−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
por 斎藤祐司
過去の、断腸亭日常日記。 −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−
太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、のスペイン滞在日記です。
8月4日(土)
山田風太郎が死んで1週間が経った。弔意を示すためにHPの更新はこの日まで待った。
風太郎の本は色んなものを読んだ。思い出したように手に取る本が2冊ある。『人間臨終図巻』 と 『戦中派不戦日記』 である。どちらもドキュメントだ。一冊は、歴史上に人物などの臨終をテーマに書いたもので、これは、作家になってから書いた。一冊は、東京医大に通う23歳の医大生、山田誠也が1945年(昭和20年)日本敗戦の年、一年の日記である。爆弾が飛び、食い物がない時代なのを考慮に入れなくても、物凄い読書量である。尚かつ、当時の学生の、あるいは庶民の暮らしが細部にわたって記録されている。
思想的なものも、心情的なものもが、観念ではなく実感として記述されている。こういう肉体感覚が、敗戦の年を非常に具体的に分かり易く読者に訴えかけるだろう。文学の作品の中の、日記というジャンルの中においても非常に重要な日記だ。
今年の東京は非常に暑い。だが、東京の1日の平均気温が1番高かった日は昭和20年3月10日と記憶する。気温は47度。冬の終わりに何故最高気温を記録したのか。この日は東京大空襲の日で、焼夷弾で建物に落ち東京中が燃え上がった。その火災の熱が気温47度を記録させた。死者は何十万人にものぼったと記憶する。その日の日記にはこう書かれてあった。以下抜粋。
「 しかし、爆弾なら、地上に立っていれば吹き飛ばされてしまうだろう。低空で銃撃でもされれば、広場では盆の上の昆虫の運命を免れまい。
「ーーーつまり、何でも、運ですなあ。・・・・・・」
と、一人がいった。みな肯いて、何ともいえないさびしい微笑を浮かべた。
運、この漠然とした言葉が、今ほど民衆にとって、深い、凄い、恐ろしい、虚無的なーーそして変な明るさをさえ持って浮かび上がった時代はないであろう。東京に住む人間たちの生死は、ただ「運」という柱をめぐって動いているのだ。
水道橋駅では、大群衆が並んで切符を求めていた。みな罹災者だそうだ。罹災者だけにしか切符を売らないそうだ。
「おい、新宿へ帰れないじゃないか」
二人は苦笑いしてそこに佇んだ。
焦げた手拭いを頬かぶりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで
「ねえ、・・・・・・また、きっといいこともあるよ」
と、呟いたのが聞こえた。
自分の心の中にその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。
数十年の生活を一夜にして失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。あの地獄のような阿鼻叫喚を十二時間前に聞いた女ではあるまいか。
それでも彼女は生きている。また、きっと、いいことがあると、もう信じようとしている。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。・・・・・・この細々とした女の声は、人間なるものの「人間の賛歌」であった。 」 ーー山田風太郎 『戦中派不戦日記』 よりーー
『戦中派不戦日記』 は、薄曇のち晴の一月一日、 「運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ。」から始まり、大雪の十二月三十一日、「運命の年暮るる。日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず。」で終わる。
これほど内容がある日記は読んだことがない。みんなが生きることに必死だった。生き方を探していた時代だった。俺の日記とは比べものにならない。 「ねえ、・・・・・・また、きっといいこともあるよ」 女の言葉とは何故これほど意味もないのに感動的なのだろう。
