−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
99年1月13日(水)
HPを開設して4ヶ月目になる。
「何とかしようと思っていたのに、こんな時にかぎって朝が早い」−−中島みゆき−− いきなり、中島みゆきの引用から始める。「こんな時にかぎって朝が早い」のではない。何とかしようと、思っていて何も出来ないから朝が早いのだ。(正確な引用ではなく、うる覚え)と、言ったのは、詩人の天沢退二郎だ。
何とかしようと思っていたのに・・・。 それは、今多くの人が思っている感情だろう。インターネットで『ドクター・キリコの診察室』を、開設して自殺幇助した人間もそうだろうし、自殺した人間もそうだろう。みんながみんな、何か良いことないかなぁ、と、良いことを探している状態だ。あるいは、良いことなんかないから、面白いことないからと、諦めているのかも知れない。
そして今年になって発覚した殺人事件が、星野克美の、伝言ダイヤルを使ったもの。この薬を飲むとやせる。と、言って睡眠薬を飲ませて、現金を奪い、放置する。結果その女性は死ぬ。冬の夜の寒さを知らないのだろうか?いくらかの金を取るために何故そんなことしなきゃならないんだろう。訳が分からない。
逮捕されたときは、顔をマスコミに見せていたのに、最近は下を向いて顔を隠している。でも、何故、男を狙わずに女を狙ったのだろう?何故、少額のお金の為に薬を使い、人を殺したんだろう?
ヴェンダースの映画だったと思うけど 『パリ、テキサス』 で、母親に育てられた7歳位の子供が、失踪していた父親と会ったとき、3歳当時の8ミリフィルムを、見せられて、目の前にいる男が自分の父親だということを理解していくシーンがあった。父親が母親が働いている風俗店に行って、マジックミラー越しに会話し、女が、男が自分の夫であると気付いていくシーン。最後の所では、カセットテープに録音した声を聞いて関係の終わりを知らされるシーン。
あの映画を観たとき、肉体と肉体が触れあわず、出会わず、常に間接的に人間関係が存在している、と、思ったものだ。なんか変な感覚を覚えた。これからこんな世の中になって行くんだろうかと思ったのを覚えている。
インターネットも使い方によっては非常に危ないものになってしまう。そこには生身の肉体が、触れあう以前に、見えないからだ。肉体とは、声であり、顔であり、表情であり、仕草であり、間であり、話であり、香りであり、・・・である。
何とかしようと思っていたのに・・・。ドクター・キリコのHPを作って自殺した人間や、星野克美は、一体、“何を”、何とかしようと思っていたんだろう? 普通の人だった。と、多くの人が犯罪者をいうのは、もう、うんざりだ。相対的に言って、確かに普通の人かも知れないが、絶対的に言ったら、異常なのだ。
多くの人が、今、バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で解らなくなっている。何もかもに。それは、とても怖い事だ。
1月15日(金)
丁度1年前、今使っているノート型パソコンを買った。買ったのはマドリードで世話になった人の影響だ。インターネットをやりたいとか、ワープロで闘牛の事を書き留めたいとか、あって買うことにした。闘牛のHPについてはペーニャ(東京闘牛の会)で開設しようと思っていたがそれがかなわず、自分で開設することになった。
結果的にはその方が自由が利いて良かったと思う。日本における闘牛ファンの集結なんて出来るかどうか判らない。だが、闘牛の情報を出来る範囲で徹底的にHPで流していこう、それがこのHPのコンセプトだ。
今日は、TVを着けっぱなしだ。それもNHKだ。19:30からは、1)「夢はきっとかなうもの−−シャンテ・手話で歌うロックの喜び−−」。21:00からは、2)「安室奈美恵 21歳の挑戦」。22:00からは、3)「手塚治虫・世紀末へのメッセージ」。今、面白いのは、空想ではなく現実だ。これらのドキュメンタリーと言って良い作品はこのことも証明している。
