようだ。アメリカの長期金利高から発した、株価が一時1500ドル暴落して、東京市場も一時1600円以上暴落した。世界同時株安の兆候である。株安について訊かれ、そういう発言ししないといいながら、「日本の企業業績は好調だ」と大臣たちが発言している。また、アメリカの経済も堅調である。そして、円高ドルユーロ安になっている。

 世界が混乱すると、色々と面白いことが起きてくる。時代の混乱期。ドナルド・キーン著『足利義政と銀閣寺』を読み始めた。義政の時に、応仁の乱が始まる。その発端は、父親の義教の恐怖政治から義教が赤松満祐に暗殺される。その中で、細川と山名の対立が始まる。その他にも鎌倉公方との対立もあった。そして、足利幕府は、近畿などを治めていたが、関東には勢力が及んでいなかったという事情があったという。応仁の乱の時に、100m離れた処で戦いがあっても、気にせず自分の文化を追及して後世に残るような文化を残した。それが面白いと思う。銀閣寺は、月が中心にある文化の象徴のような処がある。それが知りたくて読み始めた。

 セビージャやニームのポスターデザインが発表された。


 2月7日(水) 晴 13480

 大分雪は溶けているが、福井の大雪での道路に立往生で1400台は解消の見通しが立っていないという。昨日夜中に台湾で起きた地震は、ビルの倒壊や傾きがあり、地震の凄さを感じる。死者4人200人が負傷と言われるが、行方不明が140人という情報もあるようだ。

 セビージャのカルテル情報が出た。オフィシャルではないが、やっぱりホセ・トマスは出場しない。フェレーラ、タラバンテが3回出場する。モランテがサン・ミゲルに2回出場する。サン・ミゲルを入れるとマンサナレスが4回出場する。


 2月8日(木) 晴 9930

 散歩に出ても風が冷たい。福井の立往生はまだ解消されていない。48時間以上になるという。パリも大雪で、モンマルトルの坂道ではスキーで滑っている人がいるという。世界的に気候がおかしいようだ。

 足利幕府の菩提寺、等持院。そこには、日本映画の父と言われるマキノ省三の銅像がある。それが何故ここにあるのかと等持院に行った時に思ったものだ。それが解った。NHK『ファミリーヒストリー 津川雅彦』が始まったので消そうと思っていたら、水戸天狗党の話が始まったので消せなくなって、見続けた。そうしたら、津川雅彦は芸能一家。母方のお爺さんがマキノ省三だった。そして、等持院に撮影所を作ったのだという。写真で観ると、今の内門の左側の墓地の辺りにあったようだ。撮影は寺でも行われ、狩野派の襖を破いた事があったという。日本映画草創期、京都で無声映画が作られ、今ある太秦映画村のような形に定着していったのだろう。戦後、ドナルド・キーンが京都に留学して等持院を訪ねていた頃は、もう撮影所はなく、観光客もいない静かな処だったようだ。

 明治元年、故郷の水戸藩から逃げて、東京へ嫁いでいた父方の婆さんが、天狗党を名乗る賊に襲われ財産全てを奪われて破産する。そして、明治四十四年に戸籍名を変える。それは、天狗党を恐れての事だという。こういう処に明治の時代が感じられた。徳川幕府の時代から、明治新政府、廃藩置県、廃刀令、日清日露戦争を経て40年以上経ってもまだ、その辺が混在している感じがあったようだ。水戸藩だけが内部で対立したわけではないが、幕末の水戸の内部対立は特に激しかった。

 セビージャのカルテルが決まった。サン・ミゲルの初日がノビジェーロでタラバンテの牛。これは、血統がヌニェス・デル・クビジョだと下山さんが言っていた。それに他の牛を掛け合わせているのだと思う。それを、独立するアルバロ・ヌニェスは、タラバンテの処から牛を買うのだという。他の血を入れて出来るだけインブリードにならないようにさせるのだろうと思う。

 こんなニュースがある。「レアル・マドリードのポルトガル代表FWクリスティアーノ・ロナウドは、ビジネスマンとしての一面も持つ。買収したマドリード市内の書店をホテルに改装する計画を立てているという。スペイン紙「マルカ」が報じている。 (中略) 今回ロナウドが購入したのは、マドリード市内の中心街グランビアに位置する「カサ・デル・リブロ」のビルで、建築家ホセ・ヨルナス・ラローサが設計したマドリード最古の書店だ。ロナウドはすでに買収でオーナーとサイン。総額8000万ユーロ(約108億円)をかけ、総部屋数500の9階建てのホテルに改装する計画を進めているという。」(フットボールゾーンウェブ)

