第3回 2008年 それぞれのインド

Indian Classical Dance Troupe
  

インド公演参加者名  
 夏目由紀子/谷口 とも子/榊原 寛子/岡田 さち代/近藤 かね子/鈴木 文子
清水 あけみ/木下 浩子/御手洗 蘭子/市川 ゆみか/アンナ ラウラ シュッカ
  未知の読者へ
あるいは
プロの舞踊家を目指している人へのメッセージ
ここにはそれぞれの個性から発現された ”活きたインド” が語られ、アマチャーの眼からプロの眼へと成長を遂げつつあるプロセスの一断面が語られています。一地方のインド舞踊サークルが世界の桧舞台に立つことの幸福と不安と緊張の綯交となった複雑な心境が直截に綴られ、その成長の跡付けを読者は深い想像をめぐらせながらお読み下されば幸いです。

2008年インド公演へ
(12月7日〜17日)

 夏目由紀子
「インドの思い出」
 インド滞在中は、グループ行動の難しさの中で自分の詰めの甘さや配慮不足を痛感し落ち込んでばかりいました。そんな私を救ってくれたのは、最終公演のラストで、舞台袖から大声で「ソーラン! ソーラン!」と身体全体で叫んでいる清水さんの笑顔でした。正直なところ「グループはもうこりごり」とガチガチになっていた心が、清水さんのその笑顔を見た時にすべて雪解けしたような気持ちでした。舞台袖での早着替えの際にも、焦って慌てまくる私に、手伝ってくださる清水さんが「大丈夫、大丈夫! はいできた! 行ってらっしゃい!」とポンッと背中を押してくださいました。今までは「感動に国や宗教の違いは関係ない、それを舞踊を通して見る人に伝えたい」という想いが外へ外へと向かう傾向でした。しかし清水さんのおかげで、グループの中の思いやり、人と人とのつながりを見つめ直すことこそ、舞踊で想い(感動)を伝えるために大切なことだと原点回帰することができました。悔やまれるのは、現地でインタビューを受けても、日頃舞踊に抱く想いや歓待への感謝をうまく英語で伝えることができず意味不明なことばかりしゃべってしまったことです…。振り返っての要約は、以下の通りです。
《◎99年…ワクワク ◎04年…不安(本場で踊ることの) ◎08年…自信・確信 ◎××年…??》


 谷口 とも子
2度目のインド
 またまた行ってしまった。これで2度目のインド。初めてのインドは4年前。今回と同じダンスツアーでの参加。完璧主義と言われる私が(全然違うんですけど)、ここぞという公演でミスして、随分落ち込んだのを覚えている。この4年で、ミスはやはりするが、それなりのスキルアップはしている模様(のつもり)。前回、毎日睡眠時間が数時間で、随分ハードなツアーでへこたれ気味だったが、今回、海外公演はそういうもの、と平気でいる自分が強くなったと関心。舞台上でも4年前は、大緊張の一世一代の大舞台!という感じから、この会場のお客さんはどんな感じかな? と周りの様子を伺える程の余裕。スゴいね、わたし(笑)。踊りだけでなく、4年も経つと、インドで出会った人々にも変化があり時の流れを感じずにはいられない。
 前回はシュヴァ先生のお母様がご健在で、お会いすることが出来たのに、2006年に他界され、インドでお母様のサリー姿を拝見出来なかったのは淋しい限りであった。かと思えば、先生の甥っ子君の二人の成長は目覚しい。まだ骨々しい少年だったリック君が、背も伸び歌のうまい立派なハンサム青年に変貌し、これまたビックリ。頬がふっくらツルツル、笑顔がカワイイ子供であったディップ君が、何とヒゲをたくわえ(!)、身体も大きくなり、随分お洒落ないでたちで我々の前に登場!ディップ君と気付かなかったくらいだ(レストランで笑顔を見て間違いなく彼だと合点)。我々も、年を取る訳だ‥。
 時は止まることなく、人も日々悩み、前進と挫折を繰り返す。我々も好きな踊りだけをやって能天気に幸せだ、ハッピーだと言っている訳ではない。仕事や家事や家族や日々の暮らしの中で折り合いを付け、踊ることに付随するあらゆる雑務をこなし、先生や仲間との調和の中で、悩み苦しみ励まし合い、時に憎しみ、時に愛し、あらゆる感情の中、踊りも精神もやっとの思いで歩んでいる。それだからこそ、踊りに深みが出、人も成長してゆくのではないか。
 そういえば、3回目の公演のあとインタビューを受け、思ってることを必死にTVカメラに向かって伝えたことがあった。忘れていたのに、帰国してその映像を見てビックリ。自分が思っている以上に、情けない‥(泣)同じくインタビューを受けた夏目さんは、とてもクールでスラスラ英語で立派なことをスピーチし、対して私はというと、日本語交じりの難解な英語(?)を操り、ボディーランゲージをも加えた天真爛漫(?)ぶり。
インドの人から見たら、日本人にも色々いるんだなぁ〜(日本人じゃないけど)って思われたことうけあい。ちょい前の私なら、自己嫌悪に陥ったかもしれないが、「ま、これがわたい!」と思う辺り、己の程度を知り気負わず、色んなことに大して落ち込まなくなったのも、これ成長か?
 ツアー前の強化練習から始まり、我々がインドを後にするまでの、シュヴァ先生のパワーやガッツや苦悩や忍耐は私には図り知れない。インド舞踊を始めて10年、今まで先生と接し、色々話し、共に経験し、共に踊り、少しづつ前とは先生への気持ちが変わってきている様に感じます。上手く言えませんが‥。そんな先生へ、今回のインド公演でのご尽力に心より感謝致します。
 最後に、先生のご主人、インドでお世話になった全ての方々、特にリック君、ロパさん、
お父様、お姉さん、お姉さんのご主人、そして、心の広い私の夫、長い休みを許しフォローしてくれた会社の方々、一緒にここまで頑張ってきた大好きなメンバー達、こんな経験をさせて下さった神様にも、心から感謝致します。
 榊原 寛子
「インド公演に参加して」
 2004年に初めてインドを訪れた時の見る物全てが新鮮だった感動が忘れられず、もっとインドのことが知りたいという新たな欲求を胸に膨らませて今回のインド公演に参加しました。
 その中で楽しみにしていた買い物や懐かしい方々との再会などたくさんの楽しい時間と、舞台で練習の成果を発揮することの難しさなど様々なことを経験しました。前回同様に先生が私たちのリクエストに応えて色んなところに連れて行ってくださり、ずっと欲しかったシルクのサリーや日本では普段なかなか買えない「金]のアクセサリーを購入してとても充実した買い物ができました。
 4年前に公演を行なった「ビルラーテンプル」をお参りし、先生からインドの神様の話を興味深く聞きました。「タゴールの生家」にも連れていっていただき日本とタゴールのつながりをより身近に感じました。タゴールが詩を作る時に使っていた部屋が展示されていて、窓から庭の緑が見えるとても雰囲気の良いこの部屋で数々の素晴らしい作品が生れたのだなと思いました。先生お勧めの「ホテルハイアットリージェンシー」のランチは本当に美味しくて、お腹はいっぱいなのにデザートは別腹だからと食べ過ぎて後で苦しい思いをしたのはきっと私だけではないでしょう。
 ウダイシャンカールのお誕生日を祝う行事に参加した際、ママタ先生がたくさんの人に囲まれてサインや写真を求められている姿を見て改めて本当に有名な方なんだなと思いました。それなのにシュヴァ先生の生徒ということで近くでお会いすることが出来たり、声をかけていただくことができるのは幸せで光栄なことです。
 
