インド公演の記録へ
未知の読者へ
あるいは
プロの舞踊家を目指している人へのメッセージ
ここにはそれぞれの個性から発現された ”活きたインド” が語られ、アマチャーの眼からプロの眼へと成長を遂げつつあるプロセスの一断面が克明に描かれています。一地方のインド舞踊サークルが世界の桧舞台に立つことの幸福と不安と緊張の綯交となった複雑な心境が直截に綴られ、その成長の跡付けを読者は深い想像をめぐらせながらお読み下されば幸いです。 |
1999.12. インド公演について
永田真弓
● 12月7日
遂にインドへの出発の日がきた。この日をめざしてきたのに、この日が本当に来たことが信じがたかった。インドで日本人による舞踊公演をするというシュヴァ先生の夢は思いのほか早く実現の日を迎えた。しかし、わたしにとってはこんな日が来るとは夢にもみないことだった。今から20年も前にインド舞踊を始めたにもかかわらず、紆余曲折を重ねて、10年のブランクを中にはさんで3人目の師であるシュヴァ先生に出会えた幸運にも加えて本場インドでインド舞踊を踊ることが出来る日がくるとは10年間のブランクの間に誰が想像することができたであろう。しかし、このような幸運な機会は無条件に有頂天で喜べるものではなく、むしろ重圧感のほうが大きかった。今回のツアーの目的はインド舞踊の発表だけでなく先生のお知り合いのお宅にホームスティをしての国際交流なども含み、飛行機の移動を入れてのたった9日間の日程だったけれど本当に中身の濃いツアーだった。きっと皆同じインドツアーを経験しながらそれぞれに写った光景、印象、得たものは千差万別ではなかったかと思う。わたしも写真を見ながら書き連ねてゆけば何枚でも書けそうだが、やはり今回はインド舞踊公演が一番気がかりであり、今回の旅行の心を占めたものなので、このことを中心に反省も込めて書きたいと思う。
● 12月8日
午前中から12日に公演を行うマハジャティ・サダンでリハーサルが行われた。方向音痴のわたしは舞台の上手と下手の区別がつかみにくく苦労する。足元がやけにふらつくのは緊張のせいか、旅の疲れのせいか、ひょっとしてこの舞台がななめじゃないかしらとも思う。これは12日の本番でも思ったことだ。その夜、わたしたちも9日に参加するウダイ・シャンカール=ダンスフェスティバルの行われているラビンドラ・サダンで参加者たちの舞踊を観る。時間の都合で途中からになり、カタックとママタ・シャンカール舞踊団の創作だけでバァラタ・ナッティヤムが観られなかったのは残念だった。しかし、その2つだけでも十分なくらい素晴らしく、わたしたちが同じ舞台に明日立つのかと思うとあらためて身のひきしまる思いがした。おまけにこの舞台の広いこと2500人収容の舞台の広さを客席から実感した。
● 12月9日
遂にこの日が来てしまった。今日は午前中は少しゆっくりしてラビンドラ・サダンへ向かう。衣装、小道具など何度点検しても忘れているような気がして衣装の入ったバッグをのぞいてしまう。自分が不安神経症じゃないかしらとも思う。リハーサルの途中でシュヴァ先生にママタ先生が正面の客席からわたしたちの舞台を観ていることを告げられる。緊張が走る。リハーサルといえどもメガネをかけて踊っているわたしは失礼じゃないかしらとも思いながら踊る。舞台の内容をすごく誉められ皆安堵する。しかし本番はまだまだこれからだ。楽屋でメークをして衣装をつける。時間があるので舞台のそででオリッシーを観る。ダンサー達のスタイルが良くて皆きれいなこと。ダンス人口の多いインドでの選抜きのダンサー達が出演する舞台なのだとあらためて思う。次に男性のソロダンスをはさみ私たちの出番だ。何度も聞き慣れた音楽とともにステップを踏む。インドの舞台が思いのほか暗いのに驚く。自分たちが深海魚にでもなって踊っているのを観られている気分だ。最難関の衣装の早替えを真っ暗な舞台の袖でなんとか突破してフィナーレの盆踊りとなる。客席の後ろから入るシュヴァ先生の演出は大当たりで、あふれんばかりの手拍子に劇場が一つになる。こうしてわたしたちの最初のステージは大成功のうちに終わり、舞台でシュヴァ先生の挨拶に続き、ママタ先生からシュヴァ先生へ記念のたてが贈られた時、舞台は感動の渦となり皆、涙、涙で立ち尽くす。わたしといえば、それと対象的に緊張で迎えた舞台があまりにあっけなく終わってしまったことに「これで良かったのかしら。あそこはチョットおくれたなー。」などとやけに醒めていた。カーテンが下りてママタ・シャンカール舞踊団のメンバーが舞台に上がってきてくれて交流を交わした。一緒に「さくら」を歌ったことは忘れられない思い出だ。なんとか一つの舞台を終えたものの古典を含むもう一つの舞台が12日に待っていた。10日の買物、11日のママタ先生のお宅訪問とくつろいだ日々はすぐに終わり、その日はすぐに来た。
● 12月12日
体調の悪い人も多く、わたし自身、咳が止まらず不安な気持ちは前以上だ。特に古典の方は踊る曲目の一つが出発の一週間前に替わり自信がない。そんな不安もよそに時は刻々と過ぎて開幕となる。言い訳にもならないが、案の定、古典は多々間違える。そればかりか、創作の秋の踊りまで今回は間違えて情けない。唯一の救いは、春の踊りを終えて楽屋に走るとき舞台の袖に立っていた男性が親指を上に向け笑ってくれたことだ。本当にタゴールの詩を使った春の踊りはイントロが聞こえるだけで客席に歓声が沸き、いかにタゴールがインドの誇りであるかがよくわかった。今回は日本の曲が続いた後に日本人がそれを踊ったということで、とりわけ反響が良かったのかもしれない。とにかく今回この曲目を踊らせていただいたメンバーはずいぶん役得であった。そして盆踊りは大盛況で舞台の成功の決め手になったようだ。自分としては総てに満足のゆく出来ではなかったが舞台の大成功だったことに安堵した。本当にわたしたちがこのような成功を修められたのはシュヴァ先生の振り付け、演出のよさもあるだろうが、なにか偉大なものがわたしたちに力を貸してくれたとしか思えないほどの反響だった。わたしは一流のダンサーとは舞台に神を呼べる人だと思っている。もちろん水準以上のテクニックは必要だけれど、それだけではない何か小さな人間の力だけでは無理というものだ。神の心でもある純粋さや無私の心で踊りえた時に神が舞台に宿るのではないかと思う。もちろん神を呼ぶなどという力を今のわたしたちが持ち得る訳もないのだけれど、損も得もなくアマチュアゆえに何の野心も持たずに無心に踊ったことに神様が思わず「しょうがないなー」と言って力を貸してくださったのかもしれない。また、わたしたちを心配気に見守るシュヴァ先生の祈りの気持ち、またそれを見守るママタ先生の祈りの気持ちが通じたのかもしれない。ひょっとしたら日本の神様とインドの神様とが舞台の上で国際交流をしていたのかもしれない。とにかくあの大きな劇場にあふれた歓喜はわたしたち以上の力があったとしか思えないものだ。
● ママタ・シャンカール舞踊団
今回の収穫の一つにママタ・シャンカール舞踊団のステージを観ることが出来たことだった。特に9日に観たものはひとりひとりの動きがひとつになり一つの小宇宙をつくり、それはまた女性の子宮にも見えたりと多くのイマジネーションを与える作品だったが、そのスケールの大きさに圧倒された。そしてこのような舞踊を日本で習える幸せをあらためてかみしめた。また、ただ舞台を観るだけでなくダンサー達とまじかで触れあうことが出来、そのダンサー達の気取りのない雰囲気に打たれた。ダンサーだけで食べてゆける人は少ないというが、この人達はどこの職場にいても親しみやすく尊敬に値する人達ではないかと思えた。またそれはわたしたちを手料理でもてなしてくださったママタ先生にも言えることだった。あのような有名な方であるにもかかわらず、何の気取りもなく夜中であるにもかかわらず飛行場への送迎は信じられないことだった。このような人間性こそが作品の質を高めているに違いないと確信した。多くのことを学んだ有意義な旅だった。ホームステイ先での親切や楽しいショッピング、パーティでの得がたい体験など書ききれない思い出は山ほどある。消化するにはまだまだ時間がかかりそうだ。このことが自分の身になるようゆっくりかみしめてゆきたい。
