−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月京都旅行の滞在日記です。
8月1日(水) 晴 42914/3
忙しかった。それでHPを更新できなかったのだ。その間、日本男子は、2連勝。なでしこは、引き分けで1勝2分けで予選リーグ2位で通過して決勝トーナメントへ進んだ。最後は引き分け狙いで思惑通りアメリカ、フランスがいない方と当たることになった。こんな記事がネットに載っていた。なでしこの川澄奈穂美のことである。
「 川澄奈穂美を育てた、“世界一のオヤジ”の教育法とは?=女子サッカー
■なでしこジャパン、窮地で監督に進言
2011年7月17日。サッカーの日本女子代表“なでしこジャパン”は、ワールドカップ(W杯)決勝の舞台に立っていた。1ー1で迎えた延長前半14分、対戦相手である米国のエース、ワンバックに勝ち越しゴールを許すと、なでしこジャパンは窮地に追い込まれた。
その直後だった。1人の選手がベンチに駆け寄り、佐々木則夫監督に次のように進言した。
「わたしがサイドハーフ、(丸山)桂里奈さんがFW。ポジションを元に戻していいですか?」
この直前にポジション変更を指示していた佐々木監督は、いわば自分の采配に対する反対意見を選手から聞かされたわけだが、それでも静かにうなずいた。 「わかった。そうしよう」。そう短く伝えた佐々木監督も、実は同じことを考えていた。
「同点の場面と、1点追いかける場面では、選手に求める役割も変わる。ポジションの入れ替えを指示しようと思った矢先に、選手のほうから提案されたわけです」 佐々木監督は、遠慮なく自分の意見を伝えてきた背番号9、川澄奈穂美の姿を見送りながら、彼女と最初に出会った時のことを思い出していた。「やはり頼もしい選手だ」と。
佐々木監督が初めて川澄のプレーを間近で見たのは、06年のことだ。なでしこジャパンと、将来のなでしこジャパン候補生を集めた「なでしこチャレンジプロジェクト」との合同合宿が行われ、川澄はチャレンジプロジェクトの選手として、佐々木はなでしこジャパンのコーチとして参加していた。 「チャレンジ組」の大半は、代表レベルの高度なプレーを「教えてもらおう」とし、コーチの指示通りにプレーしようと必死だった。ただ、川澄だけは、プレーを諭され「わたしは今、こういう意図でプレーしたんです」と食い下がった。
「女子選手でこれだけはっきりと、理路整然と、意見を伝えられる選手は珍しい」。佐々木は後に監督に就任すると、迷わず川澄をなでしこジャパンに引き上げた。
W杯決勝は、延長後半に澤穂希のゴールで追いついたなでしこジャパンが、その後のPK戦も制した。初の世界一に輝いたその瞬間を、神奈川県大和市内のパブリックビューイング会場で見届けた1人の男性は、興奮を隠さず絶叫した。
「世界一のオヤジになったぞ!!!」
テレビでも新聞でも繰り返し紹介された、この雄たけびの主は川澄奈穂美の父、守弘さんだ。
■「教えない指導法」で開花した才能
世界一のオヤジは、いかにして世界一の娘を育てたか――。
体育教師の資格を持ちながら、あえて教員にならなかったという守弘さんは、本人の言葉を借りれば「教えない指導法」で娘の才能を育んだという。 「キックの蹴り方などの“型”を、大人が教える必要はないんです。大きなけがや事故につながりそうな危険な行為にだけ注意を与えれば、そのほかは子どもの自由にやらせればいい」 守弘さんは、奈穂美が幼稚園児だったころにサッカーボールを与えただけで、好きなように遊ばせていたという。それでも奈穂美は、小学校2年生で地元の少女チーム「林間SCレモンズ」に入団したころには、ボールの止め方、蹴り方をある程度身につけていた。誰かに矯正されることなく、自分の感覚で身に付けた技術は、現在のプレーにもつながる彼女の財産になった。
