断腸亭日常日記 2011年 その15

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。

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 10月4日(火) 晴 6285

 朝夕は大分冷えるようになってきた。冷房をかけているより、窓やドアを開けた方が涼しい。被災地はもっと寒くなってきているだろう。岩手県の人口は1万5千人くらい減ったという。3月11日の津波で壊滅的な状態になったので、ふるさとを捨てて出ていった人が大勢いると言うことだろう。それはそれでしょうがないことだ。海を捨て、今までの生活を捨て、どこか違うところへ行ってやり直す気持ちがあるのなら、そうした方が良い。

 スペイン闘牛ビデオ上映会用のDVDの編集は大分進んだ。後は詰めの段階になった。


 10月5日(水) 雨 9031

 シンボリルドルフが死んだ。

 「ルドルフ死す…「皇帝」大往生30歳
“皇帝”逝く−。1984(昭和59)年、8戦8勝で菊花賞を制し、中央競馬史上で初めて無敗の3冠馬に輝いたシンボリルドルフ(牡、父パーソロン)が4日午前3時、千葉県成田市のシンボリ牧場で老衰のため死亡した。30歳だった。3冠のほかにも有馬記念連覇、天皇賞・春、ジャパンCとGIを計7勝し、日本の競馬に多大な功績を残した名馬だった。

 歴史的名馬が静かに永遠の眠りについた。千葉県成田市のシンボリ牧場で、暑い夏を乗り切ったシンボリルドルフだったが、10月に入ってから不調を訴え、4日午前3時、関係者が見守る中で死亡した。30歳で、人間に例えれば90歳あたりに相当する年齢だった。

 「ここ2、3日体調を崩しており、昨夜(3日)午後8時頃、体に震えが走るような状態になったので、獣医師が栄養剤を投与するなどして様子を見守りましたが、残念ながら眠るようにこの世を去りました。大往生だったと思います」

 和田孝弘シンボリ牧場代表(59)が、名馬の最後の瞬間を伝えた。

 日本競馬が発展途上だった1980年代。シンボリルドルフは故・和田共弘オーナー、故・野平祐二調教師、岡部幸雄騎手(現JRAアドバイザー)の国際派トリオにより、早い時期から世界を目指した。13世紀の神聖ローマ帝国皇帝、ルドルフ1世から命名され、その強さと名前の由来から、後に“皇帝”の愛称でファンに親しまれた。

 1983年7月にデビューし、翌84年、皐月賞、ダービー、菊花賞を制覇。史上4頭目、無敗(8戦)では初の3冠馬となった。ダービーでは3コーナー手前で手応えが悪くなったが、馬自身が動く場面を分かっていたのか、直線で力強く伸び、「馬に競馬を教えられた感じ」と岡部騎手はレース後に振り返った。

 ルドルフは、菊花賞後にジャパンCに挑戦。カツラギエースの3着と初の敗戦を喫したが、続く有馬記念では同馬を2馬身退けた。05年、史上2頭目の無敗(7戦)3冠馬となったディープインパクトでさえ菊花賞後はJCに出走せず、有馬記念も2着。ルドルフのすごさが分かる3歳秋だ。

 1世代上の3冠馬ミスターシービーとは3度対戦していずれも先着。通算GI7勝は、JRAのGIでは現在でも最多タイの記録だ。惜しかったのは4歳の天皇賞・秋。大外から伏兵ギャロップダイナの強襲にあい2着。敗れたルドルフは悔しさからか涙を流した、とも伝えられている。

 86年の米国遠征初戦、サンルイレイSでレース中に左前脚を痛めて6着に敗れて引退。当時としては破格の10億円(2000万円×50株)でシンジケートが組まれ、87年から生まれ故郷の北海道門別町(現日高町)のシンボリ牧場で種牡馬生活に。初年度からGI4勝トウカイテイオーを出したことは評価される。

