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インド北東部,西ベンガル州の州都。 人口1102万(1991年)を形成する。 1772‐1912年には英領インドの主都であった。コロマンデル海岸ぞいに北上してきたヨーロッパ人にとって,ガンガー川デルタの西端にあるフグリ川は,ベンガルのなかで最短地点にあり,かつ同川水系を通じてガンガー平原の内陸地方への進出が容易であった。イギリス東インド会社がここに最初にやって来たのは,1686年であった。 フグリ川東岸にそう自然堤防上の現在のカルカッタの地には,当時北からスターヌティ (現在のハウラー橋北方)、カーリーカタ (現在のダルフージ広場周辺で現地名の語源),ゴービンドプル(現在のマイダン南部)の3農村集落があるのみであった。 1690年になってスターヌティでの商館設置に成功する。 1696年にはカーリーカタでウィリアム要塞の建設許可(1702完成), 1698年には前記の3村の購入許可を得た。 これがカルカッタの発端であった。 18世紀初めには,カーリーカタにはウィリアム要塞とその東の公園と教会を取り巻いてイギリス人の住宅地,その北に他のヨーロッパ人住宅地があり,ホワイトタウンとよばれた。一方スターヌティにはインド人の商人が,ゴービンドプルにはインド人の下層階級が住み,そこはブラックタウンとよばれた。 1756年のシラージ・ウッダウラーによるカルカッタ攻略,翌年のプラッシーの戦でのイギリスの勝利を契機に,カルカッタは〈ベンガルにおける商業根拠地〉から〈英領インドの支配拠点〉へと変貌し,現在の都市構造の基本ができ上がった。 1758年から15年をかけて星状形稜堡の壮大な新ウィリアム要塞が現在地に完成し,その北・東・南面には戦時に備えて広大なオープンスペースが設けられた。現在のマイダンである。 19世紀にはいってからは,マイダン周辺における政庁(1804),博物館(1814),市庁舎(1817),高等法院1872)などの諸公共建造物の建設,ウェリントン道路などの幹線道路の拡幅建設,ハウラー,シアルダーの鉄道ターミナル駅の建設,拡充整備がなされていく。 1947年の独立はカルカッタに大きな打撃を与えた。食料,ジュートの供給源であるガンガー川デルタの主要部を,印パ分離によって喪失し,そこから約70万人の難民が流入した。 インド博物館は,1814年創設のインド最古にして最大の規模を誇る多目的博物館であり,考古学,美術,人類学,地理学,産業(実用植物学),動物学の6部門より成る。考古部門はバールフットの欄楯をはじめとして先史から中世末期までの彫刻類や貨幣,美術部門は細密画,タンカ,工芸品,染織品などの代表作品を網羅する。ほかに貴重なサンスクリット写本を所蔵するアジア協会,カルカッタ大学付属のアシュトーシュ美術館,イギリス統治時代の各種資料を展示するビクトリア記念堂などがある。 |
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