また、川澄家は毎年、家族でスキーに出掛けていた。奈穂美を初めてゲレンデに連れて行った時、守弘さんはやはり大けがをしないためのポイントだけを注意すると、目の前で一度滑ってみせた。あとは「さあ、やってごらん」の一言だけ。奈穂美が転倒しようと、とんでもない方向に行ってしまおうと、見守るのみだ。「教えない指導法」でスキーを習得した川澄は、後にスキー検定1級を取得している。なお、「体幹の強さ、バランスの良さは、スキーのおかげでもあるかな」とは、守弘さんの分析だ。
■スタミナ、自主性も自然と身につける
さらに、川澄の長所として頻繁に挙げられるのは、無尽蔵のスタミナだ。なでしこジャパンが時折実施する持久力テストでは、毎回ぶっちぎりでトップの成績をたたき出す。チームメートが顔をゆがめて続々と脱落してもなお、川澄だけはニコニコしながら走り続けている。「どうやってスタミナをつけたのか?」と本人に問うと、「思い当たるとすれば、母と走ったことぐらいかな」との答えが返ってきた。
川澄の母、千奈美さんも、守弘さん同様スポーツ愛好家で、ホノルルマラソンの完走経験もあるという。ひと月に200キロを走り込んだこともあるといい、その当時10歳前後だった奈穂美も一緒に走っていたそうだ。
「家の近くに約5キロのジョギングコースがあったんです。なーちゃん(奈穂美)は毎日、夕食前に私と一緒に走ったんです。スピードは大人の私と同じでしたよ」
川澄家の「教えない指導法」は、娘の自主性を育むのにも大いに役立った。冒頭に引用したW杯決勝での「進言」シーンが示す通り、川澄には、指示されるのを待つのではなく、「自分で考える」「考えを行動に移す」という習慣が子どものころから自然に培われていたのだ。 「たとえばスキーに行く前の晩、親から言われる前に、用具も着替えも全部自分で用意していました」と守弘さんが言えば、林間SCレモンズの加藤貞行代表も、小学6年生当時の川澄を、懐かしそうに振り返る。
「小学生のサッカー大会では、保護者や指導者たちは大会運営に追われて忙しいんです。そんな時、うちのチームは『ナホ、頼んだぞ』と彼女に伝えるだけで、試合の準備はできました。ナホは対戦相手を観察して、先発メンバーやフォーメーション、戦術までを決めてくれました。試合中に監督に向かって選手交代の指示を出したこともあったぐらいで(笑)。そうやって、子どもたちだけで勝っちゃった試合もあるんです」
■すべて「自分」で生きてきた川澄
先述したとおり、川澄の父・守弘さんは、教員免許を持ちながら教員の道に進まなかった。こうして娘とのエピソードをつむいでいくと、彼の教育方針の根底には、学校体育(および日本の人材育成)が陥ってしまった「マニュアル主義」へのアンチテーゼ(正反対の命題)が浮かび上がってくる。枠にはめて、詰め込んで、言うことを聞かせるのは、スポーツの本来の在り方からも、人が育つ過程からもかけ離れていると、守弘さんは考えているに違いない。事実、彼は世の中に対し、こんな心配を口にする。
「サッカーだけじゃなく、すべての面で親や教師が口を出し過ぎているように思います。それで子どもたちが幸せになっていればいいのですが……」
言うなれば、川澄奈穂美とは、大人が管理しやすいマニュアル教育の対極で、自ら問題意識を持ち、自ら目標を掲げて努力してきた存在だ。だからこそ、自分の長所に自信を持ち、自分の限界を自分で知り、限界を超える解決法も自分で考えることができる。
それは、ただ苦しみに耐えるのではなく、「わたしにはできる」と信じてピッチに立つ、なでしこジャパンのイメージそのものだ。
