−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。
10月30日(日) 曇のち小雨 27299
ゴール直後、しーんとなった東京競馬場。今日の天皇賞は何だったんだろうか?追い切り調教で、併せ馬で遅れ、体が太いと言われながらそれでも1番人気なっていたブエナビスタ。馬体重が発表されマイナス10キロ。ちゃんと絞れている。それで単勝が2.8倍まで人気になった。体が良くなったというペルーサは、プラス14キロ。パドックで馬を観たが問題ないと思った。
「 スタートは14番シャドウゲイトが出負け。18番アーネストリーもあまりいい出だしではなかった。対照的に好スタートを切ったのが1番シルポート。最内枠を生かして迷いなくハナを切った。2番手は6番ビッグウィーク、そして出が悪かったアーネストリーが外から一気に挽回して3番手に取りついた。4番手に4番エイシンフラッシュ。差がなく11番ローズキングダム、13番ミッキードリームも好位に。1馬身差で5番ブエナビスタ、3番アクシオン、7番ダークシャドウが並んで中団から。17番トゥザグローリー、2番トーセンジョーダン、16番ナリタクリスタルと縦に並んで中団の後ろ。そこから3馬身離れて8番ペルーサ、15番シンゲン、2番ダノンヨーヨー、シャドウゲイト、9番ジャガーメイル、差がない最後方に10番メイショウベルーガという隊列となった。
シルポートがグングンとリードを広げて2番手のビッグウィークとは6馬身以上の差。前半1000m通過が56秒5という超ハイペースとなった。後方の隊列はあまり変わらないまま3〜4コーナーへ。ペースは速いながらも各馬手ごたえ十分で4コーナーを回り、最後の直線に入った。シルポートのリードは3馬身に縮まった。2番手にはエイシンフラッシュが上がり、ブエナビスタは内の馬群を割りにかかった。ローズキングダムは内目でやや手ごたえをなくし、隣のアーネストリーは完全に脚が上がった。馬場の真ん中でトゥザグローリーは食い下がり、その横から勢いよくトーセンジョーダン。1馬身遅れて内のダークシャドウもスパートを開始。さらに外からはペルーサが脚を伸ばし始めた。
残り200mではエイシンフラッシュが先頭も、まもなくトーセンジョーダンが襲いかかる。同馬の内からはダークシャドウで、完全にトーセンジョーダンとの叩き合い。両外人ジョッキーのムチがうなり、激しい叩き合い。内のブエナビスタ、そして外のペルーサの猛烈な追い込みを許さなかった。前2頭の死闘はわずかに外のトーセンジョーダン。ゴール板を過ぎてピンナ騎手が立ち上がり、勝利をアピールした。
主導権は予想通りシルポート。ただ、ペースが想定外となった。馬場がよかったこともあるが、前半1000m通過56秒5という速い流れになり、レコードタイムを誘発した。やや離れていた好位勢も結果的には厳しい展開。スタート早々、挽回するために脚を使ったグランプリホース・アーネストリーでさえ、直線に入って間もなくのところで余力がなかった。その展開を中団やや後ろで構えていたのがトーセンジョーダン。終始スムーズなレースで、追い出すタイミングも抜群だった。ダークシャドウは初G1ながら堂々の2着。東京芝コースの連勝は止まったが、今後も期待が持てる走りだった。ペルーサはスタートが決まり、ペースもよかったが、外を回った分届かなかった。残念なのが1番人気のブエナビスタ。最後の直線で内で包まれてしまい、追い出すタイミングが完全に遅れてしまった。」 ーーJRA-VANのレース展開・総括よりーー
馬場が良いのでレコーダが出てもおかしくないと思っていたが、シルポートが超ハイペースを演出してレコード決着。前走札幌記念1着のトーセンジョーダンが優勝、2着が、これまたトライアル毎日王冠1着のダークシャドウが入った。3着が上がり3F最速の33秒9を出したペルーサ。4着にようやくブエナビスタ。内で窮屈な競馬をして差を詰めれなかった。5着がトゥーザグローリー。
先週三冠を取ったオルフェーヴルに続き、池江泰寿厩舎がGT連勝。競馬って本当に判らない。誰がこんな結果を予想しただろう。ハイペースだったので、後から来た、トーセンジョーダンが優勝し3着ペルーサ、5着トゥーザグローリーが入った。比較的前にいた、ダークシャドウや、ブエナビスタは良くやったという展開になった。特にダークシャドウは、GT初挑戦で僅差の2着は本当に立派だ。パドックに出てきたときはうるさかったが周回を重ねるごとに落ち着いていた。
しかし、この結果にスタンドが静まりかえった。驚いて声が出ない状態だった。しかも、1・2着が外国人騎手というのも、人を食っている。レースのリプレイを2・3度観て競馬場を後にした。帰りの電車の中は、競馬の話が聞こえなかった。みんな唖然呆然の状態だ。
10月31日(月) 曇 9278
「 《千夜千冊 第七夜 ベンチェン・ユー『神々の猿』より》
