断腸亭日常日記 2011年 その10

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年のスペイン滞在日記です。

99年4月15日〜5月11日 5月12日〜6月4日 6月7日〜6月10日 2000年4月20日〜4月29日 5月1日〜5月14日
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 6月27日(月) 曇 11679

 昨日の夜は、寒かった。『JINー仁』最終回はなるほどという結末になっていた。そして、なんだか幸福感を感じた。綾瀬はるか演じる橘咲は、いわゆる聖母的な存在としてこの物語のもう一つの象徴になっている。表情も声もその志も全てが美しく感じられる。この実に日本的な聖母像は心にいつまでも残る。ゴット・ハンドを持つ主人公は、傷つきやすくナイーブな男で、本当の英雄にはなれない。それを補足する形で、坂本龍馬が出てくる。

 そして、時代の英雄たちが一杯出てきた。緒方洪庵、勝海舟、西郷隆盛…など。その中でも、南方仁は輝いた。そして、野風、橘咲という聖母的な女性が出てくる。脇役も良かった。素晴らしい物語だった。タイム・スリップという時代錯誤な物語の装置も違和感を感じることなく観ることが出来た。

 明日から盛岡に帰る。三陸を観に行きたい。平泉にも行きたいと思っている。ネット環境がないので2,3日繋げないだろう。


 6月28日(水) 曇 9568 盛岡にて

 新幹線で一ノ関を過ぎる頃、北上川が見えた。増水で堤防のかなり上の方まで水位がある。山から流れてきた雨水が泥を含んでいるので茶色になっている。この辺は大雨が降ると昔から田んぼが水に浸かるところで、ちょっと怖かった。自由席で行ったので時間がかかる。各駅に停まるからだ。その後何度も北上川を見た。やはり水位が高い。そして、盛岡駅手前の鉄橋付近は、手前から雫石川、北上川、中津川の3つの川が合流する地点がある。雫石川と北上川の泥を含んだ水が流れと、中津川はいつもと変わらず透明な水が合流する。合流すると川の流れがあるのでしばらく透明な水はそのまま流れている。ここも水位が高い。ここは子供の頃、遊び場にしていたところだからよく知っている。

 盛岡駅に降りて、バス乗り場に行って明日の宮古行きの時刻表を確認した。それから、駅でおみやげを買った。今回は時間がないから到着してすぐにおみやげを買うことにしたのだ。それから電車で1つ目の駅で降りて家に帰った。お袋はベットに寝ていた。親父が言うには、最近はずっとこんな状態だという。もう2階には寝ていない。しかも、床ではなくベットに寝ている。起きるのも1人では難儀する。手を出して引っ張れという風に則す。でも、自分でやらないと益々体が動かなくなるというのを知っているので手伝わない。甘えているのだ。

 毎日外に食事に行っていたのに今は家で食べているという。親父よりお袋の方が一気に老けた。大震災の時、親父は検査入院で岩手医大にいた。お袋はケアセンターに預けられていた。盛岡は2日間停電だったが、病院は自家発電で大丈夫だったと言う。退院して家に戻ると、買い物するにも殆どない状態だったそうだ。叔母さんがオール電化していたので、ご飯を炊かせて欲しいと言ってきたが、こちらも停電なのでそれは出来ないということで断った言っていた。

 テレビニュースでは今日、気仙沼では、震災後初めて鰹の水揚げがあった。製氷会社も、発泡スチロールの箱を作る会社も必死でこれに合わせて出荷した。例年の約3倍の競り値が付いた。やはり漁港は魚の水揚げをすると活気が出てくる。それから夕食を食べに家族で出かけた。寿司屋で鮪や鰹を親父は食べた。昔から好きだったという記憶がない。しかし、最近帰ってくると寿司屋で鮪や鰹を食べる。お袋は箸など使えない。手で食べる。寿司だから丁度良いのだが、他の食べ物では自分で食べられない。もはや介護の状態と言っていい。

 明日,IBC(岩手放送)で19時から平泉、中尊寺の世界遺産登録を記念して、今東光(作家で当時、中尊寺の住職)から仏門の道を進められ、中尊寺から新しい人生が始まったといっている瀬戸内寂聴の喜びのインタビュー番組を流すという。今日の朝日新聞(多分岩手版)には、藤原三代の平和と浄土思想を東北人はもう1度噛みしめて讃えるべきだと言っていた。