そして最後に、娘に向けて父は短くエールを送った。 「五輪を楽しんでほしいです。どう準備するかは、昔から娘に任せていますから」 」 ーーYahooスポーツニュース&スポーツナビのオリンピック特集『オリンピアンを育てる人たち』よりーー
親の教育というのが、いかに子どもに影響を与えるかということを上記の記事は物語っている。オリンピックでは、金メダルリストがもてはやされる。柔道男子なんかは、銀でも監督の篠原が、「だからあいつは駄目なんだ」といって罵倒する。しかし、彼は誤審とはいえ銀メダルだったことは誰でも知っていることだ。誉めりゃ良いのに思うが、ああなると、醜さを感じる。例えメダルを取れなかった人でも金メダリストと同じくらい努力や苦労をしてきているはずなのに、結果だけをその人間の価値基準にしているような篠原監督の様な発言には、嫌気がする。何か銀メダリストの卑屈ささえ感じる。
指導者としての資質さえ、疑われる発言だ。こういう事を続けるのなら、選手は持っている力を充分に発揮できずに、緊張とプレッシャーのみに押しつぶされて、ますます金メダルから遠のいて行くことだろう。選手を愛しているのではなく、憎んでいるような印象さえある。女子の園田監督は、福見、中村という教え子が金メダル最有力だったのに、メダルすら取れなくても、両選手を、「だから駄目なんだ」とは云わなかった。試合前の不安が的中した事を残念がった。そして、期待していなかった、松本の金へと結びつける。1本を取れない柔道で見事な金。園田さんは駆け寄ってきた、教え子の松本の頭を撫でると、松本選手は号泣したという。この人こそ、指導者としての資質を持っていると思うが、篠原は、お前こそだから駄目なんだと、言いたい。不快である。
8月2日(木) 晴 5351
内村航平が男子体操個人総合で28年ぶりの金メダルを取った。当然といえば当然だが、「夢みたい」と云った。残念なのは、山岸が骨折で、代わりに出場した田中和仁が5種目目まで2位に付けていたが、最終種目の鞍馬で落下して6位に終わった。男子サッカーは、主力温存で、ホンジュラスとスコアレス・ドローで、1位通過して決勝トーナメントでは、エジプトと対戦することになった。一方、優勝候補だったスペインは、モロッコとこちらもスコアレス・ドローで、結局3試合で1点も取れずに敗退した。このショックは尾を引きそうな惨敗だ。
8月3日(金) 晴 28882
オリンピック男子柔道の金メダルは0に終わった。それでも、監督の篠原は、現時点で進退を考えていないと発言した。駄目や人ほど、その地位にこだわり、廻りのことなど目に入らず、新たな出発も、抜け出す道すらも閉ざしてしまう、典型的な例の一つに数えられる事になるだろう。地に落ちた男子柔道。あらゆる意味で、再出発の原点にしなければならない大会と総括しなかったら、競技としての柔道はすたれていくだろう。今現在最終日、女子は最重量級の杉本美香が決勝に進んだ。試合は日本時間4日0時。悔いのないようにやって欲しい。
日本時間4日1時から女子サッカーなでしこが準々決勝に登場する。「スカートをはいたペレ」ことマルタを止められるか?メダルを取るためには、グループ・リーグ最終戦のような闘いでは負ける。スイッチを切り替えないと。
新宿のチケット・ショップで盛岡行きの新幹線の切符を買った。ちょっと、帰省してこようと思っている。
「イギリス代表としてロンドン・オリンピックを戦うクレイグ・ベラミーは、「グループリーグでの戦いぶりで最も印象に残ったチーム」として日本代表の名前を挙げた。FIFA(国際サッカー連盟)の公式HPのインタビューで語っている。
ベラミーは、「彼らは本当に良いチームだよ。彼らの姿勢は称賛に値する。日本のような戦いぶりが、この大会の基準になるだろう。彼らのような姿勢でプレーしなければならない。オレたちがこのトーナメントで到達しなくてはいけない基準はまさにそこなんだ」と、日本の戦いぶりを絶賛した。
