断腸亭日常日記 その9

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年のスペイン滞在日記です。

99年1月13日〜2月16日 2月19日〜4月14日 4月15日〜5月11日 5月12日〜6月4日
6月7日〜6月10日 6月13日〜7月9日 7月11日〜8月8日 8月9日〜9月9日
9月12日〜10月7日 10月10日〜11月10日 11月14日〜11月28日

 12月12日(日)

 東京闘牛の会の12月定例会は毎年パーティー。18時開始なのに、5分前に10人も来ていない。所が、18時にはみんなちゃんと集まった。まるで闘牛場の様だ。このHPを見て新しく2人が来た。初めて感動した闘牛を書いた、「突然、炎のように」を読んで、闘牛に興味を持ったのだそうだ。あの文章をそう言う風に読んで貰えたらとても嬉しい。HPを開いて今年10人以上の人が来てくれた。会員になった人も居るのでHPは成功と言うことになるのだろう。

 会は、立食パーティー。ワインはリベラ・デ・ドゥエロのレセルバなど。後から、片山先生が持ってきたのはフランスワインの良いものだったのだろう。味が違ったからな。それぞれに、話し始めていたの15分経った頃に今月の開会が宣言された。

 会報の闘牛士紹介に載せるファン・バウティスタのラス・ベンタスでのプエルタ・グランデの写真を林さんに渡す。22年降りにフランス人闘牛士として本場スペインに中心地マドリード、ラス・ベンタス闘牛場でプエルタ・グランデをした写真は日本人では俺だけが写真を撮っているはずだ。オンブロス(肩車)された後ろに映っているプエルタ・グランデ(大門)は、ラス・ベンタスのもの。これに、意味があるのだ。

 岡田さんのお母さんが非常に貴重な写真を見せてくれた。それは、沖縄出身の日系人闘牛士、リカルド・比嘉(だったと思う)のサン・セバスティアン・デ・ロス・レジェスでの、トマール・デ・アルテルナティーバの写真だ。佐伯さんの本にも載っている闘牛士だが、写真で見たのは初めてだった。

 岡田さんの話だと、比嘉さんは、ペルー人で今は新聞記者をやっていてペルーの大統領のアルベルト・藤森が来日するときには必ず同行してくるのだそうだ。彼が大統領になるときに担ぎ出した1人になっているのだという。

 所でその比嘉さんは60歳位なのだそうだが、今でも闘牛をやりたくてウズウズしているのだという。興行主からお呼びが掛からないが、彼の夢は、コンフィルマシオン・デ・アルテルナティーバをやりたいと言うことらしい。  岡田さんは、闘牛をしたいという比嘉さんに、あんた死にに行くのと言って止めるらしい。

 比嘉さんは、岡田さんに、東京に闘牛の会があるらしいがそれはどういうことをやっているのかと手紙で聞いてきているのだという。藤森大統領が今度来日したときには、闘牛の会に来て是非話をして貰いたいのものだ。

 また、石原さんと石井さんからの提案で、闘牛の会公認の闘牛用語を作りましょうと言う事だ。このHPに載っている10倍位の量が必要でしょうと、石原さんは言っていた。石原さんは、英語の翻訳家である。これは、西和事典の闘牛用語にも採用されるようなものにして、日本における闘牛用語の統一をして行こうと言うのものだ。これも非常に良いことでこういうことを一つずつやっていくことが日本での闘牛普及に繋がっていくことになると思う。

 会にも色々は人が集まって来た。スペインで闘牛を一度も見たことがない人もいる。が、闘牛に対する興味を持って会に来ている。

 荻内さんは、都合があって来れなかった。年を取ってくると色々あるようだ。

 二次会で、1月以降の定例会予定がほぼ決まった。会報用に決めたもので実際にどうなるかは分からないが大体この様な順番でやるようなるだろう。3月か4月には佐伯さんを今年も呼べるだろう。1月は原稿の締切でボツになった。

 11月29日から12月10日まで仕事で家に帰れなかった。こんな状態だったから11月にやった原稿は送れなかった。闘牛の会への準備も会、当日にようやく済んだ。非常にハードは勤務状態だった。8日は完徹。9日は睡眠2・3時間。他の日も睡眠時間は4時間もなかっただろう。来週からはゆっくり出きる予定だ。

