断腸亭日常日記 2012年 その19

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。
太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月京都旅行の滞在日記です。

99年4月15日〜5月11日 5月12日〜6月4日 6月7日〜6月10日 2000年4月20日〜4月29日 5月1日〜5月14日
5月15日〜5月31日 6月1日〜6月15日 6月16日〜6月29日 2001年4月19日〜5月3日 5月4日〜5月17日
5月18日〜5月31日 6月1日〜6月11日 6月12日〜6月22日 2002年4月16日〜4月30日 5月1日〜5月15日
5月16〜5月31日 6月1日〜6月13日 2003年4月16日〜5月24日 5月25日〜6月10日 6月12日〜6月26日
2004年4月14日〜5月7日 5月8日〜5月31日 6月1日〜6月17日 2005年3月31日〜4月24日 4月25日〜5月22日
5月23日〜6月16日 2006年4月13日〜5月6日 5月7日〜5月29日 5月30日〜6月19日 2007年4月20日〜5月19日
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6月23日〜7月3日 7月4日〜7月21日 9月24日〜10月2日 2010年5月29日〜6月7日 6月8日〜6月26日
11月14日〜11月26日 2011年3月5日〜3月17日 7月20日〜7月31日 8月1日〜8月22日 9月14日〜10月3日
 11月21日〜11月27日 2012年1月2日〜1月11日 1月12日〜2月8日 2月9日〜2月22日 2月23日〜3月12日
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 10月11日(木) 雨のち曇 20954

 窓を開けていると心地よい風が入ってくる。もう少しすると、寒さが感じる季節になる。その前の秋の夜長を楽しみたい気分だ。

寒露過ぎ 湯豆腐つまみに 飲む酒に 新月前の 月明かりかな 風吟
おぼろ月 結ばれし契り 満月に 別かるる話 浮かぶ秋の夜  風吟


 10月12日(金) 曇 4876

 スパに行き、風呂と岩盤浴をして戻ってきた。道端の花を携帯のカメラで何枚か撮った。紫の小さな花や、実がなっている雑草があり、何という名前なのか気になる。これから明日の準備をしなければならない。つまり、競馬の予想だ。

 ヤンキースは延長の末、負けて2勝2敗のタイになった。次勝てばリーグ優勝決定戦に出れるが、負ければ終わりだ。

道端の 名もなき花も 咲き急ぐ 秋も深まる 遊歩道かな  風吟


 10月15日(月) 晴 55634/3

 今日の朝は、秋本番の肌寒さを感じた。秋華賞は、3連複の2点で行ったが、外れた。ヤンキーズは、ジーターが怪我をして2連敗。今日は新宿に行った後、横浜まで出掛けたが、成果が出なかった。眠いのと疲れで、思考能力が著しく低下している状態で、頭がというか、体が疲れを訴えている状態だ。

 明日は研修に行かなければならない。それからどうするか考え中。名案が浮かぶように、酒でも飲んでゆっくりしたい。そして、ゆっくり起きてのんびりしたい気分だ。

新月は 上弦の月 満月に 向かう明るさ 秘めて浮かぶか  風吟
肌寒さ感じる秋の夕暮れ 人の情けや 温くむ心根  風吟


 10月16日(火) 晴 13139

 研修が終わって、部屋に帰ってきた。ネット検索などやっていたら、11月12月の京都の特別拝観予定が載っていた。それを観ていたら、冷泉家、有栖川宮旧邸が京都御所の一般公開に合わせて観れる。特に冷泉家は、数年に1度しか公開されない処だ。よだれが出そうな公開情報だ。また、信長が作った庭がある真如院もこの時期に観れる。その他には、どうしても観たいと思っていた、大徳寺の塔頭が6つも公開される。これも大いにそそられる。これだけの情報を前にして、「行けばいいじゃない」という悪魔のささやきが聞こえてくる。うー苦しい。

 なお、新たに判った情報では、小川治兵衛の作庭した庭で、何有荘(かいうそう)は、巨額の詐欺事件の舞台になり2004年から翌年にかけて100年ぶりに一般公開されたが、今は公開されていない。2010年にオークションで有名なクリスティーズの仲介で80億で売りに出され、アメリカ人ネット長者ラリー・エリソンが購入した。購入金額は判らないという。

