断腸亭日常日記 2013年 その9

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年のスペイン滞在日記です。
太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月、11月、12月の京都旅行、2013年4月京都旅行5月出雲旅行滞在日記です。

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 8月1日(木) 雨 15893

 朝、目覚まし前に目が覚めた。それからウトウトしていたら結衣さんからメールが来て、コルバチョ死亡。ネット開けたら、載っていた。電話で少し話した。最後に、セバスティアン・リッテルを教えていたのは、良かったんじゃないか。真面目な子らしく、インタビューでも良かった。その前のセビージャの闘牛士はダメだった。結衣さんは、コルバチョと話したときのことを、教えてくれて、ホセリートは、フィロソフィア・デ・サムライを持っていたんじゃないか。自伝を読むと、それを感じる。ちゃんとは判っていなかった様だが、それに近い感覚を持っていたようだ。と。

 それと、目先のお金にこだわらない生き方は、闘牛界では、希有な存在。廻りの闘牛関係者からは、理解されなかったようだ。天才が、幼稚園に通っていたようなものといっていた。

 コルバチョが育てた闘牛士は一杯いる。住み込みで少年時代からいて、大闘牛になったのは、ホセ・トマス。また、今年もサン・イシドロでプエルタ・グランデした、アレハンドロ・タラバンテ。ホセ・マリア・マンサナレスや、ビクトル・プエルト、など沢山いる。タラバンテのアポデラードをやっていた時は、通常17%〜20%くらい取るアポデラードの手数料は、10%しか取っていなかったという。牧場からも信頼されていて、ホセ・トマスや、タラバンテを連れて行くと、タダで、牛のしとめさせてくれたという。金を払えば、1頭何十万もするのに…。

 下山さんからはメールが来ていない。結衣さんと電話していたら、涙が出て来た。絶望しないで欲しい。

前略、下山敦弘様。
コルバチョが死にましたね。突然の事で、驚いております。一緒に京都へ行きたかったと思っています。闘牛の話を一杯訊きたかった。日本文化を一杯感じて貰いたかったです。死ぬ前に、アポデラードを続けられたことは、コルバチョに取って良かったと思います。希望も自分の闘牛を伝えようという意欲も衰えていなかった証拠です。
 下山さんも絶望しないで下さい。コルバチョは、あなたに希望を与えました。コルバチョから貰ったものが、これからあなたの支えになっていくと思うます。今、1番重要な事は、自分自身を信じることです。それが、あなたの支えになるはずです。自分を信じられなくなったら、終わりです。コルバチョは、最後まで自分を信じ切っていたと思います。


 8月2日(金) 曇 18749

 新居へBフレッツが開通した。そして、テレビも持ってきてアンテナを繋ぎスイッチを入れたらデジアナ変換で映った。久しぶりに部屋でテレビが観れるようになった。これで新居での新しい生活の準備が済んだ。これからは、荷物を断捨離してここに運んでくる。思い切って捨てる物は捨てて、新しい物を買った方が良い。例えば、冷蔵庫。容量が少ないので料理するにも飲み物を入れるにも狭い。買い換えのタイミングだろう。

 それとパソコン用と、食事用の机が欲しい。これがあれば、じっくり競馬の予想も出来るし、パソコンも好きなように使うことが出来るようになるだろう。

 万希ちゃんと電話で話をする。セビージャへの電話した。下山さんへは繋がらなかったが、まゆみさんと話すことができた。元気そうだった。隣には、ジャンボ。後遺症も感じられないように仕事をしているという。


 8月3日(土) 曇 8242

 ウエルバにタラバンテが出た。耳1枚と耳要求だった。コルバチョへ牛を捧げたかどうかは書いていない。急いでいて、見落としているのかも知れないが…。ただ、自分が出来ることをやったという事だろう。

