名古屋国際センター 〜世界語ろマイスター就任の挨拶〜 (於、2013、6月) 日本の春の美しさは時間と競いあうかのように人々の裡に淡い想いを残し駆け足で過ぎてゆく。毎年、桜の花が咲く頃になるとその思いを深くする。人々は春を愛でるため、様々に桜の下で酒を酌み、重箱をひろげ、迎えた春の慶びを寿ぐ。私が生まれ育ったインドでも春を祝うホーリーという祭りがある。とても賑やかで色彩にとみ、熱いエネルギーの塊が解放され、陽気な明るさで春を迎える。インドと日本の春を迎えるその姿に相違はあるものの、春を愛でる慶びに国を越えた共通の心情が見て取れる。 インドと日本の交流は仏教の渡来とともにはじまった。歴史的エポック・メイキングとしては西暦752年東大寺で大仏開眼法要が営まれ、導師としてインド出身の婆羅門僧、菩提僊那が金色に輝く大仏の眼に筆を入れられたことが挙げられる。これが日本の史書に記された最も古いインド人の記録であろう。インドと日本の本格的交流のスタート元年とも言えよう。 平成25年の本年度は縁あって私が名古屋国際センターの世界語ろマイスターに選ばれた。すでに頭の中にはいくつかの企画が思い描かれている。基本となるのは私の専門分野である「インド舞踊」をベースにした舞台やワークショップを、また参加者と双方向で両国に横たわる差別やイジメの問題を正面からとりあげ、皆さんと考えてゆきたい。真の意味での国際交流、国際理解とは自国の足元をしっかり見つめることからはじまるというのが私の持論である。インドを知ることが日本を知ることであり、日本を知ることがインドの理解を深めてゆくことになるのだと思う。この一年を私と伴走してくださる同センターの竹内さんの協力を得、語ろマイスターとしての重責を全うしてゆきたい。 小久保シュヴァ チャクラバティ |
〜サプライズ〜(於、2013、2月) 今年は名古屋教室10周年の節目にあたる年ということで、生徒の皆さんから突然の「サプライズ!!」があり、とても素敵なバッグをいただきました。思ってもみなかったプレゼントに私はとても喜びました。でも本当の喜びは、生徒の皆さんのお話を伺ってからでした…。 バッグは私たちが舞台で踊るとき、舞台に祭る舞踊の神様「ナタラジャ」をお持ち運びするための専用のバックでした。しかもナタラジャ像を採寸して作られた世界に二つとないオリジナルなバッグです。 私たちインディアン クラシカル ダンス トゥループは自主公演を含め、依頼されての公演も多く、ナタラジャの運搬にはとても気を使います。しかも舞台に立つ前の化粧や衣装の着替え、終えた後のあと片づけなど、一連の流れのなか、自分のことで手いっぱいとなり、時としてナタラジャもぞんざいに扱われたりするので、私はよく注意を与えます。 このオリジナルバッグはそうした事態を承け、生徒の皆さんが自主的に発案し、また独自に考え出されたものでした。さやかさんの労作に感謝するとともに皆さんの「舞踊に対する真摯な思い、神様に対する尊敬の念」を心に留め置くという舞踊家としての心得をしっかり育んで来ていることを知り胸が熱くなりました。インディアン クラシカル ダンス トゥループのメンバーは舞踊のみならず、心ばえまでインドの舞踊家に大きく近づいていることを実感した瞬間でもありました。合掌 小久保 シュヴァ チャクラバティ |
〜誕生日に〜(於、2013、元旦) 花の名前も花言葉も詳しく知っているわけではないけれど、花の美しさは誰もが知っている。華麗で繊細、優雅で馥郁とした香りは人々の眼を楽しませ五感を刺激し心を豊かにする。 私は舞台に立つ機会が多いのでよく花を頂く。頂いた花は部屋に飾り生活空間に彩りを添える。眺めていると微かに流れてくる香りが、ときとしてその鮮やかな色彩や形とあいまって、言葉では言い表せない充実感を齎してくれる。そして、そんな美しさを舞台に表現できないものかと考えたりもする。 写真の「花束」は私が頂く花の中でも特別の位置を占めている。毎年、お正月の元旦に届けられ、そして玄関に飾られる。新年を迎えた我が家を訪れる来客の眼に必ずとまるようにしている。花束は生徒の皆さんから届けられた私の誕生日のプレゼントである。 この花のように美しく見る人に感動を与えられる舞台の成功を年の初めに生徒の名を一人ひとり呼びかけながら祈る。 小久保 シュヴァ チャクラバティ |