 この事で判かったのは、南禅寺山大門が消失して荒れていた時に南禅寺から、「明治初期、上知により某氏の所有となり、その邸宅となっていたが1905年(明治38年)に稲畑勝太郎の所有となり、建物および庭園を改修し「和楽庵」と称された。「和楽庵」は、昭和・大正・明治にかけて内外の要人が訪ねる京都の社交場として活用され、その後所有者が二代目の大宮庫吉に変わると「何か有る様で何も無い。何も無い様で何か有る」という禅の言葉から「何有荘」と命名された」 ーーウキペディアよりーー 

 その時期、南禅寺界隈に小川治兵衛が作庭した庭が多く造られた。「明治初期、京都東山・南禅寺界隈に新たに形成された別荘地において、東山の借景と琵琶湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園群(南禅寺界隈疏水園池群)を手掛けたことで名高い。」 ーーウキペディアよりーー これは上知によって没収されたもの?を別荘として活用するときに庭が造られたようだ。

 しかし、その多くが今一般公開されていない。對龍山荘庭園、洛翠庭園、清流亭、碧雲荘、織寶苑(現、流響院)庭園、怡園、光雲寺、有芳園など多数ある。その中で清風荘は京都大学が所有していて、職員であれば平日観れるのだという事を知る。

 勿論、小川治兵衛(通称植治)が作庭した庭で公開されているいるところもある。平安神宮の庭園、円山公園の庭園、八坂神社苑、無鄰菴やウェスティン都ホテルの葵殿庭園、料理旅館八千代の旧上田秋成邸庭園、料理旅館菊水の旧寺村助右衛門邸庭園、料亭高台寺土井庭園、料理屋がんこの高瀬川源流庭苑、平安ホテルの庭園、並河靖之七宝記念館の庭園、白川院庭園などである。

 あー悪魔のささやきが聞こえる。


 10月17日(水) 晴のち曇のち雨 6927

 床屋へ行って髪を切り風呂に入ってのんびりしていたら、ふと気づいた。闘牛の会にいたときは、こんな気分になったことはない。生活のスタイルが一変した。好きなことも出来ずに、抑圧された状態が続いていたあの頃。それが今は、自由に考え行動できる。素晴らしいと、思った。ただ、あの15年はいったい何だったんだろうと、改めて思う。無駄な15年と言って良いだろう。もっと早く気づくべきだった。

 そうすれば、今頃は、京都だって、奈良だって、高野山や出雲だって何度も行って頭の中で色々なことを思い描ける状態になっていただろう。それが悔しい。人と人と思わない人たちと関わることはなかった。彼らは全然そのことに気づいてはいないだろう。配慮のかけらもない心根を持った人たちとは付き合いきれない。人の嫌がることをごり押しする体質には呆れてしまう。

 さっさと辞めていたら、今頃京都の紅葉も何度も行って、見飽きるくらいになっていたような気がする。紅葉は草木だけでは栄えない。そこに人間の作った建物や石灯籠や石庭などがあった方が、より際だつ。日本という国に生まれて、京都の紅葉を観ると強くそう思う。山の紅葉も素晴らしいが、やはり、人が手を入れたところの方が、美しいと思う。

儚さを 守り続ける 庭園の あっぱれな色 染み入るまなこに  風吟


 10月18日(木) 雨 28310

 菊花賞は、調教で絶好調をアピールした岩田騎乗のディープブリランテは、脚部不安の為、回避した。これだと、1番人気は皐月賞馬ゴールドシップに決定である。そして、1本かぶりの状態だろう。ディープブリランテが出る出ないに関わらず、本命は、ゴールドシップにしていたので、配当が低くなるのは自明になった。問題は、2着3着に移る。晩秋を迎える京都で、どの馬が開花をむかえるのか楽しみだ。

 新宿で交通事故にあいタクシーにひかれて入院していた若松孝二が昨日死亡した。最後に三島由紀夫を描いた、『11、25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の映画を残して。非常に残念な気持ちである。この映画をまた観たら、落涙するだろうとも思う。寺島しのぶをはじめ俳優たちは落胆しているだろうと思う。日活ロマンポルノから出た奇才は多くの問題作の映画を残し、旅立った。


