[時代区分] 文献から知られるインド亜大陸の歴史は,アーリヤ人の来住をもって始まる。それ以後今日に至る約3500年のインドの歴史は,次の4時代に区分されることが多い。 (1)古代(ヒンドゥー時代) アーリヤ人の来住から13世紀初頭のイスラム教徒(ムスリム)の政権成立まで。 (2)中世(イスラム時代) 13世紀初頭からイギリスのインド支配が開始される18世紀半ばまで。 (3)近代(植民地時代) 18世紀半ばから1947年の独立まで。 (4)現代 独立以後。 以上の時代区分は,支配者の奉ずる宗教や支配民族の交代など政治的・宗教的な理由からなされたものであり,亜大陸の社会・経済の発達を示す区分とは必ずしも一致しない。 [インダス文明] インド亜大陸には洪積世の時代から人類が住み,各地に旧石器文化,新石器文化の遺跡を残している。今日の亜大陸に居住する諸民族のうち最も早くこの地に住みついたのは,中部・東部の丘陵地帯に分布するアウストロアジア系の民族である。その後,一説によると前3500年ころ,西方からドラビダ系の民族が到来し,しだいに亜大陸の奥深くまで居住域を広げていった。前2300年ころ,インダス川の流域を中心とする広大な地域に青銅器時代の都市文明(ハラッパー文化)が興り,前1700年ころまで栄えた。モヘンジョ・ダロとハラッパーがこの文明を代表する二大都市遺跡であり,いずれも焼成鮭瓦をふんだんに用い一定の都市計画のもとに建設されていた。この文明を担っていたのはドラビダ系の民族らしいが,文字の解読が遅れているため確実なことはわからない。また文明の起源と消滅の原因についても貞に包まれている。しかし当時の文化要素の中には,宗教的沐浴の風習,地母神,樹神,牡牛の崇拝,シバ神らしい神の崇拝をはじめ,後世のインド文化に引き継がれたものも多い。 [アーリヤ人の来住] インド・ヨーロッパ系の言語を話すアーリヤ人は,はじめ中央アジア方面で遊牧生活を営んでいたが,その一分派がインダス文明のすでに衰退した前1500年ころから徐々にパンジャーブ地方に移住した。そして部族の首長(ラージャン)に率いられ,ダーサと呼ばれる先住民を征服しつつ,牧畜を主とし農耕を従とする半定着の生活を始めた(前期ベーダ時代,前1500‐前1000ころ)。当時の生活では牛が最も重要な財産であり,農作物としては大麦の栽培が中心であった。アーリヤ人はパンジャーブで先住農耕民との間に人種的・文化的な混血・融合を深めたが,やがてその一部は前1000年ころからガンガー川上流域へと進出し,この地で農業社会を完成させた(後期ベーダ時代,前1000‐前600ころ)。前800年ころになると鉄器の使用が始まり,水稲栽培も広く行われるようになった。こうした経済の発達を背景に司祭階級や王侯が活躍し,前者によってバラモン教の諸聖典が編まれ,後者によって行政制度や徴税制度が整えられた。またこのころカースト制度の初期の形態であるバルナ(種姓)制度が成立し,社会はバラモン(司祭者)を最高位とし,クシャトリヤ(王侯,武士),バイシャ(庶民),シュードラ(隷属民)と続く四つの基本的身分に分けられた。 [古代帝国の成立] 前600年ころになると,政治・経済・文化の中心はさらに東方のガンガー川中流域へと移った。また各地に都市が興り,それぞれの都市を首都とする諸国が互いに争うようになった。十六大国と総称される当時の有力諸国のうち,やがて君主制を発達させたマガダ国が強大となり,前5世紀初めころガンガー川中流域に覇を唱えた。貨幣の使用が始まったのもこのころであり,都市では商人の活動が盛んであった。また,厳格な身分制度と祭式至上主義に立つバラモン教に対抗して,思索や修行を重視する仏教,ジャイナ教などの新宗教が興り,都市で身分制度にとらわれずに活動していた王侯や商人に支持された。 マガダ国はその後も着実に領土を広げ,前4世紀半ばにはガンガー川流域のほぼ全域を支配下に置いた。一方,インダス川の流域は長期にわたりアケメネス朝ペルシアの属州になっており,続いてアレクサンドロス大王に征服され(前326‐前325),その帝国に併合された。