断腸亭日常日記 2001年 その14

−−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  −−バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で−−

太い斜字で書いてある所は99年、2000年、2001年、のスペイン滞在日記です。

99年1月13日〜2月16日 2月19日〜4月14日 4月15日〜5月11日 5月12日〜6月4日
6月7日〜6月10日 6月13日〜7月9日 7月11日〜8月8日 8月9日〜9月9日
9月12日〜10月7日 10月10日〜11月10日 11月14日〜11月28日 12月12日〜12月31日
2000年1月1日〜15日 1月16日〜1月31日 2月1日〜2月28日 3月2日〜3月29日
4月2日〜4月19日 4月20日〜4月29日 5月1日〜5月14日 5月15日〜5月31日
6月1日〜6月15日 6月16日〜6月29日 6月30日〜7月15日 7月17日〜7月31日
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8月16日〜8月31日 9月1日〜9月15日 9月17日〜9月29日

 10月1日(月)

 10月の闘牛の会、定例会をHPに載せようとして、会報を読んだ。9月の定例会のことも未だ書いていないしどうもちゃんとしない奴だと我ながら思う。10月はいつもの第二土曜日ではなく、14日、日曜日に横浜ワールドポーターズ6階、横浜輸入ビジネス促進センター会議室で16時から、「闘牛セミナー」 荻内勝之(TTT会長)が行う。これは何故この日この場所で行うかと言えば、10月5日〜14日迄、ここでやる 「アンダルシアフェアin横浜」 に闘牛の会が呼ばれたためだ。これは、アンダルシア州経済振興公団、横浜産業振興公団の共同企画されたものだ。今回は無料で闘牛の会に参加できる。

 今日は1日中雨が降った。寒い日で11月上旬の気温だそうだ。昨日の高橋尚子の世界記録は感動的だった。記録を狙って練習を重ねそれを達成するのはお見事としか言いようがない。驚異的。

 山田風太郎、『忍法創世記』 読了。感想は後日記す。

 狂牛病の牛が発見されてから始めて牛肉を食べた。と言っても吉野家の牛丼だけど。あそこは殆どがオーストラリアからの輸入肉なので大丈夫だ。

 ネットで検索エンジンに行ったら、ショックなニュースを発見した。落語家の古今亭志ん朝が、今日の10時50分に肝臓癌のため新宿区矢来町の自宅で死亡した。63歳だった。名人五代目、古今亭志ん生の次男として生まれ、兄の先代、金原亭馬生の後を追い落語界にはいる。入門5年で真打ちになり発音のはっきりした早口の語り口と気っ風のよさ、男の色気で人気を博す。正統的伝統的な古典落語で江戸っ子の馬鹿さ加減を笑いにした。あのテンポが非常に小気味よかった。乗ると益々テンポが速くなる。そして面白くなった。TVには若いときから出ていたが、最近は、「錦松梅」やビールのCMなどに出ていた。

 僕が落語が好きになったのは、志ん朝の話を聞いてから。僕の意見では、志ん朝と柳家小三治が現在の落語界の双璧だった。志ん朝は、若いときに築いた芸から、年を取ってもっと味や深みを結局出すことが出来なかったような気がする。父、志ん生のように高座で座っているだけで笑わせてしまうような域には達することが出来なかった。小三治にはその可能性を感じるが、芸風を変えると言うことは非常に難しいもののようだ。それでも、小さんの様に誤魔化しをしなかったところは立派。あのテンポは年取ったら維持できないもの。それでも志ん朝は間違いなく名人だった。

 古今亭一門には名人がいなくなった。残った中では、円菊が1番面白いだろう。が、高齢。師匠、志ん生の死に水を取った人。品があるんだかないんだか判らないがとにかく可笑しい。最近はあまり舌が回らなくなってきたが。高座にはマスコミに登場しない面白い芸を持つ落語家が一杯いる。そんな人をたまに見に行きたくなった。

 これからNHKでジャニス・ジョップリンの、「夢伝説」 をやる。

 29日エスパルタコが最後のセビージャで場内1周。オルテガ・カノは左膝を怪我してアビソ3回。ビクトル・メンデスがポルトガルで再びコレタを切った。闘牛士引退。アポデラードに専念するのだろう。

 29日の結果。 セビージャ。オルテガ・カノ、アビソ3回で罵声。エスパルタコ、場内1周。ポンセ、耳なし。 ポソブランコ。ホセリート、耳なし。フィニート、耳1枚。モランテ、耳なし。 ロルカ。ペピン・ヒメネス、耳1枚。ペピン・リリア、耳4枚。プエルタ・グランデ。エル・フリ、耳なし。 オルメド。エル・カリファ、耳1枚。モレノ、耳1枚。ヘスス・ミジャン、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。 トリホス。カバジェーロ、耳1枚。エウヘニオ、耳なし。ホセ・ルイス・トゥリビノ、耳なし。 ウベダ。ファン・モラ、耳なし。オルドニェス、耳2枚、耳1枚。プエルタ・グランデ。エル・ファンディ、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。

 アルベルチェ・デル・カウディジョ。フェスティバル闘牛。闘牛士、トマス・カンプサーノ、耳2枚。ドミンゴ・バルデラマ、耳2枚。ミゲル・マルティン、耳2枚と尻尾1つ。アドルフォ・デ・ロス・レジェス、耳2枚と尻尾1つ。見習い闘牛士、トマス・ロペス、耳2枚。ルイス・メンドーサ、耳1枚。 オヨ・デ・ピナレス。闘牛士、エンカボ、耳2枚、耳2枚と尻尾1つ。フェレーラ、怪我。ラファエル・デ・フリア、耳なし。

 30日の結果。 セビージャ。フィニート、カバジェーロ、耳なし。ビクトル・プエルト、耳1枚が2回。 グラナダ。ポンセ、耳4枚。エル・フリ、耳1枚が2回。エル・ファンディ、耳2枚。 コレジャ。モランテ、耳1枚。エウヘニオ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。フランシスコ・マルコ、耳1枚。 ラス・ロサス。エンカボ、耳1枚。ヘスス・ミジャン、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。ラファエル・デ・フリア、耳1枚。 ウベダ。エスプラ、耳1枚。パディージャ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。カルニセリト・デ・ウベダ、耳1枚。 


 10月2日(火)

 切りがないことだが、風太郎の本をネットで調べている。国立図書館、都立図書館などを見たり、その他だが、調べたいのが短編小説なので思うように作業が進まない。これは、風太郎の短編小説のリストを作らないと訳が分からない。それに忍法帖の長編だけで26作あって手元になるのは、21作のみ。他のはすでに絶版になっている。よって図書館が出てくるのである。ただし忍法帖の長編のうち読んだのが、15,6作くらいだろう。未だ読んでいないものもある。おそらく明治もの、室町ものは全部読んだはずだ。その他には、江戸、幕末ものがある。これは短編が殆ど。後は、ミステリー。これがまた大変な量がある。取りあえず今は、明治ものをもう一度読み返して見たい気でいる。

