断腸亭日常日記 2012年 その10

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月京都旅行の滞在日記です。

99年4月15日〜5月11日 5月12日〜6月4日 6月7日〜6月10日 2000年4月20日〜4月29日 5月1日〜5月14日
5月15日〜5月31日 6月1日〜6月15日 6月16日〜6月29日 2001年4月19日〜5月3日 5月4日〜5月17日
5月18日〜5月31日 6月1日〜6月11日 6月12日〜6月22日 2002年4月16日〜4月30日 5月1日〜5月15日
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 11月21日〜11月27日 2012年1月2日〜1月11日 1月12日〜2月8日 2月9日〜2月22日 2月23日〜3月12日
 3月13日〜3月31日  4月2日〜4月22日  4月23日〜5月14日  5月15日〜5月23日  5月24日〜6月2日
 6月4日〜15日        

 6月16日(土) 雨 5064

 「1995年に起きた地下鉄サリン事件などで特別手配されていたオウム真理教元信者の高橋克也容疑者(54)が2012年6月15日、東京都大田区内で身柄を確保され、警視庁は殺人容疑などで逮捕した。捜査関係者によると、高橋容疑者は同日午前9時15分ごろ、同区西蒲田の漫画喫茶店の店内で捜査員に発見された。「高橋か」との問い掛けに、本人であることを認め、指紋で本人と確認された。
 高橋容疑者は17年間の逃亡中、15年近く川崎市内に潜伏。偽名で同市川崎区の建設会社に勤め、昨年10月から本社建物内の寮に住んでいたが、今月4日午後、近くの信用金庫から現金238万円を引き出し、姿を消した。」 ーー時事通信よりーー

 最後のオウムが逮捕された。所持品の中に麻原彰晃の説法テープや教団本が十数点あったという。また、サリンと認識がなく現場に向かったと言っているそうだ。17年間の逃亡生活で体型や顔つきが変わっても、麻原彰晃への信仰心は変わらなかったということの様だ。

 大分、顔面の筋肉痛は良くなった。岩盤浴で筋肉が緩むからなのだろう。ただ、相変わらず体がフラフラする。


 6月17日(日) 曇 7590

♪アカシアの雨にうたれて
  このまま死んでしまいたい
  夜が明ける 日がのぼる
  朝の光のその中で
  冷たくなったわたしを見つけて
  あの人は
  涙を流してくれるでしょうか

  アカシアの雨に泣いてる
  切ない胸はわかるまい
  思い出のペンダント
  白い真珠のこの肌で
  淋しく今日もあたためてるのに
  あの人は
  冷たい瞳(め)をして どこかへ消えた

  アカシアの雨がやむとき
  青空さして鳩がとぶ
  むらさきの羽の色
  それはベンチの片隅で
  冷たくなったわたしのぬけがら
  あの人を
  さがして遙かに 飛び立つ影よ♪   ーー『アカシアの雨がやむとき』1960年(昭和35年)歌:西田佐知子 作詞:水木かおる 作曲:藤原秀行よりーー

 60年安保の闘争の中で、6月15日東大女子大生、樺美智子が国会突入で警察隊に殺された。2日後の6月17日に新安保条約が自然成立した。1人の東大女子大生の死は日本中に衝撃を与えた。マスコミは警察や岸首相を批判した。その後、総辞職。当時、安保は国民の80%が反対していた。テレビでは、60年安保というと、国会の樺美智子死亡の映像には『アカシアの雨がやむとき』がセットになっている様に流れるという。『人しれず微笑まん』という樺美智子さんが書いた本を昔読んだことがあるが、今は内容を思い出せない。約10年後の東大全共闘の議長だった山本義隆もそうだが、樺美智子も学者一家に育ったお嬢さんだった。

