−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月京都旅行の滞在日記です。
5月24日(木) 晴 6040
今日は朝から断捨離をした。ネットで引っ越し先の検索をやりながらの作業。午後になり、TAMAさんマドリード到着のメール。今日セバスティアン・カステージャが出場することを教えたら、喜んでいた。それはそうだろう。彼を観にスペインに行ったんだと思うからだ。マキちゃんはせっぱ詰まっているようで、闘牛観ずに仕事をするのだという。もったいないと思うが、仕方がないだろう。
5月26日(土) 曇 6422/2
今日の朝、目覚ましもかけずに起きて、寺に行って念願の阿字観を体験してきた。9時半ちょい過ぎに到着。初めてなので話を訊いて、10時から1時間阿字観。それから1時間話を訊いて、有楽町で昼食を取った。一緒に行ったのが、高野山にも行っている宿坊体験者で、お寺好き。京都や奈良など色々なお寺に行っている。座禅の体験もある。何故、座禅に行かずに、阿字観にしたかと言えば、寝てても良いという言葉に、これならこっちの方がやりやすいと思ったからだ。
高齢者ばかりかと思っていたら、10代の女の子も来ていてビックリした。また、近いうちに行く。昨日一昨日と家にいて断捨離。大分良い感じになってきた。希望が見えてきた。これから、また、人と待ち合わせ。忙しい状態だ。明日のダービーの予想すらしていない。どうするの。
5月27日(日) 晴 30191
断捨離をやっていると自分と向き合えるようになってくる。これは、『断捨離』の本を読んでいるとそういうことがやはり書いてあった。断捨離は、ヨガの行法哲学の「断行」「捨行」「離行」をもとに生まれた言葉だという。今という時間軸で、今いらないモノを捨てるのが「捨」。必要なモノ以外手に入れない買わないのが「断」。これを実行すると自然に自分の好みが判りいらないモノが離れていくのが「離」だというようにしている。
そして、今というのは、時間が経つと変わるので、常に入れ替わり新陳代謝するという。うたい文句である。丁度、このタイミングで本が手に入ったので、本を読みながら実行中。でも、片付けをやっていると、引っ越しはどうでも良くなってきた。ともあり、検索サイトで物件を観ながら気持ちだけは奮い立たせて断捨離実行に励んでいこうと思っている。
ダービーは負けた。それにしても、「岩田」はコール前に泣いていたという。嬉し泣き。男の夢を実現した。地方出身の騎手では安藤勝巳に続いて二人目だと思う。おめでとう。
5月28日(月) 曇一時雨 21902
「第79回日本ダービー(27日、東京10R、GI、3歳、芝2400メートル、1着賞金1億5000万円=出走18頭)岩田、男泣き! 晴天のもとで行われた競馬の祭典は、岩田康誠騎手(38)が手綱を取った皐月賞3着の3番人気ディープブリランテ(栗東・矢作芳人厩舎、牡3)がハナ差で優勝。現3歳世代の日本のサラブレッド7572頭の頂点に立った。タイム2分23秒8(良)。地方・園田競馬(兵庫県)から2006年にJRAに移籍した岩田康は、悲願の日本ダービー初制覇。ディープインパクト産駒は、2世代目で早くもダービー父子制覇を達成した。
写真判定の結果が出た瞬間、馬上の岩田康誠騎手が顔を両手でおおった。ゴーグルを外した目は赤く染まり、ディープブリランテの首すじに顔をうずめる。これが日本ダービー制覇の感激。あふれ出る涙が止まらない。11万5000人の大観衆から「岩田! 岩田!」の大合唱。感謝の気持ちを込めて、スタンドに向かって深々と頭を下げた。園田競馬から移籍して7年目。6戦すべてで手綱を握ってきた最愛のパートナーとともに、男は夢をかなえた。
