断腸亭日常日記 2019年 4月 その1

--バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

por 斎藤祐司


過去の、断腸亭日常日記。  --バーチャル・リアリティーとリアリティーの狭間で--

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 4月15日(月) 雨のち曇 15755

 夜中は、けっこう雨が降っていた。朝になると、雨はやみ暖かくなった。都議会議員選挙が始まったので、宣伝カーが道路を流し、スピ―カーからは候補者の名前を連呼している。投票は、来週の日曜日。

 昨日は、ドミンゴ・デ・ラモス。キリスト復活の1週間前にあたる。ラス・ベンタス闘牛場では、ビクトリーノ・マルティン牧場の牛で、フェルナンド・ロブレーニョ、オクタビオ・チャコン、ペペ・モラルが出場して行われた。入場は、2/3と闘牛サイトに出ていたが、ラス・ベンタス闘牛場のホーム・ページには、15364人の観客と記載されていた。結構入っている。サン・イシドロ並みである。

 中継動画をネットで流している処があったので、ちょこちょこ観ていた。断片的であるが、印象としては、牛がパッとしなかった。動きがビクトリーノらしさが、少なかった印象だ。ロブレーニョとオクタビオ・チャコンが挨拶をしていた。ロブレーニョは痩せたのかな?ナトゥラルが良かった。チャコンは、カポーテ捌きに味がある。あれをやられると、だまって観てしまう。美しい流れ、心の穏やかさを感じる。なかなか感じることが出来ない味わいだ。こういう処にも、コリーダ・ドゥーラの技術を感じる。ポンセも同じような事をする時があるが、見せることを主眼を置いているようで、不純物を感じる。

 タイガー・ウッズが14年ぶりにマスターズを優勝した。交通事故、不倫、薬物とアルコールで逮捕。車から降りてフラフラ状態で、凄い顔をしていた。腰の手術。あの時は、もうダメだろうと、みんなが思っていた。それが、去年復帰して、ついに、メジャー制覇。どん底からの復活。彼の子供は、父親をユーチュバーと思っていたという。動画に、ゴルフをやる父を沢山見たからだという。子どもの目の前で、自分がプレーする姿を見せたいというのが、復活の鍵になったなったようだ。こういう人は、強い。失敗から立ち直り、自分を見つめ直したことが、強さを支えているはずだ。


 4月16日(月) 晴 11958

 昨日夜、用事を済めせていてよかった。朝、連絡があり、用事が出来たので、遅い朝食後、それを済ませる。天気がいい。花もだいぶ咲いてきた。ツツジの花もあちこちで咲いている。一つに見えている蕾のようなものの先が、3つや4つ、5つに別れて本当の蕾が現れて、そこから花が咲き始める。この自然に作られた花が咲く仕組みは、素晴らしい。人が作る造形も美しいが、こういう自然のシステムにはかなわない。

 青春という言葉は、中国から来ているのだという。陰陽五行思想の五行は、木・火・土・金・水の5つの世界から出来ているという世界観だ。土が季節の変わり目を表し、他の4つが、四季を表す。春を表す木の色は、青。だから、青春になるのだという。『チコちゃんに、叱られる』でやっていた。『なつぞら』第3週は、「なつよ、これが青春だ」は、高校生になったなつの朝から始まった。搾乳後産気づいている母牛を心配して、牛舎を覗く。お腹の形が何か変だという。朝食。農業高校へ登校する前に、破水したと兄の照男がやってくる。急いで牛舎に行くと、逆子で後足が出ていた。獣医を呼ぶように指示する泰樹。何とか母牛だけは助けたいという爺さんに、なつは、そんなの待ってたら死んじゃうと、仔牛を引っ張り出そうと後足に綱をつける。陣痛に合わせて綱を引き、仔牛を出す。