 このけだるい歌い方に安保成立の絶望感が相まってこの歌は、超が3つくらいつきそうなロングセラーなったようだ。この歌には、僕なりの思いである。小学校1年の時だったか、2年時だったか、思い出せないが、長期で入院していた時がある。当時はテレビはない時代だったと思う。退院してきても、体調が良くなくて悶々としていたときに、買ったばかりの14インチのテレビから西田佐知子のぶっきらぼうで、投げやりな歌い方で、「アカシアの雨にうたれて  このまま死んでしまいたい」と歌われたモノだからビックリして呆然とテレビを観ていた記憶がある。

 あのぶっきらぼうで投げやりな歌い方が、何とも魅力的だった。大人の女だった。おそらく、歌謡曲との意識的な出会いがこの『アカシアの雨がやむとき』が最初だったと思う。安保とは全く関係のない思い出だ。しかし、『死』をテーマにして歌が歌われた時代というのがあったのだ。

 三島由紀夫は、5歳の時に自家中毒を患って死ぬ寸前までいっている。これは俺と同じ病気で、7歳の時死ぬ寸前までいったのと一緒だ。そうなると、死は非常に身近なモノになる。病院で死について感じていたからだ。これは理屈でない生身の死を。

「三島の辞世の句は、「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」の2句。事件の翌日の11月26日、三島の自宅の部屋で、「限りある命ならば永遠に生きたい。 三島由紀夫」という遺書風のメモが見つかった。」  ーーウィキペディアよりーー


 6月18日(月) 晴/曇 20390

 大分良くなってきたが、今日もスパ岩盤浴へ行ってきた。季節の変わり目で体調を崩している人は多い。鼻が痛いので、タバコを代えた。ハイライトの黒いパッケージのイナズマ・メンソールを吸っている。メンソールが強いので鼻に負担がかからないと思って吸っている。本当は、辞めた方が良いに決まっている。それは解っているが、辞めない。本数は少なくなったが、吸い続ける。

 大分蒸してきた。もう東京は梅雨入りしたようだ。台風4号が沖縄に近づいていて、明日には近畿に上陸する予想進路が気象庁から出されている。台湾沖には台風5号があり、これも日本に近づいている。明日からは大雨が降るようだ。

 三島由紀夫と共に市ヶ谷駐屯に行った盾の会メンバー 辞世の句

今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは    森田必勝
獅子となり 虎となりても 国のため ますらをぶりも 神のまにまに      古賀浩靖
火と燃ゆる 大和心を はるかなる 大みこころを 見そなはすまで      小賀正義
雲をらび しら雪さやぐ 富士の根の 歌の心ぞ もののふの道        小川正洋

 毎年11月25日は、鈴木邦夫の一水会では、森田必勝の辞世から追悼祭を野分祭と呼んでいるという。


 6月19日(火) 曇 6807

 喉が渇ききっていて水を飲んだら痛い状態。左鼻が痛い。少しタバコを辞めた方が良い状態のようだ。鼻も詰まっている。左目の廻りの筋肉は未だおかしい。違和感を感じる。今日はおそらく台風上陸で東京でもこれから大雨になるだろう。

 ヨーロッパ選手権は、スペインとイタリアが決勝トーナメントに駒を進めた。一方、なでしこはアメリカの1−4と大敗した。それと消費税を巡り国会が混乱しているようだ。


 6月20日(水) 晴/曇 12840

 フラフラする体で気づくのが遅れたが、左足裏が痛い事に気づく。これは皮膚科だから、いつもの病院に行くも、毎日皮膚科がやっていなくて、診て貰えなかった。それで、救急相談センター#7119に電話して近くの処を探して貰い電話した。3件の内1件は今日やっていないと言われ、1件は繋がらず、最後の1件に電話してそこに行くことにした。着いて受付を済ませて診察まで約1時間待ち、検査で15分かかり、診断と処方箋を出して貰って、会計、処方箋を持って調剤薬局へ行って薬を貰うまでに要した時間は、途中で食事をしたとはいえ病院に着いてから3時間半かかった。これだけでどっと疲れた。