〜ラビ シャンカール先生のこと〜 (2012年末) ラビ シャンカール先生がお亡くなりになられた。 多言を要さずとも音楽の世界ではインド古典音楽にとどまらずロックやポピュラー、映画音楽など様々な分野に進出されたその功績と後世に与えた影響ははかり知れないものがある。 私の師であるママタ シャンカール先生の父のウダイ シャンカールを兄とし、ママタ先生にとっては叔父にあたられる。ウダイ シャンカール舞踊団の一員として舞踊の世界でも活躍されていた一時期があり、その意味では私が主宰するインディアンクラシカルダンストゥループのメンバーにとっても浅からぬ縁で結ばれていると言えるだろう。 生前にはママタ シャンカール舞踊団の関係から幾度もお目にかかったことがあり、ニューデリーではラビ シャンカール先生のお招きを受けご自宅に伺ったことも少なくない。いつの年であったか自宅のパーティの席で古典声楽を学んでいたことのある私が乞われ、ラビ シャンカール先生の前で拙い歌声を披露したことがあった。盲蛇に怖じずというか若気のいたりというのか、今から思い返しても顔から火の出るような恥ずかしさが伴うのだが、しかし私が歌い終えると笑顔で拍手をしてくださったその時のラビ シャンカール先生のお姿を私は生涯忘れない。 新聞やテレビで報じられる情報以上にママタ先生からラビ シャンカール先生の私生活についての細かなお話を聞く機会も多かったが、殊に三度目の結婚の時にはシャンカール一族がかなり揉めたというお話を伺ったこともある。今なら笑い話で済まされる事も当時であれば深刻な問題としてママタ先生の心を悩ませていたのだと知るのである。 あらゆる意味でラビ シャンカール先生の身近に接し、その薫風に触れる機会を得たことは私のその後の人生に大きな示唆を与えていただいたように思う。敢えて言葉にしてみれば《古典も創作》も舞踊で括られるという一事であり、その下にインドの《伝統と文化》を忘れなければ舞踊表現は無限だということであった。私はこの教えを座右の銘とし、今では私のもとで舞踊に励むインディアンクラシカルダンストゥループメンバーの一人ひとりに確実に受け継がれて来ている。 今回の悲報に接しインディアン クラシカル ダンス トゥループも哀悼の意を表し、ママタ先生を通じ供花を贈らせていただいた。 心よりご冥福をお祈りする次第である。 小久保 シュヴァ チャクラバティ |
〜東大寺奉納舞〜(於、2012、8月) 聖武天皇の御代、菩提僊那といわれるインドのバラモン僧が東大寺開眼法要で導師を務め毘盧遮那仏に眼を入れられた。その時に使われた筆は今も正倉院に保存され遺されている。また平安時代末期に焼亡し、ただちに再建された際にも同じ筆が使用されており、その時には後白河法皇が大仏に眼を入れられたと伝えられている。 小久保 シュヴァ チャクラバティ |
〜三つの舞台とタゴール生誕150周年記念によせて〜 (於、2011.10月) 今年は何年ぶりかで「ナマステインディア」に参加させていただいた。加えてセミナーハウスでは「タゴール生誕150周年記念公演&ワークショップ」も主催者から特別に時間を設けていただいた。また日と所を移し、愛知の「ナマステインディアin 刈谷」にも公演依頼を受け舞台に立った。一年のうちで「ナマステインディア」、セミナーハウスでの「タゴール生誕150周年記念公演&ワークショップ」そして「ナマステインディアin 刈谷」と、あまり日を置かず続けて三つの舞台に立つという貴重な経験だった。 私自身は気づかなかったが、「同年で東京と刈谷と二つのナマステに参加するのさえめずらしいことですのに、セミナーハウスでのワーク&公演も担当されて…シュヴァさんとインディアン クラシカル ダンス トゥループのご活躍は本当にすごいですね、ご苦労様でした」と刈谷のナマステ関係者から過分な言葉までいただいた。 ちなみに愛知県の刈谷市で行われるナマステインディアは東京のナマステインディア本部から正式に許可を得て同様な名称を用いて行われる年に一度のインドフェスティバルのことをいう。東京とは比べられない規模ながら、愛知万博から始った一地方の行事としては市民の間に確実に根をおろし、年経るごとにその華やかさはいや増して、近隣の県からもわざわざ足を運んでくる人々で賑わいをみせている。年年歳歳、集客数を伸ばしつつ人々の間に認知されてい来ているのが「ナマステインディアin刈谷」である。 私は刈谷のナマステの担当者の言葉を反芻しながら、確かに一つのグループが東京と刈谷で舞台に立つさえあまりないことだろうし、またナマステのセミナーハウスのブースを提供されるという主催者側からの破格の好意にめぐまれたこともタゴールが導いてくださった縁なのだろう、とありがたい思いにとらわれた。 東京ではナマステ当日、私たち同様舞台に立ったある知人の舞踊家から「ナマステに出られるだけでも名誉なことですよ」と言われたが、私は黙って聞いていた。