−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、のスペイン滞在日記です。
2002年1月1日(火)
大海の 磯のしじまに 寄する波 割れて砕けて 裂けて散るやも ーーー源 実朝ーーー
今年は短くこの短歌一首。これが今年の心情だ。
ウィーンのニュー・イヤー・コンサートを観る。今年は小沢征爾が指揮をしたので観ていた。彼は今年からウィーン国立歌劇場のコンサートマスターになるらしい。コンサートの途中で各国語で、「新年明けましておめでとう」を言っていた。観客からの拍手を受ける。勿論、コンサートも素晴らしく各国の要人なども来ていたようだ。小沢征爾は堂々として指揮をして切れのある音を聴かせた。放送中ウィーンのスペイン乗馬学校の乗馬の映像が流された。
そして例の 『ラデツキー行進曲』 が流れると場内に観客の手拍子が鳴り響いた。この曲の始め方が面白かった。指揮者台に行く途中で小太鼓の前奏を始めた。曲が終わると観客が総立ちで喝采を送って生中継は終わった。
山田風太郎 『踏絵の軍師』 『怪異投込寺』 『地獄太夫』 『甲賀南蛮寺領』 『忍法ガラシアの棺』 読了。山田風太郎 『いだ天百里』 読む。
31日、カリ(コロンビア)でまた、インドゥルトがあった。エルネスト・ゴンサレス牧場のカニョネロという名の牛。闘牛士は、アントニオ・フェレーラ。牧場主と、フェレーラ、セバスティアン・カステージャ(耳2枚取ったため)がプエルタ・グランデした。
30日の結果。 メキシコ。アントニオ・ウレティア、耳1枚が2回。チロロ、マリ・パス・ベガ、耳なし。 カリ(コロンビア)。ビクトル・プエルト、エル・カリファ、耳なし。アレハンドロ・ガビリア、場内1周、口笛。
31日の結果。 カリ(コロンビア)。フェレーラ、耳1枚、耳2枚と尻尾1つ。牛、インドゥルト。エルネスト・ゴンサレス牧場。セバスティアン・カステージャ、耳2枚。ゲリタ・チィコ、耳なし。
1月2日(水)
「 「それに何を問いかけるいとまもなかった。薫は、北斎のあとを追って、心中をはかったという妹女郎の野分の部屋にかけつけた。
が、その部屋に一歩足をいれたとき、薫は息をのんで棒立ちになってしまった。北斎も、両足をふんばって、凝然として見下ろしていた。
ふつうの心中ではなかった。緋牡丹のような閨の上に、あの寒河雲水と野分が一体となってからみ合っていたからである。
「先生、北斎先生!」
と、雲水は声をしぼった。
「か、かいて下さい。私たちのこの姿を!」
「な、なんじゃ、毒をのんだときいたがーーー」
「毒をのみました。ふたりとも、これから死んでゆくのです。しかし、死ぬまえにどうぞどうぞこの姿をかいて下さいまし。北斎先生にかきのこされたら、私たちは死んでも心のこりはありません・・・」
そうあえぎながら言ったとき、雲水の口から血の泡がうかんで、下の野分野頬におちた。
「な、なんだ、お前ら、気でも狂ったのか!」
「死ぬことには、正気のつもりです。 (中略) 先生のあの絵を拝見したとき、心魂に徹して思い知らされたのです。 (中略) これでも、一心不乱に画業にはげみ、生涯をその道にささげようと志した人間でした。その望みはみじんにうちくだかれました!」
(中略)
「わたしは、このひとがいとしゅうなりんした。いいえ、惚れんした!」
「ただいまこちらに参って、北斎先生がおいでだと承り、急にかくごをきめたのでございます。どうぞ、先生!おろかな私たちの死にざまをーーーいいや最後のいのちの燃えようを、先生のお筆でしかとかいて下さいまし。それならば、たとえふたりの骸は畜生同然にあの西方寺へ投げ込まれようと、魂はまことの西方浄土へととんでゆくでありましょう・・・」
「よし、きいた!」
と、北斎はさけんだ。
「北斎、たしかにお前らのまぐわいの図をかいてやるぞ。成仏しろやい」
そして、ふところから、さっきの画帳をとり出した。
雲水はひたと死力をしぼって野分を抱いた。野分はおののく腕を雲水のくびにまき、両の足を雲水の背にくみ合わせた。生きながら菩薩の姿だ。吸いあった唇のあいだから、歓喜のうめきにつれて、血の泡がふいた。
死にゆくものだけがうごき、詩をうたう。北斎の眼はかがやき、耳は狼みたいに立って、それを見、それを聞いた。薫は凝ったように立ちつくしている。
やがて静寂がおちたとき、同時に北斎の筆もとまった。 」
「吉原で心中した男女は、まっぱだかにさらされて、その死骸に荒菰をかけられたまま、三日間、地上にさらされる。それから、早桶を荒縄でくくられて道哲寺に投げ込まれる。
この犬猫同様の埋葬は、この怪奇な世界の一種の迷信からきていた。それは、心中するほどの男女なら、それまでによほど辛い恨めしい原因があったであろうから、もし人間なみに葬ると、あとでたたられるかもしれない。いっそ犬猫を葬るようにして畜生道に墜してしまえば、もう人間にはたたることはあるまいと考えられたからである。 」 ーーー山田風太郎 『怪異投込寺』 よりーーー
果たして心中を決意した男女が交合しながら死ぬだろうか、と言う疑問も生じるが、それは近松的考えから来ているのかも知れない。腹上死を最高の死と考えていた風太郎。『人間臨終図巻』 の石田吉蔵を参考にすればそう感じるだろう。確かに交合と死を同時に行うことは生と死を同時に感じることになると言う意味では最高のエロスなのかも知れない。
「 つまり、それはたんに日常の背後に隠されていた性を、「性生活」として価値づけて表に出しただけでなく、徹底して具体的な行為として分節化し、掲示したのである。
そして、それは、「性交態位」を、「女性仰臥(ぎょうが)位」とか「女性俯伏(ふふく)位」などと分類することからもよく現れているし、また、その、いっさいの情緒を排した無味乾燥な用語そのものにも、よく現れている。いわば、ここでは性にまとわりつく湿り気や感傷が徹底して排除されあくまで即物的な形態や行為として分類され、掲示されるのだ。それは、次のような記述にも、はっきりと見てとれるであろう。