 闘牛の更新も出来るだろう。


 12月13日(月)

 HPを開設して15ヶ月目になる。金曜日は打ち上げで、土曜日は闘牛の会で、今日も何故か飲んできた。部屋の片づけが全然出来ていない。10日以上も家に帰らなかったらこんなもんだ。少しずつやっていこう。部屋の掃除も、闘牛のコンテンツも・・・。

 疲れてからだが怠い状態だ。栄養と休養が必要だ。思い出したが、闘牛の会で闘牛シーズンが始まったらスペインで闘牛を観てきた人に感動した闘牛の話をして貰おう、と言う話をした。これは、定例会の中で“感動の告白”コーナーとしてやろうと提言した。これは、受け入れられたので来年から始まるだろう。


 12月14日(火)

 寒くなった。仕事で家に帰って来れなかったときに一番気になったのが鼻毛だ。切る暇がないのでドンドン伸びてくる。タバコをよく吸うので伸びる。鼻毛は髪の毛よりよく伸びるような気がする。幸い闘牛の会の前日に帰って来れたので鼻毛を切ってさっぱりしてから会に行くことが出来た。

 TVで、淡谷のり子の死ぬ前の5年間をやっていた。その間、介護したのは2歳下の妹だった。今、話題の介護だがこれは本当に大変なことだ。その中で永六輔が色々言っていた。絆と言う字は、糸偏に半分と書く。お世話される幸せ、お世話する幸せ。両方あるから絆になるんです。そうじゃなかったら、絆じゃない。

 また、こんな事も言っていた。淡谷さんは、「歌い手は仕事ではない。生き方なのだ」と。青森出身のジョパリは我が儘であり、優しくもあり、伸び伸びと生きていたようだ。


 12月17日(金)

 1億使ってもまだ、2億。 ジャンボ宝くじにひかれる人達は、この非現実的な言葉を半分笑いながら、しかし、何度も口ずさむ。何の根拠もない数字の羅列に非現実的な3億円の夢を見る。馬券の方が現実なのだ。と、思うのだが。不況になると特にジャンボ宝くじに庶民が殺到するようだ。長蛇の行列が出来、圧死者が出たことまであるのだ。

 俺も、複数の人から頼まれて5万円位買ってきた。老婆心ながらその人達には、「1等が当たった人の追跡調査で、9割の人が不幸になったというデータが出てます」と、言っている。でも、話半分に聞いている。当たる分けないだろうと言う気持ちと、家買って、車買って・・・。

 スペインの宝くじは、60億ペセタ当たるものがある。当たった人は急に親戚が増えたりするらしい。当たった人のお決まりのパターンは、当たった金を持って南米に行って優雅に暮らすことだ。

 そんな話を聞きながら闘牛士のアントニェーテのことを思い出す。アントニェーテは何回かに分けて活躍した大闘牛士だ。始めに大活躍したのは2年間。その間に文字通り大金持ちになる。そして、アルゼンチンだかチリ辺りに行って大金を基に商売を始める。が、数年でスッカラカンになってしまう。

 だが、彼が宝くじを当てた人と決定的に違っているのは闘牛士としての最高の技量を持っていた点だ。それからまた、スペインに戻ってきて闘牛を始める。元々技術的に超一流で本物の闘牛士だったので復活は容易かったのだろう。彼が言った言葉で有名なのは、「距離が判れば闘牛は、80%解った事になる」と言うものだ。

 85年(だったと思う)のサン・イシドロでもプエルタ・グランデをしている。当時、50歳を越えていただろう。多分その時のビデオだと思うが、ムレタを揺らさずに牛を誘ってパセをしていたのにはビックリした。あんな事は先ず闘牛場では観ることの出来ない、 “超” の付く技だ。去年だってラス・ベンタス闘牛場で耳3枚取ってプエルタ・グランデをした。

 92年から96年までカナル・プルスでサン・イシドロなどの闘牛中継の解説をやっていた。今年も闘牛場のアレナの上にいた。

 NHKでマイ・ウェイの曲の経緯をやっていた。ポール・アンカ作詞のこの歌はフランク・シナトラのために作られた。シナトラと26歳年下のポール・アンカ。「息子のように可愛がられた」と、言うポール・アンカ。マイ・ウェイの詞が出来たのは朝の5時だっだそうだ。それから良い曲が出来たとプロデューサーとシナトラに電話した。