 国会は、21日までの会期を、9月8まで79日間日の延長を民主党が提案。自民、公明、もそうだが、小沢派の動向が焦点になってきそうだ。民主党分裂が事実上始まっている状態。小沢抜きの政治は自民も公明も望んでいるようだ。他の党もそういう感じがする。


 6月21日(木) 曇 7460

 京都市右京区に妙心寺の山外塔頭、大雲山龍安寺がある。枯山水の石庭で有名な龍安寺。幅25メートル奥行き10メートルの方丈庭園には敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を一見無造作に5か所(五、二、三、二、三)、点在させただけのシンプルな庭である。方丈から観ると15個ある石の内必ず1個の石が見えない。禅の精神をこの石庭はこの様に表現している。世界遺産に登録されている有名な寺だ。そして、京都でも最も好きなお寺の1つである。

 今年の春にここを訪ね石庭と桜、ツツジなどの写真を沢山撮ってきた。昔は龍安寺と言えば、この石庭ではなく、その前にある鏡容池が有名で、京都の人々はそこに花を愛でに通ったという。4月は桜とツツジが綺麗だった。鏡容池の石庭寄りの方に弁天島がある。実はあまり知られていない事だろうが、ここに真田信繁夫婦の墓がある。信繁と書いても解らないだろうが、通称を書けば解るだろう。幸村である。

 真田家の家紋は、言わずと知れた六文銭。この六文銭は、「三途の川の渡し賃ともされる冥銭、地蔵菩薩信仰における六道にいるとされる六人の地蔵菩薩に渡す、六道銭(ろくどうせん)のことである。」 「旗印である六文銭(正しくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。」ーーウィキペディアよりーー

 つまり真田家は、武士としての覚悟を、家紋に表したのだ。武士としていつ死んでも良いという覚悟である。幸村もそういう覚悟で散っていった。

 真田信繁は、徳川の時代、つまり江戸期以降講談や小説で真田十勇士を従えて徳川家康に果敢に挑む英雄真田幸村として描かれ、一般的に知れ渡った。義経もそうだが、判官贔屓と言葉があるが、散ってゆく花の美しさを讃える日本人的な感覚である。

 日本の奇伝時代小説は、おそらく1960年代に絶頂期を迎える。中心になったのが山田風太郎と柴田練三郎である。風太郎は、文章も上手いし発想も物語の面白さもあり、1番好きな作家だ。『忍法帖』シリーズや『明治もの』などで知られるが、敗戦の1年を日記で綴った『戦中派不戦日記』は、永井荷風の『断腸亭日乗』を上回る日本日記文学の最高峰である。日記記述当時は無名の一医学生だった。また、人間の臨終を描いた『人間臨終図巻』もまた傑作中の傑作だ。柴練は、大映映画で、『眠狂四郎』シリーズを市川雷蔵主演でやって有名だ。班平という小説は、『剣鬼』という映画になりこれも雷蔵が主演した非常に美しい映画だ。雷蔵の『剣』3部作の一つだが、その中には三島由紀夫原作の『剣』もある。

 雷蔵は、おそらく日本最後の映画スターだった。そうテレビには出ずに映画だけでスターになった。死んだ日も、祇園祭の日、7月18日だ。京都人はそう処まで雷蔵を讃えるという。歌舞伎役者に養子に入って役者になった人だ。そして、三島由紀夫信奉者でもある。『炎上』(原作『金閣寺』三島由紀夫)でも主演した。そして真田十勇士の1人霧隠才蔵を演じた『忍びの者』シリーズでも主演した。勝新太郎と共に大映映画の大スターだった。ついでに書けば、勝新と競演した忠臣蔵前記的なと言うか丹下左膳前記的な感じもする『薄桜記』も、モノの見事な作品だった。

 今、思うことは、三島由紀夫の、『憂国』『豊饒の海』を読みたいのだが、どうもこれだけを読んでいると、三島に圧倒されそうで、それで、考えついたのが、柴練の『真田幸村』『猿飛佐助』『赤い影法師』『南国群狼伝』と真田幸村関連の本と絡めて読んでいこうと思う。それは、六文銭という覚悟を示した真田幸村と三島の覚悟を絡めたいという思いもあるからだ。