姿勢A・・・・・・もっとも知られた姿勢、オルガスムスを受け入れるに適している。両手は自由であり、足の開きや立て方の角度も自由に調整でき、それによって受け入れる刺激のニュアンスを異なったものにすることができる。特に、足を高く立てるほど女性の協調運動は自由となり、かかとを男性の膝に当てたり、男性の大腿を外側から抱えこむようにして両足を立てれば、いっそう安定した支点をうることによって、運動は自由かつ楽になる。新婚初夜の性交にこの姿勢がえらばれるのは、性器結合がよういであるからである・・・・・・
つまり、これは技術の書なのである。といっても、誤解してもらっては困るが、それは決して、いわゆる「四十八手」のような性の技巧を説いたものでない。誰もが、ここに書かれている指示に従って、身体を動かしていけば、ちゃんと修得でき、一定の効果を得ることのできる技術を説いたものだということである。つまり、万人のための性の技術なのだ。と同時に、まさにそうであることによって、性はここで、それにまつわる諸々の観念や幻想や妄想や情緒と切りはなされ、技術として分節化されたのである。
謝国権の名誉のためにいっておけば、彼はもともと、性をたんなる技術として取り出そうとしたわけではない。性の前提として、あくまでも「精神的愛情」こそが重要であるというところから出発しているのである。そして、その愛情をより豊かなものにするために、「性生活」の充実が必要ということになるのだが、それを暗がりから白日のもとに引き出す道筋において、きわめてストイックに欲望や情緒を排除した結果、技術としての性を突出させることになったのだ。
この技術としての性は、六〇年代を通じて謝国権が前提にした「精神的愛情」を振り捨てて、より「自由」になり、やがて「フリー・セックス」という観念を呼び込むことになるが、ここでは、もう一点、この技術主義の内実に触れておこう。それは、謝国権の用語や記述が、性行為においていままで受け身の位置に置かれていた女性を、男性と平等にするように機能したということである。たとえばいかにも耳慣れない「女性仰臥位」というのは、いわゆる正常位のことだが、この言葉づかいは、画期的である。受け身の女性を主格にしているからである。むろん、そのほうがたんに言葉として熟語化しやすいということがあったかもしれないが、同時に、「正常位」を排してこれを選んだということのうちには「態位」における平等主義を貫こうとする姿勢があったと思われる。また、先の引用文にある「受け入れる刺激のニュアンス」という記述なども、男女両方にかかっていると読めるし、そのあとの行為の指示も、もっぱら女性を能動的にするように機能しているのである。ということは、むろん、それまでの女性を常に受動的な位置に置くような性交に対する、きわめて具体的な批判ということに
なるが、それも含めて、ここには性生活における男女平等主義が一貫しているのだ。その意味で、これは、性という領域への戦後民主主義の浸透を画するものだったということができるだろう。 」 ーーー上野昂志 『戦後再考』 「性生活の知恵」の章 よりーーー
と並べて読むと、何だか不思議な気分になる。風太郎の描く最高のエロスと戦後民主主義における性生活の男女平等。しかし、ここで書かれていることは決して快感のみを追求していると言うことではないのだ。いわばある種ある状況における幸福論なのだ。上野さんは同じ章でこういうことも書いてる。
「 「性生活の知恵」は、それが、登場した一九六〇年において、むしろ、性を家庭のなかで充実させることで夫婦の絆を強めるという防御的な役割を担っていたはずだが、しかし、すでに見たような技術主義と平等主義は、性をそれ自体として家庭から分離し、社会の方へと押し出してくようにも作用していたのである。」 と。
つまり現在というものがそういうことだということだろう。
1月3日(木)
有馬の前、クロフネが屈腱炎を発症して3歳にして引退した。ドバイはおろかアメリカのブリーダーズ・カップさえ取れたかも知れない馬だったがサラブレッドのガラスの脚はいつこういう風にダメになるか判らない脆さを抱えている。ドバイにはアグネスデジタルと参戦を表明したトゥザヴィクトリーが選ばれるだろう。上手くすれば1,2着を独占できるかも知れない。有馬を勝ったマンハッタンカフェも海外遠征をするかも知れないと言う。ジャングルポケットは昨日阪神大賞典から天皇賞・春、宝塚記念、その後順調なら、ヨーロッパ遠征をし、G1二つ、キングジョージW&クイーンエリザベスSとインターナショナルSに挑戦する予定だという。騎手は未定だと言うが、ペリエだろうなぁ。
「あれー。オリオン座が綺麗だよ」 前を歩いて家族連れの嫁さんが夜空を見ながらそう言った。「正月だと空が綺麗だねぇ」 満月を過ぎた月も出ている。名古屋では41年ぶりの大雪だというのに東京は快晴。そして車がいないから空気が良い。
NHKで小林一茶のドラマをやっていた。途中見てなかったが、♪かわーい男は芋食って死んだ 屁ーを放る度思い出す♪ と言う歌が耳に着いて離れない。女が歌うところが良いよなぁ。屁をする度に死んだ愛しい男を思い出す何て、なかなか良い女心だ。原作が田辺聖子だからだろうか。
1月4日(金)
ウィンドウズXP、IE6.0のセキュリティホールが発見されたようだ。マイクロソフト社のソフトはシェアがNO1だからハッカーの標的になりやすい。セキュリティホールをなくすというのは無理な話のようだが、同時に各ソフトのサポート打ち切り予定も発表され、ウィンドウズ95が2001年11月30日迄で、すでにもうサポートは受けられなくなった。98が2003年6月30日迄。MEは未だいつまでかは発表になっていない。それと、ウィンドウズXPを使用している人の話では、「今まで一回もフリーズを起こしていない」という。システムが替わってそう言う風になったようだ。