もし、その知人の言葉を素直に受け入れるなら、私たちトゥループは三つの名誉を同時に手に入れたことになるのだろう。 いまから9年前の2002年、まだナマステインディアが築地の本願寺に会場を置いていたころ、やはり主催者側からの要請で舞台に立ったことがあった。現在ほどの規模ではなかったが、それでも大勢の人々が集い、会場内は一種独特な活気に満ち溢れた空間を醸し出していた。当時は屋内に舞台もあり一人当たりの舞台の持ち時間も長かった。そこで私は古典舞踊を披露した。しかしナマステが代々木公園を主会場に替え、舞台も野外となって以降、何度か出場の要請はあったものの参加は差し控えさせていただいていた。 「古典舞踊を舞う以上、飲食をする人々の前で踊ることは神様を冒涜することになるのだから決して踊らぬように」、これが私が幼少の頃より学んできた古典舞踊の師からの戒めの言葉である。私はいまも師のこの言葉を守り、代々木公園に移ってからのナマステ参加は遠慮してきたのだった。同じく創作舞踊の師であるママタ シャンカール先生の教えも、舞踊団とはいえ常に妥協はギリギリの線まで諮られ公演場所は決められたものだ。そうした先生方の舞踊のみならず、舞踊に対する真摯な姿勢や心の在り方も私は同時に学ばせていただいてきた。 世界的に見てインド古典舞踊は舞台芸術として、あるいは舞踊芸術としての評価は高く定まっている。古代から中世、近世に到るまで、巫女は寺院の奥深くに棲まい、生涯を神を夫として踊りを捧げてきた歴史を持つ。月夜、ほのかに射し込む光の中で、美しく飾った衣装を身にまとい、巫女はただ一人自分の夫とさだめた神の御前で東の空がほの白むまで踊り続けたという。近代になりバーラタ ナッティアムは舞台芸術として脚光を浴び、その真価が世界に認められ、西洋のクラッシックバレエに並ぶ東洋のバレエとして新たな歴史段階に入った。しかし古代から続く現代においてなお、それがたとえ舞台が寺院からコンサートホールに移ろうと、敬虔なる祈りを、神に対する巫女の心をもって踊る精神世界の有様に少しの変化も生じてはいない。神秘の「舞」と賞賛され、高貴な「踊」りと言われる所以がここにある。 私の主宰するトゥループのメンバーも当然のことながら野外ステージでの公演は、よほどの《例外》がない限り踊ることはない。野外での公演の依頼が来た場合、十中八九はお断りをしている。野外で踊る場合であっても、アナウンスで事前に飲食禁止の注意を極力よびかけいただき、主催者側の理解と協力を得てはじめて野外公演の舞台に出させていただく。ホテルからの依頼もよく受けるが、ホテルでの舞踊も飲食がされるのであれば、名の知られた一流ホテルであろうと、こちらもお断りをしている。実際ホテルの企画物は多く、依頼の件数は両手にあまるほどくるが断り続けている。ホテルの場合はなかなか飲酒や飲食と切り離せず、妥協点が見出せないからである。だが踊る以上は演目も慎重に考え選んで踊る。要するに踊る環境さえ整っていれば、野外であろうとホテルであろうと、他のどのような場所であれ、厭いはしない。これは古典舞踊を学ぶものの初歩的なマナーであり、舞踊家なら最低限知っておかなければならない心得でもある。 しかし飲食飲酒をし喧騒の飛び交う衆人の前で平然と踊る自覚なき《舞踊家》と称する一群がいる。「神の踊り」と称し、「舞を捧げる」と真顔で言う。長く舞踊を続けておられる「大家」といわれる人でさえそのようである。いったいその人たちの舞踊の「神」はどこにいるのか…。―誰か機会があればお教え願いたいとさえ思う―。 舞踊家各々でそれぞれの事情もあろう。一概に商業ベースで踊ることをとやかく言うつもりはない。割り切って踊っている舞踊家はインドにだっているだろう。しかし「神様の踊り」と吹聴し、少しの懐疑も抱かぬままハンで押したような踊りを披露する…羞恥心さえどこかへ棄て去ってしまったかのような、その姿勢に疑問がわくのである。自らが加担してインド舞踊を矮小化し侮辱を加えていることに気づかない。まさに欺瞞に満ちた人形踊りにすぎないではないか。神不在のインド舞踊が、掛け声のみ高く「神」と称し、単なる好奇の視線によってのみ拍手が贈られている現状を省みれば、そこにこそインド舞踊が未だ日本社会に広く浸透され得ない大きな要因の一つとなっていることが理解されよう。見る観客は、仏を作って魂の入っていない「踊り」であることを、踊り手側の欺瞞としてちゃんと見抜いているからである。 インド古典舞踊はインドのすべてが凝集された哲学であり思想なのだということに、どうして気づかないのだろうか。