−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。
8月23日(火) 曇のち晴 9944
テレビが観れなくて、テレビに拘束されないのは非常に良いことだ。観るのもニュースかスポーツ中継くらいで後はダラダラつけっぱなしにて、虚しくなるだけ。それだったら、テレビがなくても良い。ただ、観たいスポーツやニュース、「ためしてガッテン」などNHKはどちらかというとよく観る。
今後の予定は、9月にはそれでもテレビを地デジ対応にすること。下旬にバルセロナのフェリア・デ・ラ・メルセを観る。10月中旬にビデオ会を開催。11月に去年に続いて京都へ行きたい。出来ればそこでビデオ会をやりたいが、どうなるか?12月に年末のビデオ会をやるかどうか、それが1月の方が良いのかどうかとか、その辺を詰めて行ければと思う。
8月24日(水) 曇 8999
昨日は健康診断へ行った。30度あったがそんなに暑いという感覚ではなかった。もう季節は秋に向かっている。La Oreja de Van Gogh
のDVDを聴いていた。それでも暑いという日が続くときもあるだろう。今日は暑くなりそうだ。かなり異常と思える人間があと1週間でいなくなる。それは負担が軽くなるので喜ばしいこと。
8月25日(木) 雨/曇 11606
こんな記事がネットに載っている。母校のことや被災地支援の活動がサッカーを通じて行われていることが載っている。
「 被災地に求められる「サッカー人の毛細血管」 斎藤重信と加藤久の知られざる活動
■小笠原満男の活動がもたらしたもの
5月16日、東北取材のベースとしている仙台から東北本線に乗って盛岡に向かう。目的地は、岩手県内の高校サッカーの名門として名高い、県立盛岡商業高校。校内には、第85回全国高校サッカー選手権優勝の記念碑が飾られてある。グラウンドに向かう途中、すれ違う女子高生が次々と「こんにちは!」とあいさつしてくれて、何だか気分がよい。それにしても普段、育成の現場に縁遠い私が、なぜ盛商の校門をくぐることになったのか。それは、選手権優勝当時のチームを率いていた斎藤重信先生を訪ねるためだ。ちなみに斎藤先生は、今年の春に定年退職となり、今はサッカー部の総監督としてチームを見守っている。
グラウンドでは、赤と白のユニホームを着た盛商の選手たちが、盛んに声を出しながらボールを追いかけている。コーチの方に案内されて部室に入ると、斎藤先生は先客と歓談中であった。元日本代表で、昨年まで京都サンガF.C.の監督を務めていた加藤久さんである。高校サッカー界のカリスマ指導者である斎藤先生、そしてキャップ数61を誇る元日本代表の加藤さん。このツーショットは一見すると、狭いサッカー界とはいえ、いささか意外な顔合わせのようにも思える。とはいえ「サッカー人」として、今回の東日本大震災で被災した地元を救いたいという気持ちで、両者の思いは完全に一致していた。
斎藤先生と言えば県立大船渡高校時代、のちに日本代表となる小笠原満男(鹿島)を指導したことでもつとに有名である。この日も、積極的なボランティア活動を続けている小笠原のことが、当然のごとく話題に上った。
「わたしが支援活動をスタートさせたのも、やはり満男の影響が大きかったですね。『先生、こういうことをやりたいんだ』とか『荷物を送りたいけどどうすればいいですか』とか、震災直後からたびたび連絡してくれたんです。わたしも長いこと教員をやっていましたが、教え子に教わったようなものです(笑)。こういう時は、動ける人がすぐに動くべきだという」(斎藤先生)
「東北サッカー未来募金の立ち上げの際にも、小笠原はよく動いてくれました。今野(泰幸=FC東京)と一緒に、基金のポスターになってくれることを快諾してくれましたけど、本当は自分が目立つことは本意ではなかったと思います。それでも彼自身、すぐに被災地に駆けつけて、相当なショックを受けた。しかもリーグ戦が再開されても、支援活動を続けています。彼なりのやさしさの表れなんでしょうね」(加藤さん)