 風太郎の、『死言状』 の中に、江戸川乱歩が漱石の、『吾輩は猫である』 を読んだことがないと言うことが書いてあった。そういうこともあるのだなぁと思った。興味がなければ読まないよなぁ。10月は風太郎と明治の小説を読んでいこうと思っている。今年も後3ヶ月を切った。一体俺は何をやっていたんだろう。ガッカリする。


 10月3日(水)

 1日おきに寒かったり暖かかったりで体調を崩す人もいるようだ。万馬券でも取っていれば良いんだろうけど外してばっかりじゃ懐の寒さから風邪をひく。おいおいG1は始まったばかりだぞ。スプリンターズ・ステークス、1,2番人気の1点買いは不発に終わった。「強い馬は勝つ」と言っていた中野栄治調教師とトロットスターに脱帽。メジロダーリングは、3Fを32秒代で飛ばして2着に来たという事実は驚くべき事だ。こんなタイムで飛ばしたら直線たれるのが常識だったからだ。日本の競馬も凄いことになってきたようだ。

 山田風太郎、『忍法創世記』 は、非常に重要な意味を持つ作品だと言うことが判った。忍法帖最後の長編を、創世記として記したのは南北朝対立と言う天皇制の問題や、その問題を解決するために画策した陰の人物の恐ろしさを書いている。柳生の剣法と、伊賀の忍法の対決。この対決から柳生新陰流、伊賀忍法が生まれたことを感じさせる。そして、この作品で三種の神器争奪戦をやったことは重要だろう。それに関わる親玉と、手先になって働く柳生と伊賀。始めてそのことに疑問を抱かせてもいる。(明治ものでは疑問から入っているような気がする)そして最後のどんでん返し。

 風太郎最後の小説、『柳生十兵衛死す』 (『忍法創世記』 から15年後の話になるのでもう一度読んでみるとその辺がはっきりしてくるだろう) にダブっていくことも、また、明治ものへと繋がっていく事は明白だろう。当然ながらこれまで書いた忍法帖シリーズまで含めて、風太郎のある決意を感じる。

 「まったく非政治的存在なのだ。(中略)彼らはいずれも抗争のなかの駒の一つであり、次々と死んでいく消耗品にすぎない。しかし、彼らは、そのことを残酷に極だたせることで、彼らが関与できない政治力学を浮き上がらせる」 と、上野昂志さんが風太郎の忍法帖を評しているが、その「彼らが関与できない政治力学を浮き上がらせる」作業は、『警視庁草紙』 などの明治ものでも発揮される。忍法帖終結宣言を出すに当たって、『忍法創世記』 を書いたのは非常に意義深い。

 しかも、今まで書かなかった和姦を描き、和姦以前も和姦以降の物語も、彼らの運命の残酷さを極だたせるのに重要な意味を持っている。また、柳生と伊賀が入り交じって、剣法修行と忍法修行に分かれるのも今までになかった画期的な手法だ。これは充分効果を出している。そして、この作品を書いた以降のことまで考えているのではないかと思わせるふしがある。これは風太郎の物凄さだろう。鬼のような物凄さだ。

 この作品が、本として刊行されなかったのは、三種の神器と天皇制について書いているからだろう。これはつまり深沢七郎の 『風流夢譚』 が雑誌、「中央公論」に載り右翼が激怒して社長宅に乗り込み社長夫人を刺殺した事件が起こっているからだ。『忍法創世記』 が書かれた昭和45年に時点では未だ、やばい雰囲気が出版界にあったからだろう。しかしよくもまあこんな重要な作品が今まで刊行されなかったものだ。風太郎の死後、刊行されたこの作品は彼を知る上で重要な意味を持っていることに疑いはない。そして、よくもまぁこれを風太郎は書いたものだ。あの事件にも屈しない意志を感じる。筆は折れないと言う意志を。

 南朝を陰で操るのは右大臣、吉田宗房。北朝を陰で操るのは鎌倉幕府。幕府を陰で動かすのは管領、細川頼之。中条兵庫頭も世阿弥も、柳生も伊賀も、大塔衆も菊水党も、政を行うものにとっては取るに足らない存在だ。アクセントを与える牢姫の存在も面白い。そして、日本の歴史では天皇の存在はかくのごとし。『忍法創世記』 にはそのことが分かり易く書かれている。それは江戸時代もそうである。天皇から征夷大将軍の位を受けることによって幕府は幕府足りうる。そして幕府もまた実権は徳川家ではなく老中にあった。瓦解後の明治時代もそれを踏襲した。風太郎は忍法帖以降一貫してそのことを描いたのではないだろうか。

 『忍法創世記』 は忍法帖最後の作品として書かれた事が、忍法帖シリーズ自体の意味の重要性と明治もの、室町ものに繋がるものが、作品のテーマや取り扱う題材において、今考えると非常に感心し、唸らせるものがある。風太郎は、物凄い大天才だ。そして、戦後最大の知識人であるのことを疑うべき事は何もない。

 頼んでいた風太郎の本が4冊届いた。風太郎の作品リストを作らないと、と思っていたら出版芸術社、『帰去来殺人事件』 にその作品リスト、ならびに、著書リストが載っていた。こんな頼もしいものはないと、今ほくそ笑んでいる。本屋であれは未だ来ないですか、と言うと本屋のおばちゃんが、斎藤さん4冊来たからそんなに読めないでしょう、と言った。でも、ミステリーが3冊、すぐ読むのは、『いまわの際に言うべき一大事はなし。』 だけなのでそれはどうでも良いことだ。それに早く頼んで取り寄せておかないと、版元でなくなる恐れがあるのだ。取りあえずは、今、手に入るものは手に入れようと言う気でいる。

 NHK、『山田風太郎からくり事件帖』 の挿入歌、『風のタンゴ』(VIENTO) はスペイン語で歌われている。この事は風太郎関係のHPの掲示板で知った。VIENTO は風。勿論風太郎にちなんでいるのは明白。また、井戸さんが秋にやるイベントも、VIENTO 。同じなのは偶然だ。

 2日の結果。 ラス・ロサス。騎馬闘牛士、レオナルド・エルナンデス、耳1枚。闘牛士、ニーニョ・デ・ラ・タウリナ、耳2枚、耳2枚と尻尾1つ。プエルタ・グランデ。エル・ミジョナリオ、耳2枚、耳2枚と尻尾1つ。プエルタ・グランデ。


