台湾日記  2003年6月〜
 
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7月29日
独創的な日本人
○ 日本人には、独創性がないなどという議論は、やめればよいと思う。そんな事を言うのは、ものを知らない一部の日本人くらいで、まっとうな外国人にそういうことをいうと、怪訝な顔をする人の方が多い。

○ コーラ、ハンバーガー、自動車が、実質上、アメリカ人の発明だというのなら、養殖真珠、トランジスタラジオ、ビデオ、デジカメ、薄型テレビ、は、日本人の発明だ。余暇に関するアイデアがないというのなら、カラオケ、テレビゲームがある。文化に疑問があるなら、アニメを見せればよい。それとも、スシとテンプラを食わせるか。この50年程で、日本から出た世界的商品は、上記の如く、枚挙に暇がない。さて、フランスが、イギリスが、イタリアが、これだけの商品を提案したかと思いを巡らすと、勝った負けたはくだらぬのでやめるにしても、日本人に独創性がないなどとは、いえまい。

○ 独創性がない理由として、いわく、「同質社会だから」、「画一的教育」、「出る杭を打つ組織原理」、「農耕社会」などと言われている。それらの理由は、愚痴の積もる毎日を過ごしている我々凡人には、いちいちうなずける事では、ある。しかし、「独創性がない」という結論は、明らかに間違っているのだから、その論も、あらかた間違っていると考えるべきだろう。

○ 台湾の会社に、「日本の会社が面白い技術を開発しましてね。」というと、みんな、「何が出て来るのだろう。」と、期待と好奇の目を向ける。シリコンバレーでも、一目おいてくれるだろう。傲慢になってはいけないが、自分達の力量と、それに対する外部から見たイメージとは、できるだけ過不足なく正確につかんでおきたいものである。

○ そして、むしろ反対に、どうしてこれほど独創性があるのか、もっとこの独創性を活かす道がないかと、考えた方がいいのではないだろうか。


7月28日
パラレルワールド2 (長いので要注意!)
● 以前書いた(ココ)、パラレルワールドというエッセイについて、アメリカ在住のナノバイオテクノロジーの専門家Kさんからコメントを頂戴しました。全くどういう経緯でこんな拙HPを読んでくださったのか、未だに分かっていませんが、楽しくmailの往復ができました。こういう風に見ず知らずの方と内容の濃いやり取りをするのは、本当に個人でHPをやっていて至福の時です。往復したmailを適当に順番を入れ替えながら紹介します。

● Kさん
実験としての経済の Computer Simulation の話なのですが、最近の自然科学や工学系分野やネットワークゲームでのSimulation実験という考え方はもう一度冷静に考えてみる必要があるように思うときがあります。多分エンジニア出身のらくちんさんは別の見方をされているのだろうと思いますが・・・(その辺が
貴サイトを読んでいておもしろいのですが、見方の違いというのが)


● らくちん
いやあ、エンジニア出身と言っていただいて、ちょっと喜んでしまいました。(らくちんの内心:ふむふむ。いい人に違いありません。)お世辞かもしれませんが、単純に喜ばせてください。ちなみに、僕は、法学部出身で、会社も商社、仕事は営業と、根っからの文科系です。

● Kさん
ご出身は法学部とは、実は全く思っておりませんでした。以前ローテクとハイテクについてお書きになったものなど(ココ)を拝見しても技術系・理科系の人間の日頃思っていること、本質を見事についておられます。

○ その後に続くKさんの最初の問題の提起をまとめると次の三点でした。内容は、とても面白いのですが、長くなってしまうので、要約させていただきます。
科学において、ネットワークゲームなどのシュミレーションに期待しすぎないようにした方がいい。
その理由は、
1)古い理論の確認に使って喜んでいるが、新しい理論の構築に使えていない。
2)製品化など実用面では、余り役立っていない。
3)最も取り入れているように見える経済学でも、経済理論というドグマにとらわれていて、
『測定可能な量の間の正確な定量的数理科学的関係』を正面から分析していない。

● これに対する、らくちんのお返事です。
今の経済理論に対する不満というのは、僕もそのとおりだと思います。今の経済学というのは、教科書をめくると微分、積分の式の入った数学の教科書のような外観で、いかにも「科学的」なふりをしています。しかし、数学が適用できるように、社会にとって本質的な部分まで切り捨ててしまっているので、結論は、「あたりまえ」のことになり、なんの役にもたちません。独断で言えば、煎じ詰めれば、「100人の人が10円ずつ持っています。式で書くと、100x10=1000。 従って、資産の合計は、1000円です。」のような、あたりまえのことを複雑に言っているだけです。これでは、仕方がないので、色々な学派が、「宗教」的に、あたりまえではない、意味ある主張をするのですが、今度は、理屈がはっきりしません。「100x10=1000である。従って、赤字国債を発行して公共事業に投資せよ」と言われても、論理が飛躍していて、ピンとこないですね。

○ 僕(らくちん)は、文科系の学問は、科学ぶりっこをやめればいいと思っています。もともと、文科系の学問(科学とは言いがたい「社会科学」といわれている分野)というのは、最終的には、「大勢の人間の幸せ感」といった、測定不可能な結果を最大化するための技術を目指しているのだと思っています。また、人間の能力というのは、有限であり、一方で、環境は、無限に多様です。従って、そもそも人間が全てを理解し、社会でおこることを完全に制御するなど不可能です。つまり、方法自体も、科学的にコントロールできないと思います。「制御不可能な方法を使って、測定不可能な結果を得る。」という、なんとも不思議な課題に答えなければなりません。しかし、社会は、今日も回っており、人間は、明日も生きているので、今、なんらかの結論を出し、行動をしなければなりません。