「僕よりも、馬のことをほめてあげたい」。フェノーメノの追撃をハナ差で振り切ったブリランテを称える岩田康。それでもダービージョッキーとなり、胸の高鳴りは抑え切れない。「みんなが求めている、1年にひとりしか与えられない称号。家族や、僕を育ててくれた園田競馬の関係者、師匠の清水正人先生に(勝利を)伝えたい」。地方所属時代からお世話になった方々に、少しでも恩返しできた気がする。
栄光は遠かった。2006年から7年連続でダービーに参戦。2度、1番人気馬に騎乗したが勝利に届かなかった。そして、この日も−。好位3、4番手を追走。直線の坂を駆け上がってからトーセンホマレボシをかわして先頭に立つ。だが、東京の直線は長い。まだ200メートルもある。岩田康がこん身の左ムチをふるって粘り込みを図る。人馬とも最後の力を振り絞り、ついに先頭でゴールに駆け込んだ。
「ゴールの瞬間は内と外が離れていて、勝ったかは分からなかった。(勝てたのは)ブリランテと僕が信じ合えたからだと思う。矢作先生(芳人調教師)と厩舎スタッフが『この馬が一番や』と思ってやってきたし、僕もそう思っていた。ようやく、この馬とひとつになれた気がします」
6日のNHKマイルC(マウントシャスタ失格)のラフプレーで騎乗停止となり、ダービー前日に復帰。この間、反省の念を抱きながら、ブリランテの毎日の調教を願い出た。「ダービーまでブリランテに自分のすべてをかけようと思った」。レースで気負う面を解消するため、馬を制御するハミを、口あたりがソフトなものに替えることを矢作師に提案。時には厩舎と意見が食い違い、19日には矢作師にどなられた。だが、それも濃密な時間を過ごした証明だ。「本当に幸せな3週間だった。気持ちよく調教に向かい、気持ちよく調教を終わることの繰り返し。それを馬も分かってくれた」。ブリランテとも、関係者とも心が通じ合って、課題の距離延長を見事に克服した。
ディープインパクト産駒はダービー初制覇&父子制覇と、記憶にも記録にも残った第79回日本ダービー。今、最強のタッグとなったディープブリランテ&岩田康の未来は、東京競馬場に降り注いだ夕日のように、まぶしい光に包まれている。
ディープブリランテを育てた矢作芳人調教師(51)=栗東=は、「感無量です」と最高の栄誉に酔いしれた。主戦の岩田康誠騎手とともに対策を講じて、ブリランテの課題だった折り合い面を克服。皐月賞3着から巻き返してのVに満面の笑みを浮かべた。矢作師はこれまでも積極的に海外に遠征しており、具体的には決まっていないものの「外国も考えます」と、ダービー馬とともに、さらなる高みを目指すつもりだ。
敏腕トレーナーの信念が最高の舞台で実を結んだ。開業8年目の矢作芳人調教師が、2006年スーパーホーネット15着以来、2度目の挑戦でダービー初制覇。ディープブリランテはフェノーメノの追撃を23センチの差でしのいでVゴールへ飛び込んだ。
「勝ってるよな?」
神妙な面持ちで検量室前に下りてきた矢作調教師は、1着馬が入る場所で愛馬を待った。勝利を知らされると、声を上げて厩舎スタッフと抱き合い、目頭を押さえる。さらに引き揚げてきた岩田康とガッチリ握手をして喜びを爆発させた。
「感無量です。馬はこれ以上ないデキでした」と話した後で「でも、きょうは岩田だよな。信じるしかなかったが、コンタクトは完ぺき。『岩田、持たせろ!』と声にならないくらい叫びました」と鞍上を称えた。
栄光までの道のりはなだらかではなかった。昨年11月にGIIIの東スポ杯2歳Sを完勝。ダービー最有力候補に躍り出たが、前向きすぎる気性が災いして、その後は全能力を出し切れずにいた。今年は共同通信杯、フジテレビ賞スプリングSで2着、皐月賞で3着。3戦して勝利がなかった。