風太郎は生きる力を与えてくれる。風太郎の小説は生きる楽しみになる。風太郎が亡くなったことは耐え難いが、『人間臨終図巻』 に書いてあった「生はやがて終わるからこそ、人間は生をエンジョイするのである。死こそ生の最高の味付けだ」と言ったオーソン・ウエルズのアフォリズムを今、思い出している。
掲示板に書き込んでくれた人、メールをくれた人、ありがとう御座います。
怪我で療養中のホセ・トマスは、今年の闘牛シーズンを終わらせることなく、8月29日のリナレスで復帰する予定。
闘牛の結果。7月31日。 アスペイティア。ペピン・リリア、場内1周。パディージャ、口笛。フランシスコ・マルコ、耳なし。
8月1日の結果。 ラ・コルーニャ。エスパルタコ、耳1枚。ビクトル・プエルト、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。モランテ、耳1枚。 アスペイティア。フィニート、耳なし。カバジェーロ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。ハビエル・カスターニョ、耳なし。
2日の結果。 アリカンテ。エスプラ、耳なし。フィニート、耳1枚。エウヘニオ、耳1枚。 ウエルバ。パディージャ、場内1周。ミウラ、耳なし。フランシスコ・バロソ、耳2枚。プエルタ・グランデ。 ラ・コルーニャ。ホセリート、耳1枚。カバジェーロ、耳なし。アベジャン、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。 アスペイティア。ヘスリン、耳なし。ビクトル・プエルト、場内1周、耳1枚。エル・カリファ、場内1周。
3日の結果。 ウエルバ。ポンセ、耳2枚。プエルタ・グランデ。ペピン・リリア、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。エル・フリ、耳1枚。 ラ・コルーニャ。エル・コルドベス、場内1周、バレラ、場内1周。エル・カリファ、耳1枚。
8月6日(月)
風太郎の死が発表になった翌日8月1日、朝日新聞に、 ひときわ高い異形の山容 と言うタイトル追悼文が載った。風太郎が公の場に最後に出た今年3月15日東京丸の内の東京会館で開かれた「日本ミステリー文学大賞」の授賞式に妻啓子に付き添われ車椅子で出席。受賞の言葉は妻が読んだようだ。
「 選考委員4人全員が風太郎さんを推した。「外国にも例のない独自の世界を作り出された方であり、山田さんがこの賞を受けて下さったことで、賞にはくがついたいうべきだろう」(佐野洋)というほど、尊敬を集めていた。
選考委員の1人としてあいさつした作家の五木寛之さんは、風太郎さんの「先手観音のような」作品群は目標の一つだったという。「デビュー作の『達磨峠の事件』以来、多岐にわたる創作活動を展開され、小説家として最も書きづらいとされる室町時代や明治開花期に大胆に踏み込むと同時に、一方では奇想天外な忍法帖シリーズで大成功を納めた。さらに 『戦中派不戦日記』 や 『人間臨終図巻』 など、現代史と人間の死生を凝視したドキュメントも忘れがたい」。
そして、「この国の文芸の連山を背に、ひときわ高くそびえる異形の山容だった」とたたえた。 」
HP、山田風太郎事典、には、「 「つまらねえな、山田風太郎もいないなんて本当につまらねえ」と、氏の訃報に接した
松山巌が記していましたが、その実感には多くの人が共鳴できるのではないかと思います(理由付けの部分は人それぞれと思いますが)。 」と、書かれてあった。そうだよな。つまらねえな。山田風太郎がいないなんて本当につまらねえよ!