 仔牛は息をしていない。もうダメだという爺さんたちに、なつは、学校で習った通り、人工呼吸をする。鼻に入っている羊水を吸い、吐き出す。それから心臓マッサージ。蘇生に成功する。仔牛は立ち上がり母牛が舐める。経験値で酪農をやってきた爺さんたちがビックリし、なつをほめる。初乳を飲ませ学校へ向かう。富士子が、今日は行かなくてもいいんじゃないというが、このことを学校へ行ってみんなに話したいからという。そこへ、馬を連れて爺さんがやってきて、馬で行くようにいう。今日は搾乳はいいからという。

 遅刻して教室に着いたなつ。「おはようございます。遅くなってすいませんでした」授業中の倉田先生が、「奥原」 なつ「はい」 先生 「大幅に遅刻したくせに、反省はしてないようだな」 なつ 「はい。してません」 先生「うん。何していた?」 なつ「それ、ききますか」 先生「ほー、きいてほしそうだなぁ。何だ」 なつ「倉田先生、授業の邪魔では」 先生「いいから、しゃべれ」 なつ「はい、牛のお産を手伝っておりました。それが、逆子でした」 先生「逆子?」 みんなが騒ぐ。 居村良子「なっちゃん、それでどうしたの?」 なつ「それでね。へその緒が切れたら大変だと思って、急いで引っ張り出したんだけど。生まれた仔牛は仮死状態だった」 先生「それで。助かったのか」 なつ「はい。私が人工呼吸をして、助けました」 みんなで拍手。 なつ「先生、学校で教わったことに、うそはありませんでした」 先生「当たり前だ」 同級生の男子生徒「よくやった、なっちゃん」と拍手するとみんなも拍手する。 先生「あっ、ちょいちょい。それで、どうやって人工呼吸をやったんだ」 なつ「はい。じゃー、よちゃん手伝って」 良子「へっ」 手を引っ張って教室の前に連れて行く。 なつ「よっちゃん、ここに寝て」 良子「寝るの?やだ、ふしだらよ」 なつ「大丈夫よ。牛だから」 良子「私が牛なの?」 なつ「早く。まずは、鼻に溜まった羊水を吸って、吐き出しました。それからこんな風に、仔牛の前脚を掴んで、胸を開いて戻すようにしました。開く時には仔牛の体が、浮くくらい大きくして」 良子「なっちゃん痛い」 なつ「戻して、開いて。戻して、開いて」・・・

 第3週になって、子役から広瀬すずになつが代わった。その初めの部分で、非常に印象的なシーンで登場をさせる。脚本がいい。よく考えられている。この2週で子役のなつで涙を流した人が多かったようで、「こなつロス」という言葉がSNSなどに多く書き込まれているようだ。それを、打ち消すような登場である。唐十郎の脚本のようだ。唐は妻の李礼仙が登場するときは、印象的に書いていた。ある時は、舞台にはった水の中から口から噴水のように5mくらい水を出させて、水中から登場させたりもした。上手いなーと思ったものだ。それと同じような手法を取っているように思う。この脚本を書いている大森寿美男は、朝ドラ2作目で、1作目があの『てるてる家族』。面白いわけだと思う。誰が主人公かってことが、わかりやすく書いている。そして、「上辺じゃない人間関係をストレートに描く」スタイルに、視聴者は涙を流すのだろう。血の繋がらない泰樹となつの描き方は白眉だ。実の孫以上に、泰樹がなつを可愛がるのは、お互いの気持ちが解り合える関係に描いているからだと思う。


 4月17日(水) 曇 13002

 昼食後、一息ついて上野へ出かけた。国立博物館で、年間パスポートを買い、庭園を散策した。まだ桜が咲いている処がある。いろんな花も咲き始めている。秋には、手水鉢に水は流れていなかったが、今日は2つとも水が流れていた。池には鳥がいた。鴨の他に、京都で観る動かない大きな鳥。楓に茶色がついているところがあったり、ツツジも咲き出している。地面にはうように紫の小さい花も咲いている。タンポポは背丈が高くなって咲いていた。

