岡田 さち代
学びと感動のアメリカ公演
2度目のアメリカ公演を終えて1カ月が過ぎた。2007年のアメリカ公演の時、「米国で暮らすインドの方々の前で」「7000人の観客の前で」「こんな貴重な経験ができるなんて」と思った。そして3年後の今回、また再びさらに貴重な経験をすることとなり、前回とは違う、また新たな感動を得ることもできた。私にとってアメリカ公演は前回も今回も「学びと感動」の多いツアーだった。
今回の公演で一番印象に残っているのは、終盤のフォークでのみんなの笑顔だった。「ここは元気に笑って踊る」という強い気持ちの入った、みんなの極上の笑顔…とてもキラキラと輝いていた。思い出すとなぜか懐かしさと切なさで胸が熱くなる。一年間の準備期間の中で、この公演への心構えや主催側の期待も、私なりに捉えていった。
公演に向けてシュヴァ先生が創り出し、表現しようとする美しい踊り、その難しさを徐々に痛感するようになる。できない自分の未熟さや不甲斐なさと、(自己管理の甘さからの)集中力不足…そんな劣等感いっぱいの自分と付き合いながら、とにかく練習を続けて7月を迎えた。本番ではミスが多く悔やまれる点も多々あるでも、これが「今の自分」と、しっかり見据えて今後に生かしてゆきたい。
インド舞踊との出会い、シュヴァ先生との出会いにより、貴重な経験と普段感じることのできない感動を得ることができた。今回のさまざまな経験を、踊りにおいても日常においても、今後につなげていきたい。このような貴重な経験が得られたことに、心より感謝している。
アンナ ラウラ シュッカ
忘れえぬ経験
1年の特別練習期間を経て、私たちメンバーはアトランティック・シティーに無事到着することができました。
新しい楽曲とステップを覚える喜び、温かくも厳しい先生の叱責、挫折、そして再挑戦─こうしてレンガを1つ1つ積み上げるようにしてできた道が、「ボンゴションメロン2010」の舞台へと続いていったのです。その道のりは長いようでも短いようでもありました。私にとって2回目となるこの度の海外公演には、先生以外にも国際的に名高いベンガルのアーティストたちが集まっており、それに参加させていただくことはまさに夢のような体験で、その喜びは言葉ではとても言い表せません。
特別な意匠を凝らされた舞台には少々とまどいましたが、舞台裏の落ち着いた雰囲気と観客の温かい眼差しのおかげですぐに慣れることができました。そして何より、日本でもリハーサルが十分だったことが私たちに自信を与えてくれたのだと思います。公演中いくつかミスはしたかもしれません。それでも、ともあれ皆が自分の持てる限りの力を十分に出せたと思います。実は今回、私自身は舞台に上がる前の気持ちをあまりよく覚えていません。覚えていることはただ、公演中には自分を忘れ、グループダンスを構成する有機的な要素の1つになれたように感じたことだけです。舞台上に「私」はなく、舞踊という1つの大きな流れがあるだけでした。
舞台以外の諸事も全て良い思い出です。日米間の航路は長く大変でしたが、メンバーは皆、常に元気に溢れていましたし、滞在先の食事等も楽しむことができました。常に立食式で給された食事会では、先生はじめ多くのアーティストたちが親睦を深め合っていたのが深く印象に残っています。
このたびの公演を通して、さまざまな人と出会い、新たな友情を育むこともできました。新たな人生のエピソードの1つとして、ダンスはもちろんのこと、私の人間としての成長を支えてくださった皆様に心から感謝いたします。Grazie di cuore!
市川 ゆみか
今回のアメリカ公演
今回のアメリカ公演は前回のインド公演よりも日程が短いショートバージョンのスケジュールでしたが、色々なものがギュッと凝縮されたような、なかなか濃い一週間だったように思います。緊張と不安、でも反対に心が震えるような感動! などなど。飛行機や、移動のバスで大丈夫か!? と思うようなハプニングがあったり…。今思えば移動に関するハプニングが度々起こったような…?
