桜尾城
  尾城は厳島の対岸に位置し広島県西部地域に所在した厳島神領地を支配するための本拠地であった。芸防引き分け後毛利氏は西の押えとして、また、防長進出の中継地でもあった。
  厳島神主家の藤原氏は承久3年(1221)鎌倉幕府から神主職を任命されたがすぐには当地に下向しておらず、数代後に当地に下向して活動し西の大内氏の庇護を受けながら国人領主化していった。その後神領地を巡って安芸国守護武田氏との抗争、神主職継承争い、神主家と大内氏の抗争、大内氏を離反した神主友田興藤は大内氏に滅ぼされ約320年間続いた厳島神主家の藤原氏は滅亡した。
  藤原氏滅亡後、大内氏は桜尾城に城督を置いて神領地の支配及び厳島に対する管理監督的な側面をもっていた。大内義隆を討った陶晴賢は本城に城代を置いて神領地を支配した。その後、毛利元就は陶晴賢と断絶し約13年間の大内氏支配時代は終わった。
  芸防引き分けの後毛利元就は本城に重臣の桂元澄を置き防長進出の拠点とし、また、神領地の支配をした。元澄没後に元就は四男の毛利元清を置き、また、備中の押えとして猿掛城(岡山県矢掛町)をも領有していた。豊臣秀吉の島津討伐の途中には桜尾城に入っている。元清没後秀元が城主となったが、関ヶ原の合戦後毛利氏の防長移封に伴い本城は廃城となり約46年間続いた毛利氏の支配は終わった。ここに藤原氏以来約380年間当地方の支配の中心であった桜尾城の歴史は終わった。
  本城には本丸をはじめ数段の郭と城山の西側には居館があり、城山の南面、東面、北面は海に面した天然の要害であった。この城跡は昭和42年頃から埋立用の土砂採取場となって削平され、現在の桂公園となって往時の様相は伺い知ることはできない。なお、城跡北麓には妙見社と公園には桂公園碑がある。
昭和40年頃の桜尾城跡
桜尾城関係刊行物 『桜尾城とその時代』(種箆沙論)昭和57年
所在地 廿日市市桜尾本町1-1(地図)   
文献からみた桜尾城
桜尾城関係年表

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