日本とイギリスは別ブロックであるため、決勝戦か3位決定戦まで対戦することはない。仮に対戦することになった場合、勝負を分けるのはこのピッチ上での姿勢になるかもしれない。」 ーー
SOCCERKINGよりーー
8月4日(土) 晴 8020
なでしこは、2−0で勝った。非常に緊張する緊迫した試合展開だった様だ。それでも、きっちりFWの大儀見と大野が決めた。沢が1点目のアシストは、早いリスタートから大儀見がフリーで決めた。後半、大野がゴール前で粘って左足でバーを叩いてゴール。あのガッツ・ポーズは格好いい。
女子柔道、杉本美香の決勝銭は延長になり旗の判定で負け銀メダルだった。残念。
ホセ・トマスの今年2回目の闘牛。ウエルバで、モランテとのマノ・ア・マノが行われて、1頭目ビクトリアーノ・デル・リオ牧場の牛から耳1枚、3頭目のハンディージャ牧場の牛から耳2枚、合計3枚の耳を取ってプエルタ・グランデした。モランテは、4頭目のファン・ペドロ・ドメク牧場の牛から耳1枚取った。
8月6日(月) 曇 38825/2
盛岡に帰省して、東京に戻ってきた。昨日の盛岡は暑かった。盛岡駅で、盛岡冷麺を食べて、実家に帰った。年老いた両親がいた。部屋を閉め切っているのでとても暑かったので、窓を開けて風通しを良くしたが、暑さはほとんど変わらなかった。これでは、部屋にいて熱中症になるわけだ。体が動かず、外に出ないで、この状態で家の中にいるというのは危険だ。
今日は、弟の車でお袋を病院に1週間のステイに出してきた。帰ることを認識していない様だった。親父には、また、1週間後、お袋が戻ってきたら、熱中症にならないようにクーラーを買った方が良いと進言したが、考えておくというだけだった。弟には、他に2つの案件について頼み事というか話をした。昨日は、叔父さんの所に行って話をしてきた。季節の変わり目や、気候が厳しいときに体に影響がでる。
8月8日(水) 曇 14660/2
なでしこは、2−1で接戦を制したが、男子は、1−3と完敗した。なでしこの方が、再三攻められて、これでもかこれでもかと、続く危ない場面の連続を、堪え忍び勝った。しかし、男子は負けて当然の試合だった。今まで無失点で来たのがおかしいような試合内容だった。お粗末。おそらく、3点とも防ごうと思えば、防げた失点だった。特に2点目と3点目は、明らかなミス。これでは、負けて当然。
それに比べて、なでしこは凄い!!!ドラマチックだ。絶対的にこっちが無理だろうと思っても、それを乗り越える気迫と気持ちを持っている。こう言うのは、技術を超えている。そして、そういうところで勝負が出来るというのが、本当に強いと云うことなのだ。男子が持っていた「負ける気がしない」という自信は、簡単に崩れ去った。本当の強さ、本物の強さがなかったのだ。
なでしこの強さが、本物の強さだ。永井が先発したが、怪我で走れない選手を起用すること自体、敗北を意味していていた。このチームは、永井のチーム。永井が駄目ならゲームプランが崩れて何も出来ないただの何の特徴もないチームに成り下がっている印象だ。
8月9日(木) 晴 34232
オリンピック女子レスリングで、金メダルを取った伊調馨と小原(旧姓坂本)日登美。好対照な2人である。今まで伊調姉妹は、明で、坂本姉妹は、暗だった。オリンピック選考会で、伊調姉妹が勝ち、坂本姉妹はことごとく負け続けた。幸福がつきまとう伊調姉妹。不幸な感じの坂本姉妹。どちらも同じ青森県八戸市出身だ。八戸クラブでレスリングと出会った伊調姉妹。八戸キッズでレスリングを始めた坂本姉妹。
この4人は、女子レスリングの強豪校中京女子大学のチームメイトだ。今日勝ち進んでいる吉田沙保里もまたチームメイトで、彼女は、八戸出身の父親が開いていたレスリング道場で手ほどきを受けた。父親は元全日本選手権優勝者の吉田栄勝。