 04年に種牡馬生活を引退し、昨年1月にシンボリ牧場に移動。昨年のジャパンC当日は東京競馬場でファンにお披露目された。「強かったルドルフの姿は私だけでなく、ファンの皆様の心の中に生き続けてくれると思います。今はありがとうの気持ちでいっぱい」と和田代表。その栄光は今後も語り継がれていく。

 先駆者ルドルフ、坂路調教に牧場調整

★牧場調整&坂路調教のパイオニア

 シンボリルドルフは画期的な試みを行った馬でもあった。トレセンを中心に調教されるのが当たり前の時代に、施設が整った千葉県成田市(当時は香取郡大栄町)のシンボリ牧場を拠点にして、規定ぎりぎりのレース10日前に美浦、栗東に入厩して出走。レースが終われば、すぐに牧場に戻るの繰り返しだった。現在は、厩舎の馬房の回転をよくすることもあり、牧場で調整され(短期放牧)、10日前に入厩も増えてきたが、ルドルフはその先駆けだった。また、シンボリ牧場では早くから坂路を導入。現在は栗東、美浦トレセンをはじめ、多くの牧場に坂路が設けられているが、これもルドルフの活躍が影響したといわれている。

★確かなバックグラウンド

 父パーソロンは日本で一時代を築いた名種牡馬。母の父スピードシンボリは1969、70年に有馬記念を連覇、日本馬としては初めて“ミスター競馬”野平祐二騎手とともに凱旋門賞に挑戦(69年着外)した。その名手が調教師となり手掛けたのがシンボリルドルフで、騎手時代、25回参戦して勝てなかったダービーを制し、岡部幸雄元騎手もダービー初制覇だった。87年に種牡馬となり、初年度産駒からトウカイテイオー(91年皐月賞、ダービー、92年ジャパンC、93年有馬記念、すべて父子制覇)を出し、テイオーは父と同様に無敗でダービー制覇を達成。ほかの活躍馬はツルマルツヨシ(99年GII京都大賞典)、キョウワホウセキ(92年GIIサンスポ賞4歳牝馬特別)など。JRAでは1000万下のコンプリートラン(美・木村、せ7)が最後の産駒である。

 岡部氏、ルドルフは「人生の一部だった」

 “皇帝”逝く−。1984(昭和59)年、8戦8勝で菊花賞を制し、中央競馬史上で初めて無敗の3冠馬に輝いたシンボリルドルフ(牡、父パーソロン)が4日午前3時、千葉県成田市のシンボリ牧場で老衰のため死亡した。

◆岡部幸雄氏(62)

「元気だと聞いていただけに、とても残念。彼ほどパーフェクトな馬はいなかった。思い出はありすぎて、ひと言で表わすのは難しいけれど、自分の人生の一部とも言える存在だった。今はお疲れ様という気持ちとともに、ゆっくり休んでくださいと言いたい」

藤沢和師、名馬の死を惜しむ「抜きん出た馬」

◆藤沢和雄調教師(60)=シンボリルドルフが現役時の野平祐二厩舎・調教助手

「馬の調教に関しても競馬のスタイルにしても、全てが理想の馬でした。色々と勉強させてもらったが、調教師になってからも、この馬を理想型に、またベースとして、強い馬を手掛け育てて見たいとやってきた。また、その一方で師匠(故・野平祐二調教師)には、ルドルフがこうだから他の馬にもと、過分な期待を持ってはいけないとも常々言われていた。それだけ抜きん出た馬でした」

◆柴田政人調教師(63)=国内最終戦の85年有馬記念でミホシンザンに騎乗して2着

「本当に強くてファンの多い馬だった。一世を風靡した馬だったね。全兄のシンボリフレンドにも乗っていたし、デビュー前の調教に騎乗したこともあった。兄は気性がきついところがあったけど、ルドルフはゆったりした馬で、体を上手に使って走るな、という印象が残っている。結局、自分が北海道にいるときに、新潟でデビューすることになって、その後もあれほどの馬だから岡部(幸雄元騎手)も離さなかったね。つい2年ほど前に見たときは元気だったけど、亡くなったと聞いたのは残念。30歳という年齢を考えれば大往生だと思うし、ご冥福をお祈りします」