1)は、全盲のロックバンド、シャンテの話。ベースでリーダーの鍼灸師、そして、美容学校のソーシャルワーク。身障者との接し方や点字を教える。ドラム、パーカッション担当は、中途失明した人の指導員。ギター、ボーカルの理学療法士。手話で歌詞を歌う、手話ロックボーカリストはOL。OL以外は、全員全盲だ。
健常者の奥さんを持つ人。学校の先生が恋人の人。点字の年賀状を「汚い点字やなぁ。でも、僕が教えたわけだから嬉しいですよ」と、言って喜ぶ姿は、社会の中に健常者と身障者の接点を多く持つ事に努力している人の、張りのある日常生活がある。バーチャルな世界では生きていないのだ。
東京でのコンサート。大晦日のロックフェスティバルの参加。公演のスケジュールの沢山入っている。今年の6月はアメリカの身障者の音楽フェスティバルに参加する。全盲の人達の生きる希望は、肉体的な障害で挫けはしない。いや、逆に炎のように輝き燃えているようだ。
2)は、僕が語るよりは見た人がどう感じるかだろう。彼女のファンは一杯居るし、僕は彼女のファンじゃないし・・・。ただ、彼女の様にみんながなれるわけじゃない。そうなろうと思ってもなれるもんじゃない。彼女のバックで踊るダンサーだってそう。ダンサーになりたいと思っても、あそこに立つことが出来ない人の方が、立つことの出来る人の何十倍も居るんだろう。
3)は、漫画家の手塚治虫の未完の作品で絶筆になった 『ネオファアスト』 にまつわる話。死の直前まで原稿を書いていたものを紹介している。原作は勿論、ゲーテ。戦争中の医学生時代に、末期の人の痛みに苦しむ顔に見せた最後の笑み。手塚さんは、人間の命の尊さを常に問いかけた人だ。
そして、劇場用の原稿 『ファウスト』 と、『ネオファウスト』 を比べて進められる。自分の望むものを叶えることと交換に、悪魔に魂を奪われてしまう話。悪魔に、自分の望みと魂を秤に掛けられて、結局人生を見失っていく人。「神は、努力なすものを、救い給う。」
幼い頃の昆虫採集から“命”を学んでいく。こんな小さなものにも、命の大事さを感じ取っていく。えっ、昆虫の命を奪って、命の尊さが解るわけ。何て言ってる人。ナンセンス。命を奪ってまで採集する意味があるからこそ、命の尊さが解るんじゃないですか?これ闘牛と一緒でしょ。殺すから逆にそのコントラストで“生”が際立つんじゃござんせんか?
訳の分からない動物愛護は白人の人種差別と一緒だ。グリンピースに任せれば良いじゃないか。所詮動物愛護は彼等の金儲けの手段なんだから。競馬も闘牛も馬や牛を嫌っているわけじゃない。その逆でしょう。話が逸れた。
大作家は、手塚治虫にしても、山田風太郎にしても、戦争を体験した人だ。そうでなければ、立花隆の様に若くして外国に出て日本以外の国を見てきた人だ。そういう人が物の本質を見抜く事が出来る様だ。そうでなければ、今は、身障者になってしまうのかも知れない。
戦争。外国。身障者。美しいものも、そうでないものも、現実を理解しなければどうにもならない。そして自分がどういうものか解らなければならない。恐らく一生掛かるかも知れないが。そして、自分を愛せなかったら、人生はつまんないものになってしまうよな、きっと。自分を愛せないのに他人を愛せないよなぁ。自分すら愛せない。そうなると 「オーム真理教」 になってしまうよなぁ。きっと。
最後は、手塚さんの漫画の台詞で締めよう。 「つまりは せいいっぱい人間が生きられたかってことなんだ。」 そういう風にオイラは生きたいものだ。
1月17日(日)
阪神大震災から4年。あの日で、人生が変わった人が沢山いる。あの日の朝、僕はいつものように目を覚まし、TVのスイッチを入れた。ヘリコプターからの撮った高速道路倒壊の映像。これは5000人以上は死んだなと、思った。地震は恐ろしい。が、その後の行政の対応の方がより恐ろしい。