 カサ・デ・リブロでは、闘牛関連の本を買った。知っている中では1番闘牛の本がある本屋だ。『闘牛年鑑』とかセサル・リンコンの本や闘牛の技の本など。今はネットで本を買う時代。やっぱり時代の波がこういう形で出てきているのだろう。残念な気がする。

香り立つ 春告草や 咲き誇れ  風吟
東風吹かば 春告草の 香り立つ  風吟


 2月9日(金) 晴 10047

 医者に行って薬を貰ってきた。1年経ったので再検査をした。途中新宿で喫茶店へ入った。ようやく入りたかった店の喫煙室が空いていたので入れた。昨日上がった株価が今日は落ちた。

 昨日、井山裕太七冠は、世界大会決勝で1-2で負け世界一の称号を取ることが出来なかった。また、関西将棋会館公式ツイッターに、14日のバレンタインデーに、棋士に直接チョコレートを渡すことを遠慮するよう、異例の通達を行った。藤井聡太五段絡みの混乱を避けるためのようだ。

 録画していた古い瀬戸内寂聴とドナルド・キーンの対談を観てたら、三島由紀夫の昭和43年「盾の会」結成の挨拶があった。「わたくしは形のあるものしか信じないのであります。わたくしは長年この、言葉の世界に生きてきました。言葉という物も形という物を通して理解するような文学観をもってまいしました。えー形のない処には、真実がないのであります。形のない処には思想すらないのであります。と、いう事を自分の考えの根本にしてまいりました。」

 昭和43年のノーベル賞。それは川端康成と三島由紀夫が争っていた。受賞者は川端。それに円地文子と寂聴が1番初めに駆けつけ、その後に三島が何人目かにワインを持って緊張してきて、「この度はおめでとうございます。」といったという。そうしたら川端先生がニッコリしてありがとうと言ったという。寂聴は二人が争っているのは知らなかったという。

 ドナルド・キーンは、その時、三島由紀夫が受賞すべきだと思っていたという。しかし、現在となってそれから40年間60年間経って、私は川端先生が最初のノーベル文学賞を受賞すべきだったと思います。と、言っている。番組では二人の間のすれ違いが生じたという。つまり、暗にノーベル賞受賞できなかった三島が盾の会のような政治結社にのめり込んで行って割腹自殺したのではないかと、言いたげだった。45年三島が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自殺した、2年後川端もガス自殺する。

 後年、寂聴が何かの文学賞を受賞した時、ポルトガルへ行っていて、それを報告するために大使館へ連絡して、伝えるように言い、それを伝えたのが三島の弟だった。それから、三島の妻と弟と家で会った時に、ずっと三島由紀夫の話をして、翌日もまた呼ばれて話をしてずっとその話をしていて、ノーベル文学賞は、川端さんではなく兄が受賞するべきだったと話していたという。そして、あれがもし、三島さんが貰っていたなら死ななかっただろうと言っていたという。寂聴はビックリしたという。

 ドナルド・キーンは、大岡昇平先生は非常に怖いことを言いました。ノーベル賞が二人を殺した、と言いました。そして、そういう発言に深い意味があるとわたくしは思っています。と言っていた。三島さんが受賞していたならば、自決しなかったと、わたくしは思います。寂聴もそれに同意していた。キーンは、もし川端受賞しなかったなら、もう一つ傑作を書いていたと思うと言い、受賞して色々やったが、もう何も書けなくなって自殺したと言っていた。

 確かキーンは、ノーベル文学賞の選考委員会から、日本文学で誰が良いかという問い合わせを受けていて、谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成の順で答えたはずだ。谷崎が死に、残った二人の争いになった。もし谷崎が生きていたら・・・。

 俺は三島が嫌いだが、それでも時々、すーと入ってくる言葉がある。「わたくしは形のあるものしか信じないのであります。わたくしは長年この、言葉の世界に生きてきました。言葉という物も形という物を通して理解するような文学観をもってまいしました。えー形のない処には、真実がないのであります。」という言葉は素直に入ってくる言葉だ。これは闘牛も形のある世界で、アントニオ・コルバチョもそういう世界に生きていたはずだ。ホセ・トマスも。その世界を長い間観てきたので、この言葉がすーと入ってくるのかもしれないと思う。