そこに自負もあれば誇りも生まれ、また自戒も反省もあってこそ、インド古典舞踊が内在する数千年の歴史を経てきたことの本質も視えて来るはずなのだが…。残念ながらその点に気づき実践している舞踊家もグループもこれまで私の観て来た限りにおいてきわめて少ない。大河の一滴という趣で、ひたすら自己肯定の世界に浸りきり、路上パフォーマンスに安住しきっている様子である。このような舞踊家のいる限り、日本のインド舞踊界に希望はない、ということを知るべきであろう。 今年はタゴール生誕150周年記念の年にあたり、在日のベンガル人によるタゴール生誕150周年記念祭を東京の船堀タワーホールで行う予定であった。前年より綿密な計画を立て、プログラムの流れも煮詰まってきていた。しかし3月11日の予期せぬ不幸が日本を襲った。東北関東大震災であり、東電による原発漏れの事故である。そのため記念祭は中止となった。恐怖から日本を出てゆくインドの家族が後を絶たなかった。私は予定を変更し、私の拠点とする名古屋でタゴール生誕150周年の舞台を急遽行うことを考えた。さいわい快く会場を提供してくださった「揚輝荘の会」のメンバーの田中進様のご尽力を得て、松坂屋デパートの創始者である、15代伊藤次郎左衛門佑民の、現在では名古屋市の有形文化財に指定されている、大正時代に造られた別邸「揚輝荘」の自然豊かな環境の中で「タゴール生誕150周年記念公演」を行う運びとなった。 当日は大阪からタゴールの縁者に当たるタゴール サンディップ氏と暎子御夫妻をお招きし250名を越える人々と共にタゴール生誕を祝い、公演を成功裡に終えることが出来た。ただ私は日本でいちばん多くインドの人々が暮らす街、東京でもタゴール祭に代わるものを行いたいという思いも断ち切れないでいた。考えた末に、これまでひかえてきた 野外ステージで踊るナマステインディアにインディアン クラシカル ダンス トゥループとして参加することに大きく舵を切ることにした。 タゴール生誕150周年を祝うお祭りである。多くのインドを愛する日本の人々にこの事を知ってほしかったし、知らせたいという思いの勝りが、一ベンガル人である私を参加へと駆り立てた。東京・川崎教室で学ぶインドの子供たちも参加した。野外が似合うタゴールダンスで幕を開け、タゴールの生誕を人々と共に祝っていただいた。ベンガル人の誇り、そしてインド人としての誇りを、舞う者も、観る者も一体となって、ともに共有した時間であった。実際、ナマステインディアを見に来た観客の皆さんはマナーを守って見てくださっている様子も分かり、「日印」の理解を深める行事としてのナマステインディアの持つ性格も再認識できたことは、たいへん有意義な参加であったと思っている。 我われトゥループの三つの公演はタゴールの縁から始ったものであり、すべての公演は納得のゆくもののように私には思われた。また公演に参加した トゥループのメンバーの一人ひとりの思いも私と同じであったに違いない。なぜなら悠久の時間のなかで受け継がれ守り継がれてきたインド舞踊を、そしてインドの心も同時に併せて学んできている生徒たちであり、メンバーたちだからである。 小久保 シュヴァ チャクラバティ |
〜アメリカ公演に向けた出演者の練習の模様〜 (於、2010) NABCから公演招請のお話があったのは、前回公演終了直後からでした。ただ、当方の都合もあり、毎年の参加というわけにもゆかず、実際インディアン クラシカル ダンス トゥループが再度NABCの招請を受け入れたのが昨年のことでした。アメリカ各州に住む在米インド・ベンガルの人々が毎年持ちまわりで、順次開催地を決めてゆくシステムであり、今年度はニュージャージー州アトランティックシティが開催地となりました。参加すると決まった日から(約一年前)練習をはじめ、最初は月に一度の合同練習に始まり、年が改まった三月から毎週一度の合同練習が始まりました。 今回のインディアン クラシカル ダンス トゥループ第2回アメリカ公演参加については、前回と違い古典をはずした創作舞踊に統一した演目との依頼がありました。しかも主催者側からの破格な扱いとして、当インディアン クラシカル ダンス トゥループが有終の美を飾るNABCの公演の舞台の〈トリ〉を務めることも決まっています。ご来場いただいた観客の皆さまから、それほど前回のウダイ シャンカール スタイルによる創作舞踊は好評を博し、熱い支持を頂いたということでもあります。ウダイ シャンカールスタイルの特徴として見落としてはならない点は、土地柄なり、時代に即した衣装なり、小道具なりを舞踊の重要な要素として用いていることにあります。日本ならではの衣装と小道具を踊りに取り入れ、日本とインドの融合された踊りが出来たら思っています。 -------------------------------------------------------------------------------------------- 〜アメリカ公演 NABC公演のこと〜(於、2010..8月、月刊なごや掲載) 私が主宰するインディアン クラシカル ダンス トゥループは1997年に始められた。 小久保 シュヴァ チャクラバティ |
