断腸亭日常日記 2012年

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行の滞在日記です。

99年4月15日〜5月11日 5月12日〜6月4日 6月7日〜6月10日 2000年4月20日〜4月29日 5月1日〜5月14日
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 2012年1月2日(月) 晴/曇 29006/2

 年が明けて食べたのが、マルちゃんの焼きそば。今日の朝食べたのが、イカ焼きそば大盛り。どちらも塩分が4.6g以上ある凄い奴。それでも、食べたかったのだ。そういう日もある。朝小雨が降ったので今日は天気が悪いのかと思いきや、そんなことはなかった。塩分を充分補給したので、スパへ行って汗を流した。大晦日に銭湯へ行ったが、髪を洗ったら頭皮の部分が白くなってまるでふけのようなモノが着いている。髪を撫でると雪のように落ちてくる。皮膚病かなと思ったが、スパに行って髪を洗ったらすっかり治っていた。もう大丈夫だろう。

 「宮沢賢治は明治二十九年(一八九六年)、明治三陸地震・大津波があった年に生まれ、昭和八年(一九三三年)、昭和三陸地震・大津波の年に亡くなりました。また、生きていた頃には関東大震災もありました。『銀河鉄道の夜』の原稿の裏には、東京の友人への大震災の見舞い文の草稿も残っていますし、晩年に三陸津波で壊滅的な被害を受けた沿岸地域の現状を自分の目で見て、その悲惨な現状を目の当たりにしたときの心情をはがきに綴ったものも残っています。」 ーーNHKテレビテキスト 100分de名著 銀河鉄道の夜 ロジャー・パルバースよりーー

 賢治は自分の作品に三陸地震・大津波の事を書いていない。何故か?ロジャー・パルバースの説では、統計的な災難には興味がなかったと言っている。つまり規模が大きすぎるから「分からない」のだと。賢治は1人1人に向かい合って幸福を考えていた。

「青ざめてこはばったたくさんの顔に
一人づつぶつかって
火のついたやうにはげまして行け」 ーー宮沢賢治の詩集『春と修羅』より 『もうはたらくな』からーー

ボランティアで農民たちに肥料設計の指導しても天候不順で不作となるとこうやって自分自身に命令している様な詩を書いている。目の前で苦しんでいる農民の生活を何とかしようといつも考えているのが日蓮宗の信者である賢治である。

「東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ」

ただ口先だけで相手の幸せを祈るのではなく、自分自身の体を使って相手のためになにかする。そうしないと相手は幸福にならないし、相手が幸福にならないと自分も幸福になれない。賢治はそう考えました。「行ッテ」という言葉は、彼の生涯を見事に象徴する大切な言葉だと僕は思っています。」 ーーNHKテレビテキスト 100分de名著 銀河鉄道の夜 ロジャー・パルバースよりーー

 山田風太郎『人間臨終図巻』の宮沢賢治の処には、「昭和八年九月十七日から三日間鳥谷ヶ崎神社の祭礼で、賢治は家の前の椅子に腰掛け各町の山車の往来を見物し、やや元気をとり戻したかに見えた。しかし九月二十日の朝、農夫が訪ねてきて肥料の事をについて相談した。そのあと賢治は急に呼吸が苦しくなり、医者が呼ばれて急性肺炎との診断を受けた。
 その夕方、また百姓がやって来た。家人は面会をことわったが、「ちょっとでええがら」と、ねばって帰らないので、やさしい性質の賢治は「ンだしか」と、病床から出て、着物に着がえて会った。
 一時間ほど話していると、急に賢治の声がかすれ、唇が紫色になって来たので、家人がやっとその男を追い返した。賢治にとって死に神になったこの無神経な百姓の名はいまだに知られていない。おそらく純朴な人々の思いやりから不明ということにされたのだろう。
 その男が帰ると、賢治は苦しそうに病床に戻り、
「今夜は電灯が暗いなあ」
と、いった。
 九月二十一日ひる近く、母からもらった土瓶の水をうまそうにのみ、オキシフルにひたした消毒綿で全身をふいてもらい、眠るように目を閉じたが、やがて母が部屋を出ようとして、もういちどのぞきこむと、呼吸がおかしくなっているのに気づいた。しかし意識ははっきりしていて、国訳法華経の印刷や頒布のことについて遺言した(彼は法華経の信者であった。)。まもなく午後一時三十分、その呼吸がとまった。」 ーー山田風太郎『人間臨終図巻』 宮沢賢治より抜粋ーー