震災後の街の映像を、TVがお茶の間に流す。何日も何日も震災で疲れた人達の映像を、街を取材した映像を流し続けた。それはあの 「オームのサリン事件」 が起こるまで・・・。
1番印象に残っているTVの事を書く。それは、車椅子に乗っていた身障者がマイクを向けられていた所だ。震災から2.3日後だったと思う。トイレの水が使えないとか、囁かれ出した頃だ。記者 「役所の方で食事を配ってるそうですが、ちゃんと届いてますか?」 身障者 「届いてますが、僕は食べてません。食べると出るんです。こんな体だからトイレがなかなかないんです。だからお腹が空いていても食べないんです。」
震災で悲しみに暮れる街、人。沢山の映像がTVで流されたが、もっとも具体的で、もっとも日常的で解りやすく、しかもショッキングなものがそれだった。当たり前に出来ていることが、出来なくなったときの不安は日常生活を揺るがす。
6430人がなくなった震災。困った時に困った人同士助け合う。そんな当たり前の事も、あの人達は学んでいった。勿論、人の弱みにつけ込んだ犯罪も多かった様だが。人が生きるとき、そこにはどうしても他人との関わりを持たなければ、生きていけない。困った時になったらいきなり人と上手く付き合うことは出来ない。人は、普段出来ている事の延長線上でしか物事に対処出来ないのだ。
普段からの人付き合いは、その人の生き方とリンクしている。阪神大震災から4年目に改めてそんなことを考えている。
1月19日(火)
さっき東京では、雨が降った。今日、紀伊国屋書店出版の 『おとぎ話が神話になるとき』 ジャック・ザイプス著、を買ってきた。日本の読者へ、と言う初め書きには、ペルーの作家マリオ・バルガス・リョサの小説 『ストーリーテラー』 の部分から始まる。アマゾンにいるインディオの、アブラードール(語り部)と言う霊的指導者(ジョーゼフ・キャンベル風に言えばシャーマンと言うことだろう)の事から始まる。
おとぎ話や、神話、は、かなり面白い。山田風太郎の物語。ジョーゼフ・キャンベルの語る“神話世界”は、とてつもなく面白い。この本で、ストーリーテリングやドラマツルギーの何かが解ればと、思う。資料として本を読むより、物語を読む方が楽しい。資料を読んでいて楽しいのは、競馬のデータや闘牛の事だけだ。買ってきた本をこれから読もう。
1月22日(金)
なんか疲れるなぁと思っていたら、原因は、ずーとパソコンをいじっていたせいじゃないみたいだ。寝てないからだよな。馬鹿みたいだが、今解った。東大生が東大生を刺した。新興宗教の勧誘活動の一環として女が男を食事に誘う。男がその気になった時、女は他の男と仲良くしていて・・・。いきなり後ろから刺した。
事件はいつの場合も、いきなりだ。男の中で、思いが爆発したのだろうか?一緒に飯くったくらいで好きになるくらい、良い女だったのだろうか?
かと思えば、9歳の男の子を人質にして、大物政治家を呼べの、マスコミを集めろとか言って16歳の男が事件を起こす。平和って言いよなぁ。バカバカしくって。事件だけ見ても退屈しない。戦争中の自殺者に比べたら、今の自殺者の方が断然多い。五木が言ってた。五木と言っても“ひろし”じゃなくて、“寛之”の方だ。
「こんな時代だから、安く売る。3割・4割引きは、当たり前」 電気屋のCMの方が気が利いてる。高校生の就職さえ、出来ない世の中になったと言う。それだけじゃなく、スペシャリストさえ首を切られるのに、それは、当たり前と言えば当たり前だが。
肉体不在の時代に、精神や心と言ってれば、「オーム真理教」になっていくのは当たり前かも知れない。闘牛、競馬は、精神じゃなく、肉体が存在する。寧ろ肉体がなく、精神の闘牛や、精神の競馬、何てあったら、そんなのは闘牛や、競馬じゃない。昔、流行った、アレナの中で椅子などにムレタを持って立って、牛を誘う。牛が全然来ないのに、観客は喜んだ。こういうのって精神の闘牛。見たくもない。