〜三度目のインド公演〜 (於、2008.12月) 今回で三度目のインド公演を無事、成功裡に終えることが出来ました。ウダイ・シャンカール・ダンス・フェスティバル選考委員の関係者の間では日本のトゥループの舞台の質の高さは定評があり、私たちトゥループの場合、「ほぼ無審査で参加が認められる」と内輪話でママタ先生やMr.ゴーシュから伝えられました。それに加え二度目のインド公演からウダイ・シャンカール・ダンス・フェスティバル以外の公演も依頼されたり、持ちかけられるようになり、そちらの面でも私たちトゥループは着実に実績を積み重ねて来ています。現地の舞踊教室と公演を共同で開催したり、単独公演を行ったり、日々に練習を積み上げてきた結果がしっかり形となって現れているということなのでしょう。私一人の力でもなければ、皆さん個々の努力の結果ばかりでもない。インディアン・クラシカル・ダンス・トゥループのメンバー全員の力が結集して評価されているとみるべきでしょう。もちろん、その中でも技量が優れている夏目さんや谷口さん榊原さんなどはトゥループとしても、また個人として関係者からもその名前を覚えられるまでになっています。「あの人の名前はなんと言うのですか?」と舞台を観終えた後で訊いてくる観客もたくさんいるのです。たとえグループで踊っていようと優れた踊り手は観客の目につくという証明でもあります。また、当然ですがその逆もあるわけです。 今回の私たちの公演も、前回・前々回に引き続いていくつかのテレビ局が取材に来て電波に乗せられました。公演をテレビで放映されると同時に、今回、個人でもインタビューを受けた夏目さんと谷口さんはその姿と声をアップでインドの皆さんに放映され観られたわけです。たとえ言葉の壁があったとしても、その挙措、態度はトゥループを代表するものとして、同時に日本を、あるいは日本人をイメージさせるものとしてインドの人々に受け取られたことでしょう。 私の師であるママタ先生の前で堂々と踊る生徒の皆さん、そしてそれを厳しくも優しい眼で見守って下さっているママタ先生の姿を舞台の袖から、ふと垣間見る時、私は言葉では言い表せぬ感動が身裡を過ぎります。それは創作舞踊に留まらず古典舞踊に於いてもまったく同様なことで、自分たちのバックボーン(日本人として)をしっかり持ち、しかし、それを舞台で感じさせないインド舞踊を最初から最後まで、自然の流れのままに踊ってゆく姿こそ、厳しい練習を重ねてきた結果なのだと、トゥループの古典の舞台を観るインドの人々はちゃんと肌で理解して下さっているのです。 日本人が踊るインド舞踊がめずらしいから賞賛されるのではありません。舞踊が本当に素晴らしいから賞賛されているのだ、ということなのです。「インドの人々に勝るとも劣らぬインド舞踊の公演――」とテレビで司会者が何度も繰り返し言っていたことやウダイ・シャンカール・ダンス・フェスティバルの司会者が「日本のインディアン クラシカル ダンス トゥループには毎年このフェスティバルに参加して頂きたいものです」と台本にない台詞を言われたことは客観的評価の証明と言えるのでしょう。 しかし私たちは現状に満足することなく、新たなるステップアップと飛躍に向かい飛翔してゆかねばなりません。それにはやはり練習の積み重ねしかないのです。 トゥループの皆さん、本当にインド公演ご苦労様でした。 小久保 シュヴァ チャクラバティ |