◆西浦勝一調教師(60)=カツラギエースに騎乗して、日本馬として初めて84年ジャパンCを優勝。シンボリルドルフ3着に初黒星をつけた

「JRA史上に残る名馬と一緒に走り、そういう時代に競馬ができたことは名誉なことであり、誇りに思っています。ジャパンCで無敗の馬に初めて土をつけて、“カツラギエース、西浦”の名が伝えられるのも、シンボリルドルフの存在があればこそでした。本当に偉大な馬でした」

◆土川健之JRA理事長(67)

「多くの競馬ファンに強烈な印象を与え、競馬の一時代を築いた同馬の突然の訃報に接し、悲しい気持ちで一杯です。昨年、東京競馬場では現役時代と何ら変わらぬ、まさに“皇帝”と呼ぶにふさわしい雄姿を見せてくれただけに、残念でなりません。あらためて、これまで同馬が残してくれた偉大な功績に感謝するとともに、ご冥福をお祈りいたします」

◆杉本清氏(74)=当時関西テレビアナウンサーで、3冠達成を実況

「ミスターシービーに続き、2年連続3冠達成の菊花賞を実況しました(ゴール時の実況は『8戦8勝、我が国競馬史上、不滅の大記録が達成されました』)。印象としてはシービーを“暴れん坊”というならルドルフは“優等生”。いつも4、5番手につけてレースをするので、他馬に目配りもでき、安心して実況ができました。GIクラスの実況で大丈夫と思ったのは、この馬ぐらいでしたよ。個人的に凱旋門賞観戦から帰国したばかりなので、凱旋門賞に出て欲しかったなあ、とつくづく思います」

「番記者」悼む…歴代最強はルドルフ

 日本競馬史に輝かしい足跡を残したシンボリルドルフが、4日午前3時、老衰のため30歳で死亡。当時、シンボリルドルフにつきっきりで精力的な取材を行っていた栗原純一記者が、その生涯を振り返った。

 シンボリルドルフを最初に取材したのは記者になって5カ月目の1983年7月19日で、場所は新潟競馬場の厩舎だった。当時「今週の星」という話題の2歳馬(当時は3歳馬)を取り上げる企画があり、この週の土曜23日に組まれた芝1000メートルの新馬戦でデビュー予定だったルドルフを紹介。スピードシンボリなどの名馬を世話してきた伊藤信夫厩務員が絶賛していたのを、今でもはっきり覚えている。

 まさにその通り、歴史的な活躍をしたわけだが、美浦トレセンにいるよりも現成田市のシンボリ牧場にいることの方が断然多かったので、取材は大変だった。それでも、米国遠征時にはカーゴ便に同乗取材という貴重な体験もさせてもらい、ルドルフを通じて和田共弘オーナー(94年死去)、野平祐二調教師(01年死去)、岡部幸雄騎手(現JRAアドバイザー)という超一流ホースマンに深くかかわれたのは大きな財産になった。

 どの馬が歴代最強か−。そんなことは本来わかるわけがないのだが、それでも議論してしまうのが競馬ファン、関係者の性。おそらくシンザンの時代に競馬に夢中になった人にとってはシンザンが歴代最強だろうし、まだ記憶に新しいディープインパクトを上げる人も多いはずだが、記者は歴代No.1はルドルフだと信じている。(栗原純一)

ルドルフの追悼行事、全国の競馬場に献花台

 日本中央競馬会(JRA)は5日、無敗の三冠馬で、4日に30歳で死んだシンボリルドルフの追悼行事を行うと発表した。

 30日までの競馬開催日に全国の競馬場に献花台、記帳台を設置(ウインズは記帳台のみ)するほか、東京、京都両競馬場で写真展(15日〜11月27日の競馬開催日)などを開く。