「 誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。

 カンパネラの場合、人の命を救うために自分の命を捨てるという、そういった自己犠牲が彼の「ほんとうにいいこと」として描かれてました。 (中略) すべての人になにかできることがあるはずです。そのためには、世界を自分なりにとらえることが必要です。そこから、自分にできることはなにかと問い、実際の行動に移していく。これこそが、自分の信念と使命にその短い生涯を燃やした宮沢賢治が二十一世紀の今を生きるすべての人に送るメッセージなのではないかと思っています。」 ーーNHKテレビテキスト 100分de名著 銀河鉄道の夜 ロジャー・パルバースよりーー

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……
われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である

理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである

(宮沢賢治『農民芸術概論網要』より) 

 宮沢賢治の言葉を刻んだ正月だった。


 1月3日(火) 曇 6704

 今でもそうするのかは知らないが、昔は死んだ人の全身をオキシフルで拭いてから、棺に入れたという。宮沢賢治は死を意識してオキシフルで全身を拭かせたのだろう。そういうことを小学校か中学校の授業で習った。それは賢治の地元の岩手県では当たり前のこととして教えていたのだと思う。これは凄いことだと思った。それはちょっと人間の死のイメージを変えたモノだった。でも、「雨にも負けず」の詩の最後に、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と書いたが、僕はそういうふうには思わなかった。と、いうかそういう風にはなれないと思ったモノだ。

 しかし、いまはそういうモノになれたらいいなあと思う気持ちもある。日蓮は、空海が伝えた仏教の経典3つ内法華経だけが正しいと主張して教えを説いた。「雨にも負けず」の最後には、「南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩」と書かれてある。これはおそらく、法華経に出ている言葉なのだろう。


 1月4日(水) 曇/晴 7943

 オウム真理教の平田信が、大晦日に丸の内署に出頭し逮捕された。逮捕後、接見した滝本弁護士に、「自分は罪深い人間だ。だけども(東日本大震災で)罪のない人が犠牲になった。それなのに自分が生きている」と吐露したといい、震災がきっかけで自首した模様だ。それは、まっとうな感覚だと思う。

「オウム真理教元幹部平田信容疑者(46)が、松本智津夫死刑囚(56)=教祖名麻原彰晃=について「法廷での情けない姿を知り、教団への気持ちが完全に離れていった」と話していることが4日、分かった。接見した滝本太郎弁護士が明らかにした。

 捜査関係者などへの取材で、平田容疑者が仮谷さんの事件について「(元幹部の)井上嘉浩死刑囚(42)の指示で車を運転した」と説明していることも判明。連れ去る計画までは知らされていなかったという。薬物を投与された仮谷さんが死亡したことは「後で聞かされた」としている。

 滝本弁護士によると、平田容疑者は「仮谷さんを連れ去る際に『何だ、これは』とびっくりして、とても教団についていけないという気持ちが芽生えた」とも説明。

 親しかった男性信者が教団幹部に殺害されたことを逃亡後に知り、大きなショックを受け、逃亡生活を始めてからすぐに教団関連の本を捨て、松本死刑囚と写った写真も5年前に捨てたという。

 平田容疑者は出頭した理由に関与が取り沙汰された警察庁長官銃撃事件が時効になったことを挙げているが、時効成立後も約1年9カ月、逃亡を続けた。警視庁は本当に信仰を捨てたのか慎重に見極めるとともに出頭を決意した経緯を調べる。

 平田容疑者は弁護士に「出頭前、公衆電話から名乗らずに110番した」と話しているが、警視庁が確認したところ、12月31日午後9時48分に平田容疑者とみられる男からの110番があった。

 警視庁によると、やりとりは24秒。男は「平田信は大崎署の手配ですか」と尋ね、対応した警察官が「警視庁の手配です」と答えると「そうですか。分かりました」と電話を切ったという。」 ーーサンスポよりーー