 それから、観たかった中国の花鳥画を観た。呂紀(1488~1505)。府中市美術館で観た、伝 呂健の爺さんの絵だ。あまりピンとこなかった。狩野派のような感じだ。それよりは、朱端の『寒江独釣図』雪が積もった木の描き方の方が良いと思った。日本で、中国の山水や水墨画などを、好んだのが、足利義政で、その為、狩野派の初代狩野正信がそこから出てくる。他には、日本館で、仏像、かんざし、櫛、根付、浮世絵などを観て、新しく重要文化財になったものなどを観て回った。『東寺展』は、時間がないので観ないで、終了時間になった。それから、上野と御徒町の辺りをふらついて、鴨ラーメンを食べて帰ってきた。


 4月18日(木) 晴 11773

 もう日中は、半袖で大丈夫だ。朝と夜は肌寒くなるので上着が必要だ。『ぶらり鉄道旅』は、「京都人の流儀を探して 京阪電車」。その中で、60歳になってそば屋を退職した人が、40年やっている茶道の為に、六畳の茶室を作り、友人を招いて茶会をしているという。利休の時代は、おそらく、正座をしてなかったと思うんですといっていた。流派は藪ノ内流。あぐらだったと思うという。気楽に誰でも楽しめるお茶会をしたいという。こういう気持ちになるには、年季が必要なのかもしれないと思った。他の場面で、料理人が、「伝統とは、革新の連続だ」といっていた。京都だなと、思った。ただ言葉でいうのは簡単だ。経済的に保障されるようなものは、良いだろうが、畳職人や、檜皮葺の皮をはぐ職人、茅葺職人など、あるいは『京都人の密かな愉しみ』に出て来た、洗い屋など、後継者が極端に少ないものも多くある。そういう処がなかなか難しいなぁと思う。

 皐月賞があった日がドミンゴ・デ・ラモス。セマナサンタの始まりだ。今日は最後の晩餐があった日。金曜日は死んだ日。日曜日がドミンゴ・デ・レスレクシオン。復活の日曜日になる。セビージャはこの1週間は休みになる。街を山車がねり歩く。そして、毎年日曜日からセビージャの闘牛が始まる。ところが面白いことに、フランスのアルルで始まるフェリア・デ・コルプスは、キリストが死んだ日の金曜日から始まる。スペインではあり得ないことだ。スペイン人からすれば、そんな日に闘牛をやるなんて、不謹慎だと思うかもしれない。闘牛は何かを祝うために国王などが行っていたからその名残だろうと思う。

 セビージャのセマナサンタ最後の日曜日に闘牛を開催する。翌月曜日も休日になっているはずだ。理由はフェリア・デ・アブリルと同じだったと思う。ところがアルルの闘牛は、この月曜日まで行われる。金土日月の4日間。こういう違いで、スペインとフランスの違いを感じるのも面白いと思う。キリスト復活の日は、春分の日の次の満月の週の日曜日になっているので、毎年変わる。だから、THさんがいっていたが、グラナダで行列の行進の夜空に満月が浮かんでいたというのは、その為だ。たぶん、そういう演出もセマナサンタを考えた昔の人は考えていたのだと思う。でもなかなか判らないのが、キリストは死んで3日目で復活したというのに、金曜日から3日目っていうのは月曜日になるはずなのに?と、思うのだ。そこが納得できない。こういう分かり難さは、西暦は、キリストが生まれた年を基準にしていると、なっているはずなのに、実際には6年ぐらいずれているのと、同じような理由なのかと感じるのだが…。