 シンボリルドルフはこの日、栃木県内で荼毘に付された。」 ーーサンスポよりーー

 競馬が好きになって、騎手というモノがそこまで競走馬に関わって仕事をしているんだと驚き、感心し、尊敬し、そして、騎手の模範となる働きをしていた岡部幸雄好きになった。記録も凄いが、仕事の関わり方が凄かった。武豊の記録は確かに凄いが、仕事の関わり方、馬の接し方が岡部とは全く違うなぁと思う。その岡部を、世界の岡部にし、日本中央競馬最高の騎手にならしめたのも、シンボリルドルフだった。番記者の栗原が書いているように、和田共弘オーナー、野平祐二調教師、岡部幸雄の3人で世界制覇を夢見て、ルドルフを育成調教してレースに出走させた。

 クラシック3冠レースで、1冠を取る度にルドルフの鞍上で指を1本ずつ立てて行った岡部幸雄。皐月賞で指1本。ダービーで、指2本。菊花賞で指3本。なんとかっこよかった事か。有名な競馬アナウンサーの杉本清さんの実況して3冠目の菊花賞で、「8戦8勝、我が国競馬史上、不滅の大記録が達成されました」という台詞は、もうあらかじめ用意されていた台詞を淡々と読んでいるような実況だった。ミスターシービーのような危なっかしさが全くない完璧なレースぶり。余談を言えば、武豊がディープインパクトの鞍上で指を1本ずつ立てて行ったのは、この岡部とルドルフの真似である。もう20年ぐらい前に岡部がやっていたことだ。

 馬糞の匂いのする牧場の片隅で、世界を夢見、栄光を手に入れようと地味だがコツコツと仕事をしたホースマンがいた。そのおかげでルドルフはGTを7勝する7冠馬の称号を得られた。和田オーナーや、野平調教師が一線を引いてからは、野平調教師のもとで調教助手をしていた藤沢和雄が調教師になって岡部・藤沢コンビで多くのGTタイトルを取り、良い馬を沢山レースに出走させた。関東の調教師では段違いだったし、全国でもNO1調教師に何度も輝いた。

 僕が競馬に1番熱をあげていた頃のホットラインが岡部・藤沢だった。今、中央競馬会からは海外遠征は当たり前のことのようになっているが、その先駆けが、シンボリルドルフだった。この馬が出てこなかったら、未だに海外遠征をする馬は、殆ど出ていないような状況になっていたかも知れない。ルドルフ以前とルドルフ以降では、日本の競馬が、明らかに変わったのだ。そして、僕の1番好きな馬、トウカイテイオーは、ルドルフが種牡馬として送り出した最高傑作だった。


 10月6日(木) 雨 5914

 夜、岡部幸雄のビデオを観た。ルドルフの競馬中継では、アナウンサー達の名実況がある。天皇賞・秋の、「あっと驚くキャロップダイナ」もその一つだ。1番人気のルドルフがゴールまで抜け出し勝ったと思った時に、大外強襲で差しきったダート馬ギャロップダイナに、境アナウンサーが思わず発した言葉だった。負けるはずがないルドルフが負けた驚きがその言葉に表れている。

 日本最後のレースになった有馬記念では、盛山アナウンサーが、「世界のルドルフやはり強い、3馬身4馬身日本のミホシンザンを離す。日本最後の競馬。最後のゴールイン。ルドルフ圧勝いたしました。日本でもうやる競馬はありません。後は世界だけ」