 その後の警視庁警察署の対応はお粗末だが、自首すると決めた決意は固く、逮捕された。まともな人間が、オウム真理教に出家して犯罪を犯していく事が現代社会の病理だ。こういう事を解明するために、滝本弁護士や、江川紹子さんなどが活動しているのだと思う。

 ユーロは、東京でも、100円を切った。


 1月5日(木) 曇 8397

 宮沢賢治の年表を観ると面白い。生まれたのが明治三陸地震時で、死んだのが昭和三陸地震の時というのが前に書いたが、生きている間に、凶作が7回あり、日露戦争があり、世界恐慌があり、伊藤博文暗殺があり、アムンゼン南極到達があり、石川啄木没があり、花巻の電灯がつき電話が開通した。第1次世界大戦が開戦され、岩手軽便鉄道開通し、アインシュタインが一般相対性理論発表し、ロシア革命があり、世界大戦終結し、第1回国政調査(人口5596万余)があり、原敬暗殺があり、芥川龍之介自殺があり、一般選挙があり、関東座震災があり、ラジオ放送があり、世界大恐慌があり、満州事変、上海事変、ニューディール政策があり、日本の国連脱退。

   これからの本統の勉強はねえ

   テニスをしながら商売の先生から

   義理で教はることでないんだ

   きみのやうにさ

   吹雪やわづかの仕事のひまで

   泣きながら

   からだに刻んで行く勉強が

   まもなくぐんぐん強い芽を噴いて

   どこまでのびるかわからない

   それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ     ーー 春と修羅 第三集 あすこの田はねえ 宮沢賢治よりーー


 1月6日(金) 雪/曇 14190 盛岡にて

 東京から新幹線に乗って盛岡へ帰省。新幹線を降りて、エスカレーターを降りると笑顔の女性がお菓子を配っていた。遠野のお菓子だった。遠野観光協会が盛岡まで来てPRをしているようだ。盛岡駅周辺を歩いていたら雪が降ってきた。電車の時間はまだある。街は雪のせいばかりじゃなく寒い感じだ。不況が商店のシャッターを降ろさせているようだ。

 駅の立ち食いそばを食べる。客は男ばかりだった。おみやげを売っているコーナーも心なしか人が少ない気がする。三が日過ぎの平日だからかも知れないが・・・。時間が来たのでホームへ駆け下りると、扉が閉まっていてビックリ。乗れないのかと思ったら、マドリードの地下鉄のようにボタンを押して扉を開けなければならなかった。こういう風になっているのは、寒さから乗客を守るためだろう。そのことを忘れていた。

 家に帰ったら、年老いて言葉が聞き取りにくくなった父親と弟が出てきた。元気そうではあるが・・・。それから郵便局へ行き、介護で行っている母親の帰りを待った。戻ってきて、夕食へ出掛けた。母親は1人では食事が出来ず、動く左手でさえお椀を持つと、プルプル震える。親のこういう姿を観る現実は、何とも言えないモノだ。家に帰ってきておじさんに電話。明日帰るというと、午前中来るという。


 1月9日(月) 曇 36555/3 東京にて

 土曜日盛岡から東京に戻ってきて、新宿で新年会。そしてカラオケ。終電で帰宅。日曜日は寝坊して、今日がスーパーに行ったら15日に閉店するというので、カードを返却して買い物。閉店理由がこの不況で営業を続けるのが困難になったという。長い間使ってきたスーパーで、コンビニよりも近い場所にある。そういう店が閉店というのは寂しいモノだ。考えさせられる。

 うちの会社もこの不況下で、おかしな事を言い始めている。もしそういうことを実行するのであれば、大変な事になるだろう。そうなれば会社を辞めなければならないだろうと思う状況になってきた。ちょっと早めに2月から有給を消化して行こうと思う。先行き不透明。景気は良くなる気配がない。こういう状況が何年も続いていくのだろうと思う。暗い年の始まりを感じている。

 盛岡に帰ったときいとこが、去年仕事を辞めて福島にボランティアに行っているという。親たちは心配している。でも、本人がやりたいことをやりたいときにやるのが1番良いと思う。