本場インドの地へ
螺澤智子
それはまるで”夢”のようでした。夢をみさせてくれたのはTIAインド舞踊サークル代表、講師小久保シュヴァ氏でした。インドでの公演は日本とインドの国際交流の架け橋にならなければという師の想いの一つであると思います。が、三年足らずの舞踊経験しかない我々が現地で踊りを披露するとはこれまた大胆なことだと思いました。同時に先生の顔をつぶさなければよいけれど…とも。けれど師のおかげでインド・カルカッタで日本人がくりなすインド舞踊公演が実現したのでした。また公演だけでなく現地の家庭に二、三人ずつホームスティすることも決まり、お互いの文化習慣を知る絶好の機会も作ってもくれました。期待と不安で胸はドキドキ、ワクワク膨らませ飛行機に揺られ辿り着いた現地カルカッタの空港は既に真っ暗でした。にもかかわらず多くの方が迎えに来てくださっていました。師のお父様、あのママタ先生(実物にお会いできて感激!)ママタ先生のご主人様や舞踊団の方々など。やはり師であるシュヴァ氏と彼らとの関係(絆とでもいうんでしょうか)が、いかに深く強いかを見せられた一面でもありました。また、先生がとても興奮し、とても可愛らしく見えた瞬間(先生はいつも美しいですけれど、より一層ということです)でもありました。
インドに滞在している間は朝から夜遅くまでの過密スケジュールで私はあえなく熱を出してしまいました。自分の体力を過信し自己管理ができなくて皆様(先生済みませんでした。先生のご両親にご心配をおかけしました。浅井ママ深夜の看病有難うございました。向井さん気を遣わせてごめんなさい。鈴木さん抗生物質とても効きました。有難うございました)にご迷惑をかけてしまい申し訳なかったと思っています。また皆さん、私が寝込んでいた日に楽しいイベントに参加されていたかと思うと羨ましい限りであります。が、一日寝かせてもらったおかげで回復し二回の公演も無事踊ることが出来て嬉しかったです。踊りに関して個人的には反省点がたくさんありますがインドの方々の熱い拍手は何よりの喜びに感じます。
我々は創作・古典舞踊の両方を学んでおります。今回インドにおいてその両方をお披露目することになりました。創作は”日本の四季”と題して秋・冬・春・梅雨・夏の構成で表現され、古典は五つの演目で構成されました。群舞はメンバーの動きがピタっと一致しなければ美しくありません。先生が常におっしゃるように心が一つにならなければいけないということが根底にあると思います。練習することはもちろんですが、どう違うのか研究してゆくことも大切です。私は踊っていて「オー!」という歓声を幾度か聞くことが出来ました。とてもストレートだと思いましたし日本とは異なると思いました。インド滞在期間にママタ・シャンカール舞踊団の公演を観ることができました。やはりとても美しくダンサー達の踊りが見事に揃っていました。また何が言いたいかが伝わってくるものであり、これが芸術だと思わずにはいられませんでした。
踊っているときは何も考えられませんが踊る前はかなり緊張感が走ります。すべて忘れてしまいそうなくらいです。私はとにかく思いっきり踊れればと願っていたのですが、バランスを崩してしまったり、隣との距離間を忘れてしまったりと反省点が多々あります。何かが欠けているのでしょう。
今回、インドにて舞台を踏めたことは夢のようです。インドの国民性も有るかもしれませんがインドの観衆が舞踊を見る姿勢がとても積極的だと思いました。そして神様の存在をあらゆるところに見たような気がします。
初めてのインド
向井佳美
目の前が見えないほど眩しい照明、会場いっぱいの観客。
その舞台にはじめて上がったのは私達が出演する日の前夜、ママタ・シャンカール舞踊団のプログラムを観に行ったときでした。ママタ・シャンカール舞踊団の踊りは素晴らしく、ため息が出るばかり。「明日、同じ舞台に立つなんて」喜びというより不安でいっぱいでした。そして当日、自分たちの出番が近づくにつれ心臓の音は大きくなるばかり。でも私たちの踊りのテーマは≪日本の四季≫、きっと日本人ならではの踊りが出来るはず、こんなに素晴らしいフェスティバルに参加できるなんて、なんて幸せなんだろう。今の私達が持っているものを全て出し切れるよう頑張ろう。そう自分に言い聞かせ、本番に臨みました。いざ始まってしまうと、衣装替え、舞台の袖から袖へ移動、忙しくて無我夢中で踊っているうちに、気がつくと最後の≪夏≫の場面になっていました。浴衣を着て会場に再登場した私達を待っていてくれたのは割れんばかりの拍手と歓声、温かな手拍子でした。こんなに素敵な気分になれたのは初めてでした。観客と私達が一つになったことを体感できた瞬間でした。最後の舞台の挨拶のときには、思わず涙があふれてきました。皆で一つのことをやり遂げたという達成感と感動、長い間忘れていたものでした。こんなに素晴らしい一時をシュヴァ先生を始めサークルの皆さんと共有できたことを、大変嬉しく誇りに思います。
今回は、私にとって初めてのインド訪問。街の人たちの目はきらきらと輝き、見るもの全てが新鮮で「あー、私達は生きているんだなあ」と日本で日頃感じないようなことを気づかせてくれる場所でした。おいしいインド料理、楽しいショッピング(もっとしたかった!)どれも心踊るものばかりでした。シュヴァ先生と先生の御家族をはじめ、ママタ・シャンカール先生、温かなホストファミリーの皆さん等、私達にこのような機会を与えてくださり支えてくださった全ての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。これに満足することなくステップアップを目指し初心にかえって練習に励みたいと思います。
舞台の光と影
酒匂千鶴子
カルカッタ国際空港へ着いたのは午後11時30分すぎ。もうすぐ12月7日も終わろうとしていた。私は機内のたった一杯のワインで頭が痛かった。どんな旅が始まるのだろう…。外へ出て驚いた。先生の御家族、ママタ先生御夫妻、舞踊団の方々。私たち一人一人にお花を手渡して歓迎してくださる。 ”アッ、この花!” それはまさしく、シュヴァ先生が私たちの初めての「自主公演」の際にこだわった、心づくしの一輪の、あの ”バラの花” だったのだ。
12月8日、ラビンドラ・サダンでママタ・シャンカール舞踊団の公演を見学(だれでも無料)。感動的だったのは光と影。ライティングか見事というほかなく、実際の動きと後方の影の両方を楽しむことが出来る。影で勝負できるというのは一つ一つの動作がしっかり決まっているからだ。手首が反対方向に折れ曲がった感じさえする。衣装も手作りが活かされていた。ティアラも私たちの冬の踊りに欲しいわね、と話していたら、これも手作りだと聞きビックリした。それでシュヴァ先生がサリーを縫ったり、小物作りに熱心なのがよくわかった。それとママタ先生の御主人のゴーシュ氏の舞踊の紹介。韻を踏んで朗々と…とはまさにこのこと。内容はわからないまま、うっとり。プロの舞台をじっくり見させていただいた。ライティングの件で驚いたのだが、舞台は踊っているとき以外は真っ暗だということ。自分の立つ位置まで手探りで行かなければならない。
楽しい旅でした。この旅をホームスティに決めてくださったシュヴァ先生に感謝します。旅を思い出すとき、風景とともに多くのお世話になった方々を思い浮かべます。”ドンニャバード”そして”タタ”。
インド公演に参加して
浅井直子
今回の公演の目的は二つありました。
