毛利秀元墓碑
  慶長2年(1597)に元清が没して秀元が桜尾城を相続しており、慶長4年(1599)に毛利輝元より廿日市周辺や長門、周防の一部、出雲・備後・備中の一部など177,856石余りを分知され、山口の長山城を居城するため修築していたが、完成しないうちに関ケ原の合戦が起こった。
  関ケ原合戦の後毛利氏の防長移封に伴ない秀元は、長門豊浦郡など36,200石を分知され長門櫛崎城(下関市長府)に入り長府藩の祖となった。
  秀元は古くからあった長福寺を元清の香華所としその法号をとって笑山寺と改称し、洞雲寺12世三庭龍達を請じ住持とした。三庭龍達は金岡用兼を開山とし師の11世天翁玄播を2世として自らを3世とした。 慶安2年(1649)秀元は没し当寺に葬り、秀元の法号により功山寺と改称した。
桜尾城