当時は、なんだか幸先悪いのかしら? どうしよう! と不安一杯だったのが懐かしいくらい、今は思い出すと少し「フフッ」と笑ってしまう出来事となりました。
会場となったコンベンションセンターは綺麗で近代的で、周りには高級なホテルが立ち並び、たくさんのホールがあってとてもびっくりしました。このようなベンガルの大きな祭典がアメリカで行われているのを知らなかったので、その規模の大きさに度肝を抜かれてしまいました。
インドに限らず、世界的にも有名な方々が大勢参加されて、しかもそれが3日間も華々しく行われるとあっては、こんなすごい中で踊るのか! という私の緊張はMAXでした。でも限られた時間の中で見た、色んな方々のパフォーマンスはどれも素晴らしくて、すっかり楽しみ尽くしました。 本番の舞台では、ステージの段差に思わず悪戦苦闘し、もっともっとリハーサルがしたい!! と思いましたが、あえなく時間が終了。不安要素一杯の中、本番を迎えました。失敗は許されないぞと心臓はバクバクで音楽が始まりました。でも意外なことに始まって踊りだすと自分でも不思議なくらい落ち着いてきて(緊張も少しは残っていますが)、気にしたら絶対失敗しちゃう! ここは笑顔で楽しく踊れば、きっと感動が伝わるはず!! と自然と思うことが?? 出来ました。感情が抑えきれなくて、涙が出そうになったくらいです。以前までは、感情を込めて演技することが、慣れてないから恥ずかしいなぁなんて思っていましたが、これも以前から比べると少しは場慣れして成長が出来ているのかなぁ。まだまだダンスを始めて日の浅い私に、大きな舞台に立つ機会を与えてくださって、少しずつでも成長できるきっかけになっているのは、感謝してもしきれません。でももっともっと精神的にも、もちろん踊りも成長していきたいです。いつか自信満々でステージに立って見る人に感動と、メッセージを伝えられたら…。そんな夢に向かって日々練習!! していきたいです。
前回のインド公演でも、今回の公演でも、グループのメンバーの皆さんにはお世話になりました。みんなで励ましあい、協力し合い、助け合っていける仲間がいるのは幸せなことです。つらいなと思うときもメンバーに支えてもらえたので頑張れました。今回も、たくさんの人たちの協力で、公演を終えることができました。私たちの為に協力してくださったアルティーさんと彼氏さん(ちょっとだけ挨拶できました☆)、照明の方や司会の方、たくさんのスタッフの方達。ありがとうございます! そして私たちにいつも心から指導してくださるシュヴァ先生、公演お疲れ様でした。ありがとうございました!
木下 浩子
アメリカ公演に参加して
今回のアメリカ公演は、2007年デトロイト公演以来2度目のアメリカ公演でした。
前回の公演は準備期間も短く、無我夢中、大興奮の中であっという間に終わってしまったのですが、今回は1年前から毎週のように豊田へ通い、何度も合同練習をしました。
前回の公演が評価されて、今回はクロージングセレモニーを我々インディアンクラシカルトゥループが務めることになりました。クロージングセレモニーで踊ったのがシュヴァ先生が世界平和を願って創った「コラプション」です。コラプションでは日本の花嫁になったり、鬼になったり、未亡人になったり、娘になったり、色んな役柄で踊りました。日本の花嫁の衣裳は、母が実際に自分の結婚式で身に付けた内掛けを着ました。とても重くてアメリカへ持っていくのは大変でしたが、母の花嫁衣装を着て舞台に立つことは感慨深いものがありました。鬼は、鬼のお面に電飾と荷造り用の紐を髪の毛のように付けたものを着用し、手には神社等でみかける御幣という白い紙を付けた棒を持って踊りました。お面を付けると、顔が熱くなって汗が滝のように流れます。しかも舞台が暗いので、前や横が見えなくて、踊るのに本当に苦労しました。練習のたびに先生や仲間と意見を出し合って、お面に色んな工夫をして、何とか本番を迎えました。
本番では、先生が私たちのお面の電飾のスイッチを入れてくれたり、舞台袖から力強い掛け声をかけてくれました。それなのに、私は大きな失敗をしてしまいました。リズムをとれず、しかも後ろ向きに下がるところでふらついて「バンザイ」を私だけしてしまったのです。公演の様子をDVDで見ると、私のミスのせいで台無しになっています。何のために1年も練習してきたのかと情けなく、先生や仲間に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。私は先生の着替えのお手伝いをしたのですが、これも何度も練習したにも関わらず、本番はうまくいかず迷惑をかけてしまいました。本当に申し訳ありません。
アメリカ公演が終わって1カ月ちょっとたちましたが、本当に反省点ばかりです。踊りや手伝いだけでなく、団体行動の中での自分の役割とか行動なども考えさせられました。その時にはわからなくて、後で周りの人たちへの気配りに欠けていたことに気付かされ、自分の未熟な部分が身にしみてわかりました。また、仲間のありがたさにも気付かされました。アメリカ滞在中、私は熱を出してしまって1日休んだのですが、ホテルで休んでいると、仲間が薬をくれたり、冷えピタシートをくれたりビタミンやのどスプレーをくれたりしました。優しい心遣いに涙がでてきました。