震災後のサッカー界の動きは素早かった。3月29日、日本代表対Jリーグ選抜のチャリティーマッチが大阪で開催されたが、開催決定がアナウンスされたのは震災発生から1週間もたっていない17日のことだった。その前後には、各Jクラブがチャリティーマッチや被災地でのサッカースクールを開催するなど、その動きはスピーディーかつ多岐にわたった。そのこと自体は素晴らしいことだし、ひとりのサッカー好きとして誇らしくも思う。ただ、そうした協会やJクラブのオフィシャルな支援活動とは別に、サッカーファミリーのネットワークを駆使しながら、個人の意思と判断で支援活動を続けている人々がいることも忘れるべきではないだろう。今回の取材テーマは、まさにそこにあった。
「われわれができることをやろうということで、加藤さんからも電話をいただいてね。実際、誰かが動けば、それに連動して誰かがサポートしてくれるんです」(斎藤先生)
「募金のポスターの件で小笠原にお世話になっていたから、岩手のほうにも行かねばと思っていたんですが、(出身地の)宮城も広範囲にわたって被災していましたから。なかなかこっちに来られないので、先生に電話で状況を聞いたりしていました」(加藤さん)
実際、斎藤先生自身も、さまざまな支援活動を行っている。被災した沿岸部の学生を盛岡市内の芝のグラウンドに招いてミニ大会を開いたり、全国から集められた支援物資を盛商関係者で手分けしてトラックで届けたり、懇意にしているスポーツ用品メーカーにサッカー用具を入れるショルダーバッグを提供してもらえるよう要請したり(結果700近いバッグが沿岸部の高校にプレゼントされた)、いずれも岩手のサッカー界に長年貢献してきた人脈を生かした支援活動であった。一方で、全国からのサッカー関係者の支援の輪もどんどん広がっているという。
「わたしらの年代で『高校サッカーを考える会』みたいなのがあるんだけど、流通経済大柏の本田(裕一郎)先生や暁星の林(義規)先生が呼び掛けて、それをどこかの新聞でも取り上げてくれて、全国の高校サッカー関係者から500万円くらいの義援金をいただきました。金額もさることながら、学校によっては父兄の方が直接振り込んでくれたり、対戦したこともないような学校からも振り込まれていたりして、本当にびっくりしましたよ」
こうして集められた義援金は、被災地のサッカー関係者の間で協議の上、分配されることになっている。斎藤先生の全国的な知名度と、全国のサッカー関係者とのあつい信頼関係をしのばせるエピソードであると言えよう。
翌5月17日、加藤さんの支援活動に同行取材させていただいた。朝9時に仙台駅前のヨドバシカメラで加藤さんと落ち合い、そこから加藤さんの運転する4WDに乗せていただく。最初に向かったのは、利府町にある大型ショッピングモール。ここで支援物資の買い出しを手伝う。購入したのは以下のとおり。電気ポット×3、プラスチックの衣装棚×2、プラスチックの衣装ケース×10、そしてありったけのバナナ、リンゴ、玉ねぎ、キャベツ、そして甘栗。これらにかかる出費は、加藤さん個人に寄せられた義援金と自身のポケットマネーで賄われている。それにしても、なぜ電気ポットと衣装ケースなのか。
「被災地のニーズは、時間の経過とともに変わってくるんですよ。以前と比べればインフラもずい分と復旧してきたので、お湯を簡単に沸かしたいとか、支援物資を保管できる入れ物が欲しいとか、そういう要望が多かったですね。それと最近では、ノートとか手帳とかペンとか、そういった文房具も意外と喜ばれています」
救援物資の届け先は、石巻市の雄勝(おがつ)町である。加藤さん自身、その町には縁もゆかりもない。ある意味、運命的な出会いであった。震災直後、故郷の宮城の状況を思うと居ても立ってもいられず、飛行機に飛び乗って山形へ(奇跡的に1席だけ空いていたそうだ)。そこからタクシーで、実家のある松島に向かう。幸い実家は、床上浸水はあったものの、家そのものが流されることはなかったという。しかし、そこで安堵(あんど)する加藤さんではなかった。被災地で苦しんでいる人たちに、少しでも役立ちたい。元サッカー選手でも、元日本代表でもなく、ただひとりの個人として、困っている人の力になりたい。そこで石巻市の職員に尋ねたところ、最も支援が行き届いていない雄勝町の存在を教えてもらったという。