 6月29日(水) 晴 7833 盛岡にて

 朝、盛岡駅から宮古へ向かった。終点が宮古駅。旅行案内所へ行って、周辺で津波の被害にあったところを聞いた。駅の近くまで津波が来たが、被害が大きいのはこの辺と指差したのが魚市場の方だった。徒歩で30分くらいというので歩いていった。段々被害を受けた家が目にはいる。壁などに、「カイOK」と書かれている。初めは意味が解らなかったが、家の基礎部分しか残ってない家の駐車場の壁に。「解体OK」を書いてあったので、「カイOK」というのは、そういう意味なのだと言うことが雰囲気で解った。しばらく歩くと右側に4mくらいの防波堤が見えた。津波はそれを超えてきたようだ。

 道路の突き当たり堤防あった。その手前が立体交差の道路になっている。階段を上っていくと海が見えた。左側に見えるのが市役所。堤防の外には何艘もの船が停めてあった階段を下りて行くと途中で、道路のしたの部分に照明が取れかかっていた。向かいの橋脚に付いてあるメンテ用の階段がグンニャリ曲がっている。道路から4mくらいのところだ。つまり、この高さまで津波が来たのだ。階段を下りて歩いていくと、市役所の1階部分の窓にはコンパネ(厚いベニヤ板)をはめ込んでいた。その先の交差点の岩手銀行宮古支店は閉鎖され、隣のNTTも1階部分は使えない状態になっているようだった。

 ちょっと歩くと堤防前にあるガソリンスタンドは、1階部分は津波が突き抜けたあとがまざまざと判る状態で後ろの堤防が見え、それでも営業している。隣もそう。その先の工場らしいところは、まさに1階部分は津波が突き抜けた状態になっていて隣にあっただろう建物の金属の屋根が丸まってあった。歩いていくと魚市場が見えた。その右側は瓦礫置き場になっているようで、6,7mも積み上げられている。その上を鳥が飛んでいる。

 市場の方を見ると箱に魚を入れてある。もう漁は始まっているようで、市場も動いている。少しだけどこうやって動くと町にも活気が出てくる。この辺りには堤防がなく左側にある2,300mある市場の方は直撃で、目途が立っていないように見える。船が停まっていて男女がいた。1人が金髪で、近づくと白人の女性がカメラを持っていた。カモメが飛んだり降りていたりしていた。1匹大きなカモメの写真を撮った。おじさんがいたので、駅まで行くバスがありますか?と聞くと、僕の顔を見て、ちょっと間を置いて、「おぐるすか(送りましょうか)」といったので、ビックリした。良いんですか?「ちょっと待て」といって軽自動車に乗ってきた。

 ありがたかった。車中で話をした。1ヶ月くらいガソリンがなくて困ったこと。寒かったこと。そして、震災後、ボランティアの人たちが来て手伝ってくれたことに感謝していた。僕は、盛岡出身で東京で働いていて、この目で被害を見たくて来たことを言った。「これから帰るのすか?」というので、「これから田老町へ行って見ようと思います」というと、「んだ。見だほいい(そう、見た方が良い)」といった。駅について、「どうもありがとうございました」と感謝の気持ちを言って分かれた。なんか東京弁的な言葉じゃなく、「おもさげがんせ」といった方が良かったかなと思った。

 駅では、杉良太郎、伍代夏子、山本譲二、清水宏保が来て三陸鉄道復興支援のコンサートが駅前でやっていた。バスに乗り込んだが、直ぐに三陸鉄道の時刻表を思い出して駅に向かった。コンサートをやっているので、人を掻き分けて切符を買って電車に乗った。田老まで殆ど山の中を通りトンネルが多く海を見えなかった。しかし、田老の駅に着いて絶句した。震えてきた。1キロくらい先にある10mの防波堤の半分以上は瓦礫で見えず、その手前には一軒の家も建っていなかった。

 ホームからその光景をビデオに撮って階段を下りて歩いていくと、あれっと思った。向かいに階段があるのだが、そこは瓦礫が詰まっていて使えない。階段が合流しそこから下に降りる階段の先には板が敷いてあった。降りていくと鉄骨がむき出しなって柱の残骸がありその上には屋根がなかった。右横の観光センターの建物は窓や壁、階段の手すりなどが壊れたり曲がったりして2階部分までやられている。ホームまで10mくらいあるだろうか。その先には5mくらい高くなった幹線道路が走っていて、そこに上るとまた防波堤が見える。三陸鉄道と防波堤の間には家の土台が見えるが家がない。トラックが何台も走り瓦礫を持ってきていた。防波堤近くには重機が3,4台瓦礫を仕分けていた。

