−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年のスペイン滞在日記です。太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月京都旅行の滞在日記です。
8月10日(金) 曇 7666
なでしこは負けた。やっぱりアメリカは強かった。良くここまで辿り着いた。銀メダルおめでとう。
「サッカー日本女子代表は9日、英国のウェンブリー・スタジアムでロンドン五輪の決勝となる米国女子代表戦に臨み、1−2で敗れた。開始早々にロイドに先制点を許すと、後半にもロイドに追加点を決められた。日本は後半18分に大儀見優季のゴールで1点を返すが、反撃は及ばず。日本は米国に敗れ、銀メダルとなった。米国は3大会連続の金メダル獲得となっている。
開始から米国のロングボールを生かした攻撃で守勢に回った日本。開始早々の8分にはロイドに先制ゴールを許し、早くも1点を追いかける展開となった。徐々にリズムをつかんでいった日本は、17、18分と立て続けに決定機を作るが、シュートがバーに当たるなどネットを揺らすことができない。その後は一進一退の攻防となり、両チームとも決定機を作るが、ゴールは生まれず。日本は0−1とリードを許してハーフタイムを迎えた。
後半に入り、日本が持ち前のパスワークで攻勢に出る。しかし、追加点を奪ったのは米国。ロイドがミドルシュートを決めてリードを広げた。2点ビハインドとなった日本は田中明日菜を投入し、澤をゴールに近い位置に上げる。そして18分、ゴール前の混戦から大儀見が決めて1点差に。さらに岩渕真奈を投入して、前線を厚くした日本は幾度となくゴール前に迫る。だが、ゴールを奪うことができずに試合終了のホイッスル。日本は米国に敗れ、銀メダルとなった。」 ーースポーツナビよりーー
吉田沙保里がお約束の金メダル。苦戦した様だが、やっぱり勝った。そして、ボルトも100mに続いて200mでも優勝した。史上初めての2大会連続2冠だという。
8月11日(土) 曇時々小雨 15678
オリンピック男子サッカー3位決定戦は、非道い試合だった。綺麗なサッカーをしようとしている日本が、がむしゃらな韓国に、0−2で完敗した。どうしようもない駄目さ加減。日本人選手は自分たちの才能を腐らせるために試合をやっていた。永井は、「ただ球を蹴っているサッカーに負けたのが、悔しい」といっているが、いくら良いプレーをしようとしても、滑るピッチの状態を考えず、ゲームを組み立てようとパスを回していても、結果が出るわけがない。
非常に単純な組み立てでも、韓国は2点を入れて、日本は1点も入れれなかったのだ。途中から呆れながら試合を観ていた。盛商が遠野に負けるときは、いつもこんな感じだった事を思い出す。非常にガッカリした。
この前、ネットでオギュスタン・ベルグを検索していたら、YouTube に、福岡でアジア大賞を受賞したときのスピーチが出ていて、日本語で話していた。他のを観ていたら、東京日仏学院が制作した、東日本大震災被災者と日本人に対して、フランス人(学者、色々なアーティストなど)が励ましや、応援の言葉、映像作品をそれぞれ1分間の時間で創った作品集、『80 minutes pour le Japon 』 を、観た。勿論、オギュスタン・ベルグも出演していて、日本語で1分間話をしている。彼は、仙台近くの新浜に住んでいた時期があって、2人の子どもとドンブク(綿入れ)を着て海岸近く撮った写真を見せていた。
そこに映っている1歳だった娘は、母親になり、その娘が招待されて新浜に行き、その翌年大震災で新浜が津波で破壊された訊いたときに、その娘は、泣き出して完全にしおれてしまったという事を語り、「あれほどまでに我々に日本は生きているということです。日本の皆様、東北の皆様、新浜の皆様。しっかりして下さい。」と語っていた。
