交通の要地廿日市
◆ 西国街道=山陽道 (下海道・九州往還道・本往還道・西国路・九州道などとも記してある)  当市内を東西に横断している街道で、寛永10年(1633)の幕府巡見使の巡察を契機に整備され、道路・橋・一里塚・街道松・御茶屋(本陣)などが整備された。現在街道を偲べるものは岩戸一里塚跡街道松本陣跡・宮内一里塚跡・道しるべ碑ぐらいである。
  西国街道の大部分は沿岸部を避けて山中を通っていたが、明治6年(1873)から海岸沿いの新道が建設されはじめ、明治13年(1880)に大竹までの中国往還道路が開通した。これにより従来の一里塚にかわって新しく一里標が設けられ、地御前神社境内には国道開鑿碑が建立された。また、厳島参詣のための厳島渡船着所が阿品に設けられた。

◆ 津和野街道 (石見路・石州道・石見海道・石州津和野道・石州津和野往還道などとも記してある)  当市宮内で西国街道から分岐して汐見坂峠(中国山地の長い道のりからパッと瀬戸内海が眼下に広がる峠で現在は明石峠という) ・佐伯町・六日市町など中国山地を経由して石州津和野城下に至る街道であった。このルートは中世から利用されており、江戸期に脇街道として整備された。現在街道を偲べるものは道しるべ碑黒折一里塚跡と部分的に残されている旧街道の小道ぐらいである。
  明治24年(1891)津和野街道は県道として改修され、一里塚にかわって廿日市里程標が建立された。

◆ 原通り石州道  平良地区の東側尾根筋を通り原地区の橋本で分岐し、長野道から七曲峠、山県郡筒賀村を経由して石州に至る山県越し石州道、川末道から泉水峠、吉和村を経由して石州に至る吉和村通り石州道があった。この道を偲べるものは橋本の分岐点にある辻地蔵と工事途中で中止された泉水峠手前にあるトンネル導入口の掘割石積みが残されている。

◆ 廿日市湊  応安4年(1371)九州探題として下向していた今川了俊は「佐西の浦(廿日市の古名)」から厳島に参詣して夕方には「佐西の浦」に戻っており、当時厳島への渡海用の湊が整っていたものとみられる。江戸期廿日市の湊には諸物産の交易の諸国商船が入津しており、北前船では越中(富山県)の高岡・水橋・滑川などの置薬関係、内海航路では大坂・柳井・大畠・宇部岬・床波浦などとの交易が知られる。また、津和野藩は御船屋敷から兵庫県の室津に向かっていた。かっての湊を偲べるものは天満宮境内に寄進された玉垣や境内社の金毘羅神社、正覚院境内の常夜灯、港入口にある住吉神社などがある。


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