 気持ちが変われば、運も変わるだろう。自分を信じて、馬券を買おう。コルバチョの死で、何かが変わったような気がする。これが良い方に出ることを祈る。


 8月5日(月) 晴 34479/2

 部屋の片付け、洗濯などをした。昨日の夜、セビージャへ電話した。下山さんと話が出来た。ガッカリしていたが普段の生活を家族と共に過ごしていた。最後のコルバチョからのメッセージを貰ったという。どういう物なのか、知らない。

猛暑日 冷たい世間の 風に吹かれたい  風吟


 8月6日(火) 晴一時雨のち曇 11793

 広島原爆記念日。片付けをしてゴミ出しをした。本格的な引っ越しに備えた準備だ。遅い昼食、遅い夕食を取る。夕食を取りながら、旧居から持ってきた、『文學界』平成21年2月号の『日本人の戦争ーー作家の日記を読む』ドナルド・キーンを読み始める。永井荷風、山田風太郎などの日記などが入っている。それとISOさんから貰った、『少年H』妹尾河童著も読み始めようと思う。


 8月7日(水) 晴 7722

 朝、病院へ行って薬を貰ってきた。結衣さんからメールが来て電話で話した。闘牛ファンがこのHPを観ているという話を訊いた。それから、ケーブルテレビに電話して、電気屋へ行った。冷蔵庫を新しく買おうと思っていたからだ。昼食を取り銀行へ行って、振り込み。口座にお金がないとといっていたが、間違いだったことを告げられて振り込む。銀行が合併を繰り返して、同じ支店に2つの口座があったようだ。


 8月8日(木) 晴 8783

 午前中、電気屋へ行って冷蔵庫を買った。届くのは明日の午前。直ぐ次にケーブルテレビが来る。それで、グリーンチャンネルを契約するつもりだ。昼食後は、旧居へ行って片付けゴミ出し。

 テレビをつけ始めたら面白い。バラエティーは観ないが、NHKの朝ドラ『あまちゃん』は、岩手県出身という設定よりも、ドラマとして面白い。それと、大河ドラマ『八重の桜』も観れるのが嬉しい。テレビ東京では、アートディレクター佐藤可士和のことをやっている。非常に面白い。


 8月9日(金) 晴 7482

 朝方、秋田・岩手に、1時間に100ミリを超える集中豪雨が降るとい最大級の警戒を呼びかけていた。高校野球を観ていたらNHKのテロップに出た。昼のニュースは被害状況を報告していた。盛岡の隣の雫石にも100ミリを超える雨が降り盛岡市内でも冠水したところがあるという。花巻市の大迫などで土砂崩れなどで2人が死亡した。秋田は仙北市田沢湖で5人が行方不明になっている。「岩手県での降り始めから午後3時までの各地の雨の量は、雫石町で観測史上最大となる261ミリ、紫波で211ミリ、花巻市大迫町で135ミリなどとなっている。」 ーー日本テレビよりーー

 今日は長崎原爆記念日。政府自民党は核廃絶に本気ではない様だ。午前中に、冷蔵庫が来て、電話で、ケーブルテレビは13時頃になるということだったので、近くの外人がやるカレー屋へ行って、昼食を取った。ご飯じゃなくて、ナンを食べた。おかわり自由だが、1枚でお腹が一杯になる。食べ終わってラッシーを飲んでいたら、電話が鳴り部屋に来たというので、直ぐ戻ってケーブルテレビの契約した。今週は観れないが、来週からBSが観れるようになるので、12時から終わりまで、土日競馬が観れるようになる。結局、グリーンチャンネルは契約しなかった。

 朝の『あまちゃん』から、『サザンオールスターズの流儀』までNHKテレビを観ていた。旧居では、ラジオを聞いて片付けをした。こういう時に高校野球は、実に良い。観なくてもアナウンサーの言葉で状況が判る。野球だとそれがある。サッカーだとこうはならないのだ。


 8月10日(土) 晴 4948

 夜中、アメリカの反戦映画作り続けているオリバー・ストーン監督が、アメリカの現代史の5年間かけてドキュメンタリーを作った後、1番問題だと言っている、原爆投下への反対から、広島・長崎を訪れて記念館や、原爆投下を語る体験者の話を訊いていることを日本テレビがニュースでやっていた。彼は、アメリカ現代史の共同脚本を書いた大学の準教授と共に来日。アメリカ人学生10人と日本人学生20人を連れて訪ね歩いていた。明確な言葉で、アメリカは原爆を投下すべきでなかったと言っていたし、核を廃絶すべきだと言っていた。

