断腸亭日常日記 2012年 その9

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月京都旅行の滞在日記です。

99年4月15日〜5月11日 5月12日〜6月4日 6月7日〜6月10日 2000年4月20日〜4月29日 5月1日〜5月14日
5月15日〜5月31日 6月1日〜6月15日 6月16日〜6月29日 2001年4月19日〜5月3日 5月4日〜5月17日
5月18日〜5月31日 6月1日〜6月11日 6月12日〜6月22日 2002年4月16日〜4月30日 5月1日〜5月15日
5月16〜5月31日 6月1日〜6月13日 2003年4月16日〜5月24日 5月25日〜6月10日 6月12日〜6月26日
2004年4月14日〜5月7日 5月8日〜5月31日 6月1日〜6月17日 2005年3月31日〜4月24日 4月25日〜5月22日
5月23日〜6月16日 2006年4月13日〜5月6日 5月7日〜5月29日 5月30日〜6月19日 2007年4月20日〜5月19日
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 6月4日(月) 曇 17581/2

 昨日テレビで、サッカー日本代表がオマーンに3−0と快勝して監督選手へのインタビューをやっていると、音が鳴り、テロップ出た。菊池直子容疑者の身柄確保のニュースが流れた。

 その前に、尾崎紀世彦へのおくやみの言葉を載せておく。
「◆尾崎紀世彦さんと同じころデビューした歌手研ナオコ(58) 私の大好きな友達が亡くなりました。とても優しい方でおしゃれ。彼の歌は誰もまねできない。素晴らしい歌手でした。残念で仕方ないです。

 ◆98年に尾崎さんの歌声を題材にした舞台「昨日たちの旋律」を作った三宅裕司(61) 「THE 夜もヒッパレ」で尾崎さんの生の歌声を聞いて、あまりの素晴らしさに尾崎さんの歌声を題材にした芝居を作り、ご本人にも出演していただきました。本当に残念です。

 ◆タレント中山秀征(44) 尾崎さんとは(司会した)「THE夜もヒッパレ」の時、大変お世話になりました。収録時、いっさい手を抜かない姿勢に、プロの歌手のすごさを感じると同時に、尾崎さん流に歌うかっこよさに感動しました。バイクに革ジャン姿が、今も目に焼き付いています。

 ◆音楽評論家富沢一誠氏 歌い手として、日本人離れしたダイナミックな歌い方、大きな歌唱力がすごかった。彼がすごいのは、「また逢う日まで」を大ヒットさせたこと。彼がいなかったらヒットしていなかったと思う。この歌は当時、作詞家の阿久悠さんが、時代のマニフェストソングとして出した。阿久さんは、新しい、1970年代の男と女のあるべき姿をこの歌に託した。それを歌えるのは、日本的な、ちまちました、せこい男じゃダメだった。ダイナミックな歌唱で堂々と、明日に向かって歌い上げるようなボーカリストが必要とされていた。それに見事に彼はこたえた。彼がいなかったら、なかった歌だった。

 ◆音楽評論家反畑誠一氏 デビュー前にライブハウスでカントリーをカバーしていたころから、歌のうまさには定評があった。Jポップという言葉もなく、ポップスといえば海外から入ってくるものと思われていた時代。パワフルな歌唱力で「また逢う日まで」を歌い上げ、欧米と肩を並べるような日本の正統派ポップスという世界に夢を与えてくれた。大人の歌い手が求められている今、円熟味が増した歌声をもっともっと聴かせてほしかった。」 ーー日刊スポーツよりーー

 iTunesのランキングではシングル歌謡曲部門で「また逢う日まで」、アルバムで「ゴールデン☆ベスト 尾崎紀世彦」が一時、それぞれ1位に浮上したと、いう。

 「オウム真理教元幹部平田信被告(47)の逮捕劇から5カ月。「菊地直子に似ている気がする」。殺人容疑で特別手配中の元信者菊地直子容疑者(40)の丸17年の逃亡生活に終止符を打ったのは、日曜の朝、警視庁に寄せられた1本の電話だった。