○ 冷静に考えると、貴兄のご指摘の通り、工学や医学の世界では、既にこういうことに対応しているように思えます。医者の友人に聞いたのですが、いい薬でも、何故効くのか、詳細なメカニズムが分かっていないものが、一杯あるそうです。工学の世界でも、理論の解明は完全にはできていないが、とにかくこうすれば歩留まりがあがるというようなことは、よくあります。理論が完全には不明確でも、実験で有効性が確認されているので、使っちゃっている例は、枚挙に暇がありません。

○ これに似たようなことを、文科系の学問でするとなると、歴史に学ぶしか方法がありませんでした。「恐慌の時に、公共事業を増やすと効果があったようだ」等々。このような、「理屈はよく分からないが、有効」という方法を見つけ出す手段として、シュミレーションというのが、使えないかと思っています。従って、僕の感覚では、文科系の学問が科学的になるためというよりも、科学ぶりっこを諦めた時から、シュミレーションが役立つような気がします。貴兄のご意見も合わせて考えてみると、「シュミレーションなんて、科学的ともいいがたいし、余りあてにできないが、少しは、役立つヒントぐらい得られるかもしれない。」と、そういう立場が正しいような気がしました。

○ ところで、経済の事象において、貴兄の述べておられる『測定可能な量の間の正確な定量的数理科学的関係』を正面から分析しようとしているのは、グリーンスパン氏かもしれません。「経済理論」に対して、実に冷淡で、一方、データの収集と分析には、オタク的な執着を感じます。ただ、外に出てくる彼の言動は、べたべたに政治的バイアスがかかっているので、本当の彼の分析結果は、見えないのが難点です。

● 上のらくちんのMAILに対する、Kさんのお返事
Simulationが物理学のように基本法則に基づいている場合、一部の工学や医学のように基本原則はまだはっきりしない場合(=存在するかどうかも分からない場合)どちらでも、結局は観察事実とSimulationとの客観的比較をきちんやるか・・・あるいは実験で検証されているかどうかは重要ですよね。人間の思い込み(理論・学説)をComputer Animation (Movie)に置き換えただけのSimulationは余り役立たない。・・・という事が言いたかったのだと自分の考えを整理してみると、今回頂いたメッセージのなかのらくちんさんのお考え、特に文科系の分野でのSimulationの有効性、将来性にはむしろ賛成というか、肯くところ大です。

○ 自然科学の立場かららくちんさんのお考えをサポートするとすれば、物理学の熱力学とか電磁気学など最初は「理屈はよく分からないが、有効」な (あるいは変な数式だけど妙に実験に合う・・・量子力学がそうですね・・・)数学的定式化が後世、法則と呼ばれるものになった例が多数あります。というか自然科学とはそういうものかもしれませんが。文科系の分野にSimulationを導入してイデオロギーや有名な学説からは別のところから役に立つことが出てくればそれにこした事はありません。研究や実験はあくまで人間の役に立つためにやっているわけですから。


● (らくちんの内心)
量子力学を「変な数式だけど妙に実験に合う」と言っちゃうあたりが、いかにも良く分かっている理系の方という感じで、文化系の人間は、「素敵!」と思ってしまうのです。

● Kさん
最後に、私はif を考えない歴史は無意味だと思います。伝記が面白いのは一人の人間の一生、運命という自分の現実と比べながら、if を考えながら(Simulaiton)読むことが出来ること。パラレルワールドです。

○ 20世紀最大の歴史のif は私にとっては日英同盟の存続。別に対英米戦争をしなくてすんだかどうかの問題じゃないのです。日英同盟が今もあると考えたらどうなるかという問題です。多分、米国の運命も冷戦のあり方も全く違ったことになりましたでしょう。今回のイラク戦争も。そして今後の日本のアングロサクソン同盟路線のすすむべき道も。たぶん対インド、対豪州関係も。そして対大陸中国政策も、台湾の運命も。


● らくちん
日英同盟については、「もし」、維持されていれば、日米開戦は、避けられた可能性が高いと思っています。もちろん、どこかで、大陸での権益を大幅に放棄するような、思い切ったことを国内世論の激昂に逆らって実施しなければならなかったは思います。しかし、日米双方にもう少し正確で公平な情報が渡り、バランスのとれた判断を促し、日米開戦を回避できた可能性は高かったと思います。

○ (ここで、以前お送りしたMAILをコピーしていて気付いたのですが、日米戦回避以外の効用について、答えておりませんでした。Kさんに書き送りはしませんでしたが、今思うと、確かに、「もし」日英同盟維持により、大陸の権益を放棄し、日米戦回避をしていれば、日本の民主化の進展、冷戦の早期終結、朝鮮半島、ドイツの分断国家の早期解決などが実現していたかもしれません。台湾については、日本の一部になっていたのか、国民党支配になったか、共産党支配になったか、変数が多すぎて見当もつきません。)

○ ご存知かとも思いますが、岡崎久彦氏が、再三、アングロサクソン国との同盟の重要性を述べています。僕は、「アングロサクソンとの同盟」というのは、人種の違いを過大視しているにおいがして、どうも好きになれませんが、海洋国同盟という理解は、成立つような気がします。陸続きの隣国があるのとないのとでは、安全保障に対する考え方が、全然違うようです。

○ 最後になりますが、おっしゃるとおり、「IFのない歴史には、意味がない。」と思います。あの部分は、政治的配慮(?)が、筆を滑らせちゃいました。こう書き直す必要がありますね。

○ 「違う決断をした場合の別の人生なんて、味わおうとしても味わえないのだから、考えるだけ無駄。」と上司や家族には、言っているのだが....