 10月4日(木)

 志ん朝のBS−i の放送を録画して貰おうと足立さんにTELしたらデジタル放送は映らないようなことを言っていた。その後、スペインの話を聞いた。マドリードの日本人会でマリ・パス・ベガを呼んで講演をしたのだそうだ。カポーテやムレタ、真剣(本物の剣)を持ってきて技を見せたり闘牛について話をしたそうだ。去年の暮れに複雑骨折した大腿骨は完治してはいないようだが大分よくなったらしい。

 その他に、須美さん、三木田さん夫婦、松田君、林さん、荻内先生の話を聞いた。テロ以降現地旅行会社の仕事の状態が少し減っているようだ。未だ、湾岸戦争の時のような深刻な状況にはなっていないようだが、アメリカがアフガニスタンに本格的に攻撃を仕掛ければどうなるかは判らないだろう。あの時は、半年間仕事がない人が出たそうで旅行ガイドは大変なことになるだろう。特に、フリーでやっている人は。

 ともあれ、マドリードにいる人たちは元気なようだ。志ん朝のBS−i の録画はどうにかならないかな。他にも当たってみよう。

 ハエンのカルテルがようやく発表になった。


 10月5日(金)

 『Human Body』 と言う医学雑誌が欲しくて本屋に行って立ち読みをしていたら、懐かしい、林あまり、の本を文庫で見つけた。400円の新潮社の歌集を買ってきて一気に読んだ。林あまりを知ったのは、『サラダ記念日』 と言う歌集が話題になっていた頃、同じ女流歌人でもかなり変わった歌を読む人がいると聞いて、処女歌集、『MARS☆ANGEL』 を読んだとき、ある衝撃を覚えたのを記憶する。これほどまでにセックスを直接的な表現をする歌を書くことを始めた女性がいるのだという驚きと、その歌が変わっているが、それだけではない新しさと、分かり易さと、尚かつ肉体的であったことが非常に面白かったからだ。

 第一条 口紅の色への口出しは 「俺の女」 の意識の始まり   とか、  なぞりあう耳のかたちの不思議さに いのちのかたち確かめてゆく  は、未だあれだが

 生理中のFUCKは熱し 血の海をふたりつくづく眺めてしまう 

 と言う歌には愕然とした。この処女歌集が出た1986年当時は驚きをもって向かえられたのは言うまでもないが、今読んでもかなりのものだろう。

夕焼けが濃くなってゆく生理前 ゆるされるなにもつけないSEX

あたたかく入った液体 わたしからいま流れ出る あなたが寝たあと

 こういう歌は女にしか書けないものだ。こういうセックスや、その後の喜びをこういう風に素直に表現できることに羨ましささえ感じる。

眠れなかった日々を打ち明けあいながら 二人のベッドはこんなに眠れる

いつもおなじ音符で間違うピアノのように 早過ぎることをあやまるあなた

脚と脚からめて話す お互いのどこがいちばんいとしい場所か

 恋を謳歌している。

まず性器に手を伸ばされて 悲しみがひときわ濃くなる秋の夕暮れ

合わさってくれる部分は少なくて 探しつづける行為とおもう

そのひとと眠ったベットに横たわり むすんでひらいてしてみる手のひら

重ねあうからだの重ならない隙間 まるごと抱き込む まるごといとしむ

 恋の諸々のややこしい感情をこういう風に歌う。

筋肉の収縮はきっとあなたのほうが よくわかっているわたしのからだ

あなたの上にわたしのからだを乗せたまま すこし眠るということの蜜

 ニンマリしてしまう歌だ。

熟睡のひとの隣にずべりこむ わたしにも眠りを分けてください

吸うよりも充てがうだけのくちづけに やすらいで眠る 春の終わる夜

目覚めはいつもわたしのほうが先だから 悲しげな顔で眠らないでね

 こういう女心って、なかなかだ。解ってるなぁと思ってしまう。

くちびるが柔らかい日はわたしたち うっとりできる素敵な前ぶれ

あなたに重なりゆらゆら体を揺らしている どうしてこんなにやすらげるのか

いいパンチをもらったようにゆっくりと からだのちからが抜けてゆくキス

のろのろと男の部屋着を買いに行く 街に持ち込むひとりの事情

わたしのようなものでも大事にしてくださる あなたといるうち いつか死にたい

 こんなのはグッと来るな。季語が殆どない歌だが、現代風で面白い。今の気分が伝わってくる。こう言うことをちゃんと解っていて過激とも思える性表現をしているのだ。林あまりは、面白い歌を歌う。「いいパンチをもらったようにゆっくりと からだのちからが抜けてゆくキス」 こんなキスしたことあるか。がっはっはっ。でも、彼女の歌は独身者の歌。これから既婚者の歌に変わっていくだろうが、まさかこれから、ユーミンのように50歳過ぎても青春何ぞを歌うわけではないだろう。作風が違うから大丈夫だよな。林あまり、『ベッドサイド』 読了。恋とは、頭で考えるものではない。肉体で感じるものだ。林あまりはそのことを良く知っている。作者紹介で彼女がキリスト教徒だと言うことがわかった。これもまたニンマリしてしまうことだ。

 これから、NHKの、『山田風太郎からくり事件帖』 を見る。

 4日の結果。 ウベダ。ポンセ、耳2枚が2回。フィニート、耳2枚と尻尾1つ。2人ともプエルタ・グランデ。


 10月6日(土)

 今日から競馬は東京に来る。いよいよ来年のクラシック目指して良い馬が出てくる。その大事な新馬戦を見に行けないのは何とも寂しいことだ。明日は毎日王冠。西では、京都大賞典。オペラオーもトップロードも出て来るぞ。これからが本当の競馬の季節だ。

 志ん朝の追悼番組が今日ある予定。録画をセット。BS-i はデジタル放送のようでこれは結局観れなかった。非常に残念だ。TBSにTELでもして何とかならないか聞いてみようかな。お願いだから見せて欲しいって。

 5日の結果。 マドリード。フィニート、口笛。カバジェーロ、ラファエル・デ・フリア、耳なし。


 10月7日(日)

 東京競馬場に行くつもりが・・・・・・。でも、馬券を買わなくてよかった。買ったらやられてた。毎日王冠も京都大賞典も。久々に、競馬新聞 『一馬』 を買って清水成駿の、「今日のスーパーショット」を読んで大いに共感していたので金を持っているだけ賭けていたかも知れない。毎日王冠はゴール前マグナーテンが垂れてしまってエイシンプレストンが1着、ロサードが2着。イーグルカフェも出遅れて不発。マグナーテンは距離かな。直線すぐに手前を変えて600m近くをあれで走ったら最後まで持たないよなぁ。