「(今年の3歳で)一番強い馬だと思っていたが、能力を出し切れない自分が歯がゆい」
苦悩する矢作師のもとに岩田康から「毎日、調教に乗りたい」と電話が入った。「スタッフを信頼しているし、調教助手にもプライドもある。だが、ヤス(岩田)の情熱に駆けてみよう」とブリランテを任せた。岩田の進言で、ハミを口あたりがソフトになるものに替えた(ジョイントをシングルからダブルに変更)効果も、大一番で出た。
今後について「凱旋門賞に登録しておけばよかった」と苦笑いした矢作師は「天皇賞、菊花賞とか決めず、馬にあわせてやっていきたい。種牡馬としての価値もありますし、当然、外国も考えます」と続けた。
東大合格者数は今春も全国1位だった開成高校出身。ふつうならば大学に進学するが、大井競馬の元調教師である父、和人さんの影響もあって競馬の世界を志し、高校卒業後はオーストラリアで競馬の修行を積んだ。早い時期から“世界”を知っている矢作師だけに、ひとつの目標であるダービーを制した今、海外遠征が視野に入ってくるのは当然だろう。
携帯を持つ手が震えていた。生産者のパカパカファーム(北海道・新冠)場主のハリー・スイニーさん(51)を報道陣が囲むと、「ちょっと待って」と、真っ先に報告したのは故郷のアイルランドに残した妻子へだった。
英国で獣医師の免許を取得、招かれて大樹ファームとマチカネ牧場でゼネラルマネジャーを務めた後、現牧場を創設したのが2001年。07年NHKマイルCのピンクカメオ以来のGI2勝目だが、ダービーの美酒は格別なものに違いない。
「アンビリーバブル、他に何と言いようもないね」。流暢に日本語を操るスイニーさんだが、興奮は隠しようがない。パカパカファームでブリランテの同期は20頭だが、うち牡馬はわずか6頭。その中から頂点に立った馬が出たのだ。「土地(日高町の厚賀分場)を移してから、いい子が生まれるようになった。(ブリランテは)子供の時からパーフェクト。馬体が素晴らしかったんだ」。以後も母ラヴアンドバブルズはディープと交配し続け、現在、お腹の中にもディープの子が息づいており、1歳(牡)と当歳(牝)は今夏のセレクトセールで上場される。
勝ち馬だけではなく、ハナ差2着フェノーメノ、4着ワールドエースもサンデーレーシングの所属馬。吉田俊介代表(37)は「いずれに声援を送っていいやら。目をつぶっちゃいましたよ。いやっ、びっくりです」と喜びを露わにした。同レーシングとセレクトセールの場で競り合ったのが、ほかならぬ矢作調教師。その縁で同厩舎に預けられたが、生産者、馬主、調教師のお目の高さには、まさに脱帽せざるを得ない。」 ーーサンスポよりーー
一方鼻差で負けた蛯名正義。「蛯名正義騎手の目から涙があふれ出る。大きなハナ差だった。「悔しすぎる。結果が結果だけに…。まして(ダービーは)重みが違う」。ダービー20度目で巡ってきたチャンスを逃し、悔しさをこらえることができなかった。中団の少し前を追走した5番人気フェノーメノが、直線で外から急追。上がり3ハロン33秒9の末脚でディープブリランテに迫ったが、わずかに届かず2着に敗れた。
「馬はこれ以上ない仕上がりだったし、レースも完ぺきに運べた。道中も前を追いかけすぎず、離れすぎず、いい感じだった」。理想どおりのレースだっただけに、なおさら悔しさが募る。青葉賞勝ち馬初のダービーVも成らなかったが、内容はすばらしかった。蛯名と充実著しいステイゴールド産駒が雪辱する機会は、すぐに訪れる。」 ーーサンスポよりーー
一つのレース、1頭の馬には、それぞれの物語がある。たとえ鼻差でも優勝と2着では大きな違いがある。鼻差の男、蛯名正義。天皇賞のステージチャンプでも、的場が乗るライスシャワーに鼻差負けているのに、ゴール板過ぎに派手なガッツポーズをした。その蛯正(エビショウ)が今回の鼻差で泣いているという。勝った岩田は感涙を流し、負けた蛯正が悔し涙を流す。勝負の世界、男の世界は美しいモノだ。