 日本にある中距離GTレースの殆どを勝ったルドルフ。ジャパン・カップでも外国の強豪馬を退け、後は世界に打って出るだけになったルドルフを盛山アナウンサーはこう表現した。プロ野球の視聴率が20%行っていた時代で、花のアナウンサーがプロ野球中継で、競馬中継がアナウンサーにとって裏路の頃。でも、アナウンサー達は、約2分半のレース中継の中に、それぞれの思いや、その時の描写をちりばめて精一杯の言葉を発し続けた。

 そういうモノが名実況として残ったのだ。ルドルフだけでなく、杉本清アナウンサーの名実況は、非常に印象に残る言葉を発した。「大地が弾んでミスターシービー先頭だ。19年ぶりの三冠馬の誕生か」 「菊の季節に桜が満開。サクラスターオーです」 「負けられない南井克己、ゆずれない武豊」 「メジロはメジロでもマックインの方だ」 「あーもうゴールに入る前から横山典弘ガッツポーズ。1週間遅れの18番です」

 なんて琴線を弾く言葉が詰まって居るんだろう。競馬が庶民にお金ではなく、夢を与え続けていた時代の話だ。


 10月8日(土) 晴 21019/2

 アップル社の会長スティーブ・ジョブズが癌のために死亡した。

 「 「アップルは先見性がある独創的な天才を失い、世界は驚嘆すべき人物を失った」。5日夜、創業者のスティーブ・ジョブズ氏の死去を発表した米アップルは、ホームページにトレードマークの黒いタートルネック姿のジョブズ氏の写真を掲げ、「彼の精神は永遠にアップルの基礎となるだろう」と、IT業界のカリスマの死を悼んだ。

 アップルは、ジョブズ氏の主導で開発され、同社の業績を大きく飛躍させたスマートフォン(多機能携帯電話)「iPhone(アイフォーン)」の新機種「4S」を4日に発表したばかり。発表の場にジョブズ氏が現れるのではないかとの期待も出ていただけに、突然の訃報は米国だけでなく、全世界を衝撃をもって駆け巡った。

 ジョブズ氏は55年、大学院生だった未婚の母の下に生まれ、生後すぐに養子に出された。米リード大学を中退後、20歳の時に自宅のガレージでアップルを創業。コンピューター「マッキントッシュ」などを発売し、10年後にはシリコンバレーで従業員4000人、年商20億ドル(約1650億円)の新興企業に育て上げた。

 30歳で共同経営者との路線対立からアップルを退社。その後、アニメーション会社ピクサー・アニメーション・スタジオを買収し、映画「トイ・ストーリー」などの製作を手がけた。97年にアップルの経営に復帰すると、米マイクロソフトとの提携や大規模なリストラなどで低迷していた業績を再建した。

 すべての製品の経営判断にかかわり、98年には丸みを帯びたデザインと鮮やかなツートンカラーが話題を呼んだパソコン「iMac(アイマック)」を発売。01年発売の携帯音楽プレーヤー「iPod(アイポッド)」や07年発売のアイフォーンなど、斬新なデザインと新しい機能を兼ね備えたヒット商品を次々と発表し、経営手腕は「魔術師のよう」とも賛辞を浴びた。

 ただ、自社商品へのこだわりの強さゆえに時に強引と評されることも。10年に発売した新型のアイフォーン4が、アンテナの設計上の欠陥から、米国で受信感度が落ちると指摘された際には、他社のスマートフォンでも同様の問題があり、アップル固有の問題ではないと強弁。会見で男性が「嫌なら買うな」と歌う動画を流す場面もあった。

 ジョブズ氏は今年8月の退任後も、その病状やアップルの経営への関与度合いが大きな注目を集めてきた。同社の「顔」であることは変わらず、精神的支柱だっただけに、今後の経営にも少なからず影響を与えそうだ。

 ◇「ハングリーであり続けろ」

 「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」。スティーブ・ジョブズ氏は05年の米スタンフォード大学卒業式で行われたスピーチの最後に「みんなにもそうあってほしい」とこう呼びかけて締めくくった。すでにがんと診断されて1年。米カリフォルニア州の情報技術(IT)先進地、シリコンバレーで次世代を担う若者たちに伝えたい最後のメッセージが、ハングリー精神だった。