1月23日(土)
今日は朝早くから千葉に行って来た。競馬場じゃない。佐貫町でJRを降りて、バスで、マザー牧場へ。ペーニャの荻内さんと足立さんと3人で行った。山の中にある牧場で羊や馬、豚そして目的の牛がいた。ここは娯楽施設が結構あって観覧車やバンジージャンプなどがあったが、乳牛の乳搾りあり、乗馬、子豚のレース、犬を使って羊を移動させるニュージーランド仕込みのショーを見せてくれる。
農園などもあって、今の時期はイチゴ狩りが出来る。コンセプトは動物との“ふれ合い”。スペイン語で言うと、ティエンタ。そして今回の目的はこのティエンタだ。スペインから闘牛士が来て何が出来るか?闘牛ではなく、ティエンタではないか?そう考えて何処かで出来ないかと、探しに行ったのだ。
NHKや、ペーニャでホセリートの牧場に行った時のティエンタのビデオを見て、説明したりしてここで出来るかどうかを話してきた。動物愛護などの問題もあって日本で、闘牛というのは印象が良くないみたいで、マザー牧場側でOKがでるかどうかは解らない。ただ、応対にあったった山岸さん渡辺さんの感触は悪くなかった。
1月26日(火)
HPに写真張り付けの為の整理がなかなか進まない。主にポジフィルムなのだが、36枚撮りで400本位ある。初めにアップするのは、トップページと闘牛士紹介のそれぞれの闘牛士に貼ろうと思っている。
12月に買って来たCDとずーと聴いている。ユーミンのだ。実は、ユーミンは大嫌い。初めて買う気になったのは、嫌いなのは何故だろうと思ったからだ。でも新しい発見もあった。聴いていると馴染んでくる。聞き流して聴ける所が良いのかも知れない。
が、基本的に、声が気持ち悪い。歌が下手。歌詞が幼稚で、いつまでたっても青春。この人は、成長と言うことを知らないのだろうか?気持ちよさそうなメロディーにしても直ぐ飽きが来る。歌詞にも鋭さがない。 「ソーダ水の中を貨物船が通る・・・」 昔の歌だけど、倉橋由美子が、小説の中で引用しているけど、この辺が東京田舎生まれの都会人の表現の限界なのかも知れない。
それなら、本当の田舎生まれの歌姫、中島みゆきの方がずっと良い。 「嫌な癖だよ 男に振られたその後で なぜだか決まって風邪をひく ・・・上から読んでも下から読んでも 世の中馬鹿なのよ」 いけてる。でも、最近のCD買ってないなぁ。
1月29日(金)
注文していたジプシー・キングスの 『グレイテスト・ヒッツ』 が届いた。1) 「Djobi Djoba」 は何故 「ジョビ・ジョバ」 になるのだろう?辞書にも載ってないので意味も解らない。2) 「Baila Me」 3) 「Bamboleo」 5) 「Bem Bem Maria」 13) 「Soy」 14) 「La Quiero」 16) 「Vamos Bailar」 17) 「La Dona」 が、アップテンポの曲。
インストロメンタルは、もうフラメンコ。7) 「Moorea」 10) 「Galaxia」 15) 「Allegria」 の3曲。4) 「Pida Me La」 と14)は、スペインの祭りを思い出す曲。バラードは、 12) 「Tu Quieres Volver」 はオリジナル曲でなかなか良い。スタンダードのカバー曲が、 6) 「Volare」 8) 「A Mi Manera」(マイ・ウェイ) の2曲。
お気に入りは、1)3)8)12)14)と、19)のメドレーも結構良い。2)のイントロは最高だ。ようやく念願のCDを買って、8)を何度も聴いていると、97年4月から11月の初めまで、闘牛士を追っかけて旅した事を思い出す。9月の各地の祭りで良く聴いた曲だからだ。
このCDを聴きながら、プリンス・オブ・ウエルズの紅茶に、ブルーベリーのジャムを入れて飲んでいると、スペインと闘牛を思わずにいられなくなった。行くぞ!サン・イシドロに!