しかしこの地のギリシア人勢力は,大王の死後ほどなく,マガダ国に興ったマウリヤ朝によって一掃された。この新王朝のもとでインド史上初めて両大河にまたがる統一帝国の成立をみた。マウリヤ朝は第3代のアショーカ(在位,前268‐前232ころ)の時代に最盛期を迎え,帝国の版図は半島南端部を除く亜大陸のほぼ全域に及んだ。帝国はアショーカの死後に分裂と衰退への道を歩んだが,約1世紀にわたる亜大陸統一の結果,ガンガー川流域の先進文化が周辺地域に伝えられ,それぞれの地で根を下ろした。 [デカンと西北インド] マウリヤ帝国の成立に伴い亜大陸全域で経済と文化の発達が見られた。こうした経済的・文化的発達を背景に,帝国崩壊の後,亜大陸の各地でガンガー川流域の国家をしのぐ強大な国家が興った。その一つサータバーハナ朝は,最盛期(2世紀)にデカンのほぼ全域を支配し,半島東西の諸港を拠点とする外国貿易によって富み栄えた。西北インドでは,前2世紀の初頭以来ギリシア人,サカ族,パルティア人の侵入が相次いだ。その後,1世紀半ばごろバクトリア方面からクシャーナ族が侵入し,中央アジアから中部インドに及ぶ大国家を建設した(〜3世紀初め)。クシャーナ朝は漢とローマを結ぶ東西交通路の中央をおさえて繁栄し,またこの王朝のもとで大乗仏教の確立とガンダーラ美術の開花とがみられた。マウリヤ帝国の滅亡からグプタ朝の成立に至る約500年間は,政治的にみれば異民族の侵入が続き諸王国が乱立する不安定な時代であった。しかし経済的にみれば都市の商業活動が盛んな時代であり,また文化的には仏教,ジャイナ教が栄え,バラモン教と土着の宗教とが融合したヒンドゥー教の形成が進んだ。ヒンドゥー教の聖典《マハーバーラタ》と《ラーマーヤナ》が現在の形にまとめられたのも,ヒンドゥー教徒の生活を規定した《マヌ法典》が編まれたのもこの時代である。 [古典文化の爛熟] サータバーハナ朝とクシャーナ朝は3世紀に入ると衰えたが,4世紀の初めにガンガー川の中流域にグプタ朝が興り,北インドを統一し,デカン方面へも政治的影響力を及ぼした。グプタ朝時代はインド古典文化の黄金時代として知られる。宗教の分野ではバラモン教哲学が復興し,ヒンドゥー教が隆盛に向かった。ヒンドゥー教寺院が建てられるようになるのも,このころからである。仏教はそれまでの勢いを失ったが,教理研究は高度に発達した。文学ではカーリダーサがサンスクリット語の詩や戯曲を書き,美術ではグプタ式仏像やアジャンターの壁画に代表される洗練された純インド的様式が確立した。数学も発達し,このころ〈ゼロの発見〉がなされた。 [諸王国の分立] グプタ朝は5世紀後半になると,フーナ(エフタル)族の侵略や諸侯の独立のために衰退し始めた。これ以後イスラム教徒の政権がデリーに成立するまでの約550年間,北インドはハルシャ王の時代(7世紀前半)などわずかな期間を除き,群雄が割拠する分裂状態に置かれていた。そうした群雄の中では,西部インド,中央インドに興ったラージプート族の諸王国が名高い。この間,都市と商業が衰え,農村社会の自給自足化が進んだ。多数のカーストの集合体から成るインド独自の村落は,この時代に徐々に形成されたものらしい。また都市の商工業者や王侯によって経済的に支えられてきた仏教が衰え,村落社会を基盤とするヒンドゥー教が王侯や一般大衆の間に完全に定着した。地方政権の分立したこの時代にはまた,各地で地方語が発達し,文学や美術の分野で特色ある地方文化が興っている。 [南インドの歴史と文化] ドラビダ人の住む南インドには,すでに前3世紀のアショーカ王の時代にいくつかの独立国家が存在していた。その後もドラビダ人は,北インドから伝わった諸制度を採用しつつ,大小多数の王国を建設してきた。南インドに興亡した諸王朝の中でも,9世紀中ごろタミル地方に興ったチョーラ朝がとくに名高い(〜13世紀)。この王朝は,南はスリランカを征服し,北はガンガー川流域にまで兵を送った。さらに海上貿易を有利に導くため海軍を東南アジアに遠征させている。ドラビダ人はまた,彼ら独自の文化と仏教,ヒンドゥー教に代表される北インドの諸文化を融合させ,特色ある文化を発達させた。