『80 minutes pour le Japon』は、非常にフランス的な映像だ。僕はそれを観ながら泣いていた。そして、その中が最も美しいのが、アケミ・フィオンと、ドミニク・フィオンの『Sakura 2011』 だ。美しいメロディと気品がある。
8月12日(日) 曇 6666
オリンピック男子サッカーは、メキシコがブラジルに、2−1で勝った優勝した。ブラジルは、失点が多かったので、DFに問題があると思っていたが、その予感は的中した。サッカーは分かり易いゲームで、相手よりも多く得点すれば勝てる。ブラジルのように、攻撃力が強いからといって、いつも相手よりも、得点できるとは限らない。
ボクシング男子ミドル級で、村田涼太が東京オリンピック以来48年ぶりに金メダルを取った。これで日本の金メダルとようやく、6個目となった。
8月13日(月) 晴、夜になり小雨 18231
ロンドン、オリンピックは終わった。最後に男子レスリングで、米満達弘が金メダルを取った。彼は高校からレスリングを始めたいう。高校から始めて金メダルを取るという非常識を、成し遂げた。ブルース・リーに憧れ、格闘技を始める。愛読書は、宮本武蔵の『五輪書』。「合理的。実戦オンリーなのがいい」という。
ISOさんからのメールで、催促された様な気にもなって、欲しかった山田風太郎関連の本を注文。それが今日届いた。1つは、『別冊 太陽 山田風太郎』。1つは、『山田風太郎・降臨』野崎六助著。後者は、忍法帖シリーズで人気作家になる前、デビューからの探偵小説時代の作品群を読み解いている。前者は、別冊太陽が出した、山田風太郎特集号である。巻頭を飾っているのは『あと千回の晩飯』からの引用である。
「思うに人生は、夢や幻想がさめてゆく過程だといっていい。
親は子に対して、子は親に対して、夫は妻に対して、妻は夫に対して。
税金を払うときは国家に対して、死床にあるときは医者に対して。
そして、自分は自分に対して。
それでも大半の人間は不思議と絶望しない。」
その次が、関川夏央の「私の山田風太郎体験」から始まる。これは当然だろう。風太郎が晩年、小説が書けなくなってから、関川夏央が書いた、『戦中派天才老人・山田風太郎』がきっかけとなって、『風来酔夢談』 『コレデオシマイ』 『あと千回の晩飯』 『いまわの際に言うべき一大事はなし。』 『ぜんぶ余録』といったインタビュー集が刊行され話題になったのだから。その頃、講談社や廣済堂から全集が発売されて本屋に良く並んでいた。こういった本で、風太郎を知った人も多いだろう。
先日観た、三島由紀夫関連のテレビ番組で、評論家の奥野建男が、昭和という時代は3人の作家の死によって支えられていると、いっていた。それは、昭和2年の芥川龍之介の薬物自殺。昭和23年の太宰治の入水自殺。昭和45年の三島由紀夫の割腹自殺。約20年周期で作家の死があった、というようなことをいっていた。
「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」を感じて芥川龍之介が自殺。太宰治は一人で死ねず、心中する。三島由紀夫は、自衛隊に、クーデターを促し、同調者がないこと知ると、腹を切り裂き、日本刀・関の孫六で首を落として介錯して貰った。芥川龍之介の死は、7月24日。太宰治の死は、6月13日。三島由紀夫の死は、11月25日だった。芥川龍之介は35歳。太宰治は38歳。三島由紀夫は45歳だった。
8月14日(火) 曇 7394
夜中に雨が降り、涼しくなった。いつも吸うハイライトが切れたので、缶ピースを吸っている。オギュスタン・ベルグを読んでいると、日本の季節についての記述に感心する。気象状況を、季節風や気象図的な状態を書いて、旧暦と合わせたりして、書いているが、そこに引用されるのは、俳句である。季語が入った俳句を載せることによって、季節に日本人が感じるその時々の色や形や香りを、読者に感じさせるようにしている。こういうところが、地理学者たるゆえんなのだろうと思う。