 第二次世界大戦で戦地に男達が行っていた時に、圧倒的に女性ファンに支持されていたシナトラは事件などを起こしてファンが離れていく。ニュージャージー州ホーボーケンのイタリア移民の一人息子に生まれる。回りはみんな大家族。子供心に孤独を味わう。ジャーナリストのピート・ハミル(ロックやアメリカン・ミュージック関係を囓ったら必ずと言って出てくる人)に、「15歳に戻るくらいなら、刑務所に行く」と、言ったそうだ。

 ポール・アンカにあった頃はそんな状態だった。女優、エバ・ガードナーとの恋に揺れ、銃口を頭に当てて自殺を口にしたりしていた時期もあった。その頃は、「もう止めたい」と、言っていた。しかし、ピート・ハミルには、「もし明日死んだら何のための人生だったのだろう」と、言っていた。

 数ヶ月後、シナトラからポール・アンカにTELがかかる。「ニューヨークのスタジオから受話器をスピーカーに当てながら聴かせてくれた。初めて聴いて、胸が熱くなった。人生の大切な瞬間だった」

 レコード発売後、マイ・ウェイはヒット・チャートを駆け上り、100週間以上 “トップ10” 入りする。シナトラが歌った人生の歌は、圧倒的な男性ファンの支持を受けてレコードは爆発的に売れた。

 ポール・アンカは言う。「あの歌は、シナトラの歌だ。シナトラにしか歌えない歌だ。」 「マイ・ウェイは彼の遺産。人生そのものだ。彼はあの歌詞のとおりに生きた。」 どん底から這い上がってきたシナトラをピート・ハミルは言う。「ボクサーの本当の力はノックアウトされたときにわかる。立ち上がれば本物だ。シュガー・レイ・ロビンソン、ジョー・ルイス。みんな立ち上がった。そして、シナトラも」

 クリンチやダッキングばかりしていては観客を沸かすことの出来ない。偉大なボクサーはパンチを怖がらずに踏み込んでパンチを撃てるかどうかだ。渡辺二郎の様に暴走し続ける元世界チャンピオンもいる。が、自分のやりたいことをやろうとする人間はああはならないはずだ。

 所で、エバ・ガードナーは闘牛士、ルイス・ミゲル・ドミンギンと付き合ったり、シナトラを付き合ったり。ドミンギンとかなり親しかったヘミングウェイも銃口を口に当て自殺した。シナトラもその一歩手前まで行った。女優って女を越えて化け物かも知れない。

 人は真剣に人生を歌うときがある。だがそれは日々の積み重ねだ。その時までコツコツやっていれる人間だけが、人生を歌い上げる事が出来るのだろう。


 12月19日(日)

 疲れているようだ。中山競馬場に行く気がしない。後楽園で馬券を買った。帰りに会社へよる。あんだけ働いているから明日休もうかなと思ったらそうはいかないとばかりに勤務指示だ。少しは休ませろよ!ここずっとあんな状態だったので行く所に行けないでいる。平日じゃないと用事が済ませれない所もあるのだ。

 明日からまた、仕事。仕事しなきゃ生活が出来ないものなぁ。


 12月20日(月)

 今日、正月用のTVガイドとぴあを買ってきた。ぴあを見ていたけど観たい映画が紹介されていない。どうしてだ。スペイン映画でロルカを題材にしたものと、キューバの老ミュージシャン達を扱ったもの。ロルカの方はロルカ自体も面白そうだが、闘牛を取り上げていると言うことなので見たいのだ。キューバの方は、監督があのジム・ジャームッシュ。つまりロード・ムービーなのだ。兎に角、音楽が良いという話だ。

 だが、ぴあには載っていない。何故だ。いや、あった。1月中旬以降の所に書いていた。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』だ。でも、正月じゃない。正月この2本が観たかったのだが、観れないんなら、『グレン・グールド』と『奇人達の晩餐会』でも観ようかな。

 TVガイドでは、見たい番組がチェックできた。1月7日NHK教育TV22:00から22:45まで。確か9回くらいのシリーズになっている。『未知なる生命・ヒト・ザ・ヒューマンボディー @ プロローグ・奇跡の旅』

 これは絶対に全部ビデオにとっておかなければ!

