友田興藤墓
中世藤原氏は厳島神主家として桜尾城に居城して佐伯郡を中心とした厳島社領を支配した。藤原氏一族で神主の友田興藤は尼子・武田方と西の大内氏との渦中にたたされ、最後は大内氏によって天文10年(1541)に桜尾城は落とされ興藤は自刃し、300余年の藤原氏の支配時代は終わった。
この宝篋印塔の基礎には天文9年(1540)の刻銘があり、興藤が在世中に建立した逆修塔とみられている。市内最大の宝篋印塔であり刻銘によりその時代の指標となるものとして廿日市市の史跡に指定されている。|中世文書|金岡用兼頂相|正法眼蔵|三十三観音像|陶晴賢墓|桂元澄夫妻墓|毛利元清夫妻墓|洞雲寺トップ|