 アーモンドアイが凱旋門賞の登録をやめた。馬主のシルクホースクラブが発表した。「コース・距離・斤量と全ての環境がタフな条件になることからベストのレースではない」という理由。そういう考えは成立すると思う。あまりにもタフなコースであることはいうまでもない。特に、雨が降って馬場が悪くなった場合は、過酷で日本馬にとっては負担が大きすぎる。そうなった場合は、日本に戻ってもJCや有馬記念には、出走できないだろう。そうなると、クラブ会員に、賞金を分配できなくなる。経済的なリスクを考えると、当然の結論といえる。個人馬主なら、夢を追うことは出来る。また、女傑ヒシアマゾンが死亡した。28歳だったという。


 4月19日(金) 曇 14858

 午後遅く、原宿、恵比寿へ行く。表参道をちょっと歩いて、太田美術館へ。『北斎 -富士への道』を観る。北斎の動きを感じる絵は、読本の挿絵から来ていると思っていたが、すでに20代の頃に描いた絵からそういう物を感じることにビックリした。人の持つ資質は、早くから表現されている。そのを伸ばすのも、殺すのも、やはりその人の進んでいく方向によって変わるのかもしれない。馬琴の『春説弓張月』の挿絵は、北斎の動きのある絵を存分に活かされた合作になっている。

 そのあとに、55歳から『北斎漫画』を始める。71歳から75歳に『富嶽三十六景』を描く。晩年は肉筆画。しかし、死ぬ年にも『北斎漫画』を出しているし、死んでからも最新版が出版されたという。

 それから、恵比寿の東京都写真美術館で、『戦禍の記録 大石芳野写真展』を観る。大学で写真を学び、ベトナム戦争でシャッターを切る。しかし、残酷な戦争のシーンにはシャッターを向けていないようだ。広島、長崎の写真は、年老いた被爆者や、爆心地に近い小学校へ毎年来る外国人と小学生の交流や、ケロイドになった体とその人の顔。厳しい顔や笑顔にそれぞれの境遇が綴られている。沖縄、ベトナム、カンボジア、アフガニスタン、、ホロコースト、コソボなど。夫と息子3人孫2人を殺された80歳のお婆さんの目の鋭さ、思い出すと直ぐに涙が出るという男の子、何も悪いことをしていないにと泣く少女。ベトちゃんドクちゃんの3歳くらいの写真。自宅で不発弾が爆発して左腕と足がなくなった父を、かわいそうだという娘。枯葉剤で障害を持って生まれた子供が、障害のある先生から学んでいる姿など、男女老人子供にシャッターを切る。そういう女性的な視線に、力強さを感じる。この3月写真家としての集大成として、長崎の被爆者の写真集を出したばかり。日曜美術館でやっていたので観に行きたくなった。大石芳野も年を取ってだいぶ老けた。戦場カメラマンといわれるのだろうが、何故いつも穏やかに語り、穏やかな視線を向けられるのだろうか?

 非常に理不尽な人生に遭っている人々を撮り続ける。何やらじわじわ来るものがある。今日は聖金曜日。キリストが死んだ日。そして、満月。東京は曇っていて月が観えない。


 4月20日(土) 曇 13471

 曇っているが、風が吹くと冷たい。2日前だろうか、やたらくしゃみが出ていた。昨日の朝からか午後からが、鼻水が出だして、ウゴ(下山さんが飼っていた犬)のよだれのように、だまっているとポタポタ落ちてくる。不思議なことに、外に出るととまる。花粉症発症ではないようだ。たぶん、風邪だろうと思う。しかし、何でこんな時期にと、思ってしまう。今日も曇っているので、月は観れないかもしれない。


 4月21日(日) 晴 14334

 良い陽気だ。八重桜の横で、黄色い花が満開になっている。鼻水は相変わらず。咳もくしゃみも出る。鼻が、鳩の鼻のようになっている。

 十八世紀、第三の禅宗、黄檗宗の僧侶などから中国文化の影響が大きい。若冲は、人物画をほとんど描いていないが、売茶翁という黄檗宗の僧侶を何度も描いている。これだけではなく、池大雅、与謝蕪村、円山応挙なども、黄檗宗の影響を受けているようだ。長崎から九州。それが関西、京都・大阪へ行き、江戸にも影響を与える。外国の文化が唯一入って来る長崎。源内も長崎に留学している。絵具も入って来る。その中に、プルシアンブルー(ベロ藍)がある。この人工顔料が、現在確認されているもので、1番古いものは若冲が『動植綵絵』の中で使っているもの。次が源内が描いた絵である。その後、北斎が『富嶽三十六景』で、爆発的印象を植え付けた青い色だ。いずれも長崎から入って来る。