5月29日(火) 曇 9234
断捨離も実行中だが、ここまで来るとなかなか進まなくなってきた。あまりにも本とかCD、DVD、ビデオが多すぎてこれを整理しないことには前に進まない状態になってきたからだ。それにレコードまである状態。これどうしようかな。実家に送りつけようかな。断捨離の格闘はまだまだ続きそうだ。出来れば6月中に引っ越しできればいいが、それもどうなるか判らない。
酒を飲みながら『断捨離』を読めば良い考えが浮かぶかも知れない。
5月30日(水) 曇 4331
取り合えず、必要なモノと、必要でないモノに分け、必要でないモノは売るとかして処分しようと思う。これは本に当てはまるが、CDやDVD、ビデオについてはまた違う対応が必要だ。分類から始めることにしよう。そうすれば、良いアイディアが浮かんでくるだろう。これからが、本当の断捨離になるだろう。
6月1日(金) 曇 36827/2
昨日の夜に新宿で待ち合わせをして、遅い夕食。D氏とTさんと焼き肉屋に入り食べて飲んで、話しての3時間。D氏の話は実に面白い。TさんはD 氏に、自叙伝を書くように言ったようだが、これを出すと、やばいから書けないと、言っていたが、話は、南米から日本国内の色々ないわく付きの話が多いので、聞き入ってしまう。殆ど独演会。それにしても、話も上手い。酒に酔っている暇がないような、話の面白さだった。
人生で人間関係を作るのは非常に大事だ。D氏は、外国でも、日本でも人間関係を作るのに費やしてきたと、言っていたが、話の面白さはそこにある。その人が、どういう信条を持ち、どういう思想を持っているかなど、人間関係には実はあまり関係がない。こうやって付き合ってきたからとか、一緒にあの時期過ごしてきたからという事で、形成される。人と人との関係はそういうモノだ。それを社会的な地位を得たから色々と困ったときに助けて貰った話が多いが、素晴らしい話が殆どだ。
ある人は、不可能を可能にするのが、政治家だ。と言ったそうだ。今の国会議員に訊かせてやりたい。東日本大震災で困っている多くの人の困難を、不幸を、幸福に思って暮らせる様にして貰いたいモノだ。そんな話を訊いていたので、帰ってきたのが0時を廻っていた。楽しい夜だった。
パンプローナのカルテルが発表された。
6月2日(土) 曇 16874
昨日の夜、携帯でニュースを観ていたら、尾崎紀世彦死亡の記事が載っていた。4月下旬に失踪の記事が載っていたが、やはり闘病生活をしていたんだと思った。子どもの頃、1番かっこいいと思った憧れの歌手だった。圧倒的な声量と、迫力ある歌い方は考えられる限り最高の歌手だと思っていた。その後、歌謡曲からフォークソングに行き、興味は洋楽になった。主にアメリカンロックが中心になった。
「大ヒット曲「また逢う日まで」などで知られる歌手、尾崎紀世彦(おざき・きよひこ)さんが5月31日午前0時5分、肝臓がんなどのため東京都港区の病院で死去したことが1日、分かった。69歳だった。葬儀・告別式はこの日、都内の寺で近親者だけで済ませた。喪主の兄、彰彦氏(77)によると、2010年に胃がん手術を受けたが、その後、他のがんも判明。この1年はがんとの闘いで、仕事もできない状態だったという。
兄、彰彦さんによると、尾崎さんは亡くなる前日から名前を呼んでも反応をしなくなり、米・ハワイから駆け付けた長男、KIYOHIKO・OZAKIJr.さんに見守られ、眠るように旅立ったという。
生前、本人が「静かに送ってほしい」と話していたため、通夜は5月31日、葬儀・告別式は6月1日に親族約50人の家族葬で済ませた。彰彦さんは「後日、お別れの会をやれたら、と考えています」と話した。
