−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、2013年のスペイン滞在日記です。
太字で書いたモノは2010年11月京都旅行。2011年3月奈良旅行と東日本大震災、11月が京都旅行、2012年4月、11月、12月の京都旅行、2013年4月京都旅行5月出雲旅行の滞在日記です。
6月1日(土) 晴 7753
何日か前に、自作の無農薬の玉ネギを貰ってきて、紅い玉ネギは、スライスして大葉を入れて、塩麹に漬けた。それが昨日食べたら良い具合になっていて美味しかった。薄味で、漬けものと言うよりも、ピクルスのような感覚で食べれる。食前に食べる野菜モノとして食べている。季節柄、キュウリの塩麹漬けは美味しい。スペインから帰ってきて1番に作って食べた。トマトも美味しいので、これはアンダルシア風の味付けで作ってみようと思っている。
マドリードでは、くまさんが日本からの旅行者から教えて貰った塩麹にはまっていて色々試しているようだ。トマトのアンダルシア風のモノは、塩の代わりに塩麹を使って作ってみようと思っている。塩麹が、ニンニクとエクストラ・バージンが一緒になると、どんな味になるのだろう?今から楽しみだ。
6月3日(月) 晴 32379/2
日曜日は、練馬美術館へ行って、『牧野邦夫展』を観た。この人の絵は全然知らなかった。新聞かなんかで知って行く気になった。美術館だって知らなかった。俺の家から1番近い美術館のようだ。そんなに混んでないだろうと思っていったら、そんなことはなく混んでいた。最終日で日曜日という事もあったんだろう。写実を心がけている画家で、その筆は凄いと思った。裸婦の乳首なんて、そこにあるように描かれていた。髪の毛や陰毛も目に焼き付くような鮮やかさ。ビックリした。また、裸体が全体的に青く感じ、クリムトの『レダ』を思い出す。
例えば、腕を描いていると、そこに血管の盛り上がりがあり、そして廻りの肌の色より青っぽく描かれている。こういう絵は、好きだ。自画像を多く描いている。自意識が強い人なんだろうと思った。それと、現代アートの影響で、幻想的なモノも入っている。人物が着ている服に、妖怪なのかそんな想像上のモノを描いたり、遊び心もある。
描写では、上記の裸婦もそうだが、すずめの死骸を描いているが、それがまさにそこにあって、手に取れるような感覚で、そのまんまのすずめなのだ。こんなに本物の様に絵が描けたら、凄いなぁと思う。しかも、全体的に止まっているのに動きがある絵だ。これが凄い。レンブラントに憧れて、絵を描き続けた人。晩年京都に住み、京都と奈良を描いたという。やっぱり、死ぬ前に京都に住みたいと思った。
途中、馬券の状況を確認したら、そこそこだった。14時前に家に戻り、安田記念などを予想して馬券を買った。安田記念はモノの見事に外した。まさか、マイル実績のない2頭が1・2着になるとは思わなかった。3着は人気薄だったが、マイル実績がある馬だった。しかし、京都のメインは取った。充実の日曜日だった。
6月4日(火) 晴 4957
「百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦て放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、これが為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学て愚を暁ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして、只此一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道(通カ)する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」 ーー『笈の小文』松尾芭蕉よりーー