 それと、1月3日TBS21:00から23:54まで 『21世紀プロジェクト 筑紫哲也・立花隆〜ヒトの旅、ヒトへの旅〜人類最先端・2000年スペシャル』 1月1日〜3日NHK教育TV21:45〜23:25。『驚異の小宇宙・人体V・遺伝子・DNA』 (6回シリーズ)

 明日は休み。色々やることがある。忙しい。掃除もしなきゃならないし。

 そうそう、HPの闘牛の更新はこれからは出来るだけ週に2回はやっていきたいと思う。一つは写真館。後は文章になるだろう。取りあえず、日曜日にアップした。


 12月21日(火)

 今朝、大川慶次郎が死んだ。競馬をやらない人は知らないだろうが高名な競馬評論家だ。厩舎関係者と食事中に口から泡を吹いて倒れた。意識不明で約1週間。大脳と小脳の間から出血していた。総決算、有馬記念を前にしての死だ。

 有馬と死で思い出すのは91年だ。前日TELでおばあちゃんが危篤になったと知らせてきた。馬券を買って実家に帰ろうと思った。夜、SからTELが入る。「祐司。明日だけど何が来ると思う。」と、言うので、「マックイーンは、勝てない。でも2着には来る。問題は勝つ馬が何か?」と、言うと、「ダイユウサクはどうだ?」 「ん。前走オープン千六だろう。来ないんじゃないかな。」

 TELはそれで終わった。翌朝、母親からTELでおばあちゃんは持ち直したのでまだ帰ってこなくて良い。と、言うことだった。「祐司、ゆっくり考えなさい」と、おばあちゃんが言っているような気がした。当日、何故かダイユウサクが気になって単勝を買おうと思った。手に1万円を持ってオッズを観たら万馬券になっていた。それで自信をなくして違う馬券を買った。

 落ち着かないので、レースは家に帰ってTVで観ていた。直線で内からダイユウサクが抜け出してきたときおばあちゃんを思いだした。今ではあれは、おばあちゃんが最後に俺に教えてくれた虫の知らせだったのかも知れないと、思っている。。夕方TELがあって死んだと連絡があった。翌日帰省した。

 あの時、ダイユウサクは、一生に一度だけ持っている力以上のものを出して走った、“一発屋”だった。歌手にも、“一発屋”と言うものがいる。その一発が大きければ大きいほど人の心にいつまでも残るものだ。今年はどんなドラマが待っているのか。有馬記念は今度の日曜日だ。そして、年は暮れ、年は明ける。


 12月22日(水)

 今日は床屋に行って来た。あそこはちゃんと免許を持っているところだ。カリスマでも、いかさまでも、ないところ。俺の頭の形をよく判っている。行くと一言で切り方を理解してくれる。そして話は、有馬記念のこと。大川慶次郎のこと。

 競馬ファンはみんなそわそわして、今年最後のG1レースに夢を見る。そう、夢を見ているだけだ。馬券は難しい。が、競馬を予想するときの考え方が大事なのだ。

 今日も誘拐事件があった。本当に色々な事件が起こるものだ。


 12月23日(木)

 月曜日にABCの闘牛のページを開いたら闘牛士が、オンブロスされている写真が載っていた。それでビックリしたことが。担いでいるのがスペイン語で、capitalista って言うが、僕は日本語で担ぎ屋と言っています。闘牛士を担ぐからだ。資本家とか資本主義者とはこの場合訳さないのです。闘牛用語だからです。

 それで、ビックリしたことは、担いでいる人とそれを支えている人の2人がスペイン人です。スペインのどの闘牛場へ行っても会う有名な担ぎ屋なのです。それが何故、メキシコ・シティーに居るのだろうと思ったのです。彼等は切符は買いません。まあ、いろんな方法で闘牛場に入るのですが、貧乏なのです。今までは、スペインの闘牛シーズンが終わって当然働いて次のシーズンの為に備えているとばかり思っていたのですが、どうやらそうじゃないらしい。