7月27日
何用あってイラクへ
○ 何用あってイラクへ。イラクは殺されるところである。

○ 山本夏彦の名セリフに、「何用あって月世界へ。月は眺めるものである。」というのがある。イラクへの自衛隊派遣をめぐって、国会議員がドンちゃん騒ぎをしているのをみて、ふと思い出された。

○ 僕自身は、別に絶対反対でもないし、どちらかというと、ここらあたりの判断については、小泉氏の判断に近いものを感じるほうだ。しかし、現実に行く場合には、「国会で勝った負けた」や、「ブッシュ氏の機嫌をとれたとれなかった」ということよりも、ほぼ占領状態にあるイラクの人々の気持ちと、派遣される自衛隊の人の命とを、第一に考えて欲しいと思う。派遣を決めてから後は、それまで甘受できたアメリカの「対日太陽政策」とは、無縁の事柄である。


7月26日
徒然草とパソコン
○ 桜の花は盛りのときばかりに、また月は一点の雲もないときにのみ、見るべきものであろうか。(一文略)むしろ、いまにも咲きそうに見える梢(こずえ)や、逆に花の散りしおれている庭などにこそ、真の見所は多いといえる。(「徒然草」137段 山崎正和訳)

○ 日本に出張した折に、ふと山崎正和訳の「徒然草」(学研M文庫)を買いました。「台湾つれづれ」を名乗る以上、読まねばなりますまい。高校生の時に授業で読まされたときは、理屈っぽさもピークを極めた歳頃故、その矛盾に満ちた言葉と、例外の多い古文の文法に、いちいち癇癪(かんしゃく)をおこして、3分と読めませんでした。今、徒然草を読むと、訳者のたおやかな、そして、落ち着いた文体のおかげもあって、それこそ、趣(おもむき)深く読むことができます。

○ この本では、流麗な現代語訳に加え、訳者の秀逸な「あとがき」がついています。徒然草は、「一見するといたるところに矛盾に満ちた主張や判断を併存させてゐるが、おそらくその矛盾こそが、じつは著者のほんたうの主張の内容なのである。」としています。そして、全編をおおいつくすように記されている「無常観」ですら、傍らで「無常観」とは対極にある人生のあらゆる些事や雑事にあくことのない好奇の目を向けることによって、一貫性の徹底を拒否しているとしています。最後に、訳者は、高校での授業とは正反対の内容を静かに語ります。「兼好の思想から無常観ばかりを読みとる時代は、今、少しづつ過ぎ去りつつあるように思はれる。」訳者が指摘するように、日本の文化には、「根本において理想を認めながら、あへてそれに向かって徹底することを拒む思想」が広く認められるように思えます。

○ 話は、全く変わりますが、日本が、パソコン産業でどうして負けたのだろう。というのを、出張の道すがら考えていました。半導体、LCD、充電池等あらゆる要素技術を最高水準でもっていた日本。また、自動車産業でもすばらしい実績を残したように、要素技術を組み合わせ統合する天才である日本。その日本の電子産業が、パソコンでは、もはやアメリカと台湾の分業と協力に完敗といっていい状態です。

○ 「能力構築競争」(富士本隆宏、中公新書)によると、日本が競争力を未だに維持している自動車は、「クローズな擦りあわせ型」製品であり、完敗してしまったパソコンは、「オープンなモジューラー型」製品です。パソコンは、大きな部品から、その部品を作るのに使われている小さな部品にいたるまで、細部まで規格化が一貫して徹底された「オープンなモジューラー型」です。以前にも書きましたが、規格化が徹底しているので、最終組み立てなどは、部品をばらばらに買ってきて、小学生が適当に組み合わせても、簡単に動きます。(ココ)そして、どうやら、日本人は、この「オープンなモジューラー型」製品の産業に、からきし歯がたたないようです。

○ 日本は、同質社会などと浅薄に語られることもありますが、実は、この「徹底して規格化する」ということの苦手な社会のように思えます。桜の絵を描くときに、すべての花びらを欠けることなく満開に描くなどということは、ありうべかざることであって、どうしても、散る花、今にも咲きそうなつぼみを書き加えなければ、気がすみません。こうした、徹底して理想を求めながら、最後の一点において、一貫性を拒否する姿勢は、自動車の「差別化」には、成功しましたが、パソコンの「価格性能比競争」には、失敗したようにみえます。

○ とはいえ、全ての産業に勝ってしまうというのは、また、はしたなく、興ざめなことのように思えます。これもまた、パソコン産業の一つくらい苦戦している方が、日本人の心性には、趣深いものかもしれません。


7月23日
多いとみっともないもの
玄関の靴。仕事のスケジュール。さいふからはみだした領収書。愛の表現。
一方で、多くてもみっともなくはないもの。オフタイムのスケジュール。


7月14日
暑い台湾
○ いやあ、暑いです。言えばなお暑くなると思っても、言ってしまう。暑い。

○ 昼食をとるために、道路にでると、これがまた暑い。日光がさんさんと容赦なく降り注ぐ。日光消毒されるバイ菌の気持ちが分かります。空気は、暑いだけでなく、湿気も帯びているので、空気の重さをまったりと感じてしまいます。まるで、プールの中を歩いているようです。暑い。アスファルトの照り返しがまた、暑い。フライパンで焼かれて飛び跳ねている海老の気持ちが分かります。フライパンに生卵をのっけて、道路の上においておけば、卵焼きができるのではないかと思うほどです。暑い。

○ 今年は、例年より暑くなるのが遅かったと思います。いつもは、5月中にはせみが鳴きだし、6月には、夏が始まる感じですが、今年は、本格的に暑くなりだしたのは6月下旬でした。しかし、それからが暑かった。たまりません。