今回のインド公演の中では3つの公演がありました。今回の公演のために新しく作られたプログラムの「イメージ」「姫神」「マチレ」はどれも曲が素晴らしく、今までとは一味違った斬新な振り付けのものもあり、それだけにとても難しく先生のイメージしているものがなかなか理解できなかったり、イメージはつかめても体がうまく動かなかったりとかなり悪戦苦闘しながら練習してきました。不安な気持ちが強かったせいか、1番最初の「ウダイシャンカールフェスティバル」の本番前はとても緊張して踊れずあまり納得のいく結果が出せませんでした。2つ目の「ソデュプール」での公演は古典と創作を合わせた3部構成になっていて、着替えをするだけでも大変で無我夢中で踊っていたらなんとか終われたという感じで、終わった後体はクタクタでしたが達成感はあった様な気がします。体調管理の自覚が足りず調子を崩してしまい、3つ目の公演に私は参加することが出来ませんでした。
 先生をはじめメンバーのみなさんには本当にご迷惑をおかけしました。帰国する前日のことだったので一人遅れて日本に帰ることになるかもしれないなと覚悟していましたが、先生のご家族の方たちの手厚い看病のおかげと日本よりもサイズの大きいインドの薬が効いて無事他のメンバーと共に日本に帰ってくることが出来ました。特に先生のお姉さんには大変お世話になり、食欲のない私が少しでも食べられるようにと一生懸命考えてくださったり、安心して休めるようにずっと傍にいてくださりました。以前から先生にお姉さんの面倒見の良さは伺っていましたが、その大きな優しさで私の不調をも吹き飛ばしていただいたような気がします。 長いようで短い10日間の今回のインド公演での反省を踏まえて、今後に生かしていくことができればいいなと思っています。シュヴァ先生ありがとうございました。

 岡田 さち代
「インドで感じたこと」
 2度目のインド、空港に着くとなんだか懐かしいような気分になり再びインドに来たんだという実感がわいてきました。4年前のインドはただ驚きの連続でした。驚くばかりで感じ取れなかったことが、今回はいろいろ感慨深く捉えることができました。そんな今回のインドで特に感動したこと、印象深かったことを書き並べてみました。
 まず15日の公演先での歓迎ぶりには本当に感動しました。バスで到着し、まず驚いたのは街頭に流される私たちの公演の宣伝の放送でした。短時間でもゆっくり休憩できるように用意された部屋、そこに置かれたおもてなしのお菓子、種類も豊富な食事。でもインドツアーも終盤という疲れからか、心づくしのおもてなしをちゃんと受け取れなかったことが、とても申し訳なく思いました。舞台に飾られた日本語の“歓迎”の文字やきれいな柄の着物を着た日本女性の絵や立派な扇、手厚い歓迎に心が温かくなりました。その公演の行きのバスでのロパさんのお姑さんの歌声に救われたことも印象深かったです。車内が沈んだ空気の時に歌ってくださった、その声の温かさに涙が出ました。その歌声のおかげで「今から公演に行くんだから元気出さなきゃ!ちゃんと楽しまなきゃ!」と気持ちを切り替えることができました。歳を重ねるごとに、「周りがみえるようになり、マイナスの空気にひきづられない自分を持ち、自分の感情にこもらず前をむくことができる、そんな風に歳を重ねていきたい」とあらためて思いました。素敵なお手本に出会えた気がしました。
 ママタ先生にごあいさつできたこともとても幸せに思いました。本当に美しくて輝いていて…全てを包み込むようなやさしい笑顔を、しっかり心に焼き付けることができました。それから、リックさんの歌で踊れたこともとてもうれしかったです。夜のガンジス川の船の上での歌声、なんだか夢心地だったこともとても良い思い出です。
 日本山妙法寺で日本人の住職のお話を聞き、インドと日本について新たな視点での見方に気づき、インドに暮らす日本人にも興味がわきました。私にとってたくさんの感動と気づきを与えてくれたツアーでした。
 シュヴァ先生に出会い・インド舞踊に出会ってから8年、それまでの日常では考えられない素晴らしい経験をたくさんさせていただきました。感受性の乏しい私が、様々な素晴らしい経験と、インド舞踊での表情などを考える中で、少しずつ自分の中の何かがかわり、最近ずいぶん素直に感動できるようになったことに気づきました。頭でしか考えられなかったことが、心で感じられるようになりました。そして4年前には気づかなかったことが今回は気づくことができたのだと思います。これからもっと感受性を磨き、インドでの気づきを今後に生かして頑張っていきたいと思います。
 シュヴァ先生には出発前からそして滞在中と、いろいろとお骨折りいただき本当にありがとうございました。またお父様、お兄様、お姉様、リックさんにも言葉では言い尽くせないほどお世話になり、感謝の気持ちでいっぱいです。また家事も仕事もほったらかしてインドへ行くことを認めてくれた、家族を含めたいろいろな人に感謝します。
そして今回インドに行くことができたことに感謝します。
 鈴木 文子
「2008年 再びインドの地を踏みしめて」
インド、リベンジ
 2004
11月末。目立ち始めたおなかを抱え、私は祟化館交流館2階の楽屋のドアを開けた。浴衣や和傘、サルワルカミーズ、サリーがところ狭しと並べられている。(ああ、懐かしい光景だ。本番の前はいつもこんな熱気にあふれていた)その年の12月に控えたインド・コルカタでの2回目の公演を前に、インディアン・クラシカル・ダンス・トゥループのメンバーの合同練習は大詰めを迎えていた。「ナムシカー! 鈴木さん」。シュヴァ先生と他のメンバーがにこやかに私を向かえ入れてくださった。ひとしきり話をした後、ホールで舞台練習を見学させてもらった。馴染み深い音楽と共に、メンバーが数々の踊りを披露してくれた。アグネルポロシュモニ、スタチュー、ソーラン節…。次々とあでやかな衣装が早変わりし、優美で力強い踊りが繰り広げられる。私がトゥループを休団してから3か月に満たない間に、みんなの踊りは各段に進歩していた。そして踊る姿は実にまぶしかった。(私も、あそこで踊っていたかもしれないのだけど…。インド、行きたかったなあ……)そんな思いが幾度か込み上げてきた。そのたびに(私は人生で大切な仕事をするのだ、今はそこに向けてまっすぐに進むしかない)そう自分に言い聞かせるほかなかった。
 時は過ぎて20088月。教室でシュヴァ先生から一枚の紙が配られた。「12月にインド・コルカタで公演を行います。……」インド公演に参加するかどうか、意思決定をたずねるものだ。(ついに来るものが来てしまった!どうしよう、ここでどんな結論を出せばいいのだろうか?)出産後、トゥループに戻り、アメリカはじめ、何回かの公演に出させていただいた私だったが、インド公演の参加を問われたときには、逡巡し、ためらった。99年に初めてインドを訪れたときのえも言われぬ感激は、決して忘れぬことができないものだった。だから4年前も、ぜひ、再びインドを訪れたかった。だが、それを諦めなければいけなかったときの、何とも言えない寂しい気持ち。もし、行けるのであれば、ぜひ、行ってみたい。そして懐かしい人々と懐かしい街並みに、もう一度会いたい……。だが、私の現実は4年前とは大きく変わっていた。多くの母親たちがそうであるように、子どもを産む前と産んだ後では、私の生活も一変した。昼間は保育園に預けているものの、帰宅すると家事と子どもの世話で自分の時間はほとんどとれない。子供を寝かしつけて何かをしようとすれば、無理がたたってこちらが体調を崩してしまう。10年前ならば多少無理をしてこなせたことが、今はもう、できない。しかも1月から夫は単身赴任中。私が倒れたら、終りだ。仕事、育児、家事に加えてインド舞踊というもう一つの柱を立てて、生活を回していくことができるのだろうか? 忙しすぎる生活に、息子はフラストレーションを溜めるのではないだろうか? 考え始めると、どんどん現実的には難しい気がしてくる。そもそも私がインドにいる間、誰が子供の面倒をみるのか? 老いた両親にそれを頼むことはあまりにも無責任ではないのか? 誰が保育園の送り迎えをするのか? しかも練習に子供を連れて行かなくてはならないとなると。正直、回りに迷惑をかけないことはありえない。(やはり、子連れでこうした活動をするのは、無理があるのだろうか)幾たびかそんな考えも押し寄せてきた。あれこれと迷う私の背中を押したのは、夫だった。やりたいことをやればいいんだよ。決めたら、あとのことは、考えればどうにもでもなる」彼は楽観主義者である。そして固い意志の持ち主だ。やりたいと思ったことはとことんやるし、諦めるということは、しない。この強さは後々にさらに力を発揮するのだが、ともかく私は、この強さに後押しされる形で、インド公演への参加を決めることにした。