 確かに闘牛士から幾ばくかの金を貰っているのは事実ですが、メキシコ行きの飛行機の切符まで手に入れて(この分だと南米にも行きそうだ)行っているとは・・・。何だか、とても羨ましく思いました。僕もスペイン人に生まれたら、担ぎ屋になりたかった。男が闘牛士の股座に頭を突っ込むために一生を捧げるなんて、闘牛ファンの鏡みたいなもんです。

 ただし、彼等は決して人間として素晴らしいとは言えないんだけど。


 12月25日(土)

 クリスマスだがケーキはない。競馬に負けたからだ。負けたのにケーキを食べたら明日の有馬記念外れるような気がするからだ。是非とも取りたい有馬記念。明日の夕食は美味いもんが食べたいな。

 ホセリートが来年からまた闘牛を始める。復帰は3月のカステジョン、バレンシア辺りのようだ。その前に何処か小さな闘牛場で復帰するかも知れない。その後、セビージャ、マドリード、サン・イシドロ祭と続く模様だ。


 12月26日(日)

 最近TVの音楽番組を良くやっている。正直に言えば、モーニング娘の歌を初めて聴いたときは愕然とした。綺麗でも良い体でもない女の子達が、「自分で言うのも何だけど、ナイス・ボディ」なんて出だしから始まって「日本の未来は、ウオウ、ウオウ、ウオウ、ウオウ」と来たときには、君たちにそんなこと言われたくないよ、と思ったものだ。

 だがである。最近ちょっと違うことを思うようになった。ある歌番組で40前後の演歌歌手4人が、『ラブ・マシーン』 を歌った。何でこの歌を歌うのか解らなかった。しかし、歌っている表情が生き生きして元気良く伸び伸びとしていた。まるで何かから解放されているようだった。とても楽しそうなのだ。

 別の歌番組では、観客がいるステージでモーニング娘が歌っていた。観客の反応は上記の演歌歌手と同じように、生き生きとして元気良く伸び伸びとしていた。

 それを見ながらこれは、平成の“ええじゃないか” 現象じゃないかなと思った。ええじゃないかは、幕末の江戸に突然発生した町民の発狂集団。世の中がおかしくてどうなるか判らない未来に対して、「ええじゃないか、ええじゃないか」と言いながら江戸市中を踊り狂った。踊り狂うことによって不安を忘れ、ええじゃないかと、言って自分達を慰める。

 モーニング娘の、『ラブ・マシーン』 を聞きながらそんなことを思ってしまった。「日本の未来は、ウオウ、ウオウ、ウオウ、ウオウ、世界のうらやむ、イェッ、イェッ、イェッ、イェッ、・・・」 この陽気で脳天気な歌で元気が出る人は、明るい人生を送れるのかも知れない。

 俺はとても陽気にはなれない。特に有馬記念を外した今は。戒めに食事は質素なものを思っていたのだが・・・。新宿の中村屋でチャーシュウメン食べてしまった。こんなのじゃ全然戒めにはならない。負けたときは、駅の立ち食いそばくらいじゃないと戒めにならないな。


 12月27日(月)

 TVで、浅間山荘事件の攻防についてやっていた。命懸けで警備に当たった警察庁機動隊の隊員達の心情は、超法規的措置によって解放された連合赤軍の1人が機動隊隊長を射殺したことについての裁判を受け終わるまでは、浅間山荘事件は終わらないと当時指揮を取った佐々氏が言っていた。

 思えば、連合赤軍事件によって極左革命集団が力を弱めていった。あの時意味もなく虐殺していった集団リンチ事件があった。兄弟を兄弟に殺させたり、命令した永田洋子、森恒夫の指導者は一体何を考えていたのだろう。革命の為に同じ様にリンチ殺人をした、チェ・ゲバラはキューバで英雄になった。だが、革命など欲しない社会の中では連合赤軍の起こした事件を今思うと気味が悪くなる。

 今は、オームがあり、ライフ・スペースがあり、法の華がある。彼等は社会のためではなく、個人の人生の盲点を突いて人殺しをしたりする。そして金儲け。連合赤軍の頭には金儲けはなかっただろう。そう言う意味で純粋だったのかも知れない。オームやライフ・スペースの指導者は金儲けに純粋なのかも知れない。オームなどの前提に連合赤軍があったように今更ながら思った。

 犯罪は犯罪者を活性化させるのだろうか?