夕立や かみつくような 鬼瓦 小林一茶
京都や鎌倉を歩いた人なら、この俳句が自然に入ってくるだろう。
8月15日(水) 雨のち晴 15576
オリンピック男子サッカー3位決定戦当日に、韓国大統領が竹島を訪問し、日韓関係が緊張した。そして、試合は韓国が勝った。勝った勢いでなのか、韓国選手が、ハングルで書かれた竹島は韓国の領土だというボードを掲げてピッチを走り、メダルは授与されなかった。そうこうするうちに、今日は、香港の市民団体が、尖閣諸島へ上陸して、中国領土であるとアピールして、逮捕された。
韓国大統領がやった行為は、東アジアに領土問題という緊張感の連鎖を作り出した。挙げ句の果てには、天皇に対して訪韓するのであれば、ちゃんと謝罪しなければ、訪韓しなくて良いとまで言った。日本に対する侮辱もここまで来れば行き過ぎだ。日本人がおとなしいからと言って、ここまで緊張感を高めたら、在日の人たちは、恐怖するだろう。
今日は、早朝大津教育委員長が襲撃された。怪我は軽いが、こういう事を起こすのが一般の大学生であることを考えると、日本人の中にそういう義心というのが強くあるのは、事実だ。和歌山毒物カレー事件の後、逮捕された林真須美宅は、放火されて全焼した。こういう事は、良くないことではあるが、みんな気持ちは解ると思っているのが、日本人なのだ。
韓国大統領が、ここまで強気に出ていると、相当数の日本人は、腹に据えかねている。何か事件が起きるような、予感がするのだ。
夏と秋と 行きかふ空の 通ひ路は かたへ涼しき 風や吹くらむ 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
8月16日(木) 晴 6387
三島由紀夫が、古今集へ帰れと書いているものだから、古今集を読んでいる。そのうち、万葉集も読むことになるだろう。『風土の日本』を読んでいると、俳句や和歌が引用されている。特に、季節を歌った歌が、面白いと思う。京都へ行ったら、今度は、俳句や和歌を詠んでみたいと思った。目に焼き付ける紅葉と寺院を、自分なりに詠めたら嬉しいだろうと思う。
サッカーの試合が昨日札幌であって、日本は、ベネズエラに1−1で引き分けた。
8月17日(金) 晴 38038
非常に暑い日だった。午前中の段階で、気象庁は高温注意報を発表した。東京でも、35.7度を記録して、熱中症に注意するよう呼びかけた。「日本列島は17日、昼すぎまで晴れた所が多く、群馬県館林市で38.0度を観測するなど、東北南部から西で厳しい残暑となった。気象庁によると、全国最高気温が38度台となったのは1日以来。35度以上の猛暑日となった地点も全国927地点中、106地点(午後5時時点)と、12日ぶりに100地点を超えた。
日本列島上空の寒気の影響で、大気の状態が不安定となり、17日午後は局地的に激しい雨が降った。18日も猛暑日となる所がある見込みで、気象庁は熱中症に十分注意するよう呼び掛けている。
17日の最高気温の全国2位は岐阜県多治見市の37.4度、3位は群馬県伊勢崎市と甲府市、大阪府豊中市の37.3度だった。
主要都市は、仙台33.9度、東京35.7度、名古屋35.2度、大阪36.5度、福岡33.9度。」 ーー時事通信よりーー
丁度良い具合に、スパに避難していた。岩盤浴は暑いけど、その後、食堂などでタバコを吸いながら読書をして過ごした。オギュスタン・ベルグの本はなかなか進まない。彼の博識を感じながら、引用などに出てくる本を検索したりして、読んでみたいなぁと、思ったりするのだ。良い図書館があったら、そこで1日過ごすのも良いのかと思ってしまう。
涼しげな 風鈴の音を 見上げては 寝ころび湯にて 残暑しのげり 風吟
8月18日(土) 曇 8962
侘び・寂びの世界に遊ぶ事が出来れば、優雅だろう。旅をして、歌を歌い、心のおもむくままに過ごす人生があれば、それは極上な物かも知れない。しかし、そういう風に、過ごすことが出来ない人ばかりだろう。せめて、ひとときでもそういう風に過ごしたい物である。と、思う。