 京都大賞典は、あっと驚くトップロードの落馬。ステイゴールドの後藤が外により、オペラオーとの間に入ってステイに躓いてトップロードの渡辺が前に投げ出された。後藤はそれまで完璧に乗って本人も快勝した思っただろうがあれを失格にしなかったら問題になるだろう。それにしても渡辺は、4コーナー手前で仕掛けオペラオーを抜いていったのに、そのまま鞭を出して追わなかったのだろう、疑問が残る騎乗。と言うか下手くそと言いたい。あれじゃ今年はオペラオーには勝てないなぁ。馬は賢い。騎手が居ないのにちゃんと厩務員が居るところに向かって走っていくもの。

 あれがなければステイが優勝。オペラオーが思ったほど伸びなかったのが気になる。どうなる秋のG1古馬戦線。来週は乙女たちの秋華賞。

 山田風太郎、『死言状』、短編 『忍法 死のうは一定』 読了。作家がエッセイを書くのはあまり好きじゃない。そんなに面白くないからだ。しかし、そこは風太郎。あの死にぞこないのボケ老人になっていてもインタビューの本が面白かったように、これも、非常に高レベルで面白い。とにかく物知り。色んな事を深く追求しているし、まさに戦後最大の知識人。そして、日本最高の作家だ。

 『死言状』 の中で、死に際の最後の一言をについて文章。50年ぶりに会った中学の同級生と呑み、彼らが帰った後も1時間呑んで泥酔して、「寝室にゆくべくその部屋を出ようとしたがーーーその部屋と廊下は二十センチほどの段差があった。それを同じ平面のつもりで、千鳥足を踏み出したものだからたまらない。
 ずでんどうとばかりに転倒した。しかも何の防御態勢もとらず、棒を倒したように、もろに顔面を床にぶっつけたのである。
 眼鏡も飛び、前歯も跳んだ。その眼鏡もレンズがフレームからはずれ、前歯も三本、まわりに散乱するという物凄さである。
 朝になって、はじめて歯ぬけじじいになっているのに気づいて、そのわけを家内からきいた。
 ちょうどその転倒のとき、台所にいた家内は大音響をきいてかけつけ、シッカリセヨと抱き起こし、
「どうしたの!」
 と、呼びかけた。
 すると私は、虫のような息で、
「・・・・・・死んだ・・・・・・」
 と、一語つぶやいたそうである。
 これだこれだ。これこそ死ぬときにはくべき最高の名句である。自分の言葉ながら、これをよくおぼえておいて、本番のときもういちどやってみよう。
 ただしこれは過去形になっている。だから、死んでから三分ほどたって、
「・・・・・・おれ、死んだ・・・・・・おれ死んだよ・・・・・・」
 とつぶやかなければならない。すると、
「うるさいわねッ、わかってるッ」
 なんて叱られたりして。  」

 風太郎は、死に際の最後の一言の最高傑作を、近松門左衛門の、「口にまかせ筆に走らせ一生をさえずりちらし、いまわの際に言うべき真の大事は一字半言もなき当惑」と、勝海舟の、「コレデオシマイ」を挙げている。インタビュー第1集のタイトルを、『コレデオシマイ』 と言い、第2集のタイトルを、『いまわの際に言うべき一大事はなし。』 と言う。最後は、自分の戦後の作家人生を含めた人生を、『ぜんぶ余録』 だったと言う言葉から取ってつけている。あれだけ面白い小説を沢山書いたにもかかわらずである。これこそが風太郎なのだ。しかし、こんな状況でよくもまぁ、「死んだ」なんて名言が吐けるものだ。風太郎の考えは、考えていない、体の中に染みついている感覚なのだ。

 結局実際には、風太郎は最後の一言を言っていない。『文芸春秋』 10月号の啓子夫人の手記に、「今年六月六日未明、山田は救急車で近くの日本医大救急救命センターに運ばれます。パーキンソンによる筋肉の萎縮で気管と食道の間の弁が閉じなくなってしまった結果、のどにものが詰まり、呼吸困難に陥った。
 前夜は、お豆腐やお魚の細かくむしったものを私がスプーンで口まで運んで食べさせ、ビールとお酒も、それぞれコップに半分ずつぐらい飲むことができました。でも結局、それが「最後の晩餐」になってしまったんです。
 以降救命センターでの五十九日間は、のどを切開して人工呼吸器をつけ。チューブで栄養剤を注入する状態でした。血管が細くなっているので、点滴の場所も毎日変えなければいけない。体重は四十キロを割りました」と、書いているからだ。

 しかし、車椅子生活になり自分の手で食事できなくなっても酒やビールを飲んでいたことは本当に敬服する。徹底的な人生だ。最後の一言を言わなくても、上記の 「死んだ」 と言う言葉が代用として語られるだろう。

 短編 『忍法 死のうは一定』 は、幻術、女陰往生の話。幻術師、果心居士が信長に言う。「人は一生に三度往生をとげるものでござる。 往生というより、人生でござるがーーー 一つは、われわれが人生と承知しておる人生でござるが、もう一つ、その人間が死ぬとき、一瞬の間にもういちど同じ人生を脳髄に反覆するものでござる。 その長短二つの人生が最後に重なり、ついに一致した時点がすなわち死でござる。断末魔の一瞬の人生は、当人には断末魔の一瞬とはわからぬ。これもまた長い一つの人生であると感じておる。・・・・・・信長さま、実はいまのあまたさまも、その断末魔の一瞬中の三度目の人生かも知れぬのでござりまするぞ。ふおっ、ふおっ、ふおっ」
 「三度目とは?」
 「それでござる。人間はふつうの人生を送らんとする直前にあたり、すなわち今や生まれ出でんとするときに、一度目の人生を送るのでござる」
 「どういう意味じゃ?」
 「子宮より出でて、陰門より生まれるまでのあいだ、人間はおのれの未来の全生涯を夢見る。ーーー」
 「ば、ばかな!」
 「ただし、この世の息を最初に吸った刹那に、すべてを忘れ果てておる。ーーー」
 「さ、左様なことが、なぜなんじにわかる?嘘八百もよいかげんにせい」
 「それを嘘八百ときめつけるのが、おのれ自身、いずこよりか来ていずこへか去るを知らざる愚かな人間の分際知らずのさかしらでござる。が、断末魔の人生をまま知る人があるごとく、この未生以前の人生の記憶を、ふと微かな羽音、遠きに去る物のひびきのように思い出す人もござる」  (これデジャブのことか?)