一つは今まで練習してきた舞踊をインドのステージで成功させてママタ先生より「また来て下さい」と言って頂けること。
二つ目は日印の親善交流でした。結果はママタ先生より「2000年の3月に来て下さい。一緒に公演をしましょう。等等」とありがたいお言葉を頂き、まず一つ目は大成功でした。
カルカッタでのホームスティ生活は正味七日間という、アッという間の一週間でしたが、中身が濃く、まるで二、三周間滞在したかのような感動の連続のドラマチックな毎日で、本当に思いで深い親善交流が出来まして、私の人生の一ページに良い思い出として大きく刻み込まれました。この限りでは、日印の親善交流も大成功だったと思っています。
この尊い経験をさせて頂いたのもすべてシュヴァ先生をはじめ、先生の御両親、そしてホームステイ先の皆様のお陰だと深く感謝しております。なかなか出来ない経験を本当にありがとうございました。さて、この尊い経験の中で特に私の心に残る二つのシーンがありました。その一つは12月9日、ラビンドラ・サダン劇場で私達はこの日の出演最後のトリ役となり、創作舞踊「日本の四季」秋〜冬〜春〜夏と踊り、会場より手拍子が鳴り響き、盛りあがる中、ステージ中央にシュヴァ先生を、そしてその両サイドに私達十一名が一列に弓状に並ぶと、すぐステージ下手よりママタ先生がシュヴァ先生に花束を渡されました。そしてシュヴァ先生の挨拶が始まり、最初の一言は日本語で、後はベンガリー語で話され、途中で先生の声のトーンが変わり、そのあたりから、私もジーンと心にきまして、何とも言えない感情が沸き上がりすごい感動でした。さらにママタ・シャンカール舞踊団の方たちが次々とステージへ上がって来られ、いつの間にか「さくら、さくら…」の合唱となり、いつまでも盛り上がりムードが続いたありさまでした。
はじめて見たカルカッタの街の印象として、まず寺院の素晴らしさ、おいしかったインド料理、交通状態のすごさ、街の生活音とほこりとカラスと犬の多さ、風呂とトイレと飲料水の日本との違い、街のあちこちで生活の風景がよく見える、人々の目は光り輝き活気があふれている等、まだまだ奥が深そうで、人間とは、人生とは、といった哲学的な考えをもたらされる街だと感じました。この街に今度はゆっくりと、インド古典舞踊をを見たり、買物をしたり、今回お世話になった方々の家へお伺いしたりと、もう一度行ってみたいと思いました。
帰国後二、三日間はインドと日本の間にフワふわといるようでポーッとしていました。そしてインドの思い出の写真(マハジャティサダン劇場の楽屋、ママタ先生宅でのランチパーティ、サリーやアクセサリーやブラウスや食品の店、仕立屋、レストランでの食事の風景、街の様子、ホームスティ先の人達といっしょに、美人のロパさん、シュヴァ先生の御実家、夜のパーティで一緒だったプロの歌手のバングラデッシュファミリー、ママタ・シャンカール=ダンススタジオ、カルカッタ空港でのシュヴァ先生のお父様やママタ先生とその舞踊団の方たちやホームスティ先の方々によるお出迎えやお見送りの風景、ビクトリアメモリアル等等)を見ては楽しかった夢のような出来事を思い出しています。
インド随想 −初めての海外公演ー
畑 裕子
12月7日夜11時45分Calcutta空港のimmigrationを出ると、たくさんのインドの方々の輝く瞳と目が合いました。私たちを出迎えに来てくださったSubha先生の御家族、舞踊団の方々、関係者の皆さんです。私はにっこり笑った、とても素敵な女性から一番にバラの花の小さなブーケを頂きました。Mamata Shankar Ballet TroupekのMamata先生でした。ぼうっとしていると”Namashkar”と手を合わせながら声を掛けてくださる方がみえました。その瞬間、ハッとインドにいることに気づきました。「ナマシュカ」と皆に挨拶することからはじまったインド到着の第一歩でした。
そして12月9日、Uday Shankar Dance Festivalの二日目最後のプログラムが私たちTIAインド舞踊サークルの創作舞踊でした。とても緊張していました。一つ一つの踊りをかみしめるように、一生懸命踊りました。会場の
Rabindra Sadanを埋め尽くした観衆の拍手が聞こえた時、踊れてよかったという安堵が心に広がりました。でも、その時はまだ、私たちの踊りに感動してくださったのかしらと不安もありました。けれどSubha先生の感極まった涙の挨拶を聴くうち(Bengali語はもちろん理解できなかったのですが、一語一語話されるSubha先生の気持ちが伝わってきました)きっとみんなで練習してきた成果が出せたんだなと実感できました。そして幕が下りた時、舞台に上がり、”Excellent!!”と言いながら駆けよって来てくださったMamata Shankar Ballet Troupekの団員の方々の満面の笑みを見て、とても嬉しくなりました。”Excellent!!””Excellent!!””Wonderful!!”の声が熱気あふれる声が舞台に満ちていました。踊る人と観る人が一帯となった後の感動、とても素敵な瞬間でした。10分、20分と続いたでしょうか。今度のインド公演で一番印象に残っている場面です。
12月12日、二つ目の公演がMahajati Sadanで行われました。インド古典舞踊のBaratnatyamとUday Shankar Styleの創作舞踊”The Essence of Japan”の双方を踊ることのできる機会です。インドの観衆の前で、インド文化の伝統であり、インドの人々に深く親しまれている古典舞踊を踊らせていただくなんて、幸せなことですがとても怖いような気がしていました。でも、そのためにメンバーが皆懸命にリハーサルに励んできたのです。今回も会場には大ぜいの人が来てくださっていて、幸福の極みでした。Slokam,Stotoram,Kauthuram,Pushpanjali,Kirtanam,Jyotiswaram,Todayam,そしてSubha先生作の創作舞踊である日本の四季を題材にとった踊りと、二年半インド舞踊の成果の発表です。メンバー皆一生懸命取組んでいたと思います。しかし、私は大失敗をしてしまいました。カルカッタ滞在5日目、既に疲労のピークに達しかけていて、朝からひどい下痢に悩まされていたのです。練習しようと、少し動くと、すぐトイレに駆け込み、踊る以前に体調を何とかしなければと必至でした。シュヴァ先生にいただいた薬で、昼からはトイレに行かずに済んでいました。でも、着換え、リハーサルの間も、まったく落着きませんでした。さあ、Kauthuramを踊り始めた時、指先に全然力が入りません。ステップもフワフワ踏んでいます。舞台からトイレに駆け込む失態だけは避けようと朝から何も食べていなかったのです。だんだん焦ってきました。そしたら、間違えてしまうし…グループで踊っているので、一人のまちがいが踊り全体の印象を悪くしてしまったのは、観客の拍手の響きでわかりました。また、自分のことで精一杯で、横のラインなど踊る時、他の人とのバランスを配慮する余裕もなく、Subha先生には叱られました。自分の体調を整えられなかった自分の失敗で皆に迷惑を掛けてしまって申し訳ないと思う気持ちと、でも何とかしなければと考えているうち、プログラムはどんどん進んでいきました。古典舞踊最後の演目トダヤムの時は、もう後がないんだから、とにかく今あるエネルギーを全部使うつもりで、力一杯手足を動かさなければとき持ちを奮い立たせて、何とか踊ることができました。創作舞踊でも9日のUday Shankar Dance Festivalの時ほど踊りに集中できなくて不本意な点が多々ありました。その日は浴衣を上手に着れなくて焦り、最初のステップをまちがえてしまったのですが、音楽も踊りもやり直しはなく続いているのだから、まちがえた分、残りのパートはしっかり踊らなければと思って、一生懸命踊ったつもりです。全プログラムが終わった時、疲れで、何か放心状態のようで、深い感慨も何も感じることはできませんでした。