ドナルド・キーンが、戦後日本語や日本文学をやっても学生は集まらないし、日本の捕虜になって嫌な思いをした人が多かったので、関心もなく、このまま続けていてもダメだろうと、戦中に朝鮮に行っていたので、朝鮮語を教えたり、ロシア語をやろうかと思っているとき、芭蕉の『笈の小文』の「つゐに無能無芸にして、只此一筋に繋る。」という文章を読んだとき、やっぱり日本語、日本文学しか自分にはないのだと思い返した。芭蕉は、人生を旅にたとえて、紀行文を残している。だから、私にとって、芭蕉は人生の師だと、東京新聞に書いてあったのを読んだ。戦後多くの日本の古典文学の翻訳や文章を発表した。日本は彼に感謝しなければならないくらい、世界に日本文学を紹介した。そのキーン氏も東日本大震災を期に、日本国籍を取得した。
24日マドリード最後の夜。アレハンドロ・タラバンテが、ラス・ベンタス闘牛場のプエルタ・グランデを開けた後に、Yさんとバルで話していた時に、下山さんの奥さんの話が出た。下山さんを、あんな風に面倒観てくれる人は他にはいないよね。凄い事よ。誰も真似できないから…。と言っていた。僕は、2人のことをある程度知っている。それでも、大きく言って、奥さんは、結果的に闘牛しかないのだからリハビリと闘牛のことを1番に考えなさいと、言うことを教えているのだと思う。勿論、日常の細々とした事も、子供を授かり発生しているが、大勢をいえばそう言うことになるのだと思う。
このHPを閉鎖する決意をして実行に移したとき、1番に敏感に反応したのも下山さんの奥さんだった。そして、セビージャから電話までかけてきて、「それは斎藤さんらしくないから、続けた方が良い。」と強く言われた。それで、忠告に従って、続けることにした。「つゐに無能無芸にして、只此一筋に繋る。」もう多分、闘牛しかないのだ。無能無芸だから、それしか出来ないのだ。そのことを下山さんの奥さんは芭蕉のように諭したんだと思う。その意味では、キーン氏と同じく、芭蕉並びに、下山さんの奥さんは、人生の師なのだろうと思う。よって、「其貫道(通カ)する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」である。
また、サン・イシドロの結果が発表され、トゥリウンファドールは、アレハンドロ・タラバンテが選ばれた。当然である。
6月5日(水) 晴 20392
つかこうへいの『熱海殺人事件』の台詞で、「そうだ、海へ行こう」というのがあったが、今日は海を観てきた。昨日の夜は、日本中が興奮していたようで、オーストラリアとの試合で、本田がPKを決めて1−1の引き分けでワールド・カップ本大会出場の切符を世界で1番初めに手に入れた。ここで同点にならなければ決まらないというPKで、ど真ん中に蹴りこんで得点する度胸。アッパレである。試合中も気迫溢れる闘志を見せていた。香川じゃああいうことは出来ない。本田と香川は比べるのがおかしいくらい、本田の方がチームを引っ張って行くベクトルが強力だ。勝負根性が違いすぎる。
馬で言えば、GTを1番人気で何度も勝てる馬と、何度やっても2着3着にしかなれない馬ほど違う。この違いは、決定的な違いである。才能があるのは誰もが認めるだろうが、格が違いすぎる。結局、このチームは、本田のチームだ。しかも、中田のように、孤立した中心選手ではなく、チームに馴染んでいる。欠かせない選手で、チームメイトとの関係も良好である。12日からブラジルへ行って、各大陸連盟王者が顔を揃えるコンフェデレーションズカップへ出場する。初戦がブラジル。日程は、15日にブラジル、19日にイタリア、22日にメキシコである。どんな戦いをするか注目したい。
6月6日(木) 曇 9211