 1月10日(火) 曇 11172

 「われわれは夢と同じもので作られている」と、シェークスピアはいった。夢や希望がなくなれば、人生に意味を見いだせなくなるかも知れない。大きな夢、小さな夢、大きな希望、小さな希望を胸に抱いてそれぞれが暮らしている。こういう社会状況の中では、小さな事を積み重ねて行くしかないのだろう。


 1月11日(水) 曇 16100

 今年になって身の回りのニュースは、暗いモノばかりだ。この不況は、ボディー・ブローのように徐々にダメージを与え始めてきた。FIFAの年間最優秀選手などを発表する表彰式が行われ、男子は、メッシ、女子は、沢穂希が選出された。監督部門は、男子が、グアルディオラ、女子は、佐々木則夫が受賞。日本に、フェアプレー賞が贈られた。

「  なでしこ佐々木監督「バルサの監督に『われわれ以上だ』と」 FIFAバロンドール2011受賞記者会見

登壇者: 小倉純二 日本サッカー協会会長 佐々木則夫 日本女子代表監督 澤穂希 日本女子代表主将

■佐々木「30年の歴史の積み重ねの結果」

小倉 おととい(9日)の表彰式で佐々木監督が最優秀(女子)監督、そして澤さんが最優秀(女子)選手に選ばれて、そして(日本サッカー)協会がフェアプレー賞をいただきました。バロンドールは8つのアワードがあるんですが、そのうち3つを日本がいただけたというのは、大変うれしい名誉なことだと思います。
 佐々木監督と澤さん、監督と選手の受賞というのは、本当に2人にはおめでとうと申し上げたいです。日本はおろかアジアで一度ももらったことのない賞でして、表彰式にアジアの人たちもたくさん来ていたんですけど、皆さん「アジアの名誉だ」と大変喜んで下さいました。それも大変うれしいことだし、アジアも南米やヨーロッパの仲間入りができたひとつの証拠だと言うことができると思います。

 フェアプレー賞については、皆さんにご案内したとおり、日本は一度もらっています。2002年のワールドカップ(W杯)の時に「コミュニティー・オブ・ジャパン&コリア」ということで、02年W杯をファンの人たち、そしていろんな方々がお客さんを温かく迎えて、笑顔のW杯ということに貢献してくれたということで、いただいたことがあります。
 今回は、ひとつは事実として(決勝が)7月10日のU−17W杯のメキシコ大会でフェアプレー(賞)を取り、7月17日になでしこが優勝した時もFIFA(国際サッカー連盟)のフェアプレーを取り、8日間で2日のフェアプレーを取ったことはFIFAの歴史にもないということで「基本的なフェアプレー賞は日本だ」ということをおっしゃっていただいたんですが、大震災がありながら日本の皆さんが頑張っている姿、それに加えて女子のチーム、それからいろいろな年齢別の大会で日本は頑張った、それから年末のクラブW杯を成功させたという努力について表彰したいということで、協会がいただきました。これも大変に名誉なことだと思っています。

 お2人の話をしてもらった方がいいと思いますが、ひとつだけ冗談を。授賞式の前の日にみんなでご飯を食べて、いつものように験を担ごうとなったんですが(チューリヒは)トンカツがあるような街ではありませんので(笑)、監督とわたしは仕方なくシュニッツェル(ドイツの肉料理)を食べたんです。あまりに大きすぎて困ったんですが、澤さんはサーモンステーキを軽く食べていたことをご報告申し上げておきます(笑)。

佐々木 わたしの賞はなでしこジャパン(女子日本代表)の選手、そしてスタッフ、関係者一丸となって評価をいただいた賞だと思っています。女子のサッカーを支えていただいた人たち、30年の歴史の積み重ねの結果だと思っています。優勝とともに総合的な評価を得て、われわれスタッフの賞となったと思います。まだまだ女子サッカーはこれからですので、ぜひ皆さんにご支援いただて、こういったものを糧にまい進していきたいです。