またルームメートとはふだんできないような話がたくさんできて良い関係になり、気持ちよく過ごすことができました。病気の時、朝ごはんが食べれなかった私にヨーグルトを持ってきてくれて、本当に嬉しかったです。ヨーグルトが食べたいと思っていただけに、さすがルームメート、以心伝心だと驚きました。アメリカ公演では本当にみんなに助けられました。そして自分も周りの人たちに気配りができて、助けられるような人間になりたいと思っています。
御手洗 蘭子
BANGA SAMMELAN 2010 を終えて
この公演の為に半年前から合同練習を始め、いざ本番とアメリカへ、一週間滞在し日本へ帰国。
あっという間に月日が経ち、何か夢でも見ていたかの様な変な気持ちでアメリカ公演を回想しています。
今回の公演は、前回のインド公演とまた違う緊張感で日々練習をしていました。なかなかきちんと踊れない私を励まし、引っぱって行って下さったクラスの方々、皆さんの頑張る姿を見ながら公演に向けてモチベーションを上げていきました。また、今までは公演で使う小道具など、準備して下さった物を使用していただけだったのですが、今回は自分が出る踊りの小道具を皆さんと作り、結束力が益々高まった様にも思いました。余計に、クラスの方々への感謝という気持ちでいっぱいになりました。
最後の合同練習を終え、やるだけの事はした、後は本番で失敗しないようにと多少の不安を抱えながらアメリカに経ちました。
本番で使用する舞台はフラットではなく、いくつもの段になっているのは行く前から教えて頂いていたのですが、いざリハーサルで立ち位置など確認していくうちに、間違えない様にしなければと不安が湧いてきてしまいました。立ち位置ばかり気にしていたのでいざ本番という時、ちょっとした間違いがズルズルと尾を引いてしまい、あれだけ練習して来たのに、その成果が肝心要の本番に活かせなかった事に落ち込んでしまいました。
「私って、やっぱり本番に弱い人間なんだ」「もっと精神面を鍛えねば」と思いました。
清水 あけみ
アメリカ公演に娘も同行
今回のアメリカ公演のお話は1年前にありました。創作舞踊とコラプションで2日間に亘って行われ、コラプションはクロージングセレモニーに決定というお話でした。両方ともインドで公演しておりまあ大丈夫だろう!
初めは月1回の合同練習、3月からは月4回の練習となります、というお話でした。
私には一人娘があり、闘病中で2年前に手術をし、月に3回抗癌剤投与のため同行しており、公演をお受けして迷惑を掛けてしまうのではと娘に相談しました。
「行くに決まっとるじゃん〜、絶対に行きなよ、こんなチャンスはないよ!私なら大丈夫だからネ」という次第でお受けしました。
娘はシュヴァ先生の大フアンで私がトウループに入って10年間すべての舞台を観ており、公演後の打ち上げにも出席させて頂きメンバーの皆さんと同じように接していただいておりました。
昨年(2009)12月21日、腹痛にて救急搬送され、病院では笑顔を見せてくれましたが、その夜師走の街を駆け抜けるように旅立って逝きました。一番大切なものを失いました。先生、トウループの皆さんの温かいお気遣いで練習に参加させていただき、練習に打ち込むことで少しは悲しさを忘れることもできました。
コラプションは先生が一部手直しされ、6人で鬼の面を付けて踊る場面を作ってくださり、お面の眼と口に20ケの豆電球が点灯、視界が悪いのと熱さで息苦しいのとで練習時汗びしょり、6人がなかなか揃わず、わずか2〜3分の場面ですがめまいがすることがありました。着替え時間が短くそれに法被着用です。先生は気を使って下さり「清水さん大変そうですから ヤメますか?」6人で踊りたいので頑張ります。皆で励ましあって工夫し本番に備えました。
2日目創作舞踊、姫神の場面で客席から「ウオ〜」と歓声が上がり鳥肌が立ちました。
終演後お客様からわたしにも「すばらしい!」「よかった!」「 ビューテイフル!」明日の「コラプションは何時から?」と6名の方からお声を掛けられました。初めての経験です。
最終日のセレモニー「コラプション」、メイク、衣装もばっちり、準備完了、さあと気合を入れ テンションを高めたところで1時間30分遅れ〜再び、高めるのは大変でした。
ものすごい拍手で先生もホットされておりトウループの皆の笑顔がまぶしかったです。
近藤 かね子
アメリカ公演を終えて
アメリカで「Are you a Japanese
dancer?」と聞かれ、即座に「No、No」と答えてる私。
メンバーは皆ウットリするほど素晴らしい踊りができる中で、どう贔屓目にみてもうまくなく、時には足を引っ張ってしまう私が舞台に出たいと図々しく思ってしまうのは何故か? 胃の痛くなるような思いをしてまでも参加したいと思うのはどういうことなのか?