4日、闘牛の結果。 エル・プエルト・デ・サンタ・マリア。ホセリート、耳2枚。プエルタ・グランデ。ヘスリン、耳2枚、耳1枚。プエルタ・グランデ。エル・フリ、耳1枚が2回。 ウエルバ。エスパルタコ、耳2枚。プエルタ・グランデ。フィニート、モランテ、耳なし。 ラ・コルーニャ。オルテガ・カノ、耳2枚。プエルタ・グランデ。ポンセ、耳2枚、耳1枚。プエルタ・グランデ。オルドニェス、耳2枚、耳1枚。プエルタ・グランデ。 サンタンデール。ルギジャーノ、場内1周、耳1枚。エンカボ、場内1周。エル・ファンディ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。 エステージャ。バレラ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。フェレーラ、耳2枚。プエルタ・グランデ。フランシスコ・マルコ、耳2枚。プエルタ・グランデ。 ペドロ・ムニョス。カバジェーロ、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。エウヘニオ、耳2枚。プエルタ・グランデ。アントニオ・ブリシオ、耳2枚。プエルタ・グランデ。 バルデペニャス。ペピン・リリア、耳1枚。エル・カリファ、耳なし。アベジャン、耳2枚、耳2枚と尻尾1つ。プエルタ・グランデ。 ISTRES(フランス)。リシャール・ミ
リオン、場内1周。ファン・バウティスタ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。セバスティアン・カステージャ、耳1枚。
5日の結果。 マドリード。ペピン・ヒメネス、ルイス・デ・パウロバ、ロメリート、耳なし。 バルセロナ。アルミジータ、口笛。エル・タト、罵声。モレノ、耳なし。 エル・プエルト・デ・サンタ・マリア。エスパルタコ、耳1枚。ハビエル・コンデ、場内1周。アベジャン、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。 ラ・コルーニャ。ミゲル・ロドリゲス、耳1枚。ファン・バウティスタ、耳1枚。ヘスス・ミジャン、口笛。 ポンテベドゥラ。ポンセ、耳2枚。プエルタ・グランデ。カバジェーロ、耳2枚。プエルタ・グランデ。エル・フリ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。 ビトリア。ペピン・リリア、耳なし。ビクトル・プエルト、耳1枚。エル・カリファ、場内1周。 ベルハ。エスプラ、耳1枚。クーロ・ビバス。場内1周、耳2枚。プエルタ・グランデ。エル・ファンディ、耳1枚、耳2枚と尻尾1つ。プエルタ・グランデ。 エステージャ。モランテ、エウヘニオ、ハビエル・カスターニョ、耳なし。 イスカル。オルテガ・カノ、耳2枚。プエルタ・グランデ。ホセリート、耳なし。ルギジャーノ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。 マルベージャ。フィニート、耳2枚が2
回。プエルタ・グランデ。エル・コルドベス、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。オルドニェス、耳2枚。プエルタ・グランデ。 バイオンヌ(フランス)。ソトルコ、耳なし。フェレーラ、耳1枚。フランシスコ・マルコ、口笛。
8月7日(火)
昨日は、片山先生に会ってきた。先生は元気だった。酒を飲みながら鼻水を流していたのは冷房のつけすぎ。涼しいのだから付けなきゃ良いのに、「僕はさ、外に出なから暑いか、涼しいか分からない訳よ」と、言っていた。始めて入る店で、メニューを観ているときは興奮していたが、料理を食べてみたらちょっとガッカリ。不味くはないが取り立てて美味くはない。酒は、美味しいものがあった。
大半の時間を料理や酒の話に使った。それから場所を変えて、今度は2人で飲んだ。先生は来年大学を定年で辞める。色々なところから「うちに来て教えて欲しい」を言われたそうだが全て断り、名誉教授にもなるのが嫌だからそれにもならず、「僕は小説を書く」と言っている。片山家の話を色々聞いたが、世間的には右京の話が売れるのだろうが、何と言っても先生のお父さんの話が面白い。「先生、それ書くべきですよ」と言ったら、みんなに言われる、と笑っていた。
風太郎の話もした。「あの人は凄いひとよ」 風太郎で何が1番好きですかと聞いたら、「やっぱりインパクトで言ったら忍法帖。あの物語の凄さと言ったら・・・。」 エッチなところも良いでしょう、と聞くと、笑いながら 「風太郎のは、想像力エッチって言う奴ね」 淫石って発想なんか凄いですねと、言ったら笑っていた。先生曰く、 「今の人のダメなのは想像力がないことだね」、と。