一瞬の舞台の裏に、無数の研鑽の日々
 客席から見た舞台は、夢の世界である。スポットライトを浴びながら、演者たちが様々な物語を繰り広げる。そこは日常とは隔絶された異次元の場であり、演者も観客も一体になりながら、一瞬の夢の中で日常とは別の命を、ともに生きようとする。そのひとときを実りあるものとするため、演者たちの日常は厳しい練習と修練の積み重ねが求められる。私自身は学生時代のブラスバンドやオーケストラ、そしてシュヴァ先生の元でのインド舞踊を通して、音楽や舞台芸術を行う人々の日常がいかに、ストイックで厳しいものであるのかを、垣間見、経験する機会に恵まれた。舞台の上での華やかさとは対照的に、それは非常に地道な積み重ねにほかならない。人間も中年になると、なかなか自分を磨いてくれる場を持つことは少ないが、私はインド舞踊を通して、技能のみならず、人間としての生き方を磨く場をいただいていると、つくづく思う。グループダンスを行う上で求められることの一つは、「グループとしての一体性」であり、「個人としての適応力」である。
 トゥループは公演が決まると、舞台の数か月前から合同練習に入る。今回のインド公演でも、ふだんの教室に加え、9月の終わりからほぼ毎週に及ぶ合同練習が行われた。ここで徹底されるのが、グループダンスにおける「動き」である。指の一本一本から体の向き、頭の位置まで、厳しくチェックされる。もう一つの練習が、衣装の早替えである。創作舞踊では、衣装が踊りのたびに次々と変わることが一つの醍醐味であるが、わずか12分の間にパッと衣装を変えなければならない。舞台袖はいつも戦場と化す。着る人、手伝う人は呼吸を合わせることが何よりも大切になる。私自身は体の動きもなめらかではなく、反応もにぶく、敏捷でない。客観的に見れば、あまり美しいとはいえないだろう。衣装についても注意を受けることが多く、不器用甚だしい。とりわけ今回は、練習を重ねてもなかなか手早くできず、「果して本番までに間に合うのだろうか?」と焦りや自信喪失の場面が多かった。頭でわかっていてもできないこともあるし、そもそもわかっていないことも多い。10年続けてはきたけれども、適性で言えばこの世界には向いていないと思う。それでもありがたいのは、シュヴァ先生が注意し続けてくださることである。シュヴァ先生の指導はとても厳しい。でも、それは師として、常に舞踊という芸術や、生徒を育てるということに、誠実たらんとされているからだと思う。そこで何とか、自分なりに、少しでも上達したいという気持ちが湧いてくる。加えてトゥループのメンバーとの一時も、何ものにも代えがたいものである。練習の合間の食事や自主練習の場面。みなさん純粋に踊りが好きでここに集っている。それぞれが家庭や仕事を持ち、日々、課題を抱え、それでもインド舞踊をやってみようという人々である。パワーもすごい。時にはグチや悩みを話し、激励し合える。自分の悩みはたいしたことはない、もう少し頑張ってみよう、と思わされる。こうした仲間に支えられ共に踊れるということは、本当に幸せである。
ようやくたどり着いた、コルカタ
 今回のインド公演ほど、私たち自身が「国際情勢」の渦中にいるという気持ちにさせられたことはない。インドへの出発予定日10日前の1126日、ムンバイで同時多発テロ事件が起こった。名門・タージ・マハルホテル他、市内のホテルや宗教施設がテロリストらによって襲撃された。期をほとんど同じくして、タイのバンコクでは反政府勢力によって国際空港が占拠され、全ての国際便が欠航してしまった。メンバーはこの事件に、強い衝撃を受けた。ふだんならば「大変なことが起きたね」とTVや新聞を見るだけで、済んでしまっていただろう。だが、今回はそのインパクトは格段に大きかった。広い意味で、私たちもこの事件の当事者になったわけである。特に懸念されたのは、バンコクの空港閉鎖だ。私たちはタイ航空でバンコクからコルカタに入ることを予定していたが、このまま空港閉鎖が続けばコルカタに行くことはできない。それからの日々はテレビとインターネットに釘付けで、仕事も手につかなくなった。外務省のHPを見ると、インドへの渡航注意を呼びかける情報が載っている。その中にはコルカタも含まれていた。かたやタイでは首相府と反政府勢力のにらみ合いが続いていて、運航再開のめどは立っていない。そんな様子を見て、家族からも渡航を心配する電話が次々と、かかってきた。シュヴァ先生の疲労の色は私たちの比ではなかった。コルカタでは、私たちの公演に向けて、着々と準備が進められていた。今回は3回の公演を予定していたが、そのうちの2回は、私たちの訪印を記念して企画されたものだという。だが先般の情勢のなか、はたして本当にコルカタに来れるのか、そんな現地からの懸念が次々と伝えられた。そんな中、最後の合同練習が行われた。その後のミーティングでの何とも言えない張りつめた沈黙を、私は今でも忘れることができない。
 出発一週間前になり、タイ首相が辞任し、デモ隊が空港から解散する気配があるとのニュースが流れた。だが空港機能が正常化するにはまだ何日も要するという。バンコク経由でいくのか、行かないのか。果してインドにたどりつくことができるのか。メンバーの誰もが困惑のただ中にあった。今回は私たちの公演を見に、夫と息子もコルカタ行きを決めていた。夫はインドの大ファンである。仕事で訪れたほか、99年の公演も見に来てくれた。彼らのチケットもまた、宙に浮いたままだった。出発5日前の121日。そろそろタイムリミットだ。さすがにこの現状で、3歳の子どもを連れて行くのは止めたほうがいいのではないか――。「感情では寂しいけれど、理性ではやめたほうがいいと思う」。出張で帰宅していた夫に、私は告げた。「そうだよね、やっぱり駄目だよね…」夫は残念そうにそう言い、キャンセルの手続きをすると言って、会社に出かけて行った。ところが、その3時間後、気になって電話をしてみると、「デリー経由でもうチケットを取っちゃったよ!」との声。「えっ!?」わが耳を疑った。「まあ、何とかなるよ、大丈夫!」「あんたって人は、もう……」呆れたのと、力が抜けたのとで、笑うしかなかった。連日、旅行会社とのやりとりをしてくださっていたシュヴァ先生も、この日にデリー経由でのルート変更の意思を固めておられたという。その背後には、シュヴァ先生のご主人の強力で粘り強い働きかけがあったと、聞いている。人生には予期せぬ困難が襲いかかることがある。そんなとき、新たな道を切り開くのは、目的を遂げようとする「意志」に他ならない。夫の行動力と決断力、並びにシュヴァ先生のご主人の働きかけには、そうした「意志の力」が漲っていたのである。
 126日、私たちは関空からニューデリー経由で翌7日にコルカタに入った。手荷物を受け取っているさなか、シュヴァ先生のお父さん、お義兄さん、甥のリック君が迎えに出てくれた。お父さんにご挨拶をしたとき、思わず涙がこみ上げてきた。(ともかく、無事コルカタに来ることができた……。)言葉にならない、感動と安堵の瞬間だった。