2月7日(日)
今日は競馬には行かない。東京新聞杯、も、きさらぎ賞、も魅力を感じないからだ。
去年もそうだったが今の時期、『6TOROS6』 のHPが更新されない。何故だ。情報が入ってこないぞ。でも、バレンシアが始まる頃には直ってるはずだ。それにしてもこれがスペインだ。
2月8日(月)
HPのアクセスについて思うことがある。
1つは、掲示板の書き込みが多く、それを目当てに人が集まってくるサイト。
もう1つは、情報を得るためにHPにやってくるサイト。
掲示板の方は、女性が開いている所で、女性が書き込みに来て情報が交換される。だから自然に男性のアクセスも増える。情報を提供するサイトは、旅行関係で、初めてスペインに行く人などがアクセスしてくる。共通点は、生きた情報。
これは、スペイン関係で言えば、掲示板型が、 『ヨーコのスペイン語覚え書き』(アクセス数が1年で、27000以上) で、情報提供型は、 『スペインなんでも情報リアルタイム!』(アクセス数が5ヶ月で、11700) に、なるのだろう。
一方俺のサイトは、5ヶ月弱で、2200弱。この違いは何なんだろう。それでも1日に15前後のアクセスがある。元々が闘牛に絞っているので、闘牛自体に関心のある人がそれほどいるわけがないので仕方がない。
何故こんなことを書くかと言えば、『スペインなんでも情報リアルタイム!』 に、闘牛のコンテンツが出来たからだ。それを書いているのが、東京闘牛の会に来て、話をして貰ったことのある、榎本和以智さんだからだ。勿論俺も何度か会って闘牛の話をした。闘牛の会に呼んだのだって実は俺だ。
榎本さんは、マドリードで20年以上闘牛を観てきた人だ。仕事は、旅行ガイド。嫁さんはスペイン人。まだ、コンテンツを開いたばかりでどういうコンセプトで闘牛を語って行くのかは、分からない。でも、闘牛の見方も、闘牛の語り方も違う。また、自分でHPを作っていないので更新の仕方も違うだろう。
俺のHPは、旅行ガイド的な語り口にはしたくないと思ってやって来た。だから、闘牛のことについてのHPではライバルになるのかも知れないが、本当はそうじゃないのだ。それは、HPを見る人が決めればいいことだが・・・。
でも、松田君の、『東京マドリー化計画』 にしても、榎本さんにしても、俺のHPにしても、闘牛自体をしっかりと取り上げ、語るサイトが増えることはとても良いことなのだ。闘牛を、日本に紹介するサイトがドンドン増えること、それを見に来る闘牛ファンが一杯できることの方が重要なのだ。と、思っている。
99年2月9日(火)
ようやく、『6TOROS6』 のHPが開く。いきなり、NO,239が飛んでいて、NO.240がアップしていた。早速カルテルを拾ってHPに載せる。バレンシアのカルテルの所が、ABCでモラとしか書いてなかったのは、エウヘニオ・デ・モラではなく、ファン・モラであることが判った。
一昨日、松田君の家に行って来た。HPに写真を載せる事について話してきた。1月中に載せようと思っていたが出来ず、ずるずる延びている。取りあえず、20枚くらい載せようと思う。20日位には出来ると思う。
このHPの文章が読み難くないか聞くと、そんなことはないと言っていた。でも、普通の人じゃないですよ。と、言う。彼は、日記も読んでいるみたいだった。これって普通の人が書く事じゃないのだろうか?
闘牛自体を取り上げるのが、普通の人のやる事じゃないかも知れない。が、日記の事が普通じゃないと、言う。でも、普通って一体なんなんだろうか。良く分からない。去年のTVCMで、大野屋の、1人の老女の写真がドンドン若くなっていって赤ん坊の写真になって、「普通の人なんて何処にもいない」 と、いう台詞があった。俺はあのCMの様に、普通の人なんて何処にもいないと思っている。
みんなそれぞれに個性的だと思う。これを肉体で言えば、顔が違うことだ。その人を日頃何で認識しているのか?それは一見して判る、顔だ。大体、みんな同じ顔だったら気持ち悪いよな。大体、HPなんて個性的でこそのものでしょう。などと考えた。
99年2月12日(金)
水曜日に火傷した。木曜日は雪の中にいた。寒かったが火傷には良かったのかも知れない。今日は暖かかった。朝、『6TOROS6』 のHPにアクセスしてみたら、NO.241、が、アップしていた。コロンビアの地震(アルメニア、ペレイラ)救済の為の、慈善闘牛を今週やるとでていた。