インドと日本の文化をテーマにした今回の舞台で見せ場の一つ、目本の「ナマハゲ」をイメージした面の踊りで本番2ヶ月前になってもできないでいる私を、先生は崖淵に立たせることで何とか皆に近づかせ、歩調を合わせることができるまでにしてくださった。インド国内のメディアからも大いに期待をかけられ、前回よりも、よりよい舞台を、という重圧。海外の舞台を実際に確認できない状態で、舞台装置の打ち合わせをしなければならないもどかしさの中。 切ってしまったほうがよほど楽なのに決して締めず見守って、背中を押して頑張る機会を与えてくがさる先生の姿勢に私は引かれ、続けてこれられていることが分かった。
自分のことで精一杯、心と心がぶつかり合ぅようなことはできるだけ避けたいと思うような人間関係ばかりの世の中,昨年夫を病気で亡くし、心の糸を引張る者がいなくなってしまった今、妥協を許さず、掛値なしでぶつかり合える先生。毎日の生活の中で薄氷を踏む思いをしながらも、お互いを助け(実はナマハゲで落ち込んでいる時にわざわざ、メンバーからとてもありがたいメールをもらい思わず涙!)認め合いながら1つの目的に向かってゆけるグループの存在が私の心の石杖になっている。今は先生の「近藤さん!」という叱咤激励に身震いがするほど元気が出ていることも改めて感じている。
もう1つ、身震いを感じるときがある。断髪、1年間公演のために伸ばし続けてきた髪の毛を床塵床屋でばっさりと切り落とすことで私の公演が終わる。再び髪が伸びてひょっとして舞台に出していただけるとしたらどんなステージが用意されているのか、切り落ちた髪の山を見ながらちょっぴり寂しく、しかし、小さな期待の芽が膨らんでいるのを感じている。
いいえ、まだ公演は終わっていない。ビデオを見ながらの反省会が控えていた。
終わりに。アメリカの会場には溢れんばかりのインドの人々がみな民涙民族衣装を身にまとい、食事はいつのときもカレー、どこに行ってもおもねることなく自国の誇りと意識を持ち続けるインドの方々に、日本人が今必要なことが見えたような気がした。素晴らしい人々に接する機会とぎりぎりまで頑張ることを教えてくださった先生、グループの皆さんに感謝です。 ナマシュカー
金浪 晴子
【古典と創作】
新入りのわたくし。アメリカで踊れる! という嬉しさがあったが、古典舞踊の基本ステップさえまだ途中。公演は創作のみのため練習は創作中心。古典舞踊を習いに来たのにこれで良かったのかと、ふと思う。そんな私を察したのか先生から、古典を習いに来たのになぜ創作もするのかというお話をして頂く。自分なりの解釈で、基本ステップからなる古典の完成された踊りも大事だが、一から作っていく未完成な踊りの創作も意味があると。んー。まだまだ自分も未熟だなぁ。
【合同練習】
水曜・金曜クラスの方々と、あまり話した事は無くよそよそしい時。グループでの踊りは気心知れないと上手くいかないはずだと、仲良くして頂けるよう皆さんにじわりじわりと寄ってゆく。皆さんステキな方々。可愛がってくれる。よしっ、自分はお笑い担当・盛り上げ役でいこうと決める。ステージでの練習。見ているお客さんと視線を合わす行動に、先生から安っぽくみえるので止めましょうとのこと。楽しんでもらえるようにとしていた事が、庶民的なものにしてしまっていたとは…。胸にチクリときたが、高いところを目指していることを改めて知る。
【公演】
自分にとってグループでの踊りは揃えるという難しさはあるが、それ以上に心強く冷静になれるという良さがある。まだ綺麗に踊る事は出来ないので、とにかく元気に! をモットーに、落ち着いているので大丈夫、とにかくいつも通りに! と自分に言い聞かせ、アルカイックスマイルになるので、とにかく笑う時は歯を見せる! を心がける。
【今回一番嬉しかった事】
公演終了後、着替えも済み、みんなで客席を横切った時に、お客さんから自然と出た拍手!