 キーンと寂聴が初めて会ったのは、福井の武生で、そこは『源氏物語』を書いた紫式部が国守となった父と移り住んだ所。誰かが源氏物語で1番好きな女性は誰ですかと訊いたその時、六条御息所(生霊となってヒロインたちを苦しめる強烈な登場人物)が好きです。と、言うとみんなえーと言いました。その時、寂聴さんだけが賛成しました。寂聴は、だってあの人がいなかったら源氏物語が半分面白くないと言っていた。


 2月10日(土) 晴/曇 9798

 日本ではインフルエンザが流行している。一説によると3種類同時に流行しているのではないかという報告があるようだ。

 昨日の21時42分平昌オリンピックの開会が宣言された。25日まで約2週間冬季オリンピック競技が争われる。宣言後に歌われた『イマジン』が良かった。鳩のイメージも平和を象徴した。聖火最終点火者は、キム・ヨナだった。

 ドナルド・キーンと瀬戸内寂聴の対談の番組名は『不易流行』。普遍的なものと、流行のものが混ざり合う様を言っているのだろう。松尾芭蕉の紀行文を読んで、日本文学を突き詰めようと覚悟したキーン。だからおそらく芭蕉の『去来抄』の中にある「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」から取っているのだと思う。

 夢窓疎石が荒れていた西芳寺を禅寺に変えて再興し、白砂を敷き詰めて、二層式の瑠璃殿(舎利殿)を立てた。それを観た3代将軍義満が鹿苑寺金閣を北山に創建した。そして、8代将軍義政が西芳寺に通い、瑠璃殿の様な建物を東山に創建した。これが銀閣寺になる。西芳寺は応仁の乱で焼けた。その後、荒廃し白砂は消え、江戸時代庭は苔で覆われ今に至っているようだ。


 2月11日(日) 雨/曇 7664

 夜から降っていた雨は、朝方上がった。今日は暖かい。

 藤原定家は、『明月記』に、「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」(世間の乱逆追討の騒ぎが耳にうるさいが、意に介さない。紅旗と征戎は自分には関係がないことだ)と言った。

 「義政の戦争に対する思いは、次の和歌に見られる・・・
 ハカナクモ ナオ収マレト 思フカナ カク乱タル 世ヲバイトハデ
 (果敢ないように見えるけれども、平和は回復されると信じている。このように乱れてはいても、この世を厭わしいとは思わない。)」 --『足利義政と銀閣寺』ドナルド・キーン より--

 歌を生業にする貴族の定家が、世が乱れていることは、自分に関係がないというのは、判るが、将軍である義政が、世が乱れていても嫌だとは思わない。と、いうのは何か無責任な気がする。平和になるように何も策を打たなかったのだから。義政は、世情には一切関心を持たず、文化や女にしか興味がなかったのかもしれない。不思議だ。彼は、莫大な金がかかる「花の御所」の建設などを、重税を課して行った。それを考えると、後水尾天皇が、修学院離宮を造園した時、徳川家から嫁いだ和子の関係から、幕府に金を出してもらった。こっちの方が粋かもしれないと思う。というか、害がない。


 2月12日(月) 晴 16785

 昨日京都競馬場で、小雪がちらついていた思ったら、今日の小倉競馬場は降雪の為に中止になった。競馬の場合は中止という言葉使う。順延というのが正しいと思うのだがそうはいわない。代替競馬は、明日行われる。つまり、今回は4日連続の競馬になる。こんなことはめったにない稀のケース。

 「応仁の乱後、将軍職を息子の善尚(よしひさ)に譲った足利義政は、晩年銀閣寺造営に心血を注いだ。この庭も金閣寺庭園と同様、夢窓疎石が造営した西芳寺を手本にしている。夢想に心酔していた義政は、記録に記されているだけでも、二十数回西芳寺を訪れ、全体の構成、池の形、石の組み方、建築の名称などを詳細に調べ上げた。西芳寺の下に池泉庭、上に枯山水という二段構成は、銀閣寺でも踏襲されている。
 また現在の国宝の東求堂(とうぐどう)と銀閣は、それぞれ西芳寺の西来堂と瑠璃殿(るりでん)を参考にして建立された。しかし義政造営の庭は、戦国時代にかなり石が持ち出され、池の形も変化している。銀閣寺を代表する白砂の造景、銀沙灘(ぎんしゃだん)や向月台は義政以降のもの。」 --『楽学ブックス よくわかる日本庭園の見方』 銀閣寺庭園より--