しかし思えば、コンピューターを買ったとき10年くらい使えるだろうと思って買っているのに、5,6年でソフトのサポートがなくなるというのは、どうにも、納得がいかないことだ。これじゃ、5年に一回コンピューターないし、ソフトを買い換えろと言うことだ。そうしないとネット接続をしているとウィルス等の問題が絡んでくると言うことだろう。でも、ウィルス対策ソフトを導入すればそれを何とかできるってことかな。でも、ME迄のソフトと、XPじゃ互換性がなくなったので色々考えさせる問題だ。
山田風太郎 『いだ天百里』 『忍法天草灘』 読了。
1日の結果。 カリ(コロンビア)。フェスティバル闘牛。セバスティアン・バルガス、耳なし。フェレーラ、耳1枚。セバスティアン・カステージャ、ラファエル・デ・フリア、セルヒオ・マルティネス、ゲリタ・チィコ、耳なし。騎馬闘牛士、フェルナンド・ロペス、耳なし。 ドゥランゴ(メキシコ)。アントニオ・ロメリン、チロロ、マリ・パス・ベガ、耳なし。
2日の結果。 カリ(コロンビア)。ディエゴ・ゴンサレス、耳なし。ビクトル・プエルト、耳2枚が2回。エル・フリ、耳2枚。
1月5日(土)
17時過ぎに床屋に行った。そしたら17時までとのこと。「明日来て下さい」 「明日は仕事で来れないから」 「じゃ、切るだけだったら」 「出来ますか」 「良いですよ」 と、言うことで切ってもらった。これから洗濯をしよう。
昨日出勤途中の電車の中で隣の人が日経新聞の1面、「民力再興」 と言う新春特集記事を、マーカーペンを引きながら読んでいた。僕もいつも読んでいるがこれが面白い記事だ。カメラのシェア世界一がキャノンだとは知らなかったが、現社長が就任して行った改革がアメリカで仕事していたときに学んだことの応用だという。「シェア1,2位以外の部門からは全て撤退」 と言うことを公言し会社を建て直した友人アメリカ人ビジネスマンの会社建て直しを見て感動し、自身がキャノンの社長になったとき、「シェア1位以外の事業から全て撤退」 を公言して改革を行って大幅な利益を上げているのだという。アメリカの有名雑誌が上げる、「世界の社長25人」 の中に本田技研の社長と共に日本人で2人選ばれた。
闘牛の会にも、キャノンの社員がいるが、お互いに仕事のことなど話したことがないので新聞を読むまで知らなかった。そう言えば、来週の今日が闘牛の会。牧ちゃんからもメールが来ていて、リトリのビデオをこの前流したことのお礼が書かれていた。
メールについて、村上龍が指南書、『eメールの達人になる』 を出したそうだ。その記事が載っていて、「 「1日50本近く受け取るメールの多くが、時間の無駄に思えた」 メールの基本は正確さと簡潔さ。受信者が最初に目にする「件名」では「12月の講演会の件」のように具体性や実効性があるものを付けるように訴える。「お願い」「ご連絡」や、「はじめまして」のように文の冒頭を使うのは悪い例。「重要」や「緊急」なども送信側の都合を押しつけていてよくない。
時間の節約のため、あいまいになるがちな敬語や常とう句は出来るだけ使わない。書き出しでは「拝啓」で始まる常とう句や時候のあいさつを避ける。「お元気ですか」と言った疑問形は無意識のうちに返事という負担を相手に求める。「日常生活において相手の体調などをうかがうのは悪いことではないが、ビジネスメールでは不要」だ。
「双方で負担をかけたり受け入れたりするのは日本的な相互依存の発想」、いわば甘えと考える。(中略)他人によりかからない、「個の自立」を主題にした村上さんは、このあたりに対してきびしい。
ただ、なにが何でも敬語や常とう句を排するわけではない。「相手を不快にしてしまったら、どんなに簡潔に伝えてもしようがない」返事の要らない簡単なあいさつや、末尾に「よろしくお願いします」などと書く。他の部分が素っ気なくても、相手はこの一言で安心する。また、依頼するときに「して下さい」と書くと強制の響きがあり、相手を不快にしがち。先方に決定をゆだねる格好の「していただけると助かります」という表現をよく使っている。
(中略) 長引く不況の中で日本的ビジネス慣行が見直しを迫られている。「非効率なコミュニケーションもその一つ」「これからは、敬語が上手で見事な文章を書く人よりも、簡潔で正確な文章を書く人が評価されるような方向に向かっていく」とみる。 」 ーーー『日経新聞』 「NIKKEIプラス1」 1月5日 よりーーー
HPを開いていると色んなメールが来る。1度頭に来て、はっきり言って迷惑です。と書いて送ったことがある。詳しいことは彼の本を読まなきゃ判らないが、趣旨は、「簡潔で正確な文章」を書くと言うこと。相手に負担、不快感を与えないこと。これが重要だ。
山田風太郎 『剣鬼喇嘛仏』 『嗚呼益羅男』 読了。『忍法双頭の鷲』 を読む。
3日の結果。 カリ(コロンビア)。フェスティバル闘牛。エル・カリファ、ビクトル・プエルト、エル・ヒノ、エル・フリ、セバスティアン・カステージャ、ゲリタ・チィコ、見習い闘牛士、アンドレス・デ・ロス・リオス、耳なし。
4日の結果。 カリ(コロンビア)。フィニート、罵声。エル・フリ、耳なし。ラミロ・カデナ、耳1枚。
1月6日(日)
年明けの金杯が東京競馬場で開催された。例年なら中山開催なのに今年は、東京が改装になるので先に日数を消化しようと言うものだ。今週来週が土、日、月、と3日連続の開催。そして、ダービーの後に改装にはいるので秋の天皇賞、JCは中山開催で行われる。11月公判が行われ、麻薬使用などについて認めた田原成貴被告がJRAに提出していた調教師免許返上の訴えを認めず、事件についての事情説明の場を作り田原を呼んだが出席せず、調教師免許取消の裁定を下した。ここに田原の競馬界永久追放が決定された。そしたら、田原の1番弟子のような藤田伸二がG1を勝ち、有馬では親友の小島太調教師の馬が優勝した。田原。お前の親友や弟子がお前に捧げた優勝だと思わないか。みんな言葉には出さないけど、お前のことを愛しているんだぞ!