 6月22日(金) 雨 5922

 朝からの雨は昼過ぎにはやんだ。肌寒い陽気だ。これでは体調を崩す人が多いだろう。三島由紀夫は、神津カンナとの対談で、「おじさんがこの本がいいよとすすめて、それで読んでも、私はいい本を読んだというふうに思ってはいけないよ。
ただし、ひとつだけ、おじさんが責任を持ってすすめる本がある。それは辞書だ。辞書だというものは”引くもの“だと思っているかもしれないけど、本来“読むもの”なんだ。わからない言葉があって辞書を引くというのは、恥ずかしいことなのだよ。辞書を引かなくても、すべての言葉がわかり、すべての字がわかるのが最高検察庁の水準だとすれば、みんな恥ずかしいことをしているのだ。だから、辞書を引かなくてもいいような人間になるのがひとつの望みだとすれば、辞書というのは、一ページずつ読んで覚えていかなくてはいけない。 きみが今から辞書を読んでいれば、いつかは、辞書を引かなくても本が読めるようになり、文学がわかるようになり、言葉が全部、頭に入るだろう。ボキャブラリーというのは、ただ生活をしているだけでは入ってこない。辞書を読んで勉強していくのだ。辞書を、毎日一ページずつでも読みなさい」

 辞書を引くものでなく、読むものだと、三島はいう。これはあくまで日本語の事を言っているのだと思う。三島でも英語の辞書は引いただろうし、読んではいないような気がするからだ。 『宴のあと』の中で、瞞着(まんちゃく)と言う言葉が出てくる。「何という純粋な瞞着だろう。ーー中略ーー最後に永遠を瞞着する。」という、かづの思いの内面を綴っているところである。この小説のキーワードは瞞着ではないかとはたと思った。

 瞞着とは、辞書には、ごまかすこと。だますこと。と、ある。女性主人公に、瞞着を語らせるというのは、上手くできている。ある女性像にはそういう物があるからだ。そういうことを男が解ってしまえば、嫌気がするが、解らなければ許せるものなのかも知れないが…。


 6月23日(土) 曇 8041

 三島由紀夫を読むのは、日本を感じることと、事件へのある意味での落とし前の為である。しかし、こんな事を書いたら何だが、ハッキリ言えば、小泉八雲を読んでいると、誰の文章を読むよりも日本を強く感じるし、涙が出てくる。それほどまでに日本を愛し、深く理解し、そのことに幸福感を感じている人を観ると、明治という未だ江戸時代の残像が強く残っていた時代の日本が甦って来る思いがする。それは、夏目漱石や森鴎外、永井荷風を読んでもそこまで感じる事が出来ない、江戸を感じ、日本を感じるのだ。樋口一葉も江戸を感じされてはくれるが、それは幸福感を満たしてはくれない。

 漱石にしても、鴎外、荷風にしても外国に出て学び、帰国して外国かぶれにならず、むしろ日本の良さに気づき日本を愛した人たちである。そういう人たちの文章を読んでも感じることが出来ない日本を、八雲からは強く感じる。彼の漂泊は、日本への永住を覚悟させた動機が多分沢山文章の中に溢れているからだろう。日本への感動に溢れている。日本に住む人への温かい目が、まぶしいくらいだ。無名の日本人への暖かな眼差しは、愛と希望に満ちている。彼の心の幸福感は、日本に住むことによって満たされている。

 そういうところが、読んでいる人の心を打つのだろう。

 バレンシア、サン・セバスティアン、マラガなどのカルテルが判ったが、週明けのアップになる。


 6月25日(月) 曇 33270/2

 朝から冷たい風が吹いて寒い。梅雨で蒸し暑いかと思いきや、こんな天気で1日こんな感じだった。部屋の片付けが進まず、それなのに部屋探しで観てきた。最近の不動産屋は、ネット時代で、HPで客を誘い、内見は不動産屋がついてくるのではなく、地図を渡して鍵も物件に着いてから場所を教えて客に勝手に観て貰うという処もあるのだということを知った。それはそれで良い面もあるが、何となく違和感を感じた。