「最初に物資を届けたときには、現地の人たちは『何しに来たんだ』というような、とげとげしい表情をしていましたね。無理もないですよ、しばらく忘れられたような感じでしたから。ですからこちらも『これ、よかったら食べてください』という感じで、できるだけ彼らの自尊心を傷つけないように配慮していました」
まさか雄勝町の人たちも、サッカーの元日本代表が救援物資を届けに来たとは夢にも思わなかったことだろう。たまたまその場にいた中学校の教師が「あの、もしかしてあなたは……」と声をかけてきて、ようやく加藤さんは自らの素性を明かしたそうである。
加藤さんの運転する4WDは、三陸自動車道を通って石巻に向かう。途中、北上川沿いを走り、児童・教員の7割が津波被害で亡くなったという、石巻市立大川小学校にも立ち寄った。テレビ映像では何度か見たことがあったが、実際に肉眼で見ると、コンクリートの壁を突き破り、H形鋼をねじ曲げてしまう自然の力に、ただただ圧倒されてしまった。加藤さんは何も語らず、静かに手を合わせていた。
雄勝町には昼ごろに到着。水浜地区にある避難所では、近所の住民が笑顔で迎えてくれた。利府で購入した電気ポットやプラスチックのケース、そして野菜はいずれも好評で、あらためて加藤さんの細やかなリサーチに感心させられた。「これだけあれば、おいしいものが作れるねえ。ここは水浜の帝国ホテルですよ!」とおばさんも大喜び。地元でとれた立派なホヤを見せてくれて「お土産にどうですか?」と勧められたが、丁重にお断りさせていただいた。まだ取材の途中だし、被災している方にそのようなものをちょうだいするのは何とも忍びない。再び車に乗り込むと「支援物資も行き届くようになり、ようやく皆さんの表情も柔らかくなりましたね」と、加藤さんはしみじみと語った。
その後、東北での取材を終えて東京に戻ったある日、加藤さんからメールをいただいた。今も定期的に石巻を訪れては、支援物資を届けたり、飲食業者のボランティアと共同で炊き出しを行ったりしているそうだ。サッカー関係者のボランティアというと、やはりチャリティーマッチや被災地のサッカースクールというのが一般的であろう。それはそれで大事なことだとは思う。ただ残念なことに「サッカーどころではない」状況の被災地は少なくない。家を失い、子供の数も少ないような場所で「サッカーをやろう」と言っても、かえってひんしゅくを買う恐れがある。加藤さん自身、そうした無力感を覚えながら、それでも組織に縛られずに、今後も支援活動を続けていくという。
「もちろん、協会やクラブ主導の支援活動もありだと思います。ただ組織でやる場合、どうしても決まりごとが多くて、現場に下りてくるまで時間がかかってしまう。そこを補う意味でも、われわれサッカー人の毛細血管のような人的ネットワークを生かした活動が意味を持つのだと思います。東北サッカー未来募金の立ち上げもそうでしたし、斎藤先生やわたしが続けている活動もそうです」
震災から100日以上が経過し、報道の量もボランティアの数も減少傾向にある。もちろん、日常を取り戻すことは何より大切であるし、あの忌まわしい記憶を早く忘れてしまいたいという心情は誰もが共有するところであろう。しかし現時点でも、支援を求めている人は一定数存在しているし、加藤さんが言う「サッカー人の毛細血管」が力を発揮できる場面はまだまだあるはずだ。私自身、この業界で禄(ろく)を食(は)む者のひとりとして、自分のできることを考えつつ、今後も被災地に微力ながらコミットしていきたい。
」 ーースポーツナビ2011年7月4日(月) 宇都宮徹壱よりーー
斎藤先生のこと知ったのは、僕が高校1年生の時で、遠野に遠征に行ったときだ。当時遠野農業の監督をやっていて、生徒たちをグランドの隅に座られて自身も同じように座っていた。横を通ったときに、怒鳴り声が聞こえた。「盛商の生徒なら盛商らしくしろ!」いきなりでビビった。先輩に言ったら、あの人はうちのOBで、遠野農業を強いチームにした監督だ。と、教えてくれた。先生は大学を卒業して何年も経っていない頃で若かったせいか目つきも鋭く、見るからに熱血教師だった。