 ジョブズ氏は演説の中で、がんと診断された後の死生観について「古きものは消し去られる」と心境を告白。「時間を無駄に過ごしてはいけない」「自分の心と直感に従う勇気が大切だ」と説いた。

 シリコンバレーで医療技術分野のコンサルタントをしている元スタンフォード大客員教授の金島秀人氏(58)は「ジョブズが訴えるハングリー精神は、決して金もうけや上昇志向ではなく、自分の感性を信じて挑戦する創造的な姿勢だ。それこそがシリコンバレー精神の本質だ」と語る。

 ジョブズ氏は1970年代半ばからサンフランシスコ近くの禅センターに通い、仏教を学んだ。講演ではよく禅の教えを引用し「他人の価値観に振り回されないよう、無駄をそぎ落とせ」と強調していた。ロサンゼルスの日米文化会館で芸術監督を務める小阪博一さんは約20年前、会議で立ち話をした際、ジョブズ氏が「(仏教を海外に紹介したドイツ人哲学者)ヘリゲルの本『弓と禅』を読んだ」と、いかに禅の影響を受けたか話していたのを思い出すという。

 ジョブズ氏は04年にがんと診断された後、3度にわたり休職と復帰を繰り返し闘病してきた。いつも入院先は明かさず、8月にCEO退任を役員に伝えた後はメディアを含む外部と連絡を絶っていた。」 ーー毎日新聞よりーー

 「米アップは5日、スティーブ・ジョブズ取締役会会長が同日死去したと発表した。56歳だった。病気療養中だったジョブズ氏は今年8月、最高経営責任者(CEO)の職をティム・クック氏に委譲。アップルは昨日、高機能携帯端末(スマートフォン)「iPhone(アイフォーン)」の新機種「4S」をクックCEOの下で発表したばかりだった。

 以下は、ジョブズ氏の訃報に寄せ、各界の著名人から寄せられたコメント。

 ●これからも多くの世代に影響を残す <米マイクロソフトの共同創業者ビル・ゲイツ氏>
 スティーブと私は30年ほど前に出会い、お互いの人生の半分以上を通じて仲間であり、競争相手であり、そして友人だった。スティーブのような多大な影響力を持った人は世界でもまれであり、これから先も多くの世代に影響を残すだろう。一緒に仕事をすることができたのは幸運であり、非常に光栄なことだった。

 ●世界を変えられることを見せてくれた <米フェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEO>
 スティーブ、指導者そして友人でいてくれてありがとう。世界を変えられることを見せてくれてありがとう。寂しくなる。

 ●時代を決定づける想像力に富んでいた <米ウォルト・ディズニーのボブ・アイガーCEO>
 スティーブ・ジョブズは偉大なる友人であり、信頼のおけるアドバイザーだった。彼の功績は、彼が作り出した製品や彼が構築したビジネスをはるかに超えて残っていくだろう。それは、彼がインスピレーションを与えた多くの人々であり、彼が変えた生活、彼が定義づけたカルチャーだ。スティーブは、とことん創造的で、時代を決定づける想像力に富んだまさに「オリジナル」だった。

 ●米国の起業家たちを鼓舞する存在 <米大統領選共和党候補を目指すミット・ロムニー前マサチューセッツ州知事、ツイッターで>
 スティーブ・ジョブズは米国の起業家たちを鼓舞する存在だ。惜しまれる。

 ●カリフォルニアドリームを体現 <米カリフォルニア州前知事のアーノルド・シュワルツェネッガー氏>
 スティーブは人生でカリフォルニアドリームを体現していた。世界を変え、われわれすべてにインスピレーションを与えた。