 間取りや平米が足りていても実際観ると狭いと感じてしまった。1階というより地下に位置するような感じだった。駅から3分で驚くほど近かったが、駅周辺には何ヶ所も自転車置き場があって、みんな結構遠くから駅まで来ているのが判る。駅周辺は栄えていて買い物も出来るし良いところだと思ったが、いまいち乗り気じゃない。

 今は何かみんな中途半端な感じだ。断捨離も、読書も、気持ちも、体調もそんな感じだ。


 6月26日(火) 曇 12098

 ホセ・トマスの結果だけを書いておく。40度の気温の中での今年初めての闘牛は、耳1枚、耳2枚で、耳4枚取ったフリと一緒にプエルタ・グランデした。ネットのビデオを観たが、今年初めてというより、ずっと闘牛をやって来たような落ち着きと気品を感じさせる闘牛だった。ネットでは、耳1枚の闘牛しか今現在観れないが、感想を簡単に書けばそういうことになる。耳2枚の方はナトゥラルが良かったようだ。

 ネットのタイトルは、Leccion de toeria と、Juli invencible, excelente Jose Tomas だった。


 6月27日(水) 晴 19460

 ごまかしごまかしタバコを吸ってきたが、やっぱり鼻が痛い。いつまで経っても、もとのタバコに戻らないのは、そういうことだ。どうも、不快。落ち着かない。小泉八雲を読んでいると、彼がいかに日本を深く理解していたかが判る。それと、明治の時代に、江戸時代やそれ以前の日本に対する、と言うか、松岡正剛が言ういわゆる、「日本の面影」というものを非常に上手いこと書き残している。今読んでも、それは、そこにあるかのような感覚を持つ。影についても描写には唸ってしまう。寺や神社へ続く道は無や空を意識させる。こういうものが残さなければならない大事なものであることを八雲は判っていた。

 ダルビッシュは10勝目をあげハーラートップタイに並んだ。

 アルバセーテ、ポンテベドラなどのカルテルが発表になった。


 6月28日(木) 曇 9284

 帰りにホームで何か寂しそうなというか悲しそうな顔をしていたので声を掛けたのが職場の人。そしたら、自分の事や家族のことを話し始めたので訊いていた。いろいろ大変なんだなと、思った。彼から観れば、俺は悩みもない人間に見えるのかも知れない。人はそれぞれに何かを背負っているようだ。

 部屋に帰ってきてネットで検索していたが、ふとある考えが浮かんだ。部屋を借りるよりも買った方が良いのかも知れないと、思ったのだ。それでつらつら調べて、MEGUさんに電話して訊いた。今は大分中古物件が値下がりして底値のような状態だから買っても良いと思うと言うことだった。流石に不動産屋だけの事はある。それで40分ぐらい話をして、また、検索。

 それから直ぐ後に、MEGUさんからメールが来た。それは、カエルさんからの伝言が書かれていた。何年かぶりの連絡。闘牛の会に出なくなってからだから3年くらい経つだろう。門前仲町で闘牛の会をやっていた時に良く来ていた、Kさんがスペインの巡礼の道でホテルに帰ってきてバッタリ倒れて急死したというものだった。MEGUさんに直ぐ返信して、カエルさんに電話した。久しぶりに声を聞くが、以前に比べると落ち着いた声だった。元気そうでもあった。

 くまさんの処のツアーに、夫婦で行っていた時にこういう事になったらしい。遺体は、明日戻ってくるらしい。セビージャでやった闘牛ツアーにも参加して頂いたKさん。酒が好きで、飲むと良く理屈をこねていた。飲むと楽しいそうに話をする人だった。好きなスペインで死ねて本望だと思う。でも、一緒に行った奥さんはさぞショックだろう。直前まで元気だったらしいからだ。心臓に持病を持っていたらしいという事を訊いた。ともあれ、ご冥福を祈りたい。