変わるコルカタ、変わらない「人々の祈りの風景」
 コルカタの町並みは、9年前とはずいぶんと様変わりしていた。前回訪問したときは夜だったためにあまりわからなかったが、チャンドラ・ボース空港から市街地に入る道の両側には、ところどころに真新しいオフィスビルや建設中の巨大なマンションが幾つも見られ、建築現場でクレーン車などの重機と作業する人々が何人も見られ。また、更地には「ショッピングモール予定地」などと書かれた看板がいくつもあった。車の数も非常に多くなった。われ先にとあちこちからクラクションが鳴り響き、どんどん隙間を縫って車が進んでいく。以前も車は多いとは思ったが、今回はその比ではなかった。コルカタも確実に車社会になっていた。日本ではまず見られない光景に、当初は驚き、メンバーも「キャー!」とか「オオ!」という反応していた。だが11日間の滞在の間にはまあ、『おれはここにいるぞ』というような挨拶のようなもの」と考えるようになり、11日間の滞在の間にはすっかり慣れてしまった。中心部に行くにしたがい、巨大な看板があちこちに見えてきた。ジュエリーからサリー、家電製品、ゲーム機やパソコン、不動産に至るまで…様々な広告が「こんないいモノがあるよ」と訴えかけてくる。そこにあったのは、まぎれもなく、BRICSの一翼を担い、世界経済において成長著しいインドの姿だった。こうした姿とは対照的に、以前に比べ、あまり見かけなくなったな、と感じたものがある。それは町中の牛たちである。9年前に訪れたときには、人や車、リキシャなどと共に、ゆったりと牛が歩いている様を見ることができ、何ともいえない安らかな気持ちになったものである。ところが町中に緑が少なくなったと共に、牛たちの姿も牧舎も見られなくなってしまった。私たちはただ11間、ここに滞在しただけの旅人である。その旅人がノスタルジックに「9年前のコルカタ」を思い描いて、今と比較するのは、コルカタに住む人々から見るとナンセンスで無責任なことだろう。だがそれを承知で考えるのは、この急激な変化によって、コルカタ、インドの良さが失われてしまわないかどうか、という懸念である。それは近代化を推し進めた結果、独自性と伝統を失ってしまった日本に住んでいるからこそ、思うことでもある。だが、それも杞憂にすぎないとも思われた。何故なら街が近代化の一方で、「人々の神への祈り」は脈々と息づいていたからである。
 今回のツアーでは、大まかに前半は観光や買い物、後半は公演というスケジュールだった。前半の観光でシュヴァ先生が企画してくださったのは、3つの寺院だった。そこで私たちが出会ったのは、懸命に神に祈り、全身で神のご加護にすがろうとする人々の祈りの現場だった。たとえば99年にも訪れたビルラー寺院。ヴィシュヌ神を祀ってあるこの寺院では道を歩く人々が、寺院の周囲の塀に刻まれているガネーシャ神の鼻を全てなで、その功徳を額と胸に収めようとしていた。高い天井の中、敷地内は厳粛なたたずまいに包まれている。年配のご夫婦が、寺院の柱を回っている。「お寺は四隅の柱を回るといい、と言われているんですよね」とシュヴァ先生。先生はインドの文化や宗教について、様々なことを話してくださり、それがとてもとても、楽しい。そもそもバラタナティアムが神々に捧げる踊りであり、神々にまつわる話が主題なのである。ビルラー寺院のヴィシュヌ神の12変化を見て、シュヴァ先生の鮮やかなダシャバタラムを思い出した。インド舞踊を学ぶのであれば、ヒンズーの神々についても知っておかなくてはならないのだ。14日に訪れた女神・ドゥルガーの寺院では、日曜日ということもあってか、大勢の老若男女が花や果物などお供物を供え、祈りを捧げていた。頭から足先まで全身で床に伏して祈るその姿に圧倒されると同時に、私自身も、自らもそうすることによって、何ともいえない魂の昂揚と、安らかな思いがこみ上げてきた。神様は、人々のごく身近な日常生活にもいる。私たちが訪れた家には、必ず祭壇があり、神様の絵が掲げてある。またどの車にも必ず何体かの神様が鎮座している。神は実に身近な存在でもあるのだ。かつての日本でも各家庭に神棚や仏壇があり、「祈る」という行為は生活の一部だった。神社や寺院も地域の共同体を束ねる、重要な役割を担ってきた。だが核家族化と都市化によって、家々から神棚も仏壇も消え、神社や寺院はごくたまに、お正月や年中行事で立ち寄る場になってしまった。人間を超越した神という存在を意識する気持ちは多くの人々の中で薄らいでおり、私自身も例外ではない。それが、人々の存在の不安に結びつき、浮遊する個人を生み出してしまっている。だが、インドの人々の中には「祈る」という行為がしっかりと根付き、継承されている。人々が祈りを忘れないかぎり、この国、社会の根っこはしっかりしていると思う。

ラーマ・クリシュナミション
 私たちが宿としていたところは、ベルール・マト寺院が運営するラーマ・クリシュナミションという宿泊施設である。門は厳重に管理され、宿泊者以外は立ち入ることはできない。コルカタの街の喧噪とは信じられないくらい、静寂さが漂う建物だった。4階建ての宿泊所が3方に立ち、中央の庭園には白や黄色の鉢植えの菊が円形に飾られ、芝生の手入れも大変よく行き届いていた。広い部屋には机とベット、奥にはトイレとシャワー。Mさんと同室だった私は、大変、楽しいひと時を送らせていただいた。朝、7時ぐらいにはドアをノックする音が聞こえる。暖かいチャイを運んでくれるのである。やはり本場の紅茶、砂糖をたくさん入れて味わうと、本当に香り高く、美味しい。紅茶で目を覚ましてからみじたくを整え、食堂に向かう。朝食ではトーストにコーヒーか紅茶の他にポーチドエッグやオムレツ、バナナなどの果物が出る。バナナはとても甘く、オムレツはピーマンが入っていてスパイシー。ふだんはそれほど食べない朝ごはんを最初から、どんどん食べてしまった。昼食や夕食は、ベジタリアン、ノンベジタリアンにわかれ、ノンベジタブルはチキン料理と魚料理に分かれる。いずれも外国人に食べやすいように、柔らかい味付けで、私にはどれも美味しく感じられた。なかでもベジタリアンのカレーメニューは秀逸だった。カリフラワーやホーレンソウ、ダイコンやジャガイモ、ナスにピーマンなど、季節の野菜が様々に工夫されて供された。スパイスの種類も多く、これがコルカタの味なのかなあ、とも思った。インド料理店で食べるカレーとはまた、異なる味わいだ。それがまた、長粒種の米とよく合っていた。残すともったいないと思い、最初のころはなるべく残さないように心がけた。生野菜もどんどん食べた。キューリにトマト、赤いカブ(?ではないと思うが)塩をかけると美味しい。この3食がついて、一泊2500ルピーはもったいないぐらいだった。心残りは、途中、おなかを壊して、食べ続けられなくなってしまったことである。さすがに数日間は自重していたが、最後の日は、「食べ納め」にと、しっかりといただいた。帰国して、先に書いた「インドの人の祈りの心」の内奥をどうしても考えたくて、以前から読もうとして読めなかった、森本達雄の『インドの静と俗』を読んだ。その最後に書かれていたのが、ラーマ・クリシュナについての記述だった。ヒンズー教やイスラム教などによる宗教対立の融和を唱えた偉人だったという。この本を読んでから、コルカタを訪れるべきだった。そして、私たちはベルール・マトをも訪問しなければいけなかった。そしてラーマ・クリシュナミションでの振る舞い。反省の種が尽きなかった。
悲喜こもごもの「3つの舞台」
 さて、ここまできてようやく、肝心の舞台についての思い出を振り返ってみる。99年にインドを訪れたときの私たちはまだ、「インド舞踊サークル」という名前そのものの、状況だった。豊田でインド舞踊に興味のある仲間が、シュヴァ先生という素晴らしい指導者と出会い、その力にぐいぐいと引っ張られて、ウダイシャンカール・フェスティバルなどの舞台に立てた。見るコルカタの聴衆も、「よくわざわざ遠い日本から来てくれたね」という意味での温かい拍手を送ってくださった、と思う。だが今回は3回め。「お客さんの目もどんどん、厳しくなっています。ぶざまなものは、見せられません」。シュヴァ先生はことあるごとにそう言って、私たちの気持ちを引き締めてくださった。だから、失敗は、できない。私も含めて、みな、そう思っていた。
 ★ウダイ・シャンカール・フェスティバル
 久々に訪れたラビンドラ・サダンは懐かしかった。すでに到着の日、芝生でマジレを披露していた。緑の中、新調したブルーのユニフォームで踊っている。美しく、はつらつとしたひととき。その前には、踊りを習うチビッこたちが、目いっぱいメイクをして「舞台本番」を演じていて、実にかわいらしかった。そしてオープニングの日。最後はママタ・シャンカール舞踊団の公演だ。99年に見たときには、その独自の世界と完成度の高さ、精神性に度肝を抜かれた。今回も楽しみだった。個々の顔を全く見せない、抽象度の高い舞踊。人間の個別性というのをあえて消し去って、なおも残る表現が、そこにあった。また、女たちの一生を描いた作品の中では、戦いのさなか、一人の赤子が葬られていく悲しみが深く描かれていた。ママタ先生が以前から描き続けている、「平和への希求と新たな命」というテーマがさらに深く、練られていた。

