インドについてのプロローグ 7
(インドと国境を接する国々) 
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★2005年 第3回自主公演「インドへの道」 ★2007年 第4回自主公演「インドの風・日本の風」 ★2007年デトロイト公演
★2008年 第3回インド公演 ★2009年 第5回自主公演「インドへの祈り」 ★2010年 チャリティ合同公演 ★2010年アトランティックシティー公演
★タゴール生誕150周年記念公演 ★ナマステインディア2011 ★2012年 第6回自主公演「インドからのおくりもの」

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パキスタン・イスラム共和国
面       積
79万6095km2
人       口
1億7351万
首       都
イスラマバード
一人当りのGNP
1095ドル
通       貨
パキスタン・ルピー
民       族
パンジャブ・パシュトゥン・シンド・バルチ人等
言       語
ウルドゥー語・パンジャブ・シンド語等
宗       教
イスラム教スンニ派・ヒンドゥー・キリスト教
パキスタンはムスリムが圧倒的多数を占める多民族・多言語国家である。1971年に東パキスタンの分離独立により,人口に占めるムスリムの比率は97%となり,ヒンドゥー,キリスト教徒,パールシーなどの宗教的マイノリティの比率はいっそう低下した。ムスリムのなかではスンナ派のハナフィー派が圧倒的多数を占めているが,4分の1から5分の1はシーア派である。パキスタン人のアイデンティティは,部族,民族,言語,パキスタン国家,イスラム世界などと重層的であり,かつ流動的である。地理的アイデンティティにしても,インド亜大陸に属するのか,中東イスラム世界に属するかの揺れがみられる。さらにパキスタン・ムスリム特有の問題として,ヒンドゥーからの改宗以前のカースト秩序が現在でも果たしている機能が注目される。また,相続においても,イスラム法が純粋に適用されずヒンドゥー法的慣習法との妥協が行われる場合も多い。その結果,女性の相続権は弱い立場に置かれることが多い。村落における支配構造もインドのそれとの相違点よりも類似点が多い。都市化の進展は農村から都市への労働力の移動を生み,さらに1970年代半ばに開かれたペルシア湾岸産油国での雇用機会の急増は,数多くの出稼ぎ労働者の流れを生んだ。 

中華人民共和国
面       積
960万km2
人       口
13億人
首       都
北京
一人当りのGNP
3404ドル
通       貨
民       族
漢族・ウイグル・チベット・他55の少数民族
言       語
北京語・方言及少数民族語
宗       教
道教・仏教・キリスト教
中華人民共和国の陸地総面積は約960万km2で,日本のおよそ26倍,地球の陸地総面積のおよそ15分の1を占め,ロシア連邦,カナダにつぐ世界第3位の広さを誇っている。国土のこの広大さが,きわめて変化に富んだ自然的,社会的様相を生み出している。その陸地国境線は2万kmを超え,東北部は朝鮮民主主義人民共和国,北部はロシア,モンゴル,西部はカザフスタン,キルギスタン,タジキスタン,西南部はアフガニスタン,パキスタン,インド,ネパール,ブータン,ミャンマー,ラオス,南部はベトナムの,14ヵ国と国境を接している。また東南部は,北から南へかけて渤海,黄海,東シナ海(東海),南シナ海(南海)などの海洋に面して1万8000kmにおよぶ海岸線がのび,大小5000を超える島嶼をかかえて複雑な様相を呈している。海を隔てて日本,フィリピン,ブルネイ,マレーシアなどと相対している。

ネパール連邦共和国
面       積
14万718km2
人       口
2804万人
首       都
カトマンズ
一人当りのGNP
562ドル
通       貨
ネパール・ルピー
民       族
ネワールリンプータマン・グルン・タカリー族
言       語
ネパール語
宗       教
チベット仏教(ラマ教)・ヒンドゥー・イスラム教 
ネパールには伝統文明の影響を受け独自の文化を育ててきた民族から,文明との接触が非常に少なく,狩猟・採集生活のなごりをとどめている人々までおり,その文化の様相は多様である。西欧文明を別とすれば,ネパールと関係の深い文明はインド文明とチベット文明で,どちらも大宗教,文字,都市を伴い,宗教色の強い文明を培ってきた。しかしネパールはどちらの中心からも離れ,また地形面から交通の制約も大きい。そのため,それらの文明との相互関係のあり方は地域,民族によって大幅に異なり,また一方では土着的要素が全国にわたって色濃く見られる。 