今日は休みだったので、久々に時間を忘れて、のんびり過ごした。それでも朝早く目が覚め、朝食を食べ午前中眠くなったので、うたた寝をして過ごす。それからNさんからメールが届き、それのやり取りを5・6回して昼食。朝食と同じ納豆おろし。Nさん迷っているのかも知れないと思った。それから銀行へ行って買い物をして、キュウリとセロリ、大根とセロリを塩麹で漬けた。夕方近くになりスーパーへ行き買い物をして、夕食のカレーを作って食べた。
午後銀行から戻ってから、ネットをしていたが、競馬の結果をさらっと見ていたら、あることに気づき、それを確かめようと確認作業をしていた。今日気づいた事と、今までやって来たアルゴリズムを組み合わせると、精度が上がることになる。これを土日に実践しようと思った。カレーを作っていたら、蚊に刺された。そろそろ蚊の飛ぶ季節になってきたのかと思った。
蚊に刺され 花の他でも 感じる四季 風吟
蚊のかゆみ 花以外に 四季体感 風吟
6月10日(月) 曇 26936/3
歯が痛くて歯医者に行った。鈍痛だが、寝れなくなるので鎮痛剤を飲んでいる。本屋により、『仏の発見』五木寛之X梅原猛(学研M文庫)、『文藝別冊 井上ひさし』(河出書房新社)を買う。帰りの電車で、対談集『仏の発見』を読みながら家に戻る。歯の鈍痛は幾分緩和されたような気もしたが、夕食直後、鈍痛が再発した。しょうがないのでまた、鎮痛剤を飲んだ。
1ヶ月後にサン・フェルミンを控えたパンプローナは、大雨のよる洪水で広範に渡って水没した。ただ、闘牛場のあるところは、高台になっているいるところなので大丈夫なはずで、問題は、駅周辺や川の辺りが水没したモノと思われる。1ヶ月後の祭りと同時並行に復旧作業が続くのだろう。
6月11日(火) 小雨 10045
『文藝別冊 井上ひさし』(河出書房新社)を読んでいたら、大竹しのぶの文章に落涙した。ここまで女優を本気にさせ、女優になったことの意義まで提示できる脚本家がいるのかと思える様な感情を、井上ひさしに対して持っていたのかとビックリした。大竹しのぶ以外にも、多くの演劇関係者がそういうことを書いている。
そして、相変わらず読んでいて面白いのが、関川夏央である。
「 「ーー前略ーー 人間らしい人間とは、ともにたたかう友だちを見つけ、ともにたたかう友だちを持っている人の事ではないでしょうかな」(ドン・ガバチョの最終回の台詞) ーー中略ーー
藤村有弘の晩年は早かった。同性愛者であることを隠そうとしなかった彼の趣味は美食と酒で、若年性糖尿病の症状は進行した。糖尿病性昏睡でなくなったのは1982年。48歳だった。
「ひょうたん島」は、ついに最後まで親を恋しがらない子供たちと、過剰なまでに個性的なおとなたちの明朗な共和国だった。「児童文学」的な親の干渉を遠ざけるために親のいない子供たちを設定したのだと、いったのは山元護久である。一方、井上ひさしは、はるかのちにだが、親を懐かしがらない子どもたちがすでに死者だからだ、「ひょうたん島」はこの世の物語でないといった。
高名な日本画家の庶子として、井上ひさしより1年早く1934年京都に生まれた山元護久は、早稲田大学文学部に進むと童話研究会に入った。卒業して童話や絵本の実作家となったが、『ひょこりひょうたん島』で井上ひさしと出会って大きな刺激を受けた。それは、「童心」を無垢と信じ、「童心に返れ」といいつづける「赤い鳥」的児童文学からの解放につながった。しかし、山元護久は「ひょうたん島」放映終了9年後の78年4月、脳出血で急逝した。まだ、43歳だった。
1980年代に入ると、この伝説的な人形劇のリメイクを望む声がいくたびか湧いた。しかし実現をはばんだ理由のひとつは、山元が亡くなっていたことだった。そうこするうち、藤村有弘も死んだ。もっとも大きな障害は、台本の三分の一が散逸してしまっていたことだった。すでに放送局ではビデオテープを使っていたものの、まだテープそのものが高価で、重ね録画が普通だったから映像もほとんど現存していなかった。