 12月28日(火)

 今日の、ブラック・ジャックは面白かった。“超人類”達が罹る“モイラ・シンドローム”は、短期間の間に超人的な才能を開花させて驚異的なオリンピック記録や、芸術的な才能を発揮して有名にになっていくが、多臓器不全を起こして死に至る。その原因を突き止め、解決する話だった。

 ブラック・ジャックの仮説は、大脳下にある、視床下部で分泌する脳内ホルモン、エンドルフィンが通常の約10倍放出されることによって超人的な能力を発揮しているのではないか、と言うものだった。

 この仮説の元に、死にかけてる超人類の脳外科手術をする。視床下部には異常は見られなかった。電気ショックを与えたら異常が見られた。異常部を切除して検査したら、ウィルスが発見される。これが、多臓器不全を起こす元凶だった。

 外科医ブラック・ジャックが出来るのはここまでだ。しかし、彼は、エンドルフアートなる薬を投与されることによって、超人類が作られた事を知り、その薬品を作っているアフリカに飛び、ウイルスに対する抗体を発見する。

 96年に制作されたこの映画が、手塚治虫の原作かどうかは怪しい。特にここ何年かで驚異的に脳医学が発達し、新しい発見が相次いでいる。いくら医師の勉強をした手塚さんでも、死ぬ前にこういうことが解っていたとは思えないからだ。ただ、エンドルフィンなる脳内ホルモンが本当にあるものなのか俺には解らない。

 この物語で大切なのは、ウイルスなどに対する抗体は自然の中にあると、言うことなのだ。自然界にはまだ解明されていない物質が多く存在する。それを解明していくのが医学などの分子生物学の様な気がする。

 明日は、大井競馬場で東京大章典がある。故郷岩手の英雄、メイセイオペラと菅原勲が1番人気で出てくる。行って来よう。恐らく今年3つ目のG1制覇をするだろうから。


 12月29日(水)

 昨日の夜中にNHKで、『世界・わが心の旅』 −−グアダルキビール河に私の灰を−−をやっていた。天本英世さんだ。死ぬときはアンダルシアで死にたいと言い、灰はグアダルキビール川に撒いて欲しいと言う。ロルカの詩をフラメンコギターに乗せて朗読する。

 グラナダでは、偶然昔の友人のギター職人に会う。7年前1ヶ月滞在したところだそうだ。その家から毎日アルハンブラ宮殿を見ていたのだそうだ。

 ロルカの『カンテ・ホンドの詩』

 ギターの嘆きが始まる 夜明けの杯が割れる ギターの嘆きが始まる 止めようとしても無駄なこと 止めることは出来ない その単調な泣き声 雪の上で 水が泣くような 風が泣くような 止めることは出来ない 遙かなるものを偲ぶ泣き声 白い椿を求める熱い南の国の砂 的のない矢 朝のない夕べ そして枝の上で死んだ最初の鳥を 泣くようなその声・・・ おおギターよ 五本の剣で深傷を受けた心 

 sin posible cachar とか  guitarra corazon mala vito los cinco espadas  (スペイン語でこうなるのだろうか?)と、言うところが良い。今度スペインに行ったらロルカの詩集を買ってこよう。

 天本さんは新宿の街を歩いているのを何度か見かけたことがある。あの頃はまだ杖を突いていなかったが。スペイン人とも一緒にいたときもある。フラメンコが好きだからそう言う関係の知り合いが多いようだ。

 セビージャのフェリア開幕。これは今年撮ったものなのだろうか?だとすれば、同じ時に天本さんとセビージャにいたことになる。天本さんは、死について考えてきた人のようだ。「スペインは、強烈にして、偉大な生と死の国」 サンタ・クルス地区を歩く。Calle de la vida(人生の通り) calle de la muerte(死の通り) 「死の通り。凄いねぇ。日本じゃこんな通り誰も通りませんね。死の通りを歩きましょうか」 闘牛にはあまり関心がないのだろうか。いつかスペインのバルでコパを交わしながら話がしたと思っているのだが。

 フラメンコダンサーのマリオ・マジャは天本さんのことを、「天本の考え方はロルカの生き方、そして理想に通じるものがあると思います。ロルカは常に“死”を予兆して作品を作っていた。天本も自分が死ぬ前に“死”を予兆している。そう言うことが彼を味のある、繊細な人間にしている」と、言う。