ハーンは日本を愛惜した。村の家の障子が黄色いランプで仄かに輝いているのが好きだった。小さな中庭の桃の木が屋根の甍にまで影を落としているのが何にともくらべられるものがないほど、美しかった。日本の夏は簾と虫籠のゆれぐあいに見とれ、晩秋の石段にはいつも「無」というものの言葉が秘められているのを感じた。
美しさに注目しただけではなかった。「日本の内面生活の暗示と影響」のサブタイトルをもつ『心』では、おおかたの日本人には思いがけないだろう数々の指摘をした日本論を綴っている。
たとえばそのひとつ、ハーンは、ギリシアに発する西欧の美術が「永遠」をめざしてルネサンスから近代までを駆けたのに対して、日本は「一時しのぎ」のために西欧に匹敵する技量をもって家屋や調度を彫琢してきたと指摘した。ハーンはいわば「一時しのぎ」という「かりそめ」に日本の本来があるとみなしたのだ。そしてそのことが、世界の諸文化のなかでは比類のない成果だという見方を披露したのだった。
いったいなぜ、ハーンはここまで日本を書けたのか。たんなるエキゾティシズムではここまでは書けない。
そのようなハーンの日本賛歌ぶりを、日本贔屓の先輩友人で、明治6年から日本に滞在して『古事記』を試訳したバジル・ホール・チェンバレンは、次のように見ていた。「ハーンが見た日本はハーンの空想だったのではないか。そんな日本は実際にはほとんどなくなりかけていたのである」と。チェンバレンは『日本事物記』の著者でもあるが(これはこれでおもしろい、やはり東洋文庫に入っている)、ハーンは理想化した日本の面影に視線を注入しすぎているのではないかと見たのだった。
はたしてハーンの見た「神々の国」は幻影だったのか。そうでないとも言えるし、そうであるとも言える。
なぜならわれわれ日本人の多くが、日本の面影の本質を読みとる感覚と才能のかなりの部分を失っているからだ。それは、ハーンが去ったあとに柳田国男が登場し、さらに折口信夫が登場して日本の昔話を再生させて古代のマレビトを感じようとしたときすでに、そのように日本の面影を見ることが正しいのかどうか、誰も見当がつかなかったことでも推測がつく。われわれにはハーンを"判定"するには分母の損傷がありすぎる。
そうとなると、さて、ハーンの日本論をいったい日本人に評価できるのだろうかということになる。この問題はけっこう重い。なぜハーンが日本の魅力をあれほどまで絶妙に表現できるのかという謎を追求するだけでは、答えがつかないことがあるからだ。
そこでたとえば、ハーンおける東西文化の融点をさぐる必要が出てくる。また、ハーンにおけるオリエンタリズムの発生と頂点と限界を観察してみる必要がある。さらにまた、ハーンにおけるクレオール文化に対する探求心がどのような表現に及んでいたのか、それをギリシアやアイルランドやニューオリンズの「クレオールな面影」にも求め、その表現深度を見ておく必要がある。こうした問題を深めないで、ハーンの「日本の面影」を"判定"することは難しいのだ。」
(中略) ハーン自身が、アイルランドの血とギリシアの血を合わせ持ったクレオールだったことも関係しているでしょう。
ハーンはその後、セツ夫人の語る日本に伝わる怪談話に関心をもち、それを聞き書きしてついにあの有名な『怪談』をまとめます。このハーンによる昔話や伝説の「再話」という方法こそ、私はハーン独自の日本へのアプローチであり、また日本の面影というものを、世界的なクレオール文学に仕立てるためのリテラシーだったのではないかと思っています。『神々の猿』はそういうことも鋭く見抜いて類推して見せています。
つまりハーンの日本への向きあいかたは、たんに失われゆくものへの感傷や懐古ではなかったということなんですね。私もこのベンチェン・ユーの見方に賛成です。これはずばりいえば「面影」とは何かということで、面影を追うことは実体を追うことより本質的なものにアプローチできるのではないか、ということなんです。」 ーー『神仏たちの秘密 日本の面影の源流を解く』松岡正剛よりーー
京都生まれの松岡正剛は、「面影を追うことは実体を追うことより本質的なものにアプローチできるのではないか、ということなんです。」という。これは非常にヒントになる言葉だ。ハーンは、日本の面影を自分の中で消化しようとして『怪談』などの本を書いていったのではないか?今回の旅についての重要なヒントが含まれていると、強く感じた。
11月2日(水) 曇 26162/2
昨日は、本読んだり、ネットをしたりしていたらいつの間にか、0時を過ぎていた。そのまま、作業を続行した。お願いがあって万希ちゃんに電話したが、よく調べたら、もうちょっとこっちでやることがあることに気付いた。それを解決してからの方が良いかと思い、もうちょっとたってから連絡することにした。
何なんだろう。最近本を読んだりネットを観たりして色々調べているが、何かが見えかけてきているような気がしている。これは、松岡正剛に大きな影響を受けているからだろう。