鈴木 文子
再びの、2010NABC
●朝の寝室で……
その日は今年の中でも忘れられない一日となった。いつものように、朝のトイレに起きようとしたとき。腰に激痛が走った。「これは、まずいなあ…少し休んでいたら、大丈夫かな……」とりあえず、部屋に戻って、横になって、しばらくウトウトしてみた。でも、激痛は引く気配がない。車の運転はとてもできそうにない。夫に子どもを託す。2階の寝室から下に降りようとするが、腰が痛いし、動かすと足がつったようになって、降りることができない……。「ああ、どうしよう……」。痛みを我慢しながら、再び寝室で横になってみる。「もしかしたら、数か月、仕事もインド舞踊も、全てキャンセルしなければいけないかもしれない……。アメリカ行きも断らないといけないかも…」最悪の事態が頭をよぎる。胸が苦しくなる。整形外科受診の結果は「椎間板ヘルニアの疑いあり」。後日のMRI検査で確定した。私の踊りは非常に拙いものの、自主公演や海外公演に幾つものインド舞踊の公演に出させていただいた。長い長い練習の日々と、本番の一瞬。その後に残る、満足感。他の仲間とのとても濃い、日々。そうしたものが楽しくて、インド舞踊を続けてきた。仕事や育児など、その都度「大丈夫かな?」と思う瞬間はあったものの、家族や周りの人に助けてもらい、何とかやりとおすことができてきていた。が、今回のアメリカ公演ほど、「踊っていていいのだろうか?」「最後まで行き通せるだろうか?」と思われた公演は、他にはなかった。その理由の一つが、ヘルニア。そしてもう一つの理由が、父の病気だった。
●「本番で踊る」を目標に
アメリカNABCへの参加は、すでに昨年の夏にはほぼ、決まっていた。「今回は主催者側から『是非!』と言われています。前に行った時とは状況が違います。お客さんは、私たちの踊りを楽しみに、観に来るのです…」シュヴァ先生は事あるごとにこう語り、私たちの気を引き締めた。2007年にNABCに参加したことがきっかけでのリピート公演であり、より質の高い舞台が要求されている、という。今回の構成は「ヌリッタンジャリ」と「コラプション」という二つの演目。いずれもウダイシャンカールスタイルの創作舞踊である。ヌリッタンジャリでは、映画・ガンジーのオープニングに使われた「ヴァイシュナバ・ジャナト」や世界平和を謳った「クリシュナニ ベガネ バロ」、日本民謡を織り交ぜた「ソーラン節」など6曲。インドの文化と日本の文化の融合が見事に図られた、メリハリの利いたプログラムである。そしてコラプション。戦争に翻弄される女性の運命と哀しみ、その希望を描いた作品であり、シュヴァ先生の「平和」への願いを込めた、非常にメッセージ性の高い舞踊劇である。アメリカでヴァイシュナバ・ジャナトやクリシュナニ ベガネ バロとコラプションを演じる。この意味はとてつもなく大きい、と私は思った。パレスチナにしろ、イラクにしろ、アフガニスタンにしろ、アメリカは第二次大戦以降の世界紛争の当事者で有り続けている。観客はベンガルにルーツを持つ人とはいえ、今はアメリカに居を置いている。これらを観た後、どんな感情が湧きおこってくるのだろうか? 「9・11」後に「被害者となる」経験を経たアメリカに住む人たちが、この作品をどう観るのかは、個人的に非常に興味深いところだと思っていた。こんな思いを抱える一方で、なかなか治らない腰痛、父の病気、さらにこの時期に集中する仕事の山、そして育児もあり、練習に向かう足取りはいつも以上に重いものになってしまっていた。腰痛はやがて下肢痛と痺れを伴う痛みへと広がっていき、しばらく歩くとすぐに動けなくなる、間欠破行へと進展した。悲観的になろうとすると、どこまでも行きそうな気分だった。軽快に踊るとか、しなやかに踊るとか、いつも達成すべき課題があるが、今回はともかく最低限、「本番で踊る」という目標を掲げることにした。週3回通いつづけた接骨院の治療台でしばしば考えたのは、「ケガをしたアスリートや、ダンサーたち」のことだ。スポーツやダンスなど、体を使うプロのほとんどが、ケガに見舞われる。例えば私と同い年の元バレリーナの草刈民代。足をケガして以来、くるぶしに巻いたテーピングの後は何十メートルにも及ぶという。体を酷使すれば、どうしても無理がかかる。ケガで試合や舞台に立てなくなることも少ないという。それとどううまく付き合い、飼いならしながら仕事を続けていくのか。医学的なケアと共に、精神的な強さがものすごく、求められると思う。とりわけ「できない間」をどう凌いでいくのかが、大切になると思う。世の中には「どんなに辛いことがあっても、一言も発せずに堪える」という人の話が聞かれる。シュヴァ先生も、そのお一人であり、本当に辛そうな時こそ、「辛い」ということは、全くおっしゃらない。強いな、と思う。だが、精神力の弱い私は、とてもそんな真似はできない。今回の練習でも、「痛い」とか「辛い」ということを、幾人ものメンバーに聞いてもらった。聞いてもらうだけで、どこか、痛みが和らぐような気がした。温かい人たちだ。本当にありがたかった。
●珍「体験」