 何故か、ボブ・ディランの『北国の少女』が聴きたくなった。こう言うときは、ディランに限る。

 スペインはポルトガルとのPK戦で勝って決勝に駒を進めた。


 6月29日(金) 曇のち晴 5111

♪ため息の出るような
 あなたの口づけに
 甘い恋を夢見る 乙女ごころよ
 金色に輝く 熱い砂の上で
 裸で恋をしよう 人魚のように

 陽に焼けた ほほよせて
 ささやいた 約束は
 二人だけの 秘めごと
 ためいきが 出ちゃう

 ああ 恋の喜びに
 バラ色の月日よ
 はじめて あなたを見た
 恋のバカンス

 陽に焼けた ほほよせて
 ささやいた 約束は
 二人だけの 秘め事
 ためいきが 出ちゃう

 ああ 恋の喜びに
 バラ色の月日よ
 はじめて あなたを見た
 恋のバカンス♪      ーー『恋のバカンス』 作詞 岩谷時子 作曲 宮川 泰. 歌 ザ・ピーナッツーー

「 「恋のバカンス」や「恋のフーガ」のヒット曲で知られる双子の歌手「ザ・ピーナッツ」の姉、伊藤エミ(いとう・えみ、本名・日出代=ひでよ)さんが15日に亡くなったことが27日、分かった。71歳だった。葬儀・告別式は近親者で済ませた。

 伊藤さんは昭和16年、愛知県生まれ。ジャズクラブで歌っているところをスカウトされ、上京。一卵性双生児の妹のユミ(本名・月子)さんと「ザ・ピーナッツ」を結成し、昭和34年に「可愛い花」でレコードデビューした。

 卓越した歌唱力とハーモニーの美しさで注目され、音楽バラエティー番組「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」に出演。「恋のバカンス」や「ふりむかないで」など数々のヒット曲を送り出し、高度成長を背景に、テレビの普及とともにお茶の間の人気者となった。

 NHK紅白歌合戦には、34年から49年にかけて16回連続出場。女優としても活躍し、「クレージー黄金作戦」など20本以上の映画に出演した。特に、昭和36年の怪獣映画「モスラ」では、双子の妖精「小美人」を演じて「♪モスラヤ、モスラ…」と歌い、印象的な歌詞とメロディーで話題を集めた。

 日本の歌謡界のトップを走り続けたが、50年に引退を発表。以来、マスメディアからは遠ざかった生活を送っていた。

 伊藤さんは解散直後、歌手の沢田研二さん(64)と結婚したが、62年に離婚していた。」 ーーサンスポよりーー


「 「恋のバカンス」などのヒット曲や映画「モスラ」で知られる双子デュオ「ザ・ピーナッツ」の伊藤エミ(いとう・えみ、本名・沢田日出代=さわだ・ひでよ)さんが15日に亡くなっていたことが分かった。71歳。数年前からがんを患っていたという。葬儀・告別式は近親者で行った。

 エミさんは、前夫、沢田研二(64)の姓に最後までこだわり、ともに人生を歩んだ証を消さなかった。

 一卵性双生児の妹、伊藤ユミ(本名・月子)さん(71)とのハーモニーで人気絶頂だった1975年4月に芸能界を引退。2カ月後、当時、同じ渡辺プロダクションに所属していた沢田と交際7年目で結婚した。専業主婦となり、79年には長男を授かった。

 だが沢田と女優、田中裕子(57)の不倫が取りざたされ、87年に離婚。18億1800万円という当時の芸能人カップル最高額慰謝料がセンセーショナルに伝えられた。

 離婚後、エミさんは沢田姓を捨てず、一人息子を女手一つで育て上げた。関係者は「沢田への愛情がまだあったのかも知れないが、それよりも長男のことを考えての判断だったのでは」と語る。