 10月19日(金) 晴 13640

 今日も研修があった。帰りにつけ麺屋に寄って夕食をすませて、部屋に帰りPCで、馬柱をプリントアウトして予想を始めたが、はかどらないので風呂に行って気分転換してきた。これから予想の作業と酒を飲むことにする。明日は東京競馬場へ行く。

 昨日夜は、早めに寝て、夜中に起きてYoutubeで、若松孝二のテレビ出演などの映像を観た。宮台真司との1時間以上の対談が面白そうだったが、時間がないので後で観ることにして他のを観ていたら、『キャタピラー』で最後に流れる曲が、元ちとせの歌だと知って、調べた。そうしたら、『死んだ女の子』であることが判った。トルコの詩人が広島に来て書いた詩を訳して歌っている。原爆ドームの前で元ちとせが歌い、坂本龍一がピアノを弾いているのを聴いた、主演女優の寺島しのぶが若松監督に言って採用されたという。

 若松孝二と、元ちとせを繋げたのが、寺島しのぶだというのが、いい話だなぁと思った。歌についてのコメントはしない。他の人がYoutubeに書いている。そっちの方が読んで欲しい。 もう一つの『死んだ女の子』の方には、『キャタピラー』の事も書いてある。


 10月22日(月) 晴 52864/3

 菊花賞は、予想通りゴールドシップが圧勝した。同世代では抜きんでているレースぶりだった。今年の3歳は強い。その頂点にいるのが、長距離2000m以上で実績を上げるゴールドシップ。短距離マイル1600mで実績を上げるカレンブラックヒルだ。

「 「キャタピラー」「実録・連合赤軍」などで数々の映画賞を受賞した映画監督の若松孝二さんが2012年10月17日夜、死去した。若松監督は10月12日、歩行中にタクシーにはねられ意識不明の状態が続いていた。76歳だった。

70歳を過ぎても監督、プロデューサーとして精力的な活動を続けていた若松監督。突然の訃報を知った俳優や関係者らはツイッターやブログを通じて追悼の声を寄せた。

「悲しくて涙がとまりません」
若松映画の熱烈なファンで、長年親交を深めてきた社会学者の宮台真司さんは、自らの公式ブログに長い追悼文を掲載。大きな存在を失った心情をつづっている。

「若松孝二監督ご逝去の報に衝撃を受けています。(中略)中高生時代の僕には監督の作品が心の支え。監督なくして今の僕はない。若松監督の御冥福を心よりお祈り申し上げます」
「この文章を書きながらも、悲しくて涙がとまりません。監督がいなければ、本当に今の僕はいないのです。監督がいなければ松田政男さんの本も読まなかったし、松田さんの本を読まなかったら廣松渉さんの本も読まなかったし、そうしたら社会学に学問的な興味を抱くこともなく、社会学者になんてなっていなかった」
「『ここではないどこかにいきたい』。でも『どこかに行けそうでどこにも行けない』。僕はずっとずっとそう思ってきました。20歳代のときに海外にバックパッカーとして旅行したときもそれは変わりませんでした。30歳代を売買春フィールドワーカーとして全国巡礼して過ごしたときも変わりませんでした。そういう僕のすべてを理解して下さっていた若松監督でした」

若松監督は宮城県出身。様々な職業を経てピンク映画の監督になり、「胎児が密猟する時」「ゆけゆけ二度目の処女」など強烈なタイトルの作品を連発、「ピンク映画の鬼才」として高い評価を得るようになった。71年にはドキュメンタリー「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」を撮って反体制の立場を鮮明にした。

若松監督と同様に東北地方出身で、フォーク歌手の三上寛さんはツイッターに悲しみのコメントを掲載した。

「若松孝二逝く。東北の寒村から上京。『かりん糖』屋に勤める。遂には世界の最高峰を極めた。生涯一貫して権力、権威と対峙し、ぶれることがなかった。見事な人生だった。私にとっては最後まで、『偉大なアニキ』だった! 安らかに眠れ!!!!」

