廿日市地名
「廿日市」地名の起源について

はじめに
 市日のつく地名で一日市〜十日市までは全国的に多くみられるが、廿日市地名は珍しく他の地域でみられる廿日市地名は愛媛県内子町にあり全国で二例だけである。この内子町の廿日市地名も厳島の荒夷社との関りで出来た市場地名であることがわかったのである。
 廿日市地名の由来については、一般的には中世の三斉市にみられる一日市〜十日市などと同じように毎月20日に市立てが行なわれてそれが地名になったとされている。しかし、佐西郡の中心的物資集散地で三斉市でなく月に一度しかない20日に定期市を開くことは考えられない。
 時代は下がるが『棚守房顕山里納銭請取状』(@) によると廿日市においては度々市立てが行なわれていることが記されている。天文19年(1550)4月に七日市、十日市、5月に七日市、6月に廿三日市、10月に廿八日市、翌20年4月に三日市、5月に十日市などと不定期に市立てが行なわれているのである。これらからみていくと中世の三斉市とは異なった市立てが行なわれて、これが定着して地名となったことが想像できるのである。
 図説廿日市の歴史など廿日市関連の論文(A)では、廿日市地名の起源を厳島社祭礼の最終日20日に佐西の浦で開かれた市が廿日市の起源ではなかろうかとされている。しかし、この論述は天正14年(1588)の史料に基づいたものであり、また、厳島社の祭礼は年4回ではたしてこの市立てのみで地名として定着したのであろうか。
 古くから市場集落のあった地には、必ずといって良いくらい集落中心の辻に市神としてえびす様が祭ってある。廿日市の町並みにもかっては胡堂が祭ってあり、市立ての廿日にはえびす様の開帳もあった。信仰心の深い商人や近郷近在の人々から廿日の市は特別なものとして著名となって、それが廿日市地名の起源となったのではないかと思われるのである。
 インターネットによると現在、福島県富岡町の事代主神社を中心として毎年11月20日に開催される「えびす講市」は別称として「廿日市」といわれ、また、鹿児島県南大隈町の御崎神社を中心として開催される御崎まつりで2月20日に市がひらかれ「二十日市」と呼ばれているそうである。
 本稿では乏しい史料から現在天満神社境内にある胡子神社に注目して廿日市地名の起源について論述してみたい。

廿日市地名出現ころの概観
 応安4年(1371)九州探題として下向していた今川了俊が記した『道ゆきぶり』(B)には「かひだとかやいう浦」から「しほひの浜」を通って9月19日「佐西の浦」に到着して宿泊し、20日厳島に参詣して夕方「佐西の浦」に戻って再び宿泊しており、21日地の御前という社の西ひがたより山路に入ったとある。前後の記述から「佐西の浦」とは廿日市に相当することが想像できるのである。
  『南北朝・室町期における厳島神主家の動向』(C)によるとこのころ厳島神主の藤原親直は在地していたものとみられており、親直は今川了俊に従って九州に出陣しているので、桜尾山西麓に厳島神主家の居館があって今川了俊らはここに宿泊したものと思われる。
 また、道ゆきぶりに「今朝さゝいの浦をいでつる友の大船どもゝ」とあり、「佐西の浦」は厳島社への渡海口で今川勢の軍船が係留できるような船着場の施設があったものとみられる。また、多くの軍勢が宿泊できる施設があった佐西郡の中心的な交易の浦であったことが伺えるのである。
 ところが道ゆきぶりには20日の市立てや市神の開帳など集落の賑わいなどについては全く触れられていないので、この頃以降から廿日市という地名が史料上初めてみられる室町時代中頃の享徳3年(1454)頃の間に廿日市地名が定着していったものと思われる。
 しかし、厳島社造営の金具を鋳造したという廿日市鋳物師は、小稿『宇佐の鉄燈籠鋳工についての一考察』(D)で詳述しているように、永享9年(1437)に宇佐八幡神社(岩国市錦町)の鉄燈籠、享徳3年(1454)頃には賀茂神社(柳井市)の梵鐘などの鋳造で山口県東部まで進出して商業活動をしていたことがわかっており、廿日市地名の初出以前からすでに廿日市の商業活動は繁栄していたものとみられるのである。

市神と厳島荒夷社
 商業が盛んになると物や人が集まる市場が形成され、そこには商業の神としての市神が祭られるようになる。『海に生きる人々』(E)によると長寛元年(1163)奈良の東大寺に夷神が祭られ、建長5年(1253)には鎌倉鶴岡八幡の境内に江美須を祭った。乾元元年(1302)には奈良の南市がはじめられるや市神としてエビスを祭り、延文4年(1359)にも大和常楽寺の市に夷社を祭っている。
 「佐西の浦」も商業が盛んになり物や人が集まって市場が形成され、市神として厳島の荒夷社が勧請されたものと思われるのである。この推定を補強する史料をみていくと、『芸藩通志』(F)の厳島古器図に所収されている鰐口釜の銘文に「奉寄進鰐口厳島荒夷御宝前 永正十七年庚辰正月吉日施主廿日市」とあり、この鰐口釜は荒夷社に寄進された鰐口を模して鋳造されたものである。
 荒夷社の鰐口は永正17年(1520)に寄進されたものであるが、施主は廿日市とあり廿日市の富裕な商人衆が寄進したものとみられ、商人達のえびす信仰が伺えるのである。
 また、愛媛県内子町にある恵美須宮について、『大洲旧記』(G)に「治承養和の頃か、厳島を平家取立、夫を学て河野氏五十崎へ宮床を取立、厳島の荒えびすを勧請して廿日市へ鎮座す。厳島は開帳なし。廿日市は、毎月市日に一日宛開帳有。依遠方より参詣多し。弥以廿日市繁昌す」とある。
 大洲旧記は寛政11年(1799)頃に記されたものであり、海上交通の盛んであった中世に厳島の荒えびすを勧請して市立ての開帳により賑わって、大洲旧記の記された以前から廿日市地名はすでに定着していたのである。