 義政は東求堂に住み、茶をたてていたという。まだ、銀閣は出来る前に死んだ。彼の指示が、そのまま銀閣に反映されたのか分からない。自分楽しみの為に造営した。決して後世に残そうと思っていたわけではない。木と紙で出来た建物は、応仁の乱の中に生きた人間にすれば、直ぐに燃えてなくなると思っていたはずだ。しかし、それは残った。500年経った今も京都東山に静かに佇んでいる。


 2月13日(火) 晴 5564

 平昌オリンピックで、スピードスケート1500mで高木美帆が0.2秒差で惜しくも銀メダル。今季4連勝で挑んだが、「金メダルを取ったオランダの大エース、イレイン・ブスト(31)には「勝てるわけがない」と思っていたが、レース後は「全然(実力の)違う人という意識はない」と言い切った。 10日の3000メートルは5位。そして、今季出場したW杯で4戦全勝の得意種目で、狙っていた色ではなかったが、まず1つ目のメダルを手にした。14日の1000メートルも表彰台の候補で、19日からの団体追い抜きは金メダルが有力視される。」(サンスポ)15歳でバンクーバー五輪に出場した“スーパー中学生”が、ソチ五輪落選を経て掴んだ銀メダルだった。「 「メダルを取れる位置に数年前まではいなかった。自分に誇りを持って残りのレースに挑みたい」。一皮むけた早熟スケーターの本領発揮は、この先にある。」(サンスポ)

「31歳のブストが力強い滑りを見せ、今季好調だった高木美を0秒20差で抑えた。4度目の五輪でも健在ぶりを示し「信じられない。(2006年の)トリノでの最初の五輪金メダルから12年。五つ目の金メダルで(区切りの)10個目のメダルになった」と声を弾ませた。 最終組の高木美のレースを見ず、下を向いて結果を待つと吉報が届いた。19歳で臨んだトリノ五輪でオランダの冬季競技史上最年少の金メダリストとなった中長距離の第一人者。「大きなレースの方がエキサイトする。特に怖いという気持ちはなく(大舞台を)愛している」とメンタルの強さをのぞかせた。(共同)」

 そして、女子スキージャンプの高梨沙羅は、銅メダル。前回ソチで金メダル最有力候補だったが4位に終わる。17歳の高校生にはあまりにも重い重圧だったようで、協会の幹部は、「かわいそうのことをした」と語ったという。今季W杯では、1勝もできず、好調のルンビが金メダル。銅メダルもW杯の結果と同じになった。高梨と親交のある日本ハム栗山監督「おめでとうございます。女子ジャンプを引っ張って変えてきてくれた。前回の五輪のことが俺の中にはあって、本当は金メダルを取らせてあげたかったけど、そこに大きな意味がある」(サンスポ)ジャンプの後、伊藤が駆け寄って祝福していた。ソチの悔しさを目の前で観ていたので、メダルが取れたことを喜んだ。高梨は、「ソチ五輪の時の悔しさははね返せた。また新しい目標ができたので、(2022年の)北京五輪で、今度こそ金メダルを取るために、足りないところを成長させたい」(サンスポ)

 一休宗純、地獄太夫。能阿弥、相阿弥、狩野正信、雪舟、村田珠光。蓮如。龍安寺。何かといえば、義政と同時代を生きた人や出来た寺だ。これは面白いよなぁと思う。一人一人が物語の主人公になれる人物ばかりだ。山田風太郎は、室町物という作品群を晩年書いた。忍法帖シリーズの頃も一休と地獄太夫の物語、『地獄太夫』を書いている。明治物の後にもっと室町物を書いて欲しかった。

「村田珠光の有名な言葉として、「月も雲間のなきは嫌にて候」という言葉があります。これは、歌人兼好の著書『徒然草』の「花はさかりに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは」という、不完全・不足をかえってよしとする不完全美や、心の眼で見る美しさをたたえる思想を背景にしたものです。茶の湯の成立には、このような美意識の成立が背景にありました。その美意識は、和歌世界の伝統や、鎌倉・室町時代に流行した連歌の世界によって生み出されたものでした。
千利休の師の武野紹鴎も、わび茶の目標として、「連歌は枯れかじけて寒かれと云ふ。茶の湯の果てもその如く成りたき」という言葉を残したと伝えられています。珠光も紹鴎も、ともに和歌・連歌に親しみ、その美の境地を茶の湯にとり入れ、わび茶を創造したのでした。特に、連歌の世界では、「冷えさびる・枯れる」という言葉でその境地を説明しましたが、これは、歌人正徹の弟子であった心敬の連歌論によるもので、その美意識は、その弟子宗祇に伝えられ、紹鴎の師である三条西実隆に受け継がれます。」 --表千家不審庵文庫HPより--