その後、あの先生がOBならうちに来て監督になればいいのにと、口癖のように言うようになった。卒業してから、正月の高校選手権に出るようになった。先生が赴任してきたからだ。ベスト8になると嬉しかった。やっぱり高校生は、監督で全然変わると思った。僕らの頃は、監督は試合の時しか来なかったので、練習はキャプテンが組んでいた。県大会ではいつも決勝で遠野に負けていた記憶しかない。あの当時、ライバルの遠野の監督はやはりうちのOBの柴田監督だった。遠野の粘りにいつも悔しい思いをしていた。盛商から大船渡に行ってたが、また戻ってきて何度も選手権に出場した。
そしてあの時。2007年1月8日国立競技場の決勝で作陽を破って全国優勝したときは目茶苦茶嬉しかった。勝った後、懐かしい凱歌を聴いてたら涙ぐんだ。斎藤先生は卒業してから50年近くたっても盛商のOBとして、自分の出来るサッカーで、母校や盛岡、岩手県に貢献している。記事にあるように、優勝後、僕は、母親と弟と一緒に久々に母校のグランドに行ったら、構内には入ると、元気の良い声で、「こんにちは」と生徒たちが迎えてくれた。生活指導を担当したのは斎藤先生だった。たった1人の教師が赴任したことによって学校の雰囲気ががらりと変わる。劇的な変化だ。僕らがいたときには考えられないことだ。それが今でも続いていることを記事が物語っている。
そして、3月11日の大震災。先生は岩手の生徒たちのために支援活動をしている。教え子の小笠原満男も盛岡出身。小笠原は、先生を慕って監督をしていた大船渡高校にわざわざ入学した。もし盛商の監督だったら、当然盛商に入ってただろう。こういう記事を読んでいると、同級生に連絡してみようかと思う。大槌のKさんどうしているんだろう。生きているだろうか?同級生のKもKさんと同じ大槌出身で今は盛岡にいる。Kに連絡すればいろんな事が判るだろう。でも、それが怖い気もするのだ。
ただ、何かしているだろうから連絡してみなければとおもう。
8月26日(金) 曇のち大雨 5196
考えてみれば、盛商に行こうと思ったのは、サッカーがやりたかったことと、家から1番近い高校だったからということがある。勿論、小学校や中学校も1番近い所に行っていたし、高校も歩いて10分かからない所だった。自転車なら飛ばせば2,3分で行けたし、教室まで5分かからなかった。NHKの朝ドラを観てから出ても8時40分の朝礼には遅刻しなかった。家の前を生徒たちが通る。そういう環境だった。今は区画整理されたり駅から学校方面に直接行けるようになったので、家の前を通る生徒は殆どいなくなった。
「 ■変わり果てた故郷の姿に言葉を失う
3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震から約20日。死者・行方不明者数は3万人に迫る勢いで、2次災害として起きた福島第一原発の問題も深刻度を増している。被災地ではまだライフラインも完全に復旧しておらず、避難所でギリギリの生活をしている人も多い。29日の日本代表vs.Jリーグ選抜のチャリティーマッチは、そんな被災者に少しでも生きる勇気を持ってもらいたいという考えから実施された。日本代表、Jリーグ選抜の選手たちは一致団結し、全身全霊を込めて1つのボールを蹴った。
試合開始前の整列。「東北人魂」というひと際目立つ、大きな文字のTシャツを着て登場したのが、小笠原満男だった。
彼の住む鹿嶋市は断水や停電に見舞われ、クラブハウスの一部に亀裂が入り、練習グラウンドも隆起した。本拠地のカシマスタジアムも観客席の一部が崩れ落ちてしまった。それだけでもストレスがたまるのに、故郷の岩手県は壊滅的な打撃を受けている。高校時代を過ごした大船渡市、かおり夫人の実家がある陸前高田市がどうなっているのか……。肉親との連絡もままならず、いてもたってもいられなかった小笠原は「今、行かなかったら後悔する」と決死の覚悟で17日に鹿嶋を出発。妻と3人の子供たちを連れて、自らの車で北の地を目指した。