 このような名誉ある賞をいただけたのも、佐々木監督のもと、大切な信頼できる仲間がいたからだと思っています。実際、授賞式に行って、隣にメッシ選手がいて、自分の名前が呼ばれた時には頭が真っ白で、何が何だか分からなかったんですけど、やっと少し実感が湧いてきました。この賞に恥じることのないように、これを糧に精進できるように頑張りたいと思います。

小倉 ここに置いてあるのが監督の賞と澤さんの賞とフェアプレー賞です。今回、FIFAも被災地が早く復活するようにということを期待して下さっていまして、今、日本とブラジルと米国の試合が4月の頭に計画されています。澤さんの(トロフィー)はとても重いんですけど、これを被災地の皆さんにご披露して、勇気づけることができればいいかなと思っています。ぜひこれを被災地の皆さんにお見せできるようにしたいと思います。

佐々木 見かけはわたしの(トロフィーの)方が重そうですが、澤のはめっちゃ重い。筋肉痛になりそうなくらいです(笑)。

■澤「監督と一緒にサッカーをやっていてすごく楽しい」

――澤選手、今年の五輪イヤーの滑り出しとして、今回の受賞はどうだったか?

 自分の個人的な賞ですが、この賞はアジアでは初だし、日本女子サッカーにとっても非常に意味のあることだと思っています。今年は五輪だし、いい年の始めになったと思いますけど、今の目標はチームとしてロンドン五輪でも頂点を目指したいと思っています。

――なでしこジャパンのメンバーから祝福の連絡はあったか?

 たくさんメールをいただいたんですけど、大野(忍)選手と近賀(ゆかり)選手はすぐにメールをくれて、大野選手は「澤“バロンドール”穂希」というタイトルで(笑)送ってくれて、「同じチームメートとして一緒に戦える」ということと、「普段から仲よくさせてもらえて本当に光栄です」というメールをもらいました。
 みんながいたからこそ取れた賞だと思っているので、みんなにもこのうれしさを伝えたいと思います。忍をはじめ、最高の仲間がいたから取れた賞なので、感謝していますという(返事の)メールは送って。もうすぐ、今月にはチーム始動するので、そのときにみんなにお礼を言いたいです。

佐々木 僕は選手には個人情報を伝えていませんので(笑)。一件だけ、誰か調べたのか(電話が)ありました。誰とはここでは申し上げられませんが、意外なやつから着信がありました。

――澤選手、お隣に世界一の監督がいるわけだが、どんな指導が世界一のチームを作ると考えるか?

 上から目線じゃないですけど、指導者として素晴らしい監督ですし、監督の下でやれるのは光栄です。チームの雰囲気をなごませてくれるというか、どんな試合でも緊張するところを、監督の一言で笑いにしてくれるとか、本当にみんながサッカーをやりやすい、緊張をしないような雰囲気作りとか、すごく素敵です。
 一緒にサッカーをやっていてすごく楽しいですし、もっともっと一緒にやりたいです。選手それぞれのいいところを引き出してくれるのが佐々木監督なので、そういう監督と一緒にやれてうれしいです。また自分の中でも、ロンドン五輪で一緒に世界一になりたいという目標もできました。

――逆に佐々木監督から見て、澤選手はどんなプレーヤーか?

佐々木 彼女は女子サッカーの象徴みたいな存在ですから、プレーを見ていても中心的な存在であることは確認できました。そして、それを生かすというよりも、選手全体で見た中で、攻守にアクションするサッカー、そしてチームが連動・連係する中で、各選手が生かされるであろうということ。それがフィットして、選手1人ひとりが、そして澤自身が僕がイメージする以上の仕事して、こういう結果に導いてくれたということには、本当に感謝しています。
 その意味でも今年、さらに僕たちのチームというか、08年から積み上げてきたものについては、澤を中心に(ロンドン)五輪で、まずこのチームを完結したチームにしていきたいと思います。

■佐々木監督「ファーガソン監督もバルサの監督もすごく評価してくれた」

――表彰式ではメッシやグアルディオラ監督ら、さまざまな世界のスーパースターがいたと思うが、彼らと話したり刺激を受けたりすることはあったか?