2004年アテネ、オリンピックは、この5人に山本美優、聖子姉妹も加わって熾烈な選考会だった。子どもの頃からレスリングをやって来たこれだけの選手が死力を尽くせば、オリンピックで良い結果出るのは当然だろう。そして、小原はようやく掴んだオリンピックの舞台。
「決勝を戦う小原の顔に宿ったものは、“勝利の女神”などという生半可な力ではなかった。最終第3ピリオドの開始18秒。相手の右足をめがけ、頭から飛び込む捨て身の一撃が虎の子の先取点を生んだ。
あわてて前に出る相手を今度は組み手でしかりつけ、マットにはわせてもう1点。そこにいたのは「鬼」だ。
小原は2008年秋に一度引退している。当初は女子代表コーチを務め、48キロ級の妹、真喜子の指導に当たっていた。だが、男子フリースタイルの佐藤満監督は早くから小原に翻意を促している。「真喜子には悪いけど、金を取れるとしたらお前の方だよ」
佐藤監督の目には、タックルの絶妙な呼吸を心得ている点が、他の女子にはない強みと映った。男子に近い組み手の技術も備えている点も捨てがたかった。
決勝の相手、スタドニクはスピードに任せて何度も小原の懐をえぐってきたが、最後の一線を越えさせなかったのは秀逸な組み手のさばきだ。
小原は伴侶にも恵まれた。一昨年10月に結婚した康司さんは、元レスラーの自衛官。妻のスパーリングをつぶさに録画し、その日の内に2人で課題を検証した。聞き役に徹し、心配性の小原から悩みや不安を取り除くのも夫の仕事。最良のコーチであり、最良の理解者がいつでも小原の横にいてくれた。
「一人ではロンドンにすらたどりつけなかった。みんなと一緒に取った金」。タイムアップのブザーとともに一世一代の舞台は終わった。“鬼”は顔を覆って涙を流し、妻の顔に戻っていた。」 ーー産経新聞よりーー
「スタンドで揺れる日の丸に、マット上から喜びを伝えた。31歳の小原が最初で最後の五輪で頂点に立った。51キロ級時代を含め、世界選手権は8度優勝。だが、この舞台の勝利には特別な意味があった。五輪に正式採用が決まった01年9月から、11年近く。想像を絶する険しい道のりが、その歓喜を大きくしていた。
00、01年と世界選手権の51キロ級を連覇。しかし、04年アテネで五輪正式種目入りした女子は、4階級だけだった。48キロ級に落とせば妹・真喜子(現姓・清水)との戦いは避けられない。選んだのは55キロ級。02年、全日本選手権で吉田に挑戦し、フォール負けを喫した。「強くない自分には、もう価値がない」。傷心のまま帰郷すると、自傷行為が始まった。うつ病。過食で体重は70キロを超えた。
共働きだった母・万理子さんは仕事を休み、付き添った。3交代制の職場に勤める父・清美さんは睡眠時間を削って、ランニングに連れ出した。1度目の引退から再起した小原は、07年にも55キロ級に挑戦。五輪への道を断たれると、08年に2度目の引退を決意した。だが、夢はくすぶっていた。コーチとしてサポートしていた妹が引退を決意した夜、「お姉ちゃんに夢を引き継いでほしい」と頼まれた。09年12月、3度目の現役復帰は48キロ級で。もう、道を阻むものはなかった。
03年に手術した膝は、本来ならボルトがなければならない状態だ。だが、戦うために「支え」を抜いてもらった。肩、肘、そして腰。多くの古傷を自らの力で支えるために必然的にたどり着いたのが、筋肉の彫刻のような体。10キロを超える減量をサポートするため、母は4月に18年勤めた会社を辞め上京した。「支えてくれる人に結果で恩返ししたい」
この日、最後に戦ったのは、くしくも妹・真喜子が引退を決意した09年の世界選手権で頂点に立ったスタドニク。この大会を最後に引退を決めている31歳は、多くの人の夢を成就して、波瀾(はらん)万丈の物語をハッピーエンドにしてみせた。」 ーースポニチよりーー