 ★足りなかったのは、「平常心」
 さて、この3日後の12日が、私たちの舞台である。10日には先生の母校で、11日には昼間の舞台でと、幾度かリハーサルを重ねてきた。この日のプログラムは、創作舞踊「フュージョン」である。私が踊るのは姫神、アグネルポロシュモニ、そしてソーラン節だ。このなかでアグネルポロシュモニは、タゴール作詞作曲による優美な作品である。「太陽の恵みを、私にもください…」ささやく ように歌いだされるこの曲にシュヴァ先生が込めたのは、かつてインド舞踊サークルのメンバーであり、がんに蝕まれて他界した渡辺さんへの思いだ。扇子を持ち、なめらかに踊るこの曲もまた、深い感情表現が求められる。(渡辺さん、9年前にこの舞台で一緒に『春の踊り
を踊りましたね。私たちをどうか、見守ってください……そんな思いを抱きながら、舞台で構えていた。タゴールソングを、私たちはいつも口ずさみながら踊る。メロディーの抑揚に応じて、気持ちもどんどんどんどん、入っていった。だが、次に 起きたことは、私にとって前代未聞の事態だった。これから退場への準備に入る振り付けで、前のパートの振り付けを踊ってしまったのである。もはや体は制御が効かず、横座りになる振り付けを踊っている。(まずい、とりあえず、立ち上がらなければ……懸命に、しかしヨロヨロと立ちあがった私の情けない姿は、後日、ビデオでしっかりと確認された。気持ちはもう、奈落の底だった。でも、いい年をして、騒ぎ立てるわけにはいけない。何よりも他のメンバーに迷惑がかかる。気持ちを取り直してその後の時間を過ごしたが、ラビンドラ・サダンという晴れ舞台で、あんな失敗をやらかしてしまったのは、一生の心残りである。あの時、なぜあのような間違いをしたのか、正直言って、自分でもよくわからない。ただ、足りなかったものには思い当った。「平常心」である。本番で熱く踊るのはいい。しかし、心まで熱くなってはいけない、のである。そんな話をあとで夫としていたところ、学生オーケストラの時の指揮者の先生が、『熱い演奏を、クールなハートで』と話していたことが話題に上った。まだまだ修行が足りないのだ。それを痛感した、一晩になった。
 ★平和への祈り、コラプション
 翌14日は、朝食後すぐにバスに乗り込み、コルカタから30分余りのソデプールという街に向かった。(昨日の失敗は取り戻せない。気分を改めて、今日は臨もう)そう自分に言い聞かせて、会場に向かった。
 ソデプールはコルカタ中心部から空港方面に向かった郊外の町である。都市部とは違い、どことなくゆったりした雰囲気だ。午前中に到着したのは、現地の舞踊学校の生徒さんたちとのワークショップを行うため。主催者の先生は、シュヴァ先生の舞踊団時代からの友人だという。ホールの奥には大きな写真が掲げられている。病死された、主催者の先生の奥様だという。皆でごあいさつをし、鶴を捧げた。ワークショップに集まったのは、5つのグループの少女たちだった。みんなとてもかわいらしく、愛くるしい。総勢、6070人ぐらいは集まってきた。インド舞踊の裾野の広さを目の当たりにした。入口付近には、子どもたちのお母さんたちが、美しいサリーを身にまとい、子どもたちの晴れ姿を一目見ようと、敷物を敷いて座っている。(本当ならば、私もあそこに座っているような年齢なのだけれど……)と自分がここにいることの不思議さを思ってみる。「みなさんの座っている地面は、神様のありがたい場所です。裸足になって、どんな姿勢でもいいので、くつろいでください」。この言葉に、教室での「ご挨拶」が重なって、厳粛な気持ちになった。そのあとは、激しいエクササイズのスタートだ。バスで固まっていた体が無理やり、目覚めさせられた。かなりきつかったが、後で体がずいぶん軽くなった気がした。「何か日本的な動きを!」そこで指名されたのが、Sさんだった。介護の職場で、お年寄りからのリクエストで、しばしば炭坑節を踊っているという。インドに来て、炭坑節を踊るとは予想していなかったが、日本人はやはり、自らの文化をしっかりと見せていかないといけないのだ。「♪掘って、掘って、また掘って、かついでかついで下がって下がって、ちょちょいのちょい♪」Sさんを先頭に、メンバーと子どもたちが向き合って炭坑節を踊り合う。それはとても素敵な国際交流の一幕だった。ワークショップが終わり、食事を取った後は、いよいよ2日目の舞台である。私たちが通された控え室の横では、チビちゃんたちのにぎやかな声が聞こえてくる。地元の舞踊団と私たちが交互に踊り合うというプログラムだった。
 この日の演目は、古典舞踊、フュージョン、そしてコラプションと、ツアーの中でも最も重量級のプログラムコラプションは今回のツアーではこの日のみの演目だった。戦争に翻弄される女たちの悲しみ、憂いを描き、平和を希求するこの演目は、シュヴァ先生の数々の創作舞踊の中でも、私が最も心動かされたものの一つだ。今回の舞台で私が想起したのは、ムンバイのテロ事件だった。この事件では多くの罪もないインドの人々や外国人が命を奪われた。例えばその一人。タージ・マハルホテル6階に住んでいた総支配人はテロ勃発後に宿泊客の救出に奔走するさなか、妻と子供を火災で失った。そんな様子が次々とテレビに映し出される。この世の地獄が、そこにあった。テロリストたちは一人を除いて全員が射殺された。ほとんどがまだ若いメンバーばかりである。この犯人たちには親もいれば兄弟もいただろうに、と思う。もちろん、テロが許されるわけではない。だが、テロリズムに訴える背景には、様々な事情があるという。「テロリズム」は「貧者の核」と呼ばれるという。アメリカの同時多発テロ以降、世界にテロリズムが拡散し、蔓延している。この問題解決のあり方は、あまりにも悲しすぎる。そこに、コラプションを私たちが踊る意味があると、私は思っている。インドの国旗と日本の国旗を持ち、私たちが前へ、前へと歩んでいくなか、幕は下ろされた。再び幕が上がったとき、最前列に座っていたリック君はじめ、多くの人々が席から立ち上がって、拍手を送ってくれた。その拍手は、とても暖かいものだった。