ブータン王国
面       積
4万6500km2
人       口
69.6万人
首       都
ティンプー
一人当りのGNI
1920ドル
通       貨
ヌルタム
民       族
ブータン人・(チベット系)ネパール人
言       語
ゾンカ語(チベット系)・ネパール語・英語
宗       教
チベット仏教(ラマ教)・ヒンドゥー教
ブータンの国土は日本の九州地方よりも若干大きい。8世紀以前の歴史は不明であるが,伝承によれば8世紀中期にインドから仏教が広まったといわれる。当時の原住民は南西方のインドのコーチ・ビハール地方から来住したブーティア・テプー族であった。彼らは9世紀にチベット軍により征服され,両者の混血により現在の中心民族ボーティアが形成されたとされる。以後チベットの影響の下に国家形成が進められていく。1616年にはラマ教紅帽派の高僧ガワン・ナムギャルがチベットから入国し,宗教だけでなく行政制度の整備を行い,国家統一を推し進めた。彼は聖職的支配者たる第1代法王となった。51年ころからは法王以外に俗権的支配者にあたる執権が登場し,この二重構造は以後1907年まで続いた。後者は有力家系から推挙により推戴され,前者は活仏で,有力家系の中から見いだされた前法王の転生者がなった。18世紀にはいると中国およびイギリスの影響が及んでくる。まず1720年の清朝の康熙帝によるチベット征服により,清朝はブータンに駐在官を置き宗主権を行使することになった。72年にインドのコーチ・ビハール王国の王位継承戦に介入したブータンは,ここでベンガル支配を進めてきたイギリスと衝突した。翌73年にはコーチ・ビハール王国はイギリスの保護国となった。1826年にはイギリスはアッサムを領有し,65年にはドゥアール地方をめぐってブータン戦争が勃発した。同年のシンチュラ条約により同地方は英領インドに編入され,ブータン領土は山岳地方に押し込められることとなった。1907年にはトンサの領主ウゲン・ウォンチュックが法王を兼ねる一元的な支配者となって現王朝を創始し,国王と称した。これにより俗権的権力の優位性が確立するとともに,それまでの群雄割拠体制に終止符を打った。10年にはイギリスとの条約により毎年補助金を受ける代わりに,外交面はイギリスにゆだねることになり,イギリスは外国人の立入りを厳しく制限した。この関係はインド独立後のインド・ブータン友好条約(1949)にも継承され,今日に及んでいる。このときインドは1865年に英領インドに編入された領土の一部,デワンギリ地方(83km2)を返還した。

参考マップ

(ワンポイント)
ここに取り上げた国はインドに隣接している国々ですが、例えば”インド文化圏”などという場合には、アフガニスタンや東南アジア諸国を含み更なる広がりを持ちます。

バングラデッシュ人民共和国
面       積
14万3998km2
人       口
1億4231万人
首       都
ダッカ
一人当りのGNP
684ドル
通       貨
タカ
民       族
ベンガル人
言       語
ベンガル語
宗       教
イスラム・ヒンドゥー・仏教・キリスト教
インド亜大陸の東端に位置する水と緑の国である。ガンジス,ブラフマプトラ,メグナといった大河川の形成するデルタ地帯に広がるバングラデシュは,雨季にはその国土の大部分が水没する。しかし同時に洪水が運んでくる肥沃な土壌は農産物の豊かな産出を約束し,収穫時には国歌、タゴール作詞・作曲)に歌われるように「黄金のベンガル」が出現する。ムガル帝国時代にはインドの穀倉と称せられた緑豊かな国柄である。ところが,現在バングラデシュは1人当り国内生産高は270ドル(1999年度)で,世界の最貧国の一つに数えられている。1971年多くの犠牲を払って独立を達成してから20年余り,経済状況は多くの困難を抱え,政治的にも安定しているとはいいがたい。国民は狭い国土(北海道の約2倍)にひしめきあいながら,困難な生活を送ることを強いられている。

ミャンマー連邦
面       積
67万8300km2
人       口
5322万人
首       都
ヤンゴン
一人当りのGNP
462ドル
通       貨
ビルマ族シ・ャン族・カイン族
民       族
ビルマ族シ・ャン族・カイン族
言       語
ビルマ語・カイン語・
宗       教
小乗仏教・キリスト・イスラム・ヒンドゥー・民族宗教
ミャンマーは多民族国家である。総人口の70%近くが平地に住むビルマ族で,残りは山地に住むさまざまな少数民族が25%,インド人,華僑などの外来アジア人が5%ほどいる。ビルマ土着の民族は人類学的にはすべてモンゴロイドであるが,言語系統的には,チベット・ビルマ語派,タイ諸語,アウストロアジア語族,アウストロネシア語族の四つに分かれる。イラワジ川流域の平地に住み,チベット・ビルマ語系の言語を話すビルマ族は,9世紀の中ごろ,北方から移動してきたとみられる。同じチベット・ビルマ語系の民族でも,カチン族は中国国境沿いのカチン州に,チン族はインド国境に接したチン州に住んでいる。タイ諸語系の民族のうち最も人口が多いシャン族は,タイ,ラオスと国境を接したシャン州に住んでいる。カレン族はサルウィン川流域のカヤー,カレン両州とイラワジ・デルタに多い。アウストロアジア語系のモン族はサルウィン川下流域のモン州に,パラウン族はシャン州北部にそれぞれ住んでいる。〈海のジプシー〉と呼ばれるサロン族はアウストロネシア語系の民族で,南端の島嶼(とうしよ)を中心に海上漂泊の生活をしている。仏教国で全人口の85%までが仏教を信仰し,なかでもビルマ,モン,シャンの3民族は100%近くが仏教徒である。このほか,山地少数民族に多いアニミズム(5%),インド系住民によるイスラムとヒンドゥー教(各4%),カレン,カチン,チンなどの山地民の間に広まっているキリスト教(2%)などがある。ビルマの仏教は,スリランカ,タイ,カンボジアなどの仏教同様に南方上座部仏教で,前3世紀の初めごろ,モン族の地ラーマニャデーサに伝えられたのが最初だとされる。その後パガン朝の興隆とともに全土に普及し,15世紀後半にはスリランカの大寺派の授戒様式が伝えられて今日のビルマ上座部仏教の基礎となった。パガン時代には国王や王族,貴族による仏塔,寺院の建立が盛んに行われたが,そうした建塔思想はその後も人々の間に強く根を張っており,今日でも白い仏塔が全国いたるところで見られる。またビルマ人の社会では,男子は一生に一度は出家得度して修行するのが不文律となっている。10万人を超す比丘とそれに数倍する沙弥とで成る出家集団は,広範な在家信者の存在に支えられている。