「涙をこらえることができなかった。金メダルを決めた瞬間、小原日登美(自衛隊)は両手で顔をおおい、座り込むとマットを2度叩いた。ようやく念願の五輪女王の称号を手に入れた。
「本当に信じられないです。私1人の力ではこの金メダルは取れなかったと思うので、みんなで取ったメダルだと思います。うれしいです。みんなの応援が力になりました。マットでも一人じゃないと最後まで戦えました。笑顔をみんなに見せることができたのが、本当にうれしいです」そういいながらも、顔は涙でくしゃくしゃなまま。
会場で応援していた夫の康司さん(30)、父坂本清美さん(57)、母万理子さん(56)、かつてレスリング選手だった妹清水真喜子さん(26)も、涙を抑えることができなかった。
平坦な道のりではなかった。もともと51キロの小原は、2008年まで同階級で6度の世界選手権女王になっていた。だが、五輪には縁がなかった。04年アテネで五輪正式種目入りした女子は、4階級だけ。48キロ級には妹・真喜子さんがいたため、55キロ級に階級を上げた。だが、ここには、“最強”吉田沙保里(29)の大きな壁があった。挑んでは跳ね返され、08年に2度目の引退を決意。だが、その後コーチとしてサポートしていた妹が引退。「私はこれ以上強くなれない。五輪はお姉ちゃんが目指した方がいい」と頼まれ、09年12月、48キロ級で3度目の現役復帰を果たした。
当初はスピードに戸惑いもあった。3キロ落とす減量の過酷さにも苦しんだ。それでも、完璧主義者で不安に陥りやすい小原を、高校のレスリング部で1年後輩だった康司さんが支えた。2010年、2011年に48キロ級で世界選手権に優勝し、ようやくつかんだ五輪切符だった。
小原は「初めての五輪であり、最後の試合だと思う」と五輪後の引退を示唆していた。その、“最初で最後”の大舞台で夢だった金メダルを獲得。表彰台で、中央に立つ小原は、君が代を聞いた後、ようやく笑顔がこぼれた。「どんな時でも、あきらめずに頑張れば夢はかなうと思います」この言葉が、小原のレスリング人生を物語っていた。
」 ーースポニチよりーー
「一番輝く場所まで上りつめた小原の姿を、妹の真喜子さんが泣きはらした目で見つめた。「日登美が一番強いと思っていた。ようやく苦労が報われました」
アテネ五輪の出場権を逃した際、小原は精神的なショックから突発性の発作に襲われるようになった。
目を閉じるたびに敗戦の光景に悩まされる。そんな症状だったと父の清美さん(57)が振り返った。欝状態になり、実家に引きこもった。「五輪うんぬんではなく、レスリングを続けるかやめるか、そこからはい上がってきた」
小原がロンドンに出発する直前、真喜子さんは幼いころからの姉妹のアルバムを作って小原に手渡した。冒頭に「ありがとう」と記した。
一番入れたかった写真は2009年、自身の引退を決意した世界選手権。48キロ級制覇の夢をリレーした姉妹の原点だ。その1枚に「一緒に戦ってきたね」とメッセージを添えた。
「五輪で恩返しがしたい」と繰り返していた小原。試合直後の会見では、このアルバムに触れ「私がありがとうと言いたい」と語った。
笑顔でマットに立つ小原を見て、真喜子さんはじっとしていられない様子で言った。「初出場だけど、ようやくつかんだ金メダル。とにかく早く日登美に会いたい。ゆっくり話がしたい。きょうの試合のこともゆっくり聞きたい」 」 ーー産経新聞よりーー
「表彰台から家族らが見守る観客席に両手を振った。「みんなに笑顔を見せたい」。そんな思いとは裏腹に、涙が止まらなかった。「最初で最後の五輪」と臨んだ舞台で48キロ級日本初の金メダル。五輪に無縁だった「悲運の女王」がロンドンで最高の輝きを放った。
