|
|
|
|
ドサ降りの雨の中でも動くことはない。なぜなら 巡礼の人々が通り過ぎる参道に列をつくって居並ぶ物乞 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
人は死を前にしたとき、襟を正し、厳粛にならざるをえない。日本のお葬式はまさにその規格どおりであり、おおよそ世界の国々のどこでもそのようなものだと考えられる。インドもまた身内に不幸が出た場合、家族はやはり深い悲嘆にうち暮れるのは同様である。しかし、インドの人々が他の国々と決定的に違うのは、どうやらその死生観であるように思われるのだ。上の写真からも察せられるように、巡礼者のなかには貧しい人々も多くいるにも関わらず、さらに恵まれない人々に施しを与えている。施しを受ける人々の絶望的情況は圧倒的である。見るものは、なぜそこまでして「生きていたいのだろうか」と虚脱感にも似た切なさが身の裡を過ってゆくだろう。施す側も、施される側も、どちらもよりよく生きてゆきたいと願っているはずなのだ。この情況を冷静に分析すれば様々な解釈が導き出されるのだろうが、その行動規範の根底にあるものはやはり「善行を積む」ということではなかろうか。来世を願う心がその行いを生むのである。インドの人々は「死がすべての終わり」だとは考えず、死はつぎに「転生」する道程に過ぎないと考えている節がある。つまり輪廻転生の思想である。死はEndではなく、Endlessだという考え方なのだ。それゆえに生死が常に隣り合わせのものであり、取り立てて特別なものでもなく、日常の延長線上に分け隔てのない空間として「火葬場」も存在しており、日本ではとても考えられないような環境のもとでも、それは「何の不思議もない」ということになるのだろう。火葬場の正門のちょうど真向かいに大きな間口の衣料店が営業していた。正門にならぶ右隣りには食堂があり、左隣りには雑貨屋があった。どの店も大勢の人々が忙しげに出入りし繁盛していた。ただそこには、死者を焼く臭いが終日漂っているのである。そして火葬場はビーチへと続く通り道として利用され、ビーチでは大勢の観光客が波打ち際でひと時の旅の徒然を楽しんでいる風景が拡がっている。そのなんともいえぬ光景のコントラストが、インドの人々の死生観をみごとに言い表しているように思われてならない。 |