「へルンが日本に参りましたのは、明治二十三年の春でございました。
ついて間もなく会社との関係を絶ったのですから、遠い外国で便り少い独りぽっちとなって一時は随分困ったろうと思われます。出雲の学校へ赴任する事になりましたのは、出雲が日本で極古い国で、色々神代の面影が残って居るだろうと考えて、辺鄙で不便なのをも心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないから、赴任したようでした。
下市へ参りまして昨年の丁度今頃赴任の時泊りました宿屋を尋ねて、踊りの事を聞きますと『あの、今年は警察から、そんな事は止めよ、と云って差止められました』との事で、ヘルンは失望して、不興でした。『駄目の警察です、日本の古い、面白い習慣をこわします。皆耶蘇のためです。日本の物こわして西洋の物真似するばかりです』と云って大不平でした。
それに瘤寺と云う山寺の御隣であったのが気に入りました。
昔は萩寺とか申しまして萩が中々ようございました。お寺は荒れていましたが、大きい杉が沢山ありまして淋しい静かなお寺でした。毎日朝と夕方は必ずこの寺へ散歩致しました。度々参りますので、その時のよい老僧とも懇意になり、色々仏教の御話など致しまして喜んでいました。それで私も折々参りました。
日本服で愉快そうに出かけて行くのです。気に入ったお客などが見えますと、『面白いのお寺』と云うので瘤寺に案内致しました。子供等も、パパさんが見えないと『瘤寺』と云う程でございました。
よく散歩しながら申しました。『ママさん私この寺にすわる、むつかしいでしょうか』 この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。
『あなた、坊さんでないですから、むつかしいですね』『私坊さん、なんぼ、仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』『あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』
『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』『高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』
『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』
私共と女中と小猫とで引越しました。
この小猫はその年の春未だ寒さの身にしむ頃の事でした、ある夕方、私が軒端に立って、湖の夕方の景色を眺めていますと、直ぐ下の渚で四五人のいたずら子供が、小さい猫の児を水に沈めては上げ、上げては沈めして苛めて居るのです。私は子供達に、御詫をして宅につれて帰りまして、その話を致しますと『おゝ可哀相の小猫むごい子供ですね――』と
云いながら、そのびっしょり濡れてぶるぶるふるえて居るのを、そのまま自分の懐に入れて暖めてやるのです。その時私は大層感心致しました。
山で鳴く山鳩や、日暮れ方にのそりのそりと出てくる蟇がよい御友達でした。
テテポッポ、カカポッポと山鳩が鳴くと松江では申します、その山鳩が鳴くと大喜びで私を呼んで『あの声聞きますか面白いですね』自分でも、テテポッポ、カカポッポと真似して、これでよいかなどと申しました。蓮池がありまして、そこヘ蛇がよく出ました。『蛇はこちらに悪意がなければ決して悪い事はしない』と申しまして、自分の御膳の物を分けて『あの蛙取らぬため、これを御馳走します』などと云ってやりました。
『西印度にいます時、勉強して居るとよく蛇が出て、右の手から左の手の方に肩を通って行くのです。それでも知らぬ風をして勉強して居るのです。少しも害を致しませんでした。悪い物ではない』と云っていました。
落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をした事があります。その度毎に落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。
平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそへルンの理想でございましたろうが、そんなところも急には見つかりません。
墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申して居りましたが、遂に瘤寺で葬式をして雑司谷の墓地に葬る事になりました。
雑司ケ谷の共同墓地は場所も淋しく、形勝の地でもあると云うので、それにする事に致しました。一体雑司ケ谷はへルンが好んで参りましたところでした。私によいところへ連れて行くと申しまして、子供と一緒に雑司ケ谷へつれて参った事もございました。