 アメリカ人学生は、火傷を負った人の写真を観るのが1番つらいと言っていた。オリバー・ストーン監督は、ベトナム戦争を体験して、アメリカ政府のやり方に疑問を持ち、反戦を訴える様になった。ノーム・チョムスキーもそうだが、アメリカの良心と言えるような、行動や活動をしている。信頼でき、尊敬できる人間だ。

 NHK教育テレビで、画家フランシス・ベーコンのことをやっていて、暗黒舞踏の田中眠がイギリスまで行って絵を見たり、彼の人柄を訊いたりしていた。日本でやる絵画展初日に、舞踏した。電車の広告でベーコンの絵画展を知っていて観ようと思っていたので、近いうちに行ってみようと思った。田中眠が、師匠の土方巽にベーコンの絵みたいにと、言われて、ベーコンの絵にひかれ、それが今回こういう形で舞踏に生かされたのは、彼にとって素晴らしい体験だったようだ。「ベーコンは、インスピレーションの源のだ」といったイギリスの映画監督リーチ。非常に興味をそそられる番組だった。競馬の予想する頭を止めて、観てしまった。


 8月12日(月) 晴/雨のち曇 19602/2

 「じぇじぇじぇ」。NHKの朝ドラ『あまちゃん』で、驚いたときに発する言葉だ。NHKのHPには、岩手県久慈市小袖地区で使っている言葉で、ドラマの設定、北三陸(いったい何処だ)の方言という形になっている。「じぇじぇじぇ」という言葉に違和感を感じる。何故なら、驚いた時に発する言葉は、盛岡では、「じゃじゃじゃ」という。それが、海岸側の久慈に行くと「じぇじぇじぇ」になるということだろう。青森でも、たしか「じゃじゃじゃ」だったと思う。

 夕方、激しい雨が降り温度が下がった。夕飯を買いに出掛け、涼しさを実感した。夜になって、旧居に行って片付けを始めた。いったん戻ってきて、また、片付けに行く合間に記す。


 8月13日(火) 晴 11681

 お盆の週で、人が少なくなった気がする。相変わらず暑さが凄い。11日、東京では最低気温が30度以上あった。立秋が過ぎて、残暑と言うようになった。昨日は最高気温が37度あった。そして、今週も暑い日が続きそうだ。


 8月15日(木) 晴 17226/2

 終戦記念日。ケーブルテレビが来て、BSなどが観れるようになった。つまり、今週から土日に、12時から中央競馬がテレビが観れるようになったということ。それから、旧居への往復で、片付けや荷物運びを続けた。引っ越しはどうなるか?粗大ゴミの手続きや、引っ越し日を決めたりしたが、それに間に合うように自分自身が動かなければならない。

 立秋を過ぎて昨日辺りから、夜になると虫の音が聞こえるようになってきた。残暑はあと1週間とも2週間とも言われているが、この暑い中で、引っ越し作業は続く。


 8月18日(日) 晴 33333/3

 じぇじぇ。じぇじぇじぇ。引っ越し作業をしていたら徹夜になってしまった。じぇじぇ、じぇじぇじぇ。少しくらい寝てがったなぇ。汗だくで喉が渇ぐし、腹減った。じぇじぇ、じぇえじぇじぇ。これがらシャワーさ浴びで、汗ば流して仕事さいくべ。じぇじぇ、じぇじぇじぇ。朝飯食ってからいこうと思うと、じぇじぇ、じぇじぇじぇ。時間がない。じぇじぇ、じぇじぇじぇ。仕事って競馬が?じぇじぇ、じぇじぇじぇ。印も打ってねし、予想もしてね。じぇじぇ、じぇじぇじぇ。