美術家でグラフィックデザイナーの横尾忠則さんもツイッター上で、同世代の表現者の死を悼んだ。

「近年の彼は何かにとりつかれたように次々と作品を連発していた。誰かが『死に急いでいる』と言っていたが、その通りになった。僕と同年だ。長い間会っていなかった」

「一篇の詩のような美しい人生」
コメンテーターでお笑い芸人の水道橋博士も、若松監督から影響を受けた一人。ツイッターには

「昨年6月初対面でインタビューした。準備を万全にしたので75歳の監督は僕を認めてくれた。20歳のとき、監督の『俺は手を汚す』を読んだ。極道あがりの若者が活動家になり、映画を撮り続け、左翼の活動家としても最後まで革命を応援し続けた。一篇の詩のように美しい人生だった」

と記した。

「キャタピラー」(2010年公開)でベルリン国際映画祭の主演女優賞を受賞し、若松監督の遺作となった「千年の愉楽」でも主演した寺島しのぶさんは自身の公式サイトに心境を吐露した。

「いやな予感がした。やっぱり。突然いなくなってしまった若松監督。人をびっくりさせることが大好きな監督。『銀熊賞取れなかったよ。』『嘘!おめでとう』って驚かせてくださったみたいに嘘だよって言いながら現れてほしい。監督の誕生日のエイプリルフールみたいに」
「今年のベネチア映画祭に行けたのを一番に報告してくださった監督、私の出産を本当に喜んで、早く見たいと言ってくださっていた監督、心優しい監督、弱い者の味方で、強いものにはくってかかる監督、お酒と美味しいものが大好きな監督、何よりも映画を作り上げることに執念を燃やした監督。今いったい、いったいどこにいらっしゃるんですか」

若松監督の公式ブログは釜山映画祭で「今年のアジア映画人賞」を受け、帰国した10月9日付で止まっている。「千年の愉楽」の公開はもう年明けに迫っていた。」  ーーJCASTニュースよりーー

 Amazonなどで若松孝二のDVDを検索して観た。初期の日活ロマンポルノ時代の傑作『現代性犯罪絶叫篇 理由なき暴行』や最近の代表作問題作である『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』『キャタピラー』『11、25自決の日 三島由紀夫と若者たち』などもDVDになっていた。監督の作品がこういう風に残るというのは、非常に良いことだ。『連合赤軍』『キャタピラー』は、1度映画館で見たい作品だ。

 このHPを開設したときに、「闘牛を観るにあたって」の文章にいくつか引用しているが、その中の吉増剛造の詩をまた引用する。

「小田急線に乗って新宿から何処えゆく?そう網走だ!例の高倉健の網走番外地が流れ、若者は三人網走えゆく。実は小田急の終点・江ノ島につくのだが、海は海だった。幻のオホーツク海だったのだ。
 三人の若者は浜辺でアベックを襲う。そして最後の一人が早朝の新宿で警官に射殺されるまで、全篇に網走番外地のメロディーが流れた。
 アングラ映画の鬼才・若松孝二の最新作「理由なき暴行・現代性犯罪絶叫篇」は右のシーンから始まった。
             −−−(中略)−−−
小田急線に乗って新宿から何処へゆく?」    −−吉増剛造  「小田急線に乗って何処へゆく?」より−−

 満ち欠けを 見極めたよに 繰り返す 海の潮と 上弦の月  風吟


 10月23日(火) 曇 3951

 京都古文化保存協会というのがあって、そこで昭和40年から毎年普段公開していない文化財を公開するという事をやっている。最近は春と秋の2回やるようになった。今回の目玉は、冷泉家の公開と、廣誠院であると思う。冷泉家は、藤原定家も基とする歌詠みの貴族。色んな物を所有していることで有名だ。廣誠院は、伊集院兼常の邸であった処で、小川治兵衛が作庭した庭が観れる。実はこれは、今の大成建設の社長をやった、伊集院兼常が、小川治兵衛に作庭を教えたとも言われている処らしい。伊集院兼常は、建築の事や作庭には、造詣が深く、治兵衛が作庭を、伊集院兼常から教わりながら、作業したという風に書いている文献があるという。