何だかとても嬉しくなった。勿論、セサル・リンコンも出場する。早速最新情報に載せる事にした。明日は闘牛の会。原稿が全然出来てない。それなのに、HPを作っている。呑気なものだ。明日ながすビデオの用意だってしなきゃならないし。
「出来ることは しなきゃならないことなのさ しなきゃならないことを するんだよ だからうまくできるのさ」 −−−ボブ・ディラン−−− これからやるか。
99年2月14日(日)
昨日、TTTに行ってきた。具体的に進んでいること、進んでいないこと、がある。ここでは未だ書けない。会報の新しいのが出来たので配られた。闘牛カレンダーも出来た。昨日来ていない人には郵送される。
会報の俺の文章が、おかしくなっている。短くして読みやすくしようと言うのは良いのだが、意味を変えられるのは問題が多い。困ったもんだ。あれを見て、知らない人が誤解してしまったら、俺は嫌な気分になるだろう。
所で、スペインに行って来た会員が、下山敦弘さんに会って来たと言っていた。とても元気で、歩くのも大分スムーズになったと言っていた。彼が言うには、本当に闘牛士に復帰するかも知れない。と、まで言った。それが本当ならとても嬉しいことだ。
帰り際、「桜花賞は、フサイチエアデールが勝ちますよ」 と、言っていた。この人は、フサイチの馬主の秘書である。だからこういうことを言う。だから、正直に言った。「スティンガーでしょう。」 と、言うと 「実は僕もそう思います。でもフサイチエアデールよろしくお願いします」 と、言った。何だか可笑しくなった。まぁ、シンザン記念、勝ってるんだから良いところまで行くと思うけど。
99年2月16日(火)
「頑張らない
出来ないことは 頑張らない
頑張らない 頑張らない 頑張らない
頑張らないけど 諦めない 諦めないけど 頑張らない 」
これは、身体障害者の詩だ。
頑張るって言葉が俺は嫌いだ。だからこの詩が好きだ。出来ること、やりたいことをやる。そうじゃないことは、頑張らない。これ人間の基本のような気がする。
今日、上野の国立西洋美術館に行って来た。闘牛の会に行った時に、東西文化センターでチラシを貰ってきたからだ。それとこの前、松田君の家に行った時に、「これが僕の活字デビューです」と、言っていた。『ゴヤ版画に見る時代と独創』 だ。 ビックリしたのは、ベラスケスの 『ラス・メニーナス』 の模写の版画があったことだ。ゴヤもベラスケスの絵で勉強していたんだ。
注目の、『戦争の惨禍』 は、やはりドイツ人の画家で、第1次世界大戦に従軍して戦争の悲惨さを版画にした、オットー・ディックスを思い出す。『戦争の惨禍』 のタイトルの日本語訳の作業をやったことのある、Nさんが前に言っていたが「あの版画見て訳してると段々吐き気がしてきて気持ち悪くなった」と。そうかも知れない。それがノーマルなのだろう。オットー・ディクスの版画を見た時がそうだった。
1808年5月2日。dos de mayo. は、ナポレオンのスペイン侵略を描写した作品。今でこそ、マドリードでは、サン・イシドロ祭前の、ゴヤ闘牛が定着しているが、実際には大虐殺が行われた日を記念している。サラゴサ近辺で実際に見た、ナポレオン軍、とスペイン市民、両方が大虐殺をした。その事の描写がこの 『戦争の惨禍』 だ。
日本語訳、「嫌なのだ」 は、 No quieren.で、「やはり嫌なのだ」 は、Tampoco.である。そりゃそうだ。俺でも分かる。版画は、前者が、兵士に抱きつかれて逃げようとしている女の後ろで、老婆がナイフを振り上げている。後者は、地面に倒された女の上に兵士が乗ってこれから事を起こそうとしている。
また、裸で木に吊された死体の陰部が切り取られている版画。死体をいたぶる兵士。「さらに何をすべきか?」などは、オットー・ディックスのような版画だ。流石に、ウジ虫が湧いてる骸骨は描いていないが。でも嫌になってくる物だ。人間ってこんな事をやってしまえるのだ。恐ろしいことだ。
『闘牛技』 の事は、今日は書かないことにしよう。面白い発見があったが。まぁ、確か文化村で、ピカソもやるはずだ。それも見に行かなきゃな。その前に同じ上野の、東京都美術館で、身体障害者の美術展が行われている。ピカソの前にこっちに行こうかな。
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