 8月19日(月) 晴 11111

 朝から引っ越し作業をした。職場の人が手伝いに来てくれて、車で荷物を運んだ。本棚やロデオマシーンなどが部屋に持ってきた。本、ビデオ、DVD、CDなど。大きな物をほぼ運んだ。後は片付けをしながら、残った本などを運び、掃除をすれば終わる。

 昨日の札幌記念は、ロゴタイプは危ないと思って買わなかった。勝つと思ったのは、トウケイヘイロー武豊。前走、前々走のレースぶりからそう思ったのだ。そこから、どう買うかというのが問題だった。ルルーシュもいらないし、当然ロゴタイプもいらない。こう言うときは、セオリーとして同枠の馬を買う。そして、二の日なので、8番のアンコイルド、12番のレインボーダリア、16番のアイムユアーズ辺りだと買い目になる。

 レースは、武豊のトウケイヘイローが圧勝し、2着に同枠のアスカクリチャン、3着がアンコイルドで、的中した。ワイドだけじゃなく、馬連、いや、馬単を買えば良かった思った。ワイドで、1340円、1530円。縦目で5540円。馬連で、4230円。馬単、5540円。


 8月20日(火) 晴 10001

 高校野球が行われている。今回は東北勢が旋風を起こしている。東北勢6校の内、5校が初戦を勝ち、ベスト8には2校が残り、昨日行われた準々決勝で2校が勝ち、ベスト4に2校残っている。3回戦で敗れた弘前学院聖愛(青森)の礼儀に、全国から賛辞が送られているという。

 「夏の甲子園大会では18日の3回戦で延岡学園(宮崎)に敗れたものの、試合後きれいに1列に並んで3方向への挨拶がファンの胸を打ったようだ。

 まず相手校方向、そして本塁方向、最後に自らのスタンドへ…。一斉に頭を下げ角度も揃っていた。5回終了時のグラウンド整備が済むと整備員にお礼の挨拶もした。甲子園だけでなく練習試合でもこの流儀は変わらない。「試合できることに感謝する。試合は仕合せ、幸せに通じる」と選手は教えられている。」 ーーサンスポよりーー

 かっけー。素晴らしいことだ。ベスト4になった、花巻東、日大山形も含め、地元の高校生が中心のチームで勝ち残っている。かつて、東北の強豪といえば宮城県の仙台の2校、東北と仙台育英だった。この2校は、関西を中心に、野球留学生が主力のチーム強化をやっていた。東北高校出身のダルビッシュ有もその1人だ。

 そうじゃないだろうという気持ちがずっとあった。岩手なら岩手の高校生で、優勝をと思う心情が強かった。それをやったのが、県立の母校がサッカーで、岩手県の高校生で全国優勝した。かっけー。元を正せば秋田県は公立高校で強豪校を輩出していていた。ラグビーの秋田県立秋田工業。野球、サッカーの秋田市立秋田商業。バスケットの秋田県立能代工業など。東北人の中には、こういう心情が強いので秋田のように、地元の高校生で強豪校になろうという努力して来て、今回のような結果が出ているのだと思う。だから、花巻東と日大山形には頑張って欲しい。ただし両校とも公立高校ではなく、私立高校なのだが…。

 花巻東出身の西武の菊池雄星は、見前中学出身。今は盛岡市になっているが、以前は都南村だったと思う。中学校の時見た見前中の選手は、基礎体力が全然違うと思うくらい凄かった。そういう流れが未だにあるのかも知れない。いずれしろ、東北が勝ち残っているのは非常に嬉しいことだ。今年、NHKの大河ドラマは、『八重の桜』の福島は会津出身の新島八重が主人公。NHKの朝のドラマが、岩手県北三陸が舞台の『あまちゃん』で、天野アキが主人公。どっちも東北だ。