いよいよ帰る為に外に出てから、先生は、「君のこの前持ってきた原稿読んだけど、君は書けるよ。闘牛の事じゃなくても小説でも何でも書けばいい」と仰有って戴いた。「何も僕のライバルを作ることはないんだけど、書きなよ」先生は大事なことを最後にちょっとだけ言う。元気が出る言葉を戴いた。来年先生と一緒にサン・イシドロを観るだろう。須美さんには、もうアボノを2人分頼んでいる。セビージャの話なども出て下山さんの事を書けばとも言われた。下山さんにもメールを出さないと。
6日の結果。 ビトリア。ヘスリン、耳なし。オルドニェス、口笛。アベジャン、耳なし。怪我。
8月8日(水)
ミスター競馬 こと野平祐司が6日午前9時27分肺炎のため死亡した。享年73歳。海外遠征の先駆者で世界からまったく注目を集めていない頃から日本の競馬が世界に通用するのかを問いただしていた。騎手としての名人芸で絶大な人気を持っていたようだ。調教師になってからは、日本競馬史上不滅の大記録、無敗で三冠馬になった名馬シンボリルドルフをターフに送り出した。もしこの時、調教助手で藤沢和雄が野平厩舎にいなかったら、今のように何年も連続してNO1調教師には成れなかっただろう。岡部幸雄もシンボリルドルフに乗っていなかったら今のような騎乗ポリシーに辿り着いたか疑わしい。
野平祐司が跛行した馬に乗ると、馬の跛行が治るという伝説を持つホースマンだった。現在、岡部幸雄、蛯名正義、武豊など海外で活躍した騎手を世界に送り出したが野平祐司がはたした役割は非常に大きな財産として日本競馬界に残した。そして、競馬をギャンブルではなくスポーツをして認知させた功績は物凄いことだ。ファンのための競馬を競馬サークルの内外に浸透させるために人力を尽くした。競馬界の著名人たちが弔意を示すコメントを多く送った。
山田風太郎の 『戦中派不戦日記』 に広島の原爆の記述が出てくるのは投下後2日たった、8月8日である。
「 広島空襲に関する大本営発表。
来襲せる敵は少数機とあり。百機五百機数千機来襲するも、その発表は各地方軍管区に委せて黙せし大本営が、今次少数機の攻撃を愕然として報せしは、敵が新型爆弾を使用せるによる。
「相当の損害あり」といい「威力侮るべからざるものあり」とも伝う。嘗てなき表現なり。いかなるものなりや。 」と、記述している。
情報が公開されない時勢に、大本営発表に途方もないことが起きたのではないという不安が文中から読みとれる。それと同時にして北方からソ連が攻めてきたことが報じられた。風太郎はここで信じられないことだが敗戦を覚悟する。そして、敗戦の後に来る日本を憂いている。
明日の夜、NHKで長崎に原爆を投下した飛行機の乗務員が長崎を訪ねた話を放送する。どういう証言が出るのだろうか。
ADSL(高速ネット通信)の料金を各社が一斉に値下げを発表した。9月1日付で、YahooがADSLの1ヶ月料金を2280円で開始する。これは本当は8月1日から開始予定だったが事務手続きが遅れて9月1日にずれ込んだ。これに対抗するために書くプロバイダーが2千円台〜3千円台に値下げした新価格で対抗する。Yahooは、ネットビジネスの寵児、ソフトバンクの孫正義に買収されてADSLの破格料金で一気に攻勢をかけようとしている。この料金は今まで6000円前後で推移していた価格を半分近くの値引き合戦に引き込んだ。
この事によって日本の高速ネット化は一気に進むだろう。
7日の結果。 ビトリア。ポンセ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。モランテ、耳なし。エル・フリ、耳1枚。 ソト・デル・レアル。ルギジャーノ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。ヘスス・ミジャン、場内1周。イバン・ビセンテ、耳2枚。プエルタ・グランデ。 CHATEAURENARD(フランス)。フェルナンデス・メカ、耳なし。フェレーラ、場内1周、耳2枚と尻尾1つ。プエルタ・グランデ。エル・ファンディ、耳1枚。
8月9日(木)
「 「千人近くもの死を見てきて思うことは、人間の死には早すぎる死か遅すぎる死しかないをいうことだ。主観的にも客観的にも早すぎず遅すぎず、ぴたりといいところで死んだ、などという幸福な人間はまずいない」 」 ーー関川夏央 『戦中派天才老人山田風太郎』 よりーー