もう一つ今回のインド滞在でとても心に残っているのは、インドの方々の笑顔と暖かなもてなしです。Subha先生の御家族ー御両親と姪のLopaさん、お姉さん御夫婦と子供たちー、Subha先生の師であるMamata先生御夫妻とMamata Shankar Ballet Troupekの団員の皆さん、ホームスティ先の御家族、その他関係者の方々、どの人も溢れんばかりの優しさと愛で私たちを包んでくれていました。特にカルカッタ滞在中の一週間ずっとホームステイをさせていただくことができ幸せでした。Mrs.Chandaの作ってくださる料理はどれもとても美味しかったし、Mr.Chandaはいろんな話をしてくださり、インドの人や文化について多くのことを学ぶことができました。私たちのインド滞在は短く、過密スケジュールのため、夜帰宅が遅かったりして、御迷惑を御掛けしたこともありましたが、いつもにこにこと、ゆったりと、相手をしてくださいました。私が真先に覚えたベンガリー語はMrs.Chandaに教えてもらった”Basanti,cha Kabo”(メイドさん、お茶を下さい)です。毎日帰宅して顔を合わせるとまず言った言葉です。インドのchaはとても美味しく、リラックスできました。一日に2〜3杯飲んでいたでしょうか。
12月14日の朝、私はMr.Chandaに「私たちはずっと忙しくて、昨日、ビルラ寺院の観光はしたけれど、まだガンジス河も見ていないの」と言うと「君たちはカルカッタへインド舞踊の公演を来たんだ。素晴らしい踊りを見せてくれたんだから、それで今回の目的は果たせたんだよ(Mr&Mrs Chandaは9日に行われた私たちの公演を見に来てくれていたのです)」と、笑顔で語りかけてくれました。ほっとして、とても嬉しくなりました。
素晴らしい機会と経験を与えてくださった、Subha先生御夫妻とTIAインド舞踊サークルの中間たち、インドの多ぜいの方々、そして夫と三人の子供たち、本当にありがとうございました。
最後になりましたが、1997年4月にインド舞踊を習い始めて以来、私は踊ること自体とても楽しく、心は喜びで満ちていました。今まで知らなかった自分と出会っているようで嬉しかったし、舞台で踊る機会を得てからは、踊りを観てくださる人と喜びを分かち合える楽しさを知りました。仕事と家庭とインド舞踊のバランスをとりながらの日常。ただ、海外公演はその延長にはなく、さあやろうと気合を入れ、よいしょと腰を上げて、精一杯取組むものでした。今、一つの山を乗り越え、疲れもすっかりとれて、ほっとしているところです。
インド舞踊とインド公演
近藤かね子
3年前、普段は殆ど目にしない「広報豊田」で、たまたまインド舞踊講座を知り、その日がたまたま仕事のない日であった。総ての偶然が重なり、そこに私の気紛れが上乗せになったのが、インド舞踊の出発点だった。インド舞踊との出会いは偶然だが、先生の踊りはとても鮮烈で印象的だった。気が付いたら30余名のメンバーの片隅でスタコラ・スタコラと練習を始めていた。先生にはこれまで60あまりのステップを順に教えていただいたが、まともに出来るものは殆どなく、常に人に従いてやっている。それでも自分の裡では”仕事ではない”という、言い訳で誤魔化し続けていた。公演が迫ってきた時は慌てて練習し、偶然の女神を当てにして、間違えずに過ぎればそれで”良し”としていた。そんな日々の積重ねでインド公演の参加には迷いもあったが、初めてのインド行きの魅力が勝り、結局参加することにした。当然のことであるが不完全な練習での出発には無理がある。たとえば私のいない間、仕事を請け負ってくれるスタッフにはかなりの責任と迷惑を掛けるわけである。私のわがままとしか言いようのない踊りのレベルでインド公演に参加する意義があるのだろうか、一緒に行くメンバーの足を引っ張ってしまうのではないのか、という思いが日毎に増して不安が募った。それでも先生の励ましと、仲間の支えで遂にインドに行くことが出来た。
インド滞在の7日間で本場のインド舞踊を見ることが出来た。日本でシュヴァ先生の踊りを何度も拝見していたが、インドの地での踊りで、初めて先生の常々言っておられた「神に捧げる踊り」ということが納得できた。先生が踊られる時の目の動き、指先の動きが見せるだけのものではなくインドの地、神の子の延長に在ったのだと実感された。インドの滞在は先生の配慮によって全泊ホームスティであった。”言葉”が殆ど通じない処での寝起きや食事は考えるだけでも正直言って「疲れそう」であった。事実、自分の持っている自尊心など役立つどころか邪魔になる、何も出来ない。しかし何も分からない”状態”からのホームスティ中に、隣の部屋から「コンニチワ・アリガトウ」と日本語を練習しておられる家族の方々の優しい声が洩れてくる。それに、忙しい中、私たちの公演を遠くから観に来て下さり、花束まで用意してくださった配慮。勉強好きでとても利発な長女ティナーちゃんが学校を休んで私たちの世話をしてくれた心遣いに、私は本当に多くの事を教えられた。シュヴァ先生はインドに生まれ、ホストファミリーのボウミック家はインドに暮らし、私はたまたま日本に生まれ生活しているだけなのだということが素直に納得できた滞在の日々。何処に生まれ、何処で育っても、そして何処にいようと人間なのだと知る機会を与えてくださった先生には感謝しても、し尽くしきれない。私たちをホテルに泊めてしまえば先生も楽なのにと思ったが、先生のインドへの想いと、私たちへの二重の想いに改めて感動しないではいられない。
インド公演はインドの方たちにとても好評であったようだが、これもインドの方々の受け入れる心の大きさに依るところが「大」であったと思う。 今回のインド公演で、素直に今在る自分を認め、人々との関わりの中に自分も生かされているのだという事を、言葉の通じないインドの方々、出口を見付けられないでいる時、後ろから温かく押してくださった先生、励ましてくれたメンバーの皆に教えてもらったような気がする。
そして民族衣装を大切に日常の中で守っているインドの国の舞踊に関わることができたのも私の生涯の宝になりそうだ。今回、たった一つ残念だったのは、インドカレーは食べるだけで、その作り方を教わらなかったこと。もう一度ボウミック家に行き、あの美味しかったインドカレーの作り方をぜひ教わりたい。そのためにも踊りは頑張りたいとつよく思う。
『光』に包まれた10日間 インド舞踊公演追想記
鈴木文子
●始まりの闇
(インドのダンサーの人たちは何て美しいんだろう…衣裳も動きも素晴らしい…)(今度は男性のソロダンサーなのだ…)プロディップ(ランプ)を手にした私たちは、出番を待つ間、恐る恐る、手探りな気持ちで、袖から舞台の様子をうかがっていた。’99年12月9日、インド・カルカッタ市にある劇場、ラビンドラ・サダン。カルカッタ市内で最も権威あるこのホールで行われた、西ベンガル州最大の舞踊の祭典・ウダイ・シャンカールフェスティバル。フェスティバル2日目の今日、私たちはなんとトリを務めなければいけない。男性ダンサーの踊りが終わり、舞台は暗転する。そして、私たちを紹介するアナウンスメントが聞こえてきた。漆黒の闇のなか、息を潜める私たちの向こう側からは、観衆の無数のざわめきが漏れ聞こえてくる…心なしか、喉が乾き、手に汗も滲んでくる。その時、闇の真空をつんざくように、祭りを告げる男の謡いが高らかに響き渡り、勇壮な和太鼓が祭りに気合を入れこんだ。
創作舞踊「The Essence Of Japan?日本の四季」の幕開けだ。私たちは遂に、その舞台に立ってしまったのだった。
●駈け抜けた1年