 じぇじぇ、じぇじぇじぇ。今年こそ東北に深紅の優勝旗を持ってきてけろじゃ。じぇじぇ、じぇじぇじぇ。これは東北人の夢だべあ。


 8月22日(木) 曇 18486/2

 朝早めでもなく7時頃に起きて、飯を食べ、BSで早めの放送の『あまちゃん』を見て、8時過ぎには旧居へ行って粗大ゴミを出し、片付けをした。一旦帰りシャワーを浴びて、また、旧居へ行って片付け。戻ってきてまた、『あまちゃん』を見て、高円寺へ昼食を取りに行った。豚肉の塩麹焼き弁当。美味しかった。10種類くらいの野菜も入っていた。ここは、信長に寵愛され死を見届けた、小姓の名前を付けた店。ここは、もう25年以上行っている所だ。今日行ったら食後に何も言わないのに、アイスコーヒーの氷抜きが出て来てビックリした。女将は判っているんだなぁと思った。

 店では、いつもかかっている音楽ではなく、高校野球のラジオ放送が流れていた。部屋に戻って高校野球を見ていた。前橋育英が初出場初優勝した。準決勝では、花巻東と延岡学園を見た。久しぶりに野球の試合を1試合全部見た。阪神ファンを辞めてから野球とは離れているから珍しいことだ。ネットを観たら、イチローが4000本安打を打った事が書かれていた。その下に、もっと驚いたことが書かれてあった。

 藤圭子死亡のニュース。子供の頃、『圭子の夢は夜ひらく』を聴いたとき、体が震えたのを覚えている。演歌という分類が当時の流行歌にあったが、五木寛之は、藤圭子の歌は、演歌じゃなく、“怨歌”だといった。それは、女の怨念を歌ったからだ。あのドスの利いた声が、ズドーンと耳に入って、体が震えたのだ。感動で涙が出たのは、歌という物を自分の中で目覚めさせた瞬間だった。藤圭子の『圭子の夢は夜ひらく』歌や、西田佐知子の『アカシアの雨が止むとき』を聴かなかったら、歌に目覚めなかったのかも知れないし、目覚めたとしても時間がかかっていただろう。

 今では、宇多田ヒカルの母親として知られているのだろうが、藤圭子は藤圭子。体が震える大歌手だ。20代から体調不良になり、引退し復活を繰り返したが、55歳の時のインタビューでは、週に3回は嘔吐するといっている。そういう事が続いていたのかも知れないし、他の異変が体に起こっていたのかも知れない。大分後から知ったことだが、藤圭子は、岩手県一関市生まれ北海道旭川市育ち。浪曲師の両親の所に生まれた。 「浪曲歌手の父、盲目の三味線引きの母。自らも流しとして旅回りをしながらの貧しい生活。歩んだ人生そのものがまさにどっぷり演歌の世界。歌と実生活のリンクがスター・藤圭子の人気に拍車をかけた。」 ーースポニチよりーー

 キャッチコピーは「演歌の星を背負った宿命の少女」。『新宿の女』で、デビューして、新宿のマンションから飛び降り自殺して62年の生涯を閉じた。


 8月26日(月) 晴 40579/4

 昨日今日と朝が涼しい。今日の東京の予想最高気温は、29度で30度を切るという。秋の気配が感じられるようになってきた。引っ越し作業も峠を越えた。今週は詰めの作業が残っている。昨日『八重の桜』を始めて見た。兄、覚馬と八重、そして、新島襄が京都で出会い、学校設立に奔走している。瓦解後、天皇が東京へ行ってしまった街の都市計画の様な物で、京都の街を作っていった覚馬。何かワクワクするような物語だ。風太郎が描いた明治でもあり、小泉八雲が観に行って京都と、博覧会もあった。綾瀬はるかは、一途さの美しさを体現している。それは、『仁』でもそうだった。その後、『半沢直樹』も面白く見た。これも面白かった。


 8月27日(火) 雨のち晴 13242

 夜の雨で、朝は秋のような涼しさだった。海外にいた宇多田ヒカルが帰国し、斎場で母である藤圭子の遺体と対面した。昨日、公式サイトで、コメントを発表していた。

「  「8月22日の朝」

 8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。

 様々な憶測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください。

 彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。

 幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。

 母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。

 誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。

 母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

 沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。ありがとうございました。」 ーー宇多田ヒカルHPよりーー