文学では,ドラビダ語の一派であるタミル語の文学(サンガム文学)が注目される。美術ではパッラバ朝(3〜9世紀)の石刻寺院建築やチョーラ朝のブロンズ彫刻などの新しい様式を生み出した。ヒンドゥー教の改革派であるバクティ(絶対帰依)信仰は,8世紀ごろ南インドに興り,やがて全インドに広まった。南インドの住民の海上活動もまた歴史上重要である。・B>香[マ,アラビアなどの西方世界との海上貿易や,東南アジア,中国との貿易には,南インド商人の活躍が目だった。 [イスラム教徒のインド支配] 8世紀初めにウマイヤ朝のアラブ軍がインダス川下流域を征服したが,この後の3世紀間,イスラム教徒はそれ以上亜大陸内部に進出することはなかった。彼らの組織的なインド侵略が始まるのは,アフガニスタンにガズナ朝とゴール朝が相次いで興ってからである。トルコ系の両王朝は11世紀初頭から侵入・略奪を繰り返し,分立抗争していたヒンドゥー教徒の諸国を破って,しだいにインド支配の足場を固めた。そして1206年,ゴール朝の将軍で奴隷出身のクトゥブッディーン・アイバクが,デリーで独立してインド最初のムスリム王朝(奴隷王朝)を創始した。その後の320年間,デリーに都を置きデリー・サルタナット(デリー・スルタン朝)と総称される五つのムスリム王朝が交代した。デリーの政権は14世紀初めに南インドにまで支配権を及ぼしたが,同世紀の半ばに弱体化し,その結果,亜大陸各地にイスラム,ヒンドゥー教を奉ずる諸王国の独立をみた。そのうちのビジャヤナガル王国(14〜17世紀)は,デカン南部に興り,近隣のイスラム諸政権に対抗しつつヒンドゥー教とインド古来の伝統を守った。この王国はまた海上貿易で巨富を得た。その繁栄のもようは15世紀末からこの地に来航したヨーロッパ人の伝えるところでもある。イスラム教徒は,インド侵略の初期にヒンドゥー教の寺院や偶像を破壊したため,社会の混乱は大きかった。しかし,インドの土地と住民の永続的な支配を目指すようになるとその態度を改め,旧来の社会や統治機構を崩さずその上に君臨するという現実的な政策を採用し始めた。この時代にイスラムに改宗するインド人も増えたが,それは権力者による強制を伴ったものではなく,主としてイスラム商人や,市井で布教にあたるスーフィーたちの平和的な宗教活動によるものであった。一方,南インドで発達しヒンドゥー教のバクティ信仰が北インドでも流行し,一部でイスラムとの融合もみられた。ドームとアーチを伴った建築様式が西方イスラム世界から導入されたのも,この時代である。また書写に紙を用いることが始まり,しだいに従来の葉や樹皮に取って代わった。 [ムガル帝国] 1526年,ティムールの直系子孫のバーブルは,アフガニスタンから南下してサルタナットの軍を破り,デリーに入城してムガル朝を開始した。彼の孫で第3代のアクバル(在位1556‐1605)は,版図をデカンの一部を含む北インド全域に広げるとともに,税制・官僚制の改革,新都アーグラの建設,ヒンドゥー教宥和政策など意欲的な政策を実施し,帝国の基礎を固めた。アクバル以後,ムガル帝国の繁栄は続いた。しかし帝国の版図が最大となった17世紀末には,相次ぐ戦争の出費,宮廷の浪費,経済政策の失敗などのために財政状態は悪化しており,またヒンドゥー教徒に対する抑圧策が国内各地の反乱を招いた。18世紀に入ると帝位継承の争いや諸侯の離反・独立が相次ぎ,さらに西部デカンにおけるマラータ族やパンジャーブにおけるシク教徒の勢力の強大化,ペルシア軍,アフガン軍の侵入も重なって,帝国の領土は急速に縮小した。ムガル時代には,亜大陸の各地で商業が発達した。また地税の銀納化も行われ,農村地域における経済活動も活発化してきた。亜大陸各地におけるこうした経済的向上が,ムガル帝国の分裂と地方政権の成立を促したとみることもできる。 ヒンドゥー教が多神崇拝と偶像崇拝を極度に発達させた宗教であるのに対し,イスラムは偶像を厳しく禁ずる一神教である。ヒンドゥー・イスラム両文化は,このように異質のものであったが,インドにおける長年の接触の結果さまざまな面で融合し,ここにインド・イスラム文化の成立をみた。