 菊池雄星がようやく、メジャーで初勝利をあげた。父親が死んでも、帰国せず、シーズンが終わってからと誓い、野球に専念した。今回が、1番内容が悪かったが、味方打線の援護で、初勝利することが出来た。悲しみをこらえ、ローテーションを守って投げている。おめでとう!3月30日父の死亡時に球団から「生前、父は私に野球に専念し、そのままチームの勝利のために頑張って欲しいと言っていました。私は父の願いに敬意を表し、全力で頑張り、残りのシーズンを父に捧げたいと思っています」とコメントを出していた。

 アルルで、マンサナレスが耳3枚切ってプエルタ・グランデした。


 4月22日(月) 晴 16277

 床屋に行き、シャワーを浴びた。医者に行って薬を取ってこようと思う。

 「中国では古来、絵画の題材を、山水、人物、花鳥の三つに大別しており、その伝統は、近世日本にまで生きている。それと合わせて、中国で重視されたのは、対象の「真」を写す、写実の理念だった。花鳥画における「真」の描写が「写生」であり、山水画におけるそれが「真景」であり、肖像におけるそれが「写真」だった。だが、これらの用語が日本に入ると混同を生じる。 ・・・ ちなみに、「写真」は、明治になって「フォトグラフィー」の訳語にされてしまい、絵画用語でなくなった。」 --『十八世紀京都画壇』辻惟雄著より--

 本というものは、面白いことを書いている。江戸時代のことを書いている本を、集中的に読んでいるが、いろいろなことが絡んで、面白いなぁと思う。

 アルルで、チャマコが復活した。フランスで受けたからなぁ。父親も闘牛士で、ダリと親しかった。10代で牛に飛ばされても向かっていく、若さゆえに出来る闘牛だった。サン・イシドロにも出たが、自分の闘牛が出来なかった。ゲテ物でいえば、エル・コルドベス(息子)は、親父と同じように髪をかき上げたり、頭つきをしたり、らしさを出して耳を切った。リトリだって、いつものリトリじゃなかった。それが、40代になって復帰。やっぱりなと思うような闘牛だった。セバスティアン・カステージャは、セバスチャンであるように、そういう闘牛をやって耳2枚でプエルタ・グランデした。

 セビージャのドミンゴ・デ・レスレクシオンは、マンサナレスが耳1枚。モランテは耳なし。ロカ・レイも耳なし。下山さんから連絡があって、テレビジョン・エスパニョーラや、ビア・ディヒラルで闘牛中継をやっていたフェルナンド・フェルナンデス・ロマンが、マンサナレスはトレアールしているが、ロカ・レイはトレアールしていないとセビージャの観客は思っている。だから、ロカ・レイの闘牛をやっても、何の反応も起きない。と、いうような事をいっていたという。

 ロカ・レイは理屈に合った闘牛をやっているが、伝統的な闘牛を観慣れた人たちには、外連に見えているのだと思う。これが、セビージャ出身の闘牛士なら、話は違ってくるのだと思う。


 4月23日(火) 曇 9848

 寝るのが遅く、明ける前ぐらいに寝たが、朝ドラ前に起きて、納豆玉子を食べて、電車に乗って当日券を買って、福島へ向かった。福島県立美術館で行われている『東日本大震災復興祈念 伊藤若冲展』を観に行った。大宮から新幹線で、福島に到着。そこで、若冲セットという電車の往復切符と、美術展がセットになったものを買う。福島交通の電車に乗って、美術館図書館前で降り、徒歩2分。12時半過ぎだったのでレストランへ行くが、10人くらい待っていたので、外でカレーパンなどを買って食べ、中に入る。