 自殺から4日後に上記の文章を発表した。彼女と呼んだり、母と言ったり、しているのは、精神を病んでいたという病気との、関わりの中での苦労を物語っているのだと思う。また、元夫の宇多田照実氏もコメント発表した。

「  「ご報告と謝辞」

 この度の故宇多田純子、投身自殺に於きましては、各方面の関係者の皆様、歌手藤圭子の大勢のファンの皆様、そして宇多田ヒカルのファンの皆様に多大なご心配と世間をお騒がせしていることに対して、所属事務所代表として、また25年間連れ添った元夫として心からお詫びを申し上げます。また、宇多田ヒカル並びに僕に対して沢山の心の籠った暖かいお言葉、お悔みをいただいたことに対しては、この場を借りて感謝の意を表明させていただきます。

 通夜、葬儀に関しては、故人の遺言書に書かれていた本人の強い意志に従い、執り行わないことにしました。

 出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な「気まぐれ」な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。

 この感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのことです。自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました。

 しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました。とても辛そうな時が多く見られるようなった際には、病院で診察を受け、適切な治療を受けるよう勧めたことも多々ありましたが、このアドバイスは逆に、僕に対する不信感を抱かせることとなってしまいました。結果、本人が拒絶し続けた治療が成されないまま、彼女の苦しみは年を追うごとに重症化したものと思われます。

 直近の12年間は、好きな旅に思い立ったら出かけるという生活を送っていました。アメリカは一回の入国で最長5年間の滞在許可がもらえるビザを取得し、ニューヨークを拠点に、ヨーロッパ各国、米国各地、オーストラリアなどを気の向くまま、頻繁に旅していました。

 そのような環境の中、光と僕には昼夜を問わず、予期せぬ時間に電話連絡が入り、「元気?」という普通の会話が交わされる時もあれば心当たりのない理由で罵声を浴びせられる時もあり、相変わらず心の不安定さを感じさせられてとても気がかりでした。

 最後に僕が純子と会話をしたのは今年の8月14日でした。純子からでした。この時は珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声でした。約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました。その8日後の自殺となってしまいました。

 純子として覚悟の上での投身自殺だったのか、衝動的に飛び降りてしまったのか、今となっては知りようがありません。最終的に僕から救いの手を差し伸べられなかった悔しさ、大切な人間を失った悲しさでいっぱいです。

 これまで宇多田純子を、藤圭子を愛情を持って見守ってくださった方々全員に、本人に代わり、心から感謝いたします。ありがとうございました。

 純子と過ごした日々は僕の記憶にはっきりと刻まれています。 」 ーー宇多田ヒカルHPよりーー

 テレビカメラが、宇多田ヒカルが車で斎場へはいる所を撮るために塞いで映像を撮っている様に見えた。そういう風にしてまで、テレビに出そうとしているのを見ると、そっとしてやればいいのにと思ってしまう。母の死を受け止めるだけで精一杯のはずなのに、余計なストレスをかけて面白いのだろうか?と思ってしまう。


 8月30日(金) 晴 35678/3

 じぇじぇじぇ。後2日しかない。涼しくなった夜中から作業を初め、17時になってようやく期限の明日には、間に合いそうな状況になった。片付け、ゴミ出し、荷運びで休憩やら食事やらをしながら、17時間くらい時間を取られた。疲れた。そして、汗をいっぱい流した。汗拭き用のタオルは5・6回代えた。夜中は涼しかったが、朝に日が昇ってぐっと暑くなった。昨日は暑かったが、今日の方がずっと暑かった。

 17時までにレコードを2箱送った。1箱25キロ以上あった。後2箱か3箱。これを片付けたら、本棚1つと、食器棚1つ、服を入れる棚、レコードを入れていた、カラーボックス2つを出せば片付けは終了。それから簡単な掃除をして終わりになる。ちょっと休んで、競馬の予想をして、夜中に片付けに行こうと思う。


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