決勝は第1ピリオドを0−4の大差で奪われた。第2ピリオドを奪い返すと、第3ピリオドもリードして主導権を握った。五輪には未経験でも世界選手権は8度制した実力派だ。最後は、相手と組み合って仕事をさせない試合巧者ぶりで、残り時間を使い切った。
五輪期間中、胸に言い聞かせてきた言葉がある。「五輪に魔物はいない」。小原を気遣う夫の康司さんが、出国前にくれた手紙に書かれていた。この言葉に勇気づけられ、初めての五輪への不安を取り除いた。
アテネ、北京の両五輪に出場がかなわず、一度は引退した。コーチとして妹の清水真喜子さんのロンドン五輪出場をサポートするはずだった。
2009年の世界選手権。2回戦で敗れた真喜子さんから「日登美(小原)が五輪を目指したほうがいい」と言われたのが、ロンドンへの転機だった。結婚して出産もした妹から引き継いだバトン。小原は「48キロ級は妹の階級。自分と妹の夢がかなった」と喜んだ。
31歳。鬱病に陥り、厳しい減量にも苦しんだ現役生活は、勝っても負けても、五輪が最後の試合と決めていた。「レスリング人生に悔いはない。早く妹と“ママ友”になりたい」。苦悩のすべてが報われた晴れやかな表情で、金メダリストは第2の人生に思いをはせた。」 ーー産経新聞よりーー
「女子63キロ級の伊調馨(28)=ALSOK=が決勝で景瑞雪(中国)を破り、04年アテネ、前回北京に続く五輪3連覇を達成。日本勢の個人種目3連覇は柔道男子60キロ級の野村忠宏(ミキハウス)に続き2人目で、女子では初の快挙となった。
48キロ級では初出場の小原日登美(31)=旧姓坂本、自衛隊=が強敵を撃破し、この階級日本勢初の金メダルを獲得した。
栄和人監督は「本当によく頑張ってくれた。教え子の2人が金メダルを取ってくれてうれしい」と2選手を称賛。「馨には落ち着いていけと言ったけど、小原には結構、アドバイスをした」と明かし、「小原(旧姓坂本)は妹(真喜子さん)も頑張っていた。伊調家にはメダルがあったから、坂本家にも取ってほしかった」と姉妹の夢が実現したことを喜んでいた。
」 ーースポニチよりーー
「試合後の記者会見で「これが最後の自分の試合と決めて臨んだ。(現役に)復帰した時から、ここがゴールと決めていた」と述べ、ロンドン五輪を最後に現役引退することを明言した。
小原は6月に「五輪がどんな結果でも後の試合は考えていない」との意向を示していた。五輪初制覇した現時点でも考えは変わらないという。今後については「今まで選手生活中心で主婦業をサボっていた。夫に支えてもらってきたので、普通にご飯をつくってあげたい」と穏やかに話した。」 ーー産経新聞よりーー
「試合後の記者会見で同じ青森県出身の伊調と小原が息のあったトークで笑いを誘った。2人は組み合わせ抽選で引いたくじが、くしくも8番。伊調が「今日は8月8日で八戸出身。抽選も同じ8番。日登美先輩との絆は深まった」とちゃめっ気たっぷりの笑顔で話した。
選手村では同部屋の2人。小原は「試合が終わったら馨とおしゃれなバーでお酒を飲みたいねと言っていた。それが楽しみ」と話し、記者会見後は2人で金メダルを手にフラッシュを浴びた。」 ーー共同通信よりーー
それぞれの人にそれぞれの人生がある。色んな思いもそこにある。小原日登美の金メダルがことのほか嬉しい。伊調は圧倒的に強かった。明の伊調姉妹、暗の坂本姉妹は今日からは、なくなった。最高のハッピーエンドになった。2人の東北人に感謝。そして、東北に幸あれ。「どんな時でも、あきらめずに頑張れば夢はかなうと思います」 この言葉を忘れないようにしようと思う。
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