廿日市えびす
 そこで現在天満神社境内にある胡子神社に注目してみることにする。従来中世の廿日市町屋の成立については多く語られているが、町並みの中央に位置する胡堂について触れられているものはほとんどない。
 伝寛文年間(1661〜72)の廿日市町絵図や正徳年間(1711〜15)の廿日市町絵図(H)をみると、現在の中央公民館西側に天神坊抱えの胡堂がみられ、慶応3年(1867)の『廿日市町地詰帳』(I)でも胡東町にみられる。前述の近世初頭の絵図ではこの地の周辺に「塩之座町」「魚之棚町」「御休所(本陣)」などがみられ、中世ころから佐西の浦の中心地であったことが類推できるのである。
  この胡堂は大正14年(1925)頃には廿日市港付近の新港町に移っており、昭和31年(1956)頃現在地である天満神社の境内に移された。
 文政2年(1819)の『廿日市国郡志御編替下しらべ帳』(J)によると10月20日は「胡講と唱へ、商人とも此日ハ親類懇意又者商売得意之ものヲ集メ、酒杯を出し商事繁栄を祝し」とある。また、大正14年の『廿日市町基本調査』(K)によると明治31年(1898)頃には180人の信徒がおり毎月20日に祭典を行なって、これを「二十日戎」といっていたようである。
 これらから類推すると佐西の浦の中心地で毎月20日に市立てが行なわれ、市日には市神である胡堂の開帳もあり「廿日市えびす」といわれるようになって、近郷近在の人々から「廿日市」と呼ばれたのが起源と思われるのである。
 明治頃まで行なわれていた祭日の20日は、かつて胡堂を中心として毎月20日に市立てが行なわれていたものが、市立てがなくなってからも祭典は連綿と継承されてきたものとみられるのである。明治後期ころ厳島荒夷社の祭日は陰暦の10月20日であり、この胡子神社の祭日は現在11月20日となっている。
 大洲旧記によると厳島社荒胡社が勧請された内子町五十崎の恵美須宮でも20日の市日には開帳して「廿日市えびす」といって賑わっていたようである。
 このように廿日市は大きな物資の集散地であり度々の市立てが行なわれていたが、市神である胡堂の御開帳のある20日の市が著名となって「廿日市」地名となったものと思われるのである。内子町の廿日市と共に胡堂(恵美須宮)を中心としての「廿日市」地名出現は中世の三斉市とは異なった珍しい市場地名である。
 「廿日市」地名はこの地方の歴史が刻まれた無形の文化遺産であり、合併などで安易な命名は避けるべきである。全国的にも珍しい歴史のあるこの「廿日市」地名は後世に伝えていかなければいけない。

〔注〕
@ 『廿日市町史』資料編T(廿日市町、1979年3月)。
A 『図説廿日市の歴史』(廿日市市、1997年3月)。『広島県文化財ニュース第159号』(広島県文化財協会、1998年11月)。『図説廿日市・大竹・厳島の歴史』(郷土出版社、2001年10月)。
B 『広島県史』古代中世資料編T(広島県、1974年3月)。
C 秋山信隆「南北朝・室町期における厳島神主家の動向」『史学研究第214号』(広島史学研究会 、1996年10月)。
D 藤下憲明「宇佐の鉄燈籠鋳工についての一考察」『山口県地方史研究第65号』(山口県地方史研究会 、1991年5月)。
E 宮本常一『海に生きる人々』日本民衆史3(未来社 、1964年)。
F 『芸藩通志(復刻版)』巻一(刊行会、1967年)。
G 『大洲旧記』豫陽叢書(臨川書店、1973年10月)。
H 『廿日市町史』資料編U附録絵図(廿日市町、1975年3月)。
I 前掲注(9)本文
J 前掲注(10)
K 『廿日市町史』資料編W(廿日市町、1981年3月)。

廿日市の変遷
文政2年(1819) 明治11年(1878) 明治17年(1884) 明治22年(1889) 昭和31年(1956) 昭和32年(1957) 昭和63年(1988)
佐伯郡廿日市町 佐伯郡廿日市町 佐伯郡廿日市町 佐伯郡廿日市町 佐伯郡廿日市町 佐伯郡廿日市町 廿日市市
上平良村 上平良村 上平良村 平良村
下平良村 下平良村 下平良村
原村 原村 原村 原村
白砂村後畑 白砂村後畑
宮内村 宮内村 宮内村 宮内村
地御前村 地御前村 地御前村 地御前村
佐方村 佐方村 佐方村 観音村佐方 五日市町佐方
平成15年3月1日、廿日市市と佐伯郡佐伯町・吉和村との合併、平成17年11月3日佐伯郡大野町・宮島町との合併で新生「廿日市市」となる。


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