93年12月に山田風太郎はこう言っていた。21世紀初めの敗戦記念日がもうする来る。TVなどで色々な特集が組まれるだろう。
8日の結果。 ビトリア。イガレス、耳なし。パディージャ、耳1枚。ヘスス・ミジャン、耳なし。 マラガ。ポンセ、耳なし。ヘスリン、耳1枚。フィニート、耳なし。
8月10日(金)
昨日今日と日が出ないのに蒸し暑い日になっている。夕方になれば風が吹いて涼しくなるのだが。
この前、片山先生と食事したとき、鱧(ハモ)葛切りを梅肉で食べた。それほど美味しいものではなかったが、京都出身に人が、「私の姉が、鱧は東京に来たら鱧じゃなくなる。本当の鱧を食べるなら京都で食べないと」、と言っていた。こんな話を聞くと山田風太郎と同じ79歳で死んだ文豪、谷崎潤一郎を思いだした。その事を片山先生に言ったら、「いや、谷崎が考案した食べ物は結構あるのよ」と、言っていた。
昭和20年の今の時期、谷崎は細雪の中巻を書き上げ下巻の原稿100枚を書いていた。疎開先の岡山には、永井荷風も疎開していた。片山先生に会いに行ったとき、持っていったのは山田風太郎の 『戦中派不戦日記』 。それで荷風の日記 (『断腸亭日乗』)のことを話したら、「うん、あれもいいけど、古川ロッパって知ってる。エノケンと日本の喜劇で活躍した人。彼はインテリで、日記も面白いよ」と言っていた。
久々に、古川ロッパのことを思い出した。こう言うのは読まないといけない本だ。ちなみに上記でも分かるだろうが、このHPの断腸亭日常日記は荷風の日記をもじってつけたものだ。
株式を上場した日本マクドナルドの藤田田社長が今日、「これからはもう、値下げの時代ではない。これからは値上げを検討していく」と発表した。牛丼の吉野家が8月1日から全国的に400円の牛丼を280円に値下げして勝負に打って出た10日後の発表だった。どうなって行くんだろう。
9日の結果。 マラガ。フェルナンド・カマラ、耳1枚が2回。エル・カリファ、口笛。エル・ファンディ、耳1枚、場内1周。
8月11日(土)
最近流行の言葉は構造改革。何処でも、誰でも使っているようだ。
10日の結果。 ウエスカ。ポンセ、耳なし。エル・フリ、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。トマス・ルナ、場内1周、耳2枚。プエルタ・グランデ。
8月12日(日)
NHKが4夜連続でやるNHKスペシャルの第1弾 『碧空のタンゴ・東京下町、ある職人一家の終戦』 は井上ひさし原作。脚本が黒テントの山元清多。黒テントなどで山元清多脚本の芝居を何本も見ている。自由劇場で吉田日出子が主演して曽根崎心中をやったが、あれは非常に面白い脚本だった。黒テントの中では1番TV受けする脚本家だ。加藤直や佐藤信も勿論良い。だがどちらかというと加藤直は、演出が面白く、山元清多は脚本が面白い。佐藤信はその両方が良い。山元清多がTV用にどういう本を書いているのか楽しみだ。
女子マラソンも面白そうだ。夏競馬も面白い。一戦級が休養に入っている時期、成長力が遅い馬や勝ちきれなかった良血、夏に強い馬、調子を上げてきたそこそこの馬が勝ち鞍を上げている。2歳馬のレースも始まっているが、未だ、来年のクラシックを占うような材料は出ていない。
今日は日航機が墜落して16年目。御巣鷹山には慰霊のために遺族たちが登った。今年リバイバルで色んな人が歌った、『明日がある』の歌詞は、青島幸男が書き、本歌は坂本九が歌った。名曲 『上を向いて歩こう』の歌が御巣鷹山の山道に響いたのだろうか。あるいは、16年という歳月が遺族に、『明日がある』を歌わせているのだろうか。