おかしい。夢じゃないだろう。本棚の前で風太郎の本を手に取って開いたら、「四畳半襖の下張り」 のタイトルで3,4ページ荷風が書いたと言われる引用があり小説が始まるそんな本があったはずなのにそれがないからだ。文庫でミステリーものだったと思っているのだがそれが見あたらないからだ。どこ行ったんだろう。
風太郎の、『笑う肉仮面』 が35500円。『忍法相伝73』 が5500円。ネットオークションで付いた値段だ。そんな値段で本を買うか。すげー人もいるもんだ。
1月7日(月)
人とチンパンジーの遺伝子の違いは1〜2%と、言われていたが、1.23%と言うことがほぼ判った。約30億文字に相当するゲノムを持つ、DNA断片約6万4千種を対象に人のDNAのどの部分に当たるのか突き合わせて精密な「比較ゲノム地図」を作成。その結果1.23%の違いが判ったという。人ゲノムの個人差は、0.007%と考えられ、その18倍に相当。チンパンジーの染色体は、人より2つ多い48本。配列の違いは、各染色体に平均して分散しているのではなく、ある領域に集中している可能性が多いようだという。 これは、例えば、22番目の染色体の正確な塩基配列を決定し、アルツハイマー病に罹らないとされているチンパンジーとのゲノム比較研究から発病の仕組み、解明、予防法の開発など期待できるらしい。
今週中に、大和和紀の、『あさきゆめみし』 をちゃんと読もうと思っている。来週には、藤本泉の、『源氏物語99の謎』 が届くだろうからその準備。漫画で済ませようと言ういい加減さがあるが、時間の問題と現代訳の文庫(1番良いのが瀬戸内晴海(寂聴)訳らしい)を読むのが億劫だというのがあるからだ。こう言うのは漫画から入るのが良いと言っているのが、赤瀬川源平(尾辻克彦)。だから、良いじゃないかと思っている。大体俺の頭の程度は、そんなものだもの。
山田風太郎 『忍法双頭の鷲』 古今亭志ん生 『品川心中』 読了。山田風太郎 『銀河忍法帖』 読む。
ちくま文庫から出ている、『古典落語 志ん生集』 から一作ずつこれから読んでいこうと思う。こっちの方が荷風を読むより面白い。勉強になる。荷風の書く女はどうも好みじゃない。荷風は玄人女しか、女と思ってない。つまり、自分が抱ける女しか興味がない。特異体質というか趣向の問題だがどうも基本的に付いていけない。そこへ行くてぇーと落語なんざぁ、江戸の文化てぇもんがプンプン臭う。そこが全然違う。と言っても風太郎が、『踊子』 を読んで泣いたと言うから、そこまでは、読み進めないと切りが付かないが。
5日の結果。 カルタヘナ・デ・インディアス(コロンビア)。ディナスティア、耳2枚。フェレーラ、耳1枚。セバスティアン・カステージャ、耳なし。
6日の結果。 メキシコ。騎馬闘牛士、マルティン・ゴンサレス・ポラス、場内1周。闘牛士、マリオ・ラモス、フェデリコ・ピサロ、パディージャ、耳なし。 カリ(コロンビア)。セバスティアン・バルガス、耳1枚、耳2枚。ラミロ・カデナ、耳なし。ゲリタ・チィコ、耳なし。
1月8日(火)
書こう書こうと思って書き忘れていたが、1月4日は、山田風太郎生誕80年目だった。ついでに書けば、今年は横溝正史生誕100年目に当たる。誕生日を知らないのでいつかは判らないが。それにしても、風太郎の忍法帖は面白い。何でこんなに面白いんだろう。やめられない、止まらない。日下三蔵氏が、『ユリイカ』 に書いた、「山田風太郎中毒患者記録」 の中で、
「・・・・・入手困難な時代ものを次々と文庫本化してくれたからだ。『不知火軍記』 『白波五人帖』 『明治かげろう俥』 『赤穂飛脚』 などは、特に有り難かった。カバー折り返しの続刊予定が増えていくのがうれしくて、次の巻には何が収録されているのか、よく編集部に電話で問い合わせたものだ。
並行して、忍法帖ものも読み始めた。忍法全集を一巻から読んだので、最初はもちろん 『甲賀忍法帖』。翌日、学校で読もうと思って鞄に入れる際、うっかり冒頭を読んでしまったのが運の尽き。そのままひたすらページを繰りつづけ、夜半には読了してしまった。そんな経験は、阿佐田哲也の 『麻雀放浪記』 第一巻を読んだとき以来であった。あとは毎日、ただ忍法帖を読破したが、人生の中でも、あれほど幸福な一ヶ月というものは、もはや訪れまいものを思われる。」
と、書いている。ああ何と美しいことなのだろう。風太郎に対する思いが伝わってくる文章だ。しかし、忍法帖を読むことが人生の中で最も幸福なことかと言えばもちろんそうじゃない。だから、ここには“幸福な一ヶ月”と限定された期間が書かれいる。幸福な瞬間ではないのだ。でも、風太郎を読んでいると、俺の人生風太郎だけ読んで暮らせたらどんなに幸せだろうと思ったりのするのだから・・・。本当に楽しく面白い読書空間、想像力を育んでくれる。
『忍法双頭の鷲』 では、後半の盛り上がりは絶望的な状況に追い込まれる所だ。主人公は根来組忍者、秦蓮四郎(蓮は本当はさんずいを付けるが字がない)と、吹矢城助。それは、大老酒井雅楽頭忠清に使えていた伊賀忍者が、堀田筑前守によって酒井忠清失脚。伊賀が終落。そして、堀田筑前守の登用によって根来忍者が公儀隠密に。と、思ったら将軍綱吉の女の世話をしてのし上がった柳沢弥太郎吉保の陰謀で堀田筑前守は暗殺される。根来忍者の終落。柳沢吉保が使っているのが甲賀忍者。
政に関わる忍者がまるで消耗品のように死に使い捨てられ、権力の交代によってその忍者も替わり同じことが繰り返される。忍者のむなしさは、権力者とて同じことだと言うことを読んでいくと段々判ってくるように書いている。ラストのどうしようもない絶望的な状況から大逆転でハッピーエンドを向かえるところの筆も風太郎ならではのもの。勿論、個々の物語もしっかりして読み応えがある。
作中 「首を吊って死んだ人間は、しばしば陰茎を勃起させておると申す。それと同様、拙者のこの男の頸にかけた縄のわざのために、この男も、もはや死すとも勃起したままであるという状態といたすでござろう。ーーー」 という一文が気になった。
「首を吊って死んだ人間は、しばしば陰茎を勃起させておると申す。」 と、いうのは本当だろうか?医者の風太郎だから何かの資料に書いてあるのだと思うが、ウラをとるには刑場の係員に問い合わせると判るだろう。というのは、ドイツで第一次世界大戦に従軍してゴヤの、『戦争の惨禍』 の様な凄い版画や絵を描いたオットー・ディックスという画家の絵に、『自殺者』 と言う首吊り自殺をした男を描いた作品がまさに、陰茎を勃起させたものだったからだ。西洋かぶれは、ペニスなどと称するが。もし本当ならあれは事実を描いたことになる。所で、それでは女の場合はどうなるのかという疑問も生ずるが。???