 臭いはしない。トラックが通ると土埃が上がる。口が渇くと言うより、気持ちが乾くような感じだ。戦争でもこの様に壊滅的な破壊は出来ない。山田風太郎は、『戦中派不戦日記』の東京大空襲だったか広島の原爆投下だったかの記述で、「こうまでしたか」とアメリカに言った。しかし、この場合は、「こうまでしたか」という相手はいないのだ。何故なら相手は、自然だからだ。


 6月30日(木) 曇 13432 東京にて

 朝食を食べて、平泉に向かった。親父は足の動脈が詰まっている影響で歩くのが遅い。そして、口も回らなくなってきた。何度か同じ事を訊いたので、ボケが始まりつつあるのかもしれない。お袋のボケは相変わらず凄い。自分で何を言っているのか判ってないのだろう。何度も同じ事を訊く。同じ事を喋る。それも、家族で話をしていて面白くなってきたときに限って変なことを言うので、メッチャKY!人間が滅んでいく過程とはこういうモノなのだと思う。お袋は、オシメをしている。時々大きいのをもらすのだという。

 東北本線で平泉に到着。荷物はコインロッカーに入れて、ビデオカメラを入れたバッグと飲み物だけを持った。旅行案内所が駅に出ていて地図を貰う。巡回バスが出ているので時間を聞くと、30分おきに、確か15分と45分に出ていた。毛越寺へは歩いていった。800m。昔は本堂がなかったが、平成になって再建された。日本寺社建築の特徴の「てりむくり」は感じられない建物だった。これは、毛越寺だけでなく中尊寺でも同じだった。江戸時代に再建された建物でさえそんな感じだった。少なくとも江戸時代の再建・修復作業の時にはそういう技術を使わなかったということだろう。それは作業に当たった職人がどういう人たちだったという事もあるだろう。

 毛越寺を初めてゆっくり見た。アヤメ(菖蒲)祭りをやっていて綺麗だった。浄土庭園も1周してみたがここに建物があったらと思うと残念だが、想像力を掻き立てるという意味ではそうである。それからは巡回バスで中尊寺へ行った。参道の月見坂は入り口から250mくらいは勾配がきつい。いつもこの付近を上るとこんなにきつかったかと思う。記憶があやふやになる。それから先は、緩いので記憶違いでないことが判る。

 曇っていたが暑かった。金色堂を観て昼食を取って参道を降りてくると、大勢の人が上ってきた。やはり世界遺産登録で近隣から観光に来ている人たちなのだろう。勿論僕もその1人だ。金色堂には、正方形の金箔の形がない。普通は跡が付くモノだがそうならない。それが何故なのか?金箔を貼る映像を見たが、貼った後、筆で馴染ませていた。そこが違うのかもしれない。金箔の境目のない金色堂にはやはり威厳がある。

 もうどうしようもないくらいに非道い状態になった金色堂の修復に努めた今東光。ああいう特異な人物でなかったら昭和の修復作業はなされなかったのかもしれないとさえ思う。毛越寺でも思ったが、もし、源義経が藤原秀衡を頼って平泉に戻って来なかったら、源頼朝から攻められ戦火に燃えることもなく藤原四代の平泉文化は残っていたかもしれない。だからといって、岩手の人たちは、義経のことを嫌いではない。むしろ、大好きなのだ。嫌いなのは頼朝の方だ。

 頼朝が平泉を責めなくても藤原氏は滅んだだろう。かえって頼朝に、義経とともに藤原氏が滅んでだ事によってそういう物語とともに強い印象を日本人の中に残したのだろうと思うのだ。今回の大震災でも、壊滅的な被害を受けた。東北、岩手の人々は、それを受け入れて、前に進もうとしているのだと思う。この時期に被災地と平泉を観れたのは、大きな財産になるだろう。

 そして、今日、盛岡出身の菊池雄星がプロ入り初勝利を上げた。


 7月1日(金) 曇 13006

 帰ってきて、東京が暑いというのがよく分かった。今日から、東京電力と東北電力管内では15%の節電が義務づけられる。工場などは、木金を休日にして、土日を出勤にするところが増えているという。

 バレンシアのアボノは1500増やされたらしい。勿論ホセ・トマスの影響からだ。盛岡に帰っている間に、パレンシアとムルシアのカルテルが発表された。


 7月2日(土) 曇 12028

 東京は暑い。部屋よりも外の方が涼しい。バレンシアのアボノは5000席売れたそうだ。観客数がいくらなのか知らないが、1万2千くらいあるのだろうが、7月のフェリアでこれだけ売れるのは驚異的だ。ウエルバも驚異的なアボノの売り上げを記録している。全てホセ・トマスが出場するからだ。そして、マラガには出場しないことになった。が、シウダ・レアルに出場する。