しかし、伊藤悟という少年ファンによる、テレビ画面から採録が残っていた。64年放送開始の時から小学校5年生だった伊藤悟は、初回から「ひょうたん島」に魅せられ、以来69年4月までの1224回分すべての記録をとりつづけたのだった。そこにはセリフのすべてと動き、すなわち台本が綿密に再現されていた。
それを大いに参考にしたリメイク『ひょこりひょうたん島』「海賊の巻」17回分は1991年放映された。声優たちは、藤村有弘以外全員が集まった。ガバチョの声は名古屋章が担当した。「ひょうたん島」に情熱を燃やした伊藤少年は、開成中・高から東大へ進み、大学講師となった。
『ひょっこりひょうたん島』の、国家の「独立」とは何か、「民主主義」とは何かという主題は、井上ひさしの内部でさらに育ち『吉里吉里人』として結実した。またそのレビュー的構造は、ブロード・ストロークスとして井上戯曲をつらぬいた。
すなわち『ひょっこりひょうたん島』そこ井上文学の原点であった。」 ーー『井上ひさしと「ドン・ガバチョの未来を信ずる歌」』関川夏央よりーー
♪きょうがダメなら あしたにしましょ。
あしたがダメなら あさってにしましょ。
あさってがダメなら しあさってにしましょ。
どこまでいってもあすがある♪ ーー『ひょっこりひょうたん島』挿入歌『ドン・カバチョの未来を信ずる歌』よりーー
クレージー・キャッツの植木等が、青島幸雄の歌詞で歌った無責任な歌が流行ったあの時代の子ども版が、この『ドン・カバチョの未来を信ずる歌』である。高度成長時代。未来への希望があった時代でもある。あの当時、学校から帰って来て、遊んでいても、午後5時45分になると必ず家に帰って来たのは、『ひょっこりひょうたん島』を観るためだった。久里洋二のアニメーションに歌が続く。
♪まるい地球の水平線に なにかがきっとまっている
くるしいこともあるだろうさ かなしいこともあるだろうさ
だけどぼくらはくじけない 泣くのはいやだ笑っちゃおう 進め
ひょっこりひょうたん島 ひょっこりひょうたん島♪ ーー『ひょっこりひょうたん島』主題歌よりーー
井上ひさしが脚本を書いているのは、大分後になって知ったが、大病が続き鬱気味になりがちな気分を大いに元気づけて貰ったので大好きだった。人間的な弱さや悲しさを、笑いに変えて、心に残る作品を書き続けた井上ひさし。「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」をモットーに書き続けた作家だった。
関川夏央が、井上ひさしの原点が、『ひょっこりひょうたん島』であるというのは、もっともで、まっとうな意見だと思う。子ども時代もっと徹底的にドン・ガバチョ的な生活を送る信条を持つとか、していれば、人生もかなり違ったモノになっていた様な気がする。「ひょうたん島」の主題歌や坂本九の『上を向いて歩こう』を歌いながら学校に通った思い出が甦ってくる。
井上ひさしが、少年時代カトリック系の孤児院から仙台一高へ通っていたというのを、ネット知ってビックリした。だから、いつも笑いというモノがなければならないのだと感じたのだろう。作家になっても、家庭内ではDVなどでグチャグチャだったようだし、これは幼少時代や孤児院の虐待が尾を引いているのだろう。義父からの虐待で円形脱毛症と吃音症になったという。芝居の本を書くのが遅く、しょっちゅう公演が延期になっていた。そういうのを含めても、作家井上ひさしは面白い作品を世に送り出した。
左翼的な発言をすると、右翼から電話がかかって来て、それにわざわざ出て、相手の話をある程度訊いて、それから、君は天皇の名前を全部言えるかと問う。言えないと、自分がそれをすらすらと言い始めると、右翼がこれはかなわないというように電話を切ったという。徹底的なのだ。こういう風に徹底的にならないと何かが出来ないと言うことなのだろう。
また、夏川氏の文章で始めて知ったが、伊藤悟少年がのちに大学講師なったというのは非常にビックリした。やはり、人生徹底的なやらないとダメだ。