 来るかどうしようか迷っていたが、東京都美術館でやった、『若冲展』との目録を観て、やっぱり来ようと思ったのだ。そして思惑通り、観たかった墨絵の若冲を観ることが出来た。彩色の若冲も勿論素晴らしい。が、墨絵の描き方を並べて観れるのが嬉しい。例えば、『墨竹図』を観て、鹿苑寺書院の障壁画を思い出す。帰りの新幹線で読んだ図録にも書いてあった。そうなるよなぁと思った。また、筋目描きはいつ見ても感心する。いや、感服する。輪郭線を描かずに、花びらを描くのは、素晴らしい技だが、それを、鳥の羽として描くとなると大変だ。何故なら、鳥の体の輪郭を、それだけで描くのは想像を超える画力を持ち合わせていないと輪郭が、ボケたりズレたりする。それがないのに驚くばかりだ。

 梅の木は、四君子という中国の絵の中でいわれるものの画題の一つだが、若冲の梅は、彩色画でも墨絵でも凄い枝ぶりだ。狩野山雪の梅の枝ぶりは物凄いが、若冲のそれは、特に墨絵の梅になると、歌舞いているといっていいほどの枝ぶりだ。そして、勢いもある。思い切りが良いというかなんというか。思い出すのは、宮本武蔵の墨絵だ。東寺の塔頭にあるものを観たことがあるが、剣を振るが如くの思いきり良さを感じた。それは、『等伯』を書いた安部龍太郎が、武士が剣を使う時の思い切りが、等伯の絵にあるといっていたが、それを思い出す。等伯は、武家の出て、仏絵師の処に養子になった。若冲の墨絵の梅の枝ぶりには、そういう気迫のようなものさえ感じる。

 行ってよかったと思った。わざわざ福島まで若冲を観に行くなんて、信じられない事だが、観終わった後、レストランで昼食が出来た。食べ終わって、会計の時に、店員がいっていた。平日でもずっとこんなんですよ。電話かかってきても、出れない。土日なんてもっと混んで。もうへとへと。前、若冲やった時もそうなの。もう凄くて。と、嘆いていた。福島でも若冲人気は凄かった。入れないということはないけど、東京都美術館の『若冲展』のように5時間待ちなんてことはないけど、中は人で溢れていた。東京の混んでいる美術展を同じ感じだった。

 売茶翁が若冲の『動植綵絵』を観て、「丹青活手の妙、神に通ず」といったいうが、彩色のない墨絵を観てそれを感じる凄さ!


 4月24日(水) 曇/雨 12680

 気温が暖かいのに湿度があり、雨が降ったり曇ったり。昨日の『若冲展』。気づいてみれば、外国人が会わなかった。記憶にない。これは珍しいことのように思う。首都圏では、電車でも街でも、いろんな言語が聞こえてくる。それが、聞きなれた東北弁しか聞こえなかったような気がする。そういう風に地元の人が若冲を観に来るというは良い事だ。

 昨日のサラゴサのコンクールソ・デ・ガナデリアは、ロペス・チャベスが耳1枚。メホール・トロは、ムルテイラ・グラベ牧場、メホール・ピカドールは、ホルヘ・トレスだった。サラゴサで、コンクールソをやり出したのはいつ頃なのだろう?少なくてもここ3年くらいは続いている。フランスのVic-Fezensac の影響があるのかもしれない。だいたいコリーダ・ドゥーラが出場する。闘牛士も牧場も。そういうのに出ないフィグラ達。出てもおかしくない闘牛士もいるが、出ない方が良いような人もいる。フィグラじゃないからこういう牧場の牛を相手にする。でも、そこからしかのし上がれない。それをアフィショナード、闘牛士、牧場、興行主が共有してやるのが、コンクールソのような気がする。