「ケガ」は私の今回のアメリカツアーの一つのキーワードだ。ヘルニアもさることながら、アメリカで非常に珍しく「貴重」な体験をした。舞台を踊るのは、ニュージャージー州のアトランティックシティ。ニューヨークから近い東海岸の地だ。初めてミス・アメリカを開催し、カジノが盛んな地という。いわばアメリカのリゾート、というところである。色々あった旅行だが、さすがに出発まじかになると、ワクワクしてくるものだ。グーグルで調べたり、ガイドブックを観たりと、「その気」が湧いてくる。今回はデルタ航空。前回の経験から、アメリカの航空会社にはあまり期待はしていない。ともかく、安全に運んでくれることだけを、望んでいた。たまたま出会ったスチュアートは日系3世のアメリカ人の人だった。父祖は鹿児島出身で、ハワイに移民した、という。自らは旅行代理店で営業職を務め、日本との関係も深かったが、転職して今はスチュアートをやっている、という。お世辞にも細やかとはいいがたい所作ながら、ユーモアと大きな身ぶり手ぶりや話好きの様子からはユニークな人柄が感じられた。空港が見えてきた。一度到着を試みるも、前方に飛行機がいるとかで、再び上昇して着陸をやり直し。いつもの「ドスン!」という音で「やれやれ」と思ったのもつかの間、座席の横から、なぜか食事運搬用のカートが動いてきて、私の左足を直撃した。ものすごい激痛が走った…というわけではなかった。革靴が私の脚を守ってくれたようだ。しかし、甲のところが赤く腫れている。最近、年のせいか、痛みが後から出てくることもある。訴訟社会、アメリカだ。ここで自分の状況をきちんと訴えておかないと、後でもし重大な状況になったときに、大変になるかもしれない…・。ということで、日本語の通訳ができる人を頼み、今後の処置をお願いすることにした。通訳の人は、「事故処理専門」の会社の人。コーディネーターはまた別会社の人である。日本ならば所属会社の総務課などが担当すると思われるが、全て分業のアメリカである。大げさだとは思ったが、車椅子を用意してもらい、飛行機の外に出る。通訳の人に状況を話すと、ともかく入国審査とは別の場所へ、・・・ということで、車椅子のまま、空港スタッフが押して、ぐるぐると空港内を回される。表示もなく、人はたくさんいるが、英語は片言しかできず、どこに連れて行かれるいかもわからず…・。スタッフはガンガン進むし、正直、不安になってきた。事態が事態なので、へんなところへ連れていかれるとも思えないが、誤って、全く別の場所に連れていかれたら、どうしよう…。自分が外国人であること、言葉ができない頼りなさを実感した瞬間だ。10分ぐらいだったろうか。たどりついたのは、イミグレーション。トゥループの仲間、通訳の人と子とコーディネーターの人もいて、ほっとした。後から聞いたところによると、シュヴァ先生たちは、私たちと別れた後、事故の処理を巡って、大変だったと言う。「事故の処置をめぐっては、今すぐに救急車で治療用の施設に行くしかない」こんな条件を提示された。私たちはすぐにアトランティックシティに向かわなければいけない。ただでさえ、待たされているのに…。「それはできない。後から病院に行った後の全額を出してほしい。日本でもし行ったとしても」という回答をした。通訳の人は尽力してくれ、「最初、立て替えておいて、後で請求を」ということで、こちらの条件は通った。しかし救急病院にかかったとして、通院費は1000ドル。10万円かかるという。アメリカの高額医療費の現実を観た瞬間だ。通訳、コーディネーターと会社とのやりとりで、待つこと1時間。最後に「おわびに」ということで、デルタ空港で使えるバウチャーチケットをもらったのだが、それの手配に30分。メンバーをすっかり待たせてしまった。しかも、バウチャーのあて名は「YUMI ICHIKAWA」。笑ってしまった。先方にはこちらの名前も住所も、英語、日本語で知らせてあったけれども。あくまでも「アバウトな国」なのだ。
●NABCとアメリカのインドの人びと
NABC=North America Bengali Conference とは、カナダ、アメリカ合衆国などに住むインドおよびバングラディッシュのベンガル地方出身の人びとの、いわば「民族の祭典」である。毎年一回、北米の各地方に住むベンガル人が主催して、舞踊や歌、音楽、演劇若者のためのワークショップなど、様々な催しものを行う。ベンガル語ではボンゴ ションメロン(BANGA SAMMERANN)だ。「ここはまるで、コルカタだ…」前回、デトロイトの公演に参加した時には、自分たちがアメリカにいることを全く意識できなかった。女性はサリーにサルワルカミーズ、男性はクルタ、行き交う言葉もベンガリ―語で、とにかく「ものすごい規模でベンガルから移り住んだ人たちがいる」ということに、驚かされたものだ。だが今回はもう少し冷静に、なぜ、このような催し物が可能になるのか、彼らがどのような気持ちで、この場に参加しているのか、そして私たちはなぜ、この祭典に日本人でありながら参加するのか、そんなことを考え続けていた。すでに今年で30回目を迎えるNABCは、アトランティックシティのコンベンションセンターという、地域随一のホールを貸し切って行われた。とてつもなく、規模も大きく、質も高い。