6月12日(水) 雨 5952
歯が痛くて電話したら、午後に来て良いという事だったので行った。やはり原因がハッキリした。神経が死んでそこで痛みが発生していた。麻酔がなかなか効かず、2・30分かかったがそれから治療。開けてみたら、そういう理由だった。歯を詰めたときに神経ギリギリの所まで削っていたので、あるいは神経が出ていたのかも知れないといっていた。ともあれ、痛みの原因は除去された。それでも、仮詰めなのでそっち側の歯では噛まないように注意された。また、歯医者通いが続く。
『文藝別冊 井上ひさし』(河出書房新社)の続きを読んでいる。日本劇作家協会初代会長をやった井上ひさし。設立の頃の話をそれに関わった、別役実、坂手洋二、平田オリザの座談会を読んだが、色々な演劇人、劇作家の話が出て来た。斎藤憐、川村毅、野田秀樹、永井愛、清水邦夫、福田善之、太田省吾、流山児祥。坂手洋二、平田オリザ、永井愛は、芝居では知らない。自由劇場の斎藤憐、串田和美、吉田日出子といえば、映画にもなった『上海バンスキング』で有名だが、旗揚げ当時は、黒テントの佐藤信などもいて、一緒にやっていた。
第三エロチカの川村毅もよく観た。未だ、下北沢のすずなり劇場に出ていた頃から観ていた。深浦加奈子、有薗芳記などがいた。深浦はテレビに出る様なり、有薗は映画に出るようになった。川村のはちゃめちゃさが良かった。それを締めていたのが、深浦加奈子だった様な気がする。やはり『新宿八犬伝』のインパクトが強い。野田秀樹は、言わずと知れた『夢の遊眠社』。これも評判を聞いて東大駒場小劇場でやった『野獣降臨』(のけものきたりて)を観て何度か通ったが、代々木体育館で2万6千人も集める芝居をやるようではついていけないと思って行くのを止めた。
清水邦夫は、『櫻社』で脚本を書き、演出が蜷川幸雄、役者が、蟹江敬三、石橋蓮司、緑摩子、松本典子でセンセーショナルを起こした。当然この頃は観ていないが、桃井かおり初主演の映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』を田原総一郎と共同で脚本監督している。これは面白かった。芝居では、タイトルが良い。『真情あふるる軽薄さ』とか『ぼくらが非情の大河をくだる時』とか『泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?』とか。泣かないのか?泣かないのか?は、良くあの頃73年が分岐点になったのではないかと友人と話していた時に話題になった。そして、決定版は、『火のようにさみしい姉がいて』。痺れるようなタイトルである。もうこれだけで、清水邦夫の脚本の舞台に身をまかせたい気分になる。シスター・コンプレックスを美しく書く事については天才的だ。名取裕子初舞台の『タンゴ・冬の終わりに』をパルコで観たとき、何故、蜷川幸雄は、こんな下手な女優を使うんだろう思った。台詞を訊いていると、あまりの下手さに肩がこった記憶がある。この頃、蜷川幸雄の演出する芝居をかなり観た。日生劇場でやった『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』だったと思う。清水の本で、演出が蜷川で、元宝塚歌劇の女優だけを使ってやったダイナミックな集団演出は見事だった。
転形劇場の太田省吾は、なんと言っても『小町風伝』。もう無言劇がこんなに良いかと思った人だ。『水の駅』、『地の駅』、『風の駅』の三部作では、『水の駅』が印象に残っている。狂言の舞台を使ったり、芝居自体も狂言風だった。ある年、スペインからの帰りモスクワか何処かの乗り継ぎ空港で、転形劇場の主演男優だった品川徹さんとバッタリ会って声を掛けたら、話をしてくれて、1時間くらい芝居や闘牛の話をした記憶がある。今はテレビにも出ているようだ。あの当時大杉漣も当然観ているんだろうけど、あまり記憶にない。