8月19日(日) 晴 35611
今日も暑い日だった。残暑が続く東京。日本列島。藤原定家が京都の嵯峨野小倉山で選んだ、小倉百人一首。その中から、落語になったのが二首ある。
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは 在原業平
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 崇徳院
こういう歌を、落語に変える工夫をして、庶民は笑いながら、落語を聞いたのだと思う。上が「千早振る」という話になり、下が、「崇徳院」という話になった。落語を含め日本の文化というのは、面白いと思う。
山吹から 深紫に 色移ろふ 猿滑りの花 心に留まる 風吟
黄から紅 百日紅(さるすべり)の花 色変えて 迷いし心 我に伝えむ 風吟
不思議かな 山吹色を 赤紫へ 移ろふ色は 百日紅の花 風吟
8月20日(月) 晴 14531
基本テキストと考える松岡正剛を読み返しているのだが、その中に気になる文章があった。
「こういう「おもかげ」と「うつろい」を持ち出す方法をあらためて見つめてみると、日本は「負」という見方をいろいろなところで使っているなということがわかってきます。見方だけでなく、「負号」の刻印をうけた人々が大事だったということも、たいへん重要な歴史としてあったとみていいと思います。
その代表的なものは、日本の邦楽だろうと思うんですね。もともと琵琶法師も三味線音楽もつくった人たちも、その大半は盲人でした。これはたいへん大事な歴史です」 ーー『連塾 方法日本U 侘び・数寄・余白ーーアートにひそむ負の想像力』よりーー
そして、宮城道雄の事を語っている。
「 サントリー音楽財団の仕事で秋山邦晴さんに頼まれ、早坂文雄を調べているうちに、新日本音楽に関心が及んでいったことがある。新日本音楽は、大正9年(1920)に本居長世と宮城道雄が有楽座で開いた演奏会の斬新きわまりない感興に対して、吉田晴風が名付けた名称である。
すでに宮城は明治42年に『水の変態』を作曲して、その後も傑作『春の雨』などを発表していたのだが、大正3年に入って『唐砧』で洋楽を絶妙に取り入れていた。近代日本音楽史上最も重要な曲である。最近のレコードやCDでは箏の高低二部と三弦の三部合奏曲になっているが、初演の時は三弦も高低二部になっていて、箏と三弦の四重奏曲だったらしい。
宮城はつづいて三拍子の『若水』、セレナーデ風で尺八にカノンを入れた『秋の調べ』、さらには室内管弦楽の構成を和楽器に初めて移してこれに篠笛を加えた『花見船』、合唱付きの管弦楽様式による『秋韻』などを次々に発表して、圧倒的な才能を発揮した。いま、諸君が『さくら変奏曲』や『君が代変奏曲』に聞くのは、そうした実験曲をずいぶん柔らげたものである。
その宮城が、尺八の吉田晴風・中尾都山・金森高山、箏曲の中島雅楽之都、研究者の田辺尚雄・町田嘉章らと取り組んだのが新日本音楽だった。
宮城の「新日本音楽」は、いまこそ日本中で議論すべき栄養分をたっぷり含んでいる。
また、新日本音楽の活動に前後して、長唄の4世杵屋佐吉がおこした「三弦主奏楽」の試みも、大正8年(1919)の『隅田の四季』以来、驚くべき成果を次々にあげたのだが、ここにもいまこそ日本が考えるべき栄養分がしこたま注入されていた。加えてそこに、東京盲学校出身の山田流箏曲家たちの献身的な活動があった。
こうした背景のなかに宮城道雄の作曲活動と器楽活動が位置するのだが、その影響はほとんど半世紀におよび、武満徹までを籠絡させるに足りるほどの起爆力をもっていた。洋楽邦楽を問わず、宮城の試みたことの影響のない日本音楽など、おそらくないといっていい。それとともに、これから述べるように、宮城道雄には余人を絶する感覚が研ぎ澄まされていて、それが音楽のみならず言葉にまで染み出してくるのでもあった。