そろそろスペインのカルテルが発表になってくるだろう。
1月9日(水)
いつの間にか新聞の外為欄からスペイン・ペセタが消えていた。フランス・フランもない。エウロ(ユーロ)が1月1日から導入されたことに伴ってのことだろう。新春新聞に載ったエウロを導入した12カ国の物価比較が出ていた。タクシーの初乗り料金やビックマックの値段などの個々の具体的な値段の比較だったが、トータル的にマドリードは各国首都の中で1番物価が低いと言うことがあの比較表から判る。多分、そうだろうと思っていたが、それが裏付けられた。が、去年に比べると為替相場が円安に振れている。
アメリカ政府が今までの方針を変えて、円安を容認したからだ。アメリカのアナリストの大勢の考え方は、年末にかけて1ドル=140円に向けて推移するだろうというものだった。これにより日本の輸出企業の業績が上がり、株価も上がり、景気が回復していくだろうと言うものだった。
しかし、個人的なことを言えば、エウロ導入に伴う便乗値上げや、去年に比べて円安になったことによって、スペインで使える金が減るだろうと言うことだ。これが1番きついこと。
山田風太郎 『銀河忍法帖』 読む。
7日の結果。 カニサレス(コロンビア)。セサル・カマチョ、耳1枚が2回。カバジェーロ、耳2枚。エル・フリ、耳なし。
1月10日(木)
正月の間そんなにTVを見たわけではないが印象に残っているのが、「ためしてガッテン」(確か)でやった速読術。体験した漫才コンビがビックリするくらい早く読めるようになっていた。目を、本を読むときと同じく立てに動かす訓練から始め視野全体で文を読んでいく。ただし、読んでいくといっても黙読。音をイメージしないで読む。読むと言うより目を通すような感じで意味を理解しながら本を行を進める。そうすると早く読めるというものだった。
去年スペインに行っていたとき泊めてもらった家の日本人は、かなりスペイン語を出来るのにスペイン語の先生を週1回呼んで勉強を始めた。その先生曰く、書いている文章を理解しようと思ったら、声に出して読まない方が良い。声に出して読むと読むことの方に意識が行って意味を理解する方が方がおろそかになる。と、言うものだった。同じことが読書をするときにも言えるのかも知れない。声に出さなくても読むときに音を出して読んでいると遅くなる。しかし、音に出して読まないと判らない昔風の言い回しがあるとそこで引っかかったりする。それと、音に出して味わいたい欲求もある。なかなかその辺が難しい。
もう一つ、これもNHKでやっていた番組で能の野村何とか言う人が、世界各地を歩きまわって仮面を付けてやる芝居を見たり実践したりするのがあったが、その中でグッとする言葉を言っていた。講演で仮面をかぶって、「仮面をかぶると動きが遅くなる。しかし、遅くなった動きによって意味が出て来るんです」と、言っていた。これには唸った。彼は能をやっているので特にそう言う言葉が出たのかも知れないが、これは確かにその通りだ。
これを闘牛に転化させると実に良く分かる。エスパルタコのようなテンポの良いパセを繋いで観客を沸かせるアンダルシア風の闘牛には、次を期待する観客の気持ちを盛り上げることには充分だが、闘牛の深さを感じることが出来ない。それと対局にあるホセ・トマスは、パセをするまでの間や、クルサードするゆっくりとした動きの中で闘牛の意味をすでに体現しているわけである。あのゆっくりとしたクルサードの動きがあって初めてテンプラール(ゆっくりしたパセ)がより観客の眼に意味を持って写るのだ。なるほどと、唸ったのはそう言うわけだ。ゆっくりとした動きには意味がある。非常に重要なことを改めで気づかせてくれた言葉だ。
TVを見て、早いことと、遅いことが、印象に残ったというのも面白いことだが。
1月11日(金)
東西で追い切り調教が行われて京成杯に出走する有力馬3頭もそれぞれに順調さをアピールしたようだ。ここに出てくるのは、ダービー東京2400mを視野に入れて初めて重賞に挑戦してくる馬が多い。2戦2勝で挑む超良血ヤマニンセラフィムは着差こそ少ないが母ヤマニンパラダイス、父サンデーサイレンスの血の魅力が相まって1番人気になりそうだ。同じく父サンデーサイレンスの関東馬、サスガは2歳、2000mのレコードホルダー。藤沢流馬なり調教で万全の体勢でクラシックへ名乗りを上げるか。もう1頭は、関西馬、ローマンエンパイヤは、サクラローレル産駒。これも2戦2勝。前走1400mを良いタイムで駆け抜け、5馬身という大差を付けて勝っている。距離経験は、1600mまで。
上記3頭の他には、前走2000mを良いタイムで駆けたマイネルアムゼンがどこまで絡んでこれるかだろうと思う。久々に、東京競馬場に行って日曜日は競馬に行こうと思っている。寒い東京でクラシックへの光が見えるのはどの馬なのか。