 沢田は27日、神奈川県内でコンサートを行っていたがノーコメント。エミさんも離婚後は沢田のことを公に語ることはなかったという。」 ーー夕刊フジよりーー

 ジュリーは、コメントを出さず静かにしている。離婚の時も、自分に有利な事を言わず、相手の不利な事も言わずに通した。あの頃、ジュリーは、伊藤エミを愛していた。色々な思いがあるだろうが、それを口にはせずに黙っている。妹のユミさんもそのことについてのコメントは発していないようだ。お互いに芸能界でも超1流だったが、別れてからの態度も超1流を貫き通した。

 ザ・ピーナッツの前には、ザ・ピーナッツはいなかったし、それ以降もザ・ピーナッツを超えるコーラス・グループはいなかった。個人的には、『恋のバカンス』も歌ったが、『銀色の道』が大好きだった。ご冥福を祈りたい。

 「小野ヤスシ(本名・泰=やすし)さんが28日午後10時24分、腎盂がんのため都内の病院で死去した。72歳だった。」 「「太陽にほえろ!」「北の国から」などテレビドラマや映画、バラエティー番組に数多く出演し、人情味あふれる演技で知られた俳優の地井武男(ちい・たけお)さんが29日午前7時ごろ、心不全のため東京都港区の病院で死去した。70歳。千葉県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。」 ーーサンスポよりーー


 6月30日(土) 晴 8363

 「 ♪ため〜息の〜でるような、あな〜たのく〜ちづけに…

 1963年のヒット曲「恋のバカンス」などで一卵性双生児の妹、伊藤ユミ(本名・月子)さん(71)と魅惑のハーモニーを響かせた姉、エミさんが、ひっそりと天国へ旅立っていた。

 関係者によると、エミさんは数年前に腎臓がんを患い、入退院を繰り返すなど療養中だったという。最期は歌手、沢田研二(64)との間に生まれた一人息子の長男(33)やユミさんら親族が看取ったようだ。

 エミさんは59年にザ・ピーナッツとしてデビュー。きっかけは、妹とともに伊藤シスターズとして地元・名古屋市のナイトクラブで歌っていたところを、渡辺プロダクションの渡辺美佐相談役(当時副社長=84)にスカウトされた。  2人は1メートル52、B83W62H82、足のサイズも22・5センチと一緒で、唯一の識別方法はエミさんの目の横にあるホクロだった。が、デビュー後はユミさんもつけぼくろをして、うり二つだった。

 美しいハーモニーで和製ポップスの第一人者としての地位を確立する一方、61年には映画「モスラ」に出演。61〜72年まで人気バラエティー「シャボン玉ホリデー」で司会を務め、同じ渡辺プロ所属のクレイジーキャッツと並び国民的人気を誇った。当時を知る関係者は「大スターにもかかわらず、自慢やおごりは一切なく、気さくでスタッフや後輩から大変尊敬されていた」と振り返る。

 人気絶頂だった75年4月、2人は「引退はキレイに、カッコよく」との思いから芸能界を引退。エミさんは同年6月、同じ渡辺プロの沢田と交際7年目で結婚。79年に長男を授かるも87年に離婚した。慰謝料は18億1800万円で当時の芸能人カップル最高額と話題になった。

 73年のインタビューでエミさんは恋愛について「私は男にほれても妥協しない。ひとりになっても、なんとかやっていける自信がありますから」と発言。その言葉通り、一人息子を女手一つで育て上げた。離婚後も沢田姓を名乗っており、関係者は「沢田への愛情がまだあったのかも知れないが、それよりも長男のことを考えての判断だったのでは」と語る。

 離婚後の生活について関係者は、沢田からもらった東京・世田谷区内の自宅で独身のユミさん、長男(33)と同居し、エミさんは長男の父母参観にも積極的に参加していたという。悲報が流れた27日、自宅には親交の深かった歌手、田辺靖雄(67)、九重佑三子(66)夫妻が弔問に訪れた。