本書『雨の念仏』は宮城道雄のそうした隠れた一面を言葉にした最初の随筆集である。昭和10年に刊行された。
ぼくの叔父に小川光一郎がいて、生まれついての盲人だった。のちに日本ヘレン・ケラー協会の会長のような仕事もしていたようだが、ぼくの子供のころはただの「メクラのおじさん」だった。
その叔父が鋭い知覚力でデパートの5階の風鈴の音を1階で聞き分けていたり、「地下鉄の音ほどひどい音はない、あれは目に見えない音ばかりでできている」といったことを言っていたのを子供ごころにびっくりしながら聞いていた。
宮城道雄の耳はそれどころではあるまい。だいたい耳なのか、見えない目が見ている能力なのか、わからないほどである。本書にもたいていの時計の時刻が当たったという話が出てくるのだが、こういう感覚があの音楽をつくりだしたのかとおもうと、やはり想像を絶するものを感じる。
「軒の雫」という随筆では、田端の自笑軒に行く話が綴ってあるのだが、着いたときには雨がしとしと降っていたので、その雨の音が「昔の雨」のように聞こえて、さぞかし古い茶室のような部屋なのだろうと思ったというくだりがあって、ハッとさせる。帰りは女中が雪洞(ぼんぼり)をもって送ってくれたので、宮城はそれにさわらせてもらって、その温かさで玄関への露地の侘びた結構を観察するのである。
こういう話がいろいろ入っている。宮城の音楽を聴くのとはまた別の味がある。
あるとき素人のお弟子さんが変な音を出すので、箏にさわってみたら妙に冷たい。そこで近くの冷蔵庫にさわって、その箏の状態を測った。こういうことは、さすがにレコードをいくら聴いてもわからない。
田辺尚雄・中尾都山・大橋鴻山らと伊勢神宮に参拝したときのことが書いてある。
外宮に先に参ろうとして進むと、玉砂利に歩く人の数が見える。鶏が放してあるようだが、その鳴き声は里の鶏と変わらない。大きな杉の木があったのでさわってみると、その高さがわかる。しかしみんなからはその木をいくら下から見上げても、上の方は見えないということだった。鳥居をくぐるとあきらかに古代からの時間を感じた。
内宮に参拝するときは五十鈴川を渡った。想像していた通りの流れの音だったそうで、あきらかに人為が入っていない自然音なのだそうだ。
ついで神楽殿で神楽を聴くことになったのだが、周囲の参拝客が多くて御簾が降りた。とたんに神楽の厚みが薄くなった。無理に頼んで御簾を上げてもらい、神楽が周辺の神域に染みていく速度を感じていた。
宮城は春の朝がとても好きらしい。南風が頬をなでる感覚が格別らしく、いつも仕事をする気になるという。「四季の趣」という随筆は、そういう宮城の独自の季節感が綴られている。
春は昼過ぎに頬を照らす日差しに、遠くから省線の走る音が交じるのがよく、そこへ庭先のアブなどが羽音を入れてくると気分がさらによくなってくる。だいたい騒がしいのは嫌い。表通りを人声が動いていても、それを家の中で聞いて点字で本を呼んだりしている距離感が楽しいのである。
また春は朧月がよくわかるという。そこへ春雨が柔らかく降ってきて月を隠したらしめたもので、雨垂れの音を聞きながら作曲に入っていく。
夏は夜である。蚊遣の匂いと団扇の音がいい。夏は家々が窓や戸をあけるので、物音も広がっている。蚊の音さえ篳篥(ひちりき)
に聴こえる。
さらにおもしろいのが扇風機の音だった。あの唸りには波の音がする。しかも、その波打際に一人で放っておかれたような寂寞の気分になれる。「時々私は、扇風機の音にじいっと聴き入っていることがある」。こんなことを綴ったのは、きっと西はオスカー・ワイルドだけ、東は宮城道雄ただ一人であったろう。
夏は耳も暑くなる。カラスも言葉が多くなる。セミは言葉ではなく音楽を鳴らす。ただし、その音は日本中どこでもそうなのだが、ドの音とシの音しか鳴らさない。つまり半音ちがいの音楽だけを奏でつづけているのである。