 ★人々の暖かさに触れた、クリシュナガル
 長いようで短かったツアーも、最後の公演日を迎えることになった。
 コルカタからバスで3時間半かけて向かったのが、コルカタの北東の小さな街、クリシュナガルである。私はここを、密かに楽しみにしていた。コルカタの郊外の様子を見たかったからである。空港をすぎて、1時間ほど経つと、まっ平らな農村地帯に入って行った。道の両側には農家があり、鮮やかなサリーの洗濯物や、犬や家畜たちが見えてくる。畑の真ん中では農作業の傍らでちょろちょろと遊ぶ小さな子どもがいる。何とものどかで、穏やかな風景が続いていた。さすがに道はでこぼことすごい。体中がグラインドしている。乗り物に強いほうで、良かった、と思う。1時間もしないうちにこの揺れにも慣れてしまったが。昼過ぎぐらいに町の中心部が見えてきた。店も見え、ここが町の中心部だということがわかった。小さな町だけれども、人々が大勢集まっている。まず目についたのは町の中心部に掲げられた横断幕である。ベンガル語で「歓迎!インディアン クラシカル ダンストゥループ」と書いてあると、シュヴァ先生が説明してくれた。スピーカーでは有線放送がしきりと流されている。ところどころに「……ジャパニー…」という声が聞かれる。町中に今日の公演を告げるアナウンスなのだという。到着後、私たちにはホテルの部屋が用意されていた。きれいなシーツとともに、ブランケットが畳まれ、みかんなどの果物も準備してあった。蚊取り線香もたいてくださっていたということで、これ以上ない、もてなしぶりだった。ここで靴を脱ぎ、ベットに横たわったことがどんなに心地良かったことか! 昼食もわざわざホテルからのケータリングということで、特にエビのカレーは絶品だった。舞台にも驚かされた。色とりどりの和服に日本髪、大きなかんざしをつけた日本女性たちが、背景の大だん幕に貼られている。左側には金紙で「歓迎」の日本語が見える。私たちは最大級のもてなしを受けたのである。これはとても嬉しく、バスでの揺れの疲れは吹き飛ぶくらいの気持ちになった。古典舞踊、フュージョンと、瞬く間に時は過ぎた。私たちの浴衣姿はさぞかし、バックの日本髪の女性たちとマッチしていたことだろう。ソーラン節が終わり、メンバー一同が並んだとき、会場のほとんどのお客さんが立ちあがり、いつまでも拍手が鳴りやまなかった。「私たちは初めて、日本人を見ました」と主催者の方は語っていた。(この町で踊れて、本当に良かった!)私は心からそう思った。

私たちは、支えられて踊ることができた
 長々とインド公演について綴ってきてしまった。シュヴァ先生から「感想を」とメールをいただき、何を書こうかと考えていたが、インド公演に至るまでを自分なりに記しておきたいと思い、こんな形になってしまった。まだまだ、タゴールハウスや果てしなく欲望が膨らんでしまった買い物、息子の初めてのインド体験、ボウミックさん宅の再訪など、書き足りないことはたくさんあるが、最後に、どうしても書かなければいけないことを記して、まとめにしたいと思う。
 それは、今回のツアーが、実に多くの人によって支えられてきた、ということだ。特にシュヴァ先生のお姉さんご夫婦、リック君、ロパさんたちには、どんなに感謝の言葉を尽くしても言い足りない。新しいユニホームの購入から、日々のタクシーでの同行、水の手配、食事や健康面での心配、リハーサル、本番、最後の空港まで、物心両面にわたって、ありとあらゆる面で支えていただいた。本当にありがたかった。この気持ちはどうやってお伝えしていいのか、わからない。素晴らしいご家族だ。また、クリシュナガルへのバスの中のこと。体調不良でメンバーが2人欠けてしまい、沈みがちな私たちを元気づけようと、歌を歌いながら盛り上げてくれた、ロパさんのお義母さん。あの暖かいお心遣いは、今、振り返っても涙が出てきてしまう。どんなにあの歌で、気持ちを立て直すことができたことか! さらに、今回のツアーの最初から最後まで、私たちを常に見守ってくださった大きな存在が、シュヴァ先生のお父さんである。いつまでもお元気で、また、私たちの舞台見ていただきたい、と思うのである。そして、今回のツアーを企画され、私たちを導いてくださったシュヴァ先生である。新しい踊りを次々と生み出し、踊り手としてだけではなく、舞台を作る総監督もし、さらにツアーを引っ張ってこられた先生はまさにスーパーウーマンだと思う。シュヴァ先生には踊りや生活面だけではなく、夫と息子がコルカタに滞在する上でも、様々なご心配をいただいた。心からお礼を申し上げるとともに、また、これからも引き続き、私たちを叱咤激励し、導いてくだされば…と思う。
 コルカタの妙法寺のご住職は「人間に生まれて、インドに来ないなんて、もったいない」とおっしゃった。この言葉は、実に得心のいくものである。再び、インドの土を踏むことができて、良かった。紆余曲折も含め、今回のインドツアーは、私がこれから生きていく上で、大きな財産になることはまちがいない。

 清水 あけみ
「ワークショップで炭坑節』」
 今回のインド公演は2004年に続いて2回目です。ニューデリー経由でコルカタに到着、空港には先生のお父様、お姉さまの御家族が出迎えて下さり前回と違っていたのは、温かい笑顔で迎えて下さったお母様のお姿が無かったのが、淋しいかぎりでした。
 公演は3回行われ、1回目の12月はウダイシャンカール ダンス フェスティバルに参加公演、13日はソデュプールでの公演でした。ソデュプールでは午前中に5チームでの合同ワークショップが行われ、日本チームはシュヴァ先生から日本の踊りをと言われ、簡単な振り付けとテンポを考えて「炭坑節」で決定しました。♪Hootte hotte mata hotte♪ 小さい子供さんから、お姉さん、タブラの先生も炭坑節のリズムで演奏して下さり、200名程の皆さん全員が一つになって最高に盛り上がりました。言葉は上手く通じなかったのですが「炭坑節」で交流が出来たことに感謝です。未来のダンサーを目指す子供たちが、日本の炭坑節を踊った事で少しでも役立てば嬉しいです。
 15日はクリシュナナガルの公演で早朝出発、コルカタ市街から北東へ200Kmバスで移動、ちょっとした小さな旅でした。クリシュナ ナガルの公演はライオンズクラブ主催で私たちはVIP待遇を受け、突然のアクシデントで10名で公演と成りましたが、会場は満席で立ち見で観賞された方が沢山おられ、フィナーレは客席全員が立ち上がって拍手を頂き感激しました。このような素晴らしい体験をさせて下さったシュヴァ先生に感謝先生のお父様、お姉さまのご家族、ロパ夫妻に心から感謝、一緒に頑張ったダンストウループの皆さん、協力してくれた私の家族に感謝、ありがとうございました。

