津和野街道分岐道しるべ碑
  西国街道と津和野街道の分岐点については時代により位置が替わっているのである。明暦3年(1657)には「そうり田土橋」、正徳4年(1714)から明和8年(1771)にかけては「鑓出口土橋」、文政2年(1819)から安政6年(1859)にかけては「佐原田土橋」が分岐点になっている。
  御手洗川は畑口付近ではまだ流れが急であり、また、急カーブを描いている場所なので自然護岸に架けられた土橋は大洪水の度に流出していたものとみられ、御手洗川の氾濫でこのように分岐位置が替わっていたようである。
  寛政5年(1793)の銘文がある道しるべ碑には「右ハ石列道、左ハ九列道」とあり、上記及び災害史料などから鑓出口土橋のたもとに建立されていたものとみられるのである。

  公式的には従来のルートが津和野街道とされていたが、このような度重なる災害により砂原土橋から御手洗川を渡らない津和野街道のバイパス的な道が造られて、砂原土橋のたもとに道しるべ碑が建立されたのである。この道しるべ碑には「右 石州道、左 九州道」とある。
 鑓出口土橋道しるべ碑 砂原土橋道しるべ碑
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