初秋になってすぐわかるのは風の気配というもので、そのとたんに空気の密度が澄んで、それをそのままうまく運ぶとこちらの頭も澄んでくる。作曲も秋にいちばん多くなる。
秋も深まると、空をまわるトビが2羽でゆっくり掛け合うのがおもしろい。こういう感覚が満ちてきたら、夜長に虫の声を聞く。草ひばりなど引っ張るような音で、鉦たたきもスタカットのようで、馬追いも始めにシュッ終わりにチュッと羽根が動くのがおもしろいのだが、実は閻魔蟋蟀が平凡なようでいて、含みがあっていい。シの半音下がった音で鳴き始め、あとはラの半音を下げた鳴き方になっていく。これを聞いていると空気が冴えわたってきて、なんとも優しい気持ちになれる。
こうして夜空に向かって、体というのか、頭(こうべ)というのか、自分の感覚の全貌をそこへ向けると、秋の月の煌々と冴えた光が見えてくるものなのである。そしてそのまま寝所に入ると、以上のすべてが繰り返し再現される。
冬は蜜柑である。まだ出たての皮が堅くて、それでも撫でると光沢が指に伝わってくる蜜柑に出会うと、ああこれが冬だとわかる。しかも障子が閉め切られ、長火鉢に火がおこっている。意識はしだいに狭いものにむかって集中する。
かくて冬が進むと、いよいよ寝床に入ったまま、不精をしたくなり、布団の中のおなかの上で点字をまさぐる。また、点字を打ちもする。寒ければ寒いほど、こういうときは奥のことを感じられるようになって、いい。こんな夜は決まって内声(ないしょう)が聴こえているもので、ふと、こんな音楽がほしいなと想像すると、それも向こうのほうから聴こえてくる。
雪が降るのは、人々がいうように「しんしん」という音はない。けれども雪が激しくなってくると、細かい音が鳴ってくる。これは雨とちがってまことにおもしろい。積もった雪の上を人がさくさく歩くのも、よく耳を傾けている。それはまるで舟が艪を漕ぐ音なのだ。つまりは水が聞こえてきたわけなのだ。
そのほか餅をつく音、屠蘇を祝う声、獅子舞の馬鹿囃子、節分の豆の音、物売りの声‥。
こういうものをなくすようであれば、日本は必ずダメになる。日本の音楽というものは、こういうものと踵を接して育っていくものなのだ。
ざっとこういう調子なのだが、いろいろ考えさせられる。これを昭和初期に綴っていたかとおもうと、その後の日本の軍靴の歴史の暗澹や敗戦後の民主主義の空騒ぎが何だったのか、宮城道雄の新日本音楽が忘れられてしまったことと同様の気分で、がっかりするような感情が押し寄せる。
本書の最後には、標題に採られた「雨の念仏」という随筆が入っている。あまりに多忙だったので、土曜の夜に葉山の隠れ家に行ったところ、角の家で誰かが死んだらしく、大勢の弔い客が来ているという話である。とりあえず家に入ったものの、なんだか落ち着かない。
そのうち差配のおばさんが来て、角の家の不幸がどのようなものだったかを話し始めた。そこに雨が降ってきて、「人間、金持ちでもあんなふうに死んだら、何にもならないわよねえ」とおばさんが話を続ける。一区切りがついたところで、おばさんが帰ると言い出すのを聞いたとたん、寂しくなってきた。もう少しいてほしいと言うと、おばさんの親戚の家でも不幸があったのでこれから行かなければならないのだと言う。
誰もいなくなった家で雨の音を聞いていると、念仏が交じっている。さらに波の音や自動車の音が重なっている。
なんという寂しい夜なのか。それが宮城道雄の「雨の念仏」だったという話である。」 ーー松岡正剛HP『千夜千冊』 宮城道雄 『雨の念仏』よりーー
盲目の宮城道雄が、耳で物を観るという事が、出来た事に、驚きを感じる。そろそろ、昼のドとシの音で啼く蝉の声から、夜の「シの半音下がった音で鳴き始め、あとはラの半音を下げた鳴き方」をする秋の虫の音が聞こえ始めてきた。
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