〜10周年記念「同窓会」によせて思ういくつかのこと〜 (2007年 10周年記念「同窓会」によせて記す) 私にとって、この10年という歳月が長かったのか、短かったのか、「あっ」という間の歳月であったようにも思えますし、過ぎてみれば「こんなものなのだろう…」と奇妙に納得している自分もいて、しかしやはり時は確実に誰の上にも平等に過ぎていることを確認し実感しつつ、インディアン クラシカル ダンス トゥループ10周年記念「同窓会」という場を企画し、かつての生徒さんたちと賑やかで楽しいひと時を持つことが出来ました。時間が作られなく参加出来ない生徒さんもいましたし、記念写真を撮る前に仕事の関係や家庭の事情などで帰られた生徒さんも多数みえられましたが、和気藹々のムードは会の解散まで続き、冗談のように「次回は15周年をお願いしたいです」と言って帰られた生徒さんもいたとのことでした。 このようなことを記すのは手前ミソのそしりを免れないと知りつつ、それでもあえて言いたいことは、「私の生徒は日本一の素晴らしい」生徒ばかりだということです。舞踊における技術面、その精神面でも、そして人としての態度やマナーの点でも、どこに出しても恥ずかしくない生徒ばかりです。それぞれが心ならずも辞めて行かれた生徒たちも含め、私は内心の誇らしさを感じています。「どこに出しても恥ずかしくない」は文字通りの意味で私は言っているつもりです。 この日本では、わずかばかりの年月をインドで舞踊を学び、帰ればひとかどの「センセイ」として教室を持ち舞踊を教えている、こんな風潮を私はこれまで嫌というほど視てきました。型どおりの踊りしか学んでいないにも関わらず、日本に戻れば教室を開き、生徒が持てるという風潮がどうにも私には納得出来ないでいます。 インドでは幼少時から舞踊を学び、自分の教室が持てるまでには気の遠くなるほど修行の歳月を要します。舞踊に加え、音楽のレッスンはもちろん、古典声楽の素養も必須で、それらの総合を学ぶわけですから、簡単に3年や5年で学べるというような安易なものではありません。だからこそ、インドの舞踊家たちは厳しい修行を経た後、大学に教授として迎えられるということも当たり前の話しですし、現に私の親しい知人の幾人かも実際、大学の教壇に立ち学生に教えているのです。 インドでよく聞く話に日本人の生徒は「金払い」がよく、踊りの二、三も教えれば満足して帰ってゆくとのことです。要するに日本で教える材料がなくなると、せっせと「踊り」を仕入れに「渡印」するわけでしょう。その果てに言葉の不自由さもあるせいなのでしょうが(実際、英語や現地の言葉を話せる日本のセンセイはほんの一握りしかおらず、私に関して言えば、残念ながらほとんどお眼に掛かったことがありません。また、これは笑えない話ですが、冗談のような本当の話として、日本のセンセイの中には自分の踊りが何語で歌われているかを知らず、踊りを踊り、生徒に教えているセンセイの姿を眼の当たりにして背筋が凍る思いをしたこともありました)個性のない、まるでハンコで押したような踊りを学び、そして支払うお金は現地のインドの人たちの月平均サラリーの一年分にも相当する金額を謝礼として払ってくる。何のことはない、その実体は、お金で「踊り」を買っているようなもので、そこには舞踊に対する厳しさも節度もなく、馴れ合いの「商取引」が行われているに過ぎません。金払いがよいからインドの先生は厳しさもなく、手加減して教えるというわけです。そして未熟のままに帰国し、見るに耐えない踊りを披露し、それでも日本では物珍しさゆえの賞賛を浴び、「唯我独尊」として舞台マナーも礼儀も弁えぬ「センセイ」たちが同様な「生徒」を生産し「粗製乱造」の典型的見本を呈し続けているというわけです。もっともこの点では日本に限らずドイツでもイギリスでもアメリカでも事情は似通っていますが、しかしそれらの国の「先生」と、日本の「センセイ」と称される一群の人たちとの相違は、日本のセンセイ方には「謙虚さ」がなく、自分自身を「疑う心がない(懐疑の心)」という点です。欧米の先生方は少なくとも自分自身の力不足を自覚していればこそマナーの面では謙虚さが見受けられますが、日本のセンセイ方に限っていえば、ふんぞり返って「私こそは」という姿勢が感じられてなりません。同じアジアだからという意識構造の違いが洋の東西を根底のマナーの面で相違させているのだろうか、とも考えます…。なぜなら、西洋のクラシックバレエを学んでいる日本の子供たちはマナーを踊りの一部として学んでいて、実に礼儀正しいですね。日本のインド舞踊のセンセイ方には見られない相違がここにあり、インド古典舞踊を学んで来たものとしては実に恥ずかしい思いに駆られる場面が多々見られます。 この10年間、私はそんなセンセイ方を静かに見物してきました。 そこには名の知られた「センセイ」と言われる人たちが実に数多く含まれていました。目の前に見るそれらセンセイ方の「喜劇」は実に見ものでした。黙ってみている分にはケッサクで、当人の踊りを超える「作品」がそこにはありました。その「センセイ」方はインドでいったい何を学んで来たというのでしょう。 どうやら「インドに行って学ぶ」ということが、@名を売ることと、Aステータスへの近道であり、B箔をつける、もっとも手っ取り早い手段なのだということを知らず語らずのうちにその言動から、はからずも告白しているかのようでもあります。