 幻術、女陰往生とは、女と交合時に男をその女の女陰中に追い込み誕生時に見る全人生もう一度味わわせ、そしてその記憶を消さない幻術をいう。果心居士は信玄にかけ、信玄は自分の人生に絶望し大軍を引き、謙信にかけ、謙信は気が狂い自殺する。そして、本能寺の変で光秀の攻撃に堪えているとき、幻術師、果心居士が信長に言う。この窮地を乗り切るには、幻術、女陰往生をもって逃れるしかないと。信長が交合の相手に選ぶのは、妹、お市の子、おちゃちゃ。のちに、秀吉の妻になる、淀君だ。さて、信長は気が狂わずに生き残れるか?

 「人間五十年、下天のうちをくらぶれば
 夢まぼろしの如くなり
 ひとたび生を得て
 滅せぬもののあるべきか。・・・・・・」

 風太郎の小説の発想、その発想に忍法のようにかかってしまう俺。面白すぎる。何だか風太郎を読んでると風太郎が死んだとは思えない。死んだことが悲しくないのは何故だろう。これも風太郎の忍法か。死して未だ小説によって忍法をかけるとは、風太郎、恐るべし!

 下山さんからメールでフェリア・デ・オトーニョの事について書かれてあった。「今日、フェリア デ オト−ニョのノビジャダでレイジェス メンドーサが一頭目のカポ―テでひっかけられて角はささりませんでしたがあたったところが前の日にコルナーダで縫い合わせたところだったらしく、傷口がさけたらしくタレギージャがだんだん自分の血でそまっていくのがわかりました。ムレタのファエナすごくよかったれどもサンイシドロの時のようにまたしとめでしっぱいして耳を失いました。ばかです。一頭目が終わって皆に手術室へ行けと言われましたが行きませんでした。なぜ手術室に行かないのかと言うアナウンサーの質問に一回手術室にはいったら2頭目ださしてくれないからだと言っていてやる気はみとめるがしとめをもっとべんきょうしないとうえにあがれないよ。レジェス メンドーサは、ムレタのファエーナがどんなによくてもしとめがダメだと耳がもらえませんよと教えるのにいいお手本です。」、と。

 こうやってメールを貰うのは、本当にありがたいことだ。レジェス・メンドーサは本当に良いファエナをする。でも、下山さんが言うように剣刺しが決まらない。耳と取ったアントン・コルテスについて書いてないのはレジェス・メンドーサよりも良いファエナをやっていないと言うことだろう。

 6日の結果。 マドリード。見習い闘牛。レジェス・メンドーサ、口笛。アントン・コルテス、耳1枚。プロクナ、耳なし。 フエンヒロラ。ミックス闘牛。ポンセ、耳1枚、耳2枚。エル・フリ、耳2枚。見習い闘牛士、ダビ・ガラン、耳2枚、耳2枚と尻尾1つ。 ジェクラ。ミックス闘牛。ペピン・ヒメネス、耳なし。ハビエル・コンデ、耳1枚、耳2枚。ホルヘ・イバニェス、耳2枚。


 10月8日(月)

 ♪惜しくない 惜しくない
  あなたが望めば 何でも捨てる
  破らない 破らない
  あなたとだったら 秘密は守る
  悔やまない 悔やまない
  あなたとだったら 何でも耐える
    ローソクみたいな 燃える炎に
    私の躰は熱くなる
    思いもよらない 愛の痛みが
    私の心につきささる♪       ーーー『禁じられた遊び』 からーーー

 千家和也の歌詞が、都倉俊一の曲にのって、山口百恵の声で歌われると、そこに何が起こったか。

 「私は良いが、スーパー部長が何ていうか」という、三浦友和が旦那とは、今になって思えば信じがたい事実だが・・・。最近NHKの深夜に昔、放送した番組を流しているが、昨日は篠山紀信が「激写」した百恵の写真だけを画面に写し歌や声をバックに流しているだけのものをやっていた。何だか不思議な気分にさせられる。あの当時、彼女と同じティーンの少年たちは、『禁じられた遊び』 を聴いたとき何を思ったのか?

 「惜しくない 何でも捨てる」 とか、「破らない 秘密は守る」 とか、「悔やまない 何でも耐える」 とか、「ローソクみたいな 燃える炎に 私の躰は熱くなる」 などという歌詞が、百恵の声にのり発せられたときに、切ない気分になったのではないだろうか。「破らない」は、「秘密」ではない物を、「破る」に聞こえる錯覚を聴く者に与え、だからこそ、「秘密は守る」 は逆に強調され、「悔やまない 何でも耐える」に続いて行くのではと・・・。まぁ、凡庸な解釈ではあるのだか、少年たちには充分刺激的だっただろう。

 百恵はその後、同世代の少年たちよりも同性、特におばちゃんたちから熱狂的に支持される。実に不思議なアイドルだった。そしてこの番組も不思議な番組だった。

 長芋をすり下ろした物にかき混ぜた納豆を入れ、それを混ぜ、熱いご飯にかけて食べる。美味い。始めて食ったが、こういう食い方もあるものだと自分でも新しい発見だった。海苔をかければもっと美味かったかも知れない。

 今日未明、米・英軍がアフガニスタンに空爆を始めた。いよいよ始まった。アラブ諸国の反撥をよそに、攻撃を始めた。

 なっ、何と、エスプラが、プエルタ・グランデ。サン・イシドロが効いたかなぁ。

 9日の結果。 マドリード。エスプラ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。オルドニェス、口笛。エウヘニオ、耳なし。 サラゴサ。フェルナンデス・メカ、耳なし。パディージャ、罵声。フェレーラ、耳要求で場内1周。 エジン。ポンセ、耳2枚。エル・カリファ、耳2枚。エル・フリ、耳2枚、耳1枚。3人ともプエルタ・グランデ。 モントロ。騎馬闘牛士、ラフェエル・セラノ、場内1周、耳1枚。闘牛士、マノロ・サンチェス、耳なし。ミウラ、耳2枚が2回。プエルタ・グランデ。 


 10月9日(火)

 昨日の未明から始まった、アフガニスタンへの米・英軍の空爆は、続いている。ヨーロッパ諸国、ロシア、北米は揃って空爆支持の声明を出しているが、中国は、「一貫してあらゆる形式のテロ行為に反対してきた」軍事行動へは支持をしているが、日本の自衛隊派兵について猜疑している。マレーシア、インドネシアなどのアジアのイスラム教国家は、「罪のない一般の人々を犠牲にするだけ」と反対を表明している。イスラエルは、勿論賛成で、「勇気ある決定」といい、イラクは、「国際法を逸脱した侵略行為だ」と激しく非難している。