「私たちの踊りは、もちろん、まだまだです。でも私たちの踊りを見てくださった方から、『是非、インドで踊ってください』というお話がありました。皆さん、…来年、もしできれば、インドでの公演をしたいのですが、どうでしょうか?」シュヴァ先生がためらいがちに微笑みながらそう切り出されたのは、ちょうど1年前の冬、豊田の駅前の割烹で行われた忘年会の席上だった。一瞬、戸惑いの空気が流れ、互いに顔を見合わせた。シュヴァ先生が1人ひとりに気持ちを求める。「インドには行ってみたいです…」そんな風に答えながら、実は私は内心、(そんなことが可能なのだろうか?)と自問自答していた。インド舞踊を始めてからまだ2年足らず。幾つかの発表会に出してもらえてはいた。しかし、実際はと言えば、シュヴァ先生から次々と教えていただくバラタナティアムの新しいアダヴ(基本ステップ)がなかなか覚えられない。複雑なリズムは口ずさめても、体が動かない。練習することが楽しいと思う反面、満足のいく形が整うまでには、自分はどうやらかなりの時間を要する。果たしてそんな自分は本当に踊りに向いているのかどうか。そんな気持ちが沸き起こってきた頃だった。インド舞踊を学ぶ私たちが、インドで踊る。これは凄いことである。それは失敗が許されないということと同義語なのだ。私たちが学んでいるバラタナティアムは4千年の歴史を持つ。当然、観客の目は極めて成熟していることは間違いない。そんな踊りの本場で、こんな私に何ができるのだろうか?この時点で私にとってインド行きは未だ「夢」に過ぎなかった。だが明くる99年、TIAインド舞踊サークルはインドに向けて本格的に動き出す。3月には豊田市産業文化センターで第1回の自主公演を開催。詳細はここでは省くが、踊りの面もさることながら、グループワークの大切さを沢山、勉強した。そして公演の余韻も醒かけた6月の後半。「インドから連絡が来ました」とシュヴァ先生は語る。半年前の言葉が現実のものとなってしまった。それから約6ヶ月、シュヴァ先生の練習は日増しに厳しさを増し、その叱咤の声にはさらなる気迫がこもってきた。(やはりインドへの道は険しい!)それが日に日に自覚され、緊張と反省が交互に練習の空気を支配する。1日の中でインド舞踊が占める割合がどんどん多くなる。「1日が48時間あればいいのに!」。幾度もそう思った。踊りのための準備はむろん、同時並行に行われた。カルカッタとのやりとりや航空券の準備などは、練習の忙しい合間を縫ってシュヴァ先生自ら奔走してくださった。そして様々な小道具を作ってくださる方、新しいアクセサリーを準備してくださる方というように、メンバーの皆さんがそれぞれの個性や役割を分かち合って今回の公演を支えていた。幾つかのメディアに取り上げられる機会も増えた。取材記事やテレビの映像を見て、自分の実力とか今の踊り振りから考えると気恥ずかしくて仕方がないと思う反面、「ああ、自分たちはこうして本当にインドに行くのだなあ」という不思議な実感と重みが増していくようでもあった。12月に入り、「ミレニアム」への話題で世界中が沸き始めたのを尻目に、私たちは、99年最大のビッグイベント・「インド公演」に旅立ったのである。
● 日本の四季を表現した「The Essence of Japan」
カルカッタ滞在中、私たちは12月9日、12日の2回の公演の機会を頂いた。9日は市内最大で、最も権威あるホール、ラビンドラ・サダンで行われたウダイ・シャンカールフェスティバル。ウダイ・シャンカールとは、インドの現代舞踊を語る上で欠かすことのできない舞踊家だ。絵の勉強をしにイギリスに留学していた時、「瀕死の白鳥」で伝説的なバレリーナと言われているアンナ・パブロワに見出され、舞踊家としての道を歩みはじめたというエピソードをどこかで読んだことがある。シュヴァ先生はこのウダイ・シャンカールのお嬢さんであるママタ・シャンカール先生に師事してこられた。ということは、そのシュヴァ先生から教えていただく私たちもまた、ウダイ・シャンカールを師として仰ぐということになる。ウダイ・シャンカールフェスティバルは毎年、1週間余りの期間に西ベンガル州政府によって開催され、インド全土から数多くのプロのダンサーたちが集まり、踊りを披露するという。その栄えあるウダイ・シャンカールフェスティバルの2日目で、何と、私たちはそのトリを務めることになってしまったのである。そして12日の公演は、カルカッタの薬剤師などの名士が企画した「国際交流フェスティバル」への参加だった。バングラディッシュから来た歌手や、カルカッタで人気の高いアーティストに交じって、私たちがインド舞踊を披露したのである。9日は創作舞踊のみ、12日は古典舞踊と創作舞踊という構成となった。9日は私たちにとっての初めてのインド舞踊公演。12日はこの三月に行った自主公演並みの演目を踊らなければならなかった。いずれの公演も、「失敗は許されない」ことには変りはなかった。今回のインド舞踊公演を目指して、シュヴァ先生が私たちのために作ってくださったのが、創作舞踊「The Essence of Japan」だ。『日本を表現するものを』とのリクエストでシュヴァ先生が作られたこの踊りは、移り変わりの激しい日本の四季を表現されたものである。――時は収穫と豊穣を祝う秋。勇壮な秋祭りの和太鼓に続いて、十五夜のお月見の晩、月に祈りが捧げられる。間もなく冬が来た。静寂さで覆われる真っ白な銀世界の中、雪の精が自らの命のはかなさを物悲しく舞い踊る。冬が去った後は全ての命が花開く春の訪れだ。カルカッタが生んだ詩聖・タゴールの詩に載せて、春の乙女たちが春を祝う。花が咲き乱れ、蝶が舞う。豊かな緑が生い茂る大きな木もまた、栄えある命を謳歌する。その後、訪れる梅雨。日本の雨を現したこの踊りは、梅雨の雰囲気をリズミカルに楽しむ。フィナーレはお盆を迎える夏祭り。祖先の御霊を迎え入れ、共にひとときを楽しむ「お盆」は行く夏を惜しみつつ、終演へと向う――
「インドと違って日本では季節が本当にはっきりと分かれていますね」シュヴァ先生は来日されて感じられた日本の四季について幾度かこう、漏らされた。シュヴァ先生にThe Essence of Japanの各季節のイメージについてお話をうかがうのは楽しい。例えば幻想的でしかも繊細さと強さを兼ねた『冬』を語る時、シュヴァ先生はかつて公演で訪れた新潟の十日町や青森のイメージを追想され、こう語った。「真っ白で静か、本当に何もない、シンプルな世界なのですよね」私が子どもの頃、松本で見ていた雪のイメージも、しんしんと音もなく降り続けて、この世の中全て包み込むような静寂な純白の世界だった。雪が降らないカルカッタから来られたシュヴァ先生はまた、格別の思いで雪を見たことだろう。一方、『春の踊り』は、心から楽しくなるような美しい踊りであり、私は大好きだ。「日本ではどこに行っても桜がパーっと咲いて、皆さんの心も弾みますよね。カルカッタでも同じなんですよ。日本ほど寒くはないですけど、一週間ほど、朝晩冷え込む冬があって、それから春が来ます。いろんないい香りのする花が咲いて、本当にきれい」『春の踊り』のイメージする世界について、いつも先生は顔をほころばせながら語る。
驚いたことに9日、12日とも『春』のメロディーのイントロが流れたとたん、会場がざわめいた。後で聞けば、このタゴールの歌はカルカッタ市民にとって非常にポピュラーな歌であるという。「踊りを通して、春のイメージを交歓し合える一時」だったのかもしれない。カルカッタの春はどんな美しさなのだろうか。いつかぜひ、訪れてみたいと思う。
● 舞台は、光の中