実際にはそんなことは本人の実力とは何の関係もありませんのに…。 私が教えている生徒はもちろんインドで学んだということはありません。しかし、どう考えても、私のクラスの幾名かの生徒はどこに出しても恥ずかしくない実力と礼儀を兼ね備えているようです。たぶん彼女たちならば、日本でも、いや世界に出してもトップクラスの踊り手として、また先生として通用することでしょう。客観的にもインドやアメリカで高く評価されたことは見過ごせない事実です。公演の終了後、何の面識もない在日インドの方がわざわざ楽屋を訪ね、私の生徒たちの踊りを観て「インド本国の舞踊家より、上手な踊りを踊っている」と評価してくださっています(彼女たちは楽屋を訪ねるまで私の生徒をインドの人たちが踊っていると勘違いしていました)。似たような話しなら枚挙に暇もありません。したがって、これは掛け値なしの評価です。舞台マナー、舞踊技術、テクニック、そしてなによりインドの「心」を日々練習に綯交ぜて学んでいる姿がトップクラスであることを証明しているのです。日本人が踊るインド古典舞踊だから賞賛されるのではなく、インド古典舞踊が本当に素晴らしいから賞賛される、この点はかなり重要なキーワードとして心にとめておいていただきたいものです。 カネとコネでいくらインド現地で公演を行って来たと麗々しく吹聴しても、そこに継続が伴わない点を考慮すれば、自ずとそのセンセイが現地でいかに遇され学んできたかは言わずとも知れ、そのレベルが奈辺にあるか明瞭に推察されましょう。所詮は好奇の眼で眺められただけの「ご祝儀公演」であったということが証明されているわけです。インドの大学で舞踊を学んできたと大上段で振りかぶる人も似たようなものです。卒業は終了の節目ではなく、舞踊家として本格的修行の始るスタートラインに立ったという節目なのです。それを勘違いして日本に晴れやかに帰ってくるなり教室を開いて「センセイ」を始めても、最初のうちは物珍しさも手伝って公演も教室も賑やかしさに包まれるでしょうが、三年も経つ頃には、生徒は集まらず、そのセンセイは「センセイ」を辞めざるを得なくなっている。何のためにわざわざインドまで留学し舞踊を学んできたのでしょうか…。残念ながらこのようなケースも実際、多く見受けられますね。「学ぶ」ことと「教える」ことを同義と考えた結果からくる「錯誤」がここに見られるのです。修行の一貫と捕らえれば、教え方にも謙虚さが加わり、「知ることを知る」と謂い「知らないことを知らない」と謂う姿勢が生まれ、自ずと初心に還ってインド時代の学んでいた当時の心を思い起こすはずです。そこにこそインド古典舞踊の本来の道も拓かれると思うのですが、多くのセンセイ方はそのことを忘れ果ててしまっている。実に残念です。 いずれ、そう遠くない将来、私は日本を去りインドに帰るでしょう。その時になって私の蒔いた「インド古典舞踊」という種が大きく生徒一人ひとりの心に育っていることを今回、この10周年を機に改めて切望してやみません。 小久保 シュヴァ チャクラバティ |
〜ウダイ シャンカールについて〜 (於、2004.インドの物語-パンフより) シタール奏者として西洋音楽やビートルズに多大な影響を与えたとされるラビシャンカールの名は世界的にも著名である。それに反し兄であるウダイ シャンカールの名はそれほど人口に膾炙されてはいない。もちろん「日本では―」という但し書きが付く。 小久保 シュヴァ チャクラバティ |
〜梗 概〜(於、1998.8.15) 私たち《インド舞踊サークル》は1997年4月に豊田市国際交流協会で開講致しました。インドというとカレーやサリー、仏教やカースト、それに多宗教、多言語といったものが広く知られているようです。しかし、よく知っていると思われている人の中にも、詳しく話してゆきますと、認識不足であったり、あるいは誤解や偏見が少なからず見受けられます。また、それら以外の事になるとインドを語る人の数はさらに少なくなります。インドに対する正確な情報が不足しているせいでしょうか。マスメディアに取り上げられるインドの映像や活字は常に興味本位をねらった偏ったものが多く取り上げられているのです。澄んだ視線でインドを語られる人は本当にそう多くはいません。カレーや仏教がインドの発祥であることは誰もが知っており、今ではすっかり日本の生活の中に溶け込み、日本式になっています。そんな常識が却ってインドに対する認識を固定化し、よく理解しているもののような錯覚を抱かせる大きな要因の一つになっているのかもしれません。