 木下 浩子
「2度目のインド公演」
 4年振り2度目のインド。今回はムンバイでのテロ事件や、経由地であるバンコクの空港閉鎖などがあり、とても不安な気持ちを抱えながらの旅立ちでした。しかし、インドは変わらぬ優しさと温かさで、私たちを迎えてくれました。
 公演を行ったラビンドラサダン、ソデュプール、クリシュナナガル、お参りに訪れたビルラサバガル寺院、日本山妙法寺、ドゥルガーテンプル、そしてタゴールの生家、訪れたところはどこも神聖で清らかで、自分自身も浄化されるような気がしました。とりわけ、タゴールの生家に行けたことは、タゴールソングを踊る私にとって、とてもとても大きな意義がありました。タゴールが生まれた部屋、タゴールが最後の息をした部屋に実際入って、タゴールの存在をより身近に感じ、そしておごそかな気持ちになりました。
 また、行く先々で出会った人たちの温かさは忘れることができません。バスで3時間かけて行ったクリシュナナガル。体調不良からグループで名の欠員を出し、元気をなくしてしんみりしていた私たちを、ロパの義父母が歌を歌って励ましてくれました。到着したクリシュナナガルの舞台には「歓迎」と日本語で書いてあり、日本の絵が手作りの切り絵で飾り付けされていました。胸が熱くなりました。
 インド滞在中、先生と先生のご家族の皆さんには大変お世話になりました。いつもどんな時も温かい笑顔で接してくださり、本当に助けられました。こんなに歓迎され、温かくもてなしていただいたのに、私は何もお返しできていない気がします。このことだけが唯一の心残りです。今度またインドに行く時こそ、お返しができるように、勉強と練習をして魂のこもった踊りが踊れるようになりたいと思っています。先生、ご家族の皆さん、インドで出会った方々、仲間たち、すべての人に感謝します。ありがとうございました。

 近藤 かね子
「ここに私の家族がいる!!」

 インド舞踊発祥の地に行って3回目の公演を無事に終わらせることができた。来日した外国人が日舞を日本人の前で披露するのと同じだと思ってもらえばいい。私たちメンバーは才能があった選りすぐれた粒ぞろい者ばかりではない。私のように音感音痴・運動音痴のような者もいればプロもいる。踊りの練習の他に衣装着替えの特訓もしなければいけない、という本場インドでは考えられない舞踊集団だ。
 最初の公演はウダイシャンカル・フェスティバルで、2
回目は舞踊スクールとの交歓公演、ここで日本の「炭坑節」を披露し伝授してきた。ひょっとして今頃は"ほって、ほってまたほって"がインドのどこかでブームになっているかもしれない。3回目はコルカタから3時間もバスで揺られていった地方での公演。踊りの前にはカレー料理の歓待、私たちが踊る舞台には漢字で「歓迎」と書かれており着物姿の女性まで描かれていた。見知らぬ日本人の踊りに入場料まで払って、それも村中の人が集まってしまったのかと思う程の盛況振り。2時間余りの間に帰る人もなく、最後には観客が総立ちになっていた。どの会場もインドの方の細かい配慮を感じ、私たちは心を込めて踊った。そこには言葉以上の「伝わり」が確かにあった一時だ。メンバーは本当に性格・能力において全くのでこぼこ。そのでこぼこがガッチリかみ合うと強力な魅力が生まれることを知った。ひょっとしたら粒ぞろい以上のものがあるのかもしれない。
 「言葉を超える」体験はまだあった。
 99年第一回目の公演ではインドのご家庭「ボウミック」家で私と鈴木さんはホームステイをした。公演などで深夜帰宅でも起きて待ってくれて食事の支度までしてくれた。言葉が通じない私どもを10日あまりも泊めることは本当に大変だったと思う。
 4年後の2回目公演は宿泊施設を利用した。この時は鈴木さんはお産のため参加できなかった。ボウミック家の奥さんが癌で自宅療養されていることを知り二人で千羽鶴を作って届けた。やつれた奥さん一家との再会は悲しくて辛いのに話せない。手をとり見つめあい涙する間を何かが行き来するのを感じた。温かかった。分かる。ここインドに鈴木さんと私の家族がいる。必死になって回復を願ったがボウミック婦人は3年後に帰らぬ人となってしまった。
 今回の公演には鈴木さんも参加でき、3歳になったのり君(鈴木さんの息子)とご主人と私でボウミック一家と再会できた。再会はやっぱり抱き合って涙しながら見詰め合うばかり。ボウミック氏は一度に年を取ってしまわれたようだが、娘さんが十分お母さんをしていた。私の娘が健気に家族を守っているようなそんな錯覚さえ覚える。インドは海を隔てた遠い国ではなく、すごそこにある第2の家族のような気がしている。この家族と話ができたら何を伝えるのかなと考えるが、日本語でも言葉は見つからない。言葉が通じないから抱き合うことができ、お互いの肌の温もりを感じ合うことができたのかもしれない。これらの素晴らしい体験ができたのもSubha先生の力量と配慮によるもので感謝する言葉がやっぱり見つからない。

 御手洗 蘭子
「インド公演を終えて」
 今回の公演を入れて舞台に立つのは2度目です。初舞台は2007年5月の第4回自主公演「インドの風・日本の風」でした。この時はもう心臓が口から飛び出るのではないかと思うくらい緊張しまくり、頭の中は真っ白緊張のあまり観客の顔も全く視界に入っていない等々、気持ちに余裕がなく、あっという間の公演でした。そして2回目は海外公演で、私のあこがれの国インド。この公演に参加させていただけたことに心から先生に感謝申し上げます。
 私はこの公演で、たくさんのことを学ばせていただきました。踊りはもちろん、グループとはどういうものかということも。大人になってウン10年、当たり前のことを何げなく理解していたつもりでしたが、今回の公演のための合同練習から合宿、インドでの11日間の滞在期間の中で改めて一つのことを成し遂げるためどれだけ意思疎通や思いやる気持ち、責任感等が大事であるかということを改めて学ばさせていただき、とても充実感を感じました。あとは笑顔も。
 インドで三度公演があり、ラビンドラサダンでは笑顔のつもりでも緊張で目は引きつっていて口はただ口角が上がっているだけ。
 ソデュプール、クリシュナナガルの舞台では、もちろん緊張はあるものの、躍ることを楽しめる様になり自然な笑顔が出るようになりました。これが帰って来てからお教室のいつもの練習で、自然に笑顔が出るようになって来ました。
 これまで どれだけインドで関係者の方達に大変お世話になったか。皆さんとても温かく向かい入れて下さり、サポートしてくださったことか。私はとても幸せな体験をさせていただきました。一つ一つ舞台を踏むことで、毎回とても良い勉強をさせてもらえ、大げさですが人間死ぬまで勉強だと改めて感じました。ありがとうございました。

 市川 ゆみか
「初めてのインド公演」

 インド公演が終わって1ヶ月経ちますが、振り返ってみると長かったような、でもあっという間だったような不思議な気持ちがします。私にとってインド公演はとても貴重な忘れられない思い出になりました。公演に行く前の期間は期待もありましたが、不安も大きかったです。私の場合は靭帯を切るアクシデントで、体を動かして練習することが出来ない期間が数ヶ月あったので、何度練習をしてもまだまだ足りないと思っていました。
 観客の皆さんの前で踊りを披露するというのは、どんな公演でも緊張しますが、今回はインドでの大舞台ということもあり、戦々恐々としていました。そんな中で私が頑張ろう! と自分を奮い立たせることが出来たのは、先生そしてメンバーの方たちの公演に向けての真剣な思いが伝わったからです。私は以前に習っていた踊りで発表会があり、それに向けての練習をしたことがありますが、こんなにも皆が高い目標意識と自分に責任を持って練習に臨み、且つ自分以外の人たちにも助け合いの精神で支え、言葉に出さなくても皆の気持ちが一つになっているのを感じることができたのは初めてでした。トゥループというものを深く実感でき、自分が一員でいられることがとても嬉しく思いました。
 インドで行った公演は3ヶ所ともとてもよく覚えています。ラビンドラサダンで公演を見た時は、そのレベルの高い踊りと表現力に圧倒され、衝撃を受けました。質の高い踊りは見るだけで勉強になると改めて思いました。素晴らしい舞踊団の方たちと同じ舞台で踊られるというのは、とても光栄でしたが、と同時に私は大丈夫なんだろうか…と怖くもあったと記憶しています。それもあって、舞台終了後のママタ先生のお言葉や、よかったよと握手をしてくださる方たちの笑顔が、涙が出るほど嬉しかったです。
 