彰彦さんは「(棺の尾崎さんに)タキシードを着せました。バッチリ決まってましたよ。一緒に学生時代のイケメンの写真と、祭りはんてんを入れました。幸せな一生だったと思います」と話した。意識があったときは、見舞った長男に英語で「I LOVE YOU」と話しかけていたという。
コーラスグループ「ザ・ワンダース」のメンバーとして活躍後、ソロに転向。豊かな声量と力強い歌声で魅了し、「和製トム・ジョーンズ」と呼ばれていた。阿久悠さん作詞、筒美京平さん作曲で1971年に出した2枚目のシングル「また逢う日まで」が、100万枚を突破(オリコン調べ)する大ヒットとなり、同年のレコード大賞と歌謡大賞をダブル受賞し、第22回NHK紅白歌合戦にも初出場した。
オフの日にも友人のバーに“ノーギャラ”出演し、30年以上前から禁煙を続けのどを鍛えてきた。太いもみあげとダンディーな容姿も親しまれ、俳優として映画やテレビドラマにも出演。他のヒット曲に「さよならをもう一度」「ゴッドファーザー〜愛のテーマ」「サマー・ラブ」など。 関係者によると、2010年9月に胃がん手術をし、同年12月には札幌市などでディナーショーを行えるほど回復した。昨年1月にはテレビ東京系歌番組「歌の楽園」の収録に参加したが、2月5日に群馬県富岡市で行われたイベントで、歌唱したのが最後のステージになった。
今年4月、東京・世田谷の自宅が荒れ放題になっていたことで、「失踪騒動」になった。その後、病気療養が判明したが、彰彦さんによると、昨年春ごろに肝臓などにもがんが見つかり、都内の病院などで療養生活を続けていたという。
私生活では、1973年に米ハワイ在住の女性と結婚し、2児をもうけたが離婚。その後、再婚して1児が生まれたが、2006年に離婚していた。」 ーーサンスポよりーー
そういえば、尾崎紀世彦と昔会ったことを事を思い出した。新宿コマ劇場の地下に、カントリー・アンド・ウエスタンのライブハウスがあり、そこで高校の同級生と会って酒を飲んでいたら、「尾崎紀世彦がいる」というので、「ウソだろ」とそっちを観たら、リュックサックを背負った叔父さんが笑顔で立って話していた。髭がないから直ぐには判らなかったが、それが尾崎紀世彦だった。飾らない自然な人だった。益々好きになった。もうあまりテレビには出ていなかったけど、飛び入りで歌うという話も訊いた。
その直後だったと思う。その時一緒にいた同級生のKからメールが来た。同窓会が近いからだろう。Yから電話があってお前を思い出してという文面だった。Yもあの時、尾崎紀世彦に会った時に飲んでたメンバーだ。Kは高校で一緒にサッカーをやっていたし、KとYとは一緒にギターを弾いていた仲だった。Kは盛岡市内ではなく、出身が大槌町。去年の東日本大震災の大津波で家族を亡くしたと訊いていた。だから、こっちからは言葉もないので連絡をするのが怖かった。
家族が亡くなった様だがと訊いたら、母親と姉を亡くしたという。みんなに助けられて、と言っていたので、元気そうで尊敬すると、書いたら、時に流されているだけだよと、謙虚に言っていた。母と姉を亡くして、音楽家との不思議な出会いがあったという。Youtubeにアップしていると言うから観たが、あいつの実家は仏壇屋をやっていたんだと言うことを初めて知った。
尾崎紀世彦死亡記事を読んで、新宿で会った事を思い出した事を書いたら、「オレもあの日のことを思い出していたよ」と書いてきた。「また、一緒に飲もうぜ!では、再会できる日を楽しみに、おやすみ」とあった。そう、「また逢う日まで」。
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