インド舞踊サークルは、こうした日頃からインドに対し素朴な疑問をはじめ、以前からインドに興味を持たれていたり、もっとインドの文化や芸術を知りたいと思われている人たちが集まって始められました。舞踊の練習は毎週一回とスローテンポで進められていますが、しかし舞踊の足並みは揃って一歩一歩、確実に前へ進んでいます。誰もが愉しく学んで楽に上達できれば、それがいちばん好いのですが、そんな話は世界のどこの国を探しても見つけられません。そんな方法は初めからないのですから、見つけられるわけがないのです。サークルの皆さんも人知れぬ努力を積み重ね、成長を続けられています。私の練習は厳しいかも知れませんが、なんと言っても「インド舞踊サークル」という大看板が掲げられている以上、その趣旨に沿ったサークル活動になるのは当り前のことで、しかし時どきはレストランで食事をしたり、他の舞踊公演を観にでかけて勉強をしたり、あるいは各自が食材を持ち寄り、自分たちでインド料理を作って食事会を行ったりと課外授業(?)も多彩に行われ、まさしくサークルの名にふさわしい心の交流も深まっています。国際交流にはさまざまな形があってよいはずです。一つの形にとらわれることなく、どのような考えであれ、自分が最善であると考えたことを実行に移すことが、国際交流の第一歩、相互理解のはじまりだと私は考えています。私たち「インド舞踊サークル」は開講された当初、ある一つの大きな目標を大上段に掲げました。三年を一つの節目として、インドで私たちの「インド舞踊公演」を行おうというものです。 インドの人たちは日本が大好きです。同じアジアに位置する国だからという、通り一遍の理由からだけではありません。日本は第二次世界大戦後マイナスからスタートしましたが、この五十年の間に世界でも類を見ない奇跡の復興を遂げ、さらには世界で一、二を競うまでの経済大国に成長しました。インドの人たちはそんなミラクル日本を大きな憧憬と深い尊敬の気持ちを抱いて見つめています。昔からインドの人たちは特別な思いで日本及び日本人を眺めてきました。たとえば明治の時代、日本は日露戦争に勝利し、当時イギリスの植民地下で苦しんでいたインドの人々に強い感銘を与えました。同じアジアの仲間としてインドに自主独立の精神を奮い立たせたのでした。アジアのいちばん端にある小さな島国の日本が西洋列強と互角に伍し、植民地化もされず、なおかつ大国ロシアに勝利したという事実が、イギリス統治下に喘いでいた当時のインドの人々の目を一挙に覚醒させたのでした。戦後の日本は湾岸戦争に置けるイラクのような存在でした。アジア域内に届まらず、世界のどの国からも相手にされず、戦争責任を追及され、嫌われていました。そんな日本に最初に手を差し延べ、国交を果たしたのはインドでした。今日でもインドでは折に触れ人々の口から「Country of the rising Sun(日の昇る国)」と日本を尊称してそう呼ぶ声がきかれます。 インドでは舞踊が今もなお盛んに行われ人々に親しまれています。舞踊はインドにおいては娯楽と芸術の総合的メイン・カルチャーとして、老いも若きも男女を問わず、また富める者や貧しき人にも一様に愛され続けています。インドにおける舞踊とは譬えていえば、日本では文化的教養として、お茶やお華が今もなお尊ばれているように、あるいはまた、膨大な人口と広大な面積を有する中国では、北と南で言葉が違って通じませんが、漢字という文字を使うことにより意思の疎通をはかっているように、インド舞踊とは、この日本と中国の文化の二つを併せ持つに似た文化力なのです。なぜなら、九億余の人口を抱えるインドでは二百余(一説には八百余とも言われています)の言語が飛び交い、多数の宗教が信仰され、民族はジグソーパズルのように入り乱れている中で、言語の溝を超え、宗教の壁を破り、異民族間の心を一つに繋ぐ懸橋として、インド舞踊は巨大国家インドを統一するキーワードとしての役割を果たしているからです。 そんなインドで 私たちインド舞踊サークルは舞踊公演を行おうというわけです。日本人が本場のインドで舞踊公演を開くとき、観に来られたインドの人々の瞳にどのような光が宿り、その胸の裡にどのような感想がいざなわれることでしょう…。国際交流の真の意味での相互理解とは相手の国の伝統文化を理解することに他なりません。私たちの舞踊を通じた国際交流はまだ緒についたばかりですが、それがたとえどんなに小さく頼りなげに見えても、インドと日本を結ぶ相互理解を深める懸橋になれることを願ってやみません。 小久保 シュヴァ チャクラバティ |