しかもその宿泊ホテルはシェラトンだ。「ボンゴションメロンに来る人たちと、私とはいわば、同じ気持ちなのですよね。ベンガル出身で、今は母国には住んでいない。とても懐かしい、そんな気持ちがするのです」シュヴァ先生は、時折、ボンゴションメロンについて私たちにこう語る。例えば、日本からアメリカやブラジルに移民した人々。彼らも年に一回「日本祭り」と称して、歌や芸能で民族の祭典を行うという。日本語で言う、「郷愁の念」だろう。祖国を離れた人たちが国に寄せる、限りなく懐かしく、いとおしい感情が、このボンゴションメロンの底流にも流れている。 先生はインドでのママタ・シャンカール舞踊団の団員だったころ、このボンゴションメロンに参加した経験もあり、この祭典には特別の思い入れを持っておられる。がとりわけ、考えさせられたのが、アメリカにおけるインド人コミュニティの規模と社会的ポジションである。移民の国・アメリカの中で今、ひときわ活躍しているのがインド人移民であり、その規模は数十万人に及ぶという。知的レベルが非常に高く、高学歴でアメリカをリードするインド人が、自然科学、社会科学の分野で多数、活躍している。例えばその一人がアジア人として初めてノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン氏である。セン氏はベンガル出身。きっとこのボンゴションメロンを観たこともあるに違いない。ボンゴションメロンはこうしたバックボーンの上に成り立っているのである。同様な祭典は、タミル人など複数のコミュニティで行われているという。世界の移民の在り方を見ると、日系人も含めてその多くがいわゆる「出稼ぎ」「就労」を目的とするものであり、移民先での社会的位置づけやその生活ぶりは厳しく、社会的な適応も楽ではないとされている。だが、少なくとも、ここ、北米に暮らすインドの人びとは違う。アメリカ社会で確固たる地位を築き、メインストリームを歩いているのである。それを可能にしているのが「高い教育水準」、「英語力」なのだろう。インドの人びとの場合、本国の発展に伴って、インドに帰国して活躍するケースの人も多いという。ボンゴションメロンの会場にも「コルカタのマンションで第2の人生を!」などと記されたマンション広告があった。「頭脳流出」ではなく「頭脳還流」なのである。BRICSの一端として、21世紀の世界経済をリードするインドの、まさにその勢いが感じ取られた。
●細部に神は宿る
音楽でもインド舞踊でも、公演と名のつくものはおそらく、どれも共通するものではないかと思うが、一たび「スタート」してしまえば、時間は有無を言わさずに残酷なほど的確に、着実に過ぎていく。とにかく、淡々と舞台の上でやるべきことをこなし、今、持っているものを着実に演じきっていくほかはない。その中身がどれほど濃いものになっていくのかは、本番の前に積み重ねられてきた時間と修練の度合いにかけられているが、それでもいつも舞台は一期一会で、同じ舞台は一つもない、と感じる。公演を行う演じ手の人びとが、どれだけの積み上げを行ってきたのかは、観客には見えにくい部分であろう。どんなに努力しても、時間を費やしても、思いが深くても、舞台の上で観客に示すことができるのは、ほんの一瞬でしかなく、しかも観客は「美しいか美しくないか」「心が動くか動かないか」「面白いか面白くないか」など、個々の基準に従って評価してしまう。観客と演じ手とは舞台を通じて深いコミュニケーションがあるのだけれども、絶対に分かりえない一線もまた、存在することは間違いない。それでも私は観客側に立つだけよりも演じ手側にいることの方に、やはり魅力を感じてしまう。公演が終わってみて、NABCまでたどり着いた過程を振り返ってみると、そこにはかけがえのない時が、あったように思う。NABCの舞台袖には、「着替えボックス」とでもいうべき、真っ暗な小さい部屋が幾つか、置いてあった。机が二つと椅子が幾つか、まん中には鏡。いかにも急ごしらえの感じがするこの「楽屋」の中で出演者たちは自らの出番に向けて、ひたすら、黙々と準備に入る。舞台からはコルカタでも著名な女性アーティストが、タゴールの歌を高らかに歌い上げる声が聞こえてくる。その中には先生が亡き渡辺さんを偲んで作られた、「アグネル ポロ シュモニ」もあり、何とも言えない気持ちになった。本番前の衣装室には、独特の雰囲気がある。自分の位置を決めて荷物を置くと、一言も発しないままに、黙々と準備に取りかかる。まずメイクから入る人、着替えてからメイクをする人、個々のやり方があるが、張り詰めた空気がその場を支配し相乗効果となって本番前の緊張感が高まっていく。その中で私が心に残っている「時」の一つは、本番前の暗い楽屋の中、シュヴァ先生手づから、私たちのアイメイクをして下さった瞬間だ。先生はいつも、衣装、メイク、小道具、全てのものに細心の注意を払うように促す。だが、今回の公演では先生自らが、私たちのメイクをチェックして下さるという。「いつものアイメイクとは違うメイクで、びしっと、行きます。この一言に、先生がこの舞台に賭ける意気込みを強く感じ取った。そして舞台に向かう直前の「ごあいさつ」。