11日の結果。 ヒホン。ホセリート、耳2枚。プエルタ・グランデ。フィニート、耳2枚。プエルタ・グランデ。ハビエル・カスターニョ、耳1枚。 ウエスカ。オルドニェス、耳1枚。モランテ、耳なし。アベジャン、耳1枚。 ポンテベドゥラ。エスパルタコ、耳1枚。ヘスリン、耳1枚。エル・コルドベス、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。 エル・エスコリアル。エスプラ、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。エンカボ、耳1枚、場内1周。ヘスス・ミジャン、場内1周、耳1枚。 ベジエ(フランス)。ポンセ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。セバスティアン・カステージャ、耳1枚。 ダックス(フランス)。ビクトル・プエルト、罵声が2回。エル・カリファ、エル・フリ、耳なし。
8月14日(火)
小泉首相が昨日靖国神社に参拝した。昔だったら激怒しただろうが今は参拝する気持ちが分かる。僕は右翼ではないし、また左翼でもない。山田風太郎が、あの戦争を卑下する必要はないと、言ったからでもない。例えば、自分が死ぬことによって家族や日本人の今後に望みを託し特攻隊として死んでいった人たちの純粋な気持ちは長く語りすがれるべきだと思う。彼らの純粋な気持ちを否定することは国家とか、思想とかと、まったく関係なく、人間として大事な部分のような気がする。
人のために死ねることは純粋で美しいことだ。母がこのために、彼が彼女のために命を懸けて守ろうとすることを、人馬鹿だとは言わないだろう。鹿児島、知覧の元特攻隊基地で近くで食堂を開いていたおばちゃんの事をTVでやっていたが、聞くも涙の物語だった。出撃前夜、「おばちゃん、お母さんと呼ばせて下さい」と言って枕を並べて寝ていって、朝にっこり笑って、「行って来ます」と言って死んでいった二十歳以前の少年特攻隊員。
「明日死んだら、夜の9時にホタルになって食堂に帰ってくるから、追わんといて」と言って出撃。翌日の午後9時丁度にホタルが入ってきた話。朝鮮人なのに特攻隊員として死んでいった人の話など。こう言うことはしっかりと語り継がれていくべきだと思う。決して心情に流されることなく人間を見つめていかなければならない。戦争は決してやってはいけない。そう言う事も特攻隊の話を見ても分かることだろう。
昨日、関川夏央の、『戦中派天才老人山田風太郎』を読む。1番印象に残ったのはここの部分。
関川 「ところで山田さんはなにかにコンプレックスはないんですか。乱歩にあったような、隠されたなにかが」
風太郎 「親がいないことなどもコンプレックスには違いないんだろうが、やはり才能がないことかな。それがいちばんのコンプレックスだった」
関川 「冗談ばかり」
風太郎 「冗談じゃないんだ。これがほんとうのことなんだな」
山田風太郎に才能がないなんて言うのは、客観的に言って、恐ろしく嘘である。読者の殆どが風太郎の作品を読んで、その物語や内容、文章に圧倒され面白さに感動する。なのに風太郎は、才能がない、と言う。本の終わりの方にこんなのがあった。
関川 「たとえば、これを単行本にしたとき、その巻頭などにおきたい言葉などはどうですか」
風太郎 「二葉亭四迷ほど誠実な人はいないね」
関川 「は?」
風太郎 「現代日本語の文章は、実はみな彼からはじまっている。とくに二葉亭の翻訳文から。ところが、本人はそのことに気づいていないんだからね」
関川 「文学は男子一生の仕事にあらずといって、さまざまな方面に手を出し・・・・・・」
風太郎 「そして、すべて不満足に終わる。その彼が『あひびき』だかの翻訳の巻頭に、自分の訳文はへたくそだから、読まんほうがいいです、みたいなことを書いている。どうだろう、そんな言葉を添えたら」
風太郎が才能がないと、言うのは本当かどうか分からない。風太郎はそんなことを考えなくても書けた作家だ。吉行淳一郎と対談したとき、書くことが苦痛だ、と言う事を言ったがそれが分からない。と言っていた。それが天才の天才たるところだろう。しかし、仮に、風太郎が本当に才能がない、と思っていたとした、それは、偉大な作家、自分の好きな作家との比較を自分でしてそう思っているということだと思う。もしも、それが作品を書く原動力になっていたとしたらそれはそれで大変なことだが。才能がないというのは、風太郎が誠実だからと言うことなのだろう。