○ 人間のセンサーなんて、ある程度以上になると、針が振り切れて違いが分からないものなのでしょう。暑さの程度自体は、日本の真夏の暑さと変わりません。日本では、8月上旬の10日間程しかないひどい暑さが、台湾では、約3ヶ月あるようなものです。しかし、あれが、3ヶ月ですよ。あれが。もとい、これがあと3ヶ月続くのですよ、これが。

○ と、言っておきながら、明日から、出張で台湾を離れます。次の更新は、26日頃になると思います。よろしくお願いします。


7月12日
パラレルワールド
○ SFなどで、今自分が生きている世界と、全く同じもう一つ別の世界が並行して存在すると、仮定することがある。パラレルワールド(並行して存在する別の世界)の話である。ゲーム業界の人からのうけうりだが、今、ネットワークゲームの仮想空間では、このようなことをごく日常に行っているとのことである。

○ まず、パラレルワールドの話。SFなどでは、色々なヴァリエーションがあって、全く同じ世界がもう一つあるという話や、似ているけれども何かが違う別の世界が展開しているという話などがある。「歴史にIfはない」というが、なにも歴史にかかわらずとも、市井の人が、就職や結婚の決断について、「あのとき、違う決断をしていれば今はどうなっていただろう。」と思うことは多い。自分が別の決断をしたときには、その影響で回りの環境も違った状況になるわけで、そこでは、全く別の世界が展開する事になる。僕などは、「違う決断をした場合の別の人生なんて、味わおうとしても味わえないのだから、考えるだけ無駄。」と思ってしまうのだが、ネットワークゲームでは、こうしたことが平気で行われている。

○ では、ネットワークゲームの話。今、本格的なネットワークゲームでは、宝捜しや格闘をする場所だけでなく、銀行や病院まであり、同時に何万人という人が、同じ世界に入っている。各プレイヤーは、自分で選び特徴付けしたキャラクターを操り、この仮想空間で、他のプレイヤーと格闘し、会話し、グループで冒険に出かけ、ゲーム内通貨を払って買い物をする。ゲームによっては、格闘よりも、他のプレイヤ−との会話の方が重視されているものもあり、コミュニティーのようになっている。

○ 一部のネットワークゲームでは、主に、参加人数が多くなりすぎた時の対応の為に、パレレルワールドを設定している。まず、同じ仮想空間(=場)に、余りの多くの参加者があると、単純に考えて、画面上にキャラクターが重なって見えにくい。例えば、銀行の前に30人ものキャラクターが重なるとどれが自分の知り合いか分からなくなる。そこで、「見た目も設定も同一世界だけれども、画面で見ることのできる参加者は、違う」という仮想空間を複数設定している。それぞれの仮想空間上では、建物も配置も全く同じで、別のパレレルワールド(仮想空間)にいる友人とも会話ができる。自分がA1の空間にいて、A2の空間にいる友人と、銀行前で待ち合わせをして、会話が出来る訳である。ただ、相手が見えないだけである。丁度、透明人間と話しているようなので、これはこれで興味深い。空間から空間への移動も自由なので、友人と連絡をとりあって、同じ空間に移動し、相手を見えるようにすることもできる。

○ もう一つ別のレベルのパラレルワールドがある。見た目の仮想空間上の建物や、施設の設置は、同じであるが、その中で動く参加者や、時にはルールが少し異なっていたりする。このレベルで異なるパラレルワールド間の移動は、できない。つまり、ユーザーが一つの世界Aから、別の世界Bに移ろうとすると、一度ログアウト、ログインをし、自分の分身であるキャラクターとニックネームの設定をやり直して参加することになる。これは、「見た目は同じだが、別の世界」である。このレベルの世界(A)の中に、先に述べた「見た目も設定も同一世界だけれども、画面で見ることのできる参加者は、違う」という世界(A1、A2、...)が複数あるわけである。この場合は、その仮想世界の最初の初期値が同じであるにもかかわらず、時間が経つと、どんどん違いが大きくなってくる。

○ ここからようやくゲームやSFと関係のない人にも興味の湧く話になる。先の「見た目は同じだが、別の世界」のパラレルワールドで、時間が経つと、通貨の価値が大きく違ってくる。銀行も公園も商店街も同じ場所に同じデザインであるにもかかわらず、同じハンバーガーに別の値段がついている。それこそ、クルッグマンが聞いたら(知っているかもしれないが)、喜びそうな話だが、何らかの形で定期的にその世界に通貨をばら撒く設定をすると、インフレが起こり、物の取引きが活発化する。

○ こうなると、経済学者なども、色々な実験をしてみたくなるのではないだろうか。仮想空間上のパラレルワールドは、なんといっても社会科学系でなかなかできなかった「比較実験」を可能にするのが、面白い。これからますますネットワークゲームの人気が出れば、開発者も増え、開発を手助けするソフトウェア(開発キット)も進歩する。開発キットが進歩して、今の表計算ソフト程度に安くて簡単になれば、世界中で色々なパラレルワールドを使った実験が進むかもしれない。ひょっとすると、ビジネスマンがそういうシュミレーションソフトを、今の表計算ソフトのようにごく日常的に使う時代が来るかもしれない。それはそれで、また、「別の世界」のようである。


7月9日
SARSエピローグ
○ WHOは、7月5日に台湾を感染地域から除外し、SARS終息宣言をしました。一区切りついたところで、ちょっと後日談のようなものを書き並べてみます。

○ マスク
日本人駐在員の中で、家族を日本に帰すべきかどうか随分迷ったあげく、家族が台湾に居続けた家では、感染を防ぐ為に神経を使いました。ゆっくり考えてみると、家族は、日本人学校と近くのスーパーくらいしか行かないので、ほとんど感染の可能性はなく、SARSを持ち込む可能性があるのは、お父さんくらいしかありません。ある日、お父さんが、家に帰ると、家族みんなが慌ててマスクをした、という話がありました。