 日曜日、正確には月曜になってからの夜中。スペイン時間でいえば21日の日曜日に、Facebook に動画が載っていた。クラシックなカポーテ捌きで、きれいなメディア・ベロニカを決めていた。それは、闘牛を見始めた頃に観た、ベロニカに似ていた。誰なのかは、全然わからなかったが、非常に印象に残るものだった。月曜日の夜になってそれが誰かが判った。ベンタスのドミンゴ・デ・レスレクシオンに出た、ファン・オルテガだった。ベンタスのホームページを見たからだ。カポーテだけでなく、落ち着いたムレタ捌きもしていた。何より、「間」の取り方が良いなぁと思った。

 それで、セビージャ出身というのが判って、下山さんへ連絡したら、セビージャ近郊のエシハ出身の闘牛士で、ペペ・ルイス・バルガスの生徒だったということが判った。ロカ・レイの闘牛のことがあったので、動画の印象はより強くなった。闘牛観始めて10年くらいたったころに、ベンタスのアフィショナードが、最近の若い闘牛士はまともなベロニカを出来るやつがいないと嘆いているという、話を訊いた。闘牛を見始めた頃は、ラフィー・デ・ラ・ビーニャ、フェルナンド・セペダ、オルテガ・カノ、ホセリートなどベロニカでベンタスを沸かせていた。

 チクエリナやラルガ・カンビアール(ポルタガジョーラ)、ファロールなど必要ない。シンプルなベロニカが出来ないと嘆くというのは、凄いことだと感心した。落語でいったら、笑いの取れる話しかしないようなもので、人情噺が出来ない落語家のようなものかもしれない。前座や二つ目のようなもので、大看板でトリを取るような噺家じゃないといっているようなもの。大看板の闘牛士になれる可能性を感じないという事だろう。若い闘牛士のそこに、不満をいっているのだと思う。

 「大盈(だいえい)は、冲(むな)しきが若(ごと)きも、其の用は窮(きわ)まらず」 (大きく満ちているものは、何もないように見えるが、それを用いても尽きることがない)--『老子』第四十五章--

 伊藤若冲の名前になるこの言葉は、考えさせられる。木でもそうだが、根がしっかりしていなければ、大木にならない。枝葉ばかり気にしていては、根も幹も太くはならない。アフィショナードは、たぶんそういうことを感じているのだと思う。何でもないようなベロニカ。それは、片手でやるムレタ技とは難しさが違う。利き手じゃない方とのバランスが取れていなければならない。この感覚がしっかり出来ないと、片手でやるムレタの操作も身に付かないだろう。その重要性は、木の根であり、幹なのだ。ファン・オルテガのそれには、昔の闘牛士がやっていたベロニカを感じた。そういう可能性を感じた。彼が、セビージャのフェリアに出れるようになることを祈る。オルテガ・カノのように、30代になって化けるかもしれない。そうじゃないかもしれないし、それは、これから観て行こう。


 4月25日(木) 雨のち曇 10222

 昼前には雨が上がる予報だったが、霧雨は振り続いている。傘をささずに歩いていると、うっすらと濡れる。帽子をかぶってれば、さほど気になるような雨ではない。昼食後、用事をすませら、銀行のATMに長目の行列が出来ていた。土曜日から10連休になるのと、給料日のそれが、重なっているから出来た行列のようだ。

 若冲が宝暦7年(1757年)から10年の間に『動植綵絵』30幅『釈迦三尊図』3幅を描き上げるが、その間の明和元年(1764年)に、四国の金刀比羅宮の奥書院襖絵を描く。そんな暇がないはずなのに。佐藤康弘の『若冲伝』には、四国まで行っている暇がないので、ほとんどは京都で仕上げたということが書かれてあった。辻惟雄の『若冲』や河治和香の書く小説『遊戯神通 伊藤若冲』には、実際行って描いたと書かれてある。どっちが正しいかは、分からないが、後者の方に信憑性あるように思うのだ。特に河治和香の物語は、弟子を連れて行っている。これが素直にそうだと思える話だと思う。