 セビージャのオフィシャルのカルテルがラモン・バレンシアから発表になった。


 2月14日(水) 晴 7077

 スノーボード男子ハーフパイプは、平野歩夢が銀。金は王者アメリカのショーン・ホワイトだった。銅はスコッティ・ジェームス。3強のメダル独占だった。平野は、1本目と3本目に転倒していなければ、結果は違っていただろうと思う。2本目戸塚優斗が、パイプの角に落下して担架で運ばれた。3回目は棄権した。怪我が心配だ。

 NHKでやっていた『サラメシ』は、オリンピック・パラリンピックの監督の食事を訪ねるモノだった。その中で、パラノルディックスキーの監督が食べた、札幌狸小路にある喜来登のネギが山盛りの味噌ラーメン。ちぢれ麺の黄色と味噌のスープ。そして10cm以上あるネギの山盛り。食いてぇーと思った。考えてみたらオリンピックで1番選手を出しているのは北海道じゃなかいと思った。だって、冬季オリンピックは、半分くらいは北海道じゃない、きっと。

 「  「三春丸さま、私はいままで三春丸さまのお守りでした。これからもお守りをいたします。毎夜、毎夜、こんな風に」

と、お今はいって、三春丸の手をとって自分の胸にさしあてた。

それから、羽二重の肌小袖をそっとかきひらいて、一方の乳房を出して、おかしいほどふるえている少年の手を、はげしく起伏している真っ白な乳房へまたおしあてた」 --山田風太郎『室町少年倶楽部』--

この少年将軍義政とお今の初夜は、私が読んだあらゆる官能描写の中でもベストに数えられるほどの出来栄えで、山田風太郎はこれが書きたくてこの作品をものしたのではないかと思わせるほど迫真力を持っている。それは、ある意味で最も理想的な少年の性のイニシエーションである。

したがって、ことがこのまま順当に運んだなら、少年将軍の成熟も容易に達成されたかもしれないが、ここでいかにも山田風太郎らしいアクシデントが起きる。義政がお今にのめり込みすぎて、宮廷政治の勢力バランスが崩れたのだ。その結果、悲劇が起こり、お今は闇に消える。この時点で、義政は、ある決意を固める。

「えい、好きなようにやれ、わしも好きなようにやる。お前らと同じく、人間ではない人間としてな」 --山田風太郎『室町少年倶楽部』--

では、義政にとって「人間ではない人間」とはなんなのか?それは、俗世の論理を超越した美的人間となって、永遠の人工楽園を建設することである。義政は、ヨーロッパ十九世紀末のデカダン人間、たとえばユイスマンスの『さかしま』の主人公デ・ゼッサントやババリアの築城王ルートヴィッヒニ世の元祖なのだ。

「上様、それはしかし、それでは天下が滅びまする!」

「天下は滅ばば滅びよ、世は破れば破れよ。あははははは!」

義政は笑った。

「お前のいう天下とは、私欲背信、魑魅魍魎の世界じゃ。百姓町人とて、自由狼籍、下克上の餓狼のむれじゃ。そんなやつらがいかに騒こうと、ひしめこうと、泣こうと、わめこうと、もともとが無意味な渦なのだから、やがて泡のごとくあとかたもなく消え失せる。わしの作った美の世界は、いつまでも地上に残る。みんな、やりたいことをやらせろ」 --山田風太郎『室町少年倶楽部』--

この義政の言葉は、『戦中派不戦日記』『戦中派虫けら日記』の読者には、当然のように、山田風太郎自身の言葉として聞こえる。「大人倶楽部」への入会を拒んだ山田少年にとっては、義政に応仁の乱などどうでもいいことと映ったように、戦争も敗戦も「もともとが無意味な渦」にすぎなかったのである。というよりも、そう思い込むことに決めたのである。これが第二の決意である。「みんな、やりたいことをやらせろ」逆にいえば「やりたくないことはやらない」である。

ところで、この義政の言葉は、政治という「無意味な渦」がうたかたのごとくに消えたあとも、ついに東山銀閣寺という「美の世界」は残ったという意味では、「物語の中の予言」であるが、それは同時に「物語の外の予言」でもあるのだ。なぜなら、おそらく、二十一世紀になって、歴史の「なぞり」しかできなかったあまたの歴史小説が「泡のごとくに消え去った」あと、山田風太郎の用意したマニエリスムの「美の世界」は「いつまでも地上に残る」はずだからである。