 メッシ選手はシャイなのか、あまりしゃべることはなかったんですが、シャビ選手は普通に英語で「W杯優勝おめでとう」と言われましたし、ほとんどの選手が優しくて、写真を撮ってくれたり、声をかけてくれたりしました。

小倉 ものすごく(澤の来ていた)着物がうけていました。

佐々木 僕は選手というよりもファーガソン監督、そしてバルセロナの監督とお話しました。両監督とも日本の試合を見てくれていたということで、すごく評価してくれました。僕はバルサの監督にはすごく興味があったので、その中で「一度だけメディアに『バルサに似たチームだ』と言われたんですが」と言ったら、「いや、われわれ以上だ」とすごく持ち上げていただきました(笑)。そういう意味でも、バルサはわれわれも手本にしているということで、意気揚々といろんなことをお話しました。
 ファーガソンさんは名将ですから、僕は「これまで長くひとつのチームを率いてこれたのはなぜですか」と聞いたんですけど、ちょっとはぐらかされましたね。それでも選手にしても監督にしても、われわれの手に届かないような人たちとふれあうことができたのは、すごくいい経験ができたと思いますね。

――表彰式の着物はいつごろ購入したのか。また、着付けはどうしたのか?(砂坂美紀/フリーランス)

 あちらにいらっしゃるんですが、今回は着付けの方に帯同していただいて、園遊会での着物をお借りして着付けしていただきました。サッカー協会の方ともお話をして、やはり日本人として着物は清楚(せいそ)だし、ああいうすごいところだったので、すぐに「着物でお願いします」と。2人がかりで朝から着付けをしていただいたり、メークをしていただいたりしていただきました。

――受賞の際は頭が真っ白だったということだが、実感が湧いてきたのはどういうタイミングだったのか。また世界一の賞を受賞して、意識の変化は?

 実感が湧いてきたのは、このようにメディアの方がたくさんいるということで。気持ちの面は変わっていないです。自分はチームとして、ロンドン五輪でメダルを取りたいという気持ちはぜんぜん変わっていないですし、何も変わっていません。

小倉 (表彰式には)米国のワンバックやソロもいたし、それから米国の協会の会長もいて、4月に日本に来ることをとても楽しみにしていました。米国の会長は「今度は勝たせてね」と言っていました(笑)。ブラジルも来てくれますし、3カ国対抗でできるというのは、五輪前に力を試すという意味で強化のためにはすごくいい試合が組めたと思います。向こうの人たちは本当に日本と試合をすることを楽しみにしていることが、今回よく分かりました。

――澤選手と監督に、表彰式でロンドン五輪で対戦するライバルとどんなやりとりがあったのか?

佐々木 五輪に関して、バチバチしたやりとりはなかったです。本当にお祝い事のイベントだったので、フランクにしゃべっていて。最後に空港で、米国の監督はいなかったんですけど、フランスの監督は「次の抽選会でまた会おうね」と。それくらいですね。五輪についての話は深くはなかったです。
 米国の監督とは、今度アルガルペ(2月29日〜の女子の国際大会)でも当たりますし、4月にも当たるので、お互いにいいチームと戦えるので、これを強化にしていきたいと話はしました。

 監督が言ったとおりです(笑)。

■澤「感謝という気持ちがこみ上げた」

――日本が優勝して、女子サッカーの認知度が上がったが、さらに認識されて普及につながっていくと考えるか?

 わたしはこのような賞を取って、たくさんの子供たちに夢を持ってもらえればいいなと思います。日本人でも不可能ではないということを証明できたので、子供たちに目標ができたのはすごく良かったと思いますし、(女子サッカーの普及に)影響はあるかなとは思います。

佐々木 そういう意味で、全国で少女たちがサッカーに興味を持ってもらって、そのためには全国でそうしたシステムを作っていかないと。女子サッカーもこれだけの注目を浴びる。指導者についても、男子はたくさんいらっしゃいますけど、女子にも目を向けていただくいい機会だと思います。それと「誰でも」ということではなく、やはり女子サッカーでいい選手を育て上げようということをできるきっかけになればと思いますね。ブームとか流行とかでなくて、これからの女子サッカーの(普及の)一環になっていく、大きなきっかけになればと思います。

――澤選手、日本代表として18年間頑張ってきて得られた賞だが、18年間の思いというものはあるか?