「大船渡まで丸1日かかりました。その時の感情をどう表現したらいいのか。見てきたものが全部なくなって『ここはどこだ』って。がれきの下にいろんな人がいると思うとホント複雑でした」と神妙な面持ちで言う。
大船渡、陸前高田の避難所2カ所ずつを訪ね、「足りないものはないですか」と被災者に聞いて回った。水を運んだり、盛岡から物資を輸送したりと現地では1週間、支援活動にもあたった。そんな様子を3人の子どもたちもじっと黙って見つめていたという。
「水や電気、ガスがなくても、家が流されても、親を亡くしても、みんな歯を食いしばって一生懸命生きている。下を向かずに頑張っている。その姿を一生忘れることはない。子供たちもそれを見て何か感じたと思う。自分もそういう人たちに頑張っている姿を見せなきゃいけないって思った。それでできることから始めようと考えたんです」
そんな小笠原同様、被害の大きい被災地の現状を知る数少ない存在だったのが、梁勇基と関口訓充のベガルタ仙台勢である。
巨大地震で仙台市の泉区にあるクラブハウスは半壊。梁の車はタイヤにくぎが刺さって動かなくなった。仙台市内も甚大なダメージを受けており、普通の生活を取り戻すのは容易ではないだろう。28日から活動を再開したベカルタの最初の仕事が、石巻市の避難所での救援活動だったというから、その深刻さがうかがえる。
「地震も確かにすごかったんですけど、それ以上にあんな津波が来るとは思わなかった。多くの家が流されて、宮城県だけでもたくさんの尊い命が亡くなった。自分がここまで来る道のりはホントにつらいものがありました」と関口は伏目がちに話した。
小笠原らから被災地のリアルな実情を伝え聞いたカズ(三浦知良)や中澤佑二、中村俊輔らJリーグ選抜の面々は、サッカー界としてやれることを話し合った。
「今回のチャリティーマッチで被災者に元気を与えるところから始めて、もう少し落ち着いたらサッカー界の復興にも貢献したい。この試合を一過性のもので終わらせては決していけない」
そんな意思をみんなで確認したうえで、カズと小笠原がそれぞれ日本サッカー協会の小倉純二会長、Jリーグの大東和美チェアマンに直談判。プロ選手がボールを持って被災地を訪れ、サッカー少年たちと触れ合う活動をしていこうという話が一気に発展した。日本代表選手ももちろん賛同。小笠原を師と仰ぐ内田篤人は「ボールやスパイクを送ることでも何でも協力したい」と強い熱意を示していた。
日本サッカー界全体の素晴らしい団結力と一体感が醸成されつつある中、29日のチャリティーマッチはキックオフされた。 」 ーースポーツナビ 2011年3月31日(木)元川悦子よりーー
小笠原という名字は、盛岡では何処にでもある名字で、クラスに1人が2人はいる。満男(みつお)という名前も盛岡には多い。町内には何人もみつおがいた。そういう意味で、小笠原満男という名前は、実に盛岡らしい名前なのだと感じる。盛岡人らしい名前を持つ男が、被災地出身者なら誰でも思う、どうなっているだろうか観てみたいと思い、被災地を訪ねて現場の状況を知り、何か出来ないだろうか、必要なモノは何か訊いて廻り物資を盛岡から運んだり、支援活動をした。陸前高田出身の奥さんと3人の子供たちと共に。
今行かなければ後悔する。その思いから発した行動が、彼の廻りの人間を巻き込み動かしていく。斎藤先生が動き、友人が動き、Jリーグが動いた。盛岡の何処にでもいるような名前の男が、誰でもが出来ないような発信力で、誰でもが出来ないような影響力を発揮した。彼の取った行動は、Jリーグのみならず、語り継がれていくだろう。とりわけ、その背中を観た、3人の子供たちには甚大な影響を与えるだろう。
「東北人魂」とTシャツに書いてピッチに立った男を誇りに思う。そして、自分も何かしなければといつも思って生きている。
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