面影橋と云う橋の名はどうして出たかと聞かれた事もございました。鬼子母神の辺を散歩して、鳥の声がよいがどう思うかなどと度々申しました。関口から雑司ケ谷にかけて、大層よいところだが、もう二十年も若ければこの山の上に、家をたてて住んで見たいが残念だ、などと申した事もございました。
表門を作り直すために、亡くなる二週間程前に二人で方々の門を参考に見ながら雑司ケ谷辺を散歩を致したのが二人で外出した最後でございました。
その門は亡くなる二日前程から取りかかりまして亡くなってから葬式の間に合うように急いで造らせました。
掛物をよく買いましたが、自分からこれを掛けてくれあれを掛けよ、とは申しませんでした。ただ私が、折々掛けかえて置きますのを見て、楽しんでいました。御客様のようになって、見たりなどして喜びました。
地味な趣味の人であったと思います。御茶も好きで喜んで頂きました。私が致していますと、よく御客様になりました。一々細かな儀式は致しませんでしたが、大体の心はよく存じて無理は致しませんでした。
ヘルンは虫の音を聞く事が好きでした。この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。私は『あの音を何と聞きますか』と、ヘルンに尋ねますと『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、直に死なねばならぬと云う事を。気の毒ですね、可哀相な虫』と淋しそうに申しまして『この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう』と私共は約束致しました。
桜の花の返り咲き、長い旅の夢、松虫は皆何かへルンの死ぬ知らせであったような気が致しまして、これを思うと、今も悲しさにたえません。」 ーー「小泉八雲全集 別冊」第一書房 『思い出の記』小泉節子よりーー
俗に、虫の知らせとは言うが、これが小泉八雲と節子の虫の知らせだった。
11月3日(木) 曇 29876
本屋に行って調べていたら、買いたくなった物が2つ。『秋 限定の 京都 2011』(JTBのMOOK)、『神々の国の首都』小泉八雲著、平川祐弘編(講談社学術文庫)。昼食をキリンシティーで取りながら、『秋 限定の 京都 2011』を読んでいた。ここに載っている写真を、見せただけでもコルバチョが喜ぶような気がする。紅葉の赤と神社の鳥居の朱色。この色には、心惹かれる。唐十郎の『腰巻きお仙』の腰巻きの色も朱色で、横尾忠則がポスターを描いた。
子供の頃、祖母ちゃんが風呂上がりに、若秩父の様にたれた乳房を出して、朱色の腰巻きをして立っている姿を思い出す。部屋にあった元ちとせのDVD『冬のハイヌミカゼ』を観たら、ここでも赤い衣装を着ていて歌っていた。彼女は、巫女のような神聖な感じのする声と雰囲気を持っている。この赤い衣装はとても合っている。神社の巫女と言うより、恐山のいたこの様な神秘的な処がある。盲目の霊媒者である、いたこが死者の霊を呼び、その言葉をくちうつして訊かせる。いたこは、ちょっとおどろおどろしい処があるが、元ちとせには、そういう処はない。ただ歌と向かい合っている時間が心地よい。
紅葉は、赤、朱色、黄色、茶色などが混ざっているが、京都の紅葉のもっと素晴らしいところは、約1ヶ月近く、市内で手の届くところでその紅葉が観れるところだ。山の方から始まり、それが嵐山、東山などに下りてきて、各お寺などの木々も色づく。そして、赤と緑の対比が色の中でもっとも栄える対比だ。それがお寺の建物などと調和して何とも言えない気分になる。日本の面影がそこに出現する。これは、おそらく春の桜の季節も同じような状態になるのだと思う。
桜はつぼみの時、満開の時、花が散るときの3回にわたって楽しめる。僕個人では、なんと言っても、花が散るときが1番綺麗で好きだ。ただ綺麗なだけじゃなく、もの悲しさも同時に感じるところが、多重的な感情を呼び起こすので日本人好みだと思う。
11月4日(金) 雲 5039
スーパーに行って酢を買おうとした。そうすると、ナトリウムが入っていないモノがないくらい少量だが、含まれている。それが、酢だけじゃなくて、食材についても同じような事が言える。こんにゃくにも含まれているし、豆腐だってにがりで固めるので塩分が含まれているのだろうと思うと、きりがなくなる。どうすれば塩分0%の食材と調味料で料理が出来るのか。意外と外国産のワインから作った酢には塩分が含まれていなかった。こういうのがヒントになってくるのだろうが、それじゃ日本料理にならない。試行錯誤は続く。
ホセ・トマスは、火曜日20時45分マラガで父親になった。妻イサベルとの間に男の子が生まれ、ホセ・トマスと命名した。
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