○ VCD事件再び(01年12月29日)
もう制圧したと思われた7月初めに、一人の台湾人男性がSARSの疑いありで、成田で隔離されました。結局、インフルエンザでしたが、この人は、台湾では、ハンサムなマスクと立派な一物で有名な人でした。というのも、ある女性政治家がこの妻子ある男性とことに及んでいるビデオが、VCD(Video CD)に録画され、スキャンダルとして写真週刊誌に添付され発売されたからです。(ココ参照)雑誌は、すぐに発売停止となりましたが、みんなそのVCDをコピーしてみたものです。多くの人が電子MAILに添付して送るので、サーバーが容量オーバーで停止した企業もあったそうです。

○ 馬偕病院
日本に観光旅行に来ていた医者がSARSに感染していたことが分かり、日本で大騒ぎしましたが、あの医者の勤める馬偕病院は、実は、とても良心的なことで有名だったのです。馬偕記念病院は、キリスト教長老教会を台湾の北部に導入したカナダ牧師馬偕(マカイ)先生が創設した百年以上の歴史をもつキリスト教長老教会の付属病院です。困ったことがあれば、院内専属の牧師や社会福祉部のボランティアがすぐ駆けつけてくれ、台湾初の無料電話相談「命の電話」「生命線」も行っています。院長先生は、医者に厳しく、患者には優しい立派な人だと言われています。病院側は、この医者と共に、日本の人に明確に謝罪表明をし、一方で、この日本旅行した医者を処罰しなかったのですが、僕は、この処置を妥当なものだと思います。

○ 小豆島で、コンサートを行った台湾人歌手
SARSに感染した台湾人医師が宿泊したことで、キャンセンが相次いだ「小豆島グランドホテル水明」(香川県小豆島)に、石川県在住の台湾出身の女性歌手、寒雲(カンウン)さん(48歳)が全室を借り上げてコンサートをしました。費用200万円は、子供のためにかけてきた保険が満期になるので、それを寄付することにしたそうです。「同じ台湾人が蒔いた種だし、ホテルが安全宣言を出しても、みんな遠くから怖がって見ているだけ。自分が行動を起こし、一つのきっかけになればいいと思った」「99年の台湾での大地震の際、日本人が復興を助けてくれた。SARS禍を目にし、居ても立ってもいられない」と知合いの美川町長に涙を流して訴え、売名行為や政治的行為とならないように慎重に方法を選んで、実行したとのことです。キャンセルなどで約2400万円の損害を受けたこのホテルが、200人を無料招待することを決めたところ、6月10日の時点で、7000人以上の申し込みが殺到しました。ホテルの社長も、大喜びで、この日を小豆島の再出発の日としたいとのことです。

エエハナシヤナア。


7月7日
可能性の政治
○ 前回(ココ)は、民主党も、抵抗勢力も、小泉氏に対抗するには、政策や人柄よりも、政治スタイルの違いをはっきりさせるべきだということを書いた。では、どういう政治スタイルをどういう風にアピールできるだろうか。ここまで政局話に近くなると、僕も、殆ど自信がない。テレビで野球を見ている酔っ払いのいう奇抜な作戦、程度に受け止めてもらいたい。

○ まず、「可能性の政治」というアピールである。以前にも書いたが(ココ)、小泉首相は、否定形の使い方が巧い。「構造改革なくして、景気回復なし」が代表例であるが、いたるところで使っている。そして、彼の破壊者としての役回りと、彼の好きな短い否定形の表現がうまく適合し、世論の支持を得るのに効果的であった。これだけ、形勢に差がついていれば、彼に対抗する人は、この相手の長所を叩くしかない。「小泉さんは、否定形の政治です。もう、破壊者の時代は、終わりました。これからは、創造と建設です。否定形の政治を終えて、可能性の政治を行いましょう。」と言えないだろうか。つまり、「可能性の政治」vs.「否定形の政治」という構図である。

○ 「可能性の政治」というのは、宣伝のコピー用だけでなく、それなりに中身がありえるように思える。僕が思いつくだけでも、道路料金の値下げ、債権担保の為の法整備、(失業率の低下よりも)就業率の上昇を目指す政策、連結納税制の適用拡大、等々である。大切なのは、小泉氏が世論の支持を得ている点は、逆らわない事である。例えば、公共事業を増やさないという意思、安全保障に対する強い関心、明確な表現(分かりやすさ)等は、明らかに国民的合意を得ており、真似をしていた方がいいと思う。

○ もうひとつ、「暖かい政治」というアピールができないだろうか。ここでは、小泉氏の政治を「冷たい政治」と決めつけて、違いを鮮明にすることになる。破壊し、否定し、痛みを強要する冷たい政治から、創造し、建設し、喜びのある暖かい政治に変わることを目指すと言う訳である。これは、僕が個人生活で常に思っていることでもあるが、人間的「暖かさ」というのは、「優しさ」と「活力」が両立している状態だと思う。暖かさ=優しさx活力。このあたりを巧く表現できないだろうか。

○ 最後に、野党は、小泉首相と抵抗勢力の争いをもっと巧くつくべきだと思う。土井たか子氏に「なんでも反対自民党」と言わせたら、なかなか、面白いと思うがどうだろう。(ココ


7月6日
政治スタイル
○ 小泉首相に誰も歯が立たない。支持率が高く、民主党も自民党の抵抗勢力も、選挙になると勝てないのでいくら騒いでも滑稽ですらある。こういう状況は、「どちらかというと小泉支持」という立場で、つまり、「ちょっと小泉」の僕としては、どうも居心地が悪い。例えば、もし阪神が3年連続優勝しそうになったりすると、たいがいの阪神ファンは、どことなくきしょく悪いのとちがうやろか。まあ、そんな居心地の悪さである。そこで、僕なりに、小泉氏に対抗しようとする人が、どういう作戦をとればいいか、考えてみた。例えば、阪神ファンが、「巨人もあほやなあ。斎藤コーチが、自分で投げて中継ぎした方がええんとちゃうか」と無責任につぶやくようなものだと思って読んでもらいたい。