山田風太郎 『銀河忍法帖』 古今亭志ん生 『お直し』 大和和紀 『あさきゆめみし』 1巻 読了。
大和和紀 『あさきゆめみし』 を読むのに時間がかかった。主上(おかみ。天皇)と良血だが後ろ盾がないが、控えめで心優しい桐壺の更衣の間に生まれた、光源氏。母は病死する。その原因は、良血で後ろ盾のしっかりした欲深でプライドの高い本妻、弘徽澱の方。女の嫉妬の権化にような女。光源氏の初恋の人は、主上の愛妾、藤壺(源氏より5つ年上)。母桐壺に似ていると言うことと、姉のように接してくれることで憧れる。
元服して左大臣の娘、葵の上(4つ年上)を妻に向かえる。葵の上は、主上の長男に嫁ぐことを前提に育てられてきたのでプライドが高い。初対面に時に、源氏のあまりに自然な笑顔に慌ててどうして良いか判らずそっぽを向く。自らコミュニケーションを拒否していく葵の上。「わからなかった・・・!あんなときどうすればよいのか・・・だれも教えてはくれなかったもの・・・」と、涙を流すが、マニュアルに書いていないこと以外の突発事項には何の対処の仕様もない教育と、慌ててしまう彼女の気質、あるいはプライドの高さを捨てきれないところは、哀れと言うよりどうしようもないダメさを感じてしまう。
源氏が会いに来ると、気分が悪いと会わない葵の上。おそらく交合はしてないだろう。何故なら処女の我が儘さだからだ。疲れるよなぁ。この人。処女に疲れるのでも、我が儘に疲れるのでもない。処女の我が儘に疲れるのだ。何故って、気分なんか悪くないのにそうやって誤魔化してそれを通そうとするところが。葵の上の兄で頭の中将は源氏の遊び仲間、相談相手になる。そして、漫画中初めての交合が描かれる春宮妃六条の御息所も年上の未亡人。一夜を共にした朝、彼女も言わなきゃ良いのに、「お心が変わらなければ・・・三条の奥方さまのところにもおいでにならなねばならないのでしょう?」と言って源氏を怒らせる。恋に揺れる女心は自身の感情を抑えきれない思いを、あらぬ方に向かわせるようだ。
哀れなのは、一緒にいることが幸せだと言い、それ以上を求めない癒し型の女、夕顔の君19歳(これも年上)。相手に負担を求めないと言う意味ではのんびり過ごせる人だ。おっとりしているからだろうか。源氏の言うことに従順。それが仇になって人知れぬ山奥か何処かの宿で物の怪に驚いてショック死してしまう。同じ頃葵の上が物の怪の夢を見たのはどういうことなのか?
生い立ちが源氏と同じでしかも藤壺に似ている10歳の少女に会い引き取る。これが紫の君。とここまでが1巻の話だが、亡き母への思いが、初恋の人藤壺への思いになり、嫁葵の上も年上、春宮妃六条の御息所も年上と、と年上から恋を学んでいく筋立ては実に素晴らしい物語になっている。こう言うところは唸って仕舞うな。そして、初めて年下の紫の君の登場で終わる。
1月12日(土)
山田風太郎 『銀河忍法帖』 は実に面白い小説だった。この小説が作者評で、B と評価したのは何故だろうと疑問を持ってしまう。佐渡金山奉行で家康の蔵相と通産相と運輸相と建設相と軍需相を兼ねる大久保石見守長安は、サイエンスを操り、戦車を作り鉄砲新種の武器を次々と発明していく。家康と家康の懐刀と言われる本多佐渡守の前で自分の作った戦車と伊賀忍者の戦いを見せる長安。伊賀の統領服部半蔵の嫁は長安の娘。
伊賀忍者5人と長安の親衛隊5人の愛妾の戦いは、忍法対長安のサイエンスによって作った武器との戦い。忍者がこてんぱんにやられるが、佐渡に行く長安の護衛のため伊賀忍者5人が半蔵の命令で同行する。時は慶長17年4月。大阪には未だ豊臣家があった時代だ。長安を探索に来て女六部に化けた朱鷺は伊賀忍者に捕まる。それを助ける江戸の乱暴者、六文銭の鉄。名前のふざけている。六文銭と言えば、言わずと知れた真田の旗印。の過程で朱鷺と六文銭のと間に約束が交わされる。「私の言う男を殺したら交合させて上げる」というもの。
年を取った長安が若さを保たせているのは生きた女を酒に漬けて作った女精酒。朱鷺をそれに漬けようとして5人の忍者が襲い、六文銭がこれを守る。朱鷺を聖女として描くのは風太郎お得意の手法。それととにかくこの物語の面白さは、長安のサイエンスと、六文銭のキャラクターの面白さだ。長安の愛妾5人を犯して行くところも朱鷺を前にして実行する所が物語に微妙な変化をもたらしていく。脇役で、後の江戸吉原に郭を作る庄司甚内、山師、味方但馬、数学天才、毛利算法などの良い味を利かせている。そして、影に感じる真田左右衛門左の動き。