 エミさんの最後の“公の場”は75年7月、比叡山山頂で行われた沢田のライブ中、ツーショットで結婚報告した際で、それ以来、姿は見せていない。長年にわたり、ファンや業界関係者からはカムバックを望む声が上がっていたが、かなうことはなかった。」 ーーサンスポよりーー

 ザ・ピーナッツの歌を、YouTube で観ていたら、ジュリーのものもあった。コンサートでの話だけが載っているものがあって、それを笑いながら観ていたが、思い出したように、『ある青春』という歌を聴いた。聴きながら泣いた。初めて聴いたのは高校1年の時だったと思う。部活の帰りにサッカー部の同級生のTの家に行き、ジュリーは凄いと言って聴かせて貰ったのが、この曲だった。ヒット曲じゃないのに聴きながら言葉が出なくて、ただ泣いていた。タバコを吸いながら泣いていた。ライブではジュリーも泣きながら歌っていたスタジオ録音(歌詞入り)のLPでも何回か聴いて、感動した。あいつの家に行くといつも聴いていた。ジュリーが泣きながら歌を歌ったのはこの曲しか記憶にない。

 そして、YouTube でそれを見付けて聴いたら、どっと込み上げるものがあった。

♪青春の光がきらめく中で すべてを忘れて二人は生きた
 愛することにただひたすら 君と僕は生きて来たよ
 あれから君と来た道が ここで途切れてしまうのか
 翳りを知らぬ青春の 終わりがもう来たのか
 めぐり逢い愛し合い 幸せだった
 愛の日が今では 夢のようだよ
 
 若さでだけほかには何も無くて
 小さな部屋借り暮らして来たよ
 めざめた朝にこの窓から 見える空がきれいだった
 心も青いままだった 体も青いままだった
 愛する意味は知らないで 僕らはただ生きたよ
 あの頃のひたむきな 二人はどこに
 大人へとなるのか 君と僕とは

 太陽が明るく燃えてる時は 影などあること忘れるように
 僕らも同じただ若さを 燃やしながら生きてきたよ
 ごらんよ僕のこのタバコ 今は燃え尽き灰になる
 翳りを知らぬ青春の 終わりがもう来たのか
 めぐり逢い愛し合い 幸せだった
 愛の日に戻りたい 君と二人で♪ ーー『ある青春』 作詞:山上路夫  作曲:森田公一 歌 沢田研二 よりーー

 ♪若さでだけほかには何も無くて 小さな部屋借り暮らして来たよ めざめた朝にこの窓から 見える空がきれいだった 心も青いままだった  体も青いままだった 愛する意味は知らないで 僕らはただ生きたよ あの頃のひたむきな 二人はどこに♪ ♪太陽が明るく燃えてる時は 影などあること忘れるように 僕らも同じただ若さを 燃やしながら生きてきたよ ごらんよ僕のこのタバコ 今は燃え尽き灰になる 翳りを知らぬ青春の 終わりがもう来たのか めぐり逢い愛し合い 幸せだった 愛の日に戻りたい 君と二人で♪ 何か切なくなる。体が痺れたようになってしまう。ジュリーの名曲中の名曲が『ある青春』だ。沢山ヒット曲があるがこの1曲が俺にとってジュリー最高の曲だ。今ジュリーは、伊藤エミを思って何を考えているのだろう。俺も自分の昔の恋を噛みしめている所だ。涙が溢れて来る。

♪青春の光がきらめく中で すべてを忘れて二人は生きた 愛することにただひたすら 君と僕は生きて来たよ♪

 そういう風に無我夢中でそれだけに生きる時ってあるのだ。そういう美しさを自分の中で思い出した。美しいというのは、そういうことを言うのだ。青春という言葉は嫌いだが、もうとっくに終わっているのだけれど、自分の青春が終わったことを自覚した。悲しいかな、これは現実だ。

♪めぐり逢い愛し合い 幸せだった 愛の日が今では 夢のようだよ♪

 でも、今あの頃があるから生きて行ける様な気がするのだ。良いことばかりある人生じゃないもの。まず感謝の念。それから少しの後悔の念が交差する。


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