 捜査員が通報のあった相模原市緑区城山にある一戸建ての民家に張り込みを続けると、女がコンビニのポリ袋を下げて1人で帰宅した。
 「菊地直子か」「はい」。トレーナーにジーンズ姿。そこにいたのは、手配写真の菊地容疑者とは似ても似つかない女だった。
 捜査関係者によると、写真との共通点は右目の下のホクロだけ。かなり痩せており、捜査員の1人は「あれではすれ違っても分からない」と思ったという。

 警視庁6階の捜査1課長室には3日午後9時45分ごろ、数十人の記者が集まり、龍一文課長が「(身柄を確保したのは)菊地直子容疑者かどうか確認中」と応じた。 身柄を確保した際の状況などについて質問が続いたが、資料を手にした龍課長は「白黒付いてからじゃないと答えられない」と答えるにとどまった。質疑の途中で、多くの記者が慌ただしく課長室を出入りした。

 一方、東京・霞が関の合同庁舎2号館にある警察庁では、幹部が「菊地容疑者が高橋克也容疑者(54)の行方を知っているかどうかがポイントだ」と厳しい表情。 別の幹部は「平田被告の出頭がインパクトとなり、情報が集まるとは思っていた」と話した。」 ーースポニチよりーー

 「元オウム真理教信者菊地直子容疑者(40)と相模原市内で同居していたとして、犯人蔵匿容疑で逮捕された自称会社員高橋寛人容疑者(41)は3日夜、神奈川県警大和署に出頭し、「菊地直子の件です」と申し出ていたことが4日、分かった。
 同署によると、高橋容疑者が出頭したのは3日午後10時15分ごろ。普段着姿でバッグを所持し、署の正面入り口から1人で入って来たという。
 職業について内装工と説明。菊地容疑者とは6年ほど前に横浜市内の勤務先で知り合い、東京都町田市で約4年、相模原市で約2年、一緒に暮らしていたと話しているという。
 ただ、町田市にいた期間について「アパートを2回ほど更新したから4年ぐらいかなあ」と答えるなど、記憶にあやふやな部分もあったという。
 菊地容疑者にプロポーズしたこともあったが、「私には結婚できない理由があります」と断られたと打ち明けた。「どうして」と問い詰めると、「実は(オウム真理教の)菊地直子です」と打ち明けられたという。高橋容疑者自身は「私はオウムとは関係ない」と話した。」 ーー時事通信よりーー

♪あの人の姿懐かしい
黄昏の 河原町
恋は 恋は 弱い女を
どうして泣かせるの
苦しめないで ああ責めないで
別れのつらさ 知りながら
あの人の言葉 想い出す
夕焼けの高瀬川

遠い日の愛の残り火が
燃えてる 嵐山
すべて すべて あなたのことが
どうして消せないの
苦しめないで ああ責めないで
別れのつらさ 知りながら
遠い日は二度と帰らない
夕やみの東山

苦しめないで ああ責めないで
別れのつらさ 知りながら
遠い日は二度と帰らない
夕やみの桂川 ♪         ーー『京都慕情』 歌詞 林 春生 作曲 ベンチャーズーー

 『また逢う日まで』を、Youtube で観ていたら、渚ゆうこの『京都慕情』が出てきて、それに聴き惚れていたら、菊池直子逮捕のニュースを知り、同居していた男がプロポーズしたら、本名を名乗り、断ったと言う記事を読んだ。それでも男は、一緒に住み続け、警察へも通報しなかった。何故だろうと考えていたら、『京都慕情』の、「恋は 恋は 弱い女を どうして泣かせるの 苦しめないで ああ責めないで 別れのつらさ 知りながら あの人の言葉 想い出す 夕焼けの高瀬川」とか、「遠い日の愛の残り火が 燃えてる 嵐山 すべて すべて あなたのことが どうして消せないの 苦しめないで ああ責めないで 別れのつらさ 知りながら 遠い日は二度と帰らない 夕やみの東山」と言う歌詞が何か沁みてきた。