インド古典のペルシア語訳が宮廷で読まれ,北インドの言語にペルシア語の要素が加わったウルドゥー語が発達した。宗教では,ヒンドゥー教の改革派で一神教的傾向をもつシク教が成立し,美術の面では第5代皇帝シャー・ジャハーンの時代を頂点とする建築活動や,ペルシアの細密画の影響を受けたムガル絵画,ラージプート絵画などの流行がみられた。 [イギリスの進出] 1498年,バスコ・ダ・ガマの船隊がカリカットに来航し,ここにヨーロッパとインドは直接結ばれることになった。16世紀を通じてヨーロッパ人によるインド貿易はゴアに総督府を置くポルトガルに独占されていたが,17世紀に入るとイギリス,オランダ,フランスが貿易競争に加わった。1600年に設立されたイギリス東インド会社は,東南アジアでオランダと争って敗れた後インド経営に力を注ぎ,まずポルトガル,オランダを圧倒し,18世紀半ばにはフランスを退けた。インドに到来したヨーロッパ人の目的は,当初はインドの産物の入手という純商業的なものであったが,やがて軍事力を背景にインドの土地と住民に政治的な力を及ぼすようになった。1757年のプラッシーの戦はこうした侵略的なインド経営を象徴するできごとであり,この戦いでベンガル太守軍を破ったイギリス東インド会社は,インド植民地化の足場を固めた。18世紀のインドはムガル帝国の衰退期にあたり,各地に地方政権が乱立していた。軍事力に勝るイギリスは,こうした好機をとらえ,征服・併合および軍事保護条約締結(地方政権の藩王国化)という和戦両策を巧みに用いて土着政権を圧倒し,同世紀半ば以後の約1世紀間に亜大陸のほぼ全域を直接・間接の支配下に置いた。東インド会社はもはや貿易会社ではなく,インド人から徴収した地税収入を主たる財源とし,インドの土地と人民を統治する機関となっていた。〈インドの富〉はこうしてイギリスに流出し,イギリス本国の産業資本の育成に貢献した。イギリスにおける産業革命の進行に伴い,インドが原料生産地および商品市場として見直されるようになると,新興の産業資本家や商人の間に貿易自由化を求める声が高まった。東インド会社に対する監督を強化しつつあったイギリス本国政府は,こうした声にこたえて会社の貿易独占権を廃し,続いて会社の商業活動を全面的に停止させた(1833)。またカルカッタ駐在のインド総督を頂点とする植民地支配の体制を固めた。 [1857年の大反乱] イギリスの進出はインド社会に大きな変化を引き起こした。綿布はかつてインドの最も重要な輸出品であったが,マンチェスター産の安価な機械織綿布との競争に敗れ,都市の木綿工業は大打撃を受けた。また,綿花,アヘン,インジゴ,ジュート,茶などの輸出用作物の栽培,商品経済の浸透,新しい土地制度・徴税制度の採用などによって,伝統的な村落社会は崩され,土地に対する旧来の権利を奪われた農民は,不安定な困窮生活を強いられた。一方,イギリスは植民地支配の一環として,資源の開発,道路・鉄道・灌漑施設などの建設,通信網の整備などに力を注ぎ,また新たな司法制度やイギリス流の教育制度を導入したりした。ヨーロッパ思想の刺激を受けた都市の知識人の中には,カースト社会を批判し女性の地位改善を求める運動や,ヒンドゥー教改革運動を始める者も現れた。イギリスの進出に対するインド人のさまざまな不満は,1857年にセポイ(シパーヒー)と呼ばれる東インド会社のインド人傭兵が起こした反乱を機に爆発した。反乱軍がデリーを占領してムガル皇帝を擁立すると,旧王族とその臣下,旧地主や農民などが,カーストと宗教の区別を超えて参加し,反乱は中部・北部インドに波及した。乱そのものは2年後にはまったく鎮圧されたが,広い層の人びとが参加したこの大反乱の中に,インド民族運動の第一歩を見ることができる。この反乱にくみしたムガル皇帝は廃位され,ムガル朝は完全に滅んだ。一方,いっそう強力な支配体制の確立を迫られたイギリスは,1858年に東インド会社を解散させ,インドを本国政府の直接の支配下に置いた。さらに77年にはビクトリア女王がインド皇帝を兼ね,ここに直轄領と藩王国とから成るインド帝国が完成した。 [民族運動の展開] 19世紀後半になると,インドでは土着資本による綿工業や,イギリス資本の近代工業が興った。インド人労働者の数が増し,彼らによる待遇改善運動も発生している。農村では地主への土地集中で貧困化した農民が,しばしば暴動を起こした。またヨーロッパ式の近代教育を受けた知識人の数も増えた。彼らは弁護士,ジャーナリスト,官吏などとして活動していたが,イギリスのインド人差別を不満とし,植民地支配に批判の目を向けるようになった。こうした情勢を背景に,85年にボンベイで第1回の国民会議が開催された。全インド国民会議派の誕生である。国民会議派の活動は初め穏健なものであったが,イギリスの帝国主義的な植民地政策が露骨化すると反英の傾向を強めた。そして1905年ヒンドゥー・イスラム両教徒を反目させ民族運動を分断しようとするベンガル分割法が施行されると,スワデーシー(国産品愛用),スワラージ(自治獲得)のスローガンを掲げて,イギリスに真正面から対抗した。綿工業をはじめとする産業に進出しつつあった民族資本家は,このスローガンを支持した。しかし,イギリスの弾圧と懐柔によって運動は分断され鎮静化した。分割法そのものも,11年に撤回され,また同年に首都が反英運動の温床カルカッタからデリーに移された。一方,ヒンドゥー教徒を主体とする国民会議派の運動に少数派としての不安を抱いたイスラム教徒の有力者たちは,分割統治を目指すイギリスの勧奨のもとに全インド・ムスリム連盟を組織した。イギリスはその後も,イスラム教徒に有利な宗教別分離選挙制度を導入するなど,巧みな分割統治政策を進めた。第1次世界大戦が始まると,インド人は多大の犠牲を払ってイギリスに協力し,その代償として自治権を漸次付与するという公約をかち取った。しかし戦後の19年に制定されたインド統治法ではその公約は十分に果たされておらず,かえって民族運動の弾圧を目的としたローラット法が施行されたため,インド人の失望は大きかった。この時期に反英運動の指導者として登場したのが M. K. ガンディーで,彼はローラット法に反対してハルタル(罷業)を宣言し,また20年から22年にかけて国民会議派とムスリム連盟を指導して非暴力不服従運動を展開した。ガンディーの指導のもとで民族運動は一般大衆を加えた全インド的な運動へと脱皮した。 [分離独立へ] 国民会議派は,外部からたび重なる弾圧を受け,内部においては主義を異にする各派の対立に悩みながらも,反英運動の指導集団としての地位を失わなかった。そして1929年の大会で完全自治(プールナ・スワラージ)を決議し,30年から34年にかけて再びガンディーの指導下に不服従運動を展開した。また国民会議派はインド統治法の改正を目的として開かれた3回の英印円卓会議(1930‐32)のうち2回をボイコットしたが,州自治制を認めた新統治法(1935)に基づく37年の第1回州議会選挙には打って出て,11州のうち6州で過半数の議席を取り内閣を組織している。しかし,第2次世界大戦が始まると,完全独立を要求してイギリスとの対決に踏み切った。イギリスはこれに対して弾圧で臨み,ガンディーをはじめとする指導者を投獄し,国民会議派を非合法団体とした。ムスリム連盟は,第1次世界大戦中から戦後にかけて,トルコのカリフを擁護する運動(ヒラーファト運動)の必要から国民会議派と提携し反英運動を進めたが,その提携も1922年には崩れ,両派は再び対立するにいたった。連盟はその後ジンナーに指導されて親英・反会議派の道を歩み,40年にはイスラム教徒の国パキスタンの建設を目標に掲げた。第2次世界大戦で疲弊したイギリスは,植民地インドを維持してゆく力を失っていた。大戦後,労働党内閣のもとでインド独立のための準備が進められたが,分離独立を主張するムスリム連盟と,これに反対し統一インドの独立を求める国民会議派との対立が激化した。調停は難航し,結局47年8月に,インド亜大陸に二つの国家,インドと,東西の両部分から成るパキスタンとが誕生した。後、東パキスタンはバングラディッシュと名を変え独立した。 |