12日の結果。 バルセロナ。騎馬闘牛士、マルティン・ゴンサレス・ポラス、場内1周。闘牛士、フランシスコ・ベニト、耳なし。ハビエル・バスケス、コヒーダ。重傷。エル・レンコ、耳なし。 エル・プエルト・デ・サンタ・マリア。オルテガ・カノ、耳1枚。モランテ、耳なし。 ヒホン。ルギジャーノ、場内1周。エル・タト、耳なし。ミウラ、耳1枚。 ウエスカ。エスパルタコ、耳2枚が2回。プエルタ・グランデ。ヘスリン、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。カバジェーロ、耳1枚。 マラガ。ハビエル・コンデ、口笛が2回。アベジャン、耳1枚、場内1周。ラファエル・デ・フリア、場内1周が2回。 ポンテベドゥラ。ホセリート、口笛。オルドニェス、罵声。エウヘニオ、耳1枚。
アムリオ。ホセ・イグナシオ・ラモス、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。バレラ、場内1周。モレノ、耳1枚。 バエサ。フィニート、耳2枚。プエルタ・グランデ。エル・コルドベス、耳なし。エル・ファンディ、耳4枚。プエルタ・グランデ。 カマレナ。ミゲル・ロドリゲス、耳2枚。プエルタ・グランデ。イガレス、耳2枚。プエルタ・グランデ。アントニオ・ブリシオ、耳2枚。プエルタ・グランデ。 エレラ・デル・ドゥケ。エスプラ、耳2枚。プエルタ・グランデ。ホセリージョ・デ・コロンビア、耳1枚。エンカボ、耳1枚、場内1周。 マルベージャ。ファン・モラ、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。ビクトル・プエルト、ポンセ、耳2枚。プエルタ・グランデ。エル・フリ、耳4枚。プエルタ・グランデ。
バイオンヌ(フランス)。ポンセ、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。ファン・バウティスタ、耳なし。ハビエル・カスターニョ、耳1枚。 ベジエ(フランス)。フェルナンデス・メカ、耳1枚。デニス・ロレ、耳1枚。ヘスス・ミジャン、口笛。 ダックス(フランス)。リシャール・ミリオン、パディージャ、フェレーラ、耳2枚、場内1周。プエルタ・グランデ。 FREJUS(フランス)。マヌエル・ベニティス”エル・コルドベス”場内1周。セバスティアン・カステージャ、耳なし。ラミロ・カデナ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。
13日の結果。 サン・セバスティアン。ポンセ、耳なし。オルドニェス、耳なし。エル・カリファ、場内1周が2回。 ヒホン。エル・コルドベス、耳4枚。プエルタ・グランデ。ビクトル・プエルト、モランテ、耳なし。 ウエスカ。ペピン・リリア、パディージャ、ヘスス・ミジャン、耳なし。 マラガ。ホセリート、耳なし。フィニート、耳2枚。プエルタ・グランデ。エル・フリ、耳1枚が2回。怪我。 バエサ。エスパルタコ、ヘスリン、耳なし。アニバル・ルイス、耳1枚。 ベジエ(フランス)。オルテガ・カノ、口笛、耳1枚。アベジャン、耳なし。ファン・バウティスタ、耳1枚。 ダックス(フランス)。フェルナンデス・メカ、耳1枚が2回。フェレーラ、耳なし。エル・シド、場内1周。
8月15日(水)
「 トルストイ 『幼年時代』 を読む。母の死せる光景、わが母の死せる当時の追憶を誘う。
薄暗き部屋なりき。蒼き冷たき母の屍の傍らには中学二年の吾の外一人もなかりき。吾は涙すらおぼえず、ただ涸れはてて茫然と座し、やがて手をさしのばして母の眠れる瞼を開きぬ。母の目は凝然と吾を見つむるを感ぜるとき、吾はそれがすでに空しきものなりとはいかにしても信ぜられず、小さき声にてただ一語 「お母ちゃん」 と呼びたり。涙出しはそれより二、三日後のことなりき。 」 ーー山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 よりーー
人は本当に悲しいとき涙が出ないようだ。寺山修司の、母恋春歌調 −−−青少年のための家出入門−−−と言う詩にも、こんな一節があった。
「 大映映画「母三人」は、三倍泣かせる映画であった。水洗以前の便所の匂いが鼻をつく場末の港館で、