 あのリビアのカダフィ大佐(もう何十年もたっているのに全然昇進しない。が、大佐の地位でクーデターによって政権を奪取した怖さを伝えるには大佐の方が不気味だが)は、「アメリカの攻撃は正当。タリバンはイスラムではなく、無神論者だ」という言葉には笑ってしまった。あれだけテロリストを匿っていかなる誹謗中傷をも受けつけなかったくせに、今回はタリバン批判。政治とは、面白いものだ。このようなコメントで、1番まともな言葉として聞こえるのが、イラクの、「国際法を逸脱した侵略行為だ」と言うものだ。言葉としては非常に立派だが、これはクエート侵攻したフセイン大統領のイラクのコメントなのだ。イランも空爆に反対しているが、最も深刻なのは、パキスタンだ。反米デモが暴徒化して略奪をしているという。

 僕は空爆には反対だ。こういう行為はアフガニスタンを独立国家として認めていない、まさに侵略行為だから。空爆に参加、賛成しているのは、殆どが白人のキリスト教徒だ。しかもカトリックではなく、プロテスタントだ。こういう野蛮行為を理屈を捏ねて平然と正義と言って行うこと自体に反撥を感じる。スペインや南米のカトリックの国はテロに対する、怒りや悲しみを素直に表しているが、ここまで相手に対して徹底的に虐殺をしようという気はないだろう。アングロサクソンは恐ろしい人種だ。

 芥川龍之介、短編 『往生絵巻』、『藪の中』、『六の宮の君』、永井荷風、短編 『かたおもひ』 読了。

 昔読んだはずなのに全然覚えていない。自慢にならないことだが・・・。芥川は読みやすい。『往生絵巻』 は本人もマンネリと言っていたそうだが、はっきり言って、『藪の中』 は傑作にはいるだろう。登場人物3人に、一つの殺人事件を語らせる。殺人現場が、藪の中で起こる。その3人の話が3人とも全く違ったことを言う。こういう構成、タイトルの付け方まで含めて傑作だ。三つの短編の元本は、『今昔物語』 。『六の宮の君』 はいわば凡庸だが、『藪の中』 は、芥川の作家としての力量を感じないわけにはいかない。解説によるとこれは、ブラウニングの 『指輪と本』 を参考にして書かれたらしい。ブラウニングの名前は風太郎のエッセイにも出てきた。推理小説を書く人には彼を参考にしている人が多いようだが、読んだことがない作家だ。

 永井荷風の 『かたおもひ』 は花街の芸者を取材して書いた作品。荷風本人は取材ではなく、遊びと言うだろうが。芸者の片思いを荷風が訪ねていって聞く話なのだが、文体が、七五調と言うか五七調というのか知らないが、この文体が話の内容をより面白くしている気がする。話自体はそれほど面白い物ではないが読ませていく力があるのはこの文体だろう。気持ちが良い文体だ。

 気持ちが良い文体と言ったら、読み始めた、泉鏡花。何を書いているわけではないのだけれど、どうしてこんなに美しいんだろう。

 「はじめ、目に着いたのはーーー些と申兼ねるが、ーーーとにかく、緋縮緬であった。その燃立つようなのに、朱で処々ぼかしの入った長襦袢で。女は裾を端折っていたのではない、褄を高々と掲げて、膝で挟んだあたりから、紅がしっとり垂れて白い足くびを絡とったが、どうやら濡れしょびれた不気味さに、そうして引き上げたものらしい。素足に染まって、その紅いのが映りそうなのに、藤色の緒の重い厚ぼったい駒下駄、泥まみれなのを、弱々と内端に揃えて、股を一つ捩った姿で、降りしきる雨の待合所の片隅に、腰を掛けていたのである。」  ーーー『売色鴨南蛮』 よりーーー

 何にも書いてないが美しい。女は、美人なだけでその存在がその場に華やかさを与え、みんなをなごませる。この文体は美人と同じだ。そして、この文体だけでも文学の価値がある。鏡花の文体は日本文学の最高峰かも知れない。

 下山さんから、エスプラのプエルタ・グランデについて、メールが届いた。面白いことが書いてあった。「この前、マドリッドで耳2枚切ったときにコスタレロからうまく逃げ切ってプエルタ グランデしなかったとき、なぜプエルタ グランデしなかったのかという質問にマドリッドは、耳を切りに来てるのではない楽しむために来ているのでプエルタ グランデは、しない。もしするとしたら少なくとも耳4枚切らないとしない。と、いっていたのに昨日は耳1枚1枚の計2枚・・・・。昨日のエスプラは、のりに乗っていました。とくにしとめがすごかった。2頭ともさした後すぐ4本足が真上にゴローンとなるような見ごたえのある死に方だった。」

 この前とは、99年のフェリア・デ・オトーニョのことである。結果的にエスプラは嘘をついたことになったがそれよりも、良いファエナをしたことに意味がある。アンデルソン・ムリージョはピカドールとして出場したのだろうか。

 8日の結果。 メディナ・デ・ポマル。エンカボ、耳なし。フェレーラ、耳2枚。プエルタ・グランデ。ミウラ、耳2枚。プエルタ・グランデ。 ラ・プエルタ・デ・セグラ。フェスティバル闘牛。マンサネレス、耳2枚と尻尾1つ。バレラ、耳2枚と尻尾1つ。エウヘニオ、耳2枚。ラファエリジョ、耳1枚。マンサナレス(息子)、耳1枚、耳1枚。


 10月10日(水)

 朝から雨が降っている。ネットにて風太郎の本を頼んだ。カードの入力が間違っていて使えなかったようだ。闘牛の会の原稿って今度の送るなかな。

 これだけADSLが安くなったら加入しようかと考え、色々調べたりもしている。常時接続できることも凄いことだが、ウィルスに対する対策もそれなりの準備をしておかないとコンピューターがどうにもならなくなってからじゃ遅いので、どのソフトが良いかなどと言うことも検討している。メリットが大きいがデメリットで全てがパーにならないようにしないと。

 9日の結果。 サラゴサ。エル・モリネロ、耳なし。エンカボ、場内1周。ラファエル・デ・フリア、耳1枚。


 10月11日(木)

 ノーベル化学賞を野依良治・名古屋大学教授が受賞した。「受賞理由は、触媒による不斉合成反応の研究。化学物質には形はそっくりでも、右手と左手の関係のように構造が対称的な物質がある。医薬品などでは通常このうち一方しか役立たないが、これまでの化学合成では両方のタイプが半分ずつできてしまうため、有用なタイプだけを効率よく作り出すことが難しかった。野依教授は六十六年、二十八歳の若さでこうした物質の作り分けを可能とする「不斉触媒」のアイデアを発表し、八〇年に実用的な触媒を開発することに成功。有用物質だけを量産する技術の確立に貢献した。」