先生と向き合い、足に触れ、舞台の成功を祈る。この一瞬は、とても静かで清々しい時である。アナウンサーの声と共に、真っ暗な舞台に上り、整列した。頭の上でまっすぐに手を合わせ、オープニングを待つ。「ヴァイシュナヴァ ジャナト」の始まりである。映画・『ガンジー』のオープニングで使われていたこの曲には、何か舞台を浄化していくような力がある。ガンジーの「アヒンサー」の精神をシュヴァ先生の振付がさらに、昇華しているように感じる。単に舞台に立っているだけではなく、ガンジーの想いを伝えたい、そんな気持ちにさせられる。再び舞台が真っ暗になる。―ここから後はエンディングに向けての、私たちの短くも長い「戦争」が始まる。3月の合同練習から、私たちは毎回、「早替え」の練習を繰り返してきた。アナウンスが終わるまでのわずか数分の間に、素早く衣装を着替えて何事も無かったような表情で、舞台に躍り出なければならない。サルワルカミーズから浴衣へ、浴衣からサリーへ、サリーからまた浴衣へ―。しまいにはシュヴァ先生がタイムウォッチを片手に、「速く速く!」と叫ぶ。踊るのと同じぐらい、エネルギーを要するのがこの着替えだ。着替えのヘルプに回る側には、ダンサーとの「息」が求められる。私がヘルプしたTさんは「髪飾りはここに、着物はここに」「まずは髪のここを外して、それから…」と最初からこちら側にわかりやすい指示を与えてくれて、とてもありがたかった。全ての着替えが終わって、ダンサーが舞台へと走りだす背中を見送ると、やれやれ送り出せた、と安堵する。「母親」になったような気分の一瞬である。どんなに周到に準備していても、思わぬアクシデントが起きるのも、また舞台だ。数日前のリハーサルの後。舞台の袖の片隅で、長い間、座り込んでひざを抱えこんでうずくまっている若いダンサーがいた。横には首から真っ二つにちぎれてしまった大きな魚の小道具が、立てかけてある。コルカタから来たダンサーだ。――せっかく作っただろうになあ。本番に出られるのだろうか――こちら側も胸が痛む。人ごとではない場面なのだ。「衣装も小道具も踊り」。シュヴァ先生がつくり上げる舞台の世界は、決して妥協しないという思想からできている。「細部に神は宿る」のである。そうした思想がメンバーからも感じられたのが、「コラプション」のエンディングだ。次回の舞台にさし障るかもしれないので詳しくは書けないが、「異形の神を!」とのシュヴァ先生の命に対し、メンバーは本を探し、材料となる竹を集め、髪を梳き、衣装を集めと、知恵を絞り、決して手間を惜しまなかった。「私はこの踊りに賭けているのよ!」メンバーの一人がこんなふうに語るのも聞いた。そんな日々が舞台でどう、表現され、昇華されたのかは、クロージングセレモニーを埋め尽くした観客の皆さんに聞いて回るほかはない。後からビデオを見ると、幾つもミスがあったことも確認でき、反省する日々でもある。その中で忘れられない場面がある。一つは、コラプションのエンディング。ダンサーが左右に分かれ、互いに見つめ合いながら掛け声をかける。それまでで一番、力強く、大きな声がこだました。みんなの気合いが、肌で感じられたのである。「ここまでやってきて、本当に良かったなあ」。この数ヶ月間で初めて「楽しさ」が味わえた瞬間だった。そしてもう一つは、舞台がはけた時。会場から通路を通って退出する途上、脇に座っていた何人もの観客の皆さんが、わざわざ私たちの腕を引きとめて、「Excellent!」「Good Job!」と口ぐちに声をかけてくれたことである。ともかく、何とか舞台を終えることはできたのである。
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一夜明けて7月12日の早朝。ホテルのロビーでバスを待つ私たちの横を、GパンにTシャツ姿のご夫婦が何組も通り過ぎた。昨日まではサリーやクルタ姿だった人びとが日常に帰っていく。何だか、とてもあっけらかんとしているようにも見え、寂しい気持ちもした。だがその後、いやいや、それが祭りの後のあるべき姿なのかもしれない、と思い直した。NABCに来ていた人びとは、しっかりとアメリカという日常に根づいた人たちなのである。NABCとは、様々な日常を超えるべく、自らのルーツと文化を確認し、それをパワーの源泉とさせて日常に戻っていくための、一つの装置なのだろう。私たちもあと一日も経てば、日本だ。まずは寂しい思いをさせた息子を、しっかりと抱きしめよう、と思った。
●改めて……
今回のツアーもまた、メンバーの皆さんに大変お世話になりました。やはり超人ぶりを発揮されておられたシュヴァ先生への感謝の念は言い尽せません。踊りや舞台だけではなく、宿での食事や移動での手続きなど、何から何まで本当にありがとうございました。そして、同室の御手洗さん。腰痛を抱えた私が、本番で舞台に立てたのは、まさに御手洗さんの毎晩のマッサージのおかげです。同じようにお疲れになっていたにも関わらず、実に絶妙な手技で、私の腰痛をほぐしてくださった御手洗さん、本当にありがとうございました!
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