小説の半分の所で朱鷺と六文銭の隠れ家見つかり、朱鷺が捕まる。これから一体どうなるのだろうかと思っていると、そこからがまた凄い見せ場の連続。綱渡りの連続で、逆転の逆転の逆転・・・。六文銭はどうなるのか。朱鷺の正体は?六文銭の正体は?2人は果たして助かるのか、交合できるのか?もう一体どうなるか判らなくなって最後も捻りの利いた逆転が待っていて、最後の3行(文庫本なら2行だろう)は素晴らしい終わり方をする。いやー、ちょっと残るな、この終わり方。エンターテイメントの限りを尽くしたような風太郎の手練手管の技は不滅だ。
10日カニサレス(コロンビア)でのフェスティバル闘牛でビクトル・プエルトがインドゥルトをした。エルネスト・グティエレス牧場の、“シジェテロ”という牛だった。
セサル・リンコンが、「15日間で2回もトリンフォして幸せだ」と、言っていた。牧場主としてスペインでも、母国コロンビアでも着々と良い牛を出している。11日。つまり日本時間で今日のカニサレス(コロンビア)での闘牛はどうなるのだろう。出場者は、ディナスティア、ビクトル・プエルト、エウヘニオ・デ・モラ。
9日の結果。 カニサレス(コロンビア)。ペペ・マンリケ、エル・カリファ、耳なし。フェレーラ、耳1枚が2回。
10日の結果。 カニサレス(コロンビア)。フェスティバル闘牛。カバジェーロ、耳2枚。ビクトル・プエルト、耳2枚と尻尾1つ。牛、インドゥルト。エル・カリファ、エウヘニオ、耳なし。フェレーラ、耳1枚。ラミロ・カデナ、耳なし。
1月13日(日)
横浜か何処かで、トレーラーの車輪が外れて、歩道を歩いた主婦を直撃し、主婦は死亡、つれていた子供2人が怪我をした事故があった。残された夫がTVのインタビューに応えて、「何にも悪いことしてないのに・・・普通に生活していただけなのに・・・子供には言って聞かせました。でも、誰も代わりは出来ないんです」 ボロボロボロボロ涙を流しながら言っていた。
正月NHKに五木寛之が出ていた言った言葉を思い出した。「今はヘラヘラヘラヘラ笑っている時代です。人の心に何の希望もないからかも知れません。不況でみんなが苦しいときです。 『花』 と言う歌は70年代に作られた歌なんです。発表された頃は、高度成長時代で、♪泣きなさい 笑いなさい♪と歌っても誰も判らなかった。何でこんな時に、泣きなさい なんだと言うわけです。でも、あの歌は今じゃみんなが歌います。でも、地面を拳で叩きながら泣くようなことをした人間が、本当に笑うってことを知っている人だと思うんです。そう言う人は、泣くことも、笑うこともちゃんと出来る人なんです。だから、泣きなさい、そして、笑いなさいと、言うんです。そう言う人が本当に人間的な人なんです」 確かそんなことを言っていた。
TVインタビューに応えていた、ボロボロボロボロ涙を流して「誰も代わりはいないんです」と言っていた夫を見て痛いほどその心情を感じた。それでも、残された子供たちのためにしっかり生きなければならないのだ。どんなに怒りが込み上げてきても、どんなにやり切れない気持ちになっても。生きるってことは、苦しいね。切ないね。それでも、時が癒してくれることもあるのだから。そうすれば、花が咲くこともあるのだから。
家でアクセスしても11日のマニサレスの結果が出ていなくて、門前仲町の井戸さんの事務所に行ったら、ネット接続をADSLに変えたというのでもう一度アクセスした。出ていない。何が見たいのと言うので、マニサレスの結果がと言うと、じゃねぇ、エフェ(efe)で見たらと言って開いてくれた。誰が出てるの。エウヘニオが出てるからと言うと検索して出た画面に5個くらい。あっこれだと1番上のコンテンツを開くと、何と結果が出ている。タイトルがいきなり、A
hombros los tres matadores y el ganadero Rinco`n en Manizales 何て出てきた。やったー、セサルがプエルタ・グランデだ!と言うと、足立さんが、えー、凄いニュースじゃない。井戸さんもへーと言っていた。印刷すればと言うので、プリンターで出して会の始めにニュースとして読んだ。
efeって何ですかと聞いたら、スペインの通信社とのこと。月、650ドル払うと観れるのだという。円安になって困ると言っていた。所でそのefeはお金を払わなくても少しなら観れるのだという。今行ってみたら確かに観れた。検索などは出来ないようだ。トップニュースで、またETAがビルバオで町中で20キロのダイナマイト爆弾を爆発させたことが載っていた。アドレスは、www.efe.es/
。各項目5個位ずつはお金を払わなくても観れるようだ。会が終わって飲んで帰ってきてネットを開いたらようやく、burladero.com
にマニサレスの結果が出ていた。タイトルが、Manizales (Col.) 6a de Feria.
