文献からみた桜尾城
 かっての桜尾城は昭和42年(1967)ごろに埋立用土砂採取場となって削平されて現在の桂公園となり、城山麓も宅地化されて桜尾城の遺構は全く残存していない。桜尾城の往時の姿を文献により探ってみる。 
「本丸(本郭)」  萩藩閥閲録所収毛利元就書状に「毛利与三儀大内義長より芸州桜尾之城を預り本丸ニ罷居候・・・・」とあり、毛利与三が本丸に居たことが記されている。また、万代記に「陶晴賢の首実検勝閧の儀が桜尾本郭にて10月2日晩に遊ばされ候」とある。本丸(本郭)は城の中心となる郭を言い、かって桂公園碑のあった標高31mの最高所の壇で約700uの広さであった。
「ニ之丸(二重)」  萩藩閥閲録所収毛利元就書状に「桜尾二之丸ニ罷居候己斐新里降参・・・・」とあり、二之丸に己斐豊後守・新里宮内少輔が居たことが記されている。また、房顕覚書に「七月二四日桜尾ノ二重迄陶衆切入合戦在・・・・」とあり、二重も二之丸と同じように使用されていたものと思われるのである。かっての城跡には最高所の本丸周囲に数段の平壇があったが、二之丸がどの位置であったのかは不明である。
「東之丸」   毛利元就文書の基礎的研究所収の児玉党嫡宗藤原氏小幡家系に「御東大方・・・公薨後移居同国廿日市桜尾城東之丸故称御東大方・・・」とあり、萩藩閥閲録所収毛利元就側室小幡氏消息に「さくらをひかしのまるつほね」とあるので、東之丸と呼ばれた郭があったものとみられるがどの位置にあったのかは不明である。
「木屋」  山代衆である神田内蔵丞の合戦注文に「於芸州桜尾要害麓木屋合戦・・・・・」とあるが、木屋とは何を意味するものであろうか? 木屋合戦は厳島神主藤原興親が京都において客死し、神主職継承争いが起こり国衆の援助を得て桜尾城に入った友田興藤を討つため、大永4年(1524)大内義興が厳島の勝山城に本営を設け岩戸山、篠尾山に陣して桜尾城を取囲んだときの合戦である。
 木屋についてみると、天文18年(1549)の毛利隆元感状に「於神辺七日市表固屋口・・・・」とあり、神辺城麓に上小屋・下小屋という地名が残されている。福山志料に上小屋・下小屋はいずれも城ありしときの用所なりと記してあり、三日市・七日市などの町屋に近いところに位置する下級家臣の居住地であった。
 小早川隆景の戦術書である「永禄伝記」に木屋場見合・木屋普請とし、野戦または攻城にあたっての防備構築方法が記述されている。同伝記に「上一人ニ一坪、下一人ニ半坪、馬一疋ニ一坪半、都合ヲ以テ木屋之地形ト定メ・・・・」、「四方ニ門ヲ立ル、入口之見付、木屋ヲ以テシトム・・・・」等とあり、臨時の兵舎、厩舎、倉庫などを「木屋」と称している。
 桜尾城跡周辺では地詰帳に城に関連した小名が見られるが、木屋の小名は見られない。これらをみると桜尾城麓の木屋は神辺城麓の小屋のように地名に残るような居住用でなく、居館・家中屋敷とは別に戦時に際して設けられた兵舎、厩舎、倉庫などであったものと思われるのである。
「水の手」  桜尾城及び居館のあった台地は三方海に囲まれていたが、城の用水は井戸を設けて極楽寺山からの伏流水を利用していたのである。上稿に記した大永4年(1524)の合戦での仁保興奉合戦注文によると「芸州東山北面虎口水之手・・・・」、神田内蔵丞の合戦注文に「桜尾西表水之手切執時・・・・」とあり桜尾城の北面あるいは西面付近に井戸郭があったことがわかる。
 江戸期になって寛永15年(1638)の廿日市内後地分地詰帳に井ノ段というホノギの畑地がみえるのは、桜尾城時代の井戸郭の井戸が現存していたから地名として呼称されたものとみられるのである。
「土居(居館)」   土居は本来土塁や土堤のことであり城や館の周囲に築かれたものをいったり、中世館で土塁に囲まれた防備のある居館を土居といっている。桜尾城山の南西には居館があり長年にわたって厳島社領支配を行っていたが居館に関する史料は乏しい。
 江戸期の軍記史料である芸候三家誌に「城主佐伯式部大輔が城下の居館を一時に打ち破り」
とあり、城下に居館があったことを記している。また、津和野亀井記に「桜尾城山西土居、八幡宮之社地、佐伯郡蔵元米津出場・・・・」とあり、桜尾城の居館跡が津和野藩に供与され津和野藩御船屋敷の一部となっている。
 江戸期の廿日市絵図をみると
津和野藩御船屋敷の周囲には土塁状の竹藪が描いてあり、また、 江戸期に描かれた折敷畑山合戦絵図(市教委蔵)、芸雲石古城図・松原家文書(山口県文書館蔵)で、津和野藩御船屋敷について「此屋敷構廻リ土手也昔ヨリ有ト見エタリ」などとあり、これらからみると桜尾城居館跡が江戸期に津和野藩御船屋敷として使用されていたことがわかるのである。
 
「虎口」  虎口は城の出入り口で小口とも記されている。桜尾城の虎口をみると大永4年(1524)の合戦での仁保興奉合戦注文に「芸州東山北面虎口水之手・・・・」とあり、桜尾城の北面に出入り口があったことがわかる。また、友田興藤感状に「剰去ル七月廿五日登小口於堀討捕・・・・」とあり、この登小口も同じ出入り口と思われる。
「攻口」  弥富依重軍忠状に「同七月桜尾於攻口下人三人・・・・」とあり、また、沓屋勝範軍忠状に「大永四、七月廿五日於東山攻口」とある。この攻口は上稿の虎口と同じものと思われるのである。
「矢倉」  万代記に「元就様、飯田越中守を桜尾矢倉え急度召寄せられ候て・・・・」とあり、矢倉(櫓)があったことがわかる。矢倉は矢を貯蔵する倉という意味をいくらか含んでいるが、矢を射る座(くら)の意味の方が濃いと考えられ、櫓の字の方が内容的に合っていると思われる。
「堀」  桜尾城及び居館のあった台地は三方海に囲まれており絵図などから町屋との間には堀があったものと推察できるが、考古学調査が行われていないので定かではない。また、友田興藤感状によると「剰去ル七月廿五日登小口於堀討捕・・・・」とあり、城山麓付近にも堀があったようである。
「御倉」  棚守房顕山里納銭請取状に「桜尾御城御倉・東山御倉」などとあり、山里諸郷の納銭を収納していた倉があったことがわかる。
「切岸」  桜尾城及び居館のあった台地は三方海に囲まれて要所は切岸があったものとみられ、江戸期の絵図及び明治初期の字図などからも切岸があったことが推察できるのである。神田家軍忠状に「桜尾西表水之手切執時着岸推鑓衆之事」とあり桜尾城の西側に岸があったことがわかる。棚守覚書に「然ル処ニ防州衆ハ車ヤグラヲコシラヘ北下リニ懸ケ寄スル処ニ・・・・」とあり、大内勢は切岸に車櫓を接近させて攻撃をしているのである。

桜尾城トップ