 天本さんは、今年の4月1日に代々木体育館で闘牛とフラメンコの入社式に来ていた。フラメンコの始まる前に挨拶をして写真を撮りたいと言うと、「何故」 と聞いてきた。黙って笑っていると、「ブランカ・デル・レイの写真を送ってくれるなら良いよ。」と、言われた。写真はHPに載せようと思っていたが、まだ載せていない。天本さんにも送っていない。TVを見て写真のことを思い出した。だからポジフィルムを現像に出して送ろうと思う。

 今日早朝6時オウム真理教の上祐史浩が広島刑務所から出所して飛行機で東京に向かった。新宿のホテルでは宿泊を拒否され横浜中区の教団施設にはいる。そこで教団幹部が集まって話し合いがなされた模様。

 メイセイオペラは残念だが惨敗した。


 12月30日(木)

 ジョージ・ハリソンが刺された。自宅に強盗が入り、妻とジョージ刺された。場所は胸。命に別状はない模様。

 皇太子妃が流産した。

 エンリケ・マルティン・アランスが騎馬闘牛士のパブロ・エルモソ・デ・メンドーサのアポデラードになった。エル・フリのアポデラードのビクトリアーノ・バレンシアは解任され、後任はまだ決まっていない。可能性として、エンリケ・マルティン・アランスもあるようだが、流動的。


 12月31日(金)

 ロシア時間12時、日本時間18時、エリツィン大統領が辞任をTVにて発表。変な言い方をすれば、2000年問題に責任が持てないからなのか?と、思ってしまう。2000年1月1日は、20世紀最大の発明 “コンピューター” の誤作動対策に大騒ぎしたと長く記憶されるだろう。Y2Kは、初めにコンピューターソフトを作った人が年を表す数字を二桁にしたためにこういう問題になっている。4桁にしていればY2K問題は起こらなかった。

 ハイジャック事件のインディアン航空機の人質解放で合意した模様。

 日記の初めは中島みゆきだった。最後も当然、中島みゆきだ。

 「 ふるさとへ 向かう最終に 乗れる人は 急ぎなさいと やさしい やさしい声の 駅長が 街中に 叫ぶ 振り向けば 空色の汽車は いま ドアが閉まりかけて 灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う 走り出せば 間に合うだろう かざり荷物を ふり捨てて 街に 街に挨拶を 振り向けば ドアが閉まる

  振り向けば 空色の汽車は いま ドアが閉まりかけて 灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う ふるさとは 走り続けた ホームの果て 叩き続けた 窓ガラスの果て そして 手のひらに残るのは 白い煙と乗車券 涙の数 ため息の数 溜まってゆく空色のキップ ネオンライトでは 燃やせない ふるさと行きの乗車券

  たそがれには 彷徨う街に 心は 今夜も ホームに たたずんでいる ネオンライトでは 燃やせない ふるさと行きの乗車券 ネオンライトでは 燃やせない ふるさと行きの乗車券  」 −−『ホームにて』−−

 この歌を聴くとふるさとの雪を思い出すのは、僕が東北人だからだろうか。あの頃はまだ新幹線が通っていなかった。汽車と彼女が言うのは、勿論、電車のこと。が、僕もそうだが電車を汽車というのは癖のようなもの。汽車もキップも空色だった。歌の中に出てくる色は、空色。だが、この歌にはふるさとの雪の情景が目に浮かぶ。

 中島みゆきは出身が北海道。同じ北国だ。雪と言う言葉が出てこなくても雪が浮かぶのは当然だろう。それと、「ふるさと行き」 は 「雪」 に微妙に掛かって来る作用があるのだと思うのだ。ふるさとには帰らないが、子供の頃遊んだ風景は忘れるものではない。

 雪の降る情景を、綺麗だと、言う人は冬の寒さを知らない南国の人だろう。雪がシンシン降るのを黙って眺めていたいときもある。雪まみれになって遊びたいときもある。炬燵に座ってお新香にお茶を飲みたいときもある。

 2000年は20世紀最後の年。どんな年になのだろうか。ふるさとも雪も、教えてはくれないのだが。


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