 グラナダのフェリア・デル・コルプスのアボノの切符12500席は売り切れた。凄いもんだ。6月の20日からのフェリアなのにもう売り切れ。これも全てホセ・トマス効果という事だろう。24日の時点で闘牛場のタキージャに貼り出されて、ネットで観ても1枚も残っていない状態だ。ネットで調べたら、情報源によって、グラナダの収容人数は、14500という処と、12400といういう処があったが、闘牛場のホームページには、14500席と書かれていた。記憶が確かなら、レグラメントには、当日券販売をするようになっているはずである。それと、1日券の発売もあるはずだ。14500席の内、残りの席は、2000席。当日券500席くらいと考えると1日券は、1500席くらいになるという事だろう。この現象は、どれだけアフィショナードが、ホセ・トマスを待ち望んでいるかが判る現象だ。

 闘牛場のインフォメーションをあたらめてみると、アボノ更新は、4月9日から4月12日まで。新しいアボノは、4月9日から6月6日まで発売する。1日券は、6月7日から発売。時間は、10時から14時まで。16時半から20時半までと、記載されている。


 4月26日(金) 雨/曇 15210

 昨日から降っている雨が続いている。そして、寒い。冬服をしまった人は、あわててまた出した人も多いと思う。遅咲きの八重桜の花びらが、雨に濡れて地面に落ちて色が変わってきている。弟は花粉症で、ボーとなっているという。こっちは鼻水はましになったが、ティッシュは必需品だ。連休始めは、1日の寒暖差が10度くらいあるというので、風邪が悪化しないようにしたい。夕方、カレーを作り食す。

 6月サン・イシドロ後のラス・ベンタス闘牛場の闘牛は、トリスタの牛の牧場が出るようだ。ドロレス・アギーレ牧場と、パルティード・デ・レシナ牧場。


 4月27日(土) 曇/雨 8560

 寝坊して朝ドラを観ずに、上野松坂屋、『北海道物産展』へ行く。『プロフェッショナル 仕事の流儀』でやっていた、唯一北海道在住で、北海道物産展専門のバイヤー本田大助がやるこれを楽しみに待っていた。ゴールデンウィークにこれをぶつけてきたのは、勝負に来ている。静岡でもやって、名古屋と同時開催。昨日の夕方テレビでもやっていた幻のイトウが食べれる丼は1日限定10食。11時抽選があって、やっぱり外れた。札幌の中華そばカルフォルニアは、長蛇の列。20人以上並んでいた。これは諦めて、新ひだか町のドライブインアベの浜のかあさん弁当を食べた。真ん中に海水でゆでたウニ。手前に秋サケの昆布塩麴漬け、向こうに昆布の佃煮合わせが乗っている。サケの漬けが口の中でとろける。ウニはインパクトが落ちる。メインはこっちの方だ。このサケの漬けは美味しい。これだけ食いたいくらいだ。

 プリンやアイスクリームも美味しそう。海鮮物では、ワサビ漬けなど試食したが美味しかった。弁当やイートインの丼物をある。干物もたくさんある。牛肉のステーキ弁当もある。目移りする。そして、人気店には長蛇の列が出来ていて、通路が通りにくい。変り者では、セイコーマートのバタークロワッサン。このバターが完熟バターを使っているのだという。地震の震源地に近い厚真町のメイクインを使った揚げたてポテトや、ジャガイモとイチゴソルベのジェラートもあった。シシャモだって、昆布だってある。本田大助がどうやって北海道を売り込もうとしているかが、判る物産展だ。

 ラーメン食いたかった。カルフォルニアがこれだけ人気だと、次の札幌の麺’s菜ケ蔵や、その次の利尻ラーメン味楽は、大変な混みようになるかもしれないと、思うとぞっとする。


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