二十世紀もどん詰まりの世紀末、いまや、山田風太郎の用意した別解が、正統的な歴史を一挙に無化してしまうような妖しい輝きを放ちはじめたようである。」 --山田風太郎『室町少年倶楽部』の書評 鹿島茂 より--

 おそらく戦争を経験した人は、どこかで何かの感情なり感覚が、敏感な反応を示すのだろう。時に残酷になったり、冷徹になったり、愛に満ちたり、極端な反応になることがある。列外の人、風太郎は冷徹に義政を見つめている。戦争体験が、風太郎に応仁の乱の時代の物語をこういう風に書かせたのだろう。


 2月15日(木) 晴 6379

 天気が良く、洗濯日和。

「平昌五輪のスピードスケート女子1000メートルが14日行われ、日本選手団の主将で今季世界記録を樹立した小平奈緒(相沢病院)が1分13秒82で銀、1500メートル銀メダリストの高木美帆(日体大助手)が1分13秒98で銅を獲得した。 優勝は五輪レコードの1分13秒56を記録したヨリン・テルモルス(オランダ)だった。

小平奈緒の話
 今日は順位やメダルよりも氷としっかり対話して、とにかく自分の好きなように氷を味わおうと思って滑った。600メートルまでのラップはかなりいい形で来れたので、最後は落ちてしまったが、あきらめずにゴールラインの先まで実力を出し切れたと思う。(高木と2人で表彰台?)もう一段高いところに2人で並べたら最高だった。残すはお互い1種目なのでそれぞれの舞台で実力を出し切れたらいい。

高木美帆の話
 テルモルスのタイムは見ていなかったので。一番になったんだなというのは把握して、でも、それ以上は自分との戦いだと思っていたので、本当に自分の滑りだけに集中して滑った。1500のダメージが思った以上にあって、直前まで自分もどうなるんだろうと思っていたが、自分の体がよくここまで闘ってくれたなと思う。」(毎日新聞)

 「懸命に腕を振り、小平は駆け抜けるようにゴールを通過した。金メダルのテルモルス(オランダ)との差は0秒26。天を見上げ、ゆっくり目を閉じた。持てる力は出し切った。負けを認めるまで時間はかからなかった。「ゴールの先まで諦めずに滑り切れた。実力が足りなかった。後悔はない」。日の丸を肩にかけ、笑顔でリンクを回った。

 ソチ五輪後、2年間を過ごしたオランダの地が、小平を変えた。指導を受けた長野五輪2冠のマリアンヌ・ティメルさんに指摘されたのは、レースに対する気持ちの弱さだった。謙虚な日本人では通用しない。「あごを上げろ」「相手を殺すつもりでいけ」。練習仲間だった世界女王ブストの動きに目をこらし、視線、癖、練習方法と金メダリストのすべてを吸収した。」(日刊スポーツ)

 高木美帆は、日本代表コーチに就任したオランダ人ヨハン・デビットコーチから多くを学んだ。特にパシュートの戦略や練習メニューはヨハンが作った。もっと速いタイムが出せる。パシュートの1分55秒台の世界記録を上回れると作戦をたて、エースの高木に負担がかかる。それでも、オリンピック前の大会で3回世界記録を出した。1分50秒台の世界記録は、計算通り。スピードスケート王国オランダ留学した小平奈緒。彼女は多くをオランダから学んだが、食事が合わなかった。日本に帰ってきて記録を伸ばし、500mでは国内外の大会で24連勝中。ヨハンから学んだ高木美帆。そしてナショナルチームスタッフとして支えた日本人たち。女子スピードスケートの先駆者は橋本聖子。日本って、卓球の福原愛とか、そういう先駆者がその後の選手の見本になっているものが多いのかもしれない。過去にオランダ留学した選手はたくさんいたが、その後、記録を伸ばした選手はいなかった。長身の選手のオランダ流と日本選手の体格は違う。それでも、今回こういう結果が出ているのは、何かのヒントになるだろう。小平の500m。高木たちのチームパシュート。金メダルが彼女たちの目標。

 平野歩夢は、銀メダル獲得後のインタビューで、どうでした?と訊かれ、「楽しかった。今までイチ(一番)の大会だったんじゃないかな」と言っていた。ある意味、こういう女性的な感覚というのは、根本的な処を掴んでいるのだと思う。


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