 7月4日(月) 曇 16095/2

 失敗したことがある。AVEの切符を買うのを忘れて今日アクセスしたら、欲しいモノが売り切れていた。仕方がないので、次のモノを買った。予定とはこういう風に狂っていくモノだ。

 松本龍復興大臣が、宮城県知事と会談した際、命令口調で、「いいかやれよ。しっかりやれよ」と、1分半応接室で待たされたことで、憤慨して言ったにしても、「知恵を出してやるところは、知恵を出す。出さないところは助けないぞ」などと言った。発言に悪いと持っていないと言っていたが、波紋が大きくなって釈明会見をした。その中で、B型短絡的で、九州の人間で語気が強かったりするが、被災者の人に不快感を与えたならお詫びします。などと言った。九州の人間も、B型の人間も、これには憤慨するだろう。こういう奴が復興大臣とは甚だ迷惑。復興大臣なのに自分が上的なものの見方をする。被災者の立場で復興計画を立案実行できるとは思えない。非常に不愉快は発言だった。東北人を馬鹿にしているとさえ思える。こんな奴、辞めろ!

 上から目線とニュースでは言っているが、そういう事じゃなく、自分を何様だと思っているのかということだ。こういう奴には徹底的に反発を感じる。あいつらと一緒だ!!! 一体お前に何が出来るんだ!!!国と被災地が手を繋ぎ、スクラムを組んでやっていかないと早期復興は出来ないのに、そういう気を全く感じられない男の出現だ。馬鹿野郎だ。気分が悪くなる。

 地デジ開始まで20日。ただし被災地、岩手、宮城、福島を除いてである。


 7月5日(火) 曇 4911

 今日宮城県は、松本龍復興大臣の言動に対して、正式に抗議するという。こういう奴を許すな!被災地では激怒の嵐が巻き起こっている。

 ホセ・トマスを観るために、ウエルバのアボノは5000席分売れた。去年のアボノ販売数は、2800。去年より倍増しそうな勢いだ。ネット販売などの終了時には、アボノの割合は約75%になるだろうという。総観客数は7200という。ホセ・トマスはウエルバに革命を引き起こしていると記事には書かれている。

 なお、バレンシアのホセ・トマスの出場する23日の切符は売り切れになった。一般発売が行われた当日の売り切れだ。しかしまだ、アボノは売られている。いや、アボノも売り切れた。ウエルバのアボノも売り切れたようだ。


 7月6日(水) 曇 15678

 チーム・ドラゴンこと、松本龍復興大臣は昨日辞任した。当然だ。被災者を代表する被災地の知事に対してあのような言動を吐いたのだから被災者だけではなく一般の人も激高した。「被災者に寄り添うのが使命だ」といっていた人間が、よくもあんな事を言えたモノだ。 「松本龍震災復興担当相が3日に岩手県の達増拓也知事と宮城県の村井嘉浩知事に対して行った発言と、4日に首相官邸で行った説明および記者会見の要旨は次の通り。

 【岩手県】

 (私は)九州の人間だから東北の何市がどこの県か分からない。(仮設住宅について話す知事を遮り)本当は、仮設はあなたがたの仕事だ。次の恒久住宅のようなものをわれわれは構想する。そこでみんなどんな知恵を出せるか。

 震災の発生から3カ月以上もたって、国が市町村に寄り添うことは(これまで)なかった。私はボーッとしていたけど大丈夫だった。みんなでやってくれた。私は被災地行脚に行こうと思っている。

 あれが欲しいこれが欲しいはだめだぞ、知恵を出せということだ。知恵を出したところは助け、出さないやつは助けない。それぐらいの気持ちを持って。

 【宮城県】

 政府に甘えるところは甘えていい。こっちも突き放すところは突き放す。そのくらいの覚悟でやっていこう。県で(漁港再編問題の)コンセンサスを得ろよ。そうしないとわれわれは何もしないぞ。ちゃんとやれ。

 (応接室で待たされたことについて)お客さんが来るときは、自分が入ってからお客さんを呼べ。長幼の序が分かっている自衛隊(村井知事がかつて所属していた)ならやるぞ。今の部分はオフレコな。書いた社はこれで終わりだから。