スリランカ民主社会主義共和国
面       積
6万4454km2
人       口
2063万人
首       都
スリッジャヤワルデネプラ・コッテ
一人当りのGNP
2399ドル
通       貨
スリランカ・ルピー
民       族
シンハラ・タミル・ムーア人
言       語
シンハラ・タミル語
宗       教
仏教・ヒンドゥー・キリスト、イスラム教
先住民族はベッダ人であるが,今日では1000名弱の人口に減少し,固有のベッダ語もしだいに失われつつあるとみられている。総人口の約74%を占めるシンハラ人が多数民族であり,低地シンハラ人と山地シンハラ人とに区分され,それぞれ適用される身分法が異なる。1956年以降シンハラ語が公用語とされている。少数民族のうちで最大のものは,タミル人であり,総人口の18.2%を占める。このうち12.7%のスリランカ・タミル人は,シンハラ人同様に古くから定住していたが,5.5%のインド・タミル人は英領時代にプランテーション労働者として来島し,スリランカとインドの両国政府から市民権を拒否されている。マラッカラ人と呼ばれるイスラム教徒の住民が約7.1%で東部および南西部の沿海地方に住み,タミル人同様タミル語を母語としている。タミル語は1978年に国語の地位を与えられた。このほか,マレー語を母語とするマレー人,英語を母語とするバーガー人が,それぞれ約0.3%ずつの人口比率を占める少数民族である。スリランカの国旗には剣を手にしたライオンが描かれている。最初のシンハラ王がライオンの孫であるという建国説話にちなんでいる。現存する最古の史書《ディーパバンサ(島史)》が生硬なパーリ語で編纂されたのは,3世紀中葉であり,日本の《古事記》より古い。ブラーフミー文字による古代シンハラ語の刻文は,さらに古く前3世紀にまでさかのぼることができる。インドの西海岸から700人の部下とともに漂着したビジャヤ Vijayaが,先住民族を征服し,シンハラ王朝を建てたのは,前483年と伝えられている。南インドのマドゥライから700名の女性を招き,生まれた子孫が今日のシンハラ人の出自であると信じられている。しかし,タミル人学者の間では,ポーク海峡をはさむインドとスリランカの沿岸地方の双方を領域とする海峡国家が,このころ成立したという説も有力である。前3世紀中葉に仏教が伝えられ,王をはじめとする有力者を帰依させた。このとき以来,仏教はこの島で最も勢力のある宗教でありつづけ,東南アジアで広く行われている上座部仏教の源流となった。

 モルディブ共和国
面       積
298km2
人       口
31.9万人
首       都
マレ
一人当りのGNP
5983ドル
通       貨
ルフィア
民       族
シンハラ人・ドラヴィダ・アラブの混血
言       語
ディベヒ語
宗       教
イスラム教スンニ派
住民はスリランカのシンハラ人,アラブ,ドラビダ人などの混血で,言語はディベヒ語であるが,交易の必要上,シンハラ語,マラヤーラム語,タミル語,ウルドゥー語などのインド系諸語を話す人も少なくない。ディベヒ語の祖語は古代シンハラ語であるとみられているが,18世紀にターナという固有の字母がつくられ,広く用いられるようになった。紀元前から,スリランカおよびインド南部から移住民が来島し,定住するようになったと伝えられているが,具体的な史実は知られていない。12世紀にイスラム化が進展するまでは仏教文化の影響下にあったらしく,いくつかの島にスリランカと共通する古代の寺院建築の遺構が存在する。東西の海上交通の要路に位置するため,イブン・バットゥータをはじめ多くの旅行者によって島の生活が報告されている。しかし,1558‐73年のポルトガルによる支配を除いて,直接的な外国の統治下に置かれたことはなく,17世紀にはスリランカを領有していたオランダ東インド会社,18世紀末(正式の協約は1887年)からはイギリスの保護国として,間接的な支配をうけていた。オランダ人やイギリス人の行政官は派遣されず,島民の首長であるスルタンによる統治が行われていた。 

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