 写真で観たが、非常に興味がそそられる庭だった。無鄰菴を作る前の作庭という。


 10月24日(水) 曇 18674

 仕事が終わってスパへ行き、岩盤浴をして飯を食い横浜へ行った。今日は成果が上がった。どういう風にすればいいかが判ってきた。これは使える。そう実感して帰ってきた。このまま行くと、11月の初めに京都へ行けそうだ。計画立案して、実行に移す準備は整いつつある。

 ここ2日、ネットでダウンロードした一青窈の『もらい泣き』と、森田童子の『僕たちの失敗』を聴いている。裸足で歌っていない一青窈と、ドラマ『高校教師』の映像で綴られる森田童子。歌の中で、女が「僕」という歌詞を歌っているのを、始めて耳にしたのが、森田童子だった気がする。ラジオの深夜放送で『さよなら僕の友だち』という歌を始めて聴いたときは、ショックだった。か弱そうな、可愛い声で、「仲間がパクられた」とか、「行ったこともないメキシコの話を君はクスリが廻ってくるといつも僕に繰り返し話してくれたね」という歌詞が耳に残り、何か切ない気持ちになった。あの舌足らずの声で「僕」という言葉を聞く違和感が、何故か心地よくもあった。

 ドラマ『高校教師』が大ヒットして『僕たちの失敗』が主題歌になっていると聞かされてびっくりした。ドラマは1度も見なかった。曲がヒットして、テレビ局から出演オファーが殺到したが、森田童子は1度もテレビに出なかったと記憶する。彼女らしいなぁと思う。盛岡で小さな場所(東山堂だったと思う)で、歌を聴きサインを貰ったのと覚えている。

 それから、何十年も経って一青窈が出てきて、「僕」という一人称で歌を歌い始めた。彼女が言うには、「僕」という音の響きが歌に良いのだという。2人とも変な女だけど、なんか憎めない、一青窈と、大好きだった森田童子。


 10月25日(木) 曇 8659

 夜中に、ネットしていたら、一青窈に出会った。おそらく彼女は、この歌を歌うために歌手になったんじゃないかと思える歌を発見した。『うんと幸せ』。こういう歌を作れる人、歌える人は、人間的に信頼できる。歌っているときの姿もまた、素晴らしいと思った。

 公式HPには、両親への最後の手紙と書かれていた。そして、「つい先日、知人が若くして自ら命を絶ちました。私は己の無力さを思い知ると同時に、自分にはどんな言葉が歌えるのだろうかと考え続けてきました。」と、綴り、「うんと幸せな気持ちはわたしが幼き頃も恋をしたときも いつもそこにあるものでした。また、両親をなくしたときも。 みなさんがこの曲を聴いて幸せの欠片に気づいてくれたらそれこそわたしはうんと幸せです。」と、締められていた。

♪あなたがうんと言わなくて あたしはうんと悲しくて 
時間だけがどんどん過ぎてゆく 泣いたら届くかな 
あなたをうんと知りたくて あたしはなんも出来なくて 
いつの時代も好きな人がいる それを幸せという  
風邪をひいてはじめて知る 心配をしてくれる人 
独り言の多いあなた まだまだあるよ

あなたをうんと好きすぎて あたしはうんと切なくて 
下らない景色にも涙する それを幸せという 
子ども時代 先生にはちゃんと見破られてたこと 
妬んでばかりいた自分に 手を 手を振るよ
何がしたいかわからなくなっても

ボレロのようにこの胸が あなたと一緒に踊って 
わがままでも抱き寄せてくれたら 嘘みたい幸せ 
あなたがうんと歳とって あたしはうんとしわくちゃで 
2人の日がどんどん刻まれて フィナーレが近づく 

木の葉のようにさらわれて ばらばらに落ちていっても
同じ土に還るまでのすべて それを幸せという
うんとしあわせな日々よ♪  ーー『うんと幸せ』作詞、歌 : 一青窈よりーー

こっちはPVの『うんと幸せ

 今日は三島由紀夫の命日。そして、あれから3年経った。闘牛の会と決別が決定的となった日から。

翌日追記:1ヶ月日にちを間違えてしまった。三島由紀夫の命日は、11月25日。


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