再び、舞台に話を戻そう。『喜多郎』のメロディーに乗って始まった「The Essence of Japan」。「もう後には引けない。ただ、ひたすら踊るだけだ」私はこう言い聞かせながら、仲間と共に舞台に踏み出した。下手からかざされた強烈なライトに、一瞬、目がくらみそうになる。舞台に進むと、上手からかざされたライトが入り、まばゆい世界を形作っている。さらにライトが放出する強烈な熱は、踊り手を高揚させ、舞台全体のボルテージを上げていく。「光の海」。踊り手が立つ舞台とは光の海なのである。それは、日常生活では考えられない、異次元空間なのだ。光に慣れて来ると、その向こう側に無数の「顔」が見えてくる。観客だ。リハーサルの時にホールの大きさはつかんでいたものの、実際に観客を見ると、ホール全体の空気濃度が濃くなり、膨張していくことすら感じる。しかも、9日は3階席まで、12日も全ての通路で、お客さんが立ち見をしているのまで見えた。「うわあ、これは凄いことになっているんだ!」踊りながら咄嗟に感じ取った。「いつも練習していることをやればいいだけなんです。ね。しっかりやりましょう!」シュヴァ先生は9日、12日とも舞台に出る前にメンバーを集めて、1人1人の目を見ながら、こう励ましてくださった。「いつも練習していることをやる」これが実は本番で最も難しいことであるように思う。これまで私自身はブラスバンドやオーケストラで何回か舞台に上ったことがあるが、一回たりとも「日頃の練習と同じように舞台で演奏できた」ことは無かったと思う。私自身の技量の問題もあったが、自分たちだけのために用意された特別な空間で、観客と対峙してパフォーマンスを行う。生活空間とは明らかにかけ離れた、特別の経験なのである。それは舞踊においても同じだった。いつも注意されているところ、いつもできないことはなかなか本番ではできにくい。何よりも気持ちが平常心で済まない。当然ながら、練習している環境とは異なる。しかし、どんなに楽屋でバタバタと焦っていても、それを舞台で見せては行けない。何故ならば、私たちが舞台に立つ以上、お客様には喜んでいただかなければいけないからだ。
その思いは肝に命じてはいた。だが、実際に何を自分で行っていたかを振り返ってみると赤面することしきりだ。ここではその詳細は省くが、舞台裏で時に「シュヴァ先生?!」と子どものように助けを求めてしまったこともあった。不器用な私は、焦るとさらに不器用さに磨きがかかり、頭の中が整理できなくなってしまう。いつになったらスムーズな対応が可能になるのか。毎回、人並み以上の練習が必要なのだなあ、と反省しつづける。
ライトの熱さと、観客の熱気で膨張する舞台の空気。そのさなかに飛び込むような気持ちで、創作舞踊、そして古典舞踊を踊りに行く。頭の中を練習中に注意された色んなことが頭をよぎった。「もっとexpressionを! 」シュヴァ先生の声だ。果たしてアダヴが間違えずに踏めただろうか? 次の曲は何だったけ? いかん、今は踊りに専心せねば…(そんなことを考えていた時の表情はもしかしたらこわばっていたかもしれない。)様々な思いが錯綜する。
そんなふうに過ぎていった私たちの舞台も、いつの間にか終演を迎えようとしていた。驚いたことは、最後の夏の踊りで、お客さんが手拍子をかけてくださり、最後に総立ちになったことだ。2日間ともである。まさに「会場がわれんばかりの手拍子」だったのだ。それを聞いた時、「ああ、楽しんでもらえているのかもしれないなあ」と安堵と嬉しさがこみ上げてきた。シュヴァ先生によればインドでは舞台を見る観客は、皆、目が非常に肥えているという。それは踊りが生活の身近なところにあり、日常的に舞踊に接する機会が多いからなのだそうだ。加えて、この2回の公演、さらに他の公演を見ていて、お客さんの反応が非常にストレートだと感じる瞬間が幾つかあった。日本ではここまでお客さんとの距離を近く感じることは少ないかもしれない。特に私は9日のその瞬間が印象深い。この日は客席では3階席の奥のお客さんまで総立ちになって私たちに拍手を送ってくださっていた。終演後に整列し、私たちに向き合ったシュヴァ先生は涙をこらえながら「皆さん、今まで厳しくしてきましたが、わかったでしょう? 私はこれを皆さんに伝えたかったのです」とおっしゃったのだ。(私たちと同じように、先生にとってもこの日を迎えるのは長かったんだろうなあ)そう思うとジワッと目の底から熱いものがこみ上げてきた。隣でも向井さんが「私ももらい泣きしちゃったあ!」と言っている。その時、私の頬にも涙が零れ落ちた。間もなく、舞台の上には何10人ものお客さんが上ってきた。ママタ先生も上ってこられた。そしてママタ・シャンカール舞踊団のダンサーたちが、口々に「beautiful!」と言ってくださっている。日本総領事館職員の方が「いやあ、素晴らしかったですよ」と夫妻で来てくださった。想像を超えた一時。果たして私たちの何がそのような拍手につながったのかわからない。遠い日本から来たから…という気持ちの方が多かったのかもしれない。しかし、目の前の拍手は真実だ。しかも私にとっては生涯で初めての得難い瞬間だ。お客さんと私たちは、いつまでもいつまでも名残惜しそうに舞台の余韻を分かち合っていたのである。
● 遂にお会いできた「ママタ先生」
★感激のカルカッタ空港
今回、私たちがインド舞踊公演を実現できることになったのは、シュヴァ先生を筆頭にインド、日本の人々の実に様々な力添えがあったことに他ならない。その中でも、公演はもちろんのこと、様々な場面に亘ってこの上もない慈愛をくださったのが、かのママタ・シャンカール先生だ。私たちが到着した12月7日夜23:30、予定より遅れ気味に飛行機が到着した。団体での入国審査から手荷物受け取りはある程度の時間がかかる。小1時間は過ぎただろうか、ようやく全員が空港の入り口から道路に向おうと前方を見ると、「Welcome TIA Indian Dance Circle!」と書かれた白い旗を掲げた一団がこちらに向けて歓声を上げているのが見えた。その中にどこかで見覚えのあるお顔が…。(確か、インターネットでみた…もしやママタ・シャンカール先生では…)そう思った途端、「マムディー!」と歓喜の声を上げたシュヴァ先生。「皆さん! ママタ先生がいらしてます!」夜更けの到着にも関わらず、ママタ先生は舞踊団の幾人かのメンバーと共に、私たちを出迎えてくださっていたのである。そして次の瞬間、シュヴァ先生はママタ先生の足元にさっと跪き、右足、左足とナムシカ(挨拶)をされたのである。この時、私は何か「インド舞踊の一つの真髄」に触れたような、電撃的な気持ちに包まれた。私たちがバラタナティアムを習い始めた時、まず「ナムシカ(挨拶)」を実に丁寧に教わり、毎回の練習の最初と最後にもナムシカを行って挨拶をしている。だが、シュヴァ先生とママタ先生が交わしたあの「ナムシカ」には時空を超えて強く結び付けられた「誠」の「師とその弟子」の姿が凝縮されていたように思えたのである。
★命の深遠さに触れる舞踊
TIAインド舞踊サークルが学ぶ舞踊は、バラタナティアムと共に、「ウダイシャンカール・スタイル」と呼ばれるインド創作舞踊である。これまでの様々な舞踊の歴史を踏まえた上で、シュヴァ先生が様々なイマジネーションを踊りで表現していく。ママタ先生はインド現代舞踊の祖とされた、故ウダイ・シャンカール氏のお嬢さんであり、ママタ・シャンカール舞踊団を率いると同時に、インドを代表する著名な女優でもあられる。近くに接しただけで、こちらが吸い込まれそうな、高貴で優美な独特の雰囲気を持った方である。そのママタ先生らの舞踊を、今回のインド滞在期間中2回も拝見することができた。とりわけ私が印象的だったのは、ウダイ・シャンカールフェスティバル初日の最後を飾った「命」と題する舞踊だった。―――母(ママタ先生)の胎内から生みの苦しみを経てこの世に生れ落ちた赤子が成長し、人間になる。生きる希望と喜びに満ちた青年たちは、やがて様々な悪や矛盾がはびこる世の中に生き、そして死ぬ。子どもの死を嘆き悲しむ母。だが、命はまた宇宙の何処かに宿り、生れ落ちようとする。輪廻転生する命?