○ 自民党の抵抗勢力も、小泉氏に対抗できるような「人材」がいないという。民主党の方は、ちゃんと、党がまとまれて、且つ、自民党との違いがはっきりする「政策」が打ち出せないという。しかし、僕が思うに、そもそも「政策」や「人材」で対立感を出そうとすること自体が、失敗しているように見える。

○ 政党などが、長期的に政治的違いをアピールできるのは、「政策」よりも、「政治スタイル」だと僕は、思っている。アメリカでは、政党支持が、世襲的に行われていることも多い。「我家は、代々共和党支持ですから」てな具合である。世の中は、どんどん変わっているので、共和党の政策も、何十年も一貫しているわけではない。それにも関わらず、一つの政党に対する支持が、親子で引き継がれるというのは、そもそも、政党のアイデンティティが、「政策」ではなく「政治スタイル」だからだと思う。

○ また、本当に政権担当可能な主体同士の対立なら、現実性のあることを前提に考える事になるので、政策の違いと言うのは、自ずと限られてくる。経済恐慌への対処法で政策論争があったと思われている、フーバーとフランクリン=ルーズベルトが争った大統領選でも、両者の政策の違いをちゃんと比べると、禁酒法に対する対応以外は、ほとんど同じである。つまり、政権交代を前提に、国民の支持を争うには、「政策」は、あまり意味はなく、「政治スタイル」の違いでアピールする必要がある。

○ ところで、僕がここで言っている「政治スタイル」は、昔流行った「イメージ選挙」や「パフォーマンス」とは、違うつもりである。まず、政治に対する考え方の基礎となるもの(=政治スタイル)をもつことが大切で、次に、その基盤となる一貫した政治スタイルを、どうアピールするかということを考えるのがいいと思う。初めにイメージありきだと、人気の有る無しによって、政治スタイルを頻繁に変えているように感じられ、長い目でみると、信頼感を無くしてしまう。有権者が比較的長い目でみれば、その政党なりグループなりのアイデンティティが、自ずとはっきりと見て取れ、それが容易に変更されないと信頼できることが、大切だと思う。

○ 小泉氏は、「政治スタイル」と言う言葉こそ意識していないだろうが、十分こうしたことを意識してきた政治家だと思う。決して「パフォーマンス」に走っている訳ではない。また、政策も、実は、よく言えば柔軟、悪く言えばぐらぐらで、ある意味で、無頓着だ。つまり、政策アピール型でも、パフォーマンス型でもない。しかし、自分がアピールしようとしている「政治スタイル」の一貫性には、非常に神経質で敏感だ。政治スタイルアピール型の政治家と呼ぶことができる。

○ 小泉氏が何年か前、勝ち目もないのに総裁選に立候補し、郵政事業の民営化を唱え、見事に負けたことがある。世間では、ドン=キ=ホーテ扱いであったが、あの時に、官僚の友人が、「小泉さんは、将来、きっと首相になるよ。あれだけ、一貫して自分が変わらなければ、世の中の方が変って、時代が彼を必要とする時が来る。」と言っていた。果たして、時代が、小泉氏を必要として、首相となった。彼は、無自覚のうちに、この「政治スタイル」のアピールを心がけてきてきた政治家だと思う。首相になってみて、今にしてはっきりした訳だが、彼が、一貫して追及していたのは、郵政事業民営化などの何がしかの「政策の実現」ではなく、「一貫した政治スタイルのアピール」であったと分かる。そして、それは、大きな目でみれば、現代の民主主義が向かっている方向にあっていたようである。

○ 小泉首相に対抗する場合も、「政治スタイル」の違いを強調しなければならない。但し、「抵抗勢力」がいうような、強引な政治手法などと言う、永田町内部での批判を声高に叫ぶのは、やめた方がいい。国民は、彼のその強引さをリーダーシップのよさと受け止めており、一部の人相の悪い政治家が、「強引だ」と批判すればするほど、小泉氏の人気があがる構図になっている。国民に見える場所での「政治スタイル」の違いをアピールしなければならない。

○ 例えば、民主党の前代表の鳩山氏が、昔、「政治は、愛だ」と言ったという。とかく批判も多かったらしいが、結局は、この一言で、彼は、「大物政治家」に並んだ。これは、明らかに、「政策」によるアピールではなく、「政治スタイル」の表明である。「政治」というものに対する考え方を、簡潔に、示している。意外性があるにも関わらず、日常的な言葉であるのがいい。さすがに、「政治は愛だ」は、言葉のインパクトに見合う中身がなくて、どちらかというと、「イメージ作戦」と受け止められ、人気が持続しなかったようだが、この種のアピールが、今の民主党や、自民党の抵抗勢力には欠けていると思う。

○ 但し、「政治スタイル」をあからさまに前面にだすかどうかは、よく考えた方がいい。下手にやると、古めかしい「イメージ選挙」や「パフォーマンス」と取られかねない。世間では、まだまだ、「政策論争」という言葉に、甘美な香りが残っているようである。実際にそれに基づいて投票しているかどうかは、別にして。従って、「政策論争」の姿を借りて、実は、「政治スタイル」の違いが際立つようなやり方が正しいように思える。丁度、「郵政事業民営化」という政策を主張することによって、自らの「政治スタイル」をアピールした政治家がいるように。