 例えば、サイドマイドでは、片方に鎮静作用、もう片方に奇形を起こす作用があったため薬害になった。生物は役立つ片方だけを選択して作る能力を備えるが、「人工的な方法では不可能」と、百五十年前フランスのパスツールという科学者が唱えたがこれを覆す開発だった。効率的な作り分けは化学者や化学メーカーの長年の課題だった。新薬の開発に画期的な方法として活用されているようだ。

 もう一つ画期的な物質が発見された。植物を眠らせる物質。これは慶応大学の某教授と某助教授のグループが発見した。某となっているのは僕が名前を忘れたからで匿名ではない。沖縄などで、本来その場所になかった植物が異常発生して生態系を脅かしている。在来種ではない外来種植物ギンネムがそれである。その「ギンネムの物質を分析した結果、「2、3、4トリヒドロキンー2メチルブタン酸カリウム」 というカリウム塩の仲間がごく微量(1リットル中約0.2ミリグラムの濃度でその植物を眠らせた。この500倍の濃度でも他の植物は眠らず高い選択性を持っていることを確認した)で昼間でも植物は眠り、光合成できずに枯れる。これは除草剤開発に結びつくという。

 野依教授のノーベル賞の受賞は人のやらないことを、独自性を追求して研究してきた結果だ。もう一つの方は、植物が眠ると言うこと自体を知らなかった。さらに物質によって眠るというのがさらなる驚き。そんなことはおとぎ話の中の世界だけだと思っていたのでビックリしたし、眠り続けると植物といえども枯れて死んでしまうと言うのがさらにビックリだった。

 JRAの田原成貴調教師が覚醒剤所持等で逮捕された。夏に管理馬の耳に発信器を着けて厳重注意をされたばかりだった。あの事件も田原ほどの男が何故あんな馬鹿なことをしたのか不可解だったが、これで理由が解った様な気がする。最も馬の敏感な耳に異物を取り付けると言うことが馬鹿げたことは田原なら簡単に判断できることだからだ。それを誰にも言わずにあえてやったと言うことが不可解だった。

 田原をずっと応援してきた。それは彼の才能に対してだ。彼はこの逮捕で最悪の状況に追い込まれるかも知れない。それは最悪JRA永久追放だ。何ともショックな逮捕劇である。

 泉鏡花、『売色鴨南蛮』 読了。うーん何というか。自殺を止めてくれた女と何年かぶりに街で会ったらそれが狂人になっていて、入院した先に見舞いに行って、泣く話だ。こういうのは、今は判らなくなった。自殺願望は、“死に場所”を得たり、というのとは全然違うことだ。ただ明治時代から日本にはこういう自殺願望などの事が、“死に場所”を得たり、ということと混同されて来ているような気もしないではない。漱石の、『こころ』 は乃木大将の天皇への殉死を書いていて、これは“死に場所”を得たり、の方だ。後に太宰治の様に自殺するための生活などは馬鹿らしい。ただ、太宰の小説は面白いが。芥川の自殺は詳しくは知らないが、「訳の分からない不安」 から来ているのではないかと思う。

 まぁ、今という時代自体が、「訳の分からない不安」 の時代だろうから自殺者が激増し、引きこもり、家庭崩壊、学校崩壊、猟奇殺人事件が多くなるのだろうけど。その辺の線引きが出来ないと日常生活が浮いてくる。俺の日常も浮いていると言えば浮いているが、その辺の線引きは出来ているつもりだ。鏡花は変だ。変な小説だ。

 高田馬場で古書フェアをやっていたので覗いたら、欲しい本が合ったので買ってきた。縄田一男編による時代小説の楽しみシリーズから3冊。縄田氏の本は読んだことがないが、風太郎との対談や風太郎の本の解説等でその批評眼は卓越していることが判るので、氏が選んだ小説集なら安心して読める。これらの小説を読めば風太郎の違う側からの理解も深まるというものだ。その他は荷風の全集がばら売りで売っていたので買った。これは読んだことがないものが殆どだ。1冊350円というのは安い。

 10日の結果。 サラゴサ。フィニート、耳1枚。エル・フリ、耳なし。ヘスス・ミジャン、耳1枚と耳もう1枚要求、プレシデンテに罵声。


 10月12日(金)

 医学雑誌 『Human Body』 2号の救急医療の症例にペニスをスパナの穴にはめてしまった4歳の子供の話が出ていた。父親のリングスパナで遊ぼうとしたジェイソン君は、スパナの穴にペニスをきつかったが入れ直ぐに取ろうとしたが取れず、母親を呼び、慌てた母親は直ぐに病院に連れていって取って貰ったということが、写真入りで載っていた。よくご婦人が恥ずかしいことがあると、「穴があったら入りたい」 と、言うが、ジェイソン君の場合は、穴があったから入れてしまった話だ。スパナを取って貰ったジェイソン君がその後、恥ずかしさのあまり、「穴があったら入りたい」 と、いったかどうか、記事には載っていない。

 生物学的に言うと、オスは穴があれば入れてみたいと思うのは遺伝子に組み込まれた本能だ。4歳の子供はそれを素直に実践しただけだ。非常に可愛らしい症例だ。本屋で立ち読みした、講談社文庫、山田風太郎の 『くノ一忍法帖』 の解説を花村満月が書いていて、その中に馳何とか言う小説家と対談したときの事を書いていて、その小説家が、風太郎や大藪春彦を読んでオナニーしたといって、満月があんなのでオナニー出来るんですか、と聞くと、童貞の中学生でしたから、と言っていた。なるほど中学生ならあり得るかも知れないと思った。

 風太郎でオナニーというのは尋常じゃない。そう言う楽しみ方をする本じゃないもの。と、思っているが、昔1ヶ月くらい入院していた病院のベットで、風太郎の、『秘戯書争奪』 と言う忍法帖を読んでいて、勃起したことがあった。病室は1人じゃないからベットの上に寝転がって読んでいる股間が盛り上がって、たまらなかった事を思い出す。1ヶ月も出していなかったので溜まっていたのだ。その時、「穴があったから入れて」 みたい心境だったどうかは忘れてしまったが。

 寺山修司の本に、不気味な話があった。それは実話で、12歳頃、オナニーをするとき誰を思ってするかするか?と数人の友人と話したとき、当時の歌手や女優の名前をみんなが言う中で、1人だけ、「お母さん」 と言ったショベンというあだ名の子がその後、自殺した。ショベンは、母の後を追って死んだのだが、その遺書には、「僕はお母さんの形見の指輪をはめてオナニーをすると、お母さんと一緒のような気がしていました。でも、今日その指輪をなくしました。僕は生きていく希望がなくなりました。お母さんの所に行きます」と、言うような内容だった。