ソデュプールでのワークショップは現地の子供たちと交流できて楽しかったです。慣れない日本の踊りを必死に覚えようとするインドの子供たちのまっすぐな心に胸が温まりました。この日の公演は確か、お腹の具合が最高潮に悪かったのですが、いざ本番が始まると痛いのも忘れ、踊りを楽しんでいる…舞台を成功させなければ という強い気持ちがあったからかもしれませんが、やはりインド舞踊の持つ力が大きいですね。これが試験だったら、耐えられていたかどうか分かりません。
 最後のクリシュナナガルの公演は色々な意味で一番印象に残っています。古典と創作が2つという、今回の公演の中では一番ハードな舞台でしたが、とても温かい歓迎を受けました。私たちの為に用意してくださった料理やお部屋、そしてステージ…遠く離れた異国である日本の私たちに一生懸命コミュニケートし、迎えてくださった心遣いが痛いほど胸に響きました。さらに練習を積み重ねて、また是非来たいと思われる所でした。
 インドの人々は皆本当に温かくて、とても救われました。先生のご家族やご友人の方々にも感謝しきれないほどお世話になり、皆さんの温かい心が私たちの公演の支えになったことは間違いありません。この公演はインド舞踊のもつパワー、踊りに現れる心の持ち方や気高さなどを再認識させ、私を大きく成長させてくれたと思います。皆で舞台を作り上げていく一体感、終わった後の達成感、皆の支えが私の中の精神向上になりました。これからもこの経験を成長の糧にしていきたいです。インド公演という素晴らしい機会を与えてくださって、本当にありがとうございました。

 アンナ ラウラ シュッカ
「夢のひととき、そして成長への誓い」
 この度の公演では、Subha先生、そしてメンバーの皆さんとともに夢のような時間を過ごすことができました。ダンスとインド──幼少の頃からずっと大好きだったこの2つのものが、先生の設けてくださった機会のおかげで、1つへと収束した気がします。直前に起こったテロのため不安を抱えながら迎えた当日、私たちは長い空の旅の末に目的地コルカタに無事到着しました。出迎えてくれた魅惑的な街の色彩や音、香りは今も五感に焼きついています。中心部に位置する宿泊先のラーマクリシュナ・ミッションは、心身ともに疲れを癒すことができる安らぎの場所となりました。日中はリハーサル、観光、ショッピングで忙しく、気持ちは常に高揚していましたが、静寂に包まれたアーシュラムに帰ると身も心も癒されたものです。その静寂と対照的に、庭園では色彩の賑やかな花々が咲き誇っていたのも印象に残っています。
 ラビンドラ・サダンで開催された最初の公演では、先生初め多くの偉大な舞踊家がステップを踏んだ舞台に上がることに、緊張と幸福感の入り混じった気持ちでしたが、観客の皆さんが温かい眼差しで見つめて下さり素敵な時を過ごすことができました。公演の数日前にはママタ・シャンカル舞踊団の公演も行われ、その魔法のような創作舞踊の美しさに心を奪われました。
 可愛らしいミニバスでアーシュラムを後にし、ソデュプールで行った2度目の公演も強く印象に残っています。多くの舞踊家がお見えになったワークショップは大変でしたが、貴重な体験をさせていただきました。舞踏家の卵である少女たちとエネルギッシュな時間と空間を共有できたのも楽しい思い出です。夕方には公演が始まり、大きな会場狭しと舞踏家たちが舞うのを拝見して胸が熱くなりました。季節的には冬とはいえ、暑気に包まれたインドで、感じたのは不思議と暑さそのものではなく、人々の作り出す熱気だった──そんな気持ちを抱かせる今回のインド滞在でした。

 滞在中は時があまりに早く過ぎ余裕が全くなかったのですが、今振り返り、舞台上でも舞台外でも本当に多くの失敗をし、先生およびメンバーの皆さんに御迷惑をお掛けしたことを思い出すたびに、強い後悔の念に苛まれます。この場を借りてお詫びさせてください。芸術のために生きることの意味を教えてくださる先生にはいつも感謝しています。そして、この度のインド公演および滞在について安らぎと力を与えてくれたすべての方々──先生、先生の御家族、メンバーの皆さんに心より感謝いたします。
 小久保シュヴァよりトゥループの皆さんへ

 今回で三度目のインド公演を無事、成功裡に終えることが出来ました。ウダイ・シャンカール・ダンス・フェスティバル選考委員の関係者の間では日本のトゥループの舞台の質の高さは定評があり、私たちトゥループの場合、「ほぼ無審査で参加が認められる」と内輪話でママタ先生やMr.ゴーシュから伝えられました。それに加え二度目のインド公演からウダイ・シャンカール・ダンス・フェスティバル以外の公演も依頼されたり、持ちかけられるようになり、そちらの面でも私たちトゥループは着実に実績を積み重ねて来ています。現地の舞踊教室と公演を共同で開催したり、単独公演を行ったり、日々に練習を積み上げてきた結果がしっかり形となって現れているということなのでしょう。
 私一人の力でもなければ、皆さん個々の努力の結果ばかりでもない。インディアン・クラシカル・ダンス・トゥループのメンバー全員の力が結集して評価されているとみるべきでしょう。もちろん、その中でも技量が優れている夏目さんや谷口さん榊原さんなどはトゥループとしても、また個人として関係者からもその名前を覚えられるまでになっています。「あの人の名前はなんと言うのですか?」と舞台を観終えた後で訊いてくる観客もたくさんいるのです。たとえグループで踊っていようと優れた踊り手は観客の目につくという証明でもあります。また、当然ですがその逆もあるわけです。
 今回の私たちの公演も、前回・前々回に引き続いていくつかのテレビ局が取材に来て電波に乗せられました。公演をテレビで放映されると同時に、今回、個人でもインタビューを受けた夏目さんと谷口さんはその姿と声をアップでインドの皆さんに放映され観られたわけです。たとえ言葉の壁があったとしても、その挙措、態度はトゥループを代表するものとして、同時に日本を、あるいは日本人をイメージさせるものとしてインドの人々に受け取られたことでしょう。
 私の師であるママタ先生の前で堂々と踊る生徒の皆さん、そしてそれを厳しくも優しい眼で見守って下さっているママタ先生の姿を舞台の袖から、ふと垣間見る時、私は言葉では言い表せぬ感動が身裡を過ぎります。それは創作舞踊に留まらず古典舞踊に於いてもまったく同様なことで、自分たちのバックボーン(日本人として)をしっかり持ち、しかし、それを舞台で感じさせないインド舞踊を最初から最後まで、自然の流れのままに踊ってゆく姿こそ、厳しい練習を重ねてきた結果なのだと、トゥループの古典の舞台を観るインドの人々はちゃんと肌で理解して下さっているのです。
 日本人が踊るインド舞踊がめずらしいから賞賛されるのではありません。舞踊が本当に素晴らしいから賞賛されているのだ、ということなのです。「インドの人々に勝るとも劣らぬインド舞踊の公演――」とテレビで司会者が何度も繰り返し言っていたことやウダイ・シャンカール・ダンス・フェスティバルの司会者が「日本のインディアン クラシカル ダンス トゥループには毎年このフェスティバルに参加して頂きたいものです」と台本にない台詞を言われたことは客観的評価の証明と言えるのでしょう。
 しかし私たちは現状に満足することなく、新たなるステップアップと飛躍に向かい飛翔してゆかねばなりません。それにはやはり練習の積み重ねしかないのです。
 トゥループの皆さん、本当にインド公演ご苦労様でした。

前回の海外公演へ

2009年1月26日 インド公演反省会

 

 

 

 

犬のくせにカメラ目線がいつも決まっている不思議な「グル」なのでした

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★タゴール生誕150周年記念公演 ★ナマステインディア2011

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