Noble y brava corrida de Rincon. だった。闘牛士の名前が出ていないのが可笑しい。さすがは、セサル・リンコンだ。
井戸さんもADSLに替えたときウィルス対策ソフトを使い始めたという。聞いたらやはり11,12月はウィルス付きのメールが沢山来たそうだ。だから、Outlook
の表示、レイアウト、を開きプレビューウインドウを表示するを解除すると、直ぐに削除出来るし、削除作業の時にウィルスにも感染しないと言うことだった。なるほどと納得して帰ってきて早速実行した。
11日の結果。 マニサレス(コロンビア)。ディナスティア、耳1枚、耳2枚。ビクトル・プエルト、耳2枚。エウヘニオ、耳1枚が2回。3人の闘牛士と、ラス・ベンタス・デル・エスピリトゥ・サント牧場主、セサル・リンコンが肩車でプエルタ・グランデした。
1月14日(月)
昨日の深夜NHKで、大江健三郎が出て、エジプト、カイロの大学生と、ニューヨークの大学生、日本の大学生のTV討論があった。9月11日にあった同時テロについての話だった。驚いたことに、アメリカの学生の中に判で押したようなアメリカ民主主義の押し売りを堂々と悪びれずに疑問もなしに、笑顔で確信犯のように話しているのがいて唖然とした。世界の中でアメリカのことを嫌いだと思っている人がいることを、判らない人が確かにいると言うことが判った。こういう人は、アメリカが、嫌われているからああ言うテロを起こされると言うことを理解し、消化できないだろう。ここの部分をアメリカ人が理解できないと、とんでもない間違いを起こし続けるだろう。でも、アメリカはおおむね間違いはないという見方もあるが。それはそれで良いとして。
例えば、イスラム教徒がアメリカに住んでいて、友人に、「何故イスラム教徒はテロをするのだ」と言われたする。そのイスラム教徒は何と応えるだろう。確かに彼はイスラム教徒だけれども、テロをやったわけではない。それなのに、その責任を背負い込む必要があるのだろうか。そう言う疑問を持ってしまうが、実際問題として、HPを持っていた両親をパキスタン人を持つアメリカに住んでいる、高校生ザファール君は、事件後日に100通の嫌がらせのメールを受け取る。彼は誤解を解こうとユダヤ教会に行って神父と会い、イスラム教徒とユダヤ教との対話の架け橋をして欲しいと依頼する。神父は、ユダヤの教典を出し、ここには、「隣人を傷つけてはならない」と、書いています。と言ってその役を引き受けてくれた。それぞれにそれぞれの立場はある。時間はかかるだろうが、決して理解出来ないことではないと思うのだが。
何かを解決するには、行動しなくては先が見えないだろう。どういう行動をするか、選択するかが、その人の生き方を表していくのだろう。
ニューヨークの芸術専攻の女学生がやっている活動は凄いなぁと思った。幼い地域の子供たちを集めて、テロですさんだ子供たちの心に入ってきた暴力を追い出そうと、一緒になって遊んだ。それが実に他の議論と違って非政治的な視点で行われた行動だと言うこと、そこが感動的だった。芸術を専攻する学生、しかも女。こういう生活レベルの発想が男の政治専攻の学生には絶対的に足りないところなのだ。本や机の上だけでは何も解決はしないし、問題の本質に触れることは出来ないのだ。こういうのを見ると、やっぱり言葉は女のものだと強く思う。
大江健三郎は最後に、「希望を持ってコミュニケーションしていくと、いう言葉を噛みしめて過ごしたい」 と言うようなことを言って番組が終わった。そして、キャロル・キングの 『君は友達』 がエンディングに流れた。キャロル・キングのあの下手くそなピアノ、穏やかな声。番組を締めくくるのにピッタリの選曲だ。そう言えばこの曲が入っている、『つづれおり』 (タペストリーというタイトルだったかな)のレコードも何年も聴いてないなぁ。
12日の結果。 マニサレス(コロンビア)。フィニート、耳1枚。カバジェーロ、耳1枚、耳2枚。パキート・ペルラサ、耳2枚。
1月15日(火)
宮中で歌会始が行われた。皇太子妃の歌は教養や心情がそのまま出ていて良い歌だと思ったが、皇太子の歌は非道いものだった。
生(あ)れいでし みどり児のいのち かがやいて 君と迎える 春すがすがし 東宮妃
皇太子妃の歌はなかなか良い。しかし、皇太子の歌は書くに値しないので書かない。あんな歌しか歌えないのか?天皇の歌はまともだ。美智子妃の歌は、妃殿下って感じかな?一方、皇太子は何を考えているのか判らない。源氏物語の漫画、『あさきゆめみし』 を読んでいるからだろうか、そんなことを思ってしまった。
アクセスカウンター分析によると、10回以上アクセスしている人が、30人以上いた。1日以内にアクセスしていた人が40人いた。有り難いことだ。年が明けて、大学からのアクセスが増えた。昼の時間帯に多いのはそう言うことらしい。また、広告代理店や放送局からのアクセスがある。一昨年、スペインに行ったとき友人の旅行ガイドがこのHPを見ているお客さんがいると言っていた。ニューヨーク在住のカメラマンが取材のためにHPを見て、参考にし、雑誌に闘牛の特集記事を載せた。去年は、HPの闘牛士をチェックして、ノートに書き込んで、その闘牛士を見ようと計画を立ててマドリードに来ている人や、プリントアウトしたものを持ってきて町中を持って歩いて闘牛を見に行っている人もいたという。
あまり直接的には、このHPが闘牛観戦の役に立っているとは聞かないが、年が明けたこの時期から9月くらいまではカルテルや闘牛の質問を受ける。実際、広告代理店や放送局からの問い合わせもある。個人で利用している人は良いが、旅行会社や広告代理店や放送局は、それで金儲けをしているわけだ。こっちは教えたからと言って金が貰えるわけではない。あんまり面白いことではない。しかし、放送や広告を観て、闘牛に興味を持ったり、実際にスペインに行って闘牛を観る人が増えるだろうと思うから、あまり不満も言えないが。
折角、カルテルを早く書いて情報を出しているつもりなのに、同じことを質問されるとガッカリすることもある。ちゃんと観てよ。と、思うのだ。一方、昔書いた闘牛の文章の質問をされているのに気付かないこともある。書いた本人が忘れているからだ。がっはっはっ。
このHPは、忘れないように思って書いていたこともあるし、こういうことは基本的なことと思って、書いたこともある。書きながら考え方をまとめるという作業をしているときもある。色々だ。好き勝手に利用して欲しい。ただし、闘牛観るときは正しく観ましょう。好き勝手でも良いけど、本当は、牧ちゃんじゃないけど、清く正しく観ましょう。
ブッシュ大統領がTVを観ていたときに、プレッツエル(クラッカーの一種)をのどに詰まらせて窒息死寸前になって失神した。記者会見した55歳の大統領は開口1番、「お母さんはいつもプレッツエルを食べるときは良く噛んでから飲み込めと言っていた。お母さんの言うことを良く聞かないとね」と言ったそうだ。55歳の大統領がこういう事を言うことに違和感を感じる。母じゃなくて妻じゃなきゃいけないんじゃない。父親も日本に来ていたとき会食中に嘔吐して倒れたことがあった。この人たちは何かを食べるときには注意しないといけないようだ。良く噛んで食べると言うことが出来ないことが、すでに老化ではないかと思うのだが。
大和和紀 『あさきゆめみし』 2,3巻 読了。山田風太郎 『忍法封印いま破る』 読む。
大和和紀は、やまとかずき、と読むのだと思っていたら、やまとわき、と読むのだそうだ。何かガッカリするな、この読み方。
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