 【4日の首相官邸での説明】

 (発言の真意を首相に説明する考えは)ない。問題はなかったと思う。

 はっきり言いましょうか。僕は呼ばれて(応接室に)入ったのに3、4分出てこなかった。だから怒ったんです。九州の人間は、本人が(部屋の中に)いてお客さんを招きますよ。出てきて何も言わなかったからそういう行儀の悪さというか、長幼の序とかをわきまえたほうがいいと話しました。映像を見てください。おかしかったらおかしいといってください。

 【4日の記者会見】

 言葉足らずだったり、私は九州の人間ですけん、ちょっと語気が荒かったりして、結果として被災者の皆さんを傷つけたということであればおわび申し上げたい。

 発災以来、ずっと東北の問題に関わり、福島、岩手、宮城に行き、すべての市町村の名前を知っています。知らないわけがありません。九州からみれば東北は広いなあという思いがあって。しっかり取り組むという意味で言ったのですけど、曲解されたというふうに思います、はい。

 私も博多の人間やけんね、語気が荒かったりした。ですけど、相手が知事ですから。市町村、被災者との話ではこういうことは申し上げないし、真剣にコンセンサスを得ていただきたい、さまざまなことで住民合意していただきたいということを申し上げたということに尽きます。

 私はちょっとB型で短絡的なところがあって、私の本意が伝わらない部分があることはさっき女房からも電話がありましたし、反省しなければならないと思っています。このまま、まっすぐ前を向いて復興にあたっていきます。(サングラスをしていないのは)忘れた。」 ーー産経新聞よりーー

 岩手では、何市がどこの県なのか判らないと平然と言うその無神経さ。一般人がそういうことを言うのなら良いが、震災復興を担当する大臣がいきなりこれじゃ、そもそも政治家の資質がないと言われても納得がいく。「震災の発生から3カ月以上もたって、国が市町村に寄り添うことは(これまで)なかった。私はボーッとしていたけど大丈夫だった。」というのも、非道すぎる。「知恵を出したところは助け、出さないやつは助けない。」というのも、一緒に復興に向けてやっていこうという気が感じられない。初めから命令する側にいるんだ俺はといっているのだ。

 宮城では、握手を求めた知事に対して拒否して、「県で(漁港再編問題の)コンセンサスを得ろよ。そうしないとわれわれは何もしないぞ。ちゃんとやれ。」頭ごなしに命令する態度。被災地を代表している知事に対して、この態度は、被災者そのもを見下し馬鹿にしている態度でなくて何なんだ!
 「お客さんが来るときは、自分が入ってからお客さんを呼べ。長幼の序が分かっている自衛隊(村井知事がかつて所属していた)ならやるぞ。今の部分はオフレコな。書いた社はこれで終わりだから。」そもそも松本龍は客か?一緒に協力して復興しようという話し合いの場なのに、そう思っていない証拠だ。おまけにその場にいたマスコミに、オフレコだから書いたら終わりだと脅している。

 翌日、いろんなところから批判を浴びても、平然と俺はおかしくないと主張した。午後になって謝罪会見をしたが、それも九州人B型で言い訳した。「言葉足らずだったり、私は九州の人間ですけん、ちょっと語気が荒かったりして、結果として被災者の皆さんを傷つけたということであればおわび申し上げたい。」といっているが、人の気持ちというモノが判らない人なのだろう。政治をする人ではない。政治家に向いていない。

 「発災以来、ずっと東北の問題に関わり、福島、岩手、宮城に行き、すべての市町村の名前を知っています。知らないわけがありません。九州からみれば東北は広いなあという思いがあって。しっかり取り組むという意味で言ったのですけど、曲解されたというふうに思います、はい。」仮にそれが本当なら、こういう言い方をする人間性に問題があるということだ。曲解されたのでは、素直に言葉の意味を取っただけだ。真意があって、それを伝えようという気持ちが微塵も感じられない。こういうことを言えば、九州の人間など来るな!言われて当然だ。明治維新の時に、薩長中心に各地で非道いことを沢山やった九州人と同じく、理不尽で横柄な態度だけが目に付く。

 辞任の理由も自分で言わずに去っていった。あくまで自分は悪くないというこの態度が余計むかつく!

 後任には岩手出身の平野達夫が就いた。元農林省キャリア。少なくと被災地では、被災地出身の復興大臣が就いたこと、松本龍の馬鹿野郎よりは、安心して任せられる雰囲気が出ているのだろう。人の気持ちが解らない松本龍は、民意を汲むことなどできない。次の選挙では落ちて貰いたい。


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