慈しみと愛、さらに別離への嘆き…ママタ先生は髪の先から爪の先まで全てで「母性」を表現していた! そして、この永遠なるテーマを一糸乱れぬ動きと、豊かな表情で演じていく舞踊団の迫真の舞。ママタ先生の創作舞踊を前に、私はしばらく、一言も喋ることができなくなってしまった! これまで見た(数少ない回数ではあるが)どの舞踊よりも強烈な印象だった! 人間の根源に迫るテーマが、実に詩的にしかも力強く構成されているのである。そして「舞踊」という表現手段の持つ、果てしない可能性と奥の深さをまざまざと感じざるをえなかった。10日にカルカッタ大学で行われた2回めの公演はさらに、多様なプログラムが演じられた。蝶の精の舞、漁師と娘の楽しげな踊り、ドラッグで破滅に陥る現代の若者、スラム街の人間たち…ママタ先生の創作舞踊はまさに「自然と人間が織り成すこの世の全てのもの」を鮮やかに描き出されている。その世界は時に優美、時に哲学的・社会的である。そして生きること全てが舞踊に通じている。「もっと日本でも演じられるべきだ」この時私は、強く思った。
★ インド時代のシュヴァ先生を発見!
ママタ先生たちをめぐるエピソードはまだ終わらない。10日の昼、私たちはママタ先生のお宅で開かれた舞踊団のメンバーと共にランチパーティに招かれた。つい先日、舞台の上だった方々が、今日は同じ部屋で食事を共にする。それがとても不思議だったことと共に、「あ、あの人がいる!」と、アイドルに会ったような、ウキウキした感覚も交じったとても楽しい一時だった。この日見たビデオの中には、ママタ・シャンカール舞踊団が来日した時のビデオがあった。シュヴァ先生の姿も写し出されている。「つい7?8年前まで、シュヴァ先生はこのような人々と一緒に、毎日、毎日、練習し舞台生活を送っていたのだ…」昨日のママタ・シャンカール舞踊団の舞台の重なりあって、シュヴァ先生のインド時代に思いをはせる。ママタ先生手づからのお料理はみな、大変美味しかった。シュヴァ先生とのご縁とはいえ、日本から来たほとんど見ず知らずの私たちにこんなにしてくださるのは光栄の極みである。最後に、互いの歌を交換し合った。久しぶりにシュヴァ先生の「コーヒーハウスにて」を聞いた。半年前、3月の公演会の打ち上げの時に、黒いドレッシーなサリーを着て先生が私たちに初めて披露された歌だ。今、その歌をママタ先生の家で聞く。その歌声を一番聞きたかったのは、日本で待つご主人ではなかったであろうか。
●貴重な体験・ホームステイ・美味しかった家庭料理
インド舞踊公演を支えてくださった人で、忘れてはならないのが、ホームステイ先のボウミックさん一家である。
7日の深夜1時すぎにも関わらず、空港から到着した私たちを、ご主人のランジット・ボウミックさん、奥さんのククさん、娘のティナちゃん、ボウニちゃん、ランジットさんの弟さんご夫妻、その子どものブンバ君、お手伝いさんのシーラちゃん全員が暖かく迎え入れてくれた。私は近藤さんと二人でお世話になった。私たちの英語は、完全な「サバイバル・イングリッシュ」。身振り、手振りで何とか意志を伝えようとした。時に単語を並べるだけだ。文法なんか考えていたらその場その場のコミュニケーションが途絶えてしまう! 通常、日常会話は中学生で学ぶ英語をマスターしていれば不自由ないと言われるが、ここに来て(もっと真面目に使える英語を身につけておくのだった!)と悔やまれた。ボウミック氏はタイル会社を経営する社長さんである。朝早くから会社に行き、夜11時すぎに帰宅される。パリッとアイロンがあてられたワイシャツを着込むボウミックさん。タイのバンコクなどにもよく出張されるということで、いかにも「多忙なビジネスマン」という印象がした。その奥さんのククさんは、とても細やかな気配りをしてくださる穏やかな方である。しかも笑顔がどこか愛らしい。私たちは何と、ご夫婦の寝室に泊まらせていただき、ありがたいやら申し訳ないやらの気持ちでいっぱいだった。私たちを主に面倒みてくださったのが、ククさん、ランジット氏の弟さんの奥さん(最後まで名前がわからずじまいだった! 本当にごめんなさい! 聞けるタイミングを逸してしまったのだった)、そしてティナちゃんだ。とりわけ、食事には気をつかってくださった。到着した翌日の食事では日本式の炊き方をしたご飯(やわらかい)を出してくださった。「いつもこのご飯?」と聞くと「specialだ」とおっしゃる。また、毎回の食事のボリュームが沢山のため、「朝はパン一枚でお願いします」とお願いしたところ、ククさんがシュヴァ先生に「食事が合わないのでは?」と心配されて?をかけられたのだと後から教えてもらった。合わないどころか、チキンカレー、カリフラワーのカレー、ダーリスープ、チキンスープ、チャウメン、チャなどと、どれも美味しくて仕方がないものばかり。夜、食べ過ぎて朝も腹いっぱい!だったのだ。申し訳無かったのは、連日、公演などを終えて遅く帰宅しなければならなかったことである。特に珍しい客人の存在は、子どもたちの好奇心の的だ。だからいつまでも私たちから離れない。当然、子どもたちの就寝が遅くなってしまう。ご家族の負担が相当なものでなければいいのだが…。
★ 子どもたちと戯れる
ボウミック家の中で、最も英語が堪能だったのはティナちゃん。従って私たちの面倒を最もよく見てくれたのもティナちゃんだった。大きな瞳に腰まである長い髪、ふだんはもの静かだが妹や従兄弟の面倒をよくみて、お母さんを手伝っている。どこかとても「強い意志」と「賢さ」を感じさせるお嬢さんである。常に私たちのスケジュールを気遣って、食事の用意など、細々としたお世話としてくれた。同世代の日本の子どもたちよりも、遥かに大人びてしっかりしている、とは一緒にホームステイをした近藤さんとの共通の意見だった。ティナちゃんとの会話でとても印象深いのは、9日の朝、サリーのアイロンをかけていた時だ。インドのアイロンは焼きアイロンとでも言うべきものだろうか、電気で暖めた後、一気に布にあてていく。最初、扱いが慣れない私のために、ティナちゃんはイヤな顔一つせず、その作業を手伝ってくれた。私がだいぶアイロンの扱いに慣れたのがわかったのだろうか、ティナちゃんがバルコニーに腰掛けた。そのうち食事の話となり、何時の間にか、「肉」の話になった。私が「インドの人は、牛肉は食べないよね」というと、彼女は「Yes! Cow is our mother!」と明快に答えてくれた。聞けば、ミルクを出して私たちを育ててくれる牛は、私たち人間のお母さんである、というのだ。インドでは牛が神聖なものだという話は聞いていたが、このように子どもたちにもしっかりとその教えが根付いている。私はその様子に強い感動を覚えた。さらに話は「神様」の話にまで及んだ。ティナちゃんは「世界には色んな神様がいます。でも、私は神は結局、ただ、1人だけなのだと思う。皆、その神様なのです」もう少し詳しく話を聞きたかったが、時間の余裕と私の英語力に限界があってそれ以上聞くことができず、残念だった。すでに彼女は確固とした宗教観を自分の中に持っているのだ。曖昧な「神」しか持たない私たちとの違いをわずか中学生のティナちゃんに見たのである。ティナちゃんは知的好奇心も旺盛だった。ティナちゃんからはベンガリー語、私たちは日本語をそれぞれ教え合ったが、私などはベンガリー語が大変難しい文字だと思ったのに対し、ティナちゃんは50音のしくみを即座に理解してしまった。また、絵画も得意で、私たち二人に二点ずつ、素晴らしい水彩画をプレゼントしてくれたのである。ティナちゃんばかりでなく、ボウミック家の子どもたちは楽しい子どもたちだ。甘えん坊で好奇心旺盛なボウニちゃんは、いつも私たちの部屋に来て、ひとしきり遊んだ後、自分の部屋に走っていき、またこちらに戻ってきた。ブンバ君ははにかみ屋さんながら、「空手」の型を披露してくれた。子どものいる家庭はどこの家庭も実ににぎやかだ。そこには、大人だけの所帯にはない、育っていくものの輝きがある。もちろん、大人になるまでは親は心配事ばかりなのかもしれないが、大人も実はその「命の輝き」に照らされているのかもしれない。ボウミック家ではそんな子どもたちの力をお裾分けしてもらった気分だった。