私はこの映画を三回観たのを覚えている。人生は、映画以前のノゾキカラクリで、どこでもここでもお涙頂戴。おかげで私は映画館の暗闇に逃げ場をさがして、そこに繰りひろげられる三文悲劇の因果のむくいはすべてスクリーンのなかで完結してもらうことにしたのだ。それと言うのも連絡船で、二夜の旅に出た母がそのまま帰らず、私が「捨児」になったのだと気づいたときには、母はもう炭鉱町で酌婦をしていたからだった。私は、母が出ていってから、一度も掃除をしなかった。畳の上に落ちている一本の抜け毛が、母の髪の毛だとわかると、それを指にぐるぐると巻いて長さをはかったりした。二ヶ月位は平気だったが秋風が吹
く頃、銭湯に行って湯につかっているとなみだが出てきた。遠くから、銭湯まで祭囃子の音がきこえてきたときのことだ・・・・・・・・・
」
愛の原型は、人間が哺乳類である以上母親が根本にあるのは当然の事だ。風太郎も寺山も母に育てられたと言う共通点を持っている。風太郎は、母の死によって、寺山は、母に捨てられてひとりぼっちになる。風太郎、12歳。寺山は小学校上級生だった。闘牛士、ホセリートも12歳で父親を死別しひとりぼっちになった。それから自分の力で世の中に出ていく。
「 風太郎 「よく思うんだが、軍事教練ほど軍に害を呼んだものはない。どの学校でも学生たちは教練の将校をばかにしていた。中学だけじゃない、東京医専でもおなじだった。また、実際ばかにされても仕方ない人物が多かった。そのやりかたも不合理そのものだった。そのせいで当時の知識青年たちは誰も軍人を尊敬しなくなったんだ。それは戦後にも引きつがれていて、戦後という時代の色調のひとつをつくった。一大愚行といわざるを得ない。」
関川 「昭和十五年から十七年にかけて、親のいない青年は、但馬の、へんないいかたですが旧実家、山の親戚、海の親戚を行ったり来たりていよくたらいまわしにされるような時期を過ごします」
風太郎 「山の親戚、ここは河江というところの農家なんだが、自分の息子をみな戦争でなくしているのに、よく面倒を見てくれたものだ。農家のことなどいっさい知らず、したがっって手伝いもいっさいできず、またする気もなく、ただ内心にうすら寒い孤独感と絶望感をかかえながら、ひたすら雑誌と本ばかりを読んでいた。浪人してもぐちをいう親がいないものだからね。
先日誰かがいってたが、昭和十一年が戦前日本の最高の年だったそうだ。国力、民生ともに最高だったと。ほんとうかなあ。実感はないね。自分のお母さんが死んだ年なんだが」
昭和二十年三月十日の東京大空襲のことを風太郎は、「水道橋から、なんとか大塚までまた歩いた。そこからは、どうにかこうにか動いていた山手線で新宿へ戻った。すでに夕方、へとへとになっていた。少なく見つもってもこの日二十キロは歩いただろう。
翌日、下谷から焼け出されてきた人に下町のようすを聞いた。
炎に照らされながら、発狂したような声を上げて空のB29を斬ろうとした青年がいたという。消防隊は炎のほうへホースを向けたまま、全員生不動のように燃えていたという。血の色に染まった往来を背から炎をあげた老人が駈けてきた。と思ったら、そのままひっくりかえって火ネズミのように燃えてしまった。疎開でできた空き地に避難民がごったがえしていた。みな火の海の熱気に泣き叫んでいた。水はどもにもなかった。運び出してきた荷物に火がついて、そばの人に移った。人々はその人をつかまえて、炎のなかに突き飛ばした。そうせずにはいられなかった。逃げる途中、黒焦げになった死体が、いたるところに夏の日ざかりのトカゲみたいに転がっていた。真っ黒に焼けた母親の体の下で、赤ん坊も真っ黒に焼けていたそうだ」
関川 「また八月十五日がやってきましたが、なにか感慨はありますか」
風太郎 「とくにないね」
今日は56回目の敗戦記念日。風太郎はこう言ったがこの2週間は風太郎と、戦争のこと、死についてを考えて過ごした。闘牛のことから少し離れて。
14日の結果。 サン・セバスティアン。オルテガ・カノ、罵声、口笛。ビクトル・プエルト、モランテ、耳なし。 マラガ。騎馬闘牛士、パブロ・エルモソ・デ・メンドーサ、場内1周。エル・タト、場内1周。パディージャ、耳1枚。 ベジエ(フランス)。ヘスリン、耳なし。フェレーラ、耳1枚、耳2枚。セバスティアン・カステージャ、耳なし。
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