 ここに来るまでに長い年月がありましたが、世界一という目標を果たすことができましたし、このトロフィーは本当に重いんですけど、18年間というよりも、その前の女子サッカー界にかかわってくれた先輩たちや関係者の方々の気持ちも入った、重みのあるトロフィーだと思っています。

――監督と澤選手、今回の受賞で強く思い出したことは何か?

佐々木 思い出したことは順風満帆でなかった。サッカーを辞めようと思ったこともあった。個人的には(そういったことが)フラッシュした。昨年、この世界大会で大変だった選手たち。瞬間、そんなことがこみ上げてくる。辛かったこととか。終わってからはこう言ったことを節目に、五輪をしっかり準備したいと切に思っています。

 すべての方々に感謝。メッシも最高の仲間がいての受賞。たくさんの方々が支えてくれた。感謝という気持ちがこみ上げていました。」 ーースポーツナビよりーー

 沢と同じ少年団で一緒にサッカーをやっていた日本代表の中村憲剛は、ブログに「この賞を受賞するのがどれだけ凄いことか…。男子はメッシですからね…。本当凄い」と書いた。

「国際サッカー連盟(FIFA)が9日にスイスのチューリヒで開いた年間表彰式で、女子の最優秀選手に日本代表「なでしこジャパン」の主将、33歳のMF沢穂希(INAC神戸)が輝いた。アジア勢初の栄冠は、ライバルたちも認める受賞だった。
 受賞の瞬間、同じ最終候補3人に入っていた米国代表の31歳、ワンバックは「おめでとう」と真っ先に祝福した。
 昨年の女子ワールドカップ(W杯)決勝でPK戦の末に日本が破った米国のエースFWは、米プロリーグ(WPS)のフリーダムで2009、10年に沢と一緒にプレー。「沢選手が受賞したことに興奮した。日本は世界王者だし、沢選手も最高の選手であることを証明した。彼女のことをとても誇りに思う」と自分のことのように喜んだ。
 5年連続で最優秀選手に選出されていたブラジル代表の25歳、マルタも最終候補に残ったが、表彰式前に「沢選手やワンバック選手はW杯で素晴らしい結果を残した。私の6年連続受賞はありそうもない」と話した。W杯では8強止まりだっただけに、今回は分が悪いと感じていた。
 沢本人は「最終候補の3人に残っただけで満足していた」という。しかし、ライバルたちの方が沢を高く評価していたようだ。米国のランポーン主将は投票で1位に沢を選んだ。」 ーースポーツナビよりーー

「女子選手部門では、昨年11月にアジア最優秀選手に輝いたMF宮間(岡山湯郷)は最終候補の3人に残れなかったが、得票率は12.18%で3位の米国代表ワンバックとわずか1.08%の差。5位の米国代表GKソロ以下は10%を大きく下回った。」 ーーサンスポよりーー

「なでしこのメンバーで、沢が所属するINAC神戸のDF近賀ゆかりは「受賞すると信じていた。世界一の選手とプレーできていることを幸せに思う」と語り、FW川澄奈穂美は「日本から2人目、3人目と輩出されることを願っている」と話した。GK海堀あゆみは「チームとして一緒に戦えることができ、大変光栄」と言い、FW大野忍は「身近な存在の沢選手が受賞し、本当にうれしい」と祝福した。 岡山湯郷のMF宮間あやは「自分のことのようにうれしく思う。たくさんすごいところを持っている今の沢さんが、やっぱり世界一」とのコメントを出した。」 ーーサンスポよりーー

 受賞でそれぞれの思いが言葉になって綴られると、それぞれの物語が結びついてより面白い。沢の跡を継ぐのは、宮間あや。彼女がワールド・カップ決勝のあとに取った行動は、後世に語り継がれていくだろう物語だ。あんなに素晴らしい、スポーツマン・シップを宮間あや選手から教えて貰った。非常に日本人的であったし、感動的だった。アメリカのソロや、ワンバックは宮間の行動を讃えた尊敬の念をもって、語っていた。ともあれ、なでしこは、今伝説を作り続けている。


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