 ●モーツァルトやピカソのように不世出 <ネットスケープの創業者マーク・アンドリーセン氏>
 スティーブは一流の中の一流だった。モーツァルトやピカソのように、不世出の存在となるだろう。

 ●業界、顧客に途方もない恩恵をもたらした <米ベライゾンのローウェル・マカダムCEO>
 スティーブ・ジョブズは、世界を何度も変えた技術革新にエネルギーと創造的才能を捧げ続けてきた。卓越したものへの彼の追求心は、われわれの業界、すべての顧客に途方もない恩恵をもたらした。 」 ーーロイターよりーー

 オバマ大統領は、「 「スティーブは米国最高のイノベーターの1人だった。勇気があり、人と違う考えができた。大胆な人物で、自分が世界を変えられると信じることができた。そして、それを成し遂げる才能があった」と表明。 「世界はビジョンのある1人の人物を失った。世界中の多くの人がスティーブの発明した機器で彼の死を知ったという事実ほど、スティーブの成功を如実に物語るものはないのではないか」と述べた。」 ーーロイターよりーー

 彼が残した言葉がいくつか紹介されている。

「 ●死について
 自分がもうすぐ死ぬということを自覚しておくことは、これまで私が出会ってきた中で、人生で大きな決断を下す手助けになる最も重要な道具だ。なぜなら、ほぼすべてのこと、すべての外部からの期待、あらゆるプライド、恥や失敗に対するいかなる恐れも、死の恐怖を前にすれば消え去り、本当に重要なものだけが残るからだ。いつか死ぬということを覚えておくのは、自分が知る限り、何かを失うと考えてしまう落とし穴を避ける最善の方法だ。あなたはすでに裸だ。自分の心に従わない理由はない。
 時間は限られているのだから、ほかの誰かの人生を生きることでそれを無駄にしてはいけない。他人の考えの結果に従って生きるというドグマにはまってはいけない。自分の内なる声を他人の意見でかき消されないようにしよう。(2005年 スタンフォード大学での学位授与式で)

 ●イノベーションについて
 イノベーションは、新しいアイデアについて廊下で立ち話する人や、夜の10時半に電話をかけ合うような人たちから出てくる。誰も見たことがない最高なものを思い付いたと考える誰かが、そのアイデアについて他の人の意見も聞きたいと呼び掛けて集まった6人だけの急なミーティングだったりもする。そして、間違った方向に向いていないか、やり過ぎていないかを確かめるため、1000の項目にノーと言うことから生まれる。(2004年 ビジネスウィーク誌でのインタビュー)

●デザインについて
 多くの人のボキャブラリーでは、デザインは化粧板を意味する。それは内装であり、カーテンやソファーの素材だ。しかし私にとっては全く違う。デザインとは、人間が作った創造物の基本となる魂であり、最終的に製品やサービスの連続的な外層で表現されるものだ。(2000年 フォーチュン誌でのインタビュー)

 ●マッキントッシュ誕生について
 何かに根を詰めたことがあるとは思っていないが、マッキントッシュの開発は最も素晴らしい経験だった。関わったほぼすべての人がそう言うだろう。最後には誰1人としてマックを手放したくなかった。一度自分たちの手を離れたら、2度と自分たちのものではなくなると知っていたかのようだった。最後に株主総会で披露したとき、会場の全員が5分間のスタンディングオベーションをしてくれた。自分が感動したのは、マックチームの面々が前列の方にいるのが見えたことだ。本当に完成させたというのを誰1人信じられないようだった。全員が泣き始めた。(1995年 プレイボーイ誌でのインタビュー) 」 ーーロイターよりーー

 夢がなければ世界を変えられない。オバマ大統領は、「世界はビジョンのある1人の人物を失った。世界中の多くの人がスティーブの発明した機器で彼の死を知ったという事実ほど、スティーブの成功を如実に物語るものはないのではないか」といった。この言葉からも、彼がどれほど世界に影響を与え成功していたかを証明していると、思う。


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