○ 今回、小泉氏に対抗する政治家は、負け戦になるかもしれない。しかし、もし自分の政治スタイルを、きっちり国民にアピールできるなら、数の結果がどんなに惨敗であっても、十分価値のある戦いとなる。それができないなら、対抗してでるのは、止めた方がいい。今の首相の経歴がそう語っている。

○ 最後に、つらい告白しなければならない。関西で育った天邪鬼の僕は、巨人ファンです。


7月5日
過労死
○ NHKのニュースによると、みずほ銀行のシステムを担当していた人の自殺につき、過労死を認定したという。昨年3月にシステムトラブルが発生してから、この方は、連続36時間の作業を含む、たいへんな過剰労働と緊張した状態にあったという。

○ 僕は、このシステムトラブルが、起こった直後、昨年の4月にこういうことが起こるのではないかと心配して、下記の青字の文章を書いている。(02年4月14日 ココ)こんな悪い心配が当たってしまうのは、なんとも悲しい。そして、ここまで見えていながら、何も出来なかった自分の無力を痛感する。


現場では、少なくとも3月末には上手くいかないことが分かっていたようなので、もう2週間ぐらいが経っている。その間、殆んど睡眠もとっていない人が何人かいると思う。僕は、本気で死人が出なければ良いがと心配している。

○ 別に僕がとりわけ鋭いわけではない。システム構築に携わったことのある人なら、あのシステムトラブルをテレビでみたとき、ほとんどの人が、「これは、死人がでる。」と心配しただろう。多くの人が感じていながら、それを止められなかった。−という事実を目の前に突きつけられると、一企業の問題だけでなく、社会の仕組みの問題をも、あからさまにしているのではないかと思わざるを得ない。例えば、世論が一日も早い復旧を要請しガミガミいうよりも、それによって起こる不都合にいかに冷静に対処するかに動き、こういうことを引き起こしてしまった経営陣が、自らの保身の為に過剰な圧力を現場にかけることを防ぐ方向で動いていれば、少しは、違っていたかもしれない。これが、日本の社会の病なのか、資本主義の歴史的必然なのか、グローバリズムのせいなのか、よく分からない。しかし、命を奪うのは、明らかに間違いであり、何かが間違っているのは、確かだ。

○ この時に同時に書いた、次の台詞も世に届く事は、なさそうである。
みずほ銀行のシステムを分かっている人は、ごく少数で、交代のきかない人材だろうが、銀行の頭取や経営幹部には、幾らでも代えがいる。


7月3日
コンフェデ杯決勝
○ またまた、ピカチュ−さんのemailです。(ココ御参照)このピカチュ−さん、一度は、銀行務めをしたサラリーマンだったのですが、サッカーへの思いを断ち切れず、フランスに渡ったと聞いています。将来は、日本代表監督になってもらいたい気もしますが、今は、やはり、フランスでの現役選手としての活躍を祈っています。

○ 
こんにちは。と言っても、日本代表の話しはないのですが...、悪しからず。

 さてコンフェデ終わりましたね。決勝戦、行ってきました。この大会、満員になった試合が1試合もなかったので、決勝くらいはと観客大動員作戦が取られて、近くのクラブチームに大量にチケットが回されたそうです。それで僕にまでチケットが回ってきました。しかし、結果は4万人強...。フォエの不幸がなかったら...。

 フォエの突然の死はかなりショックでした。サンノアのカメルーン人ジャン・クロードの親友で、何度か会った事あるんですよね、フォエ。体はとても大きいのですが、すごくやさしい人で、ファンだったので残念です。

 決勝の試合内容はそれほど印象に残るものはありませんでしたが、試合前と試合後のセレモニーには胸が熱くなりました。そんな中でも、アンリのスピードと技術は群を抜いていました、巧かったです。ところでアンリってむちゃくちゃ大きいってイメージないですよね?ほっそりしてますし。でも、今回近い距離で見たのですが、大きかったです。身長188cmあるから大きくて当たり前なのですが...。あれだけ大きくて、速くて、巧かったら手付けられませんね。10番のジュリー(165cm)と並んでいたのですが大人と子供でした、頭一つ分以上の差でした。

 7月に入り、練習開始まで後2週間になりました。自主トレしっかり頑張ります。来週には労働許可が下りるかどうかの結論が出ます。ちょっとドキドキです。

 ではでは、また。



7月2日
動産・債権担保の公示制度
○ 以前、この台湾日記で紹介した(ココ)銀行マンのXさんからmailを頂きました。

○ 貴ホームページの「台湾日記」に「日本版UCCファイリング制度」(ココ)として主張されていた件に関し、本日付日経新聞3面に掲題の記事が出ていました。
すばらしい問題意識の的確さ、先見性ですね。軽い興奮すら覚えてしまいました。貴地でも日経新聞は購読されていることとは思いますが、版のちがいや、万一、見落としがあってはと思い、一刻も早くお知らせしたいと思いました。


○ ありがたいことです。正直言って、記事の内容よりも、こうして、急いでemailを下さるXさんの心の方に、僕は、ちょっと涙目になってしまいました。本当に、ありがとうございます。

○ 台湾の日経新聞にも書いてありました。かなり大きい記事でした。法務省が、動産担保の公示制度の新設や、債権の担保制度を整備し、中小企業の資金調達の為の環境整備をする。2004年に関連法案を国会に提出する事を目指す。というのが記事の内容です。

○ 内容的には、企業に番号をつけてインターネットで公示できるようにすることこそ言っていませんが、主なポイントは、僕の5月6日の提案と、ほぼ同じと言えるでしょう。よくしたもので、この新聞記事でも、僕の提案と同様に「動産担保などの公示制度としては、米国のファイリングシステムが有名。」とされています。