演劇団の流山児祥も結構観た。個性的な役者が何人かいた。劇作家というより演出家やプロデュースの印象の方が強い。勿論出たがりだから役者でも出てくる。これは、唐十郎だって同じだ。福田善之はおそらく結城座で観ている。こういうモノがあるのかと不思議な気持ちになった。他にも一杯芝居を観ているが、名前が載っている人のことを書いた。色々昔観た芝居のことを考えながら読んできたが、やっぱり1番観に行ったのは、おそらく、黒テントだったような気がする。俺の中では、『三文オペラ』『西遊記』が面白かった。黒テントからは、芝居のイロハを教えて貰った様な気がする。
座談会の中で、神田の古本屋のことが出て来て、司馬遼太郎と井上ひさしが資料集めを始めると、古本屋が値を上げたという。何せ井上ひさしは、一つの事を調べるのに、トラック1台分の本を用意したという。司馬遼太郎もそれくらい集めたんだろう。いずれにしろ読むだけで大変な時間を要するし、それを本にするとなるとまた、凄い時間がかかることだと思った。
6月13日(木) 雨 7292
「この地球は涙の谷 悩みごとや悲しいことでいっぱいだ
そこで喜びはどこかから借りてこなければならぬ
その借り方は……あまり有効な方法ではないが、
しかしこの方法しかないので、あえていうが……
とにかく笑ってみること 笑うことで喜びを借りてくることができる」 ーー『ソリチュード(孤独)』エラ・ウィーラー・ウィルコクスよりーー
井上ひさしは、仙台の孤児院で、カナダの修道士からこの詩を教えて貰ったのだと言う。そして、続ける。
「悩みごとや悲しみは最初からあるが、喜びはだれかが作らなければならないという詩です。この喜びはパン種である笑いを作り出すのが私の務めです。時に不発だったり、時の間に合わなかったり、なかなかうまくは行きませんが、これからも笑いをコツコツ作ってゆく決心です。そのことでこの世界の涙の量を1グラムでも減らすことができれば、こんなにうれしいことはありません。」 ーー『笑いで涙を減らしたい』 朝日賞受賞スピーチ 井上ひさしよりーー
『ひょっこりひょうたん島』放送開始当初は、凄く評判が悪かった。と、井上ひさしはいう。
井上 「あのねぇ、半年間は非常に低迷してました。それでねぇ、そのうちにねぇ、九州の炭坑のお母さんの手紙が来て。実はうちは炭坑が閉山になって追い込まれて、それでもう一家心中を考えて、子供たちにご馳走を作って、死のうと思って、お父さんとご馳走作って。それでたまたまひょうたん島が映ってたんですね。そこでそのガバチョがねぇ、今日がダメでも明日がある、明日がダメでも明後日があるって歌を聴いているうちにお父さんが、ポロポロポロポロ泣き出して、で子供たちにゴメンって言って、あのそれで心中をやめたっていう、手紙が来たんですよね。そのお母さんの。」
アナウンサー 「あの「ドン・ガバチョの未来を信じる歌」っていう歌ですよねぇ。有名になりましたあの歌。」
井上 「ガバチョは、今日やりたくないんで、明日に延ばしているだけなんですよね(笑う)」
アナウンサー 「あじゃ、その歌を聴いて何、死ぬのを思いとどまった人がいらっしゃるの」
井上 「そうなんです。実はその手紙がわれわれ2人の作者を励ましましたね。」
アナウンサー 「それからみんなでやるぞ、と」
井上 「うんもう、とにかくこういう人がいる限り、とにかく必死になって書くしかないっていうので。それが6月くらいですよ。」
アナウンサー 「あー良い話だなぁ」 ーーNHKの放送よりーー
笑いで、「この世界の涙の量を1グラムでも減らすことができれば、こんなにうれしいことはありません」と、言った井上ひさし。山元護久と共に、『ひょうたん島』で、子供たちに夢や希望を与えた。子どもだけじゃなく、大人にもそうだったようだ。
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