● エネルギッシュな街・カルカッタ
カルカッタは数千年の歴史を持つインドの中では、比較的、新しい街だと本で読んだことがある。その一方、「カルカッタを見ずしては、インドに訪れたことにはならない」というほど、現代のインドを凝縮した街だともいう。
私たちはシュヴァ先生のご実家の通り、ラビンドラ・サダンの近くやマハジャティ・サダンの近く、幾度か通いつめた国営マーケットなど、街を歩く機会が多かった。その有様は総じて「パワーとエネルギッシュ溢れる街」の一言に尽きる。どこからこんなに涌き出てくるのだろうか、どこの通りでも人、人、人なのである。しかも繁華街は夜遅くまで店が開き、いつまでも人々は談笑しあっている。車も多い。しかもどの車も当然のように警笛を鳴らしつづける(ちなみに、インド車の警笛は他の国のそれに比べて非常に寿命が短いそうだ)。車の右折、左折は窓から腕を伸ばして合図する。車線が時に自在に伸縮する。道を横切る通行人には、もちろん「自己責任」が必要。交通の流れを読み取る確かな目と思いきりの良さが自然と育ってくる。それでもどことなく街がのんびりして見える。犬が思いきり無防備におなかをさらして昼寝をしていたりする。アメリカやヨーロッパ、南米の街で感じた雰囲気とは明らかに異なる。むしろ日本やタイと共通するところが多い。これがアジア的、な雰囲気ということなのだろう。街で気付いたことの一つに、鮮やかな衣裳の色遣いがある。街を歩いていると、ふと目を留めてしまうような鮮やかなサリーやサルワルカミーズを来ている女性を沢山、見かけた。服飾店には一つとして同じ柄のものはなく、「目移り」する状態であった。久しく和服という文化を日常生活から失った日本人にとっては、インドの服飾文化の豊かさは大変うらやましく思えた。
● シュヴァ先生なくしてはこの公演はなかった
長らくインド舞踊公演の追想を書き連ねてきたが、最後に、どうしても触れなければならないのが、シュヴァ先生のことである。シュヴァ先生は、今回の実現のために、その全精力をつぎ込まれた。舞踊に関すること全てはもちろん、先述したように日本ではインド現地との綿密な打ち合わせに始まり、航空券の手配から各メディアの取材など、カルカッタ入りしてからは右も左もわからぬ私たちの先頭に立ち、舞台やリハーサルの指導やホームステイ先と私たちとの間に入ってなるべく良いコンディションを心がけてくださったり、私たちの旺盛で貪欲な買い物欲のためにマーケットに度々連れていってくださったり…。しかも決して辛い、苦しいそぶりを見せようとはされなかった。まさしくスーパーウーマンだ。そのシュヴァ先生に、私たちは随分と甘えてしまっていたように思う。自分の様子を振り返ってみても、シュヴァ先生を慮らない、無遠慮な行為や言葉が幾つかあった。おおいに自戒し、反省しなければならない。
そんな不肖の私が、シュヴァ先生の語る言葉の幾つかの中で、いつも励まされる言葉は「できないことはありません。必ずできるようになります」という一言だ。必ず誰でもできるようになる、ただ、そこに至るまでには個人差があるという。至言である。人間はとかく、諦めてしまうことを好む。それは諦めた方が苦しまなくて済むからだ。だが、諦めの後に残るのは、「もしかしたら、あの時諦めなければ、もっと違う展開があったかもしれない…」という後悔でしかない。私も幾つかのことを諦めてきたが、その後悔は、実は人生の中に澱のように沈殿して、淀み続けているのだ。踊りは踊りだけではない、とシュヴァ先生は折りに触れて私たちに語りかけてくださる。いつまでも私たちを叱咤しつづけて欲しいと思う。
*
12月15日にカルカッタから帰国して幾日か過ぎた。年末の片付けに入る前に、何とかスーツケースの荷物を片付けねばならない。山のような洗い物を洗濯機に放りこみ、お土産を仕分け…そして、公演で使ったサリーにアイロンをあてよう。そう思ってまずサリーが包んであった風呂敷を開いた瞬間、カルカッタで慣れ親しんだお香と楽屋の香りが、私を再びカルカッタでの街に引き戻してくれた。いつもならば、辛いはずのアイロンがけが今回ばかりは何とも言えない感慨の一時となったのだ。インドでの様々の光景が走馬灯のように頭を駆け巡る。サリーがこの上もなく愛しくなり、右手の動きを思わず緩める。サークルのメンバーと常に時空を共にしてきた、サリーたち。これからも、インド舞踊サークルの歴史の中で、踊り手の汗とその思いを包み込み続けることだろう。
カルカッタは遠かった 〜私のインド初体験〜
夏目由紀子
今日はおりしも成人の日。ウン年前、振袖姿でおすまししていた私が、よもやインドへ行くなんて、しかも舞台で踊るなんてことをだれが予想したでしょうか!?
行ってきましたカルカッタ。カルカッタはとおかった! カルカッタ空港へ到着したのは真夜中。当然ホームスティ先への車窓も暗闇の中。景色が見えないので「ここは本当にインドなのかいな?」とボーっとした頭で考えつつ床についたのでした。ところが、翌朝目をさますと、そこはまぎれもなくカルカッタ! 人も車も路面電車もヤギも犬も牛も、一体ぜんたいどこからわいてくるのだー!? と叫びたくなるような混雑振り。あまりの人の多さやけたたましいクラクションにビクビクしていたのも最初のうち。慣れというのはオソロしいもので、日本に帰ってきて駅前通などぶらりとしてみても、何となく寂しいというような…。カルカッタのとおりを往来する大人も子供にも、イキイキというか、ギラギラといったような人間くさい目の輝きがあった。人や車でごった返し、いろんな表情を見せる街並みに、どこか親しみを感じた。街全体が、活力に満ちたひとつの生き物であるような、不思議な生命力を感じました。インド舞踊から発せられる底知れないパワーや魅力的な表情は、なるほど、この街から人が生まれるんだなあと、少しだけわかったような気がします。とにもかくにもあっという間のカルカッタ、先生やお世話してくださった皆様のおかげで、舞台も成功(個人的には大問題ですが)、食事も美味で、超ハードながら楽しく充実した旅となりました。惜しむらくは、博物館とビクトリア・パークがおやすみだったこと! またいつか行きたやカルカッタ…
こころ踊るインド舞踊の旅
馬場千津子
雑誌「COA」2000年2月号掲載文へ
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