○ 更に、この記事によると、「全国の資本金1億円以下の中小企業の総資産の内訳は、売掛金80兆円、在庫約44兆円と全資産の4分の1を占める。」とのことです。もちろん、この法律ができたからと言って、124兆円(80+44)の景気浮揚効果があるとは、いいません。しかし、道路や建物のハードのインフラを作るよりも、こういう「ソフト(=仕組み)の環境整備」の方が、広く大きな影響を与える事ができると思います。また、仕組みの環境整備だからといって迂遠な方法とは、いいきれません。民間企業にとっては、公共事業が回りまわって自社への注文になって来るよりも、銀行から容易に現金の手当てができるほうが、却って直接的とすらいえます。

○ 僕が特別すごい発明をした訳でもなく、90年代にアメリカにいたビジネスマンの何人かは、Xさんや、僕と同様の問題意識を共有していたと思います。この10年、数百万円の資金繰りに苦しみ倒産したり、大口受注を諦めた中小企業は、数多くあると思います。この環境整備を10年前にしていれば….と僕以上に切実思う人がたくさんおられる訳です。そう思うと、自分の提案と同じ内容の新聞記事が出ていても、なんだか複雑な心境になってしまうものですね。

○ いやいや湿っぽくなっては、いけません。こういう風に、自分で書いたのと同じ意見が、新聞にでたり、それを、熱心な読者が見つけて教えてくださったりというのは、本当に、ホームページをやっている醍醐味だと、改めて、感激しました。Xさん、ありがとうございます。


7月1日
空洞化
○ 空洞化について日本以上に心配されている台湾に関し、みずほ総合研究所が、「台湾の「産業空洞化」問題と台湾経済の進路」という面白いレポートをだしている。結論から言えば、台湾の海外直接投資は、産業空洞化を引き起こしていないとしている。この問題は、「産業空洞化」の定義にもよるとしながらも、産業空洞化を「対外直接投資の増加により、国内製造業が持続的に弱体化することで、経済の成長力が長期的に低下すること」と定義するなら、台湾で「産業空洞化」は、起こっていないという。

○ 台湾では、1987年に、海外送金規制の緩和が行われてから、海外直接投資は、拡大している。最近でも、2000年からこの3年は、毎年70億米ドル以上の対外投資をし続けている。その状況の下で、次のような数字を見ることができる。
−製造業付加価値生産額の実質伸び率: 97年〜01年で、年平均3.5%と高い伸び率
−労働生産性(=生産指数/総労働時間):92年〜96年4.9%、97年〜01年5.5%(年平均)と高い伸び率
−貿易収支:76年〜02年まで一貫して黒字。
−世界輸出総額に占める台湾の輸出総額のシェア:87年以降2.0〜2.5%の間で推移
唯一、マイナス材料といえるのは、製造業の従業者数で、92年〜96年が−1.4%、97年〜01年が+0.3%で、概ねマイナスである。つまり、海外投資により国内産業が、競争力を失ったり、生産性が落ちたりは、していないことが分かる。これでは、「空洞化」を問題視するにも、限界があると思う。

○ 台湾の例を見ていて気付くのは、産業の高度化をスムースに行えば、産業の弱体化は、おこらない。製造業の雇用吸収力の減少に対しても、サービス産業や、高度の技術者の需要は高まっており、労働力需給のミスマッチを巧く解消すれば、問題は、深刻にならないと分かる。

○ もう一つ。産業空洞化について、2002年の日本の経済財政白書が、日本の対外直接投資と国内設備投資の関係について、面白いコラムをのせている。(コラム3-1)空洞化を心配する人達を中心に、対外直接投資が増加すると、国内設備投資が減少し、空洞化が起こると思われている。しかし、統計上は、対外直接投資が増加すると、同時に国内設備投資も増加し、対外直接投資が減少する時は、同時に国内設備投資も減少する。結局、海外直接投資の増加と空洞化は、直接結び付けて考えにくい。

○ 僕は、この動きを次のように解釈している。日本の製造業の海外投資は、コストが合わないから、日本の工場を閉めて海外にでていったというよりも、注文をこなしきれないので、日本での生産も続けながら、生産能力拡大の為に、海外に進出していることの方が多い。

○ 日系企業の中国進出で最も平凡で且つ、成功している数が多いのは、次のような例だろう。従来、日本国内の工場で生産していた低付加価値品は、量はたくさん売れ、赤字ではないが、利益が薄くて困っている。そういう企業が、中国などの海外に工場を作り、ローエンド品の生産を海外に移管、国内の工場で、高付加価値品を作る。いざとなれば、国内の工場で生産できる程度の、国内と海外の工場での、技術面での近似性がある。国内工場で行ったことを移行する形なので、技術的にも問題を解消しやすい。実際には、大多数がこういう例だと思う。

○ ところが、余り成功しないパターンは、日本での生産ではコストが合わないので、日本の生産拠点を閉鎖し、海外に建設した工場に全面的に依存するというやり方である。マスメディアでは、こうした「死の跳躍」に成功した企業を大々的に報道しているが、実際のところ余り多くないし、成功例は、非常に少ないと思われる。工場を立ち上げ、低コストで良い品質のものを作るというのは、まさに神業で、実に大変なものなのだ。自国内での生産が上手くいかない企業が、海外に出て上手く生産できる訳がないと、僕などは、思ってしまう。

○ このように、台湾の例と僕が身近に見る例を並べてみて思うのは、海外投資そのものは、空洞化をもたらさない。もちろんリスク分散の観点から、一つの国に集中するのもどうかとは、思うが、基本的には、海外投資をむやみに規制することよりも、労働力需給のミスマッチの解消に力を注いだ方が、持続的な成長には、役立ちそうである。それに、少子化と人口減少を問題視していている国が、空洞化を懸念するのは、よく分からない。


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