 寺山というのは不思議な文章を書く人だったが、この話は、最も不思議な文章の一つだ。穴があったから入れてみたい。こういう気持ちは女にはなかなか分からない事だろう。ジェイソン君の気持ちはよく判る。でも、ショベンの気持ちはと言うと、それが分かるところもあるが、判らないのだ。

 ちなみに、医学雑誌 『Human Body』 2号には、男女の立硝した全裸の写真が載っている。当然性器が写っている。しかし、芸術か、猥褻かと言う問いはここには発生しない。何故なら医学雑誌だからだ。勿論こう言うのを見てもオナニーをしたくならない。

 11日の結果。 サラゴサ。ホセリート、耳1枚が2回。ポンセ、耳2枚、耳1枚。パウリタ。耳1枚が2回。3人ともプエルタ・グランデ。


 10月13日(土)

 荻内先生からTELがあって明日の打ち合わせをした。10日の雨以来、ここの所良い天気になっている。明日も予報は良い。闘牛の会を東西文化センター以外でやるのは初めてだ。しかも横浜なので、今までと違う人が来るだろう。これもまた楽しみの一つだ。

 永井荷風 短編、『深川の唄』 読了。前半落語のような笑いを含んだ電車内の風景、後半、深川の街を描写し荷風の心情を語るところは胸が熱くなる。荷風が何故、あのような世捨て人、厭世的な考え方になったのかこの小説の中にその一端を感じることが出来る。

 文庫本にしてわずか十数ページの小説なのに素晴らしい出来だ。時間が限られているので、多くの引用は控えるが、「近松や西鶴が残した文章で、如何なる感情の激動をも云い尽くし得るものと安心していた。音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重、こんな事は少しも自分の神経を刺激しなかった。そんなことは芸術の範囲に入るべきものとは少しも予想していなかった。日本は永久自分の住む処、日本語は永久自分の感情を自由に云い表してくれるものだと信じて疑わなかった。
 自分は今、髭をはやして、洋服を着ている。電気鉄道に乗って、鉄で出来た永代橋を渡るのだ。時代の激動をどうして感ぜずにはいれよう。」と、言い。

 明治という時代、政府、風俗全てを、「江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な 「明治」 と一致することが出来ず」と言っているところには荷風の心情を充分言い表しているのだろう。こういう、現代史観は、風太郎の、『警視庁草紙』 の隅の御隠居などに通じるところだろう。他にも前半の落語風電車内の描写も面白いが時間がないのでやめる。所で、昨日はスペインデーだった。

 ラス・ベンタスのフェリア・デ・オトーニョで、マリアノ・ヒメネスとアルフォンソ・ロメロがコヒーダされ、エンカボが5頭の牛を相手にすることになった。牛は、ヌニョス・デル・クビジョ牧場の良い牛が多かったが、剣刺しがバホナッソ、カイーダを繰り返し、最後の牛でようやく耳1枚を切った。満員の中でのプエルタ・グランデ、最高のチャンスを自ら逸してしまった。今年のベネフィセンシアでも耳を逃しているが、剣を決めてりゃ・・・・・・。彼のことは今年のベネフィセンシアで書いているので読んで欲しい。

 マリアノ・ヒメネスも、一時引退をしていてまた復帰。田舎闘牛で活躍して秋のラス・ベンタスに乗り込んできたが、バンデリージャを打ったときにコヒーダされ大怪我をしてしまった。落下した後は全く動かなかったようだ。場所が場所だけに非常に心配なコヒーダだ。

 12日の結果。 マドリード。マリアノ・ヒメネス、バンデリージャを打っているときコヒーダ。左鼠径部(足の付け根)30cmの刺し傷で重傷。エンカボ、耳1枚。アルフォンソ・ロメロ、耳なし。コヒーダ。右太股に20cmの刺し傷。重傷。

 サラゴサ。クーロ・バスケス、口笛が2回。エル・タト、耳なし。エル・フリ、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。 カランダ。ポンセ、耳1枚が2枚。フィニート、耳1枚、耳2枚。ヘスス・ミジャン、耳2枚。3人ともプエルタ・グランデ。 サンタンデール。フェスティバル闘牛。騎馬闘牛、ラウル・マルティン・ブルゴス、耳なし。闘牛士、エル・フンディ、耳2枚。イガレス、耳1枚。ホセ・イグナシオ・ラモス、耳1枚。見習い闘牛士、アントニオ・デ・ルイサ、耳2枚。


 10月14日(日)

 朝早く目が覚めた。昼近くになって片山先生にTELをしたらどうも調子が良くないで、と言うことだった。月曜日に試験があってそれを欠席すると学生たちに怒られるから今日は大事をとって体を休めると言うことだった。

 今、横浜から帰ってきた。闘牛の会が外に出てやったのは初めてだったが、会場の分かり難さに比べれば5,60人が来たのは盛況と言っていいだろう。横浜で飲んできたので、遅くなった。色々書こうとを思っているが今日はもう寝る。

 マドリードでは騎馬闘牛が行われジョアオ・モウラとアンディー・カルタヘナがプエルタ・グランデをした。また、ロス・バリオスではエル・フリのバンデリジェーロのセビジータが闘牛士として出場し耳2枚を切って、エル・フリと一緒にプエルタ・グランデをしてしまった。

 13日の結果。 マドリード。騎馬闘牛。ジョアオ・モウラ、耳1枚が2回。プエルタ・グランデ。レオナルド・エルナンデス、耳1枚。アンディー・カルタヘナ、耳1枚、耳2枚。プエルタ・グランデ。 サラゴサ。カバジェーロ、罵声。エル・カリファ、口笛。エウヘニオ、場内1周。 ウエルカル・オベラ。ポンセ、耳2枚と尻尾1つ。フィニート、耳2枚。フランシスコ・バロソ、耳1枚が2回。3人ともプエルタ・グランデ。 ロス・バリオス。セビジータ、耳2枚。エル・フリ、耳2枚、耳1枚。ラファエル・デ・フリア、耳2枚、耳1枚。3人ともプエルタ・グランデ。


 10月15日(月)

 秋華賞の馬券は当たった。テイエムオーシャンは強かった。ローズバドはスタートで躓いたのに2着によく来た。典の好騎乗がが光った。本田良かったな。桜花賞に続いての2冠達成。強いものが勝つレースだった。そう今年の秋のG1のキーワードは強いものが勝つ。菊花賞はジャングルポケットかエアエミネムか。

 昨日の飲み会の前に堀池さんの旦那さんがぎっくり腰で痛がっていたが、吉沢さんが、鍼を打ったら、「全然違う」と言って元気になった。病院に行っても治らなかったのにと、驚いていた。元気に最後まで飲んで帰った。

 14日の結果。 サラゴサ。エル・タト、耳1枚。ウセダ・レアル、口笛。ヘスス・ミジャン、耳なし。


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