 高橋寛人容疑者は、職場で一緒になった女と同棲して、結婚を申し込んだら、オウム真理教信者、菊池直子だと告白される。それから、別れることも、結婚もせずに同棲を続ける。これって、映画になる。平田容疑者を匿っていたのは、オウム信者でいわば身内。菊池直子の場合は、全くオウムとは関係ない一般人が匿っていた。

 例えば、連合赤軍事件の永田洋子は、獄中自殺した森恒夫の死亡を知ったとき、「森さんは、ずるい」と言ったそうだ。生真面目でその革命理論を実践しようと一生懸命だったのだろうが、およそリーダーになる資質も素養もない、森恒夫と永田洋子。一方は自殺を選び、一方は獄中で脳腫瘍で病死するまで裁判闘争を続けた。これも映画になる。確か、若松孝二が自身の集大成として映画にした。

 思うのだが、若松孝二に、菊池直子と同棲していた男の映画を撮って欲しいと思った。彼が撮るならどういう風になるのか?また、こういう題材を小説にするならどういう風になるのかと考える。サリン事件では、多くの死傷者を出したが、そういう物も含めて、何故事件を起こすまでになっていくか、また、その後の2人の生活や、プロポーズを本名を名乗って拒否。しかし、男は警察に通報せず、逃走幇助と同棲を続ける。犯罪者に荷担するというこの男女関係は何処で結びついているのか。秘密を告白したと言うことによって強くなったのだろうが、そこまでの導線がどういうモノだったかが、そそられる題材だ。それと、逃亡生活を送りながら、菊池直子は穏やかな気持ちで生活が出来ていたような気もするのだ。激やせだからそうではないのかも知れないのだが、ともあれ、人の心の中までは解らない。

 『京都慕情』を聴きながらそんな妄想に耽っていた。京都へも行きたいな。京都に住んでいるISOさんやEさんが羨ましい。


 6月5日(火) 曇 4690

 夜中、Youtube を観ていた。三島由紀夫の割腹自殺に迫った、「松本清張事件にせまる」を観て、あさま山荘をはじめとする一連の連合赤軍事件のテレビ番組を観た。いったい何だったんだろう?

 そんなことをやっていたら、若松孝二が、『11、25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』と言う映画を作り、それが、6月2日から公開されていることを知った。それで新宿へ出掛けて映画を観た。初めのシーンは、サラシを手で破く少年。そして、獄中で首つり自殺する。これは、演壇で演説中の社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺した大日本愛国党党員、山口二矢である。

 まずここから始めるかという処に唸った。三島由紀夫役の俳優に初めは違和感を感じたが、観ている内にそれはなくなった。俺はこの映画を観ていて何度涙を流したのだろう。映画館のあちこちですすり泣く声や、鼻をすする音が聞こえた。完全にノックアウト状態だ。公式ブックを買ってきたが、伍長役で出ていた、昔からの知り合いの篠原勝之が『嗚呼、若松孝二』というタイトルで昔話や映画のことを書いているが、若松孝二にやられた。まさに、嗚呼、若松孝二だ。

 この映画を観る前は、『憂国』や『豊穣の海』は絶対に読めないモノだ思っていたが、今なら読めるような気がする。と言うか読みたい。それだけの力をこの映画は持っている。企画をした新右翼、一水会の鈴木邦夫が『四十二年目の奇跡』の中で書いているが、三島と一緒に自決した森田必勝を中心に事件が起きた事を書いている。これが、この映画の概要を伝えている。

 この映画を観て、三島由紀夫の日本を思う純粋な気持ちと、若者の純粋な気持ちを理解しようとする姿に泣けてきたのだ。それは、対談集『尚武のこころ』の中の鶴田浩二との対談を読んだときに泣いた記憶を呼び起こす。この映画は爆発的にヒットはしないだろうが、ジワジワと人から人へ話が伝わり心に残る映画として語られていくだろうと思う。これは三島由紀夫を描いた映画では、間違いなく最高傑作である。

 サン・イシドロが終わった。トゥリンファドールとメホール・ファエナは、セバスティアン・カステージャ。プエルタ・グランデはなかったが、当然の結果だろう。


 6月6日(水) 曇時々雨 12246

 宮台真司は、「若松さんの映画って、挫折することが分かっていながら「ここではないどこか」に向かっていく人たちのことを、<意気に感じて>いらしゃって、いつも暖かい。それが若松映画のポイントです」と、対談で言っている。俺とは少し違う感覚だが、確かにそういうことも言えるような気がする。

 公式ブックには台本も載っている。その中で、カット54で、少年が三島を訪ねて来る。
「三島 「やあ、待たせたね。聞きたいことがあるんだって?でも、あまり時間がないんだ。それで、こうしよう。きみが一番聞きたいことを、ひとつだけ言ってごらん。何でも答えてあげるから……」
三島、少年の前に腰を下ろし、顔をあげる。
少年の顔に、三島の表情が凍り付く。シーツを破く山口二矢少年の顔がフラッシュ。
少年 「いま、ぼくがいちばん聞きたいことは、……先生は、いつ死ぬんですか?」
山口二矢・最後の瞬間のフラッシュ。
天皇陛下万歳、七生報国の文字。」          ーー『11、25自決の日』 台本よりーー

 この映画の中で、山口二矢にこの台詞を言わせた若松孝二にしびれた。非常にフィットした創作だ。現実にはあり得ないシーンを、1番適任者に状況を捉えた的確な台詞として語らせる。観ている観客も、妙に納得されられる。

「 瑤子 「5年前のあの日、夫の体を残してあの部屋から出たとき、どんな気持ちだった?」
沈黙。
瑤子夫人 「……なにを残したの?」
沈黙 」                        ーー『11、25自決の日』 台本よりーー

寺島しのぶ演じる瑤子夫人も、何か利いている。

 鈴木邦夫は、「60年の山口二矢。70年の三島由紀夫。だから若松監督には、山口二矢の映画を撮って貰いたい。」と言っていた。それと作中に、金嬉老事件、よど号ハイジャック事件、などの影響を受けているのがちゃんと語られている。と言っているが、それは同時代の象徴的な事件だし当然あったと思う。

 切腹のシーンが2回。その度に、桜が散った。こういう処も壺を解っている。満開の桜が散るときが1番切腹に似合っているからだ。近松の心中モノの道行きには、雪が降る。切腹には満開の桜が散る。これこそ演劇的である。

「挫折することが分かっていながら「ここではないどこか」に向かっていく人たちのことを、<意気に感じて>」いる作風。何か自分の人生もそうかと最近感じ始めている。


 6月8日(金) 曇 18537/2

 今手元には、缶ピースがありそれを吸っている。『11、25自決の日』の中で三島由紀夫が吸っていたタバコだ。昔の缶ピースは、缶の上蓋を開けるとその中に缶切りの小さな刃が付いていた。それで缶の上部を切ると、缶ピース独特の良い匂いがした。久々に買ってきたら、今は缶切りに刃はなくつまみが付いていてそれを引っ張ると上部が開いてタバコが取れるようになっていて、ちょっとガッカリした。しかし、タバコを取るためにある紙は同じで、それを引っ張るとタバコが何本か上がってくる。

 東京に来た頃は、金がなくて缶ピースの空き缶を筆立てに使っていた。三島は決起前日、父親との会話で、1日何本吸っているを訊かれて、30本から40本と、答えているという。ボディービルなどで劣等感をもっていた肉体を改造して、運動も続けていたと思うが、その中でそれだけの本数を吸うというは、今のスポーツ選手からすれば考えられない事だろうし、これは凄いことだと思う。

 床屋に行ってさっぱりしてきた。昨日は、ラス・ベンタス闘牛場で、アレハンドロ・タラバンテが、プエルタ・グランデした。その2日前のダビ・モラのプエルタ・グランデよりはずっと良いファエナだった。ネットのビデオで観る限りおいては。ウエルバのカルテルが発表になった。ホセ・トマスとモランテのマノ・ア・マノは、8月3日。フリとマンサナレスのマノ・ア・マノは翌日。ディエゴ・ベントゥラのウニコは、その翌日。

 テレビはないから観ていないが、日本は、ヨルダンに6−0と圧勝した。本田がハットトリック、香川も得点した。


 6月9日(土) 雨 4834

♪義理と人情を 秤にかけりゃ
義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ
俺の心は お見通し
背中で吠えてる 唐獅子牡丹

親の意見を 承知ですねて
曲りくねった 六区の風よ
つもり重ねた 不幸のかずを
何と詫びよか おふくろに
背中で泣いてる 唐獅子牡丹

おぼろ月でも 隅田の水に
昔ながらの 濁らぬ光り
やがて夜明けの 来るそれまでは
意地でささえる 夢ひとつ
背中で呼んでる 唐獅子牡丹♪   ーー映画『唐獅子牡丹』主題歌 歌:高倉健 作詞:水城一狼、矢野亮 よりーー

 当日自宅からコロナに乗って自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かう車中、三島は、「やくざ映画ならここで主題歌が流れるところだ」という。そして、歌うのが高倉健の『唐獅子牡丹』。これを5人で歌う。これは映画の世界で描かれた創作ではなく、実際あった事を映画に織り込んでいる。三島由紀夫の心象の断片だ。

 例えば、東大全共闘との対話集会で三島由紀夫が言う台詞は全部が実際にそこで三島が言った言葉である。若者の情熱から出る言葉。目茶苦茶な論理を、一つひとつ誠実に応えている。こんな事をしていたら、もたないと思う様な事をやる。自分が脚本監督をやった『憂国』の中で部屋に掛けられている掛け軸には、「至誠」と書かれている。彼は彼の人生の中で、徹底的にそれを貫いているように見えるのだ。

 若松孝二は、「若い奴らの、打算のない捨て身の生き方が、なんか好きなんでしょうね。」と言っているが、三島も同じなのだろうと思う。だからこそ、森田必勝らの熱情に動かされていったのだと思う。それは理屈ではないところで作用を起こしていった事件のような気がする。三島の、「美」という概念とも一致した部分が大きかったのだろう。三島は、東大全共闘の集会最後にこういう言葉を残している。

 「諸君がやっている既成概念の破壊、ということは、私も同意します。私も文学者として、長いことそれをやってきたつもりだ。しかしだね、今、ぼくは自身が既成概念の権化として受け取られていると、奇妙なうれしというか、こそばゆさを感じている。しかし、私は。諸君の情熱だけは信じます。他の一切を信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。」

 こういう事をあの中で言える人というのは、凄い!『尚武のこころ』の野坂昭如との対談で、野坂は、良くあそこに行きましてね。僕だったら逃げます。全員敵のであることを解っていて乗り込んだことを賞賛し、殴られるかも知れないということを考えなかったのかと訊くと、三島はそういうことも考えて、覚悟を決めて行ったと応えている。

 これは映画にはないが、全共闘集会の中で三島は、ある自民党代議士から暴力反対の署名をして欲しいと言われ断った話をする。そして、私は生まれてこの方、暴力に反対したことがないと断言している。当時という時代を反映している言葉だ。そして、三島由紀夫の言葉だ。だからあの事件が起きても不思議ではないのだろうと思う。三島はある意味で追いつめられていたのだと思う。盾の会の維持と、森田必勝たちの「打算のない捨て身の生き方」に。

♪義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界♪ その中に散っていった。東大の対話集会の前年、東大駒場祭のコピーは、あの有名な「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」という、当時1年生の橋本治が書いたモノだった。


 6月10日(日) 曇 12400

 あの時代、文化というモノが時代と深く関わっていた。東映のやくざ映画、大映のチャンバラ映画は、勝新太郎の『座頭市』や市川雷蔵の『眠狂四郎』など。マンガでは、サンデーとマガジンがライバル心を燃やしてヒットを量産していた。三島由紀夫は、原稿を書き始めるまで3時間くらい書けなくてマンガを読んだりして赤塚不二夫のギャグマンガをおもしろがって読んでいた。対談の中で、あれは面白いと言っている。

 学園紛争吹き荒れる大学構内でも上記のモノの他に、山田風太郎の『忍法帖』シリーズや『平凡パンチ』やアングラの映画や芝居、フォークソング、などが流行っていたようだ。右翼も左翼もある意味で同じようにその時代の文化を感じていた。鶴田浩二の歌に出てくる「 古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど新しいものを欲しがるもんでございます。………今の世の中、右も左も真暗闇じゃござんせんか。」という台詞に妙に納得していたような感じだった。

 色んなモノが相互に関係し合い影響を受けながら、激動した時代。その中で、三島由紀夫は忘れられない印象的な事件として強く残っている。今でも、日本人の中には、三島の行動を馬鹿なことと、一言で片づけてしまうだろう。だが、これが外国人にとっては、全く違う印象を持って受け取られていると言うことを、知るべきだと思う。アントニオ・コルバチョが三島由紀夫に興味を持ったのは、あの事件がなければ、おそらくあり得ないことのような気がする。


 6月12日(火) 雨 23243/2

 もう12日を過ぎてしまったが、取り合えず記述しておきたいことを少しだけ書く。疲れた体を癒してくれるのは、本来は女である。気の利いた女なんて今日本に生息しないかも知れない。そうそんなモノは滅多にいるもんじゃない。しょうがないので、当場に出来ることを考えると、岩盤浴しか思いつかなかったので、岩盤浴へ行って来た。それで0時を過ぎて帰って来た。


 6月13日(水) 曇 7544

 今日もまた岩盤浴へ行ってきたために0時過ぎのアップになる。今日は、医者に行き、血圧の薬を貰ってきたが、診察して貰った。疲れの原因についてである。顔の筋肉がこって痛いこと。特に左の頬骨の処は、殴られたような感じで痛い。頭が重い。鼻声。寒気がする。体温を測ると6度9分あった。微熱だったが、常温が5度くらいしかないので高い方だと思う。感冒との診断になった。職場で風邪を引いている人間に囲まれているせいでうつったようだ。


 6月14日(木) 曇 8551

 体の中に病気があるのが解る状態。相変わらず左目の周辺は、筋肉痛を起こしているように痛い。薬も飲んでいるし、食べるものも食べているが、治らない。


 6月15日(金) 曇 29628

 こんな状態だと、断捨離も進まず、読書も進まない。久々に部屋探しをネットでやっていたら、いくつもが更新されていて、保存していた部屋がなくなっている処が複数あった。しょうがない状態。今更焦ってもしょうがないので、体調を整えてまた、機が熟すのを待つことにする。

 サッカーのワールド・カップ予選で、日本は2勝1分けで、勝ち点7で首位にたっている。オーストラリア戦は勝てる試合だったが、中東の笛という現象で審判にかき回されての引き分けだった。良い選手が多いリーグの審判はレベルが高いが、そうじゃないところは選手も審判のレベルが低いようだ。ヨーロッパの4大リーグの審判ですら選手やファンからボロかすに言われているが、アジアの審判のレベルは高校サッカー並のレベルに近いのかも知れない。

 これでは、サッカーのレベルも上がってこない。悲しいことだ。大観衆の前でビビっている。冷静さがない。Jリーグの審判でさえ多くの人が下手だ。難しい状況でも、ちゃんとした基準をもって判定できなければ良い審判とは言えない。そういう経験を積める場所を提供する必要もFIFAなどは考えて行かなければならないだろう。ヨーロッパ選手権は、スペインが初戦で1−1でイタリアに引き分け2戦目が4−0と快勝。ニーニョ・トーレスが2点を上げた。

 ビセンテ・デル・ボスケ監督は、試合ごとに選手を掌握して、引き出しを増やしている。懐の深さは相変わらずだ。

 処で、何か不穏な動きが出ている。バルセロナドミノの連鎖なのか、コロンビアの首都ボゴタ市長が、闘牛の興行主との契約を取り消した様だ。もう闘牛をしないという事だ